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如来と凡夫では肉食を控えるにしても理由の土台がかなり違うのだと思いましたこれを同じ前提で考えてしまうと、体裁の良い答えは得られてもより深い理解には至らないのではないかと思いますありがとうございます
元々は肉食は絶対禁止ではなかったのですね。遊行しながら托鉢によって身を養っていた僧侶は施された物を選り好みをするわけにはいかない。しかし仏教が中国に伝わると、托鉢という文化が一般的ではなかったために、僧侶も自分たちで畑を耕したりして食料を調達しなければならなくなった。そうなると食料調達についてかなり融通がきくようになるため、結果として不殺生戒が厳格化し、肉食については絶対禁止の方向に向かっていった、と聞いたことがあります。ちなみに耕作をするようになると、当然それなりの規模の集団がその土地に定住することになり、結果として立派な寺院がそこに建っていく、ということにもなっていきました。
いつも貴重なお話しありがとうございます。肉食は様々な意見があると思います。最近は、肉や魚の食べ過ぎでガンやあらゆる疾患を患っている方が多いと思います。野菜や穀類を中心とした食事が健康的だと個人的に感じます。法華経には、月に6日ある清めの日には、力の及ぶ限り不殺生戒を守らせなさいと説かれています。動物を殺生し続けて人間だけ幸せになる事は出来ないと思います。いつもありがとうございます。
その一方で、野菜と果物のみで水も飲まず結局餓死してしまったロシアのヴィーガン女性がいますね。
@@user-ll9jw2qd1b その方は極端だったんでしょうね。
施されたものはありがたくいただく、それはそれで納得できます。勿体無いですし
サムネのブッダがいきいきしててなんか好き
食肉産業の人を考えるとこの話は凄く複雑です。人の痛みを知らなければこの世は成り立ちません。だからありがたく頂きます。有り難うございます。修行の道 悟りの道人生は思いやり。
一切皆苦 何が正しい 間違い 白 黒 では世界の戦争と同じなので、 今までと同じありがたく頂きます。
托鉢の意味は人の情けだけで生きる事であり、その情けをかける事でその人自身の業を浄化する事でもあり、人は業深いものだから、それが情けから来るものなら何を食べてもよく、そこに違う意図が含まれた肉(坊主に肉を食わせてやろうという邪な意図)等が表面化している場合は食べない。という意味。いやその邪な情けさえ受け取るのが仏法かも知れない
AI音読ですね。これは仏典の話ですか?
生きて、仏法を聴く為、悟る為に「この身を保つ」 多くの生命が『悟りを得る』手伝いをしてくれている。そしてその為に命を捧げた多くの命は、報われ、救われる。
まあ何にせよ食べると言うことは命を奪うということだから…
他者をもてなす心 それを理解したならば 肉であれ何であれ 有り難く頂く。この所作に罪はない。
誰かが殺生しないと結局誰もの肉は食べられないのに比丘のためには殺してはならないとは何か納得いかないな
世尊の見解によると結局すべての人が出家者となるわけではないというのがこれに対する遠い答えじゃないかと思います。
風邪ひいたら肉を食べるのが、一番早く治る気がする。
肉を全く食べなければ、免疫力が低下したり、骨祖症のリスクがが増す。厳密に捉えれば植物も生き物なので菜食も殺生となる。何事も極端に原理主義にとらわれれば人間の自由を束縛し、生きるのも困難になる。感謝の心で食すれば良いと思う。
まあ肉を食べ過ぎると健康に良くないという意味なのかもしれません
自分のために殺された肉であると分からなければ、食べてOKなんですね(笑)他の話では結構厳しいことを言っていましたが、食事に関しては意外と緩いんですかね?
コメント失礼します。「自分の為に殺された肉であるとわからなければ」という日本語は、おそらくパーリ語を、訳した日本語なので、誤解を招くような気もします。比丘が、慈悲喜捨の善心を保って街に滞在している場合、肉を食べたいという欲(貪欲)が無く、その比丘を見た街の人が自発的に良い食事(肉)を用意しようとすることが、今回の「自分の為に殺された肉であるとわからなければ」という状態になると思います。また比丘は、食事に対する期待も無く、出てきた食事に対しても欲を持たず、必要なエネルギーを得るだけで、今後に対しての欲も持たないため、街の人は、比丘のために良い食事(肉)を用意しようという自主性が生まれるだけになると思います。
いただきます。即ち命を頂くということ 感謝を持って頂く。感謝の念 想いを持って食べれば良いだけ。しかし欲張らず、自分の食べる範囲において
お釈迦様🎉😂
仏教における殺生罪は、殺すこと、殺させること、殺生を楽しむこと。人は知らぬことに対しては無頓着、自分事になって執着すると初めて罪の意識を覚える。
よく名の知られたチベット仏教の高僧は仏教の教え上は僧侶がお布施でもらったお金でスーパーの精肉コーナーで肉を買って食べるのは問題ない、としていました。ただし、現在は環境保護の観点から好ましくないとしています。
仏教における不殺生戒には無理があると思うが、一つのメッセージであり、イメージを形成している。肉を食べない事と人を救う事には直接の因果関係は無いと思う。悟り、解脱に必要なら明確に禁止すべきだか、そうでも無いのでしょう?
何が罪なのか、ですね。お金がない人を助けようと強盗するのは罪です。自分が食べようと用意した肉を人に施すのは功徳です。
如来と凡夫では肉食を控えるにしても理由の土台がかなり違うのだと思いました
これを同じ前提で考えてしまうと、体裁の良い答えは得られてもより深い理解には至らないのではないかと思います
ありがとうございます
元々は肉食は絶対禁止ではなかったのですね。遊行しながら托鉢によって身を養っていた僧侶は施された物を選り好みをするわけにはいかない。しかし仏教が中国に伝わると、托鉢という文化が一般的ではなかったために、僧侶も自分たちで畑を耕したりして食料を調達しなければならなくなった。そうなると食料調達についてかなり融通がきくようになるため、結果として不殺生戒が厳格化し、肉食については絶対禁止の方向に向かっていった、と聞いたことがあります。ちなみに耕作をするようになると、当然それなりの規模の集団がその土地に定住することになり、結果として立派な寺院がそこに建っていく、ということにもなっていきました。
いつも貴重なお話しありがとうございます。肉食は様々な意見があると思います。最近は、肉や魚の食べ過ぎでガンやあらゆる疾患を患っている方が多いと思います。野菜や穀類を中心とした食事が健康的だと個人的に感じます。法華経には、月に6日ある清めの日には、力の及ぶ限り不殺生戒を守らせなさいと説かれています。動物を殺生し続けて人間だけ幸せになる事は出来ないと思います。いつもありがとうございます。
その一方で、野菜と果物のみで水も飲まず結局餓死してしまったロシアのヴィーガン女性がいますね。
@@user-ll9jw2qd1b その方は極端だったんでしょうね。
施されたものはありがたくいただく、それはそれで納得できます。
勿体無いですし
サムネのブッダがいきいきしててなんか好き
食肉産業の人を考えるとこの話は凄く複雑です。
人の痛みを知らなければ
この世は成り立ちません。だからありがたく頂きます。
有り難うございます。
修行の道 悟りの道
人生は思いやり。
一切皆苦 何が正しい 間違い 白 黒 では世界の戦争と同じなので、 今までと同じ
ありがたく頂きます。
托鉢の意味は人の情けだけで生きる事であり、その情けをかける事でその人自身の業を浄化する事でもあり、人は業深いものだから、それが情けから来るものなら何を食べてもよく、そこに違う意図が含まれた肉(坊主に肉を食わせてやろうという邪な意図)等が表面化している場合は食べない。という意味。
いやその邪な情けさえ受け取るのが仏法かも知れない
AI音読ですね。これは仏典の話ですか?
生きて、仏法を聴く為、悟る為に「この身を保つ」 多くの生命が『悟りを得る』手伝いをしてくれている。そしてその為に命を捧げた多くの命は、報われ、救われる。
まあ何にせよ食べると言うことは命を奪うということだから…
他者をもてなす心 それを理解したならば 肉であれ何であれ 有り難く頂く。この所作に罪はない。
誰かが殺生しないと結局誰もの肉は食べられないのに比丘のためには殺してはならないとは何か納得いかないな
世尊の見解によると結局すべての人が出家者となるわけではないというのがこれに対する遠い答えじゃないかと思います。
風邪ひいたら肉を食べるのが、一番早く治る気がする。
肉を全く食べなければ、免疫力が低下したり、骨祖症のリスクがが増す。厳密に捉えれば植物も生き物なので菜食も殺生となる。何事も極端に原理主義にとらわれれば人間の自由を束縛し、生きるのも困難になる。感謝の心で食すれば良いと思う。
まあ肉を食べ過ぎると健康に良くないという意味なのかもしれません
自分のために殺された肉であると分からなければ、食べてOKなんですね(笑)
他の話では結構厳しいことを言っていましたが、食事に関しては意外と緩いんですかね?
コメント失礼します。
「自分の為に殺された肉であるとわからなければ」という日本語は、おそらくパーリ語を、訳した日本語なので、誤解を招くような気もします。比丘が、慈悲喜捨の善心を保って街に滞在している場合、肉を食べたいという欲(貪欲)が無く、その比丘を見た街の人が自発的に良い食事(肉)を用意しようとすることが、今回の「自分の為に殺された肉であるとわからなければ」という状態になると思います。また比丘は、食事に対する期待も無く、出てきた食事に対しても欲を持たず、必要なエネルギーを得るだけで、今後に対しての欲も持たないため、街の人は、比丘のために良い食事(肉)を用意しようという自主性が生まれるだけになると思います。
いただきます。即ち命を頂くということ 感謝を持って頂く。感謝の念 想いを持って食べれば良いだけ。しかし欲張らず、自分の食べる範囲において
お釈迦様🎉😂
仏教における殺生罪は、殺すこと、殺させること、殺生を楽しむこと。
人は知らぬことに対しては無頓着、自分事になって執着すると初めて罪の意識を覚える。
よく名の知られたチベット仏教の高僧は仏教の教え上は僧侶がお布施でもらったお金でスーパーの精肉コーナーで肉を買って食べるのは問題ない、としていました。
ただし、現在は環境保護の観点から好ましくないとしています。
仏教における不殺生戒には無理があると思うが、一つのメッセージであり、イメージを形成している。
肉を食べない事と人を救う事には直接の因果関係は無いと思う。
悟り、解脱に必要なら明確に禁止すべきだか、そうでも無いのでしょう?
何が罪なのか、ですね。お金がない人を助けようと強盗するのは罪です。自分が食べようと用意した肉を人に施すのは功徳です。