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ご視聴ありがとうございます🥰今回は、有名なのに行ったことのなかった乃木神社と、乃木希典大将にゆかりの地を歩いてみました✨感覚的に理解のできない言動が多いのですが、だからこそ、お会いして話をうかがいたいと思ってしまった人物でした。いかがでしたでしょうか?コメント・ご質問・高評価👍・チャンネル登録お待ちしています★
尊敬する乃木大将について語っていただき、ありがとうございます
乃木さん、人気ですね…✨ご覧いただけて嬉しいです!
転勤で東京にいた頃、職場が青山霊園のすぐ脇にあり、歴史の方々の墓所を回りました。乃木神社にもよく行きましたが、ご自宅の中を拝見するときにはいつも背筋がピンと伸びて最敬礼してしまいます。
乃木大将には逸話が山ほどあるので、また違うむずかしさがあったことと思います。日露戦争時の米国の従軍記者(ウォシュバン)も、とにかく兵卒思いで記者に対しても気配りが行き届き、勝っても敵軍の苦衷を心配する将軍の様子に、「日本軍の士気が高く規律がよいのは、指導者の徳性が高いから」とまで激賞しています。明治天皇が大将を学習院院長にしたのも非常に頷けます。なお、学習院大学には、大将が寮生と寝泊まりした「乃木館(旧総寮部)」と大将が自費でつくった「御榊壇」が残っています。また、子息2人が卒業した成城学校(現・成城中高校)には、お世話になったお礼ということで大将が寄贈した「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(初版本!)が「学宝」として展示されているそうです。教育に対する並々ならぬ熱意が感じられます。
逸話も多いですし、賛否の幅が広すぎて、なんとも評価の難しい人物ですね😅ただ、お友達にはなれないだろうなぁと…(先方も望んでないでしょうけれど笑)学習院に残るゆかりの建物は、コロナ禍で見学・撮影を断念しました。見てみたかったです〜
はじめまして!視聴させて頂きました。ちなみに、二人の御子息の名前は、どちらも、のりでは無くすけなのでは?かつすけ、やすすけ。
ご視聴ありがとうございます👍お父さんマレスケですもんね、息子さんたちもスケが順当ですね💦💦読みって本当に難しくて、調べきれないことがたくさんあります…😭
アルマさん、配信ありがとうございます。自分も子供の頃に、乃木大将の生き様と明治天皇崩御の後の殉死を学んだ時は衝撃的でした。神様として神社も出来たのも納得できます😊
kiyo o_様、いつもコメントありがとうございます🥰乃木大将の殉死は本当に衝撃ですよね…!!しかも維新後の時代に…💦💦神社というとつい、天照大神などのいわゆる神様が祀られているつもりになってしまいますが、御祭神を知ると関心が深まります✨
1:42 「大喪の礼」は「たいものれい」ではなく「たいそうのれい」ですw また、7:52 「長男のかつのり、次男のやすのり」はこれぞれ「かつすけ、やすすけ」が正式な読み方ですw
ちょこちょこご指摘いただきますが、読み方ってまじ難しいっす。。。😭
あ、「たいそうのれい」ですよね。自分が読み方を間違っていたのかとおもいました。
昭和天皇が崩御された時によく「たいそうのれい」と言っていましたよね、
理解は難しいが涙が出てくるのは理解できる
激しく同意です!!!
私はいま64歳ですが、私以上の年代の方々には、あの水子営の会見が有名ですね。乃木大将とステッセル将軍とのお互いに礼儀を尽くした会見、歌にもなっていますよね。大正生まれのなき両親に、両将軍の生き方、つまり礼儀正しさを勉強しなさいと、子供のころよく言われました
私も小さい頃、大伯母が東郷大将と日露戦争の手毬唄を歌っていたのを、懐かしく思い出しました。軍神が実在した時代ということですよね…なかなか現代人の感覚では理解できない人物ですが、学ぶべきことは多いのだと思います。
1年前には知りませんでした!今やそんな異国の地に縁が有りて(仕事で来て)中国人愛人(妻)と金州城近くに住んでいて散歩コースにしています。15年ほど前に旅順の古戦場跡を見て、水師営の展示物や写真を見てそこではその当時の中国人の日本語の流ちょな語り部のおじいさんがいて説明してくれていました!そこでステッセル将軍達との記念写真を見て息子たちの戦死、兵士の死と涙ぐましい説明を受けていました。今や金州城跡は当時の10分の1にも満たない小規模となっているはずで城内には正岡子規の石碑が建っています。今度日本に帰国できたら今日紹介された乃木大将ゆかりの地を訪ねてみたいと考えています。
中国側の貴重な情報をありがとうございます!水師営とか、伊藤博文の暗殺されたハルピンとか、大陸側でも歴史散歩してみたい場所がたくさんあります👍東京の乃木大将ゆかりの地も、ぜひ訪問されてみてください〜〜
@@tokyo_historical_walk ご返信恐れ入ります!😄
西南の役に於ける植木遭遇戦以来その軍事的才能は抜きん出て戦場指揮官として大事に育てられました予備役編入中も最新の欧州軍事書を原典で読み大演習には必ず参加し前線部隊と行動を共にするなど生涯を懸けて軍事の研鑽に勤めました明治大帝は「どこかに乃木がいるはずだ、呼んで参れ」と近侍に召し出し親しくその評価をお聞き遊ばれたそうです
昭和8年生まれの亡き父にとって、大楠公と乃木大将は軍神だと学校で習いました。😊
同じく昭和一桁生まれの大伯母は、東郷大将と日露戦争をテーマにした、手毬唄を歌ってました!今の日本にはない、生ける軍神のいた時代ですね…✨
自分の興味ある時代とモロかぶりで、いつも興味深く拝見させてもらってます。栃木の乃木神社へは行かれたことありますか?あちらも資料館があって、たくさんの資料が展示されています。もしまだ行かれていないようでしたら、ぜひおススメです😄
お、幕末〜明治好き仲間ですか??☺️いつもありがとうございます🙏栃木はまだ行ったことないです💦いつか機会があれば…!
最近、こちらのチャンネルを見つけて楽しませて頂いております。私も乃木邸を見学した事がありますが、当時の乃木大将が写る写真と同じで驚きました。当時の姿そのままなんですね。乃木邸からミッドタウン方向へ歩いていたら、ピザ屋さんがあり美味しかったのを覚えています。
ロシアは、1896年にシベリア鉄道の支線で満洲北部を通過する「東清鉄道」の敷設権の線路を敷き、鉄道を開設する権利を獲得。1898年には、旅順・大連の租借権ある国が条約により一定期間、他国の土地を借り受ける権利)と南満州鉄道の敷設権も得ています。ドイツは同じく1898年に膠州湾を、イギリスも同年に九龍半島を、フランスは翌1899年に広州湾をそれぞれ租借しています。このとき、日本は1898年に福建省の不割譲その国の領土を第三国に譲らないよう圧力をかけることを清国に約束させるに留まっており、アメリカはハワイやフィリピンへの領有地拡大に追われ中国進出に出遅れました。清国内では、1897年頃から「義和団」の活動が活発化していました。義和団は「扶清滅洋」で清国を助けて西洋列強を滅ぼす「西教排斥」のキリスト教排斥などを唱える集団で、列強の侵略により困窮した清国の民衆が支持したことから、国内各地で義和団を中心とする内政改革や外国人排斥の運動が大きくなりました。1899年山東省などで「義和団の乱」が起こり、清国の西太后がそれを支持する形で列強に宣戦布告します。これを受けて翌1900年日本軍が大多数を占める8ヵ国連合軍が出兵して清国の首都である北京を占拠。清国を降伏させました。「北清事変」と呼ばれるこの事件により、清国は列強各国に賠償金を支払うとともに軍隊の駐留権を承認させられます。そして日本軍は、活躍により列強の評価を得ることになりました。日清戦争後も、日本とロシアの緊張関係は続いていました。日本の中国大陸進出により、ロシアは自国の南下政策が日本に妨げられるのを恐れ、フランス・ドイツとともに「三国干渉」と呼ばれる勧告を行いました。列強の勢力がまだ及んでいなかった満洲に日本が進出するのと時期を同じく、ロシアも南下政策を積極化。これにより、日本とロシアの対立はさらに激化することになります満洲をめぐる外交策として、当時の日本政府内には伊藤博文や井上らによる日露協商論満州でのロシアの行動を認める代わりに、韓国における日本の優越権を認めさせると、首相の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎らによる日英同盟論同じくロシアと対立傾向にあったイギリスと組んで、ロシアの南下を食い止めるという2つの意見がありました。伊藤博文は1901年に独自にロシアと交渉を持ったものの満足のいく回答が得られず、桂内閣は1902年ロンドンにて「日英同盟協約」の締結に至ります。この協約では、両国のいずれかが他の1国と交戦する場合には厳正中立を守り、2国以上と戦う場合には援護・参戦することなどが定められていました。これにより、日本は他の国による介入・参戦を恐れることなく、ロシアとの戦争に踏み切る準備を整えたわけです。満州占領を進めるロシアに対して、日本国内でも次第に強硬論が高まりました。非戦論や自重論もありましたが、論者はロシアを恐れる「恐露病」などと揶揄され、国内はほとんど開戦論一色に染まったのです。日本は日清戦争で得た賠償金の多くを軍事費に投入し、国民への租税増徴を行い、着々と軍事力の拡大を進めました。「韓国における日本の独占的な支配を認めさせ、満州におけるロシアの支配は鉄道経営などに限定する」日本がそういった提案を続けるもロシアは自国による満州独占の方針を変えようとせず、日本は最終提案を経て開戦の準備を行い、1904年日本は仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲し、宣戦を布告しました。日露戦争に辛くも勝利し、ポーツマス条約を締結、日本は同年9月に遼陽と沙河、1905年旅順、奉天での戦闘に勝利。いずれも厳しい戦いで、乃木希典司令官が率いた旅順攻撃は5ヵ月で3度に亘る総攻撃が行われ、日本兵130,000人の内死者59,000人の犠牲が出ます。天皇崩御後に乃木希典は夫婦共に追腹を旧乃木邸の一部分を公園としました。
赤坂きら歩いて行きました。乃木邸の自決した部屋を見た時、司馬遼太郎の小説殉死が浮かんできて、ここにいた乃木夫妻の姿が想像されました。死を選ぶというのは今の倫理観では必ずしも是と出来ませんが誇り高い明治の軍人の潔さ、崇高さを感じます。因みに日本ビクターのレコードで乃木大将の肉声がありますが、本人の声に間違いないのですかね?また来週も新作を楽しみにしています。
乃木邸、行かれましたか!あの部屋はなんだか、訴えてくるものがありますね…死を選ぶことこ是非は判断できないですが、自刃の理由がなんだかイマイチ、ピンとこなかったんですよね💦💦やはり、時代の価値観が違うのでしょうか。ビクターの乃木大将の肉声と言われているものは、わりと信憑性高そうですが…どうなんでしょうねぇ。現代の技術があれば、声から体格や年齢が分かるなどと言われているので、調査してほしいですよね😊今週もまた、土曜日公開予定です✨楽しみになさっていただけたらと思います👍
こいつら変
「息子の死を喜べ」の言葉は乃木家族にとって息子たちへの最高の誉め言葉だったんですよ。大将の命令(国の命令)による結果として、大将(高官)の子(親族)の死が、民族の結束力(他の兵士の士気)を強めることに自分の子が飛躍的に貢献したわけ。「全ては犬死(無意味な死)ではなく、国(父母兄弟姉妹子孫)に貢献するとても意味のある行動による死であった」と表現しているわけですから。武家(軍人)の嫁である静子さんにとっての死に花まで用意してしまうところが、軍旗を奪われた後のラストサムライの意地だったのかな…(=_=) 時代の価値観は変わりますが、日本民族の価値観の根幹は揺らぎません、希典さんご一家が払った代償は永遠にこのお庭の美しさが物語ってくれると思います。
栃木県の那須に乃木神社がある理由がわかりました。別荘があったのですね。
意味不明
北九州市小倉北区リバーウォークには、西南戦争へ出陣した小倉での住居あとの碑があります。乃木さんは小倉に不穏な気配があると送り込まれ、そして、西南戦争へ。
小倉にも、乃木大将ゆかりの地があるのですね!小倉とか門司とか、レトロ建築でも有名ですよね〜いつか出張歴史散歩したいです❤️(そして、九州はお食事が美味しすぎて大好きです✨)
こんにちは~当時は(笑)防衛省ではなくて、防衛庁でした、乃木将軍は幼少時から、毎月、藩の菩提寺であった駒澤大学系列の泉岳寺に生れて育った旧毛利家の今のテレビ朝日から通っていましたが
乃木将軍ゆかりの地を現代の感覚でたどると、めっちゃシティーボーイですね…笑泉岳寺もゆかりの地だったのですね✨耳寄情報をありがとうございます!
@@tokyo_historical_walk てっきり殉職の後に泉岳寺に埋葬されるものと思ったのですが青山墓地にですね(笑)
@@tokyo_historical_walk 様乃木将軍は今のテレビ朝日の敷地で生まれたのですよ(笑)毎月私のせいに親戚の家の前を通って泉岳寺に通っていました(笑)
素晴らしい動画ありがとうございます。何故乃木希典大将が当時の国民に絶大な人気があったのか?明治帝に一目置かれていたのか?二人の御子息の戦死が関係しています。日露戦争で陸軍大将の乃木と兵隊の御子息。乃木大将ほどの力があれば二人の御子息を安全な部署に置くことは容易なことですね。しかし敢えて危険な最前線に二人は送られました。乃木がそうさせたのです。国民から大事な御子息を戦線に出す責任者だからこそ、我が息子は最前線に出さなければならない。事実、最前線で二人共戦死されました。乃木将軍のこのたくさんの戦死者に対する懺悔、これが国民の絶大な乃木希典人気となったのです。自分の家族や息子を安全な所に配属する権力者が多い中、あえて危険な最前線に送り出す。人間 乃木希典は素晴らしい、そして日本人の誉れです。奥様の御心中如何ほどであられたか、大義とは何なのかを教えられました。
「いくさは決してするものではない」を心にしたためました。「美談武勇伝」は読んではいけないって言ってる人が西洋には居ましたね
いくさはしない方がいいです…こればかりは本当に🙏
ホントアイドルグーループの名前が続々。因みに日向坂も徳山藩初代就隆の日向守の屋敷が由来。青山周辺の毛利家屋敷がキーワードですね。乃木神社及び乃木邸も徳山藩の敷地だったところですね。不思議な因縁を感じます。乃木は生粋の長州人。四境戦争から戊辰戦争、萩の乱に至まで長州軍は軍律が厳しく略奪、暴行、放火等しない軍団で乃木もそれに見習いステッセルへの対応となるのである。先の大戦後の ソ連軍の暴挙や抑留は乃木大将に対する最大の侮辱であり、ロシア人の汚点になったと言える。さて、人間乃木の個人崇拝はGHQには不都合で戦後も司馬史観で愚将にされてしまったが、最近は敬親公、桂太郎、乃木希典は再評価されつつあるのは喜ばしいことである。乃木の負者に対する紳士的で名誉毀損をしない対応精神の由来が幕末の大村益二郎が編成した長州諸隊にある。そういう目で戊辰戦争をみたら会津の長州への怨念は歪曲されていて未だに隣国と同じく被害者ビジネスに利用されている。藩主藩士同士は戦い直後ノーサイドしているのである。
正解
侍の魂だったのでしょうね。希典が結婚して最初に居を構えたのは虎ノ門ヒルズの一角で、ヒルズに縁があったのでせうか。私の祖父は篆刻をしていて、希典に揚げたと云ってましたが現物の確認は取れていません。
乃木大将とヒルズのイメージが合わなさすぎですが😂その観点なかったので、ありがとうございます🙏おじいさまの篆刻、どんなお品だったのか気になりますね!!
大将として人様の大切な息子を前線に送り出す命令を出さねばならぬ事への償いとして自分の息子が2人戦死した事で同じ痛みを感じた事で許して欲しかったのでしょうか?
どうなんでしょうねーーーそんな痛み分けは嫌ですが。。😭乃木大将が2人の息子を亡くしたことで、当時の日本国民の間には「1人亡くしたぐらいで悲しんではいけない、2人亡くした人もいる」といって、ますます堪え忍ぶ感覚が浸透していったようです。そう考えると、乃木大将の発言は、軍国主義を進めたい人々によって盛られた可能性もありそうですね。
乃木さんの息子は、かつすけ、やすすけだと思います。
長府に博物館ありますよね?
お屋敷跡を資料館にしたところがあるようですね!いつか尋ねてみたいです
何故、小栗上野介を取り上げないんですか?小栗上野介を取り上げると勝海舟がペテン師でダメな幕臣だったことがバレるからなのか?
たいそうのレイ です
何度かご指摘いただいちゃってます…そろそろ説明欄に訂正の記載しますね!ありがとうございます🙏
英語教師が1週間を教えるのに乃木大将は腰に剣をサースディーと言っていた😁
乃木大将なら毎日、腰に剣をサースディしてそうですけどね…笑 月月火水木金金…
@@tokyo_historical_walk真正のバカ
Stupid
地元です。大喪の礼→たいそう、です。明治天皇、なんで先に逝ってしまったのですか?
司馬遼太郎によって愚鈍ナルシスト凡将にされてしまいました。
つくづく、日本史観における司馬遼太郎の影響の強さを感じます…💦
将官としての能力からまったく興味のない人物でした。旧邸や史跡などが結構残っているのは意外。乃木坂駅そのものは、都営大江戸線開通前、京王・小田急沿線住民の六本木交差点への最短ルートとして時折利用しておりました。当時、「乃木神社の最寄り駅のはずなのに、随分寂れた駅と駅前だな…」と感じておった次第です。
お屋敷だけでなく、お庭や馬小屋まで残っているのは、ちょっと驚きますよね!しかも都会の一等地…多くの作品で「愚将」扱いされてしまっていますが、それも時代の変遷によるものなのでしょうか。現代人の感覚では理解され難い人物ですが、評価の幅も本当に広いですよね。
今年の広島G7で来日した次いでにゼレンスキー大統領に立ち寄って欲しかった場所とも言えます。もう一つ原宿にある東郷神社に寄ればロシアに勝つ験担ぎが出来たでしょう。
対ロシア戦勝祈願の観点、なかったです!興味深いコメントをありがとうございます🙏
乃木希典先生と心友だった東郷平八郎所縁の者です。母親から希典少年が梅干しが好きになるまでお母さんから食べさせられたと何度も聞かされました。東郷平八郎が一番心に残っていた事だと受け止めています。長府の乃木神社で確認すると父親が希典を刑場に連れて行き梅干しの汁を飲ませたそうです。鹿児島、舞鶴、呉、松山、横須賀等を周り、資料や本、ボランティアガイドの方から話も聞く中で、それは203高地での現場の実情を知らない上層部の命令を梅干しに喩えたのだと分かりました。皇軍の兵を多く死なせなければ、明治天皇崩御の後に死ぬこともなく、東郷平八郎と深いパイプで陸軍と海軍はもっと協力して、欧米植民地支配に立ち向かえたのではないかと感じます。乃木希典先生の名誉回復を切に願っています。
ご視聴ありがとうございます🥰
今回は、有名なのに行ったことのなかった乃木神社と、乃木希典大将にゆかりの地を歩いてみました✨
感覚的に理解のできない言動が多いのですが、だからこそ、お会いして話をうかがいたいと思ってしまった人物でした。
いかがでしたでしょうか?
コメント・ご質問・高評価👍・チャンネル登録お待ちしています★
尊敬する乃木大将について語っていただき、ありがとうございます
乃木さん、人気ですね…✨ご覧いただけて嬉しいです!
転勤で東京にいた頃、職場が青山霊園のすぐ脇にあり、歴史の方々の墓所を回りました。
乃木神社にもよく行きましたが、ご自宅の中を拝見するときにはいつも背筋がピンと伸びて最敬礼してしまいます。
乃木大将には逸話が山ほどあるので、また違うむずかしさがあったことと思います。
日露戦争時の米国の従軍記者(ウォシュバン)も、とにかく兵卒思いで記者に対しても気配りが行き届き、勝っても敵軍の苦衷を心配する将軍の様子に、「日本軍の士気が高く規律がよいのは、指導者の徳性が高いから」とまで激賞しています。明治天皇が大将を学習院院長にしたのも非常に頷けます。
なお、学習院大学には、大将が寮生と寝泊まりした「乃木館(旧総寮部)」と大将が自費でつくった「御榊壇」が残っています。また、子息2人が卒業した成城学校(現・成城中高校)には、お世話になったお礼ということで大将が寄贈した「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(初版本!)が「学宝」として展示されているそうです。教育に対する並々ならぬ熱意が感じられます。
逸話も多いですし、賛否の幅が広すぎて、なんとも評価の難しい人物ですね😅ただ、お友達にはなれないだろうなぁと…(先方も望んでないでしょうけれど笑)
学習院に残るゆかりの建物は、コロナ禍で見学・撮影を断念しました。見てみたかったです〜
はじめまして!視聴させて頂きました。
ちなみに、二人の御子息の名前は、どちらも、のりでは無くすけなのでは?かつすけ、やすすけ。
ご視聴ありがとうございます👍
お父さんマレスケですもんね、息子さんたちもスケが順当ですね💦💦
読みって本当に難しくて、調べきれないことがたくさんあります…😭
アルマさん、配信ありがとうございます。
自分も子供の頃に、乃木大将の生き様と明治天皇崩御の後の殉死を学んだ時は衝撃的でした。
神様として神社も出来たのも納得できます😊
kiyo o_様、いつもコメントありがとうございます🥰
乃木大将の殉死は本当に衝撃ですよね…!!しかも維新後の時代に…💦💦
神社というとつい、天照大神などのいわゆる神様が祀られているつもりになってしまいますが、御祭神を知ると関心が深まります✨
1:42 「大喪の礼」は「たいものれい」ではなく「たいそうのれい」ですw また、7:52 「長男のかつのり、次男のやすのり」はこれぞれ「かつすけ、やすすけ」が正式な読み方ですw
ちょこちょこご指摘いただきますが、読み方ってまじ難しいっす。。。😭
あ、「たいそうのれい」ですよね。自分が読み方を間違っていたのかとおもいました。
昭和天皇が崩御された時によく「たいそうのれい」と言っていましたよね、
理解は難しいが涙が出てくるのは理解できる
激しく同意です!!!
私はいま64歳ですが、私以上の年代の方々には、あの水子営の会見が有名ですね。乃木大将とステッセル将軍とのお互いに礼儀を尽くした会見、歌にもなっていますよね。大正生まれのなき両親に、両将軍の生き方、つまり礼儀正しさを勉強しなさいと、子供のころよく言われました
私も小さい頃、大伯母が東郷大将と日露戦争の手毬唄を歌っていたのを、懐かしく思い出しました。軍神が実在した時代ということですよね…
なかなか現代人の感覚では理解できない人物ですが、学ぶべきことは多いのだと思います。
1年前には知りませんでした!
今やそんな異国の地に縁が有りて(仕事で来て)中国人愛人(妻)と金州城近くに住んでいて
散歩コースにしています。
15年ほど前に旅順の古戦場跡を見て、水師営の展示物や写真を見てそこではその当時の中国人の日本語の流ちょな語り部のおじいさんがいて説明してくれていました!
そこでステッセル将軍達との記念写真を見て息子たちの戦死、兵士の死と涙ぐましい説明を受けていました。
今や金州城跡は当時の10分の1にも満たない小規模となっているはずで城内には
正岡子規の石碑が建っています。
今度日本に帰国できたら今日紹介された乃木大将ゆかりの地を訪ねてみたいと考えています。
中国側の貴重な情報をありがとうございます!水師営とか、伊藤博文の暗殺されたハルピンとか、大陸側でも歴史散歩してみたい場所がたくさんあります👍
東京の乃木大将ゆかりの地も、ぜひ訪問されてみてください〜〜
@@tokyo_historical_walk ご返信恐れ入ります!😄
西南の役に於ける植木遭遇戦以来その軍事的才能は抜きん出て
戦場指揮官として大事に育てられました
予備役編入中も最新の欧州軍事書を原典で読み
大演習には必ず参加し前線部隊と行動を共にするなど
生涯を懸けて軍事の研鑽に勤めました
明治大帝は「どこかに乃木がいるはずだ、呼んで参れ」
と近侍に召し出し親しくその評価をお聞き遊ばれたそうです
昭和8年生まれの亡き父にとって、大楠公と乃木大将は軍神だと学校で習いました。😊
同じく昭和一桁生まれの大伯母は、東郷大将と日露戦争をテーマにした、手毬唄を歌ってました!今の日本にはない、生ける軍神のいた時代ですね…✨
自分の興味ある時代とモロかぶりで、いつも興味深く拝見させてもらってます。栃木の乃木神社へは行かれたことありますか?あちらも資料館があって、たくさんの資料が展示されています。もしまだ行かれていないようでしたら、ぜひおススメです😄
お、幕末〜明治好き仲間ですか??☺️いつもありがとうございます🙏
栃木はまだ行ったことないです💦いつか機会があれば…!
最近、こちらのチャンネルを見つけて楽しませて頂いております。
私も乃木邸を見学した事がありますが、
当時の乃木大将が写る写真と同じで驚きました。
当時の姿そのままなんですね。
乃木邸からミッドタウン方向へ歩いていたら、
ピザ屋さんがあり美味しかったのを覚えています。
ロシアは、1896年にシベリア鉄道の支線で満洲北部を通過する「東清鉄道」の敷設権の線路を敷き、鉄道を開設する権利を獲得。1898年には、旅順・大連の租借権ある国が条約により一定期間、他国の土地を借り受ける権利)と南満州鉄道の敷設権も得ています。ドイツは同じく1898年に膠州湾を、イギリスも同年に九龍半島を、フランスは翌1899年に広州湾をそれぞれ租借しています。このとき、日本は1898年に福建省の不割譲その国の領土を第三国に譲らないよう圧力をかけることを清国に約束させるに留まっており、アメリカはハワイやフィリピンへの領有地拡大に追われ中国進出に出遅れました。清国内では、1897年頃から「義和団」の活動が活発化していました。義和団は「扶清滅洋」で清国を助けて西洋列強を滅ぼす「西教排斥」のキリスト教排斥などを唱える集団で、列強の侵略により困窮した清国の民衆が支持したことから、国内各地で義和団を中心とする内政改革や外国人排斥の運動が大きくなりました。1899年山東省などで「義和団の乱」が起こり、清国の西太后がそれを支持する形で列強に宣戦布告します。これを受けて翌1900年日本軍が大多数を占める8ヵ国連合軍が出兵して清国の首都である北京を占拠。清国を降伏させました。「北清事変」と呼ばれるこの事件により、清国は列強各国に賠償金を支払うとともに軍隊の駐留権を承認させられます。そして日本軍は、活躍により列強の評価を得ることになりました。日清戦争後も、日本とロシアの緊張関係は続いていました。日本の中国大陸進出により、ロシアは自国の南下政策が日本に妨げられるのを恐れ、フランス・ドイツとともに「三国干渉」と呼ばれる勧告を行いました。列強の勢力がまだ及んでいなかった満洲に日本が進出するのと時期を同じく、ロシアも南下政策を積極化。これにより、日本とロシアの対立はさらに激化することになります満洲をめぐる外交策として、当時の日本政府内には伊藤博文や井上らによる日露協商論満州でのロシアの行動を認める代わりに、韓国における日本の優越権を認めさせると、首相の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎らによる日英同盟論同じくロシアと対立傾向にあったイギリスと組んで、ロシアの南下を食い止めるという2つの意見がありました。伊藤博文は1901年に独自にロシアと交渉を持ったものの満足のいく回答が得られず、桂内閣は1902年ロンドンにて「日英同盟協約」の締結に至ります。この協約では、両国のいずれかが他の1国と交戦する場合には厳正中立を守り、2国以上と戦う場合には援護・参戦することなどが定められていました。これにより、日本は他の国による介入・参戦を恐れることなく、ロシアとの戦争に踏み切る準備を整えたわけです。満州占領を進めるロシアに対して、日本国内でも次第に強硬論が高まりました。非戦論や自重論もありましたが、論者はロシアを恐れる「恐露病」などと揶揄され、国内はほとんど開戦論一色に染まったのです。日本は日清戦争で得た賠償金の多くを軍事費に投入し、国民への租税増徴を行い、着々と軍事力の拡大を進めました。「韓国における日本の独占的な支配を認めさせ、満州におけるロシアの支配は鉄道経営などに限定する」日本がそういった提案を続けるもロシアは自国による満州独占の方針を変えようとせず、日本は最終提案を経て開戦の準備を行い、1904年日本は仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲し、宣戦を布告しました。日露戦争に辛くも勝利し、ポーツマス条約を締結、日本は同年9月に遼陽と沙河、1905年旅順、奉天での戦闘に勝利。いずれも厳しい戦いで、乃木希典司令官が率いた旅順攻撃は5ヵ月で3度に亘る総攻撃が行われ、日本兵130,000人の内死者59,000人の犠牲が出ます。
天皇崩御後に乃木希典は夫婦共に追腹を旧乃木邸の一部分を公園としました。
赤坂きら歩いて行きました。乃木邸の自決した部屋を見た時、司馬遼太郎の小説殉死が浮かんできて、ここにいた乃木夫妻の姿が想像されました。死を選ぶというのは今の倫理観では必ずしも是と出来ませんが誇り高い明治の軍人の潔さ、崇高さを感じます。因みに日本ビクターのレコードで乃木大将の肉声がありますが、本人の声に間違いないのですかね?
また来週も新作を楽しみにしています。
乃木邸、行かれましたか!あの部屋はなんだか、訴えてくるものがありますね…
死を選ぶことこ是非は判断できないですが、自刃の理由がなんだかイマイチ、ピンとこなかったんですよね💦💦やはり、時代の価値観が違うのでしょうか。
ビクターの乃木大将の肉声と言われているものは、わりと信憑性高そうですが…どうなんでしょうねぇ。現代の技術があれば、声から体格や年齢が分かるなどと言われているので、調査してほしいですよね😊
今週もまた、土曜日公開予定です✨楽しみになさっていただけたらと思います👍
こいつら変
「息子の死を喜べ」の言葉は乃木家族にとって息子たちへの最高の誉め言葉だったんですよ。
大将の命令(国の命令)による結果として、大将(高官)の子(親族)の死が、民族の結束力(他の兵士の士気)を強めることに自分の子が飛躍的に貢献したわけ。
「全ては犬死(無意味な死)ではなく、国(父母兄弟姉妹子孫)に貢献するとても意味のある行動による死であった」と表現しているわけですから。
武家(軍人)の嫁である静子さんにとっての死に花まで用意してしまうところが、軍旗を奪われた後のラストサムライの意地だったのかな…(=_=)
時代の価値観は変わりますが、日本民族の価値観の根幹は揺らぎません、希典さんご一家が払った代償は永遠にこのお庭の美しさが物語ってくれると思います。
栃木県の那須に乃木神社がある理由がわかりました。別荘があったのですね。
意味不明
北九州市小倉北区リバーウォークには、西南戦争へ出陣した小倉での住居あとの碑があります。
乃木さんは小倉に不穏な気配があると送り込まれ、そして、西南戦争へ。
小倉にも、乃木大将ゆかりの地があるのですね!小倉とか門司とか、レトロ建築でも有名ですよね〜いつか出張歴史散歩したいです❤️(そして、九州はお食事が美味しすぎて大好きです✨)
こんにちは~当時は(笑)防衛省ではなくて、防衛庁でした、乃木将軍は幼少時から、毎月、藩の菩提寺であった駒澤大学系列の泉岳寺に生れて育った旧毛利家の今のテレビ朝日から通っていましたが
乃木将軍ゆかりの地を現代の感覚でたどると、めっちゃシティーボーイですね…笑
泉岳寺もゆかりの地だったのですね✨耳寄情報をありがとうございます!
@@tokyo_historical_walk てっきり殉職の後に泉岳寺に埋葬されるものと思ったのですが青山墓地にですね(笑)
@@tokyo_historical_walk 様
乃木将軍は今のテレビ朝日の敷地で生まれたのですよ(笑)毎月私のせいに親戚の家の前を通って泉岳寺に通っていました(笑)
素晴らしい動画ありがとうございます。何故乃木希典大将が当時の国民に絶大な人気があったのか?明治帝に一目置かれていたのか?二人の御子息の戦死が関係しています。日露戦争で陸軍大将の乃木と兵隊の御子息。乃木大将ほどの力があれば二人の御子息を安全な部署に置くことは容易なことですね。しかし敢えて危険な最前線に二人は送られました。乃木がそうさせたのです。国民から大事な御子息を戦線に出す責任者だからこそ、我が息子は最前線に出さなければならない。事実、最前線で二人共戦死されました。乃木将軍のこのたくさんの戦死者に対する懺悔、これが国民の絶大な乃木希典人気となったのです。自分の家族や息子を安全な所に配属する権力者が多い中、あえて危険な最前線に送り出す。人間 乃木希典は素晴らしい、そして日本人の誉れです。奥様の御心中如何ほどであられたか、大義とは何なのかを教えられました。
「いくさは決してするものではない」を心にしたためました。「美談武勇伝」は読んではいけないって言ってる人が西洋には居ましたね
いくさはしない方がいいです…こればかりは本当に🙏
ホントアイドルグーループの名前が続々。因みに日向坂も徳山藩初代就隆の日向守の屋敷が由来。青山周辺の毛利家屋敷がキーワードですね。乃木神社及び乃木邸も徳山藩の敷地だったところですね。不思議な因縁を感じます。乃木は生粋の長州人。四境戦争から戊辰戦争、萩の乱に至まで長州軍は軍律が厳しく略奪、暴行、放火等しない軍団で乃木もそれに見習いステッセルへの対応となるのである。先の大戦後の ソ連軍の暴挙や抑留は乃木大将に対する最大の侮辱であり、ロシア人の汚点になったと言える。さて、人間乃木の個人崇拝はGHQには不都合で戦後も司馬史観で愚将にされてしまったが、最近は敬親公、桂太郎、乃木希典は再評価されつつあるのは喜ばしいことである。
乃木の負者に対する紳士的で名誉毀損をしない対応精神の由来が幕末の大村益二郎が編成した長州諸隊にある。
そういう目で戊辰戦争をみたら会津の長州への怨念は歪曲されていて未だに隣国と同じく被害者ビジネスに利用されている。藩主藩士同士は戦い直後ノーサイドしているのである。
正解
侍の魂だったのでしょうね。
希典が結婚して最初に居を構えたのは虎ノ門ヒルズの一角で、ヒルズに縁があったのでせうか。
私の祖父は篆刻をしていて、希典に揚げたと云ってましたが現物の確認は取れていません。
乃木大将とヒルズのイメージが合わなさすぎですが😂その観点なかったので、ありがとうございます🙏
おじいさまの篆刻、どんなお品だったのか気になりますね!!
大将として人様の大切な息子を前線に送り出す命令を出さねばならぬ事への償いとして自分の息子が2人戦死した事で同じ痛みを感じた事で許して欲しかったのでしょうか?
どうなんでしょうねーーーそんな痛み分けは嫌ですが。。😭
乃木大将が2人の息子を亡くしたことで、当時の日本国民の間には「1人亡くしたぐらいで悲しんではいけない、2人亡くした人もいる」といって、ますます堪え忍ぶ感覚が浸透していったようです。
そう考えると、乃木大将の発言は、軍国主義を進めたい人々によって盛られた可能性もありそうですね。
乃木さんの息子は、かつすけ、やすすけだと思います。
長府に博物館ありますよね?
お屋敷跡を資料館にしたところがあるようですね!いつか尋ねてみたいです
何故、小栗上野介を取り上げないんですか?
小栗上野介を取り上げると勝海舟がペテン師でダメな幕臣だったことがバレるからなのか?
たいそうのレイ です
何度かご指摘いただいちゃってます…そろそろ説明欄に訂正の記載しますね!ありがとうございます🙏
英語教師が1週間を教えるのに
乃木大将は腰に剣をサースディーと言っていた😁
乃木大将なら毎日、腰に剣をサースディしてそうですけどね…笑 月月火水木金金…
@@tokyo_historical_walk真正のバカ
Stupid
地元です。大喪の礼→たいそう、です。明治天皇、なんで先に逝ってしまったのですか?
司馬遼太郎によって愚鈍ナルシスト凡将にされてしまいました。
つくづく、日本史観における司馬遼太郎の影響の強さを感じます…💦
将官としての能力からまったく興味のない人物でした。旧邸や史跡などが結構残っているのは意外。
乃木坂駅そのものは、都営大江戸線開通前、京王・小田急沿線住民の六本木交差点への最短ルートとして時折利用しておりました。
当時、「乃木神社の最寄り駅のはずなのに、随分寂れた駅と駅前だな…」と感じておった次第です。
お屋敷だけでなく、お庭や馬小屋まで残っているのは、ちょっと驚きますよね!しかも都会の一等地…
多くの作品で「愚将」扱いされてしまっていますが、それも時代の変遷によるものなのでしょうか。現代人の感覚では理解され難い人物ですが、評価の幅も本当に広いですよね。
今年の広島G7で来日した次いでにゼレンスキー大統領に立ち寄って欲しかった場所とも言えます。
もう一つ原宿にある東郷神社に寄ればロシアに勝つ験担ぎが出来たでしょう。
対ロシア戦勝祈願の観点、なかったです!興味深いコメントをありがとうございます🙏
乃木希典先生と心友だった東郷平八郎所縁の者です。母親から希典少年が梅干しが好きになるまでお母さんから食べさせられたと何度も聞かされました。東郷平八郎が一番心に残っていた事だと受け止めています。長府の乃木神社で確認すると父親が希典を刑場に連れて行き梅干しの汁を飲ませたそうです。
鹿児島、舞鶴、呉、松山、横須賀等を周り、資料や本、ボランティアガイドの方から話も聞く中で、それは203高地での現場の実情を知らない上層部の命令を梅干しに喩えたのだと分かりました。皇軍の兵を多く死なせなければ、明治天皇崩御の後に死ぬこともなく、東郷平八郎と深いパイプで陸軍と海軍はもっと協力して、欧米植民地支配に立ち向かえたのではないかと感じます。乃木希典先生の名誉回復を切に願っています。