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今川義元の内乱の末の家督継承の顛末は07年大河ドラマ「風林火山」で映像化されてたね。
評価がじわじわと上がっていて喜ばしいことよ
三河獲得。北条を駆逐して領土回復。三国同盟締結。同盟で背後を固めて尾張へ進撃。義元優秀だな。。知れば知るほど戦死したのが悔やまれる。
暗愚な公家武将・革命児信長に敗れた旧時代の古い象徴という未だ根強いマイナスイメージも近年では覆りつつありますが、やはり戦に負けて滅ぼされたら末代まで貶められるのが戦国の世の厳しさと無情を表していますね。なまじ義元公程の優れた才覚を持った名将だけに余計勿体ないですね😢
1 非常によく勉強しておられると思います。小和田先生の研究をりようされているのでしょうか。2 義元は玄広恵探より高い教育(特に京に出ています)を受けており、公家中御門氏の出身の寿桂尼の子であった可能性が高いのではないでしょうか。玄広恵探の母は福島氏(クシマ氏と良く読めましたね)の出身で、氏親の代になるまで今川氏は守護大名で遠州の実力者福島氏をつなぎとめるため久島氏の娘を迎え、その後、公家の娘を嫁(寿桂尼)に迎えています。氏親の母は足利家(今川氏の本家)執事伊勢氏の娘ですね。氏親の父義忠はしばしば京都に滞在しており、今川家は京文化に触れる機会が多かったのでしょう。義元がお刃具を指定単は、先祖の公家武士と同じ習慣をふっかつさせていたのではないでしょうか?3 コメントにも書かれていますが、尾張出陣前に義元は家督を氏真に譲っています(織田信長が本能寺の変のまえに信忠に家督を譲ったのと同じでしょう)。義元は上洛すると巷間言われていますが、尾張(3-40万石)、美濃(6-70万石)、近江(6-70万石)で、駿遠三(100万石ではあっても、統一したばかりで実際は80万石ぐらい)なので、武力で一気に3国を抜けるだけの力はまだなかったのではないでしょうか。
桶狭間で義元がわざわざ出陣しなければならなかった理由が良く分かりましたまた、輿に乗っていたのにもちゃんと納得の理由があったんですね(笑)後世の後付けミスリードって恐ろしい
こうきちんと歴史を見てみると、麻呂義元像って相当無理あると思いますが、まさに歴史は後から作られるといったところですよね。
義元は愚将ではありませんが、信玄、氏康、元就からはどうしても一段落ちるというのが、私の評価です。義元の躍進は雪斎の力が大きいと思います。
義元は確かに優秀なのですが、雪斎あってこそですよね。雪斎がいなかったら家督継承、三河攻略はここまでうまく行かず、今川氏の発展もなかったと思います。
大河ドラマのせいか母親は、岸田今日子のイメージがありますね!
家康が生まれた時点で高祖父の長親が健在していた事に驚き((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル桶狭間の戦いの時点で、義元は家督を氏真に譲っていた形跡がありますね。駿河、遠江の2カ国には氏真の名前で文書が発給されてるのもその一例かと。(`・ω・´)ゞ
当時は結婚や出産がはるかに早かったからね。家康誕生時は父広忠17歳、祖父清康生きていれば33歳、曽祖父信忠生きていれば53歳、高祖父長親70歳なので、高祖父長親が存命していても不思議ではない。逆に家康は16歳で子、33歳で孫、49歳で曾孫、60歳で玄孫が誕生しています。今の世の中では絶対無理でしょうね。
これで今川義元の桶狭間に出陣した理由がわかりました。桶狭間ではなくもっともっと今川義元のこと知りたいです。戦国大名の中で一番大好きな武将ですから。
義元は、武運拙く惜しくも敗れて東海の覇者まで惜しかったですね。もしも尾張侵攻が、成功したら一気に天下人の筆頭候補になれたのに。
信玄が、信長に手を貸したのではとの説も有りますがどうなんでしょうね?
この頃の信玄は上杉謙信と争っているので、今川衰退までは望んでいなかったかなと個人的には思いますね。尾張まで取ったら京都まで近いですし、足利一門の家格を利用して幕府に食い込んでいたでしょうね。
家康以前に海道一の弓取りと言われてたのはこの今川義元ですもんね。織田信長を主人公に据えると大抵公家かぶれのうぬぼれ屋さんにされてますが、やはり中々の大物ですよね。足利家に人なくば吉良家が、そこに人なくば今川家が将軍を継ぐ、なんて話があったのは、家柄よりも義元を評しての事なのでは?等と妄想したりもします。そんな今川家がわずかにその次の代で滅ぶのだから戦国時代もまた恐ろしい時代ですねぇ。次の動画も楽しみにお待ちしてます。
義元が死んだときしていたお歯黒などの化粧も、柔弱な大名であったことの証拠のように言われたりもしますね。だったら後北条氏や豊臣秀吉はどうなってしまうのかと。実際には、自分の家格を示す証拠でもあったりしたし、真偽は不明ですが首を取られたときの覚悟という説も見たことがあります。
信長に直接首を取られるという戦国でも特に目立つ死に方をしてしまったがために500年近く軟弱なイメージをつけられてしまいましたね。自分は輿の使用のエピソードも含めて家格を示す戦略の一環だったと考えます。
@@rekishock 龍造寺隆信も、かごに乗って戦いに臨んで討ち取られてるんですけどね。どうも隆信は無抵抗のまま首を取られたようで、信長の親衛隊の指を食いちぎった義元のほうが、よっぽど健闘している。隆信は暴君イメージがあるから柔弱とは見られないのでしょうか。
本能寺時の信忠にならず氏真には命運があったんでしょうね。元家臣の家康に頭を下げるのを躊躇わなかったらしいので分の判る人物だったのでしょう。
今川義元は今川氏親と正室寿桂尼との間に生まれた嫡流の三男であって花蔵の乱の相手である玄広恵探の方が庶子・庶系ではないのですか❓三男なので庶子身分とは言え嫡流なので座の位置は玄広恵探より上であったはずです。これが花蔵の乱で庶子の玄広恵探より嫡流の栴岳承芳を担ぐ大きな動機となったと思いますがね。
参考文献を読むと分かりますが、最近の研究では動画で紹介されていた説も有力のようです。確実に嫡出の子の生年と系図による出生順を考慮すると義元は嫡出でない可能性が高い、との結論で、玄広恵探よりも待遇が上だったのは妾である母の家格が玄広恵探の母よりも高かったから、という推測でした。
歴史も研究によって変わってゆくのがよく理解できました。ありがとうございます。
とはいえ、義元庶子説も具体的な根拠があるわけではなく主張も様々のようで、個人的には庶子の可能性もかなり高いとは思うものの、少なくとも寿桂尼の子という通説が明確に間違いとは言えない以上、そちらを尊重するべきなのではと思ってしまいます。
@@村上智也-m7n さんお返事ありがとございます。昔から疑問がありまして今川義元公は還俗時に何故今川家の通字である「氏」「範」を使わなかったのか?嫡男には氏真のように「氏」を使っているのに。それが疑問ですね。
@@非理法権天-t4o それも庶子説の1つの根拠になっているみたいですね。嫡出という正当性がないから権威付けのために将軍家の通字「義」の偏諱を受けた、という感じで。
名門の生まれだけど幼少期は冷飯食い、実力で一門の総領に、負けた相手が創作物の主人公になることが多い人物、三國志の袁紹と比べる方が多いのも解りますね。
確かに、イメージ袁紹と重なる部分は多いかもしれませんね。
今川義元の正室は武田信玄の姉
永禄三年五月八日の桶狭間の戦い直前に今川義元の官職は治部大輔から三河守に遷任している。瑞光院記によればその辞令は永禄三年五月八日宣旨治部大輔源義元宜任参河守蔵人頭とある。
今川義元の内乱の末の家督継承の顛末は07年大河ドラマ「風林火山」で映像化されてたね。
評価がじわじわと上がっていて喜ばしいことよ
三河獲得。北条を駆逐して領土回復。三国同盟締結。同盟で背後を固めて尾張へ進撃。
義元優秀だな。。
知れば知るほど戦死したのが悔やまれる。
暗愚な公家武将・革命児信長に敗れた旧時代の古い象徴という未だ根強いマイナスイメージも近年では覆りつつありますが、やはり戦に負けて滅ぼされたら末代まで貶められるのが戦国の世の厳しさと無情を表していますね。
なまじ義元公程の優れた才覚を持った名将だけに余計勿体ないですね😢
1 非常によく勉強しておられると思います。小和田先生の研究をりようされているのでしょうか。
2 義元は玄広恵探より高い教育(特に京に出ています)を受けており、公家中御門氏の出身の寿桂尼の子であった可能性が高いのではないでしょうか。玄広恵探の母は福島氏(クシマ氏と良く読めましたね)の出身で、氏親の代になるまで今川氏は守護大名で遠州の実力者福島氏をつなぎとめるため久島氏の娘を迎え、その後、公家の娘を嫁(寿桂尼)に迎えています。氏親の母は足利家(今川氏の本家)執事伊勢氏の娘ですね。氏親の父義忠はしばしば京都に滞在しており、今川家は京文化に触れる機会が多かったのでしょう。義元がお刃具を指定単は、先祖の公家武士と同じ習慣をふっかつさせていたのではないでしょうか?
3 コメントにも書かれていますが、尾張出陣前に義元は家督を氏真に譲っています(織田信長が本能寺の変のまえに信忠に家督を譲ったのと同じでしょう)。義元は上洛すると巷間言われていますが、尾張(3-40万石)、美濃(6-70万石)、近江(6-70万石)で、駿遠三(100万石ではあっても、統一したばかりで実際は80万石ぐらい)なので、武力で一気に3国を抜けるだけの力はまだなかったのではないでしょうか。
桶狭間で義元がわざわざ出陣しなければならなかった理由が良く分かりました
また、輿に乗っていたのにもちゃんと納得の理由があったんですね(笑)
後世の後付けミスリードって恐ろしい
こうきちんと歴史を見てみると、麻呂義元像って相当無理あると思いますが、まさに歴史は後から作られるといったところですよね。
義元は愚将ではありませんが、信玄、氏康、元就からはどうしても一段落ちるというのが、私の評価です。
義元の躍進は雪斎の力が大きいと思います。
義元は確かに優秀なのですが、雪斎あってこそですよね。
雪斎がいなかったら家督継承、三河攻略はここまでうまく行かず、今川氏の発展もなかったと思います。
大河ドラマのせいか母親は、岸田今日子のイメージがありますね!
家康が生まれた時点で高祖父の長親が健在していた事に驚き((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
桶狭間の戦いの時点で、義元は家督を氏真に譲っていた形跡がありますね。
駿河、遠江の2カ国には氏真の名前で文書が発給されてるのもその一例かと。
(`・ω・´)ゞ
当時は結婚や出産がはるかに早かったからね。
家康誕生時は
父広忠17歳、祖父清康生きていれば33歳、曽祖父信忠生きていれば53歳、高祖父長親70歳
なので、高祖父長親が存命していても不思議ではない。
逆に家康は
16歳で子、33歳で孫、49歳で曾孫、60歳で玄孫が誕生しています。
今の世の中では絶対無理でしょうね。
これで今川義元の桶狭間に出陣した理由がわかりました。桶狭間ではなくもっともっと今川義元のこと知りたいです。戦国大名の中で一番大好きな武将ですから。
義元は、武運拙く惜しくも敗れて
東海の覇者まで惜しかったですね。
もしも尾張侵攻が、成功したら
一気に天下人の筆頭候補に
なれたのに。
信玄が、信長に手を貸したのではとの
説も有りますがどうなんでしょうね?
この頃の信玄は上杉謙信と争っているので、今川衰退までは望んでいなかったかなと個人的には思いますね。
尾張まで取ったら京都まで近いですし、足利一門の家格を利用して幕府に食い込んでいたでしょうね。
家康以前に海道一の弓取りと言われてたのはこの今川義元ですもんね。
織田信長を主人公に据えると大抵公家かぶれのうぬぼれ屋さんにされてますが、やはり中々の大物ですよね。
足利家に人なくば吉良家が、そこに人なくば今川家が将軍を継ぐ、なんて話があったのは、家柄よりも義元を評しての事なのでは?
等と妄想したりもします。
そんな今川家がわずかにその次の代で滅ぶのだから戦国時代もまた恐ろしい時代ですねぇ。
次の動画も楽しみにお待ちしてます。
義元が死んだときしていたお歯黒などの化粧も、柔弱な大名であったことの証拠のように言われたりもしますね。
だったら後北条氏や豊臣秀吉はどうなってしまうのかと。
実際には、自分の家格を示す証拠でもあったりしたし、真偽は不明ですが首を取られたときの覚悟という説も見たことがあります。
信長に直接首を取られるという戦国でも特に目立つ死に方をしてしまったがために500年近く軟弱なイメージをつけられてしまいましたね。
自分は輿の使用のエピソードも含めて家格を示す戦略の一環だったと考えます。
@@rekishock 龍造寺隆信も、かごに乗って戦いに臨んで討ち取られてるんですけどね。
どうも隆信は無抵抗のまま首を取られたようで、信長の親衛隊の指を食いちぎった義元のほうが、よっぽど健闘している。
隆信は暴君イメージがあるから柔弱とは見られないのでしょうか。
本能寺時の信忠にならず氏真には命運があったんでしょうね。
元家臣の家康に頭を下げるのを躊躇わなかったらしいので分の判る人物だったのでしょう。
今川義元は今川氏親と正室寿桂尼との間に生まれた嫡流の三男であって花蔵の乱の相手である玄広恵探の方が庶子・庶系ではないのですか❓三男なので庶子身分とは言え嫡流なので座の位置は玄広恵探より上であったはずです。
これが花蔵の乱で庶子の玄広恵探より嫡流の栴岳承芳を担ぐ大きな動機となったと思いますがね。
参考文献を読むと分かりますが、最近の研究では動画で紹介されていた説も有力のようです。
確実に嫡出の子の生年と系図による出生順を考慮すると義元は嫡出でない可能性が高い、との結論で、玄広恵探よりも待遇が上だったのは妾である母の家格が玄広恵探の母よりも高かったから、という推測でした。
歴史も研究によって変わってゆくのがよく理解できました。
ありがとうございます。
とはいえ、義元庶子説も具体的な根拠があるわけではなく主張も様々のようで、
個人的には庶子の可能性もかなり高いとは思うものの、少なくとも寿桂尼の子という通説が明確に間違いとは言えない以上、そちらを尊重するべきなのではと思ってしまいます。
@@村上智也-m7n さん
お返事ありがとございます。
昔から疑問がありまして今川義元公は還俗時に何故今川家の通字である「氏」「範」を使わなかったのか?嫡男には氏真のように「氏」を使っているのに。それが疑問ですね。
@@非理法権天-t4o
それも庶子説の1つの根拠になっているみたいですね。
嫡出という正当性がないから権威付けのために将軍家の通字「義」の偏諱を受けた、という感じで。
名門の生まれだけど幼少期は冷飯食い、実力で一門の総領に、負けた相手が創作物の主人公になることが多い人物、三國志の袁紹と比べる方が多いのも解りますね。
確かに、イメージ袁紹と重なる部分は多いかもしれませんね。
今川義元の正室は武田信玄の姉
永禄三年五月八日の桶狭間の戦い直前に
今川義元の官職は治部大輔から三河守に遷任している。
瑞光院記によればその辞令は
永禄三年五月八日宣旨
治部大輔源義元
宜任参河守
蔵人頭
とある。