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Q:権力を握った後に起こることは何ですか?(1)内紛 (2)内訌 (3)内輪揉め (4)内ゲバ
鎌倉北条氏が全部やってるやん
全部一緒やないか
畠山氏も総州家、尾州家に別れても畿内で大きな力を持ち最後の方まで存在感がある
家臣に定期的に乗っ取られたけど一応安土桃山まで生き残ったよね
@@youyah7440なんなら江戸時代以降も高家として残ってるからな
17分でこれだけ過不足なく纏められてるのは素晴らしいです。最後の管領が細川高国である、と言われてるのが「次期将軍の烏帽子親(加冠役・名付け親)」がこの時期の管領の主な仕事になったからですね。管領の役割が縮小したのは6代義教期に奉行人制度が整えられ幕政実務から管領家が手を引くことになったからです。
こんな解説は大好き。
斯波氏の惣領家である斯波武衛家(ぶえい)と細川氏の惣領家である細川京兆家(けいちょう)の字面のかっこよさは異常
武衛家は遠江奪還を達成してれば戦国大名になる可能性は普通にあった吉兆家は政元が全ての元凶
@@ワールドクロック 京兆家は、、料亭にありそうだ、、
なんでや!畠山金吾家もかっこいいやろ!
畠山金吾さんって、探せば居そう、、金吾中納言とかで微妙に印象悪いが、、
@@yorksonoda 船◯吉兆…
またまたリクエストに応えていただきありがとうございます😭起源まで遡って取り上げられててすごくわかりやすかったです!斯波なんて将軍とも張り合える家格だったのに家臣の家臣に仕えることになるなんてすごい盛者必衰ですよね…それでも明治まで生き残れたのはやっぱりそれだけの家格があってこそだったりしますよね!
秀吉と家康が名門好きだったのが大きいんじゃないかな。信長が天下取ってたら昔の名前だけの役立たずはいらんって追放しそうだし。
@@ひろ-d3g 家康や秀吉の出自の弱さだったりするんでしょうかね、織田以上に心許ないからこそかつての名家を家臣扱いして自分の家格を上げるやり方をとったのかもしれないですね
要約:応仁の乱で斯波家と畠山家がゴチャゴチャもめて没落し、残った細川家がイキってたけどなんやかんやゴチャゴチャしてやっぱ没落する
そして子孫の細川護熙が一瞬だけ総理になって終わりか😅
@@坪裕之 違うよ〜。子孫じゃない。調べてみてくれ
要約しても結局ゴチャゴチャして没落するww コメ主の抜群のセンスを感じますww
細川藤孝が細川氏か三淵氏出自不明確だけど三淵氏の出だと足利将軍家の末裔になる。そしてその場合も義満か義持か不明確。
@@坪裕之細川護熙の家系は細川刑部家管領細川京兆家の傍流ではあるけど細川藤孝が養子だから子孫ではない。
つまり斯波・畠山・細川「俺ら全員衰退してかつての力は亡くなったけど戦国の世はなんとか生き延びたぜ!」ってこと?
斯波は一応生き残りが織田信雄に仕えたね内通疑われて殺されたけど
@@わっふるかろまろ 斯波家は分家の分家の最上家が水戸黄門の家老をしたり、交代寄合として存続は一応してますね。畠山家も高家としてなら。細川家は、細川忠興公が色々あって細川宗家を継承し、明治より先も後はご存じの通り現代版の管領とも言える首相に就いたりと。
分家の生き残りとかが一番多いんだね。
@@長野業正-j9l 五摂家筆頭の近衛家(近衛文麿の家)の現当主は肥後細川家からの養子で細川護熙の兄ですね。家格としてはだいぶ盛り返したのかも。
@@長野業正-j9l細川忠興が宗家(京兆家?)を継承したってどこ情報?
斯波氏分家筋だと最上とか大名でしたが…
最上氏は「ウチは元々斯波氏だし斯波氏は本来足利氏の嫡流だったンだぜ」って思ってたろうな……
斯波氏の分家大崎氏の分家最上氏騒動さえ起こさなければ仙台藩に次ぐ雄になれたのに
肥後熊本藩54万石(内閣総理大臣も輩出)は細川の傍流🙄
@@吉村信一郎-k7jまあ本物の細川じゃないから京兆家達とはほぼ無関係なんだけどね
細川藤孝の三淵氏説が有力になってるからね。
畠山氏なんてこれだけ何度も滅亡を繰り返して良く存続したよなあ
@@essauouo5251 まあ、あれだけ大きい勢力と歴史を持っていれば、その分だけ、数多くの分家や血縁が増えますからね。そういった積み重ね?が有れば、いくら本家や有力分家が衰退しようが滅びようが、その度に他の分家が跡を継ぐから意外と存続するもんです。現に細川家も、分家の分家の和泉半国守護の家系だった幽斎公と忠興公のお陰で、何とか有力大名として存続出来ましたし。斯波家も江戸時代初期までは、分家の最上家が大大名として残りましたしね。
解りやすい解説勉強になります。解説動画などで俯瞰で室町時代を知ると武家政権の過渡期であることが理解できます。こんなに頻繁に所領の拡大縮小を繰り返していたら現地の人々はたまったもんじゃないですね。一体だれが領主なのか、そうなると現地に根付いている守護代や代官が実権を握るのも当たり前の話。
管領職が自然消滅したってのは勉強になった。いつの間にか消えていて???だったので言及してくれて良かったです。
秋田の家老になった細川さん、大大名になった傍系をどう感じていたのか興味沸きます。でもそれを受け入れるのが武家なんでしょうね。
@@lexusis4486 宗家の地位もその熊本の傍系が引き継いだので、寧ろ宗家の負担や面倒毎だけでなく、引き渡した際に何かしら譲られたり都合を付けて貰っていた筈。なので対外的にはいざ知らず。寧ろ内部的に大分得したのでは無いかと。
@@長野業正-j9l そうだったんですか、返信ありがとうございます。個人的(自分的、宗家の地位を譲った方)に知りたくなりました。また歴史沼にはまりそうです。((笑)
@@lexusis4486 軽くしか知りませんが、父である幽斎と政治的に対立したか何かあったのが要因で細川宗家を継いだ筈。元々、幽斎は足利義昭が京を追われた以後に長岡姓に改めていたのも要因だった筈。
熊本の細川氏は厳密には傍系じゃないですよ。宇多源氏大原氏流になってて、清和源氏源義家流の細川京兆家とはもはや別の家です。
畠山家の行く末は全く知りませんでした。畠山尾州家も能登畠山家も華族にはなれなかったようですね
鎌倉が吹っ飛んだ、爆風〜〜〜ってギャグ思い出したわ
幕府自体がアレだったので管領とかホントにポっと出落ちで「覚える価値ある?」くらいのモンでしたが、結構辿れるんですねぇ。
歴史好きだが、この頃の流れは複雑過ぎて····頭が混乱する。
細川藤孝(幽斎)が実は本家とは全く血縁が無いという皮肉・・
最近の新説だが本当かね?確か近江佐々木氏の一族の出とか。だとしたら源氏は源氏でも清和ではなく宇多源氏じゃない。
苗字が同じでも、違う細川だったんだ、知らんかった😮
まあそうで無くとも幽斎には、昔から義輝・義昭の腹違いの兄説ってのも昔からありはしましたが。
@@長野業正-j9l 足利義晴落胤説ですね。もし本当なら義昭以降途絶えた足利嫡流が細川氏で残ったことになりますね。平清盛の白河法皇落胤説みたいなものか。
昔、日経新聞の私の履歴書に細川護熙元首相の父護貞氏が細川藤孝は足利義晴の隠し子と言われていると記してあった記憶がある。
尚、最上家もそもそも斯波家を出自としていたはずだし、二本松家もそもそも畠山家を出自としていたはずだ。
細川は管領は落ちたが分家は、熊本藩か……………本家より分家が生き残るね。斯波氏も目立つの分家だね。😔
「管領」というのを知ったのは、NHK人形劇「新八犬伝」に出てきた「関東管領扇谷定正(上杉定正)」だった
大人になって調べたら、定正は関東管領ではなかったでござる。
こん時の関東管領は上杉顕定でござろう。定正の扇谷上杉を圧倒してブイブイ言わせてたが、最後は謙信の父ちゃんに殺されてしまうのも哀れなり。
上杉憲政、上杉謙信が関東管領を承継してないと北条は主張してました。
@@lexusis4486 古河公方足利晴氏と氏綱女と婚姻が成立した際に氏綱が関東管領に任じられ、後継の氏康も管領に任じられることが前提でいたところ、追われた憲政が景虎に管領職を譲渡の上、養子とした。(上杉政虎誕生)氏康は北条に上杉憲政共々敵対し敗れ、秦野に押し込められた晴氏の後継に己が姉妹の産んだ義氏を公方に立てており、憲政の行為は勝手に憲政がやった事として無視。文書では以降も「長尾」と書き(対する上杉側も「伊勢」だが)、また政虎サイドの立てた公方、義氏異腹の兄の藤氏も認めず後に捕らえて処刑してる。正式に政虎(もう輝虎だけど)の管領職を認めたのは甲相駿同盟崩れた後、越相和与の際。代わりに義氏も正式に公方として承認された。
「我こそは玉梓が怨霊」どろろろろって、登場するの記憶に残ってる😱
四職につけた家のその後も知りたいですね
@@kenta-z3e 良いね。自分も見たいです
@@kenta-z3e 少なくとも赤松家は分家筋の有馬家が、久留米藩20万石の国持ち(待遇)存続しました。一色家は矢張り分家筋のうち、三河や甲斐の一族がた譜代大名や親藩枠で存続しました。有名所だと武田旧臣の土屋、松山藩久松(家康異父弟の家系で松平アナもその一族)家です。他の幾つかの家も譜代大名に。山名家は山名豊国が没落後も努力し、家康から故郷但馬国で一郡を賜り。その子孫が明治の際の高直しで村岡藩1万石として大名に返り咲きました。
@@長野業正-j9l保守右派界隈に一色さんという有識者の方がいらっしゃるけど、何か関係有るのかな。ペンネームの可能性もあるけど。
複雑すぎて結局なんだったのか分からない応仁の乱。知名度だけはたかい。
なんだかんだあっても家格が凄いから残るんだよな
名門の血筋は江戸幕府の高家になっているんじゃないか?
@@アメアメフレフレ 畠山は両統とも高家ですね。斯波家の分家の分家、最上氏も交代寄合です。細川家は宗家の地位を忠興公が継いだので、違いますが。
@@長野業正-j9l宗家の地位はずっと京兆家のものだけどね
「下剋上」とはいっても名門家は絶やさず残そうっていう動きは三英傑共通してあったんだな。まあ名門家の保護を通して自身の権威付けを目指す打算はあっただろうけど。
秀頼さんも意地を捨てて義理の祖父や父を頼って江戸に住めば豊臣という名を明治まで残せたかもしれないのにな。
秀吉は自身の出自の低さから彼らを下に置くことで虚栄心を満たせたし、家康は彼らを下に置くことで徳川の権威を高めることに
@@marutou3693 故に、喜連川家は国持ち(待遇)大名として存続し。明治でもちゃっかり子爵になっていますが。
戦国時代は力が全てと思いがちだが、権威付けもかなり重要だからな。三英傑に限らず、実力でのし上がった大名に共通する悩みだったと思う
@@lkappsa6575 一番血筋が卑しい秀吉は関白という最高の権威手に入れたけどそれでも島津は鎌倉以来の名門のうちがいくら関白といえど秀吉なんかに頭下げられるかなんて手紙送っちゃってるな。織田になら頭下げてもいいと思ってたらしく織田や徳川みたいな小領主出身でも武家は武家ってことなのかな。
七頭のうち江戸大名に残れたのは山内上杉家と京極だけ?
@@とろろいも-i5k 血統的に繋がってるのは京極だけかな。
山内上杉は血族としては絶えてるから京極だけが生き残ったことにただ京極は大名としては一旦浅井に乗っ取られて滅亡しているから残ったうちに入るのかな?
系譜的でいいんだよ謙信が継いだから有名なだけで佐竹とか他氏からの養子で継いでる家なんていくらでもあるから
養子含めるならそう
ただ、細川管領家分家は大名になった→熊本藩主細川家
あの細川刑部少輔家は細川京兆家の分家じゃないんだけどね血筋的に無関係
細川家の場合は分家の分家の細川忠興が宗家の地位を継いでた様な気が。
宗家も何も滅亡したから細川一門の代表格に自然となったというか
@@youyah7440 まあ、後は大方日本各地で散り散りになった細川一門の面倒を見たり支援をしてたと言うか、大大名だからやる羽目になったんでしょうね。名門出ない蜂須賀家でさえ、阿波統治も含めた政治的な面があるとはいえ。長い間、堺公方の子孫の面倒を見る羽目になりましたし。まあ。隣の山内家も、旧主織田伊勢守一族の面倒を見ていましたが。
そんな事実はない
細川は短くしてもわけわからんくなる
畠山家の内紛がひどすぎる
むしろ内紛起こしてない守護大名がほぼないという今川だって花倉の乱で家督争い起きてるし大内だって家督相続時の内紛は定期イベントだし
南朝史観の明治になって足利に戻したのは悪手だわなあ。喜連川家もだけど。
喜連川は徳川に遠慮してただけ。
細川藤孝は傍系に養子で入ってよく家を盛りたてたよな。京都らしい。
まあ戦国時代末期だったんで
細川管領家の血筋が熊本細川家になっただよな。熊本細川家は熊本細川家開祖のキリシタンガラシャの血筋を途中から取り潰し恐れて、藩士にして細川管領家宗家の血筋からの養子縁組みしたからな。血筋で宗家に分家がつかえる形に戻したいで幕府も文句言えなかったからな。
そもそも肥後細川氏(藤孝の末裔)は本物の細川氏じゃないから京兆家とは別の一族なんだけどね
末裔が天下をとったけどな
肥後細川氏は宇多源氏大原氏流で、細川京兆家は清和源氏源義家流だから全然別の家ですよ。
@@名無し-q6y5w 紛らわしい家は結構戦国時代にはいますね。関東の北条(ほうじょう)家と長尾家家臣の北条(きたじょう)さんとか若狭武田と甲斐武田とか
細川ってあの首相が出た熊本の藩主だった細川家とは別物なんですかね
ほぼ別物と言って差し支えないほど血筋が遠い。
信長時代まで政略結婚繰り返しているから、熊本細川と管領細川は信長時代までいがいに血筋は近い。あの時代の鎌倉武士は近い血筋で血筋残すために敵対勢力につかえるをまともにやったのが細川家だからな。しかも細川ガラシャの血筋隠すために江戸時代に管領細川家から養子縁組みしているから、細川家開祖から3代目ぐらいから管領家細川の血筋のほうが強くなる。家は遠いが血筋はちかくなる
細川の名乗りを許された一族に養子として入ったらしいから細川の血は入ってないっぽい。まあこういう場合どこかで細川家から嫁を迎えて血は入れるが。
甲斐武田家と安芸武田家くらい遠いですね。
管領を務めた細川家と熊本細川家は本家と分家の関係だから遠い親戚くらいの関係ですね。まあ養子とか迎え入れてるから別物と言う人もいるでしょうが。
執事と管領の違いがよく分かってなかったけど、武衛家のプライドのために作ったわけね。
違うぞ何も分かってないまんまじゃん
結論。戦国時代の元凶は室町幕府。争いしかしてねえw
そりゃ元々は足利氏を担ぎ上げた一門達による連合政権だしねお互いの優位性を争って200年
@@youyah7440連合政権説はもう否定されてるぞ
熊本の細川護煕氏の家系は?
別の血筋だから京兆家には関係ない
なお、元武衛家こと津川家は足利義輝の子とされる尾池家共々熊本藩に転がり込んだとされるまた熊本藩主家細川家は徳川幕府から「屋形」号を認可されず、細川一族だから毛利家や上杉家、伊達家みたいに「屋形」号認可とはならなかった
落ちぶれたかつて繁栄を極めた一族の末路ってのは興味深い。
細川氏は護熙さんを経て継続中、首相にもなったね、唯一の大名格(幽斎は養子だが) この家系は本流ではないとは意外でしたな
肥後熊本藩の細川家は、管領家の分家。
@@二見裕司-r6t さん本家じゃないんだ幽斎や忠興公がでないわけだ
細川の本流どころか細川藤孝は細川淡路守護家出身で全く関係ない佐々木源氏から改名したということが分かっていましてなあ
細川藤孝は足利義輝の頃に細川姓を名乗った別の家の者らしいです。
@@user-fn3112ux4t陸奥守家だそうです。
信長の妹・お犬?信秀のネーミングセンスも中々…
細川護熙までやるのかと
そいつは清和源氏の細川氏とは血筋的に無関係だからね
みんな源氏なのになあ
細川家は庶流が天下を取りました
細川晴元って物語によっては黒幕じみた書き方されるけど養子なのね
物語の話を歴史の話に持ち出すのはNG
北条家にも内管領がいたが?
主家に殉じただけマシな長崎氏
@@youyah7440 ただ得宗家の内管領は得宗家すら蔑ろにする風が有って、、結果他の御家人の幕府からの離反を招いてるからね、、
内管領ってそも正式な役職じゃないからね
まーたぬるっと消えてるー
細川家は宗家と有力な支流が没落したけど、分家出身の細川藤孝が立身して大大名になって末裔が首相になるんだから歴史は面白いな
キリシタン細川ガラシャの血筋隠すために3代目か4代目から管領宗家から養子縁組みして細川家つがせるから熊本細川家は宗家の血筋つよいが、家は分家というややこしい形している。細川家開祖の細川ガラシャの血筋のほうが藩士家の血筋になり、血筋上は宗家に分家がつかえるのを江戸時代途中からしている。
まあ清和源氏の細川氏と藤孝(宇多源氏、なんなら三淵氏の養子だから宇多源氏ですらない出自不明)の細川氏は別物だけどね
斯波氏はなまじ勢力があったものだから運営(幕府)からナーフされた悲しき存在分家同士が仲良くないから衰退したとか言わない特に越前
一応女系は米沢藩の重臣で残った
細川幽斎とは違う家なのか
本家たる吉兆家の分家の分家の和泉守護細川氏の出自
@@youyah7440 ありがとうございます分家の分家と
@@Gekitakubaibai ものすごくややこしくなりますが細川藤孝自身は和泉上守護細川出身の三淵晴員の子であり、藤孝の姓である細川は和泉上守護細川の細川ではなく、室町将軍により細川の苗字が与えられた佐々木氏流大原氏の人物が細川氏に養子になっているので家は赤の他人の細川、血は管領家細川の遠縁という
@@youyah7440 なんとそんなに、ややこしいとは
@@Gekitakubaibai そもそも藤孝の出身ともいうべき和泉上守護細川も室町初期に活躍した細川頼之の弟から派生したので戦国時代には細川一門とは言っても150年以上前に枝分かれしたのでとりあえず一門くらいの認識でしょうね
読み上げが速くて理解が追い付かないから、再生速度を一段遅くしたら聞きやすくなった
ちょっと速いよね
栄枯盛衰
三管領と四職で、大名の地位にいれたのって、京極だけじゃない???
細川の傍流が熊本藩、赤松の傍流の有馬家が久留米藩として幕末まで存続してますね。山名は旗本寄合なので大名ではありませんが、領地はもっていたようです。
細川管領家の血筋が途中から、熊本大名家になった。信長時代に勢力結婚で本家と分家は血が繋がっていて、細川開祖の細川ガラシャの血筋はキリシタン疑い恐れて途中から藩士にして、細川管領宗家からの養子を藩主にしましたからね。血筋上の本家に分家がつかえる形に細川は江戸時代途中からしましたからね。
山名は交代寄合村岡領から明治時代前に一万石以上と認定され大名になりました。
細川→分家の分家筋の細川藤孝系統が熊本藩斯波→分家の最上が出羽山形の大大名になったけど早くに改易畠山→みんな崩壊し高家としてなんとか生き残り、だけど大名じゃない赤松→分家筋の有馬氏が久留米藩として九州でも指折りの大名に京極→浅井に乗っ取られたけど徳川と縁戚になってギリッギリ復活、ただし本家は改易山名→大名としては滅亡したけど交代寄合としてそこそこ繁栄し、明治維新後に大名認定一色→本能寺の変でドサクサに細川忠興に滅ぼされる
肥後細川家「一応名前だけは受け継いでるけどね」米沢上杉家「ウチも元を正せば越後のただの土豪」
肥後細川家は細川京兆家とはほぼ無関係レベルの傍流だから名前を受け継いだとは言い難い。米沢上杉は謙信が正式に山内上杉の名跡を継いでいるから歴とした元関東管領家よ。(米沢上杉の通字「憲」は山内上杉の通字)
越後守護代家がただの土豪なら徳川家はどうなってしまうんだ…
米沢上杉家を継いだ謙信は坂東八平氏の長尾家、ただの土豪では無いですよ。
@@Alpachi-trte02 三河の百姓、、、
米沢上杉よ、お前は元を正せば鎌倉出身の豪族だぞ
0:26 ここ分かり難いんですが、当時室町幕府は関東地方の統治機構として、鎌倉へ、鎌倉公方を配置しましした。鎌倉のプチ公方みたいな感じではないでしょうか。で、鎌倉公方にも管領がついたわけで、室町将軍についた訳ではありません。が、そこから力を付けた鎌倉公方が幕府と対立。戦国時代へと向かう訳ですね。
関東管領(上杉家)は鎌倉公方の家臣ではなく、室町幕府から任命されて鎌倉公方を補佐(という名目での幕府による監視)する役割でした。なので鎌倉公方が幕府に反抗しようとすると板挟みで苦労したようです。
@@reboot85 ああ、なるほど。てっきり殿家臣の関係かと思っていました。部長課長みたいな関係だった訳ですね。管領が公方に喧嘩売った訳も納得です。
@@maruten8387 自分も最近まで関東管領は鎌倉公方の家臣だと思い込んでいました。室町~戦国時代の関東の歴史をたどっていくと実はそんな関係だったのか、と最近わかりました。関東は騒乱が頻発して鎌倉公方、関東管領でも統治は困難でしたね。
みんな宗教に逃げたイメージだな
イメージ浅すぎ
上杉氏は?関東管領だったはずだぞ。
関東管領は関東管領だから。子会社の副社長くらい。本社の副社長とは比べ物にはならない。
@@イワモトノリアキ 室町幕府は義満の時代に三管四職が正式に定められていて三管は斯波・畠山・細川で序列も名前順、四職は赤松・一色・京極・山名、後に四職に伊勢・上杉・土岐が加えられて七頭と称されるようになる。上杉は三管領家と比べたら2〜3段格が下がる家柄で関東管領も管領と付いてはいるけど同格という訳ではなく、家格も権威も三管家より低い。
関東管領はあくまで鎌倉公方の内管領だからね室町幕府が本社だとしたら鎌倉公方は支社関東管領はそれを支える支社に属する支店だからランクは三管領や四職よりは落ちる
@@youyah7440内管領の意味わかってないね
Q:権力を握った後に起こることは何ですか?
(1)内紛 (2)内訌 (3)内輪揉め (4)内ゲバ
鎌倉北条氏が全部やってるやん
全部一緒やないか
畠山氏も総州家、尾州家に別れても畿内で大きな力を持ち最後の方まで存在感がある
家臣に定期的に乗っ取られたけど一応安土桃山まで生き残ったよね
@@youyah7440なんなら江戸時代以降も高家として残ってるからな
17分でこれだけ過不足なく纏められてるのは素晴らしいです。
最後の管領が細川高国である、と言われてるのが「次期将軍の烏帽子親(加冠役・名付け親)」がこの時期の管領の主な仕事になったからですね。
管領の役割が縮小したのは6代義教期に奉行人制度が整えられ幕政実務から管領家が手を引くことになったからです。
こんな解説は大好き。
斯波氏の惣領家である斯波武衛家(ぶえい)と細川氏の惣領家である細川京兆家(けいちょう)の字面のかっこよさは異常
武衛家は遠江奪還を達成してれば戦国大名になる可能性は普通にあった
吉兆家は政元が全ての元凶
@@ワールドクロック 京兆家は、、料亭にありそうだ、、
なんでや!畠山金吾家もかっこいいやろ!
畠山金吾さんって、探せば居そう、、金吾中納言とかで微妙に印象悪いが、、
@@yorksonoda 船◯吉兆…
またまたリクエストに応えていただきありがとうございます😭
起源まで遡って取り上げられててすごくわかりやすかったです!斯波なんて将軍とも張り合える家格だったのに家臣の家臣に仕えることになるなんてすごい盛者必衰ですよね…それでも明治まで生き残れたのはやっぱりそれだけの家格があってこそだったりしますよね!
秀吉と家康が名門好きだったのが大きいんじゃないかな。
信長が天下取ってたら昔の名前だけの役立たずはいらんって追放しそうだし。
@@ひろ-d3g 家康や秀吉の出自の弱さだったりするんでしょうかね、織田以上に心許ないからこそかつての名家を家臣扱いして自分の家格を上げるやり方をとったのかもしれないですね
要約:応仁の乱で斯波家と畠山家がゴチャゴチャもめて没落し、残った細川家がイキってたけどなんやかんやゴチャゴチャしてやっぱ没落する
そして子孫の細川護熙が一瞬だけ総理になって終わりか😅
@@坪裕之 違うよ〜。子孫じゃない。調べてみてくれ
要約しても結局ゴチャゴチャして没落するww コメ主の抜群のセンスを感じますww
細川藤孝が細川氏か三淵氏出自不明確だけど三淵氏の出だと足利将軍家の末裔になる。そしてその場合も義満か義持か不明確。
@@坪裕之
細川護熙の家系は細川刑部家
管領細川京兆家の傍流ではあるけど
細川藤孝が養子だから子孫ではない。
つまり
斯波・畠山・細川「俺ら全員衰退してかつての力は亡くなったけど戦国の世はなんとか生き延びたぜ!」ってこと?
斯波は一応生き残りが織田信雄に仕えたね
内通疑われて殺されたけど
@@わっふるかろまろ
斯波家は分家の分家の最上家が水戸黄門の家老をしたり、交代寄合として存続は一応してますね。
畠山家も高家としてなら。
細川家は、細川忠興公が色々あって細川宗家を継承し、明治より先も後はご存じの通り現代版の管領とも言える首相に就いたりと。
分家の生き残りとかが一番多いんだね。
@@長野業正-j9l 五摂家筆頭の近衛家(近衛文麿の家)の現当主は肥後細川家からの養子で細川護熙の兄ですね。家格としてはだいぶ盛り返したのかも。
@@長野業正-j9l細川忠興が宗家(京兆家?)を継承したってどこ情報?
斯波氏分家筋だと最上とか大名でしたが…
最上氏は「ウチは元々斯波氏だし斯波氏は本来足利氏の嫡流だったンだぜ」って思ってたろうな……
斯波氏の分家大崎氏の分家最上氏
騒動さえ起こさなければ仙台藩に次ぐ雄になれたのに
肥後熊本藩54万石(内閣総理大臣も輩出)は細川の傍流🙄
@@吉村信一郎-k7jまあ本物の細川じゃないから京兆家達とはほぼ無関係なんだけどね
細川藤孝の三淵氏説が有力になってるからね。
畠山氏なんてこれだけ何度も滅亡を繰り返して良く存続したよなあ
@@essauouo5251
まあ、あれだけ大きい勢力と歴史を持っていれば、その分だけ、数多くの分家や血縁が増えますからね。
そういった積み重ね?が有れば、いくら本家や有力分家が衰退しようが滅びようが、その度に他の分家が跡を継ぐから意外と存続するもんです。
現に細川家も、分家の分家の和泉半国守護の家系だった幽斎公と忠興公のお陰で、何とか有力大名として存続出来ましたし。
斯波家も江戸時代初期までは、分家の最上家が大大名として残りましたしね。
解りやすい解説勉強になります。解説動画などで俯瞰で室町時代を知ると武家政権の過渡期であることが理解できます。こんなに頻繁に所領の拡大縮小を繰り返していたら現地の人々はたまったもんじゃないですね。一体だれが領主なのか、そうなると現地に根付いている守護代や代官が実権を握るのも当たり前の話。
管領職が自然消滅したってのは勉強になった。
いつの間にか消えていて???だったので言及してくれて良かったです。
秋田の家老になった細川さん、大大名になった傍系をどう感じていたのか興味沸きます。でもそれを受け入れるのが武家なんでしょうね。
@@lexusis4486
宗家の地位もその熊本の傍系が引き継いだので、寧ろ宗家の負担や面倒毎だけでなく、引き渡した際に何かしら譲られたり都合を付けて貰っていた筈。
なので対外的にはいざ知らず。寧ろ内部的に大分得したのでは無いかと。
@@長野業正-j9l そうだったんですか、返信ありがとうございます。個人的(自分的、宗家の地位を譲った方)に知りたくなりました。また歴史沼にはまりそうです。((笑)
@@lexusis4486
軽くしか知りませんが、父である幽斎と政治的に対立したか何かあったのが要因で細川宗家を継いだ筈。
元々、幽斎は足利義昭が京を追われた以後に長岡姓に改めていたのも要因だった筈。
熊本の細川氏は厳密には傍系じゃないですよ。宇多源氏大原氏流になってて、清和源氏源義家流の細川京兆家とはもはや別の家です。
畠山家の行く末は全く知りませんでした。
畠山尾州家も能登畠山家も華族にはなれなかったようですね
鎌倉が吹っ飛んだ、爆風〜〜〜ってギャグ思い出したわ
幕府自体がアレだったので管領とかホントにポっと出落ちで「覚える価値ある?」くらいのモンでしたが、結構辿れるんですねぇ。
歴史好きだが、この頃の流れは複雑過ぎて····
頭が混乱する。
細川藤孝(幽斎)が実は本家とは全く血縁が無いという皮肉・・
最近の新説だが本当かね?確か近江佐々木氏の一族の出とか。
だとしたら源氏は源氏でも清和ではなく宇多源氏じゃない。
苗字が同じでも、違う細川だったんだ、知らんかった😮
まあそうで無くとも幽斎には、昔から義輝・義昭の腹違いの兄説ってのも昔からありはしましたが。
@@長野業正-j9l
足利義晴落胤説ですね。もし本当なら義昭以降途絶えた足利嫡流が細川氏で残ったことになりますね。
平清盛の白河法皇落胤説みたいなものか。
昔、日経新聞の私の履歴書に細川護熙元首相の父護貞氏が細川藤孝は足利義晴の隠し子と言われていると記してあった記憶がある。
尚、
最上家もそもそも
斯波家を出自と
していたはずだし、
二本松家もそもそも
畠山家を出自と
していたはずだ。
細川は管領は落ちたが分家は、熊本藩か……………本家より分家が生き残るね。斯波氏も目立つの分家だね。😔
「管領」というのを知ったのは、NHK人形劇「新八犬伝」に出てきた
「関東管領扇谷定正(上杉定正)」だった
大人になって調べたら、
定正は関東管領ではなかったでござる。
こん時の関東管領は上杉顕定でござろう。
定正の扇谷上杉を圧倒してブイブイ言わせてたが、最後は謙信の父ちゃんに殺されてしまうのも哀れなり。
上杉憲政、上杉謙信が関東管領を承継してないと北条は主張してました。
@@lexusis4486
古河公方足利晴氏と氏綱女と婚姻が成立した際に氏綱が関東管領に任じられ、後継の氏康も管領に任じられることが前提でいたところ、追われた憲政が景虎に管領職を譲渡の上、養子とした。(上杉政虎誕生)
氏康は北条に上杉憲政共々敵対し敗れ、秦野に押し込められた晴氏の後継に己が姉妹の産んだ義氏を公方に立てており、憲政の行為は勝手に憲政がやった事として無視。
文書では以降も「長尾」と書き(対する上杉側も「伊勢」だが)、また政虎サイドの立てた公方、義氏異腹の兄の藤氏も認めず後に捕らえて処刑してる。
正式に政虎(もう輝虎だけど)の管領職を認めたのは甲相駿同盟崩れた後、越相和与の際。代わりに義氏も正式に公方として承認された。
「我こそは玉梓が怨霊」どろろろろって、登場するの記憶に残ってる😱
四職につけた家のその後も知りたいですね
@@kenta-z3e
良いね。
自分も見たいです
@@kenta-z3e
少なくとも赤松家は分家筋の有馬家が、久留米藩20万石の国持ち(待遇)存続しました。
一色家は矢張り分家筋のうち、三河や甲斐の一族がた譜代大名や親藩枠で存続しました。
有名所だと武田旧臣の土屋、松山藩久松(家康異父弟の家系で松平アナもその一族)家です。他の幾つかの家も譜代大名に。
山名家は山名豊国が没落後も努力し、家康から故郷但馬国で一郡を賜り。その子孫が明治の際の高直しで村岡藩1万石として大名に返り咲きました。
@@長野業正-j9l
保守右派界隈に一色さんという有識者の方がいらっしゃるけど、何か関係有るのかな。ペンネームの可能性もあるけど。
複雑すぎて結局なんだったのか分からない応仁の乱。知名度だけはたかい。
なんだかんだあっても家格が凄いから残るんだよな
名門の血筋は江戸幕府の高家になっているんじゃないか?
@@アメアメフレフレ
畠山は両統とも高家ですね。
斯波家の分家の分家、最上氏も交代寄合です。
細川家は宗家の地位を忠興公が継いだので、違いますが。
@@長野業正-j9l宗家の地位はずっと京兆家のものだけどね
「下剋上」とはいっても名門家は絶やさず残そうっていう動きは三英傑共通してあったんだな。
まあ名門家の保護を通して自身の権威付けを目指す打算はあっただろうけど。
秀頼さんも意地を捨てて義理の祖父や父を頼って江戸に住めば
豊臣という名を明治まで残せたかもしれないのにな。
秀吉は自身の出自の低さから彼らを下に置くことで虚栄心を満たせたし、家康は彼らを下に置くことで徳川の権威を高めることに
@@marutou3693
故に、喜連川家は国持ち(待遇)大名として存続し。
明治でもちゃっかり子爵になっていますが。
戦国時代は力が全てと思いがちだが、権威付けもかなり重要だからな。三英傑に限らず、実力でのし上がった大名に共通する悩みだったと思う
@@lkappsa6575 一番血筋が卑しい秀吉は関白という最高の権威手に入れたけど
それでも島津は鎌倉以来の名門のうちがいくら関白といえど秀吉なんかに頭下げられるかなんて手紙送っちゃってるな。
織田になら頭下げてもいいと思ってたらしく
織田や徳川みたいな小領主出身でも武家は武家ってことなのかな。
七頭のうち
江戸大名に残れたのは山内上杉家と京極だけ?
@@とろろいも-i5k 血統的に繋がってるのは京極だけかな。
山内上杉は血族としては絶えてるから京極だけが生き残ったことに
ただ京極は大名としては一旦浅井に乗っ取られて滅亡しているから残ったうちに入るのかな?
系譜的でいいんだよ
謙信が継いだから有名なだけで
佐竹とか他氏からの養子で継いでる家なんていくらでもあるから
養子含めるならそう
ただ、細川管領家分家は大名になった→熊本藩主細川家
あの細川刑部少輔家は細川京兆家の分家じゃないんだけどね
血筋的に無関係
細川家の場合は分家の分家の細川忠興が宗家の地位を継いでた様な気が。
宗家も何も滅亡したから細川一門の代表格に自然となったというか
@@youyah7440
まあ、後は大方日本各地で散り散りになった細川一門の面倒を見たり支援をしてたと言うか、大大名だからやる羽目になったんでしょうね。
名門出ない蜂須賀家でさえ、阿波統治も含めた政治的な面があるとはいえ。
長い間、堺公方の子孫の面倒を見る羽目になりましたし。
まあ。隣の山内家も、旧主織田伊勢守一族の面倒を見ていましたが。
そんな事実はない
細川は短くしてもわけわからんくなる
畠山家の内紛がひどすぎる
むしろ内紛起こしてない守護大名がほぼないという
今川だって花倉の乱で家督争い起きてるし
大内だって家督相続時の内紛は定期イベントだし
南朝史観の明治になって足利に戻したのは悪手だわなあ。喜連川家もだけど。
喜連川は徳川に遠慮してただけ。
細川藤孝は傍系に養子で入ってよく家を盛りたてたよな。京都らしい。
まあ戦国時代末期だったんで
細川管領家の血筋が熊本細川家になっただよな。
熊本細川家は熊本細川家開祖のキリシタンガラシャの血筋を途中から取り潰し恐れて、藩士にして細川管領家宗家の血筋からの養子縁組みしたからな。
血筋で宗家に分家がつかえる形に戻したいで幕府も文句言えなかったからな。
そもそも肥後細川氏(藤孝の末裔)は本物の細川氏じゃないから京兆家とは別の一族なんだけどね
末裔が天下をとったけどな
肥後細川氏は宇多源氏大原氏流で、細川京兆家は清和源氏源義家流だから全然別の家ですよ。
@@名無し-q6y5w 紛らわしい家は結構戦国時代にはいますね。
関東の北条(ほうじょう)家と長尾家家臣の北条(きたじょう)さんとか
若狭武田と甲斐武田とか
細川ってあの首相が出た熊本の藩主だった細川家とは別物なんですかね
ほぼ別物と言って差し支えないほど血筋が遠い。
信長時代まで政略結婚繰り返しているから、熊本細川と管領細川は信長時代までいがいに血筋は近い。
あの時代の鎌倉武士は近い血筋で血筋残すために敵対勢力につかえるをまともにやったのが細川家だからな。
しかも細川ガラシャの血筋隠すために江戸時代に管領細川家から養子縁組みしているから、細川家開祖から3代目ぐらいから管領家細川の血筋のほうが強くなる。
家は遠いが血筋はちかくなる
細川の名乗りを許された一族に養子として入ったらしいから細川の血は入ってないっぽい。まあこういう場合どこかで細川家から嫁を迎えて血は入れるが。
甲斐武田家と安芸武田家くらい遠いですね。
管領を務めた細川家と熊本細川家は本家と分家の関係だから遠い親戚くらいの関係ですね。まあ養子とか迎え入れてるから別物と言う人もいるでしょうが。
執事と管領の違いがよく分かってなかったけど、武衛家のプライドのために作ったわけね。
違うぞ
何も分かってないまんまじゃん
結論。戦国時代の元凶は室町幕府。争いしかしてねえw
そりゃ元々は足利氏を担ぎ上げた一門達による連合政権だしね
お互いの優位性を争って200年
@@youyah7440連合政権説はもう否定されてるぞ
熊本の細川護煕氏の家系は?
別の血筋だから京兆家には関係ない
なお、元武衛家こと津川家は足利義輝の子とされる尾池家共々熊本藩に転がり込んだとされる
また熊本藩主家細川家は徳川幕府から「屋形」号を認可されず、細川一族だから毛利家や上杉家、伊達家みたいに「屋形」号認可とはならなかった
落ちぶれたかつて繁栄を極めた一族の末路ってのは興味深い。
細川氏は護熙さんを経て継続中、首相にもなったね、唯一の大名格(幽斎は養子だが)
この家系は本流ではないとは意外でしたな
肥後熊本藩の細川家は、管領家の分家。
@@二見裕司-r6t さん
本家じゃないんだ
幽斎や忠興公がでないわけだ
細川の本流どころか細川藤孝は細川淡路守護家出身で全く関係ない佐々木源氏から改名したということが分かっていましてなあ
細川藤孝は足利義輝の頃に細川姓を名乗った別の家の者らしいです。
@@user-fn3112ux4t陸奥守家だそうです。
信長の妹・お犬?信秀のネーミングセンスも中々…
細川護熙までやるのかと
そいつは清和源氏の細川氏とは血筋的に無関係だからね
みんな源氏なのになあ
細川家は庶流が天下を取りました
細川晴元って物語によっては黒幕じみた書き方されるけど養子なのね
物語の話を歴史の話に持ち出すのはNG
北条家にも内管領がいたが?
主家に殉じただけマシな長崎氏
@@youyah7440 ただ得宗家の内管領は得宗家すら蔑ろにする風が有って、、結果他の御家人の幕府からの離反を招いてるからね、、
内管領ってそも正式な役職じゃないからね
まーたぬるっと消えてるー
細川家は宗家と有力な支流が没落したけど、分家出身の細川藤孝が立身して大大名になって末裔が首相になるんだから歴史は面白いな
キリシタン細川ガラシャの血筋隠すために3代目か4代目から管領宗家から養子縁組みして細川家つがせるから熊本細川家は宗家の血筋つよいが、家は分家というややこしい形している。
細川家開祖の細川ガラシャの血筋のほうが藩士家の血筋になり、血筋上は宗家に分家がつかえるのを江戸時代途中からしている。
まあ清和源氏の細川氏と藤孝(宇多源氏、なんなら三淵氏の養子だから宇多源氏ですらない出自不明)の細川氏は別物だけどね
斯波氏はなまじ勢力があったものだから運営(幕府)からナーフされた悲しき存在
分家同士が仲良くないから衰退したとか言わない特に越前
一応女系は米沢藩の重臣で残った
細川幽斎とは違う家なのか
本家たる吉兆家の分家の分家の和泉守護細川氏の出自
@@youyah7440
ありがとうございます
分家の分家と
@@Gekitakubaibai
ものすごくややこしくなりますが
細川藤孝自身は和泉上守護細川出身の三淵晴員の子であり、藤孝の姓である細川は
和泉上守護細川の細川ではなく、室町将軍により細川の苗字が与えられた佐々木氏流大原氏の
人物が細川氏に養子になっているので家は赤の他人の細川、血は管領家細川の遠縁という
@@youyah7440
なんと
そんなに、ややこしいとは
@@Gekitakubaibai
そもそも藤孝の出身ともいうべき和泉上守護細川も室町初期に活躍した細川頼之の弟から派生したので戦国時代には細川一門とは言っても150年以上前に枝分かれしたのでとりあえず一門くらいの認識でしょうね
読み上げが速くて理解が追い付かないから、再生速度を一段遅くしたら聞きやすくなった
ちょっと速いよね
栄枯盛衰
三管領と四職で、大名の地位にいれたのって、京極だけじゃない???
細川の傍流が熊本藩、
赤松の傍流の有馬家が久留米藩として幕末まで存続してますね。
山名は旗本寄合なので大名ではありませんが、領地はもっていたようです。
細川管領家の血筋が途中から、熊本大名家になった。
信長時代に勢力結婚で本家と分家は血が繋がっていて、細川開祖の細川ガラシャの血筋はキリシタン疑い恐れて途中から藩士にして、細川管領宗家からの養子を藩主にしましたからね。
血筋上の本家に分家がつかえる形に細川は江戸時代途中からしましたからね。
山名は交代寄合村岡領から明治時代前に一万石以上と認定され大名になりました。
細川→分家の分家筋の細川藤孝系統が熊本藩
斯波→分家の最上が出羽山形の大大名になったけど早くに改易
畠山→みんな崩壊し高家としてなんとか生き残り、だけど大名じゃない
赤松→分家筋の有馬氏が久留米藩として九州でも指折りの大名に
京極→浅井に乗っ取られたけど徳川と縁戚になってギリッギリ復活、ただし本家は改易
山名→大名としては滅亡したけど交代寄合としてそこそこ繁栄し、明治維新後に大名認定
一色→本能寺の変でドサクサに細川忠興に滅ぼされる
肥後細川家「一応名前だけは受け継いでるけどね」
米沢上杉家「ウチも元を正せば越後のただの土豪」
肥後細川家は細川京兆家とは
ほぼ無関係レベルの傍流だから
名前を受け継いだとは言い難い。
米沢上杉は謙信が正式に山内上杉の
名跡を継いでいるから
歴とした元関東管領家よ。
(米沢上杉の通字「憲」は山内上杉の通字)
越後守護代家がただの土豪なら徳川家はどうなってしまうんだ…
米沢上杉家を継いだ謙信は坂東八平氏の長尾家、ただの土豪では無いですよ。
@@Alpachi-trte02 三河の百姓、、、
米沢上杉よ、お前は元を正せば鎌倉出身の豪族だぞ
0:26 ここ分かり難いんですが、当時室町幕府は関東地方の統治機構として、鎌倉へ、鎌倉公方を配置しましした。
鎌倉のプチ公方みたいな感じではないでしょうか。で、鎌倉公方にも管領がついたわけで、
室町将軍についた訳ではありません。
が、そこから力を付けた鎌倉公方が幕府と対立。戦国時代へと向かう訳ですね。
関東管領(上杉家)は鎌倉公方の家臣ではなく、室町幕府から任命されて鎌倉公方を補佐(という名目での幕府による監視)する役割でした。なので鎌倉公方が幕府に反抗しようとすると板挟みで苦労したようです。
@@reboot85
ああ、なるほど。
てっきり殿家臣の関係かと思っていました。
部長課長みたいな関係だった訳ですね。
管領が公方に喧嘩売った訳も納得です。
@@maruten8387 自分も最近まで関東管領は鎌倉公方の家臣だと思い込んでいました。室町~戦国時代の関東の歴史をたどっていくと実はそんな関係だったのか、と最近わかりました。
関東は騒乱が頻発して鎌倉公方、関東管領でも統治は困難でしたね。
みんな宗教に逃げたイメージだな
イメージ浅すぎ
上杉氏は?関東管領だったはずだぞ。
関東管領は関東管領だから。
子会社の副社長くらい。
本社の副社長とは比べ物には
ならない。
@@イワモトノリアキ
室町幕府は義満の時代に三管四職が
正式に定められていて
三管は斯波・畠山・細川で序列も名前順、
四職は赤松・一色・京極・山名、
後に四職に伊勢・上杉・土岐が加えられて
七頭と称されるようになる。
上杉は三管領家と比べたら2〜3段
格が下がる家柄で
関東管領も管領と付いてはいるけど
同格という訳ではなく、
家格も権威も三管家より低い。
関東管領はあくまで鎌倉公方の内管領だからね
室町幕府が本社だとしたら鎌倉公方は支社
関東管領はそれを支える支社に属する支店
だからランクは三管領や四職よりは落ちる
@@youyah7440内管領の意味わかってないね