Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
隣から聞こえる「バイバイ」「頑張れよ!」などのセリフがなんだかジーンとする…
函館出身です。修学旅行、就職活動、就職で上京。国鉄時代の青函連絡船にはたくさんお世話になりました。見送る事も見送られる事も両方経験いたしました。離岸の時、初めは真横にそして舳先が徐々に角度が変わって行き、見送る寂しさや旅立つワクワク感を味わったものです。東京で働いていた時の帰省は時間短縮で飛行機を利用しましたが、辞職し北海道に帰る時はあえて上野から寝台特急に乗り時間をかけて青函連絡船で北海道に帰ってまいりました。トンネル工事が青森と北海道と繋がっていましたので。連絡船が廃止される事がわかっておりました。連絡船の銅鑼や汽笛。海の匂い。上野駅の上野〰️上野〰️のアナウンス雑踏の匂い。40年ほど昔の思い出です。懐かしさに胸がいっぱいになりました。ありがとうございました。
生まれて初めて一人旅を許された、高校一年生の夏休み、初めて乗った青函連絡船が羊蹄丸でした。あの時のワクワク感は、一生忘れられません。本州とは明らかに違う空気を、函館で感じた事を、今でも思い出します。良い時代でした。
宇高連絡船も青函連絡船も、地続きでない所と、時間がかかるのがいいんですよね。違う島に来たという気持ちのスイッチがいれかわるんですよね。「あー楽しかったなー」とか思い返してみたり。無駄ではない時間ですね。
見送りの方の「ガンバレよ!」と声を掛けいてるのにドラマを感じました。
これ超貴重映像やで!映像文化遺産みたいのないの?てか、なんやこの郷愁感は…
貴重な動画ありがとう 道民と内地の間には、しょっぱい川がありますからね。頑張れ!って声に私も涙が
羊蹄丸は青函博を支える臨時運航においても就航した為、十和田丸と共に実質上の青函連絡船最終運航の任に就いたのですが、自分は運良く臨時運航の最終日に乗船する事が出来ました。北海道の秀峰の名を借りたこの船に乗り津軽海峡上での十和田丸との最後の行き交いを見られた事を初めとして生涯忘れ得ぬ思い出を貰いました。
連絡線と函館どっく、そして蛍の光が流れる所は哀愁感じました。
ある夏の夜、桟橋で涼みがてら青函連絡船を待っていた時、誰かが飛行機が落ちたと騒ぎ始め、日航機事故を知りました。それが俺の青函連絡船の最後の思い出です。
非常にいい映像ですね子供の頃、修学旅行で乗りました。駅から連絡船までの通路がやたら長かった記憶があります。高橋英樹さんが船長役をやったサスペンスドラマがありましたね。今のフェリーにはこの哀愁感無いんですよねぇ•••
列車から降りたら、お袋さんと連絡船🚢迄、桟橋を走った記憶があります~本当に懐かしい映像です!
70年代後半、学生時代に上野と函館を往復するときに何度も乗船した。懐かしいな。
釧路駅から函館駅まで、キハ30系で摩周丸で青森へはつかり乗り換えで上野駅。うえの〜うえの〜うえの〜が、記憶に残る😌
いろいろな物語を感じます。沢山の人々の生きてきた証。大切な人生の1ページです。青函連絡船には。
貴重な映像をありがとうございます。作業の手際の良さがわかります。
ワイらが桟橋で、父を待っていた時、階下ではもんのすごいことやってたんですね。これはすごい。
米軍の戦闘機により撃沈された第4青函丸が、函館沖3キロの海底で見つかった。亡くなった57人の乗客と殉職した船員の、ご冥福を祈ります。
別れ際が泣ける。。
寒い国だからこそ 尚!淋しさや哀愁感がはんぱないよね
親父が遠洋漁業船団の船乗りで、出発は川崎だったが帰りは函館入港だったので小学校入るまでは、毎年10月には往復で使っていました。小学校、中学校は修学旅行は北海道だったし、最初の社員旅行も北海道。軽く二桁は利用しましたし、思い出がいっぱいあります。青函連絡船が終了するときは、最後の思い出に土曜日の夜に出発、函館到着後、駆け足で函館観光をして、日曜の午後発、青森行きの連絡船に乗りJRで夜中に地元に帰ると言う弾丸ツアーを決行。今は、青函トンネルがありますが、やはり船旅はよかったです。
Thanks for upload this video of a historic important peace of japanese railroad system in the past!
青函連絡船に一度乗って見たかったです。廃止された年でもまだ小学生でしたので一人旅もできなかったです。
たくさんの控え車が活躍していた良い時代でした『ヒ』マニアには嬉しい画像有り難うございました
ちなみに桟橋の可動橋に機関車の重量を掛けないようにするための工夫です。『ヒ』型控え車はそのための必須アイテム的な車両です。
なぜか羊蹄丸の機会が多かったですね。定期便で最後に乗ったのは下り最終便の八甲田丸でした。
4回乗船しました。高校修学旅行の時に乗ったのが印象に残ってます。昭和62年です。翌年は廃止でしたから。
この貨物の積み込みの時間のかかりっぷりと積み込める量のすくなさからすると、トンネルを掘って大正解だったと思う。
下手に大型化できなかったからなぁ~(;´д`)
青森に展示してある青函連絡船が一番オリジナルに近い雰囲気ですね
こんだけの重量のせて、タグボートなしで離岸できるのがやはりすごいなー。
タグボートあったけどなぁ😉
87年ですか、オートバイも載せてくれてので函館から利用しました、オートバイ預けの所が丁度この作業の桟橋の目の前の所で対応が駅員ではなくて現場の陸上作業の職員さんだったです、最後の夏は滅茶苦茶混んでたのは印象的です。羊蹄丸は今は都内の桟橋で展示されてますが改装されて船内の面影があまりまりませんでした。
♪ぬ~す~ん~だば~い~く~では~し~りだ~す~
あれだけ複雑な作業に対して、職員の方々の素早く手慣れた様子が伺えますね。所で後部車両甲板ハッチって閉めないのですね。
アラフィフのおやじです。この船に、一度、乗りたかった。
いやぁ懐かしいです。JRマークの連絡船でしたか!自分はJNRの八甲田丸でしたよ。旧函館駅の乗船するための連絡通路っていうんですか?けっこう長いんですよね。
水曜どうでしょうの画に見えるな。今にもミスターと大泉さんが掛け合い始めそうな映像だ
民営化直後のものですね。JR社員として働いてる姿、羨ましいです。
この動画の年の春に国鉄分割民営化。翌年3/13に定期運航終了。JR北海道ロゴを掲げた運行再末期の動画だ。撮影された1年4ヶ月後には平成元年だもんなぁ...
最終航行に乗りました❗
どこかの模型メーカーから1/700ウォーターラインで青函連絡船の模型を出してくれないかな
羊蹄丸、お台場の海浜公園にありました。近くのホテルに泊まるので朝の散歩の時に必ず見かけてます。残念ながら中には入ったことはありません。羊蹄丸、大雪丸など学生のときよくお世話になりました。当時は周遊券で帰郷したりしましたし。今は昔!
これですね!貨物入れ専用貨車。なるほど機関車が桟橋に入らずにすんでますね。先日見て来ました。
控え車のことでしょう(^-^)ちなみに形式は『ヒ300型』です。
一度は乗るべきでした、後悔!
時代は海からトンネルへ
八甲田丸、十和田丸、大雪丸、摩周丸。
船長さん、皆さん、長い間ご苦労さんですね。次の日からは、失業貰って、新たな出発をした方も居ますね。現役の船長さん、コロナに掛からないように、気を付けてますか?ベル銅鑼を聞くと、中華料理の開店時間見たいで、こちらもお腹グーと、なります。外国で、活躍してる、連絡船頑張ってるね。外国の人や、日本人に、沢山人を乗せて、楽しませてよ!!!
船長シリーズ出てました。
髪型や雰囲気、船の錆に懐かしさを感じます。普通に本州に渡るのに使っていた気取りがないところがいいと思います。
不便な方がロマンがある
隣から聞こえる「バイバイ」「頑張れよ!」などのセリフがなんだかジーンとする…
函館出身です。
修学旅行、就職活動、就職で上京。
国鉄時代の青函連絡船にはたくさんお世話になりました。
見送る事も見送られる事も両方経験いたしました。
離岸の時、初めは真横にそして舳先が徐々に角度が変わって行き、見送る寂しさや旅立つワクワク感を味わったものです。
東京で働いていた時の帰省は時間短縮で飛行機を利用しましたが、辞職し北海道に帰る時はあえて上野から寝台特急に乗り時間をかけて青函連絡船で北海道に帰ってまいりました。
トンネル工事が青森と北海道と繋がっていましたので。
連絡船が廃止される事がわかっておりました。
連絡船の銅鑼や汽笛。
海の匂い。
上野駅の上野〰️上野〰️のアナウンス
雑踏の匂い。
40年ほど昔の思い出です。
懐かしさに胸がいっぱいになりました。
ありがとうございました。
生まれて初めて一人旅を許された、高校一年生の夏休み、初めて乗った青函連絡船が羊蹄丸でした。
あの時のワクワク感は、一生忘れられません。
本州とは明らかに違う空気を、函館で感じた事を、今でも思い出します。
良い時代でした。
宇高連絡船も青函連絡船も、地続きでない所と、時間がかかるのがいいんですよね。違う島に来たという気持ちのスイッチがいれかわるんですよね。「あー楽しかったなー」とか思い返してみたり。無駄ではない時間ですね。
見送りの方の「ガンバレよ!」と声を掛けいてるのにドラマを感じました。
これ超貴重映像やで!映像文化遺産みたいのないの?
てか、なんやこの郷愁感は…
貴重な動画ありがとう 道民と内地の間には、しょっぱい川がありますからね。頑張れ!って声に私も涙が
羊蹄丸は青函博を支える臨時運航においても就航した為、十和田丸と共に実質上の青函連絡船最終運航の任に就いたのですが、自分は運良く臨時運航の最終日に乗船する事が出来ました。北海道の秀峰の名を借りたこの船に乗り津軽海峡上での十和田丸との最後の行き交いを見られた事を初めとして生涯忘れ得ぬ思い出を貰いました。
連絡線と函館どっく、そして蛍の光が流れる所は哀愁感じました。
ある夏の夜、桟橋で涼みがてら青函連絡船を待っていた時、誰かが飛行機が落ちたと騒ぎ始め、日航機事故を知りました。
それが俺の青函連絡船の最後の思い出です。
非常にいい映像ですね
子供の頃、修学旅行で乗りました。
駅から連絡船までの通路がやたら長かった記憶があります。
高橋英樹さんが船長役をやったサスペンスドラマがありましたね。
今のフェリーにはこの哀愁感無いんですよねぇ•••
列車から降りたら、お袋さんと連絡船🚢迄、桟橋を走った記憶があります~本当に懐かしい映像です!
70年代後半、学生時代に上野と函館を往復するときに何度も乗船した。懐かしいな。
釧路駅から函館駅まで、キハ30系で
摩周丸で青森へ
はつかり乗り換えで上野駅。
うえの〜うえの〜うえの〜
が、記憶に残る😌
いろいろな物語を感じます。
沢山の人々の生きてきた証。大切な人生の1ページです。
青函連絡船には。
貴重な映像をありがとうございます。作業の手際の良さがわかります。
ワイらが桟橋で、父を待っていた時、階下ではもんのすごいことやってたんですね。これはすごい。
米軍の戦闘機により撃沈された第4青函丸が、函館沖3キロの海底で見つかった。亡くなった57人の乗客と殉職した船員の、ご冥福を祈ります。
別れ際が泣ける。。
寒い国だからこそ 尚!淋しさや哀愁感がはんぱないよね
親父が遠洋漁業船団の船乗りで、出発は川崎だったが帰りは函館入港だったので小学校入るまでは、毎年10月には往復で使っていました。
小学校、中学校は修学旅行は北海道だったし、最初の社員旅行も北海道。
軽く二桁は利用しましたし、思い出がいっぱいあります。
青函連絡船が終了するときは、最後の思い出に土曜日の夜に出発、函館到着後、駆け足で函館観光をして、日曜の午後発、青森行きの連絡船に乗りJRで夜中に地元に帰ると言う弾丸ツアーを決行。
今は、青函トンネルがありますが、やはり船旅はよかったです。
Thanks for upload this video of a historic important peace of japanese railroad system in the past!
青函連絡船に一度乗って見たかったです。
廃止された年でもまだ小学生でしたので一人旅もできなかったです。
たくさんの控え車が活躍していた良い時代でした『ヒ』マニアには嬉しい画像有り難うございました
ちなみに桟橋の可動橋に機関車の重量を掛けないようにするための工夫です。
『ヒ』型控え車はそのための必須アイテム的な車両です。
なぜか羊蹄丸の機会が多かったですね。定期便で最後に乗ったのは下り最終便の八甲田丸でした。
4回乗船しました。高校修学旅行の時に乗ったのが印象に残ってます。昭和62年です。翌年は廃止でしたから。
この貨物の積み込みの時間のかかりっぷりと積み込める量のすくなさからすると、トンネルを掘って大正解だったと思う。
下手に大型化できなかったからなぁ~(;´д`)
青森に展示してある青函連絡船が一番オリジナルに近い雰囲気ですね
こんだけの重量のせて、タグボートなしで離岸できるのがやはりすごいなー。
タグボートあったけどなぁ😉
87年ですか、オートバイも載せてくれてので函館から利用しました、
オートバイ預けの所が丁度この作業の桟橋の目の前の所で対応が駅員ではなくて現場の陸上作業の職員さんだったです、最後の夏は滅茶苦茶混んでたのは印象的です。
羊蹄丸は今は都内の桟橋で展示されてますが改装されて船内の面影があまりまりませんでした。
♪ぬ~す~ん~だば~い~く~では~し~りだ~す~
あれだけ複雑な作業に対して、職員の方々の素早く手慣れた様子が伺えますね。
所で後部車両甲板ハッチって閉めないのですね。
アラフィフのおやじです。この船に、一度、乗りたかった。
いやぁ懐かしいです。JRマークの連絡船でしたか!
自分はJNRの八甲田丸でしたよ。
旧函館駅の乗船するための連絡通路っていうんですか?
けっこう長いんですよね。
水曜どうでしょうの画に見えるな。
今にもミスターと大泉さんが掛け合い始めそうな映像だ
民営化直後のものですね。
JR社員として働いてる姿、羨ましいです。
この動画の年の春に国鉄分割民営化。翌年3/13に定期運航終了。
JR北海道ロゴを掲げた運行再末期の動画だ。
撮影された1年4ヶ月後には平成元年だもんなぁ...
最終航行に乗りました❗
どこかの模型メーカーから1/700ウォーターラインで青函連絡船の模型を出してくれないかな
羊蹄丸、お台場の海浜公園にありました。近くのホテルに泊まるので朝の散歩の時に必ず見かけてます。残念ながら中には入ったことはありません。
羊蹄丸、大雪丸など学生のときよくお世話になりました。
当時は周遊券で帰郷したりしましたし。
今は昔!
これですね!貨物入れ専用貨車。なるほど機関車が桟橋に入らずにすんでますね。先日見て来ました。
控え車のことでしょう(^-^)
ちなみに形式は『ヒ300型』です。
一度は乗るべきでした、後悔!
時代は海からトンネルへ
八甲田丸、十和田丸、大雪丸、摩周丸。
船長さん、皆さん、長い間ご苦労さんですね。次の日からは、失業貰って、新たな出発をした方も居ますね。現役の船長さん、コロナに掛からないように、気を付けてますか?ベル銅鑼を聞くと、中華料理の開店時間見たいで、こちらもお腹グーと、なります。外国で、活躍してる、連絡船頑張ってるね。外国の人や、日本人に、沢山人を乗せて、楽しませてよ!!!
船長シリーズ出てました。
髪型や雰囲気、船の錆に懐かしさを感じます。普通に本州に渡るのに使っていた気取りがないところがいいと思います。
不便な方がロマンがある