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義経逃亡ルートと同様‥家康伊賀越サポート伝承は地域にとって貴重です。
いつも楽しく動画見せていただいてます。奈良の王寺にある聖徳太子ゆかりの達磨寺には家康が伊賀越えの際、かくまってもらったと言われていて家康の書状や江戸時代、徳川家より石高持ったと資料が残ってます。これがご縁で徳川歴代の将軍の位牌などが、残ってます。良かったら行ってみてください。この王寺の達磨寺には、信貴山城で爆死した松永久秀のお墓もあります。
曽爾村資料があるようで曽爾村の案内でこの山抜け伊賀へ行ったと聞いてたので大和ルートだと思ってましたよ!
梅雪がおとりに。あまいな。家康から、消された可能性だって、たかいのに
あるいは「一緒に逃げては共倒れになりかねない。二人とも生き残れば御の字だがどちらか1人が討たれた場合は遺された家族や家臣たちは生き残った者が責任を持って面倒をみる」という密約があって家康と梅雪は別ルートを選んだのかも。
梅雪が家康だー!と言ってオトリになってやったんじゃないんかな?
さすがよく勉強されてるなー。まっちゃんの浅い知識。主に大河ドラマの影響そのままとは、違う。源氏じゃないと将軍なれないとか、秀吉は将軍なれないから、仕方なく、超難関。より高位の関白になったとか、源平交代論とか、小牧長久手で、秀吉負けたとか、徳川史観まるだしの歴史感と違う。さすがです
ドッチナンダイッ!松ケンさんの本多正信が役としても役者としても頼もしいから楽しみですね!
以前の大河の「真田丸」での伊賀越えの描写がコミカルで面白かった。個人的には突発的に起こった本能寺の変であったが、堺から事件現場に近い宇治田原までわざわざ行くかな?と思う。情報が少なかっただろうが、京・本能寺で事態が起こったということは分かっていたのだろうから、堺⇒大和経由じゃないのかな。また、後年、天海となった光秀が江戸幕府のブレーンになったという説もあるくらいだから、元々家康と光秀は相応の仲だったと思われるので、伊賀越えは在地の野伏りや落ち武者狩り連中への用心はともかく、光秀から逃げていたとは感じない。何なら本能寺の変勃発時は既に三河に帰り着いていたのではと。
影武者使ってどちらかでも生き残ればいいやって感じでしょだから両方とも真実というのが正解な気がする
歴史の勝者が歴史を改変するのは世の常。神君伊賀越えとして有名な話なのに、詳細はよくわからないとか、穴山梅雪死後も配下が召し抱えられているとかから考えれば、家康は梅雪に対してかなり後ろ暗い事があるのだろうなと😅
本能寺の変後、家康が伊賀越えをしていたとは知りませんでした色んな説が出ている中、穴山梅雪が死んだことだけは明らかなのも面白いですよね
え?それぞれの大河ドラマで家康を扱かった中では有名な出来事だよ。
今回の武士道さんの推察通りにストーリーが進みましたね❗️流石、武士道さん👍読みが深い😆
そういえば大久保忠隣って、まだどうする家康には出てないのか。葵徳川三代で、石田太郎さんが演じた忠隣は忠誠心溢れるいいキャラだった
大和ルートは郡山に明智の盟友筒井順慶がいるのでちょっと考えにくく、また甲賀近くの近江日野が信長配下の蒲生氏郷の所領、伊勢の亀山以東が神戸信孝の所領であることを考えると宇治田原まで大回りしてリスクを減らした、というのは分からない話では無いです
今週の大河で百地三太夫が登場して、どのように絡むのか楽しみです
筒井順慶は明智光秀に近かったと言われがちですが、筒井家の跡継ぎの定次は織田信長の娘と結婚しています(異説あり)。なので家康が筒井の勢力が及ぶ大和を通ったことは利にかなっていると思います。
家康の妹市場姫が織田信長の養女となって筒井順慶に嫁いだようです。順慶が亡くなったあと、筒井紀伊守(順斎、順慶の養子)の妻のなったのか、『徳川実紀』には市場姫の死の記事があり、そのときの夫は筒井紀伊守です。いずれにしても、大和の筒井家は家康を助けたと思われます。ただ、それは豊臣秀吉の嫌うことですので、あえて吹聴、自慢する話ではなかったという話です。
まあどのルートだったにせよ全力で押し通ったに違いない。
影武者チームが 別ルートを 歩いたんだろうな・・・
そのとおりだと思います。そのため、通説ルートと大和越えルートが残ったのだと思います。
堺から、海路での帰還は、難しかったのでしょうか❓
家康は大和→伊賀ルート梅雪は宇治田原→伊賀ルートをそれぞれ目指したけど、梅雪は失敗したのでは?梅雪はハイリスクだけど距離的に近いパターン、痔を患っていたそうですし、遠回りはしたくなかったから、「俺はこっち行くわ」ってなったのかな?と予想します。
理論
穴山のあ兄、退場は残念やな忍者のカッコイイところ見たい!
こんにちわ!武士道さん!いつもわかりやすい説明有難うございます。伊賀越え服部半蔵どのように得嗅がれるのか!?穴山梅雪一緒に行動してたら助かったかも?ドラマでも描かれるのか?本田正信松ケンさんがてでくるのか楽しみです。
どちらかは影武者の通ったルートなんじゃないでしょうか?本人は当然ですが、影武者だとしても無事に帰還できれば協力してくれた人達に報奨を出すのは当然ですし、どの伝承にも嘘は無い事になるのかなぁっと
本願寺宗主顕如の右筆である石川主水が書いた『石川主水日記』には、家康が京都に向かったのは「計略」だと書かれています。そもそも光秀のいる京都方面に逃げるわけがありません。逃げるふりをしただけです。それが影武者を使った陽動隊だったと考えると話が合います。
ところが図で示される大和路は、当時不安定だっただろう地域であり街道整備も遅れており、そして、何よりも道が険しい。
大和の領主筒井順慶の妻は家康の妹で織田信長の養女・市場姫だった(金松誠『筒井順慶』)とすれば、大和は危険ではありません。堺から続く竹内街道(日本遺産)は古代の国道1号線と呼ばれるほど古くから整備された道で、伊賀に続く初瀬街道(伊勢神宮への道)に続きます。初瀬街道は途中(橿原市)まで藤原京に続く横大路という官道です。街道整備が遅れているというのは当たらないと思います。
大和郡山に明智光秀の寄騎の筒井順慶がいるよね?本能寺の変直後で、自分が明智に狙われていたら、大和路を行くかネェ~?逆に大和路を行ったのなら、明智・筒井と内通していたとも、考えられないかな?😊
堺なら、南下して泉佐野から東進、紀ノ川沿いをさらに東進すれば明智勢とは距離が開く。確か、高野山近辺は信長公に世話になった侍が、出家して勤めている寺が幾らかあったはず。そこで中継ぎ休みはできるだろう。本能寺の変が6月とは言え、これは旧暦で、現在の洋式に換算すると5月の二周目位の時期。早朝出立しても、まだ周囲は星空の下で、気付かれにくいだろう。もし現在の6月だったら、家康公一同は雷雨の中を移動せざるを得なかっただろう。
順慶の妻は家康の妹市場姫だったという記録があります。順慶は内緒で家康を助けたと思われます。それが、『徳川家康文書の研究』に載せられている大和越えに対する家康感状に順慶の名も見えるのも、その表れだと思います。
竹内峠は堺と大和を結ぶ大昔からの道。わざわざ宇治に行くのは不自然。伊賀を抜けた後、白子を目指したのはその当時港があったから。途中鈴鹿サーキットの横を通り抜けただろう。白子から知多半島に向かったと小学校で聞いた。危険な半島回りをしていないと思う。
その通りだと思います。
母方の先祖が家康公を岡崎へ逃す為の道案内をしたという伝承が残ってます。後日家光公からのお礼状とみつば葵の紋章入りのお盃を頂戴したようです。
影武者がいて、両方のルートで世話になった人には褒美を与えたとか?
大和の竹内峠で家康を助けた竹村道清は石見銀山奉行、弟の嘉理は佐渡奉行に出世しています。
自分ならわざわざ京都に近寄るような宇治田原ルートは避ける京都に展開している明智軍と少しでも距離を置きたいなら大和ルート大和には明智と親しい筒井がいるがそこは一か八かの賭け
筒井順慶の妻は家康の妹・市場姫だったとすれば、大和は光秀に近い山城・信楽より安全です。信長が可愛がっていた鷹が大和方面に逃げましたが、それを大和の越智玄蕃が見つけ、信長から褒美をもらった記事が『信長公記』にあります。家康に同行する長谷川秀一はそれを知っていますし、逆に越智玄蕃を頼ろうとするでしょう。返信
紀州藩の参勤交代は大和の高見峠を越えるルートを使っている。御三家の参勤交代に使うには険しい山道だが、家康の伊賀越えを偲んだのかもしれないね。
今年って大河主役経験者の登板が多過ぎな気がするんですが、気のせいですかね?官兵衛にお松に清盛に韋駄天、、、他にも居そうな
当時の人は家康本人の顔分からないし言い伝えの1ルートだけでなく家臣分けて影武者立てたりしたのでは?
そのとおりだと思います。家康の警護には透波という忍の者が陰で警護していたと思われます。敵方の諜報に、いかに家康本人がいると見せかけることが重要だったと思います。
明智の近い筒井領を通り伊賀を斜め横断する大和ルートはまず無いかなって思うけどね宇治田原も甲賀から3ルートあるのでその辺りの考察も宜しくお願いします確か家康からの礼状が甲賀側にかなりの数残ってるはずです
金松誠氏の『筒井順慶』(戎光祥出版)によると、筒井順慶の妻は家康の妹・市場姫で織田信長の養女になってから嫁いだみたいですよ。光秀との関係はともかく、順慶が家康を助ける理由は存在していたことが知られていません。
伊賀で服部党と合流👍👍
その服部党とは、服部中保次です。伊賀越えの功績で鉄砲同心50人を預けられ、子の保正は2000石の旗本になります。ちなみに服部中保次の働きを書いた伊賀者由緒はすべて大和越えを書いています。
伊賀越えは楽しみでもあるけど、本多正信がまた帰ってくるのでそっちの方が注目ですね😊伊賀越えはどうにかして家康が逃げると思うので対して気にしてないw
アニメ「ねこねこ日本史」は5年前に『治要録』を使って描いていました。同じNHKなだけあって、大河ドラマと内容や時期がリンクしていましたね。
堺の妙國寺で活動しておられるボランティアの方たちは、妙國寺の『治要録』がベースになったことを喜んでおられます。
令和ならフェリーで行きたいところやねw
単車で大阪から法隆寺、天理経由で山越え、そして伊賀まで阪奈道路で行くだけでも、起伏のアップダウンは大変なものです。それが「本能寺の変」以後、急ぎ小走りでも山越えとなると、単車移動に比べると100万倍の労力でも足るかどうか?伊賀経由で、ようやく東海の西端に及び、この辺で漸くリスクがやや収まる程度だったのでしょう。
堺の妙國寺は竹内街道に続いています。旧道の竹内街道はジグザグしていますがなだらかです。堺から国境の竹内峠までは18㌔弱(『河内志』)ですから、馬で行くと何でもないと思います。『譜牒余録』によると、峠を越えたところにある大和の長尾村で、家康を迎えに来た吉川に褒美として馬を与えたことが記されています。ちなみに日本馬はサラブレッドより脚は遅いですが、山道には強いことは実証されています。
穴山なんて家康が殺したんでしょバレなけりゃ穴山の親族だって判りゃしない
「どうする家康」でやる前に先手を打つとは、流石の武士道さん(笑)
半年ぐらい前に何処かの放送局で家康一行は信楽からそのまま伊賀に入らずにもう少し北から回って柘植(伊賀の東端)に入ったようなことを放送していました。伊賀越えは伊賀回避なのかもしれません。
妄想してみます。スタートの時点で家康の敵は光秀。光秀と戦える戦力が無いので絶望的な戦いであったことでしょう。なので、逃げの一手。当時の情勢で最も安全な経路を通りたい。堺衆に伝手がある。丹羽は四国攻めのための船を用意しているため借り受けることが出来るなど、海路が最も安全だったと思われます。商人に身を窶したなどの情報も商船に乗り込んだ可能性を示唆します。当代きっての有能な敵を相手にするためにあらゆる手段を講じて、情報操作を行った。このため色々な情報が錯綜している。家康が商人に紛れて逃げたことを恥じているなら、同行した武将たちにも真相を隠させ、ダミーの情報だけが後世に残ってしまった。梅雪は囮役を買って出たのでは無いでしょうか。だからこそ子孫が優遇されていると。
影武者がいたらどっちも本当かもね、まあいるでしょう歴史の中に隠れた家康の弟とか甥っ子とか
どちらのルートでも明智の勢力圏通るのよね・・・京都方面に向かうと明智軍が展開してる可能性高そうですし大和路方面だと筒井家がいますが南の方に迂回してというのは意外といけるんじゃないかなぁとは思いますね
金松誠氏の『筒井順慶』(戎光祥出版)によると、筒井順慶の妻は家康の妹・市場姫で織田信長の養女になってから嫁いだみたいですよ。光秀との関係はともかく、順慶が家康を助ける理由は存在していたことが知られていません。南には信長の逃げた鷹を見つけて褒美をもらった越智玄蕃がいますよ。家康に同行していた長谷川秀一は、信長の側近ですから越智を頼ることは考えられることです。
どうする家康では嶋田久作さんが出てきますよね。怖そう😱味方じゃ無かったら絶対ムリ😱って感じですね
伊賀の魔人か…
@@Landius0228 殿再度、明治時代に転生し、地脈を操り帝都を作り変えるのだ。www
「逃げるぞ」と話してる背景に南蛮船。あれで浜松まで送ってもらえばよかったのに
真田丸だと「海賊に襲われるからまずい」って家康自身がそのルートを否定してた実際そのルートがまずかったのかは分からないけど
愛知県では、知多半島横断説が有力です(三河物語)。家康のいとこが住職を務めていた半田市の常楽寺などに記録があります。
研究者が比較的信用性が高いとする『石川正西聞見集』は大和越えを書き、知多半島上陸説です。『寛政重修諸家譜』の酒井重忠の項には、家康を船で迎えに行ったと書かれていますが、大浜から白子までいったとは考えがたく、おそらく知多半島を横断した家康を迎えに行ったと考える方が現実的です。ちなみに酒井重忠の項には、家康は大和から伊賀を馬で駆け抜けたと書かれていますから、『石川正西聞見集』と『寛政重修諸家譜』の酒井重忠項は両立します。
穴山ロンダリングな展開かなあ
ノベライズで伊賀越え読みました。感想を一言で表すと「おい半蔵」でした
私見ですが、伊賀越えは2方向が有力だと思っています。理由としては2つまずは第一は家康自体の命の安全、第二は政変をいち早く三河に伝える事。その両方を行うとしたら2方向で行くのがいいかと推察します。第一の理由で梅雪が影武者的に明智領にも近く情報がまわっていて道留めの危険もあるかもですが時間的に早い宇治田原ルート。家康は京又は明智領から遠く情報がまだ届いてない初瀬街道辺りを西に進み名張あたりから北上し伊賀への大和ルート。さらに言えば梅雪は元々武田家から内通していたので明智への返り忠をうたがったのかもですね。影武者なら家康になりきっているのであちこちに伝承があっても不思議ではないですし、家康の疑りをよそに梅雪は捕らえられ忠義から時間を稼ぐ為に切腹した可能性もあると思います。家康公の神格化から部下を犠牲に生き残った的な伝承はまずかったんではないでしょうか?第二の理由は単純に最悪どちらかでも三河にたどり着いたら情報が伝わり備えられますからね。中国大返しの例もあるように当時は情報伝達速度が非常に大事だったと思います。三日という日にちと鈴鹿辺りの山越えを考えると滅茶苦茶遠回りしたという事はかんがえにくいですね。
まったくその通りです。宇治の槇島城主は井戸良弘ですが、その息子の治秀は光秀の娘を妻としています。井戸良弘は街道や舟運の管理をしていますから、家康一行が山城南部を通ることは、思われいる以上に危険なことです。慎重な家康がそんな博打をするとは思えません。
伊賀越え見るの楽しみ
前回の穴山梅雪の家康にちょい挨拶がかなり死亡フラグたってましたね笑歩き巫女はでてくるのでしょうか楽しみ
説は家康の影武者としたら、解決してしまうのでは?また堺から家康は船で帰った説は何故無いのでしょう?不思議です。
船の方こそ危険で遠回りです。「海道一の馬乗り」とも称された家康にとっては馬で駆け抜ける方がよほど早く帰国できます。将軍秀忠が江戸城から馬で家康のいる駿府城まで185㌔を一昼夜で走った記録が残っています。問題は馬を用意できるか、誰が道案内するかですが、もし地元衆が協力すれば、馬の方が早く安全ということになります。
『真田丸』の「絶対に笑ってはいけない伊賀越え」がインパクトありすぎて……本作だとあんまり汚れないかなあ。
あれで、脚本の三谷幸喜先生が、如何にして家康を「ヘタレ家康」に成らしめるかがバレバレすぎて笑えました。で、最終回の「大坂夏の陣」でも、思いっ切り真田幸村公を立てまくり、家康を徹して「ビビリ大公」にする。当時、「幸村公がイケすぎているwww。」と思いました。
起点の位置は大阪を示しており堺の位置はもっと南です。正しい堺の位置から考えると、まっすぐ東に進むと大和・伊賀となります。宇治山田は堺を起点とした場合、かなり遠廻りとなりますので、個人的には大和ルートが現実的かな~と思います。あくまで想像ですが、、、
家康が泊まっていた堺の妙國寺は竹内街道(日本遺産)のすぐそばにあります。堺から竹内峠まではわずか18㌔です。
大和ルート初めて知りました。面白いですね。大和ルートを通った場合の多羅尾光俊と甲賀衆がどのタイミングで助けたのかも気になりますね。案外、伊賀越えとは関係無く別件で多羅尾氏は家康に仕えたのかも知れない。
資料によってルートが様々だったり、現地に沢山の逸話が残っているのは、影武者を用いたからではと、あまり歴史に詳しくない歴史好きな私なりの考えです。
本願寺の日記『宇野主水日記』には「計略」、家康に同行した木俣守勝の「自記」には「謀略」という言葉が見えます。
どうする家康の、伊賀越えの、話楽しみじゃあ、さあいつ、松山ケンイチさんの、正信さんが、家康さんとこに、かんばっくするかな❓楽しみより、ワクワクかんありそう🐰🐯
堺にいて、わざわざ光秀の膝元の宇治田原を経由するかなあ?とは思いますね。
穴山梅雪を〇害してから家康は逃げたんだよ。じゃないとなぜ死んだ場所がわからないのか理由が説明できない落ち武者狩りがもし打ち取っていたら惣村の有力者に報告が行くはず
『石川忠総留書』乾では草内の私の手前(京田辺市)、同坤では伊賀国、『徳川実紀』では宇治田原あたり、妙國寺の『治要録』や伊賀者由緒では大和、梅雪の死んだ場所は4カ所もあります。
先日、伊賀越えの通説ルートでそのまま岡崎、更には浜松までまでバイクでツーリングしてきました。目的はドラマ館巡り山も多く、さらに当時は道も今ほど整備されてる事もなく、この距離を敵にに襲われるかも知れないと言う状況で乗り越えるなんて本当にすごいと思いました。御斎峠は特に厳しい道のりでした。真夏のツーリング的には、四日市から岡崎の日中の渋滞が一番辛かったですが。
私も他の動画で知ったのですが、最近の研究では”神君伊賀越え”は史実ではなく創作であり、服部半蔵も参加していないとされています。もちろん、家康が三河に戻ったのは史実ですが、そこにかなりの脚色が入っているというわけです。3代将軍家光の頃までは記載がなく、8代吉宗の頃から見られるそうです。その理由は、この時代新設の御庭番で伊賀者を多く採用したので、そのイメージアップ戦略であり、半蔵はそのシンボルにうってつけだったからです。秀吉の政策により伊賀から追放され浪人となった伊賀者が、仕官を求め徳川家に入り服部半蔵の下伊賀同心となるも、服部家が改易されて徳川家との繋がりが薄い故に、かつての逃避行を伊賀越えとして創作することによって、自らの地位の基盤強化を図った。歴史を敢えて捏造する理由が、己の地位向上、昔からの忠実な家臣というイメージ操作にある典型ですね。そして、それが真実とされ、幕末の”徳川実紀”にも記載されるようになったという経緯だそうです。動画やこのコメント欄でも言われているように、家康の本隊と別働隊が分かれて進んだのは、敵の目をくらますための陽動作戦でしょうね。まあ、史実はどうあれ、ドラマ中ではクライマックスとも言える”伊賀越え”楽しみですね。本多正信の再登場!やっとですね!!長かったなあ!嬉しい!💝💕
まずは、家康公一同の三河入りを見届けましょう。本日令和5年7月30日(日)、地上波、BS2、オンデマンドをお楽しみに。
石川正西聞見集は「イシカワショウセイケンブンシュウ」ではなく「イシカワショウサイブンケンシュウ」と読むのではと思われます。ま、大した問題では無いのかもしれませんが(^^)
家康自身は日記を書いていないんですか?
秀吉が紀州征伐を行うまで、紀州には反織田勢力が根付いていることや、船はスピードが天候に左右されること、そもそもあの混乱のなかで迅速かつ安全に渡航できる船を用意できるのか?など色々考えると、陸路のほうがリスクはあるけど確実だったんでしょう。
馬手配して駆け抜けたんじゃ
義経逃亡ルートと同様‥家康伊賀越サポート伝承は地域にとって貴重です。
いつも楽しく動画見せていただいてます。奈良の王寺にある聖徳太子ゆかりの達磨寺には家康が伊賀越えの際、かくまってもらったと言われていて家康の書状や江戸時代、徳川家より石高持ったと資料が残ってます。これがご縁で徳川歴代の将軍の位牌などが、残ってます。良かったら行ってみてください。この王寺の達磨寺には、信貴山城で爆死した松永久秀のお墓もあります。
曽爾村資料があるようで曽爾村の案内でこの山抜け伊賀へ行ったと聞いてたので大和ルートだと思ってましたよ!
梅雪がおとりに。あまいな。
家康から、消された可能性だって、たかいのに
あるいは「一緒に逃げては共倒れになりかねない。二人とも生き残れば御の字だがどちらか1人が討たれた場合は遺された家族や家臣たちは生き残った者が責任を持って面倒をみる」という密約があって家康と梅雪は別ルートを選んだのかも。
梅雪が家康だー!と言ってオトリになってやったんじゃないんかな?
さすがよく勉強されてるなー。まっちゃんの浅い知識。主に大河ドラマの影響そのままとは、違う。源氏じゃないと将軍なれないとか、秀吉は将軍なれないから、仕方なく、超難関。より高位の関白になったとか、源平交代論とか、小牧長久手で、秀吉負けたとか、徳川史観まるだしの歴史感と違う。さすがです
ドッチナンダイッ!松ケンさんの本多正信が役としても役者としても頼もしいから楽しみですね!
以前の大河の「真田丸」での伊賀越えの描写がコミカルで面白かった。
個人的には突発的に起こった本能寺の変であったが、堺から事件現場
に近い宇治田原までわざわざ行くかな?と思う。
情報が少なかっただろうが、京・本能寺で事態が起こったということ
は分かっていたのだろうから、堺⇒大和経由じゃないのかな。
また、後年、天海となった光秀が江戸幕府のブレーンになったという
説もあるくらいだから、元々家康と光秀は相応の仲だったと思われる
ので、伊賀越えは在地の野伏りや落ち武者狩り連中への用心はともか
く、光秀から逃げていたとは感じない。何なら本能寺の変勃発時は既
に三河に帰り着いていたのではと。
影武者使ってどちらかでも生き残ればいいやって感じでしょ
だから両方とも真実というのが正解な気がする
歴史の勝者が歴史を改変するのは世の常。
神君伊賀越えとして有名な話なのに、詳細はよくわからないとか、穴山梅雪死後も配下が召し抱えられているとかから考えれば、家康は梅雪に対してかなり後ろ暗い事があるのだろうなと😅
本能寺の変後、家康が伊賀越えをしていたとは知りませんでした
色んな説が出ている中、穴山梅雪が死んだことだけは明らかなのも面白いですよね
え?それぞれの大河ドラマで家康を扱かった中では有名な出来事だよ。
今回の武士道さんの推察通りにストーリーが進みましたね❗️
流石、武士道さん👍
読みが深い😆
そういえば大久保忠隣って、まだどうする家康には出てないのか。
葵徳川三代で、石田太郎さんが演じた忠隣は忠誠心溢れるいいキャラだった
大和ルートは郡山に明智の盟友筒井順慶がいるのでちょっと考えにくく、また甲賀近くの近江日野が信長配下の蒲生氏郷の所領、伊勢の亀山以東が神戸信孝の所領であることを考えると宇治田原まで大回りしてリスクを減らした、というのは分からない話では無いです
今週の大河で百地三太夫が登場して、どのように絡むのか楽しみです
筒井順慶は明智光秀に近かったと言われがちですが、筒井家の跡継ぎの定次は織田信長の娘と結婚しています(異説あり)。なので家康が筒井の勢力が及ぶ大和を通ったことは利にかなっていると思います。
家康の妹市場姫が織田信長の養女となって筒井順慶に嫁いだようです。順慶が亡くなったあと、筒井紀伊守(順斎、順慶の養子)の妻のなったのか、『徳川実紀』には市場姫の死の記事があり、そのときの夫は筒井紀伊守です。いずれにしても、大和の筒井家は家康を助けたと思われます。ただ、それは豊臣秀吉の嫌うことですので、あえて吹聴、自慢する話ではなかったという話です。
まあどのルートだったにせよ全力で押し通ったに違いない。
影武者チームが 別ルートを 歩いたんだろうな・・・
そのとおりだと思います。そのため、通説ルートと大和越えルートが残ったのだと思います。
堺から、海路での帰還は、難しかったのでしょうか❓
家康は大和→伊賀ルート
梅雪は宇治田原→伊賀ルートをそれぞれ目指したけど、梅雪は失敗したのでは?
梅雪はハイリスクだけど距離的に近いパターン、痔を患っていたそうですし、遠回りはしたくなかったから、「俺はこっち行くわ」ってなったのかな?と予想します。
理論
穴山のあ兄、退場は残念やな
忍者のカッコイイところ見たい!
こんにちわ!武士道さん!いつもわかりやすい説明有難うございます。伊賀越え服部半蔵どのように得嗅がれるのか!?穴山梅雪一緒に行動してたら助かったかも?ドラマでも描かれるのか?本田正信松ケンさんがてでくるのか楽しみです。
どちらかは影武者の通ったルートなんじゃないでしょうか?
本人は当然ですが、影武者だとしても無事に帰還できれば協力してくれた人達に報奨を出すのは当然ですし、どの伝承にも嘘は無い事になるのかなぁっと
本願寺宗主顕如の右筆である石川主水が書いた『石川主水日記』には、家康が京都に向かったのは「計略」だと書かれています。そもそも光秀のいる京都方面に逃げるわけがありません。逃げるふりをしただけです。それが影武者を使った陽動隊だったと考えると話が合います。
ところが図で示される大和路は、当時不安定だっただろう地域であり
街道整備も遅れており、そして、何よりも道が険しい。
大和の領主筒井順慶の妻は家康の妹で織田信長の養女・市場姫だった(金松誠『筒井順慶』)とすれば、大和は危険ではありません。堺から続く竹内街道(日本遺産)は古代の国道1号線と呼ばれるほど古くから整備された道で、伊賀に続く初瀬街道(伊勢神宮への道)に続きます。初瀬街道は途中(橿原市)まで藤原京に続く横大路という官道です。街道整備が遅れているというのは当たらないと思います。
大和郡山に明智光秀の寄騎の筒井順慶がいるよね?
本能寺の変直後で、自分が明智に狙われていたら、大和路を行くかネェ~?
逆に大和路を行ったのなら、明智・筒井と内通していたとも、
考えられないかな?😊
堺なら、南下して泉佐野から東進、紀ノ川沿いをさらに東進すれば明智勢とは距離が開く。確か、高野山近辺は信長公に世話になった侍が、出家して勤めている寺が幾らかあったはず。そこで中継ぎ休みはできるだろう。本能寺の変が6月とは言え、これは旧暦で、現在の洋式に換算すると5月の二周目位の時期。早朝出立しても、まだ周囲は星空の下で、気付かれにくいだろう。
もし現在の6月だったら、家康公一同は雷雨の中を移動せざるを得なかっただろう。
順慶の妻は家康の妹市場姫だったという記録があります。順慶は内緒で家康を助けたと思われます。それが、『徳川家康文書の研究』に載せられている大和越えに対する家康感状に順慶の名も見えるのも、その表れだと思います。
竹内峠は堺と大和を結ぶ大昔からの道。わざわざ宇治に行くのは不自然。
伊賀を抜けた後、白子を目指したのはその当時港があったから。途中鈴鹿サーキットの横を通り抜けただろう。
白子から知多半島に向かったと小学校で聞いた。危険な半島回りをしていないと思う。
その通りだと思います。
母方の先祖が家康公を岡崎へ逃す為の道案内をしたという伝承が残ってます。後日家光公からのお礼状とみつば葵の紋章入りのお盃を頂戴したようです。
影武者がいて、両方のルートで世話になった人には褒美を与えたとか?
大和の竹内峠で家康を助けた竹村道清は石見銀山奉行、弟の嘉理は佐渡奉行に出世しています。
自分ならわざわざ京都に近寄るような宇治田原ルートは避ける
京都に展開している明智軍と少しでも距離を置きたいなら大和ルート
大和には明智と親しい筒井がいるがそこは一か八かの賭け
筒井順慶の妻は家康の妹・市場姫だったとすれば、大和は光秀に近い山城・信楽より安全です。信長が可愛がっていた鷹が大和方面に逃げましたが、それを大和の越智玄蕃が見つけ、信長から褒美をもらった記事が『信長公記』にあります。家康に同行する長谷川秀一はそれを知っていますし、逆に越智玄蕃を頼ろうとするでしょう。
返信
紀州藩の参勤交代は大和の高見峠を越えるルートを使っている。御三家の参勤交代に使うには険しい山道だが、家康の伊賀越えを偲んだのかもしれないね。
今年って大河主役経験者の登板が多過ぎな気がするんですが、気のせいですかね?官兵衛にお松に清盛に韋駄天、、、他にも居そうな
当時の人は家康本人の顔分からないし言い伝えの1ルートだけでなく家臣分けて影武者立てたりしたのでは?
そのとおりだと思います。家康の警護には透波という忍の者が陰で警護していたと思われます。敵方の諜報に、いかに家康本人がいると見せかけることが重要だったと思います。
明智の近い筒井領を通り伊賀を斜め横断する大和ルートはまず無いかなって思うけどね
宇治田原も甲賀から3ルートあるのでその辺りの考察も宜しくお願いします
確か家康からの礼状が甲賀側にかなりの数残ってるはずです
金松誠氏の『筒井順慶』(戎光祥出版)によると、筒井順慶の妻は家康の妹・市場姫で織田信長の養女になってから嫁いだみたいですよ。光秀との関係はともかく、順慶が家康を助ける理由は存在していたことが知られていません。
伊賀で服部党と合流👍👍
その服部党とは、服部中保次です。伊賀越えの功績で鉄砲同心50人を預けられ、子の保正は2000石の旗本になります。ちなみに服部中保次の働きを書いた伊賀者由緒はすべて大和越えを書いています。
伊賀越えは楽しみでもあるけど、本多正信がまた帰ってくるのでそっちの方が注目ですね😊伊賀越えはどうにかして家康が逃げると思うので対して気にしてないw
アニメ「ねこねこ日本史」は5年前に『治要録』を使って描いていました。同じNHKなだけあって、大河ドラマと内容や時期がリンクしていましたね。
堺の妙國寺で活動しておられるボランティアの方たちは、妙國寺の『治要録』がベースになったことを喜んでおられます。
令和ならフェリーで行きたいところやねw
単車で大阪から法隆寺、天理経由で山越え、そして伊賀まで阪奈道路で行くだけでも、起伏のアップダウンは大変なものです。
それが「本能寺の変」以後、急ぎ小走りでも山越えとなると、単車移動に比べると100万倍の労力でも足るかどうか?
伊賀経由で、ようやく東海の西端に及び、この辺で漸くリスクがやや収まる程度だったのでしょう。
堺の妙國寺は竹内街道に続いています。旧道の竹内街道はジグザグしていますがなだらかです。堺から国境の竹内峠までは18㌔弱(『河内志』)ですから、馬で行くと何でもないと思います。『譜牒余録』によると、峠を越えたところにある大和の長尾村で、家康を迎えに来た吉川に褒美として馬を与えたことが記されています。ちなみに日本馬はサラブレッドより脚は遅いですが、山道には強いことは実証されています。
穴山なんて家康が殺したんでしょ
バレなけりゃ穴山の親族だって判りゃしない
「どうする家康」でやる前に先手を打つとは、流石の武士道さん(笑)
半年ぐらい前に何処かの放送局で家康一行は信楽からそのまま伊賀に入らずにもう少し北から回って柘植(伊賀の東端)に入ったようなことを放送していました。伊賀越えは伊賀回避なのかもしれません。
妄想してみます。スタートの時点で家康の敵は光秀。光秀と戦える戦力が無いので絶望的な戦いであったことでしょう。なので、逃げの一手。当時の情勢で最も安全な経路を通りたい。堺衆に伝手がある。丹羽は四国攻めのための船を用意しているため借り受けることが出来るなど、海路が最も安全だったと思われます。商人に身を窶したなどの情報も商船に乗り込んだ可能性を示唆します。当代きっての有能な敵を相手にするためにあらゆる手段を講じて、情報操作を行った。このため色々な情報が錯綜している。家康が商人に紛れて逃げたことを恥じているなら、同行した武将たちにも真相を隠させ、ダミーの情報だけが後世に残ってしまった。梅雪は囮役を買って出たのでは無いでしょうか。だからこそ子孫が優遇されていると。
影武者がいたらどっちも本当かもね、まあいるでしょう歴史の中に隠れた家康の弟とか甥っ子とか
どちらのルートでも明智の勢力圏通るのよね・・・京都方面に向かうと明智軍が展開してる可能性高そうですし
大和路方面だと筒井家がいますが南の方に迂回してというのは意外といけるんじゃないかなぁとは思いますね
金松誠氏の『筒井順慶』(戎光祥出版)によると、筒井順慶の妻は家康の妹・市場姫で織田信長の養女になってから嫁いだみたいですよ。光秀との関係はともかく、順慶が家康を助ける理由は存在していたことが知られていません。南には信長の逃げた鷹を見つけて褒美をもらった越智玄蕃がいますよ。家康に同行していた長谷川秀一は、信長の側近ですから越智を頼ることは考えられることです。
どうする家康では嶋田久作さんが出てきますよね。怖そう😱味方じゃ無かったら絶対ムリ😱って感じですね
伊賀の魔人か…
@@Landius0228 殿
再度、明治時代に転生し、地脈を操り帝都を作り変えるのだ。www
「逃げるぞ」と話してる背景に南蛮船。あれで浜松まで送ってもらえばよかったのに
真田丸だと「海賊に襲われるからまずい」って家康自身がそのルートを否定してた
実際そのルートがまずかったのかは分からないけど
愛知県では、知多半島横断説が有力です(三河物語)。
家康のいとこが住職を務めていた半田市の常楽寺などに記録があります。
研究者が比較的信用性が高いとする『石川正西聞見集』は大和越えを書き、知多半島上陸説です。『寛政重修諸家譜』の酒井重忠の項には、家康を船で迎えに行ったと書かれていますが、大浜から白子までいったとは考えがたく、おそらく知多半島を横断した家康を迎えに行ったと考える方が現実的です。ちなみに酒井重忠の項には、家康は大和から伊賀を馬で駆け抜けたと書かれていますから、『石川正西聞見集』と『寛政重修諸家譜』の酒井重忠項は両立します。
穴山ロンダリングな展開かなあ
ノベライズで伊賀越え読みました。
感想を一言で表すと「おい半蔵」でした
私見ですが、伊賀越えは2方向が有力だと思っています。理由としては2つまずは第一は家康自体の命の安全、第二は政変をいち早く三河に伝える事。その両方を行うとしたら2方向で行くのがいいかと推察します。第一の理由で梅雪が影武者的に明智領にも近く情報がまわっていて道留めの危険もあるかもですが時間的に早い宇治田原ルート。家康は京又は明智領から遠く情報がまだ届いてない初瀬街道辺りを西に進み名張あたりから北上し伊賀への大和ルート。さらに言えば梅雪は元々武田家から内通していたので明智への返り忠をうたがったのかもですね。影武者なら家康になりきっているのであちこちに伝承があっても不思議ではないですし、家康の疑りをよそに梅雪は捕らえられ忠義から時間を稼ぐ為に切腹した可能性もあると思います。家康公の神格化から部下を犠牲に生き残った的な伝承はまずかったんではないでしょうか?第二の理由は単純に最悪どちらかでも三河にたどり着いたら情報が伝わり備えられますからね。中国大返しの例もあるように当時は情報伝達速度が非常に大事だったと思います。三日という日にちと鈴鹿辺りの山越えを考えると滅茶苦茶遠回りしたという事はかんがえにくいですね。
まったくその通りです。宇治の槇島城主は井戸良弘ですが、その息子の治秀は光秀の娘を妻としています。井戸良弘は街道や舟運の管理をしていますから、家康一行が山城南部を通ることは、思われいる以上に危険なことです。慎重な家康がそんな博打をするとは思えません。
伊賀越え見るの楽しみ
前回の穴山梅雪の家康にちょい挨拶がかなり死亡フラグたってましたね笑
歩き巫女はでてくるのでしょうか
楽しみ
説は家康の影武者としたら、解決してしまうのでは?また堺から家康は船で帰った説は何故無いのでしょう?不思議です。
船の方こそ危険で遠回りです。「海道一の馬乗り」とも称された家康にとっては馬で駆け抜ける方がよほど早く帰国できます。将軍秀忠が江戸城から馬で家康のいる駿府城まで185㌔を一昼夜で走った記録が残っています。問題は馬を用意できるか、誰が道案内するかですが、もし地元衆が協力すれば、馬の方が早く安全ということになります。
『真田丸』の「絶対に笑ってはいけない伊賀越え」がインパクトありすぎて……
本作だとあんまり汚れないかなあ。
あれで、脚本の三谷幸喜先生が、如何にして家康を「ヘタレ家康」に成らしめるかがバレバレすぎて笑えました。
で、最終回の「大坂夏の陣」でも、思いっ切り真田幸村公を立てまくり、家康を徹して「ビビリ大公」にする。
当時、「幸村公がイケすぎているwww。」と思いました。
起点の位置は大阪を示しており堺の位置はもっと南です。
正しい堺の位置から考えると、まっすぐ東に進むと大和・伊賀となります。
宇治山田は堺を起点とした場合、かなり遠廻りとなりますので、
個人的には大和ルートが現実的かな~と思います。あくまで想像ですが、、、
家康が泊まっていた堺の妙國寺は竹内街道(日本遺産)のすぐそばにあります。堺から竹内峠まではわずか18㌔です。
大和ルート初めて知りました。面白いですね。
大和ルートを通った場合の多羅尾光俊と甲賀衆がどのタイミングで助けたのかも気になりますね。
案外、伊賀越えとは関係無く別件で多羅尾氏は家康に仕えたのかも知れない。
資料によってルートが様々だったり、現地に沢山の逸話が残っているのは、影武者を用いたからではと、あまり歴史に詳しくない歴史好きな私なりの考えです。
本願寺の日記『宇野主水日記』には「計略」、家康に同行した木俣守勝の「自記」には「謀略」という言葉が見えます。
どうする家康の、伊賀越えの、話楽しみじゃあ、さあいつ、松山ケンイチさんの、正信さんが、家康さんとこに、かんばっくするかな❓楽しみより、ワクワクかんありそう🐰🐯
堺にいて、わざわざ光秀の膝元の宇治田原を経由するかなあ?とは思いますね。
穴山梅雪を〇害してから家康は逃げたんだよ。じゃないとなぜ死んだ場所がわからないのか理由が説明できない落ち武者狩りがもし打ち取っていたら惣村の有力者に報告が行くはず
『石川忠総留書』乾では草内の私の手前(京田辺市)、同坤では伊賀国、『徳川実紀』では宇治田原あたり、妙國寺の『治要録』や伊賀者由緒では大和、梅雪の死んだ場所は4カ所もあります。
先日、伊賀越えの通説ルートでそのまま岡崎、更には浜松までまでバイクでツーリングしてきました。目的はドラマ館巡り
山も多く、さらに当時は道も今ほど整備されてる事もなく、この距離を敵にに襲われるかも知れないと言う状況で乗り越えるなんて本当にすごいと思いました。
御斎峠は特に厳しい道のりでした。
真夏のツーリング的には、四日市から岡崎の日中の渋滞が一番辛かったですが。
私も他の動画で知ったのですが、最近の研究では”神君伊賀越え”は史実ではなく創作であり、服部半蔵も参加していないとされています。もちろん、家康が三河に戻ったのは史実ですが、そこにかなりの脚色が入っているというわけです。3代将軍家光の頃までは記載がなく、8代吉宗の頃から見られるそうです。その理由は、この時代新設の御庭番で伊賀者を多く採用したので、そのイメージアップ戦略であり、半蔵はそのシンボルにうってつけだったからです。秀吉の政策により伊賀から追放され浪人となった伊賀者が、仕官を求め徳川家に入り服部半蔵の下伊賀同心となるも、服部家が改易されて徳川家との繋がりが薄い故に、かつての逃避行を伊賀越えとして創作することによって、自らの地位の基盤強化を図った。歴史を敢えて捏造する理由が、己の地位向上、昔からの忠実な家臣というイメージ操作にある典型ですね。そして、それが真実とされ、幕末の”徳川実紀”にも記載されるようになったという経緯だそうです。動画やこのコメント欄でも言われているように、家康の本隊と別働隊が分かれて進んだのは、敵の目をくらますための陽動作戦でしょうね。
まあ、史実はどうあれ、ドラマ中ではクライマックスとも言える”伊賀越え”楽しみですね。本多正信の再登場!やっとですね!!長かったなあ!嬉しい!💝💕
まずは、家康公一同の三河入りを見届けましょう。本日令和5年7月30日(日)、地上波、BS2、オンデマンドをお楽しみに。
石川正西聞見集は「イシカワショウセイケンブンシュウ」ではなく「イシカワショウサイブンケンシュウ」と読むのではと思われます。
ま、大した問題では無いのかもしれませんが(^^)
家康自身は日記を書いていないんですか?
堺から、海路での帰還は、難しかったのでしょうか❓
秀吉が紀州征伐を行うまで、紀州には反織田勢力が根付いていることや、船はスピードが天候に左右されること、そもそもあの混乱のなかで迅速かつ安全に渡航できる船を用意できるのか?など色々考えると、陸路のほうがリスクはあるけど確実だったんでしょう。
馬手配して駆け抜けたんじゃ