【深掘解説】古代豪族chapter-06「日子坐王 - 後編」【歴史解説】

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  • Опубликовано: 11 дек 2024

Комментарии • 46

  • @春野文博
    @春野文博 Месяц назад

    🌿実際的な構想、人間心理を基にした推測、先生自身が古代の国々を歩いておられるように感じました。🍀 に しても ややこしい神々の世界をよくぞ整理整頓されて、、。敬の一字です。🌼有り難うございました。

  • @ropewatanabe4864
    @ropewatanabe4864 2 года назад +8

    後編では、日子坐王と表記を変えておられ興味津々、視聴致しました。
    不可思議で妖しい輝きを放つ記紀の神々の世界が一層鮮やかに甦り、心地よい脳内刺激を
    受ける20分間でした。  日輪と水の王、農業王だったのでしょうか。
    淡海、三野を治めたと思われる日子坐王。若狭から越へ、西へは出雲、筑紫への日本海水運を
    抑え、豊かな水利活用で開墾殖産を勧めれば南大和を凌ぐ実勢を誇った事でしょう。
    ふと、お祀りされている地域は、淡海三野の分水地帯ではと思いました。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +5

      ご視聴ありがとう御座います!
      彦坐王から日子坐王に表記を変えたところに気付いて下さる方は少ないので、嬉しいです!
      日子坐王は古代史で最も興味のある人物です。
      彼こそ、ある意味「現人神」の元祖と言っても過言ではないお方なのではないかと思っています!

    • @御神誉黎
      @御神誉黎 Год назад +2

      日子坐王は古事記の表記で、彦坐王は日本書紀の表記でしょう。
      個人的にはやはり太陽信仰と結びついている名前ですから
      日子坐の方が正しいとは思います。
      もっと言えば、これ本当に個人の名前かなとか思ったりするな
      むしろ何かの役職の名前のような気もする。
      太陽神信仰をする一族の王を日子坐と呼んだとか、そんな感じもしますよ

  • @tawaman-kuwaman-miwakenin
    @tawaman-kuwaman-miwakenin 2 года назад +12

    今回も凄い納得がいく動画で面白かったです♪
    名前を覚えるのはなかなか難しいですがなぜだろうオケツヒメはスーッと頭に入ってきました笑

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +3

      いつもご視聴ありがとう御座います!!
      楽しんで頂けて良かったです!
      オケツヒメは耳に残りますよね笑
      現代に居たらきっとからかわれるに違いないです笑

  • @石山光介
    @石山光介 Год назад +4

    日子坐王と須佐之男命を重ね合わせるとは凄いですね。確かに日子坐王は不思議な人物です。古事記には系譜が多く書かれているようですが国書である日本書記には余り詳しい事は書いていないと記憶しています。もしかしたら本流たる大王家と勢力争いでもあったのかも?私は美真木入日子を実在した大王(部族国家の域を出ていないと思いますが・・)と思っていますので日子坐王も実在していたと思うと古代史は本当に面白い!また拝聴、勉強させていただきますね。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Год назад +3

      ご視聴ありがとう御座います!
      日子坐王は古代史でヤマト王権大王と同じくらい重要な人物だったのではないかと、僕個人では考えています。
      別に政府が隠しているとか、帝政時代のプロパガンダとかなどの陰謀論は全く関係なく、単純に研究が進んでいないだけだと思っています。
      日本の古代史も、もっと明確になってくると、もっともっと面白いのですが。
      こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします!

  • @16kuro5
    @16kuro5 2 года назад +6

    私の勉強不足もあるのでしょうが、他の歴史系、都市伝説系の動画よりもめちゃくちゃしっくりきます!!
    これからも、応援させていただきます^ ^

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +4

      ご視聴ありがとう御座います!
      こちらこそ、楽しんで頂けたようで嬉しいです!
      都市伝説にならないように気を付けています笑
      これからも自称リアルティ指向歴史チャンネルとして頑張ってゆきますので、応援よろしくお願いいたします!!

  • @nameko3
    @nameko3 2 года назад +6

    こうしてみると彦坐王も名前というよりは「ここに居りますのは正しく日の御子」といった意味合いの称号に思えますね。
    なぜか記述が少ないというのは詳細が分からないからというより、
    彦坐王の詳細を書くと都合が悪い勢力がいたのかな?と思ったりして、
    じゃあそれは誰だ?と考えるのも歴史の面白いところですね。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +3

      ご視聴ありがとうございます!
      僕も全く同意見です。
      もしくは日子坐王は、もっと強大な影の支配者だったのか。
      日子坐王だけで歴史書が書けますね笑
      まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をよろしくお願いいたします!

  • @tmjgp12872
    @tmjgp12872 2 года назад +2

    日子坐王の領域と前方後方墳のエリアが重なる気がするのですが。前方後方墳は山中に作られることも多く、日子坐王は山の民を統べていたのかとも思ったりします。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +2

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      なるほどですね。
      日子坐王の晩年の事業は三野開発ですし、息子たちは品野まで進んでいるので、分かります。
      僕的には日子坐王のルーツは海洋民で、徐々に山間部をフロンティア開発していったのではないかと考えたりしています。
      日子坐王の子孫たちも深掘りしていきたいですね!

    • @御神誉黎
      @御神誉黎 Год назад

      日子坐王の領域は、和爾・佐保・丹波・息長と広い範囲に渡りますからね
      大和朝廷黎明期にこのような連合があったのではないかとする学説は確かにあるそうです
      しかし狭穂彦王は和爾氏の武振熊に討たれ。狭穂姫の後で丹波から四姉妹が嫁入りしたとこみれば
      連合の崩壊と、大王への服属があったのかも知れませんね

  • @gyoukim2973
    @gyoukim2973 2 года назад +2

    諷歌(ソヘウタ)倒語という言葉はご存知ですか? 私も全然わからないのですが(笑)、事実(史実)を知っている人にしかわからないように暗号化しているらしく、言葉の意味を誤訳させたり、登場人物の時系列の順番を入れ替えたり、架空の人物を作って一人二役三役もさせていたりと、基本的には内容を秘密にしたかった技法のようです。昔の人は正しく伝える気がなかったように思いました。
    いつも探偵のような推理に感銘を受けています。 応援しています!

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +2

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      諷歌倒語というのは聞いてはいましたが、しっかりと掘り下げたことはありませんでした。
      記紀自体がそれと似たような書き方をされているのだと感じます。
      地方の伝承と照らし合わせて紐解いてゆくのが、古代日本史の醍醐味ですね!
      応援ありがとうございます!
      的外れな推理かもしれないのですが、これからも頑張ってゆきますので、よろしくお願いいたします!

  • @世界の変化
    @世界の変化 7 месяцев назад

    古事記、執筆者もいろんな皇子や姫が生まれているのですが、ワニ氏系と三上氏系と分かれて、また神社に産んだ姫とその子たちが祭神として祀っているのにも考えられて天孫降臨族の末裔ですが、系統があるのだなと考えました。兄妹どうしの男と女の関係持てば禁忌で災いが災厄となって国に及び災害が発生したり御門の為と農耕に励む民衆を巻き込み作物など献上出来なくなって、実直に作業に励む何も知らない民衆にも災難ありますね。

  • @angelagabriel5874
    @angelagabriel5874 2 года назад +1

    名前の類似&やたら長いは、古代神話域の謎・というか特性ですね。 
    「~タラシ:ヒコ/ヒメ」が夫婦ということも近々でてきそうですし・

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад

      こちらもご視聴ありがとう御座います!
      名前の類似は、名前ではないからですね、ズバリですが笑

  • @酒井結衣-p3y
    @酒井結衣-p3y 9 месяцев назад

    神大根王は崇神天皇に殺されかけて、千葉小見川まで逃げてますよ。多分。
    茨木の長幡部神社は、もともと祭神、神大根王(八釼入彦根大根王)。
    香取の大根神社は名前変えられて、切手神社になってます。物部系の人達の手を切り落としまくって切手?切ない話ですね。口伝では、徳川家とかに守ってもらってたみたいです。
    あー、良い動画です。メチャ面白かったっです。全部見ます。がんばってください!

  • @kzn3720
    @kzn3720 Год назад +1

    オケツヒメとタニハのオオゲツヒメのキャラが被るんですが、関係あるんですかね。
    オオゲツヒメと外宮の豊受大神もつながり面白いですね。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Год назад

      ご視聴ありがとう御座います!
      分かります!
      僕もそこはとても気になっています。
      いずれ姫たちの深掘り動画を盛大に作りたいです!
      作画は控えめにします。笑

  • @三十枝桂
    @三十枝桂 2 года назад +2

    オケツヒメちゃんは飛鳥時代にも登場しますか?

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад

      ご視聴ありがとう御座います!
      オケツヒメちゃんは飛鳥時代にはどうでしょう?
      深掘りしてゆく上で登場する可能性は有るとおもいますよ!

  • @稲葉淳子
    @稲葉淳子 3 месяца назад

    血が繋がるので、帰って恐い気がしてます。子孫ということ、しかたのないことなのですねぇれきしだから、、、こだわるのがわかるきがします。

  • @pleasure5458
    @pleasure5458 2 года назад +1

    乎!動画有難う御座います。
    今週、丹波一宮・出雲大神宮に行ってきましたよ。
    江戸時代に島根が名乗る前まで、出雲は丹波一宮だったそうですよ。
    713年と言えば、瑞祥地名を全国に発布した年ですね。その時に別けたんですね。古事記ストーリー対応?ですかね。
    10代様の母は、イカガシコメ皇后ですから、湖北息長氏?なのかも?
    10代様の皇后の母が岐阜一宮の南宮大社の金山姫。
    すなわち、大彦命の奥さんの金山姫ですね。
    南宮大社と関係があるのかな?
    大彦命の弟が少名彦で9代様の兄2人。
    安土の沙沙貴神社と伊賀の敢國神社に仲良く祀られてますが、敢國神社は金山姫。沙沙貴神社はに16代様が3座になりますね。乃木大将の先祖、佐々木氏になります。
    大海人皇子の進軍ルートの長浜が息長氏になるようですね。
    となると、日子坐王は、大彦命の奥さんの実家に入り婿したのか?
    南宮大社は、初代様のお爺さんの火折命・彦火火出見命がまつられてますから、火折命の系列に入り婿?ですかね。
    9代様は、湖南の九帝宮に鎮座したようですが、8代様が健在の時にイカガシコメ妃にホニャララしたのか?ヤマトトト姫と10代様は、案外幼馴染み?
    2人がラブ💘してたら、ヤマトトト姫は、ホニャララですよね(笑)
    和王耳。神八井耳系の隠語では?
    伊勢神宮・多賀大社・沙沙貴神社・島根・出雲は、花菱紋・多氏紋をデザインに織り込んでますから。
    丹波は、出雲大神宮の國譲りや足利尊氏の旗揚げ・明智光秀の愛宕神社で有名ですが、清和天皇の陵もあるし、古代の製鉄の時に出るカスが出土した古墳もあり、何かと栄えてたんでしょうね(笑)
    相変わらず、挿絵がエ〇イですね。好みです👍

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +1

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      羨ましいなぁ!
      僕はもっぱらグーグルアース旅行なので、やっぱり現地に行くのが一番発見がありますよね。
      ぼくも昔に関が原に観光に行って笹尾山の三成本陣跡から関が原を見たとき、「ああ、これは小早川が裏切ったら負けるよね。」って実感で思ったりしました。
      色々な説を挙げて下さいましたが、どれも僕もほんのりと掠めた内容でした!
      古代史は辻褄合わせを完璧にするのが困難なので、どれかを通すとどれかが矛盾してしまうのが切ないところです笑
      モモソヒメとミマキイリビコがチョメチョメな可能性は、僕も大いにあり得ると思います笑
      大彦命は掘り下げたいと思っています。
      筑紫との関連も気になりますし。
      いやあ、古代史から進めない!!笑

    • @pleasure5458
      @pleasure5458 2 года назад +1

      @@nihonshi 様。
      石田三成の陣ですか(笑)
      私は、家康公の最初の陣で、布陣図みながら、家康配下以外宛にならないのに、正に乾坤一擲?背水の陣?無謀か?無策か?悩みましたよ。かれこれ22年前位に(笑)
      因みに、石田三成公‼️時々、服部家の家紋の描写あるんですよ(笑)
      武田勝頼は、多氏紋の時あるし(笑)神八井耳の子孫?
      明智光秀公は、伊賀の敢國神社の神紋の着物着てる絵がありますし(笑)
      神社由緒は、日本書紀が採用しなかった、スピンオフストーリーですから、こんな話も有るんだな~程度ですね(笑)
      日本書紀?では、武埴安は、8代様の子ですよね。
      10代様の叔父さんでは?
      記紀の表現は、義理の兄弟姉妹も義理の親子関係も一緒くた?【妄想】
      武埴安が兄なら、10代様は、8代様の末子?では?
      ヤマトト姫を奥さんにしてたら、8代様の子?孫【みま】にして子?
      9代様の娘もを奥さんにしてたら、武埴安とは兄弟?
      10代様には、渟河姫と御間城津姫の2人の妹がいてるそうですが、
      渟河姫は、大彦命の三男が渟河別ですから、関係あるのかも?
      御間城姫は、何処へ?
      これが、伊弉諾尊・伊弉冉の妹にして妻?の元ネタ?
      武埴安の奥さん【吾田】この漢字は、記紀によく出てきますよね。コノハナサクヤ姫も吾が入っていたような?初代様の宮崎の奥さんも?
      こんな妄想しています。
      沙沙貴神社に行くと実際は、氵尤 こんな漢字で書いてますが、尤も【もっとも?】ですかね?
      磐井の乱からも、磐井は近江で同じ釜の飯を食った仲と言ってますから、近江の大王の家臣だった?
      実際、沙沙貴神社の七つ割 平四つ目 結紋は、築紫神社も使ってますから、沙沙貴神社系でしょうね。
      10代様は、妄想では、伊賀の御代あたりに、黄巾の乱の時代頃、自然災害で一時的に宮を移されて、大彦命と金山姫との第1子、名張の美旗【美波多・小波多】位から165線を桜井に通い、纒向の造営を開始したんだと思いますよ。
      この長男も波多氏であり
      武内宿禰の長男も波多氏・羽田氏【東近江の羽田神社】何か関係があるのかも?ですが。
      老後の嗜みなので、深くは考えていません(笑)

  • @elrd1032
    @elrd1032 2 года назад +3

    絵がどすけべで頭に入ってこないw

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +1

      ご視聴ありがとう御座います!
      頭に入ってこないんじゃ、困りましたね笑
      日子坐王後編は抑えたつもりだったんだけどなぁ笑

  • @雨の菫
    @雨の菫 2 года назад +3

    さすが【深掘解説】、興味深いです🤗
    確かに日子坐王は素戔嗚尊を彷彿とさせます。記紀の編者は、日子坐王をモデルにして素戔嗚尊の神話を創作したのかもしれませんね。
    オケツヒメ―お名前が嫌過ぎて💦
    ええ、辞書引きましたとも!😤(笑)
    私の持ってる漢和辞典では、“祁”の音読みは“キ”になってました。
    オキツヒメ―漢字を表音文字として使用してるとして、現代語訳するなら「沖の姫」?
    息長水依比売と袁祁都比売も同一人物の可能性があると推察しました。
    地域で方言がある様に、この時代の漢字の使い方も全国で統一されていなかったのかも。
    三上氏も息長氏も和に(漢字変換できなかった😭)氏も元を辿れば海人族だったんでしょうか?やっぱり皆、親戚ですねぇ👀

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +3

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      オケツヒメのお名前、好きになってあげて下さい笑
      決してお尻のことではないので笑
      沖津姫としてしまうのは少し考慮の余地があるとは思います。
      それよりも息長のオキだと考えたほうが無難だと思っています。
      息長については更に掘り下げますので、その時に。
      海人族とは十把一絡げにできないほど多様な人々を指しているので、繋がりとして見るにはカテゴリーが広すぎるんですよね。
      漁労民、製塩民、航海民、水路輸送民、水辺居住民、すべて海人と呼べるので。
      そのあたりも掘り下げますが、あまり海人に捕らわれると本質を見失うので注意してください笑

    • @雨の菫
      @雨の菫 2 года назад +3

      @@nihonshi さん
      確かに海人族は広範囲過ぎますね。
      「人類皆兄弟」では歴史考察が骨抜きになってしまう💦
      息長氏深掘りは楽しみです。拠点が三野·尾張なら東海と日本海を繋いだ重要な豪族ですね✨
      もちろんオケツヒメにも、其れなりの愛着がわきましたよ。お名前の覚え易さは群を抜いてます😂

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +4

      @@雨の菫 息長氏はおっしゃる通り、日本海側と関東を繋ぐ重要な氏族だと思います。
      息長の重要なファクターとして日本武尊と神功皇后のお二方がいらっしゃいますが、このお二方が九州から関東まで、果ては朝鮮半島まで結ぶことになります。
      そこはまた、後の動画で笑
      オケツヒメは皆さんに支持されてますね笑

    • @雨の菫
      @雨の菫 2 года назад +1

      @@nihonshi さん
      近々、東日本も出て来ると思って、
      今、宝島社新書 宮崎正弘著『葬られた古代王朝 高志国と継体天皇の謎』読んでます。
      あんまり知識無さ過ぎると動画内容に着いていけませんし😂多少なりとも知識仕入れて置いた方が楽しめます。
      結城屋さんのGJ👍でオケツヒメは歴史ファンのアイドルになりました!✨♥️

  • @richardcampsmith3905
    @richardcampsmith3905 2 года назад +2

    近親婚がありそうですが、当時としては禁忌視されてなかったんでしょうか。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +3

      ご視聴ありがとう御座います!
      近親婚は古代において、現代よりも複雑です。
      まず結婚の概念自体が違います。
      現代のように同居するようになるのは中世以降のことなので、夫婦は寄り添って暮らしているわけではありません。
      また、女系・男系・彦姫系と各々の部族によって構成する体制が異なるので、ここも現代とは現代と価値観がかなり異なります。
      ですので近親婚といっても異母兄妹・異父姉弟などであれば、ほぼ他人同士と変わらないと感じていたのではないでしょうか?
      そうした古代でも同母兄妹の婚姻は禁忌とされていたようでして、恐らく生物学的に生殖に適さないという事は分かっていたのだと思います。
      それでも多少みられますが、夫婦なのか彦姫なのか微妙な部分はあります。

  • @SA-ql8nl
    @SA-ql8nl 2 года назад +1

    この流れは、天智天皇と天武天皇の関係性にも影響が有ったりしそうな??
    (素人の妄想です。。)

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +2

      こちらもご視聴ありがとう御座います!
      また鋭い観察眼ですね!
      ぼくも何かしらの関係があるのではないかと考えています!

    • @SA-ql8nl
      @SA-ql8nl 2 года назад +1

      日本の古代史と記紀神話や古史古伝は、リアルRPGですね!
      数十年単位?もしくは一生楽しめますよね。(我々の国がそれまで安定していれば…)
      自転車が好きな私は、スポーツバイクで京都を中心に滋賀、奈良、大坂をぶらり旅をして神社や史跡を巡っています!

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 года назад +1

      @@SA-ql8nl さま
      自転車でそうした環境を巡れるのは非常に羨ましいです!!
      リアルに古代RPGを堪能できているんですね!

  • @御神誉黎
    @御神誉黎 Год назад +1

    崇神天皇が現在の天皇家に通じる畿内に王権を建てた最初の大王でしょう。
    日子坐王はその有力な配下だったのでしょうね。
    開化天皇の子となっているが、そもそも開化天皇は実在しないと考えられている
    日子坐王が和爾氏の姫の子となっているとこみれば、和爾氏の生まれだったのでしょう
    当時は母系社会だから、父系はあまり注目されなかった。
    父親の名前の残ってない人達も多い。
    それを利用して、日子坐王は支配下に入った一族の王の父親ってことに記紀にしたとすれば、彼の子供が広い範囲に存在し
    沙穂や丹波それに息長など有力な氏族の人間であることも説明がつく

    • @nihonshi
      @nihonshi  Год назад +1

      いつもご視聴ありがとうございます!
      ぼくもそのように感じています。
      一応欠史八代も存在していた世界線で考察を展開してはおりますが。