秀吉出世物語り:その1~藤吉郎の青春~

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 29 дек 2024

Комментарии • 31

  • @alexale4074
    @alexale4074 2 года назад

    松下氏と秀吉のやり取りは日本外史にも掲載されてました
    印象的なエピソードですね

  • @ひら-c8b
    @ひら-c8b 4 года назад +7

    沙織ちゃん ♡、太閤記は大好きです。秀吉が晩年ダークサイドに落ちなければもっと好きになれたのですが・・・

  • @kaduisi7214
    @kaduisi7214 4 года назад +6

    聴き取り易い話し方です。そして綺麗な言葉を使われるので心地がいいです。

  • @kantarou44
    @kantarou44 4 года назад

    沙織ちゃん、黒目勝ちの目が素敵ですね。毎回楽しみにしてますよ。

  • @モモタスミタカ
    @モモタスミタカ 4 года назад +2

    面白かった。

  • @松本初義
    @松本初義 4 года назад +1

    この当時浜松城下とは言ってませんし、浜松城はまだ引馬城と呼ばれていました。その後、徳川家康が遠江に入城して来て引馬を浜松と名前を変えました。
    藤吉郎は父の遺産の一部、一貫文(永楽銭千枚)を貰った。頭陀寺(ずだじ)の松下家には16歳から3年とも5年間奉公したとか。
    あと、数か所の読み違いあり。蜂須賀小六は野党ではありませし、武士です。当時、矢作川には橋は架かっていなかったそうです。

  • @yoshii871
    @yoshii871 4 года назад +1

    今川時代使えた松下之綱には恩義感じていて、後々所領与えて恩返ししたっていうね。

  • @kazoka7701
    @kazoka7701 4 года назад +2

    さおりちゃん、ずっと顔見せててくれませんか、癒されます。

  • @大日本帝国トラトラトラ
    @大日本帝国トラトラトラ 4 года назад +4

    天下を取る人間には何かぁ強運と行動力と頭の回転の速さ機敏さ常人に非.

  • @toshis3972
    @toshis3972 4 года назад +6

    秀吉の最初の雇い主、松下家はその後、関ケ原で東軍に付き更に加藤嘉明と縁組をします。加藤家が会津40万石に移封されると組下大名として二本松5万石。幼君跡継ぎにより三春3万石と推移します。基本、治世に問題はなかったようですが加藤家の会津騒動に巻き込まれ改易→旗本となります
    5代綱吉あたりまで、親藩譜代外様に関わらずお家騒動があると親族総てが罪に問われる連座制が適用されていました。松下家も”親族なのに仲裁しなかった”事を咎められています
    こういう事があるため江戸初期では意外と親族大名が集まって会合をしてたりします。まぁその席でボンクラ大名を引退させようと圧力を掛けたり、そうさせるものかと刃傷沙汰になり一族全員改易になったり とお大名様も大変だったようです

  • @zirou-0083_Gerbera
    @zirou-0083_Gerbera 4 года назад +1

    秀吉
    この資本主義のご時世において
    ある意味尊敬しています!
    それくらい若いうちは
    たくさん働いて 世のため人(主)のため
    成り上がっていかないといけないな と思います!

  • @平木下和馬
    @平木下和馬 4 года назад

    世界のどの英雄と並べても異質にして奇妙、それでいて一代の人生でこうまでも栄達し、且つ万民に知られその肖像を後世に残したという意味では中国の始皇帝、ローマのカエサル、エジプトのファラオにも並ぶ英雄だと思う
    あくまでも個人の主観ですが

  • @genkimantotoro
    @genkimantotoro 4 года назад +3

    沙織ちゃん久しぶり♪相変わらずカワ(・∀・)イイ!!秀吉とおねは当時としては珍しい恋愛結婚だという説があります。それも、年の差結婚です。

  • @user-dw6xe4vc7l
    @user-dw6xe4vc7l 4 года назад

    名主 なぬし では

  • @西梶秀樹
    @西梶秀樹 4 года назад +2

    さおりちゃんのフアンです。

  • @MO-vy8sl
    @MO-vy8sl 4 года назад +1

    秀次を切腹させ朝鮮出兵など晩年の振舞いが情けないので、秀吉はあまり好きではありませんでしたが、この動画を観てちょっと好きになりました。

  • @ナル未来派
    @ナル未来派 4 года назад +1

    出生が明らかじゃない武将が沢山いるのに、秀吉の出自がはっきりしてるってのは
    疑わしいと思ってます。

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p 4 года назад

      秀吉の出自もはっきりしてませんよ?
      そもそも前半生は分かってませんし

    • @ナル未来派
      @ナル未来派 4 года назад

      @@もふもふ-x4p だから疑わしいと言っているのに、この動画では、出自がはっきりしたような言い方をしてるってことです。
      意見があるなら、動画主に言ってください。

  • @弾九郎だんくろう
    @弾九郎だんくろう 4 года назад +1

    秀吉は水飲み百姓の出自みたいでしたね!

  • @もふもふ-x4p
    @もふもふ-x4p 4 года назад

    父の弥右衛門は木下姓だから秀吉の姓は元から木下じゃないですかね?
    お寧も確かに実家は木下だけど
    秀吉の所とたまたま苗字が一緒の木下さんだったらしいですし

  • @修行僧-y6v
    @修行僧-y6v 4 года назад

    頭陀寺ズダジです

  • @kero997s
    @kero997s 4 года назад

    おねとの間に実子がいれば、徳川幕府もなかったろうね。

  • @airvelvet1968
    @airvelvet1968 4 года назад

    忍者説

  • @木下行人
    @木下行人 4 года назад +3

    30貫文は貰いすぎ
    重たくて持てないですし
    300文の間違いだと

  • @タカセブン
    @タカセブン 4 года назад +2

    秀吉の実家は、忍びかそれに近い存在やないのか?
    だから、最初から信長に仕えていて、色々なとこに行ってたんやないかな?
    信長が幼少の頃から、信長は忍びの者達と交遊があったんやろ?
    だから、本当に愛したのも忍びの棟梁の娘生駒吉乃だったんやろね。
    表向きは運送業だが、忍びをするなら絶好の隠れ蓑だしね。
    その中で秀吉と仲良くなって、ずっと使ってたから、他の家臣とは全然違う距離感なんやろ?
    木下に入ったのは、秀吉の素性を隠す為。
    まー農家も忍びも変わらないやろが、ヤッパリ忍びってイメージかわ悪いし、農民出身の方が圧倒的に多い農民の協力も得られるし、何せ兵士は殆ど農民だしね。
    秀吉は、農民出身ってことで、天下取るまでかなり特をしてるし、人気もあったから、迅速な兵の移動が出来たやろ?
    幾ら金を渡したって、街道の住民の協力とか、嫌いな奴等には協力しないし、敵に米を売ったりもしないやろ?
    でも、最後には農民から武器を取り上げ、測量して年貢を誤魔化せなくしたのだから、俺は農民出身って話しは違うと思う。

  • @秋山泰幸
    @秋山泰幸 4 года назад +1

    秀吉ば晩年さえなければ本当に面白いのになぜあんな「暴君」になってしまったのか?

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 4 года назад +1

      秋山泰幸 年を取るとダメになる君主は多いですよ。
      最たる例は秦の始皇帝ですね。

  • @CaliforniaBeverlyHills90210
    @CaliforniaBeverlyHills90210 4 года назад

    ごめんね💧知れば知るほどサル面冠者嫌いになるのよね🤢

  • @Okuhiro.Ochiki
    @Okuhiro.Ochiki 4 года назад +1

    秀吉が農民出というのも通説で真偽は不明。一説には「えた」「ひにん」のような最下層の生まれという説もあり、弟・秀長など有名な家族の他にも多数の親類が居たが、名乗り出たら秀吉に殺された、という話もある。いずれにせよ、低い身分に生まれどん底を味わった秀吉は、出世に極めて貪欲で、狡猾で合理的な性格だったのは間違いない。でなければ信長に重用されず、まして天下人になどなれない。