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横山三国志だと対劉備の援軍で城に入ったら守将差し置いて上座だったから偉いんだろなくらいだったけど外戚で人物なら納得
【17:18〜】トウハク「今までの印象は、とりあえず妹のお陰で高官についただけの人って感じしかないからなぁ」袁紹「おっと、何進将軍の悪口はそこまでだ😗✨」
横山三国志で「器ではなかった」とけなされる不遇な将軍
何進政権って悪くは無かったんやけどねー
@@matukawatositane 後漢書【竇武何進傳】では傳末の論で竇武と何進をまとめて「コイツら二人『能力に不相応な権勢を持ったから滅びた』みたいに言われがちだけどなんでそんな事が言えるんでしょうかねえ😗古来そういう英傑(能力はあったけどたまたま天の助けが無かったから敗れたやつら)はいっぱいいるよ🙃(「彼ら二人もまたそうである」と言いたいらしい)」と評されてますね
じつは陸遜も孫策の妹をヨメにしていて司令官についた人物
@@ちまのとしい 陸遜の嫁さんは孫策の”娘”ですね陸遜は若いころから孫権の幕僚を務めるんですが(少なくともこの頃は)孫権におそらくは気に入られていたようで(加えて孫策の代の”孫家”と”陸家”のわだかまりを公式に手打ちにする意味でも)孫権は姪を陸遜に嫁がせて陸遜と孫家に縁戚関係を結びますつまりこれはご指摘のような陸遜サイドからの立身出世のためという発想ではなくどちらかというと孫家の江東支配のための長期展望(地元名士たる陸氏への先代(孫策)から続くわだかまりの”詫び”として婚姻同盟のため孫家の娘を陸家へ嫁がせた・・・という側面がある)として孫家の側から出た話であろう(少なくとも正史には孫権発の提案とされています)と思われます
うぽつです。おお久々に此の二人ですね!レイマリの ゆっくり解説が食傷気味な自分としては、こっちの方が好みです。にしても、今回は呉懿だそうですが孔明の北伐の合間に孔明なしでの蜀対魏の戦役が有ったというのは初めて知りましたので、とても為になりました😊
月イチペースで、記録少なめのマイナー人物解説を彼女達に任せたいと思います!(笑)
横山三国志だと呉懿は劉璋配下の武将を劉備に寝返るように説得するシーンがありましたね。
Sweet三国志での「いいえ、私は呉懿です」ってネタ好き
呉懿!読みの音がいい。ゴイ!最高!族弟の呉班もいい。ゴハン!呉班の列伝もお願いします!
なるほど三國志モブキャラ界の重鎮か!
劉備がなぜ呉氏を娶ったか… これが曹操なら、「人妻が好きだから」「未亡人が好きだから」で済むんですが(笑)
ほんとそれ(笑)
政治的な意図とか?
政治的に蜀派閥の筆頭です
無理に勘ぐらなくても、陳寿が言っているとおり「書くことがなかったから」でいいんじゃないかな(笑)部下(例えば王平)のところに全部書いちゃったとかね。
まぁ、それが一番有力ですね(笑)蜀漢でなにも記録が少ないのは呉懿だけじゃないですし('ω')
なぜ呉懿が呉壱になるかというと、壱が壹の異体字だからですね。懿の「つくり」を省略したんです。
投稿お疲れ様です。劉璋の外戚という微妙な立場だったにもかかわらず、劉備の元でも栄達した立ち回りの上手さが光る人物だと思います。
これぞ外戚のあるべき姿
唐の学者だった顔師古は班壹(班超の祖先)と聶壹(張遼の祖先)を例に挙げて「今、流通する漢書の写本は司馬懿の諱を避けたと早合点して壹を懿に改めるものが多い」と批判している。その流れは三国志の写本でも見られたと考えられるので、呉懿もこの流れに巻き込まれたもので「呉壹」の方が正しい名前だった可能性もある。
本題とは関係ないけど、その顔師古は琅邪顔氏です。そして顔良は…『後漢顏良,為袁紹將,臨沂人。』(通志)↑なんと顔良も琅邪顔氏でした。顔師古→琅邪郡臨沂県の人顔良→琅邪郡臨沂県の人ちょっと嬉しい気分になったでしょ。
@@月友 顔良がもし頭が悪く無く関羽に討たれなければ、張郃並みに名将として活躍出来たかもと思うと胸熱
ゲームだとやけにカリスマが高かったのは、妹の分も込みの数値かしら。
呉懿の一族と陳寿は絶対なにかあったんじゃないかと見てる。そうじゃなきゃ軍部の重鎮で外戚でもあった呉懿の史料が散逸してるのがおかしいそれそうと呉懿は諸葛亮が率いた北伐軍において、魏延と並んで双璧と言って良いのかなと
孫邵と似た雰囲気がある…
@@KOUMEI_NO_WANADA 孫呉を調べると功績デカイのに伝が何故かない初代丞相!(張昭を差し置いて丞相になったのが名士に嫌われたか…
第4次北伐後、諸葛亮と呉懿は一緒に李厳を糾弾する上表をしてますね。両者は意思疎通できてたように見えます。
呉懿が皇族と被るからだめなら、張昭もだめじゃないですかね
まぁ、詳しい判断基準はイマイチよく分からないんですよね。司馬炎なんて、名前が常用漢字すぎていちいち忖度してたら大変でしょうし(笑)
大変とかじゃなくて必ず忖度します。史家が諱を使おうものなら普通に極刑ですw 余談ですが日本でそれをやらかして滅びたのが豊臣家ですね【方広寺鐘銘事件】避諱は王朝が変わればリセットされ、書物を書き写すときには元の漢字に戻します。今我々が読んでいる『三国志』は宋以降の写本であり、晋王朝の諱は(原則)直されています。張昭なんかも元は張邵とかにしていたんでしょうが、呉懿はマイナーゆえに戻すのを忘れたのでしょう。
@@shou-sho なるほど、直し忘れ! マイナーなのが憎いw京師も司馬師がいたから京都になって日本に伝わったのか
現代と感覚が違いすぎるから、こういう話はめちゃくちゃありがてぇ…🐎
@@KOUMEI_NO_WANADA さん例えば張昭の息子であれば「昭(zhao)」の字は絶対に使わないし、発音することすらありません。この辺りは八王の乱の主要人物である盧志と陸機のエピソードでもわかります。
まさに呉懿呉懿スー!
いつも楽しく拝見しています^ ^横山三国志では、成都攻略以降は「ひげモブ」のイメージが強かったので、詳しく解説して頂き、とても面白かったです(*゚∀゚*)b
なんとなく呉懿のキャラデザ好き(笑)
一番乗り。「蜀書黄忠伝」も記述が短く素っ気ないし、呉懿も単純に資料が乏しかった可能性も否定できない。それだけ任務をそつなくこなした証ではないだろうか。
でも立場がなぁ…外戚で、魏延の後任も務めた実力者なのになぁ…と。黄忠は大金星新参将軍だったから、まだ、記録が少ないのも頷けるんですが🤔
呉懿って個人的な妄想では、バランスがよくて影響力・発言力がある、君主になってもおかしくなかった人のように思える。
人相見が呉氏の容貌を見てたいそう高貴な身分になるという占い、後の劉焉が劉瑁にめとらせた話と合わせて考えると、呉氏をめとった男が出世するいわゆる「アゲマン」という意味ではないかと思います。だとすると、群臣が劉備に呉氏をめとるように勧めたのも、劉備にとって縁起がいい話だったからではないでしょうか。
でも当時のモラル的に、無理して娶らなくてもいい気も…('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA 勧めた群臣の中に法正の名前があるので、劉備に近づきたい益州人士と荊州人士に力をつけ過ぎたくない劉備の思惑が一致した結果というのもありそうです。諸葛亮がもし呉懿を警戒していたのだとすると、その理由もそのあたりにあるかなと思います。
@@KOUMEI_NO_WANADA 当時のモラルを理由に、劉備は躊躇してますね。前夫の劉瑁とは同じ劉氏ですから。
正直、益州閥に良いように取り込まれただけだけど、それだと劉備の恰好が付かないと感じた後世の人間がそれっぽい理由を後付けしただけだと思う
流石は呉懿殿!!
呉氏兄弟は問題児だらけの蜀漢首脳部において性格に問題があるとか誰かと対立していたという逸話がない。他の人物の伝からもそういった話は記載されていないし順調に重職に昇進しているのも外戚という立場だけでなく、純粋に実力と実績が評価されてる感があるし諸葛亮がマジで警戒していたのは次席であった李厳くらいじゃなかろうか季漢補臣賛でも高評価なので楊儀や陳寿とも因縁があるように思えないんだよな余談だけど自分も「高翔」、そして「袁綝」が気になってる。一説では高翔は大将軍にまで昇ったというほどで彼らは官位においても呉氏兄弟と同格だったのにね
関係ないけど、「呉」+「司馬懿の懿」で限りなく蜀漢感のない名前なのに蜀漢なの((
魏延と並ぶ実績を上げて後任に選ばれているけど、蜀漢の外戚の理由で記録が削除されている?現在まで外戚は悪い印象や評価が残っていますが、全員がそうであったとは限らないですおそらく、呉懿は威張らず実績を上げた人物だったと思われますそうでなければ、軍内でのナンバー2の立ち位置やゲームでの能力も高数値もないです
劉焉が牧となって入蜀。呉懿は其れに随行した。劉焉と劉虞と黄琬の三人が最初に牧となって派遣されたわけで、劉虞が中平五年に幽州牧となってるところを見ると劉焉も中平五年(188年)に益州牧になったと思う。なので呉懿の入蜀も188年頃と思われる。
何で、演義の幽州牧が劉焉になったんだろうか?
①蜀を得るための伏線②伏線に関しての話。正史を見ると先主伝の前に劉二牧伝(劉焉・劉璋)が書かれている。劉焉→劉璋→劉備と引き継がれたみたいな伏線を演義で見せるため③劉虞は後漢の宗族で前漢系子孫の劉焉や劉備よりも皇帝に近い血族。物語的には劉備の壁となるため排除されたたしかこんな話だったと思います。
乙でーす!呉懿最近読み終わった横山三国志ではちょび髭のプー太郎って感じだったけどやっぱりとっても安心感のある名将という評価が季漢補臣下賛にあったのが驚き昔三国志演義を読んでいて、呉班が戦死した戦いから出て来なくなったから,子供心に少し不安になったのを良く覚えてる…あと何気に孫の呉喬が成漢に30年余り屈しなかったってエピソードも激アツなんだよなぁ
三國志のシミュレーションゲームでは有名武将には及ばないが全ての能力値が高水準でまとまっている 群雄プレイで戦力の頭数が足りない最序盤でフル回転させてた
劉璋勢力が呉懿使ってくるから地味にしんどいんだよなぁ…(笑)
諸葛亮、いっつも無駄な警戒してんな。魏延とか。ある意味、手塚治虫先生みたく、有能だけど嫉妬深いみたいなとこあるんだろうか?w
正史での魏延は個人的に、警戒どころかめちゃくちゃ重用されてたイメージがありますね。魏延の方が諸葛亮に文句言ってるけど、その逆って特に無かった気もするし…まぁ、魏延も諸葛亮というより、その幕僚筆頭の楊儀をやっかんでた感じがします(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA やはり楊儀はただ者ではないな🙂✨楊儀「なんだかんだ言って蜀軍十万余の編成・実務を取り仕切ってるのはこの私😗」魏延「丞相府の文官共に実戦はわからんよ。現場が動いてるのはワシあっての事😗」諸葛亮「いやいや、帝から全軍の総指揮権を拝命してるのはこの孔明さんですよ😗」
横山三国志だと対劉備の援軍で城に入ったら守将差し置いて上座だったから偉いんだろなくらいだったけど外戚で人物なら納得
【17:18〜】トウハク「今までの印象は、とりあえず妹のお陰で高官についただけの人って感じしかないからなぁ」
袁紹「おっと、何進将軍の悪口はそこまでだ😗✨」
横山三国志で「器ではなかった」とけなされる不遇な将軍
何進政権って悪くは無かったんやけどねー
@@matukawatositane 後漢書【竇武何進傳】では傳末の論で竇武と何進をまとめて
「コイツら二人『能力に不相応な権勢を持ったから滅びた』みたいに言われがちだけどなんでそんな事が言えるんでしょうかねえ😗古来そういう英傑(能力はあったけどたまたま天の助けが無かったから敗れたやつら)はいっぱいいるよ🙃(「彼ら二人もまたそうである」と言いたいらしい)」
と評されてますね
じつは陸遜も孫策の妹をヨメにしていて司令官についた人物
@@ちまのとしい 陸遜の嫁さんは孫策の”娘”ですね
陸遜は若いころから孫権の幕僚を務めるんですが(少なくともこの頃は)孫権におそらくは気に入られていたようで(加えて孫策の代の”孫家”と”陸家”のわだかまりを公式に手打ちにする意味でも)孫権は姪を陸遜に嫁がせて陸遜と孫家に縁戚関係を結びます
つまりこれはご指摘のような陸遜サイドからの立身出世のためという発想ではなく
どちらかというと孫家の江東支配のための長期展望(地元名士たる陸氏への先代(孫策)から続くわだかまりの”詫び”として婚姻同盟のため孫家の娘を陸家へ嫁がせた・・・という側面がある)として
孫家の側から出た話であろう(少なくとも正史には孫権発の提案とされています)と思われます
うぽつです。おお久々に此の二人ですね!レイマリの ゆっくり解説が食傷気味な自分としては、こっちの方が好みです。
にしても、今回は呉懿だそうですが孔明の北伐の合間に孔明なしでの蜀対魏の戦役が有ったというのは初めて知りましたので、とても為になりました😊
月イチペースで、記録少なめのマイナー人物解説を彼女達に任せたいと思います!(笑)
横山三国志だと呉懿は劉璋配下の武将を劉備に寝返るように説得するシーンがありましたね。
Sweet三国志での「いいえ、私は呉懿です」ってネタ好き
呉懿!
読みの音がいい。
ゴイ!
最高!
族弟の呉班もいい。
ゴハン!
呉班の列伝もお願いします!
なるほど三國志モブキャラ界の重鎮か!
劉備がなぜ呉氏を娶ったか… これが曹操なら、「人妻が好きだから」「未亡人が好きだから」で済むんですが(笑)
ほんとそれ(笑)
政治的な意図とか?
政治的に蜀派閥の筆頭です
無理に勘ぐらなくても、陳寿が言っているとおり「書くことがなかったから」でいいんじゃないかな(笑)
部下(例えば王平)のところに全部書いちゃったとかね。
まぁ、それが一番有力ですね(笑)
蜀漢でなにも記録が少ないのは呉懿だけじゃないですし('ω')
なぜ呉懿が呉壱になるかというと、壱が壹の異体字だからですね。
懿の「つくり」を省略したんです。
投稿お疲れ様です。
劉璋の外戚という微妙な立場だったにもかかわらず、劉備の元でも栄達した立ち回りの上手さが光る人物だと思います。
これぞ外戚のあるべき姿
唐の学者だった顔師古は班壹(班超の祖先)と聶壹(張遼の祖先)を例に挙げて「今、流通する漢書の写本は司馬懿の諱を避けたと早合点して壹を懿に改めるものが多い」と批判している。その流れは三国志の写本でも見られたと考えられるので、呉懿もこの流れに巻き込まれたもので「呉壹」の方が正しい名前だった可能性もある。
本題とは関係ないけど、その顔師古は琅邪顔氏です。そして顔良は…
『後漢顏良,為袁紹將,臨沂人。』(通志)
↑なんと顔良も琅邪顔氏でした。
顔師古→琅邪郡臨沂県の人
顔良→琅邪郡臨沂県の人
ちょっと嬉しい気分になったでしょ。
@@月友
顔良がもし頭が悪く無く関羽に討たれなければ、張郃並みに名将として活躍出来たかもと思うと胸熱
ゲームだとやけにカリスマが高かったのは、妹の分も込みの数値かしら。
呉懿の一族と陳寿は絶対なにかあったんじゃないかと見てる。そうじゃなきゃ軍部の重鎮で外戚でもあった呉懿の史料が散逸してるのがおかしい
それそうと呉懿は諸葛亮が率いた北伐軍において、魏延と並んで双璧と言って良いのかなと
孫邵と似た雰囲気がある…
@@KOUMEI_NO_WANADA 孫呉を調べると功績デカイのに伝が何故かない初代丞相!(張昭を差し置いて丞相になったのが名士に嫌われたか…
第4次北伐後、諸葛亮と呉懿は一緒に李厳を糾弾する上表をしてますね。
両者は意思疎通できてたように見えます。
呉懿が皇族と被るからだめなら、張昭もだめじゃないですかね
まぁ、詳しい判断基準はイマイチよく分からないんですよね。司馬炎なんて、名前が常用漢字すぎていちいち忖度してたら大変でしょうし(笑)
大変とかじゃなくて必ず忖度します。史家が諱を使おうものなら普通に極刑ですw 余談ですが日本でそれをやらかして滅びたのが豊臣家ですね【方広寺鐘銘事件】
避諱は王朝が変わればリセットされ、書物を書き写すときには元の漢字に戻します。今我々が読んでいる『三国志』は宋以降の写本であり、晋王朝の諱は(原則)直されています。
張昭なんかも元は張邵とかにしていたんでしょうが、呉懿はマイナーゆえに戻すのを忘れたのでしょう。
@@shou-sho なるほど、直し忘れ! マイナーなのが憎いw
京師も司馬師がいたから京都になって日本に伝わったのか
現代と感覚が違いすぎるから、こういう話はめちゃくちゃありがてぇ…🐎
@@KOUMEI_NO_WANADA さん
例えば張昭の息子であれば「昭(zhao)」の字は絶対に使わないし、発音することすらありません。
この辺りは八王の乱の主要人物である盧志と陸機のエピソードでもわかります。
まさに呉懿呉懿スー!
いつも楽しく拝見しています^ ^
横山三国志では、成都攻略以降は「ひげモブ」のイメージが強かったので、詳しく解説して頂き、とても面白かったです(*゚∀゚*)b
なんとなく呉懿のキャラデザ好き(笑)
一番乗り。「蜀書黄忠伝」も記述が短く素っ気ないし、呉懿も単純に資料が乏しかった可能性も否定できない。それだけ任務をそつなくこなした証ではないだろうか。
でも立場がなぁ…
外戚で、魏延の後任も務めた実力者なのになぁ…と。
黄忠は大金星新参将軍だったから、まだ、記録が少ないのも頷けるんですが🤔
呉懿って個人的な妄想では、バランスがよくて影響力・発言力がある、
君主になってもおかしくなかった人のように思える。
人相見が呉氏の容貌を見てたいそう高貴な身分になるという占い、後の劉焉が劉瑁にめとらせた話と合わせて考えると、呉氏をめとった男が出世するいわゆる「アゲマン」という意味ではないかと思います。だとすると、群臣が劉備に呉氏をめとるように勧めたのも、劉備にとって縁起がいい話だったからではないでしょうか。
でも当時のモラル的に、無理して娶らなくてもいい気も…('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA 勧めた群臣の中に法正の名前があるので、劉備に近づきたい益州人士と荊州人士に力をつけ過ぎたくない劉備の思惑が一致した結果というのもありそうです。諸葛亮がもし呉懿を警戒していたのだとすると、その理由もそのあたりにあるかなと思います。
@@KOUMEI_NO_WANADA 当時のモラルを理由に、劉備は躊躇してますね。前夫の劉瑁とは同じ劉氏ですから。
正直、益州閥に良いように取り込まれただけだけど、それだと劉備の恰好が付かないと感じた後世の人間がそれっぽい理由を後付けしただけだと思う
流石は呉懿殿!!
呉氏兄弟は問題児だらけの蜀漢首脳部において
性格に問題があるとか誰かと対立していたという逸話がない。
他の人物の伝からもそういった話は記載されていないし
順調に重職に昇進しているのも外戚という立場だけでなく、純粋に実力と実績が評価されてる感があるし
諸葛亮がマジで警戒していたのは次席であった李厳くらいじゃなかろうか
季漢補臣賛でも高評価なので楊儀や陳寿とも因縁があるように思えないんだよな
余談だけど自分も「高翔」、そして「袁綝」が気になってる。
一説では高翔は大将軍にまで昇ったというほどで
彼らは官位においても呉氏兄弟と同格だったのにね
関係ないけど、「呉」+「司馬懿の懿」で限りなく蜀漢感のない名前なのに蜀漢なの((
魏延と並ぶ実績を上げて後任に選ばれているけど、蜀漢の外戚の理由で記録が削除されている?
現在まで外戚は悪い印象や評価が残っていますが、全員がそうであったとは限らないです
おそらく、呉懿は威張らず実績を上げた人物だったと思われます
そうでなければ、軍内でのナンバー2の立ち位置やゲームでの能力も高数値もないです
劉焉が牧となって入蜀。呉懿は其れに随行した。
劉焉と劉虞と黄琬の三人が最初に牧となって派遣されたわけで、劉虞が中平五年に幽州牧となってるところを見ると劉焉も中平五年(188年)に益州牧になったと思う。なので呉懿の入蜀も188年頃と思われる。
何で、演義の幽州牧が劉焉になったんだろうか?
①蜀を得るための伏線
②伏線に関しての話。正史を見ると先主伝の前に劉二牧伝(劉焉・劉璋)が書かれている。劉焉→劉璋→劉備と引き継がれたみたいな伏線を演義で見せるため
③劉虞は後漢の宗族で前漢系子孫の劉焉や劉備よりも皇帝に近い血族。物語的には劉備の壁となるため排除された
たしかこんな話だったと思います。
乙でーす!呉懿最近読み終わった横山三国志ではちょび髭のプー太郎って感じだったけどやっぱりとっても安心感のある名将という評価が季漢補臣下賛にあったのが驚き
昔三国志演義を読んでいて、呉班が戦死した戦いから出て来なくなったから,子供心に少し不安になったのを良く覚えてる…
あと何気に孫の呉喬が成漢に30年余り屈しなかったってエピソードも激アツなんだよなぁ
三國志のシミュレーションゲームでは有名武将には及ばないが全ての能力値が高水準でまとまっている
群雄プレイで戦力の頭数が足りない最序盤でフル回転させてた
劉璋勢力が呉懿使ってくるから地味にしんどいんだよなぁ…(笑)
諸葛亮、いっつも無駄な警戒してんな。
魏延とか。
ある意味、手塚治虫先生みたく、有能だけど嫉妬深いみたいなとこあるんだろうか?w
正史での魏延は個人的に、警戒どころかめちゃくちゃ重用されてたイメージがありますね。
魏延の方が諸葛亮に文句言ってるけど、その逆って特に無かった気もするし…
まぁ、魏延も諸葛亮というより、その幕僚筆頭の楊儀をやっかんでた感じがします(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA やはり楊儀はただ者ではないな🙂✨
楊儀「なんだかんだ言って蜀軍十万余の編成・実務を取り仕切ってるのはこの私😗」
魏延「丞相府の文官共に実戦はわからんよ。現場が動いてるのはワシあっての事😗」
諸葛亮「いやいや、帝から全軍の総指揮権を拝命してるのはこの孔明さんですよ😗」