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“8回の男”、楽進吠えた!「良い形でクローザーにつなぐのが今の僕の仕事」許昌新聞web版9月19日(水)22: 35配信〈魏1-0呉〉19日・合肥スタジアム◆ 魏軍は19日、呉軍との壮絶な投手戦を制し、大事な三連戦のニ戦目を白星で飾り連勝とした。 曹操・孫権両監督が「ペナント終盤の天王山」と位置づけた晩夏の決戦の二戦目は、息詰まる投手戦。 4回に奪った虎の子の1点を死守する為、曹操監督はペナント終盤に来て連投の疲れもあろう勝利の方程式「李楽張」の投入を躊躇しなかった。 7回李典、8回楽進、9回張遼と続く援陣は初戦に続き一人のランナーも出すことなく呉軍打線を文字通り完封。 中でも圧巻だったのは「8回の男」楽進だ。 小柄な体格を活かして地面を擦るようなアンダースローから繰り出される変化の大きなスライダーに、強打者周泰が身体を大きくのけぞらせる。外角いっぱいに決まったストレートに球審の右手が高らかに上がり、マウンドの楽進はグローブをポンと叩いて咆哮した。 首位打者凌統から始まる呉の強力クリーンナップを三者連続三振に斬り捨てた変則左腕に、「今日はちょっと気迫が違ったね」と指揮官も上機嫌。 試合後、「良い形でクローザーの張遼さんにつなぐことだけを考えて投げました」と楽進が語った通り、9回に登板し横綱相撲で“土俵”を締める張遼の露払いを完璧に務め上げた。 呂布軍からFA移籍してきた張遼に押し出される形でクローザーの席を譲り、今はセットアッパーの立場にあるものの、楽進は泰然自若を崩さない。 「目の前のバッターと、優勝目掛けて投げるだけです。9回も8回も同じですよ」と涼しげに微笑んで、楽進は張遼、李典らと並んで悠々とベンチ裏に引き上げていった。
スポーツ新聞と三国志という全く関連のない単語を合体させた漢…
固定おめ
素晴らしい文章です。いつも楽しく見てます。
では打線版で魏軍武将のラインナップをイメージ。8.楽進6.李典4.張遼3.徐晃9.龐徳7.張郃5.于禁2.夏侯惇…でどうだ。
@@saburiryu28go楽進の振り子打法の1番バッター感は異常
蒼天航路の楽進マジ好き惚れたわ
マジでそれ
「り」「遼」「遼来来」「ゆ」「ゆけい」「張遼」
戦場の決して退いてはならぬ場所楽進は常に必ずそこにいた極太の肝玉一つでそこにいた翌 建安23年 楽進 絶息!
孫呉🔥 😭
楽進と李典は、とりあえず置いとけば、敵よりも味方がビビるくらい戦果あげてくれるイメージ。
最古参の猛将って曹操からしても心強すぎるよね。
于禁と楽進はホントに心から頼りにしてたでしょうね
曹操と同じで「姿貌短小」と言われた楽進。背が低い同士で可愛がられた説(妄想郷里で千人も人集めてきたあたり、何かしら魅力があったのか、それとも弁舌の才があったのか…
蒼天航路の楽進なら、男も惚れて付いていくカッコよさがある
もし三国志演義が魏を中心に描かれていたらおそらく趙雲の立場だったんじゃないかな。戦場で武功を立てたけど細かい正史の描写がなく創作を入れ込みやすい存在だからね。あらゆる方面に出陣したがために記録が散逸してしまったんでしょうな。五大将でも次席を与えられて曹操からも絶対の信頼を置かれた名将。
蒼天航路の楽進かっこよすぎだよな
しかしそれぞれに戦いのスタイルというか、ありますな張遼も徐晃も楽進も李典も于禁も曹仁も夏候惇も、それぞれの経緯がありそれぞれの戦い方をするんですな
正史に記述が少ないのも失敗を犯さなかったからでしょうか?于禁は後年に失態を張遼も元は降将ですし、曹氏・夏侯氏の功績をかすめないよう記載をあえて簡略化された
それか息子が諸葛誕に斬られてるんで、言い伝える人が居なかったか。黄忠みたいに。
最初に帳下の吏として用いられていたということは読み書きが充分に出来たという事。この時代に読み書きが充分に出来たとなると確かに豪族出身だった可能性がある。
ですね🐎🐎
楽しそうな名前ランキング1位
蒼天航路の何が何でも後ろには下がらない一徹な武勇が好きでしたね~今際の際には皆が涙するほどの男
魏の五将軍について、戦績をカウントしてみたんですけど、いずれも25~30戦以上していて、みんな勝率8割以上を維持していますからね引き分けとかを除いてこの勝率ってのははっきり言ってかなりすごいことだと思います。楽進は落とせなかった城が一回あるかどうか、不敗と言う意味では徐晃以上に凄いかもしれんですね
楽進や関羽みたいに弱小勢力から付き従って功績を挙げた人物と、ある程度組織が大きくなってから加入した人物では同じ将軍でも、雰囲気というか毛色が違う気がしますね。
共に苦難を乗り越えた仲間ほど心強い存在はないですよね。
劉備「楽進と張郃こえ〜」
楽進すきやわ。
わかる
毎回ボリュームマシマシの解説動画投稿おつかれ様です!息子の楽チンも父楽進同様に豪胆な人物で,文欽らの征伐に実績があったし,諸葛誕の乱で戦死したのが惜しい…たしか演義では蜀漢戦線で張遼の息子(名前忘れた)と英雄2世ってことでコンビ組んでフルボッコされてたから親子共々演義被害者の会に入会しそうだな(笑)
張虎ですねたしか許褚も息子がいて蜀漢との戦いで鍾会に処罰で斬られてたかな張虎、楽綝、許儀(だったかな?)なんで2代目ってこんな不運なんだ…
文官として身を立ててたら、ちゃんと高位につけたんでしょうけどねぇ…(笑)
体格は小柄で猛将って、負けず嫌いだったのでしょう。何となく納得。李典とは仲が悪かったのは、戦い方のスタイルが真逆(好戦的と理知的)だったからなのかなと思うけど、協力し合ったら最強のコンビになれただろうに…。
でも河北平定戦でも一緒に行動してるから、相性はバッチリだったかもですね。まぁ、楽進も張遼もイケイケ将軍なので、李典の心労は積み重なる一方だったかもですが(笑)
当時の文官の理知的才覚と肝っ玉と評される程の度胸、言わずもがなの腕っぷしを併せ持った猛将とか相手からしたら最悪過ぎる。
一番センターがシックリきそうな武将。
呂布もだけど、一旦子飼いの部下にするなら文官にすることになるのかな
手っ取り早く側におけますしね。
某所で聞かれていた件について。漢魏洛陽城については『洛陽伽藍記』が基本資料になります。日本語訳もあるのでとりあえず持っておいてもいいかもしれません。(北魏の話が中心なので読むのは大変でしょうが)荀彧の邸宅はこの辺にあった~なんてことが載っています。
Twitterのヤツ! マジで助かります!!
洛陽伽藍記/卷一:“西陽門內御道南,有永康里,里內復有領軍將軍元乂宅。〈掘古井得《石銘》,云是漢太尉荀彧宅。〉” 直訳:北魏時代の洛陽城西陽門内の御道の南側には、永康里があり、内には領軍将軍の元乂の邸宅があり、彼の家の古井戸には東漢太尉の荀彧の邸宅が残した遺物と伝えられる碑銘が発掘されている。この『洛陽伽藍記』と同時代の酈道元著『水経注』は漢末三国時代の名人の墓葬状況を多数記録したもので、例えば劉表墓、蔡瑁墓、曹仁墓など、本の文字記録は現代考古学の成果とほぼ一致している。
その中で最も悲惨なのは劉表墓で、劉表が死亡して80年後に盗掘され、劉表夫妻の死体は直接地表に暴露され、その後も『水経注』の記載によりその後1400年の間に各王朝の墓泥棒に破壊されたことがある。清代になると、劉表墓の建築構造の大部分は洪水でそのまま流された。。もちろん、主な原因はやはり『三国志』と『後漢書』に劉表が私的に礼制を僭越えて、彼の身分で楽しむべきではないものを楽しんだことが明記されており、死後の墓葬の規格も一般の州牧をはるかに上回っている。そのため墓泥棒に狙われ、同様の状況と盗掘事件が曹操宗族の墓地でも起きた。
元乂(486年-526年)の墓誌は1925年に発見され、本人の墓は1974年に発見され考古学的に発掘され、古代の墓泥棒と地下の浸水に破壊されたため、文化財はあまり出土していない。彼が暮らしていた南北朝時代、荀氏の後人は南朝で依然として活躍していた。例えば南朝宋の荀伯子(378年-438年)、散騎侍郎荀匠(486年-506年)、南梁南陳の豫州刺史荀朗(518年-565年)。だから荀彧の宅の碑銘は南北朝の人にとっては「古代文物」ではなく、「同時代の著名人の家族財産」かもしれない。
無双で一番乗りだったけど、史実もそうだったのね。OROCHIでは傾国の悪女、妲己も一番乗りで振り回してたんだよね。
楽進は功績の割に一番乗りばかり目立つから個性がどうしてもそれになっちゃうよね
三国志大戦だと便利で強いイメージ
関羽戦でも関羽軍打ち破るし、機動力滅茶苦茶あるし普通に強い
いや、一番槍も大概だがお前おかしいねんさっきまで西で戦ってたのに北に現れて消えたかと思えばまた西に現れるとかどうなってんねん夏侯淵部隊も機動力おかしいけど楽進部隊も大概やねん
というか初期曹操の武将達はみんなおかしい(笑)
劉備や関羽を前にして、ちょっとは怯もうぜw成果を安定供給してくれるのは本当に助かる。子孫は?とかも気になった。
楽綝は諸葛誕に斬られちゃった…
まじか。。。
演義では蜀漢にフルボッコされたべ…
武将系の二世は何かと不遇。ちゃんと文官として身を立てないと厳しい国。魏。
1番好きな武将ですわー
楽進は最前線で兵士と境遇を共に戦ってるイメージだけど、楽毅の子孫ということもあり、兵を集める事ができたんかな
一番乗り。張遼はおろか李典よりも地味な印象。しかも、それは『演義』だけでなく『正史』でさえその有様。演義被害者にして正史被害者と見なすのはあんまりか(笑)。
息子も諸葛誕の乱でとばっちり受けてますし、なんかもう、もうちょっと優しくしてよ、みたいな(笑)
正史最推しきちゃあああああああ嬉しいです^^記述が少ないのは寂しいとも思いますが、その分妄想が捗るので、まあよしとしてます()演義の”淩統との一騎打ち中に甘寧の矢を受けた”というエピソードも割と好きだったりします。病気とかよりも甘寧とかいう化け物に前線で討ち取られた方がある意味華々しいかとも。それにしても正史に”容貌短小”とか書かれるのすごいですよね。どんだけチビだったんだよww
なんとなく楽進見てると、火ノ丸相撲って漫画を思い出す…(笑)
劉備が名指しwやっぱり化け物何だね~
劉備「楽進張郃怖いって」
なんか横山三国志や我王の乱とかじゃ楽進と曹仁がセットで描かれている事が多いけど、記述が少ないからこその展開か……てか、その2作じゃ曹仁よか曹洪の方が曹操の初期副官って感じになっているのはやはり、金の力なのか?
夏侯惇:最側近の腹心、夏侯淵:最も期待してる武将、曹仁:最も信頼してる武将、曹洪:最も忠烈な特攻隊長、みたいなイメージあります!🐎
金持ちかつケチは有名ですね
戦国武将みたいに戦働きで功をあげた感じか
卞皇后をリクエストします。
古参で実績があるのに記述が少ないは趙雲と重ねることがありそうですしかし、伝では二番目に記載されているので位が高い所まであるにも関わらず他の将に比べて簡潔にされているのは、裏付けがなかったからでしょうかこれは著者と注釈者も出来なかったには何か大きな意味があったとか
曹操って三国になった頃こそ一大勢力だけど、そこまでの超ハードモードを考えたらそれくらい当然というか・・・他が通常プレイしてる間にRTAしてた男って感じだな。
地味に強いのが敵は1番嫌なんだよなあ
いつも楽しく拝見しています^ ^動画を拝聴してて、横山三国志で甘寧だけでなく、楽進にも「一番乗り‼︎」の描写を描いて欲しかったと思いました(´;ω;`)笑笑
一番似合う人(笑)
曹操陣営に最古参であり、参加以来ずっと快進撃でもっとも活躍した楽進、于禁、張遼三人だけど、生涯後半の記載が一番少ない、どう考えても不自然だけど・・・一説によると、おそらく荊州方面で関羽との対戦戦績があまり宜しくないが原因かと。同時期荊州に居る文聘が昇進したのに、いつのまに楽進が総司令から降ろされ、合肥へ張遼の副将になった。また孫権が襲来する際に、曹操の指示は張遼李典が出陣させ、楽進が留守、この時に合肥の兵力は7000の中、李典所属3000、張遼も同じ程度と思われ、つまり楽進所属は1000も未満。この時期前後の出来事から推測すれば、やはり関羽との対戦で大損害を受けたかと。でも正史三国志は魏が正統だから、関羽との対戦記録が悲惨すぎて(のちの曹仁もおなじ)ほぼ削除される可能性が高い。だからこそ楽進晩年の記録が少ないわけ。
曹操が必要以上に関羽の進撃にビビってたのも、もしかしたらそういった裏事情があったのかも、ですね。でも劉備も劉備で、張コウと並んで楽進も脅威と見なしてるし、うーむ、難しい🤔
ミスターオール80
し ろ う ま www
サムネが、競馬に見えるんだけどw
よこみつ三国志派
2番乗り
常にあらゆる敵の機先を制して優位な位置を占め、虚を衝いて大損害を与えて行くような感じがしますが、とにかく勝つことに長けている様子。合肥の様子からすると、守備も得意で攻められないなら無理もしないのかもしれません。これでは強すぎて記述も簡素になってしまうんじゃ?名ありの武将をさほど討っていないため、演義では戦果の喧伝も無く地味になってしまっているようですが。
ほんとに惜しすぎる
楽進の能力値って日本武将でいえば秀吉の副将の蜂須賀正勝だと思うぜ
“8回の男”、楽進吠えた!「良い形でクローザーにつなぐのが今の僕の仕事」
許昌新聞web版
9月19日(水)22: 35配信
〈魏1-0呉〉19日・合肥スタジアム
◆
魏軍は19日、呉軍との壮絶な投手戦を制し、大事な三連戦のニ戦目を白星で飾り連勝とした。
曹操・孫権両監督が「ペナント終盤の天王山」と位置づけた晩夏の決戦の二戦目は、息詰まる投手戦。
4回に奪った虎の子の1点を死守する為、曹操監督はペナント終盤に来て連投の疲れもあろう勝利の方程式「李楽張」の投入を躊躇しなかった。
7回李典、8回楽進、9回張遼と続く援陣は初戦に続き一人のランナーも出すことなく呉軍打線を文字通り完封。
中でも圧巻だったのは「8回の男」楽進だ。
小柄な体格を活かして地面を擦るようなアンダースローから繰り出される変化の大きなスライダーに、強打者周泰が身体を大きくのけぞらせる。外角いっぱいに決まったストレートに球審の右手が高らかに上がり、マウンドの楽進はグローブをポンと叩いて咆哮した。
首位打者凌統から始まる呉の強力クリーンナップを三者連続三振に斬り捨てた変則左腕に、「今日はちょっと気迫が違ったね」と指揮官も上機嫌。
試合後、「良い形でクローザーの張遼さんにつなぐことだけを考えて投げました」と楽進が語った通り、9回に登板し横綱相撲で“土俵”を締める張遼の露払いを完璧に務め上げた。
呂布軍からFA移籍してきた張遼に押し出される形でクローザーの席を譲り、今はセットアッパーの立場にあるものの、楽進は泰然自若を崩さない。
「目の前のバッターと、優勝目掛けて投げるだけです。9回も8回も同じですよ」と涼しげに微笑んで、楽進は張遼、李典らと並んで悠々とベンチ裏に引き上げていった。
スポーツ新聞と三国志という全く関連のない単語を合体させた漢…
固定おめ
素晴らしい文章です。
いつも楽しく見てます。
では打線版で魏軍武将のラインナップをイメージ。
8.楽進
6.李典
4.張遼
3.徐晃
9.龐徳
7.張郃
5.于禁
2.夏侯惇
…でどうだ。
@@saburiryu28go楽進の振り子打法の1番バッター感は異常
蒼天航路の楽進マジ好き
惚れたわ
マジでそれ
「り」「遼」「遼来来」
「ゆ」「ゆけい」「張遼」
戦場の決して退いてはならぬ場所
楽進は常に必ずそこにいた
極太の肝玉一つでそこにいた
翌 建安23年 楽進 絶息!
孫呉🔥 😭
楽進と李典は、とりあえず置いとけば、敵よりも味方がビビるくらい戦果あげてくれるイメージ。
最古参の猛将って曹操からしても心強すぎるよね。
于禁と楽進はホントに心から頼りにしてたでしょうね
曹操と同じで「姿貌短小」と言われた楽進。背が低い同士で可愛がられた説(妄想
郷里で千人も人集めてきたあたり、何かしら魅力があったのか、それとも弁舌の才があったのか…
蒼天航路の楽進なら、男も惚れて付いていくカッコよさがある
もし三国志演義が魏を中心に描かれていたらおそらく趙雲の立場だったんじゃないかな。戦場で武功を立てたけど細かい正史の描写がなく創作を入れ込みやすい存在だからね。あらゆる方面に出陣したがために記録が散逸してしまったんでしょうな。五大将でも次席を与えられて曹操からも絶対の信頼を置かれた名将。
蒼天航路の楽進かっこよすぎだよな
しかしそれぞれに戦いのスタイルというか、ありますな
張遼も徐晃も楽進も李典も于禁も曹仁も夏候惇も、それぞれの経緯がありそれぞれの戦い方をするんですな
正史に記述が少ないのも失敗を犯さなかったからでしょうか?
于禁は後年に失態を張遼も元は降将ですし、曹氏・夏侯氏の功績をかすめないよう記載をあえて簡略化された
それか息子が諸葛誕に斬られてるんで、言い伝える人が居なかったか。黄忠みたいに。
最初に帳下の吏として用いられていたということは読み書きが充分に出来たという事。この時代に読み書きが充分に出来たとなると確かに豪族出身だった可能性がある。
ですね🐎🐎
楽しそうな名前ランキング1位
蒼天航路の何が何でも後ろには下がらない一徹な武勇が好きでしたね~
今際の際には皆が涙するほどの男
魏の五将軍について、戦績をカウントしてみたんですけど、いずれも25~30戦以上していて、みんな勝率8割以上を維持していますからね
引き分けとかを除いてこの勝率ってのははっきり言ってかなりすごいことだと思います。
楽進は落とせなかった城が一回あるかどうか、不敗と言う意味では徐晃以上に凄いかもしれんですね
楽進や関羽みたいに弱小勢力から付き従って功績を挙げた人物と、ある程度組織が大きくなってから加入した人物では同じ将軍でも、雰囲気というか毛色が違う気がしますね。
共に苦難を乗り越えた仲間ほど心強い存在はないですよね。
劉備「楽進と張郃こえ〜」
楽進すきやわ。
わかる
毎回ボリュームマシマシの解説動画投稿おつかれ様です!息子の楽チンも父楽進同様に豪胆な人物で,文欽らの征伐に実績があったし,諸葛誕の乱で戦死したのが惜しい…たしか演義では蜀漢戦線で張遼の息子(名前忘れた)と英雄2世ってことでコンビ組んでフルボッコされてたから親子共々演義被害者の会に入会しそうだな(笑)
張虎ですね
たしか許褚も息子がいて蜀漢との戦いで鍾会に処罰で斬られてたかな
張虎、楽綝、許儀(だったかな?)
なんで2代目ってこんな不運なんだ…
文官として身を立ててたら、ちゃんと高位につけたんでしょうけどねぇ…(笑)
体格は小柄で猛将って、負けず嫌いだったのでしょう。何となく納得。
李典とは仲が悪かったのは、戦い方のスタイルが真逆(好戦的と理知的)だったからなのかなと思うけど、
協力し合ったら最強のコンビになれただろうに…。
でも河北平定戦でも一緒に行動してるから、相性はバッチリだったかもですね。
まぁ、楽進も張遼もイケイケ将軍なので、李典の心労は積み重なる一方だったかもですが(笑)
当時の文官の理知的才覚と肝っ玉と評される程の度胸、言わずもがなの腕っぷしを併せ持った猛将とか相手からしたら最悪過ぎる。
一番センターがシックリきそうな武将。
呂布もだけど、一旦子飼いの部下にするなら文官にすることになるのかな
手っ取り早く側におけますしね。
某所で聞かれていた件について。
漢魏洛陽城については『洛陽伽藍記』が基本資料になります。日本語訳もあるのでとりあえず持っておいてもいいかもしれません。(北魏の話が中心なので読むのは大変でしょうが)
荀彧の邸宅はこの辺にあった~なんてことが載っています。
Twitterのヤツ! マジで助かります!!
洛陽伽藍記/卷一:“西陽門內御道南,有永康里,里內復有領軍將軍元乂宅。〈掘古井得《石銘》,云是漢太尉荀彧宅。〉”
直訳:北魏時代の洛陽城西陽門内の御道の南側には、永康里があり、内には領軍将軍の元乂の邸宅があり、彼の家の古井戸には東漢太尉の荀彧の邸宅が残した遺物と伝えられる碑銘が発掘されている。
この『洛陽伽藍記』と同時代の酈道元著『水経注』は漢末三国時代の名人の墓葬状況を多数記録したもので、例えば劉表墓、蔡瑁墓、曹仁墓など、本の文字記録は現代考古学の成果とほぼ一致している。
その中で最も悲惨なのは劉表墓で、劉表が死亡して80年後に盗掘され、劉表夫妻の死体は直接地表に暴露され、その後も『水経注』の記載によりその後1400年の間に各王朝の墓泥棒に破壊されたことがある。清代になると、劉表墓の建築構造の大部分は洪水でそのまま流された。。もちろん、主な原因はやはり『三国志』と『後漢書』に劉表が私的に礼制を僭越えて、彼の身分で楽しむべきではないものを楽しんだことが明記されており、死後の墓葬の規格も一般の州牧をはるかに上回っている。そのため墓泥棒に狙われ、同様の状況と盗掘事件が曹操宗族の墓地でも起きた。
元乂(486年-526年)の墓誌は1925年に発見され、本人の墓は1974年に発見され考古学的に発掘され、古代の墓泥棒と地下の浸水に破壊されたため、文化財はあまり出土していない。
彼が暮らしていた南北朝時代、荀氏の後人は南朝で依然として活躍していた。例えば南朝宋の荀伯子(378年-438年)、散騎侍郎荀匠(486年-506年)、南梁南陳の豫州刺史荀朗(518年-565年)。だから荀彧の宅の碑銘は南北朝の人にとっては「古代文物」ではなく、「同時代の著名人の家族財産」かもしれない。
無双で一番乗りだったけど、史実もそうだったのね。OROCHIでは傾国の悪女、妲己も一番乗りで振り回してたんだよね。
楽進は功績の割に一番乗りばかり目立つから個性がどうしてもそれになっちゃうよね
三国志大戦だと便利で強いイメージ
関羽戦でも関羽軍打ち破るし、機動力滅茶苦茶あるし普通に強い
いや、一番槍も大概だがお前おかしいねん
さっきまで西で戦ってたのに北に現れて消えたかと思えばまた西に現れるとかどうなってんねん
夏侯淵部隊も機動力おかしいけど楽進部隊も大概やねん
というか初期曹操の武将達はみんなおかしい(笑)
劉備や関羽を前にして、ちょっとは怯もうぜw
成果を安定供給してくれるのは本当に助かる。
子孫は?とかも気になった。
楽綝は諸葛誕に斬られちゃった…
まじか。。。
演義では蜀漢にフルボッコされたべ…
武将系の二世は何かと不遇。
ちゃんと文官として身を立てないと厳しい国。魏。
1番好きな武将ですわー
楽進は最前線で兵士と境遇を共に戦ってるイメージだけど、楽毅の子孫ということもあり、兵を集める事ができたんかな
一番乗り。張遼はおろか李典よりも地味な印象。しかも、それは『演義』だけでなく『正史』でさえその有様。演義被害者にして正史被害者と見なすのはあんまりか(笑)。
息子も諸葛誕の乱でとばっちり受けてますし、なんかもう、もうちょっと優しくしてよ、みたいな(笑)
正史最推しきちゃあああああああ
嬉しいです^^記述が少ないのは寂しいとも思いますが、その分妄想が捗るので、まあよしとしてます()
演義の”淩統との一騎打ち中に甘寧の矢を受けた”というエピソードも割と好きだったりします。病気とかよりも甘寧とかいう化け物に前線で討ち取られた方がある意味華々しいかとも。
それにしても正史に”容貌短小”とか書かれるのすごいですよね。どんだけチビだったんだよww
なんとなく楽進見てると、火ノ丸相撲って漫画を思い出す…(笑)
劉備が名指しwやっぱり化け物何だね~
劉備「楽進張郃怖いって」
なんか横山三国志や我王の乱とかじゃ楽進と曹仁がセットで描かれている事が多いけど、記述が少ないからこその展開か……
てか、その2作じゃ曹仁よか曹洪の方が曹操の初期副官って感じになっているのはやはり、金の力なのか?
夏侯惇:最側近の腹心、夏侯淵:最も期待してる武将、曹仁:最も信頼してる武将、曹洪:最も忠烈な特攻隊長、みたいなイメージあります!🐎
金持ちかつケチは有名ですね
戦国武将みたいに戦働きで功をあげた感じか
卞皇后をリクエストします。
古参で実績があるのに記述が少ないは趙雲と重ねることがありそうです
しかし、伝では二番目に記載されているので位が高い所まであるにも関わらず
他の将に比べて簡潔にされているのは、裏付けがなかったからでしょうか
これは著者と注釈者も出来なかったには何か大きな意味があったとか
曹操って三国になった頃こそ一大勢力だけど、そこまでの超ハードモードを考えたらそれくらい当然というか・・・他が通常プレイしてる間にRTAしてた男って感じだな。
地味に強いのが敵は1番嫌なんだよなあ
いつも楽しく拝見しています^ ^
動画を拝聴してて、横山三国志で甘寧だけでなく、楽進にも「一番乗り‼︎」の描写を描いて欲しかったと思いました(´;ω;`)笑笑
一番似合う人(笑)
曹操陣営に最古参であり、参加以来ずっと快進撃でもっとも活躍した楽進、于禁、張遼三人だけど、生涯後半の記載が一番少ない、どう考えても不自然だけど・・・
一説によると、おそらく荊州方面で関羽との対戦戦績があまり宜しくないが原因かと。
同時期荊州に居る文聘が昇進したのに、いつのまに楽進が総司令から降ろされ、合肥へ張遼の副将になった。
また孫権が襲来する際に、曹操の指示は張遼李典が出陣させ、楽進が留守、この時に合肥の兵力は7000の中、李典所属3000、張遼も同じ程度と思われ、つまり楽進所属は1000も未満。この時期前後の出来事から推測すれば、やはり関羽との対戦で大損害を受けたかと。
でも正史三国志は魏が正統だから、関羽との対戦記録が悲惨すぎて(のちの曹仁もおなじ)ほぼ削除される可能性が高い。だからこそ楽進晩年の記録が少ないわけ。
曹操が必要以上に関羽の進撃にビビってたのも、もしかしたらそういった裏事情があったのかも、ですね。
でも劉備も劉備で、張コウと並んで楽進も脅威と見なしてるし、うーむ、難しい🤔
ミスターオール80
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サムネが、競馬に見えるんだけどw
よこみつ三国志派
2番乗り
常にあらゆる敵の機先を制して優位な位置を占め、虚を衝いて大損害を与えて行くような感じがしますが、とにかく勝つことに長けている様子。
合肥の様子からすると、守備も得意で攻められないなら無理もしないのかもしれません。
これでは強すぎて記述も簡素になってしまうんじゃ?
名ありの武将をさほど討っていないため、演義では戦果の喧伝も無く地味になってしまっているようですが。
ほんとに惜しすぎる
楽進の能力値って日本武将でいえば秀吉の副将の蜂須賀正勝だと思うぜ