My opinion is the only thing: children don't have the experience to attend the funeral, I guess. They think about it only by wearing black clothes and being miserable. Probably, they had no idea what to eat something. That's the point, we don't know about medical surgery, so we can't discuss the body. I think this phenomenon is the same thing before I've written.
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こういうのに書かれるコメントって宗先生の意見を聞いてすぐYESしか言わない。
多分そういう人こそ自分で考えるべきだと思うし、この問題の背景的に説いたいことって多分もっと大きな異文化や多様性のあり方的な部分に通じる部分やと思う
普通は料理を煮込む鍋で、わざわざ「何を煮ているでしょうか」と聞かれているから、普通の鍋の使われ方をしていないのではないかと思って、たどり着いた答えなんじゃないかなと思いました。
世の中には、若い世代が優れていると言うより、何か足りないと言いたがる人が多い気がします。外で遊ばない子が多いとか、会社をすぐ辞めちゃう新人が多いとか。
これを劣っていると表面的に解釈するのではなく、実は目に見えないパラダイムシフトが起こっていて、常識が変わってきているんだと認識を改めるべきです。
小1で父親の死に親戚が集まって葬儀場で寿司を出された時に、なんでこんな悲しい時にいつもより美味しいものを食べて談笑してるんだよと思ったことを思い出しました。
子どもは恣意的な「社会的常識」にとらわれない想像力があるからこそ、この誤読と言われてしまう解釈ができるのでしょう。
私も小学4年の時に母が亡くなり通夜ぶるまいの時、酒を飲んで大声で話している姿を見て、凄く違和感がありました。
児童目線では、料理だと回答するのは、状況的に難しかったと思いました。
まず、以下のように考えた児童が多かったのではないかと思います。
「何を煮ているかがわざわざ議論の対象になっているのだから、文章を踏まえてしっかり考える必要があるのだろう。
『ぐずぐす』という表現も見慣れないし、ただの料理ではないはずだ。
母親の葬儀の場面なのだから、母親と考えるのが妥当だろうか。」
また、料理だとわかっていた児童も、他の班員の意見や他の班の発表に同調してしまいやすかったのではないでしょうか。
なぜなら、講演会をするような偉い人が後ろで見学していて、いつもよりも緊張感があり失敗が怖くなっているからです。
子供が葬儀の形式を知らない中これを会食を発想するのは困難で、むしろ火葬ならぬ「煮葬」文化だと捉える方が自然だと感じる。それを勝手に自分の常識の範疇で解釈し、子供の基礎的能力や読解力の欠如だと見なす方が問題だと思う。
ごんぎつねで読解力を問うなら、鍋の中身を聞く問いがそもそもずれています。子どもたちは知らんしで終わるものを、問題の意図などを考えて回答している。思考力が備わっていると思います。
子どもたちの回答はとても面白いものなのに、大人たちが、その自由な思考過程に入り込めず、また尊重することもしないで「読解力の低下」や「読解力以前の基礎的な能力」を議論しているのは、教育理念として根本的に間違っていると思います。Eテレの「ふしぎエンドレス」のような、もっとゆとりのある教育をして欲しいものです。
小学校の教員をしていました。これは、授業者の発問が悪いのです。子どものせいにすべきではないです。
設問がよく分からないのもそうだし、「こんな質問をしてくるくらいなんだからきっと面白いことが起きてるんだろう」という幼さから来る残酷さと好奇心のせいだと思います
私もそう思いました。こんな字義的質問をすることが不自然なので、賢い子どもたちは何か深い意味があるのかもしれないと勘ぐって誤読をしてしまったのです。
まさにおっしゃる通り。まず今どきの小学生はお葬式の経験自体がない子も多いはず。(40代の私も初めて親族の葬儀にでたのは高校生のときで,ちなみに曾祖母の葬儀)加えて今はほとんどのことを斎場のスタッフさんがやってくれるから,遺族が接待するスタイルもあまりないはず。(少なくとも私はあまり経験していない。)
そのあたりの(子どもたちの生活経験の度合いを測れていないという意味で)児童理解が乏しい先生なのかなと思わざるを得ないですし,それも加えて…発問の意図もさっぱりわからないですね。
マジかよって読み返したら
葬式などの常識がないと「煮込んでいるもの」を探すと遺体になりそうって思って
なるほどと思ってしまったぐらい
むしろ欲もこんな想像を広げたなと感心したんだがなあ
ごんぎつねのこのインパクトが強いので、そこだけが話題になりますが、『ひとつの花』のコスモスを渡した父親の心情も読めていないのです。
歴史をまだ教わっていない4年生にとって百年前も千年前も同じことでましてや火縄銃・土間・網で漁など原始時代的ワードも出てくるし死者を煮るアニミズム的な儀式もあるだろうと推測されたと推測します。
子供が社会の常識なんて知るはずがない。だからこそ自由な発想ができる。大人は常識に雁字搦めにされていかに自由を失ってるか改めてわかった。
昔娘に、「みんなのご飯を作ってるんだよ」って言ったら、「何で?」って答えたのを思い出しました。
都会に住む小学校低学年だと葬儀参加経験率は10%もないはず。90%の子供は葬儀未体験なのだから葬儀に大鍋で何かをぐつぐつ煮ていた、しかも昔話だし、今のような設備が整った火葬施設はないと考えて、大鍋でおばあさんを煮て消毒していたと考えても仕方ない。
知識というより実経験不足からくる単純な誤答に過ぎない。
都会に住むということはそういう事だよ。
とても興味深い話題でした。先生の見解に同感、同意です。他の皆様のコメントレベルも見識高く、大変勉強になります。いろんなお話が聴けて知的好奇心が刺激されるので、上質な大人の教養サロンにいるようです。
いつも楽しみにしています。
ありがとうございます😊
先生の考え方に大賛成です
子供たちに知識的な不足があるのは当然背景としてあると思いますが、やはり状況を考える必要があると思います
母親が死ぬという少し重たい場面を読んだ後で先生が満を辞して「この鍋で何が煮られていますか?」と質問し、班で話あってまでして出した結論として「これただの料理です」とは言いにくくないですかね
だってそれじゃあ先生の質問は本筋と関係無いじゃんって子供たちが思っても何もおかしくないと思いますけどね
だから何が一番突飛かと言えば先生の質問が一番突飛で突拍子もないものだと思います
私は小学2年生の時に授業でごんぎつねに出会いましたが、正直なところ鍋の件は何を意味しているのか当時わかりませんでした。
今読めば「ごん」という狐の視点で書かれているからこその「何か」だとわかります。ただ当時の私は「ごん」という前提を無視して人間の視点という思い込みで読んでいて、「よそいきの着物」や「手ぬぐい」の意味はわかっているのに鍋に入っているのは料理ではない「何か」と表現されていることに強い違和感を持っていました。その当時「何か」の中身を問われていたら子どもたちと同じく何か突飛な答えをしていただろうと思います。
子どもたちが大人から見て突飛に感じる意見を述べたのは世代間の常識の違いから生じている可能性は高いでしょう。
ただ私のように誰の視点で書かれている文章であるかに気付かないが故に突飛な意見が出てしまった可能性もあるのではないでしょうか。何をもって読解力とするのかは国語の専門家ではないのでわかりませんが、どの視点で書かれているかを文章の様々な表現から読み解けないと私のような誤読も生じるのではないかと考えています。
煮込んでいたという描写の直後に、「ごんは葬式だと気づいた」みたいなことが書いてあるから、ごんが、かまどでなにかを煮る行為のみを見て、それが葬式であると判断できたということは、遺体を煮ていると考えただけでしよう。
読解力の低下とか常識とかそんなに難しい話じゃないと思います
あ、もしかして、あの頃、文法や単語を頑張って覚えたのに古文が全く読めなかったのって古文の世界での「常識」を知らなすぎたからかも!と思いました。
一つ言えるのはワイが小4の時よりこの子らはよく考えているということ
確かに小学生の頃に初めて葬儀に参列した時、会食をすることに違和感があった気がする。
知らない常識を問われたら、そこまでの常識と場面的状況から類推してこの答えが出ても違和感はないと思える。
「昔はお墓がなかったので」って回答してる子供は本文の読解できてないな。本文中に墓地って書いてあるから。
動画の内容に概ね同意しました。私の高校はいわゆる地方トップの公立高校で男子校でしたが、国語の先生がこんなことを言っていたのを思い出しました。うちの高校では、若い女性が主人公である小説の問題を解かせると正答率が悪い。実際、センター試験でそのようなものが出た年では小説の平均点が下がった。これはまさにこの動画で言っていたことと同じでしょう。前提として私の高校の生徒たちは読解力が極めて高いわけですが、それでも、男子校という思春期において女性との接触が3年間殆どないという状態、すなわち若い女性がどのような性質を持っているか知らないことが原因で、間違った解釈をしてしまうということでしょう。また、センターで年老いた方の恋愛が題材の小説が出題された年がありましたが、その年の小説の平均点は低かったはずです。これも、高校生に老人の心情を理解できるような知識がないということになりますね。
論説文は語句の意味が分かれば論理的に妥当な推論を繰り返すだけで正解に辿り着けますが小説はそうはいかず、社会的、文化的なコンテクストまで加味しないといけないという性質がありますね。したがって読解力を議論する場合において小説が読めているかということのみを根拠に議論するのは少々乱暴であるわけです。
興味深いコメントですね。
男子高校生と女性の価値観が異なることによって、問題が解けなくなる。
そして、その原因が「登場人物にはあって、解答者にはないコンテクストだから」となってしまうのはかなり国語としては危険なのではと。
例えば「昭和の人の恋愛観はこうだから」というステレオタイプな物の見方をしている人が正解出来て、そういうステレオタイプ的な見方を「知識」として教えていくのが国語となるのは、自分は少し違和感を覚えました。
要点がなく、また趣旨とズレていたら申し訳ございません。
子供達でなくとも、大人同士でもあり得る事ですね。深いお話面白かったです。読んでみます!
自分はもうおじさんの世代ですが、小学校4年生で、そもそも授業でこのような議論はした記憶がありません。
もし、この年齢で「鍋で何を煮ていたのか?」という物語の本質とは関係のない議題を与えられて議論をしたとしたら、文章の中から正解箇所を探す作業の結果として、このような結論を出してもおかしくないのかなと思いました。
なるほどのお話でした。葬儀中に会食をすることの違和感から、選択肢から外したというお話でした。私がふと思ったのは、これは都会の小学校の話ではないか、というものです。都会かどうかは別として、子供たちはそのような場面を現実に見たことはない、ということは確かだろうと思います。
私は田舎出身のため、また、50歳を過ぎた今となっては、40年程度昔の話になりますが、私が子供の頃は、葬儀はお寺で開かれ、そのお寺の檀家であるかどうかにかかわらず、近所の主婦たち(時代ですね!)が出ていって、ごんぎつねの場面に出てくる様な、料理の準備をしていました。そのような場に、子供も連れていって(託児所サービスなどありませんでしたから)、子供たちは状況もよく知らないまま、無邪気に遊んでいるということは、よくありました。(今の時代であれば、都会の子供は塾通いで忙しく、無邪気に遊ぶ時間もないでしょうか。。)
現在海外で生活しているため、日本で最後に葬儀に参加したのは10年ほど前になります。地元の田舎の葬儀でしたが、お寺ではなく、葬儀専用(だったと思います)のホールで開かれました。近親者には食事の場が設けられていたのかもしれませんが、仮にそうだったとしても、昔の様に協力し合って食事を作るのではなく(キッチンの設備はありませんでした)、弁当屋に頼んで配送してもらうという形だったと思います。
高齢化が進んで、亡くなる方の年齢も上がっています。私の両親はまだ健在で、長生きして欲しいと思っていますが、「終活」や「墓じまい」という話が聞かれる世の中に変わってきました。人に迷惑をかけない、ということは日本人の美徳でいいことだと思いますが、人の世話になる(または世話をする)、助け合う、ということも大切なことだと思います。自戒を込めて言わなければいけないですが、隣近所に住んでいる人とのつながりは、かなり失われてきているのではないでしょうか。近所付き合いの煩わしさがない、ということもありますが。。時代と言ってしまえばそれまでですが、寂しさを感じます。。
膝を折って、目線を子供に合わせることが大切だと思います。誤解と浅い思慮は、人に口から毒を吐かせます。いつも口から宝石をシャボン玉のように吹いていたいと感じます。
めっちゃ良い解釈ですね。感動した。
小学生🧒「私達の世代では女性が炊事をするというのが当たり前の価値観ではありません。それに、現代の三省堂の国語辞典には形容動詞としての『ぐずぐず』の意味が載っていません。
そうした、世代によって変わる、何を常識とするかの視点の差異に対する大人の想像力の欠如こそが、子供の誤読という評価を一方的に生んでいるのではないでしょうか?」
この話についての記事を読むと、人間性が欠如した子供たち、みたいなところにやっぱり持って行っている感じがあって…
しまいには「人を〇すアニメをみるからそうなるんだ!そういうゲームをするからそうなるんだ!」みたいなところに話が進んでいくんだろうなぁ…
先生の意見にもコメントの皆さんの意見にも賛成ですが、そもそも「大きな鍋」という描写が、ヘンゼルとグレーテルの、魔女が鍋で人を煮る話に結びついたのではないかと思います。先生のおっしゃっていたように、鍋というワードを聞いてまず食事を考えたが、違っていると判断して次に思いついたのが人だったのではないでしょうか。
宗先生が教科書の読解の解説とかやってくれると面白いかも
問いかけ方に問題があるだけ。クイズ番組の影響やお笑いのオチ文化の影響で何か特殊なことを言わなければいけないと思った末の答え。読解力云々の問題というのは勘違い。
ごんぎつね、懐かしい。
授業で「突っ変えずにどこまで音読できるかゲーム」を班対抗でやることになって、授業の前半で練習して、後半、前に出て音読を披露するっていう段取りやった。
トップバッターの子が緊張しすぎて、「ごんぎつね にいに な」、と言うてもうた瞬間、「はい、にって言いましたー」と一斉に指摘されて、半泣きになっとったw
数年前からこちらの本を手に取り、今も時折考えています。
当時小学1年生だった娘に、ごんぎつねを読み聞かせ、同じように聞いて見ました。
驚いたことに、書籍にあるように、鍋で煮ていたものは、兵十の母の遺体だと答えました。🤔
ごんぎつね全体を通した、キツネのゴンの改悛と、それを知らずに撃ち殺してしまい、ラストで全てを知る兵十の姿、というお話の全体像は理解し涙する子ではありました。
ただ、鍋で何を煮ているか?という私からの問いには、それが葬式なのか?という手元にある情報を整理して答えたにすぎないのだなと、2年ぶりに、宗さんの見解を拝見して思うに至りました。
現在、小3で8歳になりましたが、核家族少子化の進行で、身近に『生老病死』を体験していません。
数年間のコロナ自粛も遠因となり、娘は、葬儀で食事をしたり、火葬場で遺体を焼く光景をみたこともなく、我々大人が当たり前だという常識を獲得し得るチャンスがなかったのです。
短絡的に、『今の若者は論』に、国語力問題を帰結させてしまうのは誤りでしょう。
こちらの書籍は、ルポルタージュという性質上、なんらかの強い主義主張を論じようというものでありません。(著作物である以上0ではない)
我々、大人が、紋切り型の先入観を排して、実態から何を思考するのか、宗さんが今回、小学生の立場で理詰めたように、我々、大人の国語力が試されているように感じた次第です。🤔
当時すんなり読めていたと思うのですが、顧みてみると確かに自分の場合は曾祖母の葬式や毎年の法事など同世代の中では葬祭の経験が多かったと思われますね
小学生「(あーはいはい引っかけね、料理とか単純に答えたら笑われるヤツね)母親」
教員「料理」
小学生「は?」
問題の出し方が悪いのに現代の子供が劣化してるだのって話に持ってくのが教育の崩壊だよ
鍋で何を煮ているかってわざわざ問われたら、昔の葬儀ではそうするのかもと思ってしまうかもね
葬式の知識がないのは、まだ経験していないのもあるだろうが、そうした場面を描いた作品に触れていないということ。
小説、映画、テレビドラマ、漫画、アニメ…彼らが触れる作品がリアルな家族やその死を描かなくなっているのでは?
話を聞くほど,国語力ではなくていわゆる一般常識が欠けている中で論理的に考えた結果であるのかと納得しました.
きちんと考える素材を提供していくことこそが,ある種道徳的に重要になってくるのでしょうか.
大学入試を例に取ってみると,古文常識を知らないと古文の読解ができない時がある.本で紹介された子どもたちはそれと同じ状況だったのでしょうね.
宗先生の見解さすがです!
四年間コロナ渦で、消毒という発想も経験からですね。
葬儀でもコロナで会食もなくなって経験もしてないでしょうからその発想もでてこないでしょうし。
子供の想像力は大人の常識を超えてて柔軟ですね
おっしゃる通り文章中に答えのないことを問うて読解力うんぬんは違いますよね。火葬が定着したのは明治からだし、この昔話的なフィクションがどう言う設定なのかなんて自由な発想どんとこいですよね😮
この本の内容が本当かという検証大事。売れるためにもっともらしい事作るの出版社得意だし。
小学生の時、初めて葬式を経験しました。遠い親戚でしたが、火葬場への移動のバスの中で、知らない親戚のおばちゃんらが、楽しそうにおしゃべりしていたので、父親に「なんで人が亡くなったのに楽しそうなのか?」と聞いたのを今でも覚えています。
「葬式で皆んなで楽しくご飯を食べるための鍋」なんて、当時の自分も想像出来なかったことと思います。
私も6年生のときでしたが、祖父の火葬中に親戚連中の大人が会食して、酒を飲んで、なんだか楽しそうにしてた光景が強烈な違和感で、20年経った今でもそのときの記憶が残ってます
いつも質の高い動画をありがとうございます。毎度、知的好奇心が刺激されます。
本題とはズレるけど、大学の国語教育の授業の時に、
ごんぎつねで最後にごんが撃たれてしまったことに対して「仕方ない」という感想が児童から出てきて、国語力・共感力の乏しさにビックリしたって話があったんだけど、
「いや、それはお前が望む回答を言ってないだけで、そう感じる人が居てもおかしくないだろう」とずっと思ってしまい、国語教育って感受性までも規定する洗脳なのかなって考えてしまったことがある。
子供「こんなことを聞くなんて面白い答えが用意されてるんだろうな!!まさか料理なんて単純な答えではないだろう!」
話のもって行き方がおどろおどろしいんです。
母の葬式、ゴンを撃ち殺す、かまどの火に大鍋、グズグズ煮ている。
ホラーですね。
母を煮ていると言う答えは子供達の素直な反応だと思いますが。
今回も興味深い動画の投稿、ありがとうございます。
私も子どもたちにとっては時代背景も考慮した自然な読解だったのでと思います。
現代の葬儀への参加経験と知識があったとしても、「よそ行きの格好をした参加者が料理を作っている」と繋げることは、現代の葬儀と乖離が大きく、難しいのではないでしょうか。
現代の葬儀は、自宅ではなく葬儀専用会場で、仕出し弁当を食べ、立派な建物と設備の火葬場で骨にするという内容です。
この時代は火葬場がないだろう、よそ行きの格好で行う事は特別なことだろう、自宅で出来ることは何かなどの予測から導き出される自然な答えとしての葬送ではないでしょうか。
読解力の前提、ですよね。戦後、文化の継承が無されなくなったことが一番の原因かと思います。このこと含めて『国語力』と呼べるのかもしれません。
そしてこう言う観点を持っている、持とうとしている人がごく僅かであることが、何よりも大きな問題かと思います。
読解力より情緒が読めない子供たち、深刻だと思います。
何でもかんでも読解力に原因を求める雰囲気がもはや病的…。何か不足が有れば教育に原因を求める雰囲気とそっくり…。宗さんの意見に私は完全同意。みんなの意見も確かに聞きたいです!なんか、自分より下のひと見て、自分自身が安心したいだけなんじゃないかとも思っちゃった。この本の著者(石井さん)に対して。
とても素晴らしいお話でした
ありがとうございます
想像してみて欲しいのですが、この舞台がアフリカの少数部族や銀河の果てのある星で、とかだと大人でも答えられないでしょう。
つまり国語の問題ではないでしょう。
母から聞いた話ですが、母の故郷では、昔は集落で亡くなる人が出ると、近所の人が手伝いに行っていたそうです。通夜や葬儀の後に振る舞う料理を作るのを近所の方が手伝ってくださっていたようです。そういうことを少しでも知っていたら、料理を作るという発想ができたかもしれません。でも、今は葬儀場を借りて、仕出しの料理が出る様になりました。料理を作っている人がいる場面を目撃することもないかもしれません。葬儀への出席経験も少ないでしょう。このような発想をしても無理はないのではないかもしれないと思いました。
石丸構文と進次郎構文を現代文講師視点で解説してほしいです
英語教師かと思うくらいのイケボ
確かに宗先生の解釈もできます。恐らく正しいと思います。ただ、私も小4頃ごんぎつねを習いましたが、こんな解釈はしなかったですし、してた同級生はいなかったと思います。「何を煮ていたか」という話し合いはなかったと思いますが、こんな解釈なかったなー
そもそもただ料理しているだけのワンシーンを切り取って「何を煮ていると思う?」なんて意味深な質問されませんからね笑
ジブリの怖い考察とかでワクワクしていた小学生時代を思い出して懐かしく感じた
消毒っていう発想が現代的で面白いな
ごんぎつね問題は知りませんでした💦
最初に子供達の回答を聴いたときは
ええ?と思いました。
けれど、小学4年生だったら
家で通夜、葬儀する事も知らなかったと思います。
だから料理を振る舞うことも知らない。
私たちでも葬儀場で全てお任せで
やりますからね。
宋先生の解説は分かりやすく私も同感です‼️
「消去法」有り得ないことから外していく。
大理解です!←日本語的に変ですね😁ごめんなさい🙏
出題が問題‼️
何を煮ているのか?と問われれば…
アレルギーやコロナなど、消毒やら…
経験上知っている子供達は
遺体を消毒するとかの発想になつても不思議ではない。
4班とも同じような答えであることから、同じような思考回路で回答を出したのだと考えます😊
そもそも、罪と向き合うゴンの切ないお話なのに…
なぜこのシーンが出題されたのでしようか??
教師の側に問いたい気持ちです。
もりてつさんとの1984のお話の後に偶然上がってきたのですが、
これも、タイミングというものだと感じております。
日曜日の午後に中々考えさせられるお話でした。
解説を聴けて良かったと心から思います(゜∇^d)!!
宋先生、ありがとうございました❤
良いチャンネル発見
この物語において、鍋で煮ているシーンについてそもそも何を議論させたかったんでしょうか?
何か国語的、文学的な意味があるシーンなんでしょうか?
個人的に真っ先に思ったのは、わざわざこんな質問をさせているから普通に料理を作っているわけないだろうと考えた子供が少なくなかったんじゃないかなということですね。
それと、数十年前の子供だったらどう答えたのでしょうか。。
なるほどなぁ。確かに人が死んでるのにご馳走を食べるっておかしな話だよなぁ。そりゃそう思っても仕方ない。人の立場になって考えるって大切だわ
私は子供の時の妙な妄想でお葬式のお清めには死者の一部が入ってると思い込んでいて拒絶してました
まさに小学校のごんぎつねの"ぐずぐず"では「やっぱり死者を口にする儀式なんだ!」と確信した経験があるので、この話題が流行った時にとても共感出来ましたよw
因みに未だに妄想が無意識層に残っていて、その類の食事含めて香典返しのヨックモックまで一切食べられない🥹
フロイト先生は神話の分析の中で、子供の妄想と神話には共通点が多いと仰ってるし、カニバリズムが衝撃的だなんてw子供を美化しすぎですよね😂
日本の歴史や文化を学ぶ機会が失われ、古来より受け継がれてきた日本人の心が子供達に無いのがこうした猟奇的な発想をしたのだと思う。
日本人の常識、性善説といった事はもう通用しないのかもしれない。
俺は小学校の頃国語の授業では教科書より国語便覧や歴史資料ばかり読んでいた。
その物語の歴史的背景を理解したうえで登場人物の心情や言動を想起する。
個人で自発的に調べるという習慣が無ければ小学校から日本神話や日本列島の文化、慣習を植え付けなければ2600年以上の文明を築いてきた日本人の歴史を否定する世代が生まれてしまうかもしれないという危機感をこの出来事を通じて感じた。
動画の前半を見ていてこの本の著者とは全く賛同出来なかったわ
「常識的に読めば」「常識に照らし合わせれば」
小4にいったいなんの常識を求めているのか。
むしろ大人の一般常識という牢獄に囚われない自由で柔軟な発想力に感心さえする。
また、教育とは子供達にその「常識」を教える場面でもあるわけで、
常識を知らないと揶揄すること自体が間違っている。
後半で解説されているように、この筆者は読解力と常識を混同して捉えており、
最も読解力がなかったのは筆者自身だったのではないだろうか。
小4が持てる社会常識の範疇で、葬儀からご飯を作るを連想できる方がすごいと思うけど・・ 葬儀にまつわる知識がまだないだけでしょ いろんな捉え方をする人がいらっしゃるんですね
今年24になる者ですが、確かに、未だにお葬式に4,5回くらいしか参列していないです。幼い子どもなら尚更「死」の概念がないでしょうから、「お葬式で鍋→煮沸消毒」などと考えても仕方ないかもしれません。
大人の感覚では鍋で遺体を煮るなんて普通は思わないし残酷だ!って思うけど。
冷静に考えたら遺体は火葬される訳で、子供の先入観なく純粋な視点から考えたら死んだ人は燃やされる=火を使って処理される。
って考えると遺体を煮るって発想も分からなくはない。
遺体を煮るのは残酷であり得ないけど、火葬するのは残酷じゃないのはなぜ?って聞かれて明確に答えられるだろうか。
国語をやる上で一般常識は大事だけど、常識によってそれが先入観になってしまえば誤読にも繋がるしこの一件は大人でも学ぶ事はある。
読解力って言うより、大勢で執り行う葬儀っていう文化自体が失われてきてるって事なのかなと思いました。
葬儀に参加したことのある子供でなければ具体的な情景を思い浮かべるのは難しいのかな、とも。
お葬式の様式は大きく移り変ったと思います。今や家でお葬式をする事は少なくなりました。
今回の、子供たちの答えに「衝撃を受けた。」と言いますが、果たして大人でもご飯を作っていると答える人ばかりなのでしょうか。私はそうは思いません。
「死」というものが遠ざかる現代において、また葬儀の様式が変わる中で、知らない事。になるのではないでしょうか。
「昔は〜だった。」と話をした時に、知らない事は読解力なのかと言われれば違うと思います。そういう時代に生きている以上知らないことになるのではないでしょうか。
国語で文章を読むだけではなく、時代背景や、今と昔の葬儀の違いなどそういった事こそが教育なのでは?と思いました。そうすることで、短絡的思考に陥らないのでは無いでしょうか。
ゴンギツネさんご本人から、この状況で何を煮ていると思う?って聞かれたら勘ぐってしまう..🙂↕️
いわゆる認知スキーマが形成されてるかどうかってやつですよね。
はじめまして。いつも楽しく学びをしております。今回宋慶二先生の解説を拝聴しながら、私は一時話題に上がりました灘中学校 国語教師 故橋本武先生のことを思い出しました。宋慶二先生はご存知でいらっしゃることと思いますが、橋本先生は、灘校で中学3年間をかけて『銀の匙』1冊を読みこむという授業を取組んでいました。橋本先生に教えを受けた生徒さんであれば、やはり今回のような読み方にはならないのではないかと感じました。これからもよろしくお願いいたします。
My opinion is the only thing: children don't have the experience to attend the funeral, I guess. They think about it only by wearing black clothes and being miserable. Probably, they had no idea what to eat something. That's the point, we don't know about medical surgery, so we can't discuss the body. I think this phenomenon is the same thing before I've written.
文章を読むことと、その背景のコンテキストを読むことは別物のように思う。
そして、ごんぎつねの問題を間違えることを、読解力の問題だ!わーいわーいするやつこそ、その問題を間違える小学生の背景、コンテキストを知らないわけで、ブーメランになってるって言う、、、笑
葬儀の経験もそうですが、今や近所総出で料理を作ることも無くなりましたからね。
難しいと思いますよ。
小4だと寧ろ古文に近い感覚なんじゃないかな、と思います。
当時の風習は、注釈入れてもいいくらいかと。
逆に、何故その発問をした?と教員に問いたいですね。
発問による児童の回答が想定しきれていないのが致命傷だと思います。
ここは教員が誘導すべきポイントです。
なるほど、常識という名の先入観か。例えば日本にとっての墓は恐怖の対象だったり、墓の前で子どもが遊んでいれば不謹慎だと思われるだろう。ただ、国によっては墓地に住む人たちもいる。死んだ後に子どもたちが墓の前で楽しそうに遊んでくれたら幸せだろうと思ったものだ。
本書も読みましたが、大変考えさせられる見解だと思いました。しかし、なぜ現在になってこういった誤読の問題が取り上げられるようになったのか、とも感じます。それが時代背景の違いなのか、文化や風習の違いなのか、「死」との距離感の違いなのか。私は40代ですが、このような誤読をする者は当時はいなかったと思います。
この話で児童目線を理解できない大人の方がよほど常識はずれだと思いますね。
考えてみれば、当の大人の葬儀のあり方もだいぶ変わりましたよね? 一昔前なら盛大に葬儀を上げるのが定番だったのに今では家族葬が中心のところもおおいでしょう。家族葬となれば精進落としをするにしても小人数が当然で、しかも近所同士で料理するなんてありえないでしょう。
となれば、児童目線では近所の人たちが料理するなんて想像できるわけがないし、ましてやこれは現代日本の物語ではないのだから独自の解釈で進めないほうがおかしいです。
おそらくこの児童たちが後に平気物語を学ぶことになるんでしょうけど、平気物語って当時の政治や文化背景がないと何も読み取れない話ですよね? その背景を知らずに平気物語を読むのは不可能なのと同じに、現代の児童にごんぎつねの文化的背景は知らないと話にならないでしょうね。
「常識」でくくるのは本当に危険だと思います。
私も子どもの頃曽祖母の葬儀で大人たちが酒を飲みながら賑やかにしているのに違和感を持った覚えがあります。岡田斗司夫さんはこの本に対して、今の子どもたちは面白い=過激で刺激の強い話に豊富に触れているため、葬儀の場面で「鍋で何かを煮ている」ときた時点でこれは面白いホラーな話なんだと先読みしてしまったのだ、という解釈をし、やはり読解力の問題ではないと言ってましたね。
なるほどです‼️
最近の子供でなくてもこう答えちゃう子はいると思う
大家族で暮らしたことがないから、かまどの大鍋でご飯を作るのが想像できなかったのかな。
親戚とか集まってご飯食べながら故人を偲ぶという経験が無いのかもしれないし。
これって岡田斗司夫が普通に反論してましたよ。
5:40くらいです。
ruclips.net/video/_zaqOzEgAek/видео.htmlsi=gXpSb0GTlOANYfCs
ある種切り取り報道と同じようなもんかも😂
この物語の続きで車座になって飯を食らう場面でもあればあぁただ食い物を作ってただけだったんだってなるだろうし
読解力や想像力が足りてないのは実は大人の方だったんだな笑
子供の読解力以前に先生が動画でおっしゃられていたような内容を想像できない大人の想像力が乏しいと感じました
地縁血縁が濃い田舎であれば小学校低学年でも親類の葬儀に参加することもあるだろうけど、地方出身の両親が故郷と切り離されて都会に住んでいるのだから遠い親類だと子供が葬儀に行くようなことはないし、長寿化で三等親以内の葬儀はそもそも発生確率は低いので小学校低学年のうちは葬儀が近親者内では発生しない。今の都会の小学生が葬儀について知らなくて当然だと思うね。それが都会の現実だ。
医療の発展などで寿命が延びた今、小学四年生くらいだと葬式に参加する機会がないだろうし、
核家族が増えてるから親戚一同介して食事てのもあまりないんじゃないかな
でもいろんな本読んでいれば自然と分かりそうなものだし、関係ないのかな?
この件が話題になった時、私もこれが読解力の問題として扱われる事に強烈な違和感を持っていました。一般社会常識や通念を問うているのであれば、それを生徒・学生に叩き込むのが国語科目の目的の一つということなのですかね。
実際日本文化をしらない外人が読んだらおんなじ解釈しても仕方ない
インターネットでエンタメや酷い事件等を見聞きした影響ではないかと思いました。
本文には書いてなかったんでしょ、なら背景知識ないと解けないわ
そもそもごんぎつねという題材で、何を煮ていたかを問うこと自体に違和感を覚える。
そんな質問をされれば、普通に野菜を煮てた、みたいな答えは当たり前すぎて考える余地はないのだから、考えさせる以上は深読みしろということと解釈する方が自然。
あと、昔話って結構残酷なの多い。かちかち山とかおばあさんが煮込まれますよね。そのフォーマットに則れば、昔話なのだから残酷なことをしていると解釈しても何の問題もない。
子供達に社会常識がないと考えるのは早計だよね。質問されれば、それを質問した背景を裏読みするのは当然でしょう?
聞く現代文だなこりゃ
このときの授業で,読解力の議論をするのであれば,「何かが煮えている」という表現の意味から考えておくべきだったのかなと感じました。
「何か」という表現をした理由は,説明にあった通り,ゴンの目線からは見えなかったからという単純な理由ですが,子供にはこの持って回ったような表現が,直接言ってはいけない何か(=お母さん)と読み取ったのでしょう。また「大きな鍋」の大きさも過大に想像したのでしょう。
そう考えると子供の「読解力」にハッとさせられます。