関ヶ原の戦いでの上杉氏 勝算なしの挙兵で西軍を決起させ打倒家康を図る【どうする家康】
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- Опубликовано: 17 сен 2024
- 参考文献
今福匡『「東国の雄」上杉景勝 謙信の後継者、屈すれども滅びず (角川新書) 』
amzn.to/3tOvxfY
乃至政彦 高橋陽介『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』
amzn.to/3tmb8Ph
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上杉景勝は領国に戻った後に反家康の姿勢を明確にし、関ヶ原の戦いの原因となった会津征伐を引き起こしました。
景勝には大名家との交流があまりなく、挙兵も景勝の独断と考えられていますが、この無謀な行動は上杉謙信もよく行っており、景勝は自ら動くことで情勢を変え、西軍挙兵を引き出します。
ですが、上方と会津では情報伝達は困難で、景勝は独力で戦うしかなく、西軍敗北により90万石という最大規模の減封を喰らう羽目になりました。
今回は、他の大名とは手を組まず孤独を貫きながらも、自ら死地に飛び込み家康の覇権に待ったをかけた上杉景勝の戦いについて紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
www.nhk.or.jp/...
#どうする家康 #日本史 #歴史
景勝はどこまでも謙信の後継者なんですよね!
何よりも議を重んずる理想主義者それ故に天下はとれなかったが
人としてかくありたい。
佐竹家と前田家と上手く組めていたらあの家康もそう派手に動けなかったのでは。それ以前に秀長公、氏郷公が亡くなられ利家公も高齢ではどうにもなりませんでしたね。
そもそも前田が家康に詫び入れた時点で… 前田はあくまで「傅役」止まりで家康は「秀頼の政務代行者」だからそれにいちいち咎める訳にもいかない(婚姻禁止もそれ律儀に守ってまだ子無しの黒田や夭折ちらほらの加藤が無嗣断絶するリスクの方がデカかったし、服属もまつ人質と引き換えに利長の正室と弟の利政返還等結構飴もあった)
秀長も家康とは生前仲良かったし蒲生もむしろ利家と家康に助けられた身だからなぁ(本多正信の弟の正重や真田信尹をレンタルしたり、そもそも秀次・家康と共同で仕事した身で家康抜きでは最上や伊達と関係ずっと良くいられるかも不明瞭だった)
景勝は越後の堀家をなんとか友好にできなかったのでしょうか。
年貢の前借りとまでしてましたから、
堀氏と仲悪かったのでしょうか。
景勝は本当に謙信の跡取りですね。
戦って滅びるならヨシだったのでしょうか。
御館の乱の頃から景勝はほぼ孤立しながら戦っているイメージですね。謙信のやり方を真似してんだろうけど、単独で家康に勝負を挑んだのはあまりに無謀でしたね。
慶喜公の最後の言葉を知らないの?260年間虐げて申し訳なかった。梅(前田)じゃなかった杉(上杉)だった。100万石も与えたのに、狐(毛利)一匹見張れない。情けないです。笑笑 太平洋戦争も、薩長、土佐、加賀くらいで、旧幕府軍は裏切り者の薩長が中国大陸でおかしな事(覚醒剤ビジネス)をやっていると、参戦していませんよ。松と杉は仲が良いんですよ。
でも前田慶次郎が惚れたぐらいだから
人を惹きつける何かはあったんだろう
佐竹がもっと目立つ活動をしていたら・・・
東国では徳川と伊達は縁組みもしていて、上杉が組める相手が佐竹ぐらいしかいない。
上杉謙信公の甥っ子です🎵
上杉景勝より上杉謙信公方が大好き💓♥️❤️です🎵
さらに北の小野寺のほうが絶望的孤立なんだよなあ。
ここで全兵力で下野の宇都宮城につっこんでいたらなぁ…。
宇都宮城は1回行った事があるけど、城というより舘とか役所といった方が相応しい建物だ。
実際、後の戊辰戦争では徳川残党と新政府軍に、合計2回陥落させられている。
もし、上杉軍が電撃的に宇都宮城を陥落させていれば、一気に川越まで全線を南下させる事が出来るだろう。
そこで佐竹が利根川を渡って一気に江戸を突けば、徳川は一挙に宿無し大名になってしまう。
そうなったら、関ヶ原で西軍が敗けた云々なんて話は消し飛ぶ状況になるだろう。
30万石に減俸された折も中納言家格を維持したため八公二民と増税メガネもびっくりの重税環境。
動画にもある綱憲が藩主になった際には15万石に半減、幕府に召し上げられた方の領民は四公六民で
大変喜んだとか。
上杉の方は15万石召し上げられた後も吉良家に集りまくられる事に・・・
真田丸でも景勝友達全然いなかった…景勝も正義の毘沙門天だったのは分かりますが、やはり殿として人たらしの秀吉やタヌキで縁戚戦法家康を見習って、上杉家を大きいままに存続出来たらよかったのに、、、時代の波サーフィン出来たら上杉鷹山までが苦労せずによかったのに、、、
でも、それを含めて景勝ですね!
力作動画ありがとうございました。景勝の生き方に感動しました。
景勝が秀吉や家康のように積極的な外交を展開していたらだいぶ上杉家の命運は変わっていたでしょうね。
上杉は、毘沙門天ですからね。毘沙門天は元々鰐が神様になってますから、水場にいて水場に入り込んだら、襲いかかります。狸(家康)と狐(毛利)の化かし合いとは良く言ったもんですね。長州は大政奉還でイギリスの力を借りてクーデターをお越してますから。家康が上杉家を恐れていないなら、徳川軍だけで会津征伐に乗り出したはずです。狸(金ちょうさん)は、おなかをポンポンと叩き、人が喜んで付いて来る。狐(稲荷)は、人をたすけても御布施が少ないと人の足を引っ張る。鰐は、水面から目を出し侵入されたら襲う。大政奉還の奥州列藩同盟の際、最後の将軍慶喜公の言葉で、梅(前田)じゃなかった杉(上杉)だった。260年間も虐げて申し訳なかった。100万石も与えて狐(毛利)一匹見張れない。情けないと言ってますからね。上杉謙信公から、景勝公が貫いた義は今も残っていますよ。上杉謙信公、景勝公は1番好きな大名ですね。
@@rekishock 笑っ たらればですが、秀吉みたいな景勝っ 見てみたい💖
@@若杉佳生 詳しいですね。梅じゃなかった 杉だった!とは。260年後まで忠義を貫くのは素敵ですね。さすが上杉~ 勉強になります!
上杉氏、私も大好きです!
@@金ぴか70 とんでも御座いません。ありがとうございます。参考になられたのなら、幸せです。
何においても不器用ではあるが、悪運強く臣下に恵まれる
景勝のイメージですね
上杉景勝は北村一輝さん、遠藤憲一さんのイメージ!!特に北村一輝さんは特に肖像画とかに寄せていた感じします!
全く関係ないけど、ドラマで景勝を演じた津田寛治といえば『青天を衝け』で水戸藩家老の武田耕雲斎のイメージがどうにも抜け切らない…💦
2009年の天地人では大谷吉継を演じられていました。
移封の際、元の城内の米蔵に半分を残して出ていくのが判例だったにもかかわらず越後の各城の米蔵を「空」にして上杉軍が全部持ち去ったことにより、堀秀治の家老だった三条城主・堀将監直政が「このこと」を五大老筆頭だった家康に報告。
「この一件」が、上杉景勝への上洛要請の文、「直江状」へと進むことになるため、「関ケ原の戦い」への発端となった。とも言われてますね。
関八州・東北に加え越後まで敵に回してしまった。
景勝は身内には凄いお喋りだけど非身内にはコミュ障気味なところが「ダンマリで直江が通訳する」造形の原型なのかなぁ
転封してから越後の海運の情報網が使えないからかなんかパッとしないし越後で長らく育成してきた軍や兵が使えないってのがもろ響いたんかなぁって感じする 上洛拒否ったのも「上杉が謀反しようとしてると報告した奴(堀)は誰や!そいつを突きだして嫌疑撤回するまで出頭せん!」って感じだからその辺中世チックな「御家」より「面子」重視って感じがする
個人的には、この説が正しいのかもしれないと思います。上杉の東北での動きは、「上杉が謀反しようとしてると報告した奴(堀)は誰や!そいつを突きだして嫌疑撤回するまで出頭せん!」というのが本当のところなんじゃないかなあと。あと、家康が撤退した後追っかけりゃあいいじゃんという専門家の声もあるけど、そうなると伊達と最上は喜び勇んで上杉軍を追いかけるでしょう。で、猛将で鳴らす、結城秀康がいて、越後からも溝口秀勝や堀といった連中が群がってくるでしょうなあ。そうなりゃあ、短期決戦なら上杉有利ともいえるけど家臣団が寄せ集めてきなところもあるので、難しいと思う。「面子」というのはまさに上杉家らしいと思う。
派手な部下の地味な上司、て印象。
上杉景勝、名門でありながら意外にも他大名との交流がなかったのは、不思議ですね。いくら領地が畿内から離れていても、伊達政宗のように政局に関わることは可能だったでしょうから、やはり個人的な資質の問題でしょうか。そうであれば、三成との事前共謀説も彼の性格上も全くありえませんね。滅亡覚悟で撃って出る戦法は、上杉の家風とはいえ、そんな景勝に従う忠誠心厚い家臣らがいたことは、彼にとっても心強かったでしょう。彼がもう少し野心のあるタイプの武将だったら、家康も苦心したでしょうし、かなり目の上のたんこぶ的な立ち位置で家康を悩ませただろうと感じます。
質問ですが、14:31の秀忠の御成りを受ける というのは、秀忠が景勝の住まいを訪問した ということですか?そうであれば、周りにもはっきりと徳川家への主従関係を示したということですね。
諸大名が上洛して集まった時も話しかけるなオーラを出してるボッチだったらしい。
隠キャコミュ障だったのかもしれませんね。
@@subuya428さん なるほど。戦国武将にもコミュ障害いたんですね!
御成を受けるは秀忠が江戸の上杉屋敷を訪問したということですね。説明足らずですみません。
徳川家との主従関係を示すとともに、将軍から上杉家へ栄誉を与えることにもなり、特に江戸時代初期においては徳川 上杉の主従関係が一層強固になる出来事でした。
@@rekishock さん よく分かりました。ご説明ありがとうございます。
豊臣政権下であり恩顧として動いているから戦略的な縁戚結ぶ必要性も機会も乏しかったのでは?
謙信の室町の古い守護体制的な発想を引き継ぐ部分もあり、律儀に豊臣家と相談しながら進めるつもりだったのではと想像する。
逆に三成が挙兵せず、上杉だけが家康と戦ったら、家康が勝つにしても、会津120万石を恩賞として味方の諸侯にいかに配るかが大変そうです。さすがに家康も、「天下人」として大軍を指揮するデビュー戦ですから、諸侯への恩賞をなおざりにはできませんので。
毛利、宇喜多の大老や三奉行もそのまま健在なら、いかに家康でも豊臣直轄領を史実の関ヶ原後のように65万石まで減らすのは難しいでしょう。
上杉を討って家康の権勢が強まる反面、恩賞を満足に与えられず、諸侯への求心力が弱まることすらあり得ます。
とある作家が、景勝と直江兼続は関ヶ原の時は家康に反骨心を見せて
カッコ良かったけど、大阪の陣ではあっさり徳川に着いて、
行動だけ見て行くと実は情けない日和見主義なんだけど、
でも司馬遼太郎先生は、「関ヶ原」とかで景勝と兼続を実に魅力的に
描いてみせる、そこが司馬さんの筆力の素晴らしさだって言ってた
でも、葵だと、関ヶ原編の景勝に上條恒彦なんて大物をキャスティングしたせいか、
ぬけぬけと徳川方に着いた大阪の陣では、景勝の出番を丸々カットw
隆慶一郎なんかも大阪の陣での景勝と兼続にはほとんど筆を割いてない
あれほど家康と敵対してる時は(前田慶次郎と共に)カッコ良く描いていたのにw
もう忘れちゃったが天地人では、どう誤魔化していたっけw?序盤と中盤まで
景勝と兼続を正義のヒーロー、松方家康をあれだけ悪党に描いておきながら、
大阪の陣でのうのうと徳川についた景勝と兼続を、どう言い訳しつつ描写していたか
上杉景勝は、よくわからんな。行動力のない謀略家って感じ。あんまり強くない。
もしかしたら、ほぼほぼ勝利確定の対徳川戦略を考えていたが、肝心の徳川家康が来なかったので、最上と伊達と戦う羽目になっただけ。の気がする。
石田三成が挙兵するなんて考えていなくて。むしろ石田三成挙兵は上杉景勝の想定外とか。
対徳川戦略としては、上杉景勝は会津盆地まで徳川家康を引き付けて白河の補給路を遮断するような戦略だったと思う。まぁ6月ー7月って時期も良い時期。徳川家康が会津に来てそこそこ居ると。冬に突入して徳川軍が大打撃。
その間、上方では石田三成が少しづつ味方を集めて、準備万端で挙兵する。とかを思い浮かべていたと思う。
いずれにせよ石田三成の挙兵が早すぎる^^;。そして敗北も早すぎる。
普通、せめても徳川と上杉が戦い始めたタイミングで石田三成挙兵だろうなぁ・・・。
そうですか。上杉は冬ごろまで戦を続けていたんですか。
改易・滅亡を免れていたのは景勝の無口な性格や外交下手なところも影響したのではないでしょうか。
直江兼続とコンビで取り潰しを免れましたね。徳川家康も大阪の豊臣秀頼が存在している時に上杉を本気で怒らせ死に物狂いにさせるのは得策ではない。多少の情けをかけて恩を売ったのでしょう。
こんばんは。
通説を信じてたけど結構変わったんですね。
山形でぐちゃぐちゃやってる暇あったら関東に出て江戸の町でも焼き払って回らないと。
自分が西軍のなかでいかにでかいプレイヤーなのかってことを理解してない。
それを防ぐために結城秀康が宇都宮に留まっていました。
知ってるよ、佐竹と連合して戦かわないと。@@user-eb6os3li4u
家康も嫌がらせ的な挑発しなければ。関ヶ原回避出来たのに。
景勝さんは関ケ原迄かな…以後存在感というか…影が薄くなっている気がします…。
なんかなー、とっても戦略が全てにおいて中途半端なんだよなー。
豊臣恩顧の裏切り連中とタヌキ爺とは、わたしもかかわりたくない!?でもトップはそうは言ってられない
息子が有能なだけで、景勝は無能たったんだな…
謙信の時代でも家中治めるの大変だったから、景勝は相当上手くやった方なのでは?
@@user-of9qs1pb5q 新発田の乱もあったし、家中安定にはをかなり苦労しているよ。