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毛利輝元が総大将として吉川、小早川を指揮して上杉、島津、宇喜多と連携していけばまた西軍も変わっただろう。
信長の野望で関ヶ原シナリオで西軍勢力を選び、どうやって徳川を討つか考えているときの楽しさは異常 歴史イフは最高
あなた誰?
そう、歴史ifは最高
うん、歴史のifはおもしろい
立花宗茂の絶対裏切らないという安心感
島津と立花は戦後も大名として家康に許されてるからな、その実力が窺える
@@lx1125 宗茂はいったんはお取り潰しになったが紆余曲折経て元の柳川領の大名に復帰した。戦国・江戸時代を通しての唯一のケース。
宗茂の存在は西軍にとってかなり頼もしかったと思うんだよな
ですね宗茂の言うことを聞いて大阪城に立て籠るべきでした
関ヶ原合戦当時、日本の陸上兵力は世界最大西軍の石田三成 東軍の徳川家康それぞれの采配 諸将の動向等を色々想像するのも面白いですね
「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら・・・」は歴史オタクにとって見果てぬ夢である。
東南アジアに進出してた可能性を考えずにはいられない
宗茂4000いるだけで安心感やば過ぎて草
秀頼が大坂城から出陣して、関ヶ原に着陣さえしていれば西軍が勝てた戦さ。福島正則等の豊臣恩顧の武将は、秀頼には間違っても弓引かなかったはず。
普通に毛利輝元がちきらず関ヶ原に着陣してたら圧勝だったと思う。毛利家は東軍が勝っても生き残れるように中途半端な対応をしたのが失敗だったな。
三成からすれば忸怩たる思いやわなぁ。浅はかな淀君とかに惑わされた側近もアカンわ。秀頼が前面に押し出してたら、西軍勝利でしょ!三成も信頼が得られなかったんやろな、盟友の大谷吉継は領地が小さいから動員数が少なかったしね😣😭💦。
大坂の陣ならそれで勝てたかもしれんが、この当時はあくまで豊臣内部の戦、幼い秀頼を連れ出しても対して変わりません
@@lx1125 秀吉が馬鹿やらずに秀次後継者にしてたら万事治った物を。織田家が信忠失ってどれだけ勢力が減退したかはよく分かった筈なのに。
@@感謝型ファルサリア それは本当に思う。秀次も最近評価がされ直され、暴君から優秀な豊家の跡取りになっていった。特に大河の影響はすごいと思う。当初の予定通りで良かった筈なんだよね。秀次の次が秀頼。秀次の娘と結婚。ただ秀吉的には秀次の息子の存在が気が気でなかったのかもしれない。まーだとしても息子だけ暗殺すれば良かったと思うんだよね。どっちにしろ秀吉は歳とってイカれちゃったよね…良くも悪くも
明治になり、陸軍に指南役として来日したプロイセンの将軍が関ヶ原の配置図を一瞥して「西軍の勝ちだ」と言ったそうです。東軍が勝ったと聞かされて驚いた後、小早川の裏切りを説明され、「それでは仕方がないな」と納得したとの逸話があります。近代戦法の観点でも、小早川の裏切りは重要なファクターだった訳です。
宗茂が関ケ原参陣ならさすがに如水が西軍の一人勝ちにならないよう策をめぐらせたんじゃないかな。宗茂の地元の喉元に刃突き付けてたのは如水だし。西(九州黒田)、中(中四国~機内豊臣)、東(関東徳川)の三国鼎立までなら割と簡単に狙えた気がする。そうなると西への備えでボディブローを受ける豊臣が国力を弱めて最終的には家康に天下が転がり込むことになりそう。そして島津以上の待遇で外様大大名となった黒田家が明治維新を(略
小早川秀秋ではな秀包が小早川家を継いでいたら立花宗茂との義兄弟コンビの活躍が見れたかも。
とても良くできているシュミレーションだと思います。自分は仮に家康が破れても一旦尾張名古屋まで後退させて体制を整えてにらみ合いを続け、天下の東半分を徳川、西半分を豊臣という形がしばらく存続していくと考えます。
尾張は福島正則の領地であるため、家康が一時的にでも敗れたら名古屋に長く留まることはできず、少なくとも岡崎か浜松、場合によっては(山内・堀尾・中村が正則に同調したら)江戸まで引かなくてはなりません。正則は三成嫌いで東軍についていますが、基本的には豊臣家の忠臣です。西軍とにらみ合いを続ける間に大坂方(三成ではなく毛利輝元か秀頼(淀殿)直近)が正則と合意できれば、正則が東軍に協力する必要も義理も無くなってしまい、徳川にとっては足かせどころか敵対しかねない存在です。秀吉は対家康の要として清州に正則を据えたと思われます。実際家康は関ケ原戦後に邪魔な正則を大坂の向こう(広島)に追いやってしまいます。また、徳川が一歩引いて西軍と「にらみ合う」余裕はありません。そもそもこの時点では「畿内の騒乱(三成・大谷刑部ら)を鎮圧し豊臣家を守る」という名目で五大老筆頭である家康が豊臣家から貸与された統帥権を行使しているにすぎないので、「東軍vs西軍(=徳川vs豊臣)」という構図にしてしまうと東軍の大義名分が失われてしまい、東軍は解散するしかなくなってしまいます。さらに東軍が下野国で反転して西上できたのは徳川と伊達の間で「上杉に動きがあればけん制する」という合意ができていたからですが、東軍が解散すると伊達も合意とは違う動きを見せるかもしれません。そもそも上杉は新領国の経営を始めたばかりで大規模な外征をする余力は無く、政宗の方がよほど「不穏分子」と言えるでしょうw
小早川秀秋が西軍に味方したから言うて、有力武将が多くいる東軍に勝てたという保証はない(黒田、細川、福島、山内、織田、本多、井伊)。仮に、西軍石田三成が勝利したとしても、奥州には伊達政宗、最上、田村連合軍が上杉相手に優勢に戦っていたし、さらに北関東には、結城秀康が佐竹や上杉を抑えていたから、仮に家康が討ち死にしたとしても、結城秀康中心に新徳川連合が結束されていたと思います(秀康、秀忠、伊達、最上、田村)さらに、九州には黒田如水が、加藤清正と手を組んで、西軍側を次々に撃ち破っていたから。石田三成が、仮に関ヶ原で勝利したとしても、西は黒田加藤、東は結城伊達最上連合を相手に戦わなければ、ならない。ので、もう一度戦国時代が来るだけ。 つまり、小早川秀秋は、戦国時代を終わらせた功労者。
@@user-ub8jh8bp3s さん小早川秀秋が東軍に寝返ったということは、叔母である高台院(北政所)の意向が反映されたということです。福島も加藤も高台院の意思に従って行動をしています。下野小山から反転し尾張に帰還した福島正則は、居城の清州でなぜか20日ほど待機します。表向きは池田輝政や井伊直政と打ち合わせをしていたようですが、高台院と最終確認をしていた可能性もあります。つまり「秀秋が寝返らなかったら」という仮定は、「高台院から『西軍に味方せよ』という裏の指示がでていた」ということであり、「関ケ原では福島正則が西軍に寝返る」ということです。関ケ原で秀秋が東軍に寝返らず正則が西軍に寝返ったら、東軍は瞬時に崩壊します。東軍の後方に布陣していた山内一豊らも西軍に寝返るかもしれません。そして万一家康が関ケ原で戦死してしまったら、徳川家は大きく3派に分かれるでしょう。〇後継ぎに決まっている秀忠派。〇秀吉の養子になった経歴もあり、豊臣に同情的(同時に家康や秀忠と親しくなかった)な結城秀康派。〇妻が伊達政宗の長女である松平忠輝派。「関ケ原であっさり決着してしまったので、九州・西国を占領する時間が無かった」とボヤく黒田如水の手紙が残っていますが、家康が関ケ原で討たれ、秀忠が上田で討たれていたら、伊達政宗は大喜びしたと思います。
@バヤナエテー さん家康が討死しなかったとしても東軍が敗れれば上杉にかけられていた疑惑が三成によって否定され、徳川軍に与えられていた豊臣正規軍の資格が剥奪されるでしょう。諸将は家康に協力する名分が失われるので大坂方に帰順するでしょう。そして三成の目論見通りに「徳川が天下を乱す元」と見なされてしまいます。伊達政宗がそれにつけこみ策謀を始めることは充分ありえます。政宗には独力で上杉を撃破する自信はありますから「家康さえいなくなれば少なくとも東国は支配できる」と思っていたでしょう。諸将の協力がなければ箱根に防衛線があっても甲信越など他の方面までカバーできません。また中立を表明してはいましたが、江戸の背後の常陸には既に佐竹がいます。これら北方に対して結城秀康はどこまで持ちこたえられるか。それどころか父や兄とは不仲で親豊臣派の秀康が寝返るかもしれない不安もあるでしょう。もちろん家康は政治巧者でもありますから敗戦と同時に外交的巻き返しを図るでしょう。従っておっしゃる通りに「すぐに手仕舞い」にはならないでしょうが相当劣勢になるでしょう。自身の年齢や、武功が皆無の後継(秀忠)を考えると暗澹たる思いでしょうねw
@@TAIRA_TAKAMORIドラマの描き方と異なり正則は清正程には三成嫌いではない。彼の場合は秀吉に取りなしてもらた経験がある。三成が昌幸に宛てた書状にも、"正則が西軍に加勢する見込み"と言う甘い予測が含まれてる。
むしろ1日で決着がつかないで秀忠隊との合流が現実味出てきますね西軍には毛利も控えてるしにらみ合いそうなると北陸、東北、九州での地方争いの結果が大きく影響しそう
大坂城の毛利輝元軍も出撃していたら、東軍は本当に危なかったですね
結局、豊臣のためというより利害で集合した西軍プラス上杉らを離反させないビジョンが難しそうですね。豊臣には日本一の軍資金も大坂にあったはずですが、これの処分も、合議になるとろくなことにならない。西軍の論功行賞でもめそうです。菊川も毛利一族のために動いているので、毛利輝元を功労第一位にしないと承知しなさそうだし。結局、家康があと15年ほど生きたのは矢張り大きい。
戦勝の美酒に酔う前に、吉川・毛利の不手際を三成が責め立てて内部分裂。結局その間隙をついた家康の第二次関ヶ原でなんだかんだ徳川の世になりそう。
西軍に勝たせたいifですから、あまり言っても何ですが、ちょっと・・・。宗茂が出て来ていたら、東軍はあんな布陣はしないと思いますけどねぇ~だって、裏切る前提の東軍の布陣ですもんね。戦上手があんな布陣、さすがにしないと思います。金吾と宗茂では役者が違い過ぎるので。
賛成。それで終わりや😜
タイトル見るだけで見たくなる動画ですねー
1.小早川が裏切りがなかったら1日で終わらなかったのは間違いないよね。2.立花毛利元康軍が来る可能性もある。(ただこの軍は関ヶ原に来る軍ではなくあくまでも大坂からの大津に派遣された軍という説もあるけど…)3.不戦していた毛利軍が数日経てば吉川広家が毛利秀元をどこまで騙せたか分からないため参戦もあり得た。4.秀忠の軍もあるけど来るまでにはまだ時間がだいぶ掛かる
面白かったです。シュミレーションでは家康は関ヶ原の戦い後に屈服しますが、東軍の余力は大きく(秀忠隊3万8千など) 関ヶ原の次の大決戦があったと思います。源平合戦と似た、何回も(富士川決戦、壇ノ浦など)戦いになる。家康のクビが関ヶ原で落ちていたなら別ですが。
宗茂いるという情報掴んだ家康が関ヶ原に行くのだろうか?それこそ秀忠の到着を待ちそうな気もする
要の岐阜城を抑えている以上そうなりそうではありますな
@声が駄目な強飯 前田は東軍じゃないすかね…
野戦に持ち込んだ時点で三成の無理ゲーよ家康は城攻め下手くそなんだから籠城してれば勝ち目有ったかもよ
@@もふもふ-x4p ふと思ったんですが家康の城攻め下手イメージってどこからくるやつなんでしょうね
一方その頃九州では黒田官兵衛が・・・
島津が降伏して島津との決戦での戦死者が抑えられたら その兵力を中四国から畿内まで使える事になるよね
私は、この声と音楽が好き❤
おもしろいけど、これは小早川秀秋が西軍に味方していたらのifでなく、立花宗茂が関ヶ原にいたらのifになっちゃっているんじゃないかと(笑)もし立花宗茂が7:35の場所にいたのなら、東軍の布陣はこうなっていなかったでしょうし、そもそも宗茂がいたらこのタイミングでこの軍勢で戦うのは家康は避けていたと思います。少なくとも秀忠の3万8千の軍勢の到着を待ったはず。そうなるとまた大きく違った話になるのではないかと。家康が秀忠引きいる精鋭部隊(秀忠以外)を待たずに今のうちにやっちゃおうと見切り発車したのは宗茂がいないうちにってのもあったと思うので。ただ もし秀忠を待ってって考えると、今度は真田が絡んでる可能性も考えられるのでまたややこしくなるかなと思います。という感じに誰かが考えたifに、自分もifをまた考えるのも楽しみですね!こういう機会をつくってくださるのはほんとありがたいです!
毛利が動かないはない。さすがの吉川広家も負けた大将みすみす逃がすような真似はしないだろう。小早川攻めた時点で毛利軍も進撃してる。家康は、打ち取られている。
関ヶ原で勝っても豊臣が生き残る為には徳川を滅ぼさなと駄目だろうね。しかし家康はそんな甘くは無い。西軍がもたついている間に戦力を回復し次の手を考えて来る。なのでどちらにしても家康は上手く言い逃れをし逃げてしまう。関ヶ原で決定的なダメージを家康に与える事ができないなら豊臣に天下は無い。
大阪城に輝元がいて東軍諸将の人質がいるのでは家康は一発勝負で勝つしかなかっただろうな。西軍勝利なら吉川広家は輝元に簡単に捨てられたと思う。
小早川秀秋一人が味方するだけでこうも変わるのかと感心しながら見てました。秀忠も勝ったから跡を継げたかも知れないですが、負けてたらどうなったのかも気になりますね。
平宗盛みたいに哀れな末路だったり😅
もし関ヶ原の戦いで東軍が負けたら、秀忠は敗戦の責任を押し付けられるだろうな。
@@シコ龍 逆に真田昌幸は英雄扱いやな
小早川寝返りで山から降る勢いで赤座、朽木、小川、脇坂も流れに乗るように寝返りに大谷勢に攻撃していったので裏切らなかったら大谷吉継もそのまま戸田、平塚と共に福島勢に対峙できたので戦況は変わると思います。不戦か加勢かでまた違ってきそうですが
めっちゃ頼りにされてだんだなー宗茂どんだけ強いんだよw
もし毛利輝元が大阪城に立てこもって東軍と戦っていたら・・・
面白かったです!当時の最強武将である立花宗茂が参戦していたかどうかが一番の分岐点だった。石田三成にしっかりとした戦略眼があれば(大谷の進言を受け入れていれば)、義に厚い最強の宗茂が参戦させて一気に情勢が変わっていたと思います。やはり能吏であるが武将でない三成の限界だったと思います。残念です。
や
どういう結末でも家康が死ぬことは無さそうそれほど用意周到なんよな
この頃の秀秋は重度のアル中で肝臓が相当やられていただろうから秀頼成人までは関白職は難しいと思う。三成が担ごうとしても、人望薄いし後継者が秀次事件で居なくなっているから政権は秀吉逝去の頃よりも更に不安定になりそう。
面白い歴史と逆パターン!それと合戦の雲行きが怪しくなった時に遅参していた秀忠隊が到着していたら更に面白かったかも?
タイトルだけでもう面白い
私は吉川広家も徳川を見限るんじゃないかと思いましたが、賛否は有るとは言え「もしも」を考えるのも楽しいですね。
立花の強さと信頼感は、信長の野望で醸成されている気がします。
意外と猛将だったのは知られていない小早川秀秋。文禄の役で敵兵をなぎ倒してたとかなんとか。
大将自ら最前線に出て、秀吉からこっぴどく叱られた。
女子供を切りまくったというの見たことありますよ
小早川秀秋は、家康の本陣が前進したのを見て、東軍優勢と判断して寝返ったという話も。立花宗茂が参戦してれば、確かに状況は変わってたでしょうね。
日本軍15万余の総大将という身分に甘んじず、若干17歳で単身敵陣に切り込んだ化け物
とても面白く拝見しました。定説の史実にしても諸説あったりする中で、現在の我々が過去の歴史の結果を知りつつ、「もしも・・・」と想像すると話が尽きません。関ヶ原にしても、小早川秀秋の裏切りがなかったら・・・と考えてしまいます。ただ、これは西軍有利のifであって、逆に徳川本体率いる秀忠軍が遅参してなければ、関ヶ原の合戦において、小早川秀秋の裏切りがあってもなくても関係なく、東軍の圧勝だっただろうな、と考えてしまいます。さらに、関ヶ原の合戦で史実通り西軍が敗戦したところで、大阪城の毛利輝元が本気で籠城戦に持ち込んでいたら、これまた関ヶ原の合戦は関ヶ原という局地戦は終わっても、東北の上杉、九州の黒田がまだ戦ってましたし、秀頼のいる大阪城に対しては、福島正則筆頭として、いくら家康の命令とはいえ、積極的に城攻めするとは思えません。憎かった三成を敗走させた以上、大阪城への戦意はなかっただろうし、家康もごり押しに攻めようとすれば、豊臣恩顧の大名からは反発を招く恐れも抱いたでしょうし、大坂の陣のようにいったんは和議にしたのかなと。
小早川が西軍として働けば吉川も動いただろうな。38000の秀忠が来てない好機を逃したのが吉川小早川。コイツらのせいで毛利は260年苦渋を味わうハメに。
秀頼の参陣が最も大きいifだと思うが淀殿を考えれば絶望的なif秀秋の気持ち一つという面では間違いなく紙一重のifでしたね。
面白かったです
もし 上杉景勝が 撤退する東軍を追撃して江戸城 総攻撃をしていたら・・・
大河では、直江兼続がそれを推してましたね。
現実問題は無理だとしても、そうなってたらなぁと思いますね〜
凄く面白かったです!関ヶ原に立花宗茂が居れば確かに小早川秀秋は動けなかったと思います!
初めから動く気はなかったと思う。家康さんから鉄砲を撃たれて「早く動けや」と挑発されたから動いただけで挑発されなかったら松尾山から最後まで動いてないと思う。
@@ワイルドメーン 問い鉄砲はなかったというのが最近の主流では?
@@ワイルドメーン そもそも、当時の鉄砲の射程距離では徳川の本陣から松尾山まで届かない。
@@yh6146 大砲なら届きそう
もし西軍が勝っていたら、、、それからは三成が、家督を息子に譲り秀頼から離れることが出来きなければ、東軍の豊臣恩顧は戻らないだろう。
立花宗茂が関ヶ原の戦いに参戦してたら多分西軍の勝ちですよ
改めてこの動画を見ましたが、小早川秀秋というより立花宗茂が西軍として関ヶ原にいたという内容ですねー😂
もし日本軍が 最初からガダルカナル島に大兵力を送り込んでいたら・・・
その後上杉や伊達がどうなったかも含めて考察してほしいです🙋♂️
信長の野望の関ヶ原ifシナリオは戦国立志伝と大志にあるけどどちらも面白いです。
小早川秀秋が西軍で戦っても毛利が動かないと西軍は勝てない
石田三成の戦略だと島津軍四万と言われた二万が来る予定でしたからね。実際には精鋭千人しかこなかった。兵力減っただろうと思い、関ヶ原後の島津討伐軍福島正則や加藤清正二万で島津攻めたら八万出てきて撃ち破られたから島津の兵力の出し惜しみしていた。
ナレーターさんの声、いいですね!
裏切ったのは秀明だけじゃないからなー吉川広家も行軍の邪魔をして動かなかったし島津義弘も傍観を決め込んでたしお陰で長宗我部も動けんかったし秀忠も遅参したとはいえ後ろには控えてますからねーそもそも秀頼が戦場に入れば豊臣恩顧の武将は東軍じゃなくて西軍についてましたよ秀秋ですら裏切るのは無理でしたでしょうね
小早川秀秋と北政所の関係、徳川家康と北政所との良好ともいえる関係の両方を考えると、最初から東軍に付くつもりで重要拠点を占拠したが、若さと出自(関白豊臣秀吉の養子)からくる経験不足から西軍へ攻めかかる機を失っていたという事も考えられるんですよね。
西軍に組みしていても、三成VS家康の時点で勝ち目ない気がする
これの別視点ストーリーも見てみたいですね具体的には真田昌幸・幸村の上田攻防上杉景勝・直江兼続の慶長出羽合戦これらにおいて西軍が勝ったときの展開ですね。
関ヶ原後は家康が徹底抗戦する可能性もあるからこのシュミレーションはあくまで可能性の一つだけど、どうあがいても関ヶ原では西軍勝ちきれないっていうのは面白い。あと史実西軍さんはどう考えても裏切る小早川をどうしてこんな重要な位置に置いたんだ...?軍の翼端とか裏切られたら一発アウトだし、言うこと聞いてくれたら一撃で敵倒せる超重要ポジでしょうが!!!
面白いです九州の黒田・島津は大連合を組むのか信州上田は孤立してしまうのか、大博打を打つのか東北の最上・伊達と上杉はどう動くのかさらにその後のchemistryに想像が及びます
素晴らしいです。~~❤️
徳川250万石兵数30,000+15,000(秀忠別働隊)、石田19万石兵数5,800、大谷5万石兵数1,500・・・自ら大軍を運用できる家康と、兵力を他大名に頼らざるをえない三成との差は大きく、関ヶ原が西軍勝利であってもその後の歴史は同じ結果になったと思います。秀頼の寿命が多少伸びるくらいですかね。
西軍勝利すると領国にいる薩摩の島津八万が暴れだしたでしょうから、石田三成は徳川と島津氏の対処しなければいけなくなり豊臣はどちらでも滅びてそう。関ヶ原後の島津討伐軍福島正則などの二万の軍は島津軍八万にぼろ負けしていますからね。秀吉のように四十万で島津攻めないと砦が無数にあり戦略的に連携して面で防御している島津軍には勝てない。
最新学説だと東軍についた小早川を牽制していた西軍の背後を徳川方が突いたという事になっていますね。
小早川や毛利が真面目に西軍として働いていれば勝利は西軍確実でしたよ。石田三成が強引に仲間に引き入れても、実は完全に裏切られていたわけで三成の見通しが甘かった。家康はいろいろな場面で窮地に陥った大名達を助けまくっていたから、実際はともかくとして評判の人徳において三成は完全に負けていましたからね。大谷が「お前では駄目だ」と喝破したとおりでした。
もしもという話なら関ヶ原は長期戦になったでしょうね。そうなると九州を全域を占領していた如水が島津を討伐して攻め上ってきたはず。3つ巴であれば勢いのある如水が優勢なので、ほんとうに黒田幕府ができたかもしれませんね。
如水がそんなに簡単に島津を倒せるとは思わない。むしろ島津と組んだ時に天下を狙う位置につけるのだと思う。
小早川だけでなく、内通していたといわれる『吉川広家』と吉川のせいで出陣出来なかった『毛利秀元』も家康の陣、後方にいたから、これも攻め出していたら戦況はどう変化したのか……。『山内一豊』や『池田輝政』などの名だたる武将がいたからうまく動けないだろうけど、少しは足止めできたかも?ただ、徳川軍には『福島正則』『榊原康政』『本多忠勝』『井伊直政』がいるからなぁ。島津軍が敗走の際に井伊直政は負傷したものの、島津軍が敗走しなければ、井伊直政は負傷しなかったかもしれないし……。難しいですよね、ifって。
20:28・・・ただ、史実では関ケ原の2年後に没した秀秋が、秀頼15歳となる8年後まで生きられるか?というのも焦点ですね。何しろ秀吉の後継者候補だったもんだから7歳で酒を飲み始め接待漬けで毎晩酒浸り、秀頼誕生で後継者候補から外され接待漬けからはほぼ解放されたものの12歳でアルコール依存症になっていた為毎晩酒浸りは辞められなくなっていたから、関白就任後も恐らく改善されることは無いばかりか更に酒の量も増え史実よりも早く早逝するかも知れない。
秀吉のせいで関白の座を失っていた五摂家も黙ってはいない。ただでさえ秀吉が秀頼を関白にするために五摂家を大臣にしない様に朝廷に圧力をかけていた。だから秀吉が死んだ時点で大臣は家康のみという異常事態。だから秀吉が死んだ後に秀吉に娘を殺されて流罪になっていた菊亭晴季を右大臣に復帰させて、関ヶ原の後に五摂家を関白に復帰させた。
浅野や池田や蜂須賀や山内も東軍に攻めこむと思うし、毛利は大阪より西に有るから東軍に攻めこむと思う!多分挟まれる可能性の方が高いと思う
楽しい動画でした。😄
むしろ秀頼が西軍の総大将になっていたらのifが気になるな
秀頼が関白である以上無理だから前提変わってくる
@@フィストン 秀頼の最高位は右大臣で生涯関白にはなってないはずだし、そもそも関ヶ原当時は6歳か7歳かそれくらいだったはずですよ
@@塔乃水城 あーそっかでも同じじゃない?
大阪に生まれ育って50年。自分にとっては最高の【if】であります。
個人的にお願いしたいのは、「南宮山で吉川広家が先鋒ではなく、長束正家が勤めていたら」を見たいです、ご検討ください。
長束ではあっさり蹴散らされる。
西軍が勝っても論功行賞で絶対揉める。
揉めないですよ。領地はあくまでも秀頼が主体でその下大老と奉行で決められるのだから、揉めたらそれは豊臣政権への反逆とみなされます
@@あけぼの-r8y いや絶対に揉める。自分が凄いと勘違いしている毛利輝元。義とかほざいて国頭の際に年貢を全て持ち去った上杉景勝と直江兼続。豊臣のせいで嫡男が戦死した長曽我部。豊臣のせいで娘を殺された最上。豊臣のせいで内戦状態の島津。家臣が離反しまくりの宇喜多。よほど論功行賞をうまくしないと戦国乱世に逆戻り。そもそも幼少の秀頼と空気を読めない三成では無理。
@@あけぼの-r8y 貴方はなんで言い切れるの?その考えは貴方の頭の中での事。自己中の人にみられる典型的な症状ですね。視野が狭くて可哀想な人。同情はしませんがね😃
論功行賞は秀頼元服までお預けで没収した東軍の領地は豊臣直轄領となり奉行衆が管理を一任するとまで確約出来れば何とかなりそうですけど餌で釣られた西軍諸侯はそれでは納得しないでしょうね…。
石田三成は多分一日で関ヶ原は終わらないと思うけどなぁ〜そんな度量も無いしカリスマ性は無いはず一方徳川勢は小早川が動かないと分かった瞬間時間を稼ぐか別の方法を組むとは思う。戦事は上手く行くことがほとんど無いから色々なスケジュールを工面しないといけないからだと思うんだ
視てきた動画の中でも1番面白い☝歴史好きなら本能寺と並ぶIfネタ😊しかも宗茂をキャストするとかグレイト👍
秀頼を総大将にするしかなかったんだよなぁまあその場合家康は戦争出来ないわけだが
シンプルに吉川広家が西軍に味方したら家康の背後を襲えたんですけどね…
そういうことになるなら背後衝かれる布陣をしないと思うんですが…
@@matukawatositane 家康はおそらく広家が絶対味方になると確信してたのでしょう。
@@山城弾正 輝元がこの頃には敗戦処理始めてますからね…
西軍勝利のIF面白いですね。東軍敗退でも家康が関ヶ原で討死するか、敗走するかでも更に未来は変わりそう。家康が死んだら大名が自国領地守り戦う戦国乱世に逆戻りでしょう。なんて考えてみました。仮に家康が生きて関ヶ原を落ち関東に辿り着けたら結局最後の勝利者は家康な気はします。しかし家康が生きて岐阜まで撤退、秀忠と合流しても直後に再度の決戦は無理でしょう。してもまず勝てないかと。一度負けた東軍、直後の再戦では士気が低すぎるのでは無いかと。家康は秀忠率いる本隊と共に駿府小田原付近まで撤退、家康に付いた豊臣恩顧の諸将が三成方に寝返る可能性も大。小早川秀秋も西軍のままでしょう。しかし福島加藤黒田辺りは家康陣営のままでしょう。まぁ、福島正則・藤堂高虎辺りは関ヶ原で討死かも知れませんが。豊臣恩顧の武将が全て西軍に付かないのは相手が三成であるから。東軍は徳川勢以外の大半は三成憎しの連合軍ですから。負けても「初戦は負けたが今度こそ!」「今度こそ三成討つべし!」と気持ちを持ち直すのでは無いでしょうか。ここで上杉と関ヶ原西軍勢、東軍よりの寝返り勢が合わさってかつ時を同じくし関東の家康陣営を挟撃出来れば東軍家康陣営は壊滅でしょうが、そうはいかないかと。伊達政宗。彼が上杉を壊滅出来ないまでも抑え込むでしょう。伊達側には徳川贔屓豊臣憎しの最上勢もいます。伊達の旗色は完全徳川では無いでしょうけど。東でも西でも無いグレーな漁夫の利、最後の天下統一の機会を失する事は無いかと。そんな中、豊臣嫌いの最上は徳川のために必死になるのでは無いでしょうか。伊達陣営にしたら豊臣にしても徳川にしても、でっかい勢力が残ら無い方が良い訳で。また豊臣には恨みも恩も有り、徳川にも恩はあり、また娘婿は家康の息子。どちらにもつかず日和見、隙あらばどちらも飲み込む気持ちはあるでしょう。この頃の伊達政宗は天下を諦めてはいないでしょう。しかし一方自陣営のみで天下取り、そこまでの兵力は持っていない。現状上杉を抑え、徳川の壊滅を防ぎ、東軍西軍の共倒れを外野から見ているのでは無いでしょうか。それ故に上杉も動けないかと。そして宇都宮には家康が次男、結城秀康が居ます。秀忠と違い勇猛盛んな彼が宇都宮に守備兵少し残して家康本体と合流するのではないかと。関東は佐竹の動向が不明瞭ですが、事実通りどちら付かず旗色だけ取り敢えず西軍、としておきましょう。再生東軍は家康秀忠に福島加藤黒田に秀康。兵力は8〜9万ですが圧倒的な地理的優位有り。この時点では関ヶ原勝利で勢いのある西軍+寝返り勢(総勢13万くらいでしょう)でも箱根越えは容易く無いでしょう。その頃、九州では黒田の親、官兵衛が九州制圧・天下取りに動いています。東軍西軍による関ヶ原の戦は舞台を東に展開して長期化、特に西軍の主要大名以外は長戦による厭戦気分も増しているところで九州、そしておそらく中国地方、四国の大半も官兵衛の手に落ちていくのでは無いかと。島津くらいではないでしょうか?官兵衛の軍とまともに自国に残る兵力のみでも戦える力を残しているのは。その島津も大軍となった黒田官兵衛軍には呑まれるでしょう。その為西軍大将毛利、そして島津・立花等大名は自国領地を奪われます。各諸将は自国に早く戻りたいが西軍の中心人物たる三成はあと一歩で家康の首が!と撤退は認めないでしょう。そこから更なる厭戦化、兵の逃散、時期1600年〜1601年の冬でしょう。冬の寒さにも耐えねばなりません。それは両軍同じですが、毛利・立花等自領地を奪われた上、遠く関東の地で戦を続ける大名には一層堪えるのではないかと。最悪は関ヶ原で勝ったにも関わらず西軍は瓦解する事が見えてきます。そんな事になれば逃散により西軍兵力は10万を割るかも知れません。とはいえ簡単に撤退も出来ません。背を見せた瞬間、家康率いる再生東軍勢は山の上から襲いかかってきます。三成が馬鹿じゃ無い限り撤退はしないでしょう。しかし西軍諸将の気持ちは違います。険悪な雰囲気と嫌な時間が睨み合いの中続き、そんな中秀康を窓口とし官兵衛軍は家康と同盟を結ぶのでは?これで逆転。その頃、自国を官兵衛に奪れ苛立つ西軍諸将の纏まりは無くなる。前後して東と西から挟み撃ちで壊滅。それが1601〜1602年頃かと。その後再生東軍と伊達とは一戦あるかないか、で伊達は降るかと。この時点で最上は親徳川の色ははっきり出している訳で。野心を持ちながら無謀はしないのも政宗。伊達と手を結ぶとは思えない上杉は東北で孤立し降伏で歴史通りかと。仲の悪い南部氏・津軽氏も事実通り東軍のままでしょうし、第一上杉に付く義理がない。そうなれば黒田官兵衛と徳川家康で日本は2大体制。頃は1602〜1603年でしょうか。官兵衛は徳川とは争わないと思います。大将には収まらないで家康の右腕となり実権を握り辣腕を...しかし翌1604年に官兵衛は史実通り病気で亡くなり、天下は完全に家康のものに。この時点で秀頼はまだ子ども。淀君中心では有効な手は打てないでしょう。官兵衛の息子長政は家康にも気に入られている上、家康に敵対する性格や器では無いので、大人しく大大名として史実以上の石高で大名となるのではないかな。
真田は...攻めるまでの余力は無いでしょう。西軍に付いたまま、旗色をみて嫌いな徳川に、かも知れません。
永遠のワクワクのイフだね!本能寺のイフと同じくらいのね
撤退がそんなに容易だったかどうか。毛利勢も、敗走する東軍に恩を売ると考えるよりも、西軍に恩を売る方を選ぶのではないかな。
まかりなりにも西軍なので敗走する敵に攻撃しないのはさすがに西軍にかどがたつ勝者にいながら西軍に敵対することはさすがに吉川も選ばないと思う。
長期戦になるなら毛利輝元喜びそう 関ケ原は囮だ!と言わんばかりに九州やら四国に兵送ったり一揆起こさせたりで荒らしまわってたし(九州方面は黒田に防がれて伊予は加藤嘉明領の留守居に苦戦してたが)
豊臣なんてどうでもよくて西国の覇者目指してますしね
輝元にそんな才覚はない😔
@@神戸屋著述堂 この際才覚は別でして
@@matukawatositane 才覚がなければ夢や野心は持てない‼️輝元はお坊っちゃん育ちの無能やで。
@@神戸屋著述堂 とはいえ事実として北九州、四国に攻め込んでませんか?
果たして家康が関ケ原から敗走したくらいで天下を諦めるでしょうか?そして西軍が関ケ原で勝利したくらいで結束できるでしょうか?西軍は一時の勝負には勝てても試合には勝てない体制だと思いますよ。
秀秋が東軍につかないと言うことは、三成の餌に食いつかない程度に秀秋が家康シンパになったであろう切っ掛けが無いということに繋ぐ必要がある気がします。であれば秀吉に冷遇され、家康に救われた事実が無いところまで戻る必要があるので、そこまでいけばかなり壮大なifになりますね。最も秀秋が東軍につくことに自信が無かったら家康の戦い方も変わっていたはずなので、そのパターンでifを考えるのもそれはそれで壮大で楽しそうです。
家康が秀秋を救ったとされるエピソードはあくまでも軍記物の話です。近年では秀秋が朝鮮に渡っていないとう説も出てきています。越前に移った後、筑前の領地に移るの書状には太閤秀吉の命(遺命)と書かれていてしかも20万石の加増までされています
仮に立花宗茂を関ヶ原に連れてきたら島津義弘が石田三成に却下された夜襲を独自判断決行してそうな気がする。ただし多分油断してない可能性高そうな本陣じゃなく東軍諸将を適当に抉って消耗させてそう。てか毛利家本隊とも言える毛利元康も1/3ぐらいの兵連れて関ヶ原に回しておけば吉川も戦わざるを得なかったのではないかと。
西軍に立花宗茂を置くのなら、東軍も水野勝成さんを置いてもいいだろう。(関ヶ原の時、大垣で待機していた)
水野さんが万単位で兵を率いているなら話が変わりそうだけど
立花も本国の領地の近くに加藤清正や黒田如水の領地があるからそっちの防御に多数の兵士が必要なのでそんなに多くの兵は連れてないだろうな立花が出陣するなら大垣城攻め用の水野さんを関ヶ原に配置する可能性はあると思う。
@@ワイルドメーン しかし、立花率いる4000は並みの4000じゃないですぞ、、、。銀英伝のローゼンリッター並みに戦力の10倍の働きをするのは話を盛ってるとしても虚構ではござりませぬ。
動画に使用しているbgm知りたいです!
どっちに転ぼうとも動かない広家さん...
家康の場合は本隊がまだ来てない状態だから逃げ切れさえすれば立て直し自体はいくらでも効くんだよな
イフ❗️最高のイフ❗️ですね👍管理人殿、excellent❗️⤴️👍 自分なら失神してる。救急車、救急車 関ヶ原に救急車来たー❗️
まず、小早川勢は15000ではなくて8000程度でした。そもそも西軍があの位置に布陣したのは、かねてより不穏な動きをしていた小早川隊が味方の部隊を追い払って松尾山に陣取った事で寝返りが明らかになった為、小早川隊に備えるのと退路を断たれるのを防ぐために西軍本隊をあの最終防衛ラインまで下げざるを得なかった。従って、まず小早川秀秋の寝返りをを防ぐという前提自体が成り立たないと思います。
とりあえず70万石にした徳川家も30→10→5→改易みたいに段階を追って小さくして最終的にはとり潰すんじゃないかな
仮に西軍勝利になると、その後の安定は難しくて、再び戦乱の世になりそうな気もするんだよなぁ・・・・豊臣家のためではなく、天下万民のためだと史実通りでいいのかもしれないな。
大津城攻めの軍団が関ヶ原の鍵を握っていたと考えると京極は戦功一番ですね二番はこれも戦力分散に貢献した舞鶴籠城の細川幽斎
最近の研究では通説がどうも正しいという根拠が揺らいできました。史実認定(1級資料)の関ケ原合戦については以下の通り1.石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。2.家康本隊、15日午前10時赤坂着陣、関ヶ原に移動し合戦に及ぶ。3.「先手」井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻る。4.小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」、西軍は敗走5.追撃戦により、島津豊久・島左近・大谷義継・戸田勝成・平塚為広らを討ち取る。6.午の刻(午前12時ごろ)戦闘終了、家康はその日のうちに佐和山に着陣以上(これ以外の内容はすべて2級資料、後に軍紀物として書かれた内容)まぁ通説は三國志演義みたいなものとして楽しんでください
立花宗茂だった1人がいれば、どれだけ戦局が変わったのだろうか…
彼が遅れないってことは秀忠本軍(+真田信之、榊原康政、本多政信)も参戦することにもなるでしょうしなぁ…京極高次(立花を参加できないくらい粘った)も地味に番狂わせ起こした人よね
@@フォード-i1w 立花宗茂がいる大津城の部隊が関ヶ原に到着できるのは2日もあれば可能ではないでしょうか?秀忠の到着よりずっと早いと思います
もしこの通りになったとしたら最大の戦犯は秀忠ですね。秀忠さえ来ていれば秀秋は裏切ったと言われるでしょう。
勝手な想像だけど西が勝ってても江戸はまだ健在なので、徳川の領地が減り存命かと。そうしてる間に毛利が権勢を握り内部分裂起こしてまた戦乱へ
これは面白い!
小早川秀秋というよりか、東軍後方の吉川広家が動けば毛利秀元隊も邪魔されず動けて東軍は挟み撃ちになって大混乱になるからどっちかというとそっちの方が重要そうなれば自然と小早川秀秋も東軍には付かず東軍に襲いかかるだろう
実際にこんな展開になれば良かったのに
小早川秀秋源義経沖田総司このあたりの肖像画はほんとにこの姿だったのか気にかかるw
そうなったら吉川も動くんじゃない?
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
小早川秀秋が優秀だった説暗殺したからひどいやつにした説
毛利輝元が総大将として吉川、小早川を指揮して上杉、島津、宇喜多と連携していけばまた西軍も変わっただろう。
信長の野望で関ヶ原シナリオで西軍勢力を選び、どうやって徳川を討つか考えているときの楽しさは異常 歴史イフは最高
あなた誰?
そう、歴史ifは最高
うん、歴史のifはおもしろい
立花宗茂の絶対裏切らないという安心感
島津と立花は戦後も大名として家康に許されてるからな、その実力が窺える
@@lx1125 宗茂はいったんはお取り潰しになったが紆余曲折経て元の柳川領の大名に復帰した。戦国・江戸時代を通しての唯一のケース。
宗茂の存在は西軍にとってかなり頼もしかったと思うんだよな
ですね
宗茂の言うことを聞いて大阪城に立て籠るべきでした
関ヶ原合戦当時、日本の陸上兵力は世界最大
西軍の石田三成 東軍の徳川家康
それぞれの采配 諸将の動向等を色々想像するのも面白いですね
「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら・・・」は歴史オタクにとって見果てぬ夢である。
東南アジアに進出してた可能性を考えずにはいられない
宗茂4000いるだけで安心感やば過ぎて草
秀頼が大坂城から出陣して、関ヶ原に着陣さえしていれば西軍が勝てた戦さ。
福島正則等の豊臣恩顧の武将は、秀頼には間違っても弓引かなかったはず。
普通に毛利輝元がちきらず関ヶ原に着陣してたら圧勝だったと思う。
毛利家は東軍が勝っても生き残れるように中途半端な対応をしたのが失敗だったな。
三成からすれば忸怩たる思いやわなぁ。浅はかな淀君とかに惑わされた側近もアカンわ。秀頼が前面に押し出してたら、西軍勝利でしょ!三成も信頼が得られなかったんやろな、盟友の大谷吉継は領地が小さいから動員数が少なかったしね😣😭💦。
大坂の陣ならそれで勝てたかもしれんが、この当時はあくまで豊臣内部の戦、幼い秀頼を連れ出しても対して変わりません
@@lx1125 秀吉が馬鹿やらずに秀次後継者にしてたら万事治った物を。
織田家が信忠失ってどれだけ勢力が減退したかはよく分かった筈なのに。
@@感謝型ファルサリア それは本当に思う。
秀次も最近評価がされ直され、暴君から優秀な豊家の跡取りになっていった。
特に大河の影響はすごいと思う。
当初の予定通りで良かった筈なんだよね。
秀次の次が秀頼。秀次の娘と結婚。
ただ秀吉的には秀次の息子の存在が気が気でなかったのかもしれない。
まーだとしても息子だけ暗殺すれば良かったと思うんだよね。
どっちにしろ秀吉は歳とってイカれちゃったよね…良くも悪くも
明治になり、陸軍に指南役として来日したプロイセンの将軍が
関ヶ原の配置図を一瞥して「西軍の勝ちだ」と言ったそうです。
東軍が勝ったと聞かされて驚いた後、小早川の裏切りを説明され、
「それでは仕方がないな」と納得したとの逸話があります。
近代戦法の観点でも、小早川の裏切りは重要なファクターだった訳です。
宗茂が関ケ原参陣ならさすがに如水が西軍の一人勝ちにならないよう策をめぐらせたんじゃないかな。宗茂の地元の喉元に刃突き付けてたのは如水だし。西(九州黒田)、中(中四国~機内豊臣)、東(関東徳川)の三国鼎立までなら割と簡単に狙えた気がする。そうなると西への備えでボディブローを受ける豊臣が国力を弱めて最終的には家康に天下が転がり込むことになりそう。そして島津以上の待遇で外様大大名となった黒田家が明治維新を(略
小早川秀秋ではな秀包が小早川家を継いでいたら立花宗茂との義兄弟コンビの活躍が見れたかも。
とても良くできているシュミレーションだと思います。自分は仮に家康が破れても一旦尾張名古屋まで後退させて体制を整えてにらみ合いを続け、
天下の東半分を徳川、西半分を豊臣という形がしばらく存続していくと考えます。
尾張は福島正則の領地であるため、家康が一時的にでも敗れたら名古屋に長く留まることはできず、少なくとも岡崎か浜松、場合によっては(山内・堀尾・中村が正則に同調したら)江戸まで引かなくてはなりません。
正則は三成嫌いで東軍についていますが、基本的には豊臣家の忠臣です。西軍とにらみ合いを続ける間に大坂方(三成ではなく毛利輝元か秀頼(淀殿)直近)が正則と合意できれば、正則が東軍に協力する必要も義理も無くなってしまい、徳川にとっては足かせどころか敵対しかねない存在です。秀吉は対家康の要として清州に正則を据えたと思われます。実際家康は関ケ原戦後に邪魔な正則を大坂の向こう(広島)に追いやってしまいます。
また、徳川が一歩引いて西軍と「にらみ合う」余裕はありません。そもそもこの時点では「畿内の騒乱(三成・大谷刑部ら)を鎮圧し豊臣家を守る」という名目で五大老筆頭である家康が豊臣家から貸与された統帥権を行使しているにすぎないので、「東軍vs西軍(=徳川vs豊臣)」という構図にしてしまうと東軍の大義名分が失われてしまい、東軍は解散するしかなくなってしまいます。
さらに東軍が下野国で反転して西上できたのは徳川と伊達の間で「上杉に動きがあればけん制する」という合意ができていたからですが、東軍が解散すると伊達も合意とは違う動きを見せるかもしれません。そもそも上杉は新領国の経営を始めたばかりで大規模な外征をする余力は無く、政宗の方がよほど「不穏分子」と言えるでしょうw
小早川秀秋が西軍に味方したから言うて、有力武将が多くいる東軍に勝てたという保証はない(黒田、細川、福島、山内、織田、本多、井伊)。
仮に、西軍石田三成が勝利したとしても、奥州には伊達政宗、最上、田村連合軍が上杉相手に優勢に戦っていたし、さらに北関東には、結城秀康が佐竹や上杉を抑えていたから、仮に家康が討ち死にしたとしても、結城秀康中心に新徳川連合が結束されていたと思います(秀康、秀忠、伊達、最上、田村)
さらに、九州には黒田如水が、加藤清正と手を組んで、西軍側を次々に撃ち破っていたから。
石田三成が、仮に関ヶ原で勝利したとしても、西は黒田加藤、東は結城伊達最上連合を相手に戦わなければ、ならない。
ので、もう一度戦国時代が来るだけ。
つまり、小早川秀秋は、戦国時代を終わらせた功労者。
@@user-ub8jh8bp3s さん
小早川秀秋が東軍に寝返ったということは、叔母である高台院(北政所)の意向が反映されたということです。福島も加藤も高台院の意思に従って行動をしています。
下野小山から反転し尾張に帰還した福島正則は、居城の清州でなぜか20日ほど待機します。表向きは池田輝政や井伊直政と打ち合わせをしていたようですが、高台院と最終確認をしていた可能性もあります。
つまり「秀秋が寝返らなかったら」という仮定は、「高台院から『西軍に味方せよ』という裏の指示がでていた」ということであり、「関ケ原では福島正則が西軍に寝返る」ということです。
関ケ原で秀秋が東軍に寝返らず正則が西軍に寝返ったら、東軍は瞬時に崩壊します。東軍の後方に布陣していた山内一豊らも西軍に寝返るかもしれません。
そして万一家康が関ケ原で戦死してしまったら、徳川家は大きく3派に分かれるでしょう。
〇後継ぎに決まっている秀忠派。
〇秀吉の養子になった経歴もあり、豊臣に同情的(同時に家康や秀忠と親しくなかった)な結城秀康派。
〇妻が伊達政宗の長女である松平忠輝派。
「関ケ原であっさり決着してしまったので、九州・西国を占領する時間が無かった」とボヤく黒田如水の手紙が残っていますが、家康が関ケ原で討たれ、秀忠が上田で討たれていたら、伊達政宗は大喜びしたと思います。
@バヤナエテー さん
家康が討死しなかったとしても東軍が敗れれば上杉にかけられていた疑惑が三成によって否定され、徳川軍に与えられていた豊臣正規軍の資格が剥奪されるでしょう。諸将は家康に協力する名分が失われるので大坂方に帰順するでしょう。そして三成の目論見通りに「徳川が天下を乱す元」と見なされてしまいます。伊達政宗がそれにつけこみ策謀を始めることは充分ありえます。政宗には独力で上杉を撃破する自信はありますから「家康さえいなくなれば少なくとも東国は支配できる」と思っていたでしょう。
諸将の協力がなければ箱根に防衛線があっても甲信越など他の方面までカバーできません。また中立を表明してはいましたが、江戸の背後の常陸には既に佐竹がいます。これら北方に対して結城秀康はどこまで持ちこたえられるか。それどころか父や兄とは不仲で親豊臣派の秀康が寝返るかもしれない不安もあるでしょう。
もちろん家康は政治巧者でもありますから敗戦と同時に外交的巻き返しを図るでしょう。
従っておっしゃる通りに「すぐに手仕舞い」にはならないでしょうが相当劣勢になるでしょう。自身の年齢や、武功が皆無の後継(秀忠)を考えると暗澹たる思いでしょうねw
@@TAIRA_TAKAMORIドラマの描き方と異なり正則は清正程には三成嫌いではない。彼の場合は秀吉に取りなしてもらた経験がある。
三成が昌幸に宛てた書状にも、"正則が西軍に加勢する見込み"と言う甘い予測が含まれてる。
むしろ1日で決着がつかないで秀忠隊との合流が現実味出てきますね
西軍には毛利も控えてるしにらみ合い
そうなると北陸、東北、九州での地方争いの結果が大きく影響しそう
大坂城の毛利輝元軍も出撃していたら、東軍は本当に危なかったですね
結局、豊臣のためというより利害で集合した西軍プラス上杉らを離反させないビジョンが難しそうですね。
豊臣には日本一の軍資金も大坂にあったはずですが、これの処分も、合議になるとろくなことにならない。
西軍の論功行賞でもめそうです。
菊川も毛利一族のために動いているので、毛利輝元を功労第一位にしないと承知しなさそうだし。
結局、家康があと15年ほど生きたのは矢張り大きい。
戦勝の美酒に酔う前に、吉川・毛利の不手際を三成が責め立てて内部分裂。
結局その間隙をついた家康の第二次関ヶ原でなんだかんだ徳川の世になりそう。
西軍に勝たせたいifですから、あまり言っても何ですが、ちょっと・・・。
宗茂が出て来ていたら、東軍はあんな布陣はしないと思いますけどねぇ~
だって、裏切る前提の東軍の布陣ですもんね。戦上手があんな布陣、さすがにしないと思います。
金吾と宗茂では役者が違い過ぎるので。
賛成。
それで終わりや😜
タイトル見るだけで見たくなる動画ですねー
1.小早川が裏切りがなかったら1日で終わらなかったのは間違いないよね。
2.立花毛利元康軍が来る可能性もある。
(ただこの軍は関ヶ原に来る軍ではなくあくまでも大坂からの大津に派遣された軍という説もあるけど…)
3.不戦していた毛利軍が数日経てば吉川広家が毛利秀元をどこまで騙せたか分からないため参戦もあり得た。
4.秀忠の軍もあるけど来るまでにはまだ時間がだいぶ掛かる
面白かったです。シュミレーションでは家康は関ヶ原の戦い後に屈服しますが、東軍の余力は大きく(秀忠隊3万8千など) 関ヶ原の次の大決戦があったと思います。源平合戦と似た、何回も(富士川決戦、壇ノ浦など)戦いになる。家康のクビが関ヶ原で落ちていたなら別ですが。
宗茂いるという情報掴んだ家康が関ヶ原に行くのだろうか?
それこそ秀忠の到着を待ちそうな気もする
要の岐阜城を抑えている以上そうなりそうではありますな
@声が駄目な強飯 前田は東軍じゃないすかね…
野戦に持ち込んだ時点で三成の無理ゲーよ
家康は城攻め下手くそなんだから
籠城してれば勝ち目有ったかもよ
@@もふもふ-x4p ふと思ったんですが家康の城攻め下手イメージってどこからくるやつなんでしょうね
一方その頃九州では黒田官兵衛が・・・
島津が降伏して島津との決戦での戦死者が抑えられたら その兵力を中四国から畿内まで使える事になるよね
私は、この声と音楽が好き❤
おもしろいけど、これは小早川秀秋が西軍に味方していたらのifでなく、立花宗茂が関ヶ原にいたらのifになっちゃっているんじゃないかと(笑)もし立花宗茂が7:35の場所にいたのなら、東軍の布陣はこうなっていなかったでしょうし、そもそも宗茂がいたらこのタイミングでこの軍勢で戦うのは家康は避けていたと思います。少なくとも秀忠の3万8千の軍勢の到着を待ったはず。そうなるとまた大きく違った話になるのではないかと。家康が秀忠引きいる精鋭部隊(秀忠以外)を待たずに今のうちにやっちゃおうと見切り発車したのは宗茂がいないうちにってのもあったと思うので。ただ もし秀忠を待ってって考えると、今度は真田が絡んでる可能性も考えられるのでまたややこしくなるかなと思います。という感じに誰かが考えたifに、自分もifをまた考えるのも楽しみですね!こういう機会をつくってくださるのはほんとありがたいです!
毛利が動かないはない。さすがの吉川広家も負けた大将みすみす逃がすような真似はしないだろう。小早川攻めた時点で毛利軍も進撃してる。家康は、打ち取られている。
関ヶ原で勝っても豊臣が生き残る為には徳川を滅ぼさなと駄目だろうね。
しかし家康はそんな甘くは無い。西軍がもたついている間に戦力を回復し次の手を考えて来る。なのでどちらにしても家康は上手く言い逃れをし逃げてしまう。
関ヶ原で決定的なダメージを家康に与える事ができないなら豊臣に天下は無い。
大阪城に輝元がいて東軍諸将の人質がいるのでは家康は一発勝負で勝つしかなかっただろうな。西軍勝利なら吉川広家は輝元に簡単に捨てられたと思う。
小早川秀秋一人が味方するだけでこうも変わるのかと感心しながら見てました。
秀忠も勝ったから跡を継げたかも知れないですが、負けてたらどうなったのかも気になりますね。
平宗盛みたいに哀れな末路だったり😅
もし関ヶ原の戦いで東軍が負けたら、秀忠は敗戦の責任を押し付けられるだろうな。
@@シコ龍 逆に真田昌幸は英雄扱いやな
小早川寝返りで山から降る勢いで赤座、朽木、小川、脇坂も流れに乗るように寝返りに大谷勢に攻撃していったので裏切らなかったら大谷吉継もそのまま戸田、平塚と共に福島勢に対峙できたので戦況は変わると思います。不戦か加勢かでまた違ってきそうですが
めっちゃ頼りにされてだんだなー宗茂どんだけ強いんだよw
もし毛利輝元が大阪城に立てこもって東軍と戦っていたら・・・
面白かったです!当時の最強武将である立花宗茂が参戦していたかどうかが一番の分岐点だった。石田三成にしっかりとした戦略眼があれば(大谷の進言を受け入れていれば)、義に厚い最強の宗茂が参戦させて一気に情勢が変わっていたと思います。やはり能吏であるが武将でない三成の限界だったと思います。残念です。
や
どういう結末でも家康が死ぬことは無さそう
それほど用意周到なんよな
この頃の秀秋は重度のアル中で肝臓が相当やられていただろうから秀頼成人までは関白職は難しいと思う。三成が担ごうとしても、人望薄いし後継者が秀次事件で居なくなっているから政権は秀吉逝去の頃よりも更に不安定になりそう。
面白い歴史と逆パターン!
それと合戦の雲行きが怪しくなった時に遅参していた秀忠隊が到着していたら更に面白かったかも?
タイトルだけでもう面白い
私は吉川広家も徳川を見限るんじゃないかと思いましたが、
賛否は有るとは言え「もしも」を考えるのも楽しいですね。
立花の強さと信頼感は、信長の野望で醸成されている気がします。
意外と猛将だったのは知られていない小早川秀秋。
文禄の役で敵兵をなぎ倒してたとかなんとか。
大将自ら最前線に出て、秀吉からこっぴどく叱られた。
女子供を切りまくったというの見たことありますよ
小早川秀秋は、家康の本陣が前進したのを見て、東軍優勢と判断して寝返ったという話も。
立花宗茂が参戦してれば、確かに状況は変わってたでしょうね。
日本軍15万余の総大将という身分に甘んじず、若干17歳で単身敵陣に切り込んだ化け物
とても面白く拝見しました。
定説の史実にしても諸説あったりする中で、現在の我々が過去の歴史の結果を知りつつ、「もしも・・・」と想像すると話が尽きません。関ヶ原にしても、小早川秀秋の裏切りがなかったら・・・と考えてしまいます。ただ、これは西軍有利のifであって、逆に徳川本体率いる秀忠軍が遅参してなければ、関ヶ原の合戦において、小早川秀秋の裏切りがあってもなくても関係なく、東軍の圧勝だっただろうな、と考えてしまいます。
さらに、関ヶ原の合戦で史実通り西軍が敗戦したところで、大阪城の毛利輝元が本気で籠城戦に持ち込んでいたら、これまた関ヶ原の合戦は関ヶ原という局地戦は終わっても、東北の上杉、九州の黒田がまだ戦ってましたし、秀頼のいる大阪城に対しては、福島正則筆頭として、いくら家康の命令とはいえ、積極的に城攻めするとは思えません。憎かった三成を敗走させた以上、大阪城への戦意はなかっただろうし、家康もごり押しに攻めようとすれば、豊臣恩顧の大名からは反発を招く恐れも抱いたでしょうし、大坂の陣のようにいったんは和議にしたのかなと。
小早川が西軍として働けば吉川も動いただろうな。38000の秀忠が来てない好機を逃したのが吉川小早川。コイツらのせいで毛利は260年苦渋を味わうハメに。
秀頼の参陣が最も大きいifだと思うが淀殿を考えれば絶望的なif
秀秋の気持ち一つという面では間違いなく紙一重のifでしたね。
面白かったです
もし 上杉景勝が 撤退する東軍を追撃して江戸城 総攻撃をしていたら・・・
大河では、直江兼続がそれを推してましたね。
現実問題は無理だとしても、そうなってたらなぁと思いますね〜
凄く面白かったです!関ヶ原に立花宗茂が居れば確かに小早川秀秋は動けなかったと思います!
初めから動く気はなかったと思う。
家康さんから鉄砲を撃たれて
「早く動けや」と挑発されたから動いただけで
挑発されなかったら松尾山から最後まで動いてないと思う。
@@ワイルドメーン 問い鉄砲はなかったというのが最近の主流では?
@@ワイルドメーン そもそも、当時の鉄砲の射程距離では徳川の本陣から松尾山まで届かない。
@@yh6146 大砲なら届きそう
もし西軍が勝っていたら、、、それからは三成が、家督を息子に譲り秀頼から離れることが出来きなければ、東軍の豊臣恩顧は戻らないだろう。
立花宗茂が関ヶ原の戦いに参戦してたら多分西軍の勝ちですよ
改めてこの動画を見ましたが、小早川秀秋というより立花宗茂が西軍として関ヶ原にいたという内容ですねー😂
もし日本軍が 最初からガダルカナル島に大兵力を送り込んでいたら・・・
その後上杉や伊達がどうなったかも含めて考察してほしいです🙋♂️
信長の野望の関ヶ原ifシナリオは戦国立志伝と大志にあるけどどちらも面白いです。
小早川秀秋が西軍で戦っても
毛利が動かないと西軍は勝てない
石田三成の戦略だと島津軍四万と言われた二万が来る予定でしたからね。実際には精鋭千人しかこなかった。
兵力減っただろうと思い、関ヶ原後の島津討伐軍福島正則や加藤清正二万で島津攻めたら八万出てきて撃ち破られたから島津の兵力の出し惜しみしていた。
ナレーターさんの声、いいですね!
裏切ったのは秀明だけじゃないからなー
吉川広家も行軍の邪魔をして動かなかったし
島津義弘も傍観を決め込んでたし
お陰で長宗我部も動けんかったし
秀忠も遅参したとはいえ
後ろには控えてますからねー
そもそも秀頼が戦場に入れば豊臣恩顧の武将は東軍じゃなくて西軍についてましたよ
秀秋ですら裏切るのは無理でしたでしょうね
小早川秀秋と北政所の関係、徳川家康と北政所との良好ともいえる関係の両方を考えると、最初から東軍に付くつもりで重要拠点を占拠したが、若さと出自(関白豊臣秀吉の養子)からくる経験不足から西軍へ攻めかかる機を失っていたという事も考えられるんですよね。
西軍に組みしていても、三成VS家康の時点で勝ち目ない気がする
これの別視点ストーリーも見てみたいですね
具体的には
真田昌幸・幸村の上田攻防
上杉景勝・直江兼続の慶長出羽合戦
これらにおいて西軍が勝ったときの展開ですね。
関ヶ原後は家康が徹底抗戦する可能性もあるからこのシュミレーションはあくまで可能性の一つだけど、どうあがいても関ヶ原では西軍勝ちきれないっていうのは面白い。
あと史実西軍さんはどう考えても裏切る小早川をどうしてこんな重要な位置に置いたんだ...?軍の翼端とか裏切られたら一発アウトだし、言うこと聞いてくれたら一撃で敵倒せる超重要ポジでしょうが!!!
面白いです
九州の黒田・島津は大連合を組むのか
信州上田は孤立してしまうのか、大博打を打つのか
東北の最上・伊達と上杉はどう動くのか
さらにその後のchemistryに想像が及びます
素晴らしいです。~~❤️
徳川250万石兵数30,000+15,000(秀忠別働隊)、石田19万石兵数5,800、大谷5万石兵数1,500・・・自ら大軍を運用できる家康と、兵力を他大名に頼らざるをえない三成との差は大きく、関ヶ原が西軍勝利であってもその後の歴史は同じ結果になったと思います。秀頼の寿命が多少伸びるくらいですかね。
西軍勝利すると領国にいる薩摩の島津八万が暴れだしたでしょうから、石田三成は徳川と島津氏の対処しなければいけなくなり豊臣はどちらでも滅びてそう。
関ヶ原後の島津討伐軍福島正則などの二万の軍は島津軍八万にぼろ負けしていますからね。
秀吉のように四十万で島津攻めないと砦が無数にあり戦略的に連携して面で防御している島津軍には勝てない。
最新学説だと東軍についた小早川を牽制していた西軍の背後を徳川方が突いたという事になっていますね。
小早川や毛利が真面目に西軍として働いていれば勝利は西軍確実でしたよ。
石田三成が強引に仲間に引き入れても、実は完全に裏切られていたわけで三成の見通しが甘かった。
家康はいろいろな場面で窮地に陥った大名達を助けまくっていたから、実際はともかくとして
評判の人徳において三成は完全に負けていましたからね。大谷が「お前では駄目だ」と喝破したとおりでした。
もしもという話なら関ヶ原は長期戦になったでしょうね。
そうなると九州を全域を占領していた如水が島津を討伐して攻め上ってきたはず。
3つ巴であれば勢いのある如水が優勢なので、ほんとうに黒田幕府ができたかもしれませんね。
如水がそんなに簡単に島津を倒せるとは思わない。むしろ島津と組んだ時に天下を狙う位置につけるのだと思う。
小早川だけでなく、内通していたといわれる『吉川広家』と吉川のせいで出陣出来なかった『毛利秀元』も家康の陣、後方にいたから、これも攻め出していたら戦況はどう変化したのか……。
『山内一豊』や『池田輝政』などの名だたる武将がいたからうまく動けないだろうけど、少しは足止めできたかも?
ただ、徳川軍には『福島正則』『榊原康政』『本多忠勝』『井伊直政』がいるからなぁ。
島津軍が敗走の際に井伊直政は負傷したものの、島津軍が敗走しなければ、井伊直政は負傷しなかったかもしれないし……。
難しいですよね、ifって。
20:28・・・ただ、史実では関ケ原の2年後に没した秀秋が、秀頼15歳となる8年後まで生きられるか?というのも焦点ですね。
何しろ秀吉の後継者候補だったもんだから7歳で酒を飲み始め接待漬けで毎晩酒浸り、秀頼誕生で後継者候補から外され接待漬けからはほぼ解放されたものの12歳でアルコール依存症になっていた為毎晩酒浸りは辞められなくなっていたから、関白就任後も恐らく改善されることは無いばかりか更に酒の量も増え史実よりも早く早逝するかも知れない。
秀吉のせいで関白の座を失っていた五摂家も黙ってはいない。ただでさえ秀吉が秀頼を関白にするために五摂家を大臣にしない様に朝廷に圧力をかけていた。だから秀吉が死んだ時点で大臣は家康のみという異常事態。だから秀吉が死んだ後に秀吉に娘を殺されて流罪になっていた菊亭晴季を右大臣に復帰させて、関ヶ原の後に五摂家を関白に復帰させた。
浅野や池田や蜂須賀や山内も東軍に攻めこむと思うし、
毛利は大阪より西に有るから
東軍に攻めこむと思う!
多分挟まれる可能性の方が高いと思う
楽しい動画でした。😄
むしろ秀頼が西軍の総大将になっていたらのifが気になるな
秀頼が関白である以上無理だから前提変わってくる
@@フィストン
秀頼の最高位は右大臣で生涯関白にはなってないはずだし、そもそも関ヶ原当時は6歳か7歳かそれくらいだったはずですよ
@@塔乃水城 あーそっか
でも同じじゃない?
大阪に生まれ育って50年。自分にとっては最高の【if】であります。
個人的にお願いしたいのは、「南宮山で吉川広家が先鋒ではなく、長束正家が勤めていたら」を見たいです、ご検討ください。
長束ではあっさり蹴散らされる。
西軍が勝っても論功行賞で絶対揉める。
揉めないですよ。領地はあくまでも秀頼が主体でその下大老と奉行で決められるのだから、揉めたらそれは豊臣政権への反逆とみなされます
@@あけぼの-r8y いや絶対に揉める。自分が凄いと勘違いしている毛利輝元。義とかほざいて国頭の際に年貢を全て持ち去った上杉景勝と直江兼続。豊臣のせいで嫡男が戦死した長曽我部。豊臣のせいで娘を殺された最上。豊臣のせいで内戦状態の島津。家臣が離反しまくりの宇喜多。よほど論功行賞をうまくしないと戦国乱世に逆戻り。そもそも幼少の秀頼と空気を読めない三成では無理。
@@あけぼの-r8y 貴方はなんで言い切れるの?
その考えは貴方の頭の中での事。
自己中の人にみられる典型的な症状ですね。
視野が狭くて可哀想な人。
同情はしませんがね😃
論功行賞は秀頼元服までお預けで没収した東軍の領地は豊臣直轄領となり
奉行衆が管理を一任するとまで確約出来れば何とかなりそうですけど
餌で釣られた西軍諸侯はそれでは納得しないでしょうね…。
石田三成は多分一日で関ヶ原は終わらないと思うけどなぁ〜そんな度量も無いしカリスマ性は無いはず
一方徳川勢は小早川が動かないと分かった瞬間時間を稼ぐか別の方法を組むとは思う。戦事は上手く行くことがほとんど無いから色々なスケジュールを工面しないといけないからだと思うんだ
視てきた動画の中でも1番面白い☝歴史好きなら本能寺と並ぶIfネタ😊しかも宗茂をキャストするとかグレイト👍
秀頼を総大将にするしかなかったんだよなぁ
まあその場合家康は戦争出来ないわけだが
シンプルに吉川広家が西軍に味方したら家康の背後を襲えたんですけどね…
そういうことになるなら背後衝かれる布陣をしないと思うんですが…
@@matukawatositane
家康はおそらく広家が絶対味方になると確信してたのでしょう。
@@山城弾正 輝元がこの頃には敗戦処理始めてますからね…
西軍勝利のIF面白いですね。
東軍敗退でも家康が関ヶ原で討死するか、敗走するかでも更に未来は変わりそう。
家康が死んだら大名が自国領地守り戦う戦国乱世に逆戻りでしょう。
なんて考えてみました。
仮に家康が生きて関ヶ原を落ち関東に辿り着けたら結局最後の勝利者は家康な気はします。
しかし家康が生きて岐阜まで撤退、秀忠と合流しても直後に再度の決戦は無理でしょう。
してもまず勝てないかと。
一度負けた東軍、直後の再戦では士気が低すぎるのでは無いかと。
家康は秀忠率いる本隊と共に駿府小田原付近まで撤退、家康に付いた豊臣恩顧の諸将が三成方に寝返る可能性も大。
小早川秀秋も西軍のままでしょう。
しかし福島加藤黒田辺りは家康陣営のままでしょう。
まぁ、福島正則・藤堂高虎辺りは関ヶ原で討死かも知れませんが。
豊臣恩顧の武将が全て西軍に付かないのは相手が三成であるから。
東軍は徳川勢以外の大半は三成憎しの連合軍ですから。
負けても「初戦は負けたが今度こそ!」「今度こそ三成討つべし!」と気持ちを持ち直すのでは無いでしょうか。
ここで上杉と関ヶ原西軍勢、東軍よりの寝返り勢が合わさってかつ時を同じくし関東の家康陣営を挟撃出来れば東軍家康陣営は壊滅でしょうが、そうはいかないかと。
伊達政宗。
彼が上杉を壊滅出来ないまでも抑え込むでしょう。
伊達側には徳川贔屓豊臣憎しの最上勢もいます。
伊達の旗色は完全徳川では無いでしょうけど。
東でも西でも無いグレーな漁夫の利、最後の天下統一の機会を失する事は無いかと。
そんな中、豊臣嫌いの最上は徳川のために必死になるのでは無いでしょうか。
伊達陣営にしたら豊臣にしても徳川にしても、でっかい勢力が残ら無い方が良い訳で。
また豊臣には恨みも恩も有り、徳川にも恩はあり、また娘婿は家康の息子。
どちらにもつかず日和見、隙あらばどちらも飲み込む気持ちはあるでしょう。
この頃の伊達政宗は天下を諦めてはいないでしょう。
しかし一方自陣営のみで天下取り、そこまでの兵力は持っていない。
現状上杉を抑え、徳川の壊滅を防ぎ、東軍西軍の共倒れを外野から見ているのでは無いでしょうか。
それ故に上杉も動けないかと。
そして宇都宮には家康が次男、結城秀康が居ます。
秀忠と違い勇猛盛んな彼が宇都宮に守備兵少し残して家康本体と合流するのではないかと。
関東は佐竹の動向が不明瞭ですが、事実通りどちら付かず旗色だけ取り敢えず西軍、としておきましょう。
再生東軍は家康秀忠に福島加藤黒田に秀康。
兵力は8〜9万ですが圧倒的な地理的優位有り。
この時点では関ヶ原勝利で勢いのある西軍+寝返り勢(総勢13万くらいでしょう)でも箱根越えは容易く無いでしょう。
その頃、九州では黒田の親、官兵衛が九州制圧・天下取りに動いています。
東軍西軍による関ヶ原の戦は舞台を東に展開して長期化、特に西軍の主要大名以外は長戦による厭戦気分も増しているところで九州、そしておそらく中国地方、四国の大半も官兵衛の手に落ちていくのでは無いかと。
島津くらいではないでしょうか?
官兵衛の軍とまともに自国に残る兵力のみでも戦える力を残しているのは。
その島津も大軍となった黒田官兵衛軍には呑まれるでしょう。
その為西軍大将毛利、そして島津・立花等大名は自国領地を奪われます。各諸将は自国に早く戻りたいが西軍の中心人物たる三成はあと一歩で家康の首が!と撤退は認めないでしょう。
そこから更なる厭戦化、兵の逃散、時期1600年〜1601年の冬でしょう。
冬の寒さにも耐えねばなりません。
それは両軍同じですが、毛利・立花等自領地を奪われた上、遠く関東の地で戦を続ける大名には一層堪えるのではないかと。
最悪は関ヶ原で勝ったにも関わらず西軍は瓦解する事が見えてきます。
そんな事になれば逃散により西軍兵力は10万を割るかも知れません。
とはいえ簡単に撤退も出来ません。
背を見せた瞬間、家康率いる再生東軍勢は山の上から襲いかかってきます。
三成が馬鹿じゃ無い限り撤退はしないでしょう。
しかし西軍諸将の気持ちは違います。
険悪な雰囲気と嫌な時間が睨み合いの中続き、そんな中秀康を窓口とし官兵衛軍は家康と同盟を結ぶのでは?
これで逆転。
その頃、自国を官兵衛に奪れ苛立つ西軍諸将の纏まりは無くなる。
前後して東と西から挟み撃ちで壊滅。
それが1601〜1602年頃かと。
その後再生東軍と伊達とは一戦あるかないか、で伊達は降るかと。
この時点で最上は親徳川の色ははっきり出している訳で。
野心を持ちながら無謀はしないのも政宗。
伊達と手を結ぶとは思えない上杉は東北で孤立し降伏で歴史通りかと。
仲の悪い南部氏・津軽氏も事実通り東軍のままでしょうし、第一上杉に付く義理がない。
そうなれば黒田官兵衛と徳川家康で日本は2大体制。
頃は1602〜1603年でしょうか。
官兵衛は徳川とは争わないと思います。
大将には収まらないで家康の右腕となり実権を握り辣腕を...
しかし翌1604年に官兵衛は史実通り病気で亡くなり、天下は完全に家康のものに。
この時点で秀頼はまだ子ども。
淀君中心では有効な手は打てないでしょう。
官兵衛の息子長政は家康にも気に入られている上、家康に敵対する性格や器では無いので、大人しく大大名として史実以上の石高で大名となるのではないかな。
真田は...攻めるまでの余力は無いでしょう。
西軍に付いたまま、旗色をみて嫌いな徳川に、かも知れません。
永遠のワクワクのイフだね!
本能寺のイフと同じくらいのね
撤退がそんなに容易だったかどうか。
毛利勢も、敗走する東軍に恩を売ると考えるよりも、西軍に恩を売る方を選ぶのではないかな。
まかりなりにも西軍なので
敗走する敵に攻撃しないのはさすがに西軍にかどがたつ
勝者にいながら
西軍に敵対することはさすがに吉川も選ばないと思う。
長期戦になるなら毛利輝元喜びそう 関ケ原は囮だ!と言わんばかりに九州やら四国に兵送ったり一揆起こさせたりで荒らしまわってたし(九州方面は黒田に防がれて伊予は加藤嘉明領の留守居に苦戦してたが)
豊臣なんてどうでもよくて西国の覇者目指してますしね
輝元にそんな才覚はない😔
@@神戸屋著述堂 この際才覚は別でして
@@matukawatositane
才覚がなければ夢や野心は持てない‼️
輝元はお坊っちゃん育ちの無能やで。
@@神戸屋著述堂 とはいえ事実として北九州、四国に攻め込んでませんか?
果たして家康が関ケ原から敗走したくらいで天下を諦めるでしょうか?そして西軍が関ケ原で勝利したくらいで結束できるでしょうか?
西軍は一時の勝負には勝てても試合には勝てない体制だと思いますよ。
秀秋が東軍につかないと言うことは、三成の餌に食いつかない程度に秀秋が家康シンパになったであろう切っ掛けが無いということに繋ぐ必要がある気がします。
であれば秀吉に冷遇され、家康に救われた事実が無いところまで戻る必要があるので、そこまでいけばかなり壮大なifになりますね。
最も秀秋が東軍につくことに自信が無かったら家康の戦い方も変わっていたはずなので、そのパターンでifを考えるのもそれはそれで壮大で楽しそうです。
家康が秀秋を救ったとされるエピソードはあくまでも軍記物の話です。
近年では秀秋が朝鮮に渡っていないとう説も出てきています。
越前に移った後、筑前の領地に移るの書状には太閤秀吉の命(遺命)と書かれていてしかも20万石の加増までされています
仮に立花宗茂を関ヶ原に連れてきたら島津義弘が石田三成に却下された夜襲を独自判断決行してそうな気がする。
ただし多分油断してない可能性高そうな本陣じゃなく東軍諸将を適当に抉って消耗させてそう。
てか毛利家本隊とも言える毛利元康も1/3ぐらいの兵連れて関ヶ原に回しておけば吉川も戦わざるを得なかったのではないかと。
西軍に立花宗茂を置くのなら、
東軍も水野勝成さんを置いてもいいだろう。(関ヶ原の時、大垣で待機していた)
水野さんが万単位で兵を率いているなら話が変わりそうだけど
立花も本国の領地の近くに加藤清正や黒田如水の領地があるから
そっちの防御に多数の兵士が必要なので
そんなに多くの兵は連れてないだろうな
立花が出陣するなら大垣城攻め用の水野さんを関ヶ原に配置する可能性はあると思う。
@@ワイルドメーン しかし、立花率いる4000は並みの4000じゃないですぞ、、、。
銀英伝のローゼンリッター並みに戦力の10倍の働きをするのは話を盛ってるとしても虚構ではござりませぬ。
動画に使用しているbgm知りたいです!
どっちに転ぼうとも動かない広家さん...
家康の場合は本隊がまだ来てない状態だから逃げ切れさえすれば立て直し自体はいくらでも効くんだよな
イフ❗️最高のイフ❗️ですね👍管理人殿、excellent❗️⤴️👍 自分なら失神してる。救急車、救急車 関ヶ原に救急車来たー❗️
まず、小早川勢は15000ではなくて8000程度でした。
そもそも西軍があの位置に布陣したのは、かねてより不穏な動きをしていた小早川隊が味方の部隊を追い払って松尾山に陣取った事で寝返りが明らかになった為、小早川隊に備えるのと退路を断たれるのを防ぐために西軍本隊をあの最終防衛ラインまで下げざるを得なかった。
従って、まず小早川秀秋の寝返りをを防ぐという前提自体が成り立たないと思います。
とりあえず70万石にした徳川家も30→10→5→改易みたいに段階を追って小さくして最終的にはとり潰すんじゃないかな
仮に西軍勝利になると、その後の安定は難しくて、再び戦乱の世になりそうな気もするんだよなぁ・・・・
豊臣家のためではなく、天下万民のためだと史実通りでいいのかもしれないな。
大津城攻めの軍団が関ヶ原の鍵を握っていたと考えると京極は戦功一番ですね
二番はこれも戦力分散に貢献した舞鶴籠城の細川幽斎
最近の研究では通説がどうも正しいという根拠が揺らいできました。
史実認定(1級資料)の関ケ原合戦については以下の通り
1.石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。
2.家康本隊、15日午前10時赤坂着陣、関ヶ原に移動し合戦に及ぶ。
3.「先手」井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻る。
4.小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」、西軍は敗走
5.追撃戦により、島津豊久・島左近・大谷義継・戸田勝成・平塚為広らを討ち取る。
6.午の刻(午前12時ごろ)戦闘終了、家康はその日のうちに佐和山に着陣
以上(これ以外の内容はすべて2級資料、後に軍紀物として書かれた内容)
まぁ通説は三國志演義みたいなものとして楽しんでください
立花宗茂だった1人がいれば、どれだけ戦局が変わったのだろうか…
彼が遅れないってことは秀忠本軍(+真田信之、榊原康政、本多政信)も参戦することにもなるでしょうしなぁ…
京極高次(立花を参加できないくらい粘った)も地味に番狂わせ起こした人よね
@@フォード-i1w
立花宗茂がいる大津城の部隊が関ヶ原に到着できるのは2日もあれば可能ではないでしょうか?
秀忠の到着よりずっと早いと思います
もしこの通りになったとしたら最大の戦犯は秀忠ですね。
秀忠さえ来ていれば秀秋は裏切ったと言われるでしょう。
勝手な想像だけど西が勝ってても江戸はまだ健在なので、徳川の領地が減り存命かと。
そうしてる間に毛利が権勢を握り内部分裂起こしてまた戦乱へ
これは面白い!
小早川秀秋というよりか、東軍後方の吉川広家が動けば毛利秀元隊も邪魔されず動けて東軍は挟み撃ちになって大混乱になるからどっちかというとそっちの方が重要
そうなれば自然と小早川秀秋も東軍には付かず東軍に襲いかかるだろう
実際にこんな展開になれば良かったのに
小早川秀秋
源義経
沖田総司
このあたりの肖像画はほんとにこの姿だったのか気にかかるw
そうなったら吉川も動くんじゃない?
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
小早川秀秋が優秀だった説
暗殺したからひどいやつにした説