Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
いつも楽しく観させていただいています。 スサノオ編もワクワクです!
8:00のあたりの勢力図は垂仁期以降~記紀成立前と考えられますね。特筆するべきは、八坂氏。実は八坂の系譜のトメ姫は、時系列的にタテミナカタとは婚姻できないはずなのです。後年に八坂は天竜川河口域から北上し、安曇氏と共に諏方に展開したのかもしれません。地元を調べてもどうやっても信濃の安曇氏は6世紀より前には遡れないそうです。下社は基本的に安曇族が持ってきたとされますが、一部超ローカル伝承で、安曇は物部に乗っ取られたというものがあります。元々海部・尾張、つまり村雲の家は母系が物部氏であった事、信濃の松代もそうですが、かなりの範囲で神社の祭祀が諏方化している事を考えると、安曇氏は物部のふりをして家名を守った時期があるのか、物部守屋の子供の信濃への退避から桓武期における現在確認できる祭祀体系の確立と、諏訪神社のミナカタへの上書きに繋がった出来事があったと考えられます。(つまりミナカタ祭祀は物部氏による工作で、それゆえの物部に乗っ取られたという視点が生まれた)出雲系土師氏と出ているエリアが島根県出雲の東西文化圏での進出先で、現在でも加茂神社の大元と称する神社がのこっています。つまり、その場所が本来の葛城と考えられます。その場所にソツ彦が入り込んだんじゃなかったかと思います。一方、蘇我氏は隠されていますが、現在では一般知識としては臣系のカバネですよね。宿祢ではなくなっている訳です。何かあって、葛城を名乗れる立場にあったのが臣系、ソツ彦の本質と思われます。つまり、ソツ彦は葛城に入植しても出雲族や紀伊国造家を敵に回さず、分家として武内宿祢の系譜、臣家の系譜を残せるまでには融和的な存在であったと考えられます。・・あれ?この勢力図に何故物部氏が出てこないのでしょうか(ヤサカイリヒコは垂仁の兄弟、本当は物部ですよね。)9:48の風土記の記述は面白いですね。まるで葛城ソツ彦が八咫烏であるかのような記述です。風土記で残されているのは体制に反しない事が目的でいつ文などがわざと残されたと考えられるので、倭国大乱期と崇神の時代を誤魔化す為に都合よく残されたと考えるべきではないかと感じます。少なくとも倭国大乱期のヤタガラスの時代には存在していたと思わせたい人物が、ソツ彦であったのでしょう。宇治土公家は確かサルタヒコ系の椿大社の社家でしたっけ?道案内や、食事の提供役は安曇や大彦を含め、服属を表す説明と思います。祇園執行家の社家の系譜は2つあり、片方が朝鮮系を匂わせています。つまり、八坂も結局記紀服属側に回った可能性があると踏んでいます。
八咫 咫は中婦人の手の長さ八寸 これを咫という とあります、一寸は2.3cmなので✖︎8 18.4cmこれの8倍は147.2cmなんと伊都の平原遺跡から円周147.2cmの鏡が原田大六氏により発見されてます🎉 八咫烏もこの大きさの烏だったんですね😮デカイ‼️
加茂氏は登美家で古代出雲族系、高賀茂氏は徐福九州四国系だと思います。高賀茂氏海部氏系徐福の子孫ですよね。
播磨に住んでるのですが牛頭天王の本社の広峰神社があり、そのふもとに白国神社 (恐らく新羅がなまったのか)があります。天日槍集団が関係してるのでしょうか
妄想かよ!と思うものの、妄想でないとできない新たな発見があるのも事実
八咫烏を妄想すると八咫150cmの烏の黒い矢羽をつけた矢を射る軍団ですかね❤これが先頭で進軍して来たら❗️😅多分逃げ散るでしょう、姿が見えたなと思ったら矢が飛んでくる‼️かなわんわ
質問させてください。八咫烏と八咫鏡。八咫の意味はなんでしょうか?
ヤタは鏡の寸法ですね。デカイやつ🪞
武内宿禰は伝説上の人物で実在不明と言う事ですが、三韓征伐で武内宿禰は火の国の兵を率いたとありますから、熊本の火の国出身ではないかと思われます。また当時の熊本の初代火の君が建緒組命で、武内宿禰の父親が屋主忍男武雄心命で、名前が同じタケオですから武内宿禰は建緒組命の子であり二代目火の君ではないでしょうか。
山城と阿多をむりやり繋げるとするなら、宇治上神社の桐原水と木花神社の霊泉桜川でしょうか。いずれもユダヤ人が身を清めるミクヴェのように見て取れます。昔は川などで身を清めてから神社に参拝すると聞いたことがあります。
加茂氏、大神氏、和邇氏、宗像氏などは、吾田片隅命という人物と関係があり、その点でも確かに南九州や隼人と関係があります。
伊勢の猿田彦神社の宮司様が宇治土公さんなので宇治が関連してきそうです(^_^)
阿波には国を初めて作った神社の溶造皇神社(延喜式式外社)があり御祭神は建速須佐乃尾でこの神社から八つの坂があり八坂神社の名前の由来になります。
加茂氏は阿波ですよ。日向は九州の宮崎の日向ではありません。この日向は筑紫ではなくて竺紫の日向で四国の阿波になります。また、宮崎が日向になったのは景行天皇が名付けて国名になってます。天孫降臨も宮崎ではなくて阿波です。神社祝詞に伊頭を千別けて伊津面に降臨したと書かれてます。伊頭は阿波の中の地名です。伊津面も阿波です。
いつも楽しく観させていただいています。
スサノオ編もワクワクです!
8:00のあたりの勢力図は垂仁期以降~記紀成立前と考えられますね。特筆するべきは、八坂氏。
実は八坂の系譜のトメ姫は、時系列的にタテミナカタとは婚姻できないはずなのです。
後年に八坂は天竜川河口域から北上し、安曇氏と共に諏方に展開したのかもしれません。
地元を調べてもどうやっても信濃の安曇氏は6世紀より前には遡れないそうです。
下社は基本的に安曇族が持ってきたとされますが、一部超ローカル伝承で、安曇は物部に乗っ取られたというものがあります。
元々海部・尾張、つまり村雲の家は母系が物部氏であった事、信濃の松代もそうですが、かなりの範囲で神社の祭祀が諏方化している事を考えると、安曇氏は物部のふりをして家名を守った時期があるのか、物部守屋の子供の信濃への退避から桓武期における現在確認できる祭祀体系の確立と、諏訪神社のミナカタへの上書きに繋がった出来事があったと考えられます。(つまりミナカタ祭祀は物部氏による工作で、それゆえの物部に乗っ取られたという視点が生まれた)
出雲系土師氏と出ているエリアが島根県出雲の東西文化圏での進出先で、現在でも加茂神社の大元と称する神社がのこっています。
つまり、その場所が本来の葛城と考えられます。その場所にソツ彦が入り込んだんじゃなかったかと思います。
一方、蘇我氏は隠されていますが、現在では一般知識としては臣系のカバネですよね。宿祢ではなくなっている訳です。
何かあって、葛城を名乗れる立場にあったのが臣系、ソツ彦の本質と思われます。
つまり、ソツ彦は葛城に入植しても出雲族や紀伊国造家を敵に回さず、分家として武内宿祢の系譜、臣家の系譜を残せるまでには融和的な存在であったと考えられます。
・・あれ?この勢力図に何故物部氏が出てこないのでしょうか(ヤサカイリヒコは垂仁の兄弟、本当は物部ですよね。)
9:48の風土記の記述は面白いですね。まるで葛城ソツ彦が八咫烏であるかのような記述です。風土記で残されているのは体制に反しない事が目的でいつ文などがわざと残されたと考えられるので、倭国大乱期と崇神の時代を誤魔化す為に都合よく残されたと考えるべきではないかと感じます。
少なくとも倭国大乱期のヤタガラスの時代には存在していたと思わせたい人物が、ソツ彦であったのでしょう。
宇治土公家は確かサルタヒコ系の椿大社の社家でしたっけ?道案内や、食事の提供役は安曇や大彦を含め、服属を表す説明と思います。
祇園執行家の社家の系譜は2つあり、片方が朝鮮系を匂わせています。つまり、八坂も結局記紀服属側に回った可能性があると踏んでいます。
八咫 咫は中婦人の手の長さ八寸 これを咫という とあります、一寸は2.3cmなので✖︎8 18.4cm
これの8倍は147.2cm
なんと伊都の平原遺跡から円周147.2cmの鏡が原田大六氏により発見されてます🎉 八咫烏もこの大きさの烏だったんですね😮デカイ‼️
加茂氏は登美家で古代出雲族系、高賀茂氏は徐福九州四国系だと思います。高賀茂氏海部氏系徐福の子孫ですよね。
播磨に住んでるのですが牛頭天王の本社の広峰神社があり、そのふもとに白国神社 (恐らく新羅がなまったのか)があります。天日槍集団が関係してるのでしょうか
妄想かよ!と思うものの、妄想でないとできない新たな発見があるのも事実
八咫烏を妄想すると八咫150cmの烏の黒い矢羽をつけた矢を射る軍団ですかね❤これが先頭で進軍して来たら❗️😅多分逃げ散るでしょう、姿が見えたなと思ったら矢が飛んでくる‼️かなわんわ
質問させてください。八咫烏と八咫鏡。八咫の意味はなんでしょうか?
ヤタは鏡の寸法ですね。デカイやつ🪞
武内宿禰は伝説上の人物で実在不明と言う事ですが、三韓征伐で武内宿禰は火の国の兵を率いたとありますから、熊本の火の国出身ではないかと思われます。また当時の熊本の初代火の君が建緒組命で、武内宿禰の父親が屋主忍男武雄心命で、名前が同じタケオですから武内宿禰は建緒組命の子であり二代目火の君ではないでしょうか。
山城と阿多をむりやり繋げるとするなら、宇治上神社の桐原水と木花神社の霊泉桜川でしょうか。いずれもユダヤ人が身を清めるミクヴェのように見て取れます。昔は川などで身を清めてから神社に参拝すると聞いたことがあります。
加茂氏、大神氏、和邇氏、宗像氏などは、吾田片隅命という人物と関係があり、その点でも確かに南九州や隼人と関係があります。
伊勢の猿田彦神社の宮司様が宇治土公さんなので宇治が関連してきそうです(^_^)
阿波には国を初めて作った神社の溶造皇神社(延喜式式外社)があり御祭神は建速須佐乃尾でこの神社から八つの坂があり八坂神社の名前の由来になります。
加茂氏は阿波ですよ。日向は九州の宮崎の日向ではありません。この日向は筑紫ではなくて竺紫の日向で四国の阿波になります。また、宮崎が日向になったのは景行天皇が名付けて国名になってます。天孫降臨も宮崎ではなくて阿波です。神社祝詞に伊頭を千別けて伊津面に降臨したと書かれてます。伊頭は阿波の中の地名です。伊津面も阿波です。