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七尾城行ってきましたが、すごい山城でした。
昨日七尾城に行ってきました!疫病の事は、知りませんでした。毎度勉強になります!
まさに軍神上杉謙信公。ほぼ越後一国をもって関東攻め、信濃攻め、北陸攻めと、理由はどうあれほぼ負けずに且つ、これだけ広大に暴れ回れる凄さたるや。単に戦の天才ってだけではなく、経済あっての軍事行動って面もあるわけでそこも見過ごしてはいけない。そりゃぁ信長も最初は謙信公に対して媚びへつらうのもハッキリ言って致し方ないのはよく分かる。
穴水城と熊木城の位置関係が逆かと思います。
ちなみにこの"上条政繁"と"畠山義春"は長い事同一人物とみなされておりましたが、最近は"別人説"が有力です。ただし政繁の前諱が景義だった為、どっちにしろ畠山氏出身という説もありますが、私は八条朝繁の末裔だという説を推しております。また畠山義春ですが、彼の親が実は義綱の子供説を推してます。一応資料では義続の次男で義綱の弟と記載があるようですが、生まれ年的には兄である義綱の子供の方が違和感がないと感じたからです。彼ら二人が同一人物説ができた経緯は義春が政繁の養子になって後を継いだ事でしょう。またコレも確かな確証はありませんが、法名が二人共違う事も別人説の根拠の一つでもあります。
石動山:セキドウザン・・・❌ 、イスルギヤマ・・・〇
地元では「せきどうさん」と呼びます。「イスルギ」は小矢部の地名という印象が強いですね。
セキドウンで正しかったんですね。面目ありません。ご教示感謝です。
セキドウですねもう少し後の話になると石動山門徒が佐々成政と連携して前田利家と対立するとか重要な所
この戦いは謙信にとってはどうも不得意なのかと思わせる城攻めですが謙信は勝っています、やはり戦では無類の強さを誇る人であることは事実でしょう。ただこの戦いでは謀略も使っていて謙信らしくない一面も見えるのでそこが気になります。
七尾が堅すぎるのよ。国力も全く違うし、能登側の指揮は重臣の合議制。しかもその重臣同士が権力争いの真っ只中。この状態で謙信の力攻めを耐え抜く城はそう多くないと思う
確かに七尾城の縄張りはめちゃ大きい
七尾城ほんとよかった
誰も得してない悲劇
だから前田利家は能登に入ると七尾城を廃城にし、港に近い小丸山に城を移したんだよな。
信長の野望でこの城堅いんだよなあ
このBGMは一体何だ!?
熊木と穴水の位置関係が、、、
西の桶狭間の敗将で今項羽の武田元繁お願いします
能登のイントネーションは「の」を高く強く、「と」をそえる感じで発音しますm(_ _)m
武田家臣!長坂長関斎お願いします
戦国時代の能登畠山家は義総が全盛期を作りましたが義総以降は衰退しましたね…椎名康胤や神保長職なども上杉謙信と戦って1度は撤退させた事はあるが敗北してしまいましたね…堅城でも中は地獄。
10万人突破おめでとうございます(*´╰╯`๓)♬
遊佐続光という武将の末路斬首されました
畠山義続の子の義春は一時謙信の養子となり後に上条政繁の養子になります(義春と政繁同一人物説もあり)景勝時代に政繁が上杉家を出奔したことにより義春も上杉家を離れ豊臣の直臣として召し抱えられます。大坂冬の陣で義春は片桐且元と共に豊臣から徳川に主君を変え大坂夏の陣では徳川の一員として戦います。義春の長男が米沢藩に仕え、次男が徳川の旗本高家に取りたてられます。
私も別人説を推してます!なんかそっちの方がロマンありますからね!それに政繁が謙信にかなり年齢が近いのに謙信の養子になるとは考えられません。そこから政繁ではなく政繁の後を継いだ義春が謙信の養子になったなら違和感ありませんからね!
「のと」のイントネーションが違います
救いのない籠城戦、いつの世も悲惨な結末に終わりますよね。最もつらい目に遭うのはいつも庶民ですよね。
ん?謙信は輪島の方から攻めてないのかな?有名な鬼のお面の太鼓の発祥が謙信の輪島攻撃だと言っていたが…違うのか?
4:43 長続連・綱連って言い間違えたり、聞き間違えたりしそう。
もし、上杉謙信が関ヶ原の戦いに参戦したら・
1コメ
七尾城行ってきましたが、すごい山城でした。
昨日七尾城に行ってきました!
疫病の事は、知りませんでした。
毎度勉強になります!
まさに軍神上杉謙信公。
ほぼ越後一国をもって関東攻め、信濃攻め、北陸攻めと、理由はどうあれほぼ負けずに且つ、これだけ広大に暴れ回れる凄さたるや。
単に戦の天才ってだけではなく、経済あっての軍事行動って面もあるわけでそこも見過ごしてはいけない。
そりゃぁ信長も最初は謙信公に対して媚びへつらうのもハッキリ言って致し方ないのはよく分かる。
穴水城と熊木城の位置関係が逆かと思います。
ちなみにこの"上条政繁"と"畠山義春"は長い事同一人物とみなされておりましたが、最近は"別人説"が有力です。
ただし政繁の前諱が景義だった為、どっちにしろ畠山氏出身という説もありますが、私は八条朝繁の末裔だという説を推しております。
また畠山義春ですが、彼の親が実は義綱の子供説を推してます。一応資料では義続の次男で義綱の弟と記載があるようですが、生まれ年的には兄である義綱の子供の方が違和感がないと感じたからです。
彼ら二人が同一人物説ができた経緯は義春が政繁の養子になって後を継いだ事でしょう。またコレも確かな確証はありませんが、法名が二人共違う事も別人説の根拠の一つでもあります。
石動山:セキドウザン・・・❌ 、イスルギヤマ・・・〇
地元では「せきどうさん」と呼びます。
「イスルギ」は小矢部の地名という印象が強いですね。
セキドウンで正しかったんですね。面目ありません。ご教示感謝です。
セキドウですね
もう少し後の話になると石動山門徒が佐々成政と連携して前田利家と対立するとか重要な所
この戦いは謙信にとってはどうも不得意なのかと思わせる城攻めですが謙信は勝っています、やはり戦では無類の強さを誇る人であることは事実でしょう。ただこの戦いでは謀略も使っていて謙信らしくない一面も見えるのでそこが気になります。
七尾が堅すぎるのよ。国力も全く違うし、能登側の指揮は重臣の合議制。しかもその重臣同士が権力争いの真っ只中。この状態で謙信の力攻めを耐え抜く城はそう多くないと思う
確かに七尾城の縄張りはめちゃ大きい
七尾城ほんとよかった
誰も得してない悲劇
だから前田利家は能登に入ると七尾城を廃城にし、港に近い小丸山に城を移したんだよな。
信長の野望でこの城堅いんだよなあ
このBGMは一体何だ!?
熊木と穴水の位置関係が、、、
西の桶狭間の敗将で今項羽の武田元繁お願いします
能登のイントネーションは「の」を高く強く、「と」をそえる感じで発音しますm(_ _)m
武田家臣!
長坂長関斎お願いします
戦国時代の能登畠山家は義総が全盛期を作りましたが義総以降は衰退しましたね…
椎名康胤や神保長職なども上杉謙信と戦って1度は撤退させた事はあるが敗北してしまいましたね…
堅城でも中は地獄。
10万人突破おめでとうございます(*´╰╯`๓)♬
遊佐続光という武将の末路
斬首されました
畠山義続の子の義春は一時謙信の養子となり後に
上条政繁の養子になります(義春と政繁同一人物説もあり)
景勝時代に政繁が上杉家を出奔したことにより義春も上杉家を離れ
豊臣の直臣として召し抱えられます。
大坂冬の陣で義春は片桐且元と共に豊臣から徳川に主君を変え
大坂夏の陣では徳川の一員として戦います。
義春の長男が米沢藩に仕え、次男が徳川の旗本高家に取りたてられます。
私も別人説を推してます!なんかそっちの方がロマンありますからね!それに政繁が謙信にかなり年齢が近いのに謙信の養子になるとは考えられません。そこから政繁ではなく政繁の後を継いだ義春が謙信の養子になったなら違和感ありませんからね!
「のと」のイントネーションが違います
救いのない籠城戦、いつの世も悲惨な結末に終わりますよね。
最もつらい目に遭うのはいつも庶民ですよね。
ん?謙信は輪島の方から攻めてないのかな?有名な鬼のお面の太鼓の発祥が謙信の輪島攻撃だと言っていたが…違うのか?
4:43 長続連・綱連って言い間違えたり、聞き間違えたりしそう。
もし、上杉謙信が関ヶ原の戦いに参戦したら・
1コメ