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姫路発横浜行の普通列車、インパクトあり過ぎ
18レの編成を記載した方が良い。
普通列車東京行は普通に驚かない、これが青森経由なら驚きですけどね 笑
省線電車の各停と普通列車、急電と急行列車はそれぞれ別表記にした方がいいと思います!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。わかりやすくするためには、そのような表記の方が良いですね。次回以降はそのように表記しようと思います。ありがとうございます。
不意打ちで普通青森行がなかなかの衝撃。
しかも所要時間が27時間😱
とても興味深く拝見しました
2:36 池田発上野行ですが池田~大阪は418レで福知山線の列車を繋いで北陸方面へ向かってたわけですが川西池田といえば1970年代までそこそこの規模の貨物駅が隣接していました。そしてそこに引き込まれるように能勢電気軌道が乗り入れており貨物輸送を継走していました。で当時の出荷物はサイダー、今の三ツ矢サイダー等炭酸水です。能勢電平野に天然の炭酸水を生み出す平野鉱泉があり隣接し工場があったわけですね。そしてサイダーは軍需品でもありましたし国際航路が発着する敦賀港への輸送目的だと考えるとさもありなんという。近年になりまた鉄道でも貨客混載の話題が見かけるようになりましたが荷物輸送を最適化するダイヤ構成だったんでしょうね。鉄道というのは旅客と貨物これが両輪の輪で考えないと持たないはずですがこの国は旅客が偏重でいろいろ問題が噴出しているのではと思う今日このごろですね。
詳細な考察ありがとうございます。何度も読み返して拝読いたしました。炭酸水の出荷量かまどの程度だったのか、そして発送先の割合の記録が残っているのであれば、是非閲覧してみたいですね。
川西池田発北陸本線・信越本線経由上野行きと、広島発野洲行きはインパクト大でした。当時の大阪駅はいろんな行先の長距離列車があり、駅の雰囲気も今とは全然違ったんでしょうね。
京都まで急行なら35分って意外なほど早くて驚きです!今の阪急特急より全然速いですねw
国鉄&JRの大阪~京都間の線形は非常に良い上、急行ならノンストップですから実現可能でしょう。今の阪急特急は阪神淡路大震災後、阪急阪神の方が被害が大きく、JRが先に復旧したことをきっかけにJRに客が流れてしまい、阪急京都線は十三~大宮間のノンストップ特急をやめてしまいました。その結果、90年代初めころまでは梅田~河原町間は37~38分(阪急京都線は一旦神戸寄りの十三に行きそこから淡路、上新庄を超えるあたりまでは線形がよくない上、当時でも十三、大宮、烏丸に停車していた。)だったのが45分もかかるようになってしまったのです。
この頃の阪急(新京阪)は天神橋〜京阪京都を最速34分だったから今が遅いだけやと思うけどなぁまぁ当時のPー6は試運転で死重積んで天神橋〜西院27分とかいう記録打ち立てたみたいな話もあるから化け物やった説もあるけど、確実に今の特急は遅いだけ
当時の人は、大阪駅で「北陸線回り上野行」と書いたサボを見てどう思ったのでしょうね。
既にこの頃から、大阪~米原~(北陸本線)~直江津~(信越本線)~高崎~上野のルートでの運転が複数あったことに驚きです。今は系統分離しすぎですが、このころはむしろ直通できるものは直通させていたようにも見えます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。時刻表の他のページも見てみると長距離列車が数多く掲載されており、日本各地で数多く存在していたことがわかります。当時のダイヤ作成上の意図が伝わってきます。
恐らく当時は電化がまだ進んでいなくて、多くの列車が蒸気機関車けん引だったと思われるので、簡単に折り返し運用をすることが難しかった(蒸気機関車は進める向きが決まっているので、折り返し運転をするときは付け替えるだけでなく、転車台で向きを変えなければならない。)ことも理由に考えられます。
特別急行『櫻』の東京迄の所要時間が今の青春18切符乗継最高速到達時間と対して変わらないのが時の流れと
夜中とか明け方に着く駅も多いけど、当時の人はここからどうやって移動してたんだろうか
東京や横浜などの中心部では市電が走っていたものの、その他の都市では自家用車などなくバスに頼るしかなかったのでしょう。そのバスもガソリンが使えなくなって木炭バスに。エンジンを起こすにも時間がかかるだけでなく、パワーも弱く坂道では人が降りて後ろから押すこともしばしばあったそうです。神奈川中央交通というバス会社が20世紀の末に木炭バスを復元させ、保存しています。公道を普通にお客を乗せて走ることはありませんが。
まさか横浜行きがあるとは思わなかったなぁ
いつもありがとうございます。この当時は今と違い向日町から京都は(以前投稿していた吹田から京都と言うのは間違いでした)複線でしたが、6時14分発の普通の京都行き(電車の各駅停車)が8分後に発車する普通列車(客車で京都までノンストップ)に追い抜かれるケースがあったのですね。どちらも乗車券のみで乗れるものの、「電車」と「汽車」で地元の方と遠くから京阪神を目指す方とで役割を分けていたことと思います。さらには急行電車は大阪→京都が36分。鉄道省もライバルの私鉄(ここでは京阪の新京阪線)と集客を競っていたことが良く分かります。 現在の川西池田駅が始発の長距離列車と言うのも意外ですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。調べてみますと、新京阪が天神橋ー京阪京都間で特急で40分で約10-15分毎に運転されています。京阪間の競争は昔から激しかったことがわかりますね。
@@tomoyankunさますみません。私のコメントに間違いがありました。大阪~向日町は1933年(電化前)に複々線になっていたとのことです。他の方の投稿を見て確認させていただきました。
ありがとうございます。思っていたよりも以前から複々線になっている事がわかりました。京阪神間にも力を入れていた事がわかりますね。
@@tomoyankun さまこちらこそ調査不足ですみませんでした。ここの動画やコメント欄は某ニュースのコメント欄と違い、皆様が穏和に語り合えるのが嬉しいものですね。これからも期待しております。
調べましたら、1937年10月10日に京都まで電化し、近距離は電車化されたとの事。茨木から向日町までも昭和8年までに複々線化されたとの事。京阪間の往来が多かったのでしょう。でも、この当時に急行とか特別急行に乗れる階層は、上流か、資産家くらいじゃないですか。
大阪発着ネタとは少し異なりますが、「燕」「鷗」「富士」のような高級編成な特別急行よりも「櫻」のような急行と変わらない地味な印象の特別急行の方が何故か惹かれる。
現在のような特急の本数の多さがより希薄化させますが、この頃の特別急行はすごそうですね。乗っていてもより優越感に浸れそう。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。乗車していた方々の雰囲気も異なっていたのでしょうね。今のように写真に収めようと駆けつける人は少なかったかもしれませんが、特別な列車を追いかける視線は多かったでしょうね。
本当に素人質問で申し訳ないですがたまにとんでもない長距離列車が「普通」として走ってますが、それは文字通り現代の「普通」(各駅停車)で走ってたのでしょうか…?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。本当に各駅に停車している列車もありましたが、一部区間は今で言う快速のように、一部の駅を通過するものもありました。また、一部の列車は、急行も顔負けの通過っぷりをみせるものもありました。
現在でも普通列車が必ずしも各駅停車ではない例がかなりあります。(例えば、首都圏における東海道本線の普通列車は東京駅を出発すると横浜駅までの間新橋駅、品川駅、川崎駅にのみ停車し、大井町駅のようなほかの駅は通過します。)
東能代駅が機織駅だったり、伊勢市駅が山田駅だったりしてるのが目につきました。
今多く存在している敦賀や近江塩津、金沢の行先がないですね。逆に上野や青森←?!、東京などの行先が多いです。この時代では野洲に車両基地が無いことから野洲行も少ししかないです。今は新幹線の東京行きが10分感覚で運行されていますがこの時代でも急行の東京行きや燕、鷗、櫻などの往年の特急列車が約12時間かけて、しかも在来線の長距離列車にしては凄い本数運行されていました。いかに大阪東京間の利用者は今も昔も多いことが分かりますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在の感覚のまま当時の時刻表を読んでいると、到底想像できないような列車が数多く走っており、大変面白いですね。東京ー大阪間の普通列車はきっと混雑していたのでしょうね。
現在の大阪〜京都間の所要時間新幹線 14分 ※新大阪発新快速 28〜29分快速 41〜44分各駅停車 46〜54分こうしてみると、この区間は今とあんまり変わりませんね。
戦前は、特急列車が本当に特別な急行だった時代で、2レ『富士』、4レ『櫻』、12レ『燕』、不定期1012レ『燕』、1032レ『鴎』しか見当たりませんが、他線区では走っていなかった、日本の特急列車はこれだけでした。そして、普通急行列車にはまだ愛称がありません。更に、普通列車が本当に普通の列車だった時代でもあり、東京行き、北陸線〜羽越線経由青森行き、北陸線〜信越線経由上野行き、草津線〜関西線経由鳥羽行きなど、今だったら〝特別鈍行〟とでも呼びたくなるような列車がたくさんありますね!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。この当時の特急は、まさしく「特別急行」としての特急でしたね。また、長距離運行の普通列車も日本各地で非常に多く、時刻表を読んでいて非常に面白いです、
草津線経由で鳥羽行きなんて現在では考えるられないルート辿る列車だが、この年は皇紀2600年のこの年は伊勢神宮への参拝が盛んだった頃、各地から伊勢へ向かう列車があったようだ。
普通東京行きで驚いていたら、普通青森行。今では考えられないですね。当時は、現在の「新幹線こだま」くらいの存在だったのでしょうけど。
種別と行き先が同じなのに列番が1000番台と2桁番台なのは臨時とか客車が違うとかなにかですかね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の列車番号の付与規則について記された資料を見たことがないのですが、概ね1000番台が臨時のような印象があります。しかし細かく確認すると例外も多いです。
朝数本出てる草津線周りの鳥羽行きの所要時間下手したら今とそんなに変わらないどころか今の方が遅い…?
伊勢に行く人は、当時も近鉄(当時は大阪電気軌道、参宮急行電鉄)利用が多かったのではないでしょうか。
参宮急行(今の近鉄)に対抗する意味もありましたからね。ただ、上本町から1時間に2本ある参急には到底叶わなかったものと思います。
鳥羽行きは参宮急行開通前から運転されていた伝統の快速列車で、当時は参宮快速と言われていました(もちろん非公式)。
@@TSUYOS185 それでも、当時は京都~宇治山田方面の特急などはなかったはずなので、京都から伊勢方面の需要は拾えたのでは?このルートでは昭和の終わりころまでは急行が走っていたと思いますが(気動車ですが)。
しかし、現在では競合していたはずの近鉄京都~伊勢志摩間の特急も大幅に減ってしまいました。今は京都付近の人はどうやって伊勢方面に行っているのか、謎です。
メインは京都行かな。日本の都でもありますし、何となくわかりますね。新快速…あのバケモノ列車の先祖とは。この頃から、青森に行く列車もあったのですね。驚きです。
戦前には新快速の祖先ともいえる「急電’」というものもありました。急行料金は徴収していなかったはずです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時から「バケモノ」列車が存在していたことに、京阪神を速く移動できるようにするという意志が伝わってきますね。
池田発北陸本線経由上野行はロマンを感じますね〜。池田発なのは上野行の編成を池田行の列車に活用して、翌朝のラッシュ時に活用した為なのかもしれませんね。後青森行普通は乗り通すのが大変そうですね😅。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。間合い運用を兼ねた可能性も面白いですね。青森に着いた頃には、背中からお尻にかけて石になってしまいそうです😄💦笑
間合い運用というより特急や急行用の客車を取り扱う宮原運転所だけでは車両を夜間に収めることが出来なかった可能性もありますね。(あくまで推測です。)能勢口から大阪へは昭和が終わる頃まで本数の多い阪急の一択で国鉄が選ばれることはありませんでした。確かに大阪~青森では一晩以上かかりお尻が痛くなることもあったことと思います。大きな駅で長時間停車する間に洗面所で顔を洗ったりストレッチや軽い体操をして体をほぐしていたのかもしれませんね。
東京行が圧倒的に多かったのではないでしょうか。ほとんどの列車が連続テレビ小説「ブギウギ」にでてきていた車内だったのでしょう...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。背もたれは、木がむき出しの座席もあったでしょうね。
行先のインパクトだけで言えば当時や現代より平成時代の方が上ですね。1964年以降やるなら新大阪止まりと急行料金要の京都行きは省略すべきか?
特別急行櫻、富士は下関発東京行きの夜行列車鷗、燕は神戸発東京行きの昼行列車共に昭和の名特急として君臨した富士以外は新幹線で活躍している(リニア中央新幹線開業したら列車名が富士になるかはわからないが…)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。リニア中央新幹線開業で、列車名が「富士」になるのではと考えている方もおられますね。
へぇ😯面白い!東京行きが多くてびっくり!当時大阪東京は運賃いくらなんだろ。
普通列車の三等で6円35銭、さらに急行は1円10銭増しでした。二等になるとそれぞれ倍、さらに通行税が課されました。この当時の米一升(1.5キロ)が35銭だったそうです。
「名古屋」「静岡」「敦賀」「福井」「金沢」「富山」などが結構でてくると思ったが予想が外れた。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。名古屋行きが多くなると思っていましたので、意外な行き先が並んでいて面白かったです。
15時38分、16時20分、17時51分発普通・東京行きは、今のように青春18きっぷがあったら、18キッパーに占領されること間違いなしですね。東京到着が朝一番(5時16分、5時45分、6時丁度着)なのが魅力ですね😄逆に4時54分、5時48分発の普通・東京行き(18時39分、20時10分着)のニーズはあったのかな?23時30分、0時10分発の普通・東京行きも魅力的。大阪で遊んだ後、ゆっくり東京に帰れるのですから(13時5分、14時25分着)。そして、夜行急行の東京行きは、自分のニーズに応じて6時55分~10時7分着まで選べるほど多く運行されていたのですね。赤文字の特別急行の存在感が凄いです。 2:00 「富士」 3:04 「櫻」 3:47 「鷗」 5:57 「燕」という漢字名なのも特別感を出しています。驚異的なのが、普通青森行き、北陸線経由上野行きという「普通じゃない」普通列車の存在。7時1分発の北陸線経由普通・上野行きは、上野5時21分着で、やはり朝一で上野入りが出来る!!😄14時丁度発の急行・北陸線経由上野行きも、上野着7時36分着もありますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。どれも大変インパクトのある列車ばかりですね。移動手段の選択肢が現在ほど多くない中、移動のニーズに応えるために様々な方面への列車を走らせていたのでしょうね。到着時刻や途中駅の乗換などに、当時のダイヤ作成者の配慮が感じられます。
0:43 松坂→松阪では?wiki見ても参急の方では松阪となってたみたいなのでこっちでもそうかな〜と。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通り、「松阪」の間違いですね。概要欄に記載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
16レだったか、専ら軍関係者や政府高官、上流階級しか利用できないように3等車を連結しない急行がありました。「名士列車」と呼ばれていたようです。
18レです。
列車番号が振られていない京都行きの列車、もしかして『電車』ですかね?京都以遠の列車全てや京都止めの一部列車に列車番号が振られているのは蒸気機関車なのは当然ですししかし高山本線方面や中央本線経由の列車は戦後からなんですね~(1940年大戦時仕様だからでしょうが)そして草津線(と関西本線)。本来の『東海道』ルートですね
高山本線経由はおそらく戦後でしょうが、中央本線経由で名古屋~塩尻~新宿(東京)の列車設定はこのころもどうやらなかったように思われます。その理由は不明です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通り、列車番号が振られていない列車は、「電車」です。時刻表には各駅停車・急電については列車番号の記載がなく、始発と終電以外の記載もないため、一部のみ紹介いたしました。
さくら(櫻)戦前 客車 東京〜下関戦後 客車 東京〜長崎・佐世保新幹線 新大阪〜鹿児島中央富士戦前 客車 東京〜下関戦後 電車 東京〜宇野 客車 東京〜西鹿児島(日豊本線経由)かもめ(鷗)戦前 客車 東京〜神戸戦後 客車 京都〜博多 気動車 京都〜長崎 電車 小倉・博多〜長崎 新幹線 武雄温泉〜長崎つばめ(燕)戦前 客車 東京〜神戸戦後 客車 東京〜大阪 電車 東京〜神戸(広島行きもあり) 電車 新大阪〜博多(新幹線岡山延伸時は岡山始発、名古屋〜熊本もあり) 新幹線 博多〜鹿児島中央(九州新幹線開業当時は新八代始発)
いつも大変わかりやすく情報をまとめていただきありがとうございます。「富士」以外は今でもしっかり活躍していますね。いつかどこかで「富士」の名前も再登場するのかなと思っています。
追記つばめ 電車 門司港〜西鹿児島
大阪発普通青森行き!!🤪
めっちゃ本数少ないし普通ばっかりやねんから京阪がカーブだらけで遅い本線の反省を踏まえて速達性を目指して敷いた新京阪線の方に客が流れたわな。それを強奪した阪急のえぐいことえぐいこと
姫路発横浜行の普通列車、インパクトあり過ぎ
18レの編成を記載した方が良い。
普通列車東京行は普通に驚かない、これが青森経由なら驚きですけどね 笑
省線電車の各停と普通列車、急電と急行列車はそれぞれ別表記にした方がいいと思います!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
わかりやすくするためには、そのような表記の方が良いですね。次回以降はそのように表記しようと思います。ありがとうございます。
不意打ちで普通青森行がなかなかの衝撃。
しかも所要時間が27時間😱
とても興味深く拝見しました
2:36 池田発上野行ですが池田~大阪は418レで福知山線の列車を繋いで北陸方面へ向かってたわけですが川西池田といえば1970年代までそこそこの規模の貨物駅が隣接していました。そしてそこに引き込まれるように能勢電気軌道が乗り入れており貨物輸送を継走していました。で当時の出荷物はサイダー、今の三ツ矢サイダー等炭酸水です。能勢電平野に天然の炭酸水を生み出す平野鉱泉があり隣接し工場があったわけですね。そしてサイダーは軍需品でもありましたし国際航路が発着する敦賀港への輸送目的だと考えるとさもありなんという。近年になりまた鉄道でも貨客混載の話題が見かけるようになりましたが荷物輸送を最適化するダイヤ構成だったんでしょうね。鉄道というのは旅客と貨物これが両輪の輪で考えないと持たないはずですがこの国は旅客が偏重でいろいろ問題が噴出しているのではと思う今日このごろですね。
詳細な考察ありがとうございます。
何度も読み返して拝読いたしました。
炭酸水の出荷量かまどの程度だったのか、そして発送先の割合の記録が残っているのであれば、是非閲覧してみたいですね。
川西池田発北陸本線・信越本線経由上野行きと、広島発野洲行きはインパクト大でした。
当時の大阪駅はいろんな行先の長距離列車があり、駅の雰囲気も今とは全然違ったんでしょうね。
京都まで急行なら35分って意外なほど早くて驚きです!今の阪急特急より全然速いですねw
国鉄&JRの大阪~京都間の線形は非常に良い上、急行ならノンストップですから実現可能でしょう。
今の阪急特急は阪神淡路大震災後、阪急阪神の方が被害が大きく、JRが先に復旧したことをきっかけにJRに客が流れてしまい、阪急京都線は十三~大宮間のノンストップ特急をやめてしまいました。その結果、90年代初めころまでは梅田~河原町間は37~38分(阪急京都線は一旦神戸寄りの十三に行きそこから淡路、上新庄を超えるあたりまでは線形がよくない上、当時でも十三、大宮、烏丸に停車していた。)だったのが45分もかかるようになってしまったのです。
この頃の阪急(新京阪)は天神橋〜京阪京都を最速34分だったから今が遅いだけやと思うけどなぁ
まぁ当時のPー6は試運転で死重積んで天神橋〜西院27分とかいう記録打ち立てたみたいな話もあるから化け物やった説もあるけど、確実に今の特急は遅いだけ
当時の人は、大阪駅で「北陸線回り上野行」と書いたサボを見てどう思ったのでしょうね。
既にこの頃から、大阪~米原~(北陸本線)~直江津~(信越本線)~高崎~上野のルートでの運転が複数あったことに驚きです。今は系統分離しすぎですが、このころはむしろ直通できるものは直通させていたようにも見えます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
時刻表の他のページも見てみると長距離列車が数多く掲載されており、日本各地で数多く存在していたことがわかります。当時のダイヤ作成上の意図が伝わってきます。
恐らく当時は電化がまだ進んでいなくて、多くの列車が蒸気機関車けん引だったと思われるので、簡単に折り返し運用をすることが難しかった(蒸気機関車は進める向きが決まっているので、折り返し運転をするときは付け替えるだけでなく、転車台で向きを変えなければならない。)ことも理由に考えられます。
特別急行『櫻』の東京迄の所要時間が
今の青春18切符乗継最高速到達時間と対して変わらないのが時の流れと
夜中とか明け方に着く駅も多いけど、当時の人はここからどうやって移動してたんだろうか
東京や横浜などの中心部では市電が走っていたものの、その他の都市では自家用車などなくバスに頼るしかなかったのでしょう。
そのバスもガソリンが使えなくなって木炭バスに。エンジンを起こすにも時間がかかるだけでなく、パワーも弱く坂道では人が降りて後ろから押すこともしばしばあったそうです。
神奈川中央交通というバス会社が20世紀の末に木炭バスを復元させ、保存しています。公道を普通にお客を乗せて走ることはありませんが。
まさか横浜行きがあるとは思わなかったなぁ
いつもありがとうございます。
この当時は今と違い向日町から京都は(以前投稿していた吹田から京都と言うのは間違いでした)複線でしたが、6時14分発の普通の京都行き(電車の各駅停車)が8分後に発車する普通列車(客車で京都までノンストップ)に追い抜かれるケースがあったのですね。
どちらも乗車券のみで乗れるものの、「電車」と「汽車」で地元の方と遠くから京阪神を目指す方とで役割を分けていたことと思います。
さらには急行電車は大阪→京都が36分。鉄道省もライバルの私鉄(ここでは京阪の新京阪線)と集客を競っていたことが良く分かります。
現在の川西池田駅が始発の長距離列車と言うのも意外ですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
調べてみますと、新京阪が天神橋ー京阪京都間で特急で40分で約10-15分毎に運転されています。京阪間の競争は昔から激しかったことがわかりますね。
@@tomoyankunさま
すみません。私のコメントに間違いがありました。大阪~向日町は1933年(電化前)に複々線になっていたとのことです。他の方の投稿を見て確認させていただきました。
ありがとうございます。
思っていたよりも以前から複々線になっている事がわかりました。京阪神間にも力を入れていた事がわかりますね。
@@tomoyankun さま
こちらこそ調査不足ですみませんでした。
ここの動画やコメント欄は某ニュースのコメント欄と違い、皆様が穏和に語り合えるのが嬉しいものですね。これからも期待しております。
調べましたら、1937年10月10日に京都まで電化し、近距離は電車化されたとの事。
茨木から向日町までも昭和8年までに複々線化されたとの事。
京阪間の往来が多かったのでしょう。
でも、この当時に急行とか特別急行に乗れる階層は、上流か、資産家くらいじゃないですか。
大阪発着ネタとは少し異なりますが、「燕」「鷗」「富士」のような高級編成な特別急行よりも「櫻」のような急行と変わらない地味な印象の特別急行の方が何故か惹かれる。
現在のような特急の本数の多さがより希薄化させますが、
この頃の特別急行はすごそうですね。乗っていてもより優越感に浸れそう。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
乗車していた方々の雰囲気も異なっていたのでしょうね。今のように写真に収めようと駆けつける人は少なかったかもしれませんが、特別な列車を追いかける視線は多かったでしょうね。
本当に素人質問で申し訳ないですが
たまにとんでもない長距離列車が「普通」として走ってますが、それは文字通り現代の「普通」(各駅停車)で走ってたのでしょうか…?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
本当に各駅に停車している列車もありましたが、一部区間は今で言う快速のように、一部の駅を通過するものもありました。また、一部の列車は、急行も顔負けの通過っぷりをみせるものもありました。
現在でも普通列車が必ずしも各駅停車ではない例がかなりあります。(例えば、首都圏における東海道本線の普通列車は東京駅を出発すると横浜駅までの間新橋駅、品川駅、川崎駅にのみ停車し、大井町駅のようなほかの駅は通過します。)
東能代駅が機織駅だったり、伊勢市駅が山田駅だったりしてるのが目につきました。
今多く存在している敦賀や近江塩津、金沢の行先がないですね。逆に上野や青森←?!、東京などの行先が多いです。この時代では野洲に車両基地が無いことから野洲行も少ししかないです。今は新幹線の東京行きが10分感覚で運行されていますがこの時代でも急行の東京行きや燕、鷗、櫻などの往年の特急列車が約12時間かけて、しかも在来線の長距離列車にしては凄い本数運行されていました。いかに大阪東京間の利用者は今も昔も多いことが分かりますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在の感覚のまま当時の時刻表を読んでいると、到底想像できないような列車が数多く走っており、大変面白いですね。
東京ー大阪間の普通列車はきっと混雑していたのでしょうね。
現在の大阪〜京都間の所要時間
新幹線 14分 ※新大阪発
新快速 28〜29分
快速 41〜44分
各駅停車 46〜54分
こうしてみると、この区間は今とあんまり変わりませんね。
戦前は、特急列車が本当に特別な急行だった時代で、2レ『富士』、4レ『櫻』、12レ『燕』、不定期1012レ『燕』、1032レ『鴎』しか見当たりませんが、他線区では走っていなかった、日本の特急列車はこれだけでした。
そして、普通急行列車にはまだ愛称がありません。
更に、普通列車が本当に普通の列車だった時代でもあり、東京行き、北陸線〜羽越線経由青森行き、北陸線〜信越線経由上野行き、草津線〜関西線経由鳥羽行きなど、今だったら〝特別鈍行〟とでも呼びたくなるような列車がたくさんありますね!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
この当時の特急は、まさしく「特別急行」としての特急でしたね。
また、長距離運行の普通列車も日本各地で非常に多く、時刻表を読んでいて非常に面白いです、
草津線経由で鳥羽行きなんて現在では考えるられないルート辿る列車だが、この年は皇紀2600年のこの年は伊勢神宮への参拝が盛んだった頃、各地から伊勢へ向かう列車があったようだ。
普通東京行きで驚いていたら、普通青森行。今では考えられないですね。当時は、現在の「新幹線こだま」くらいの存在だったのでしょうけど。
種別と行き先が同じなのに列番が1000番台と2桁番台なのは臨時とか客車が違うとかなにかですかね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の列車番号の付与規則について記された資料を見たことがないのですが、概ね1000番台が臨時のような印象があります。しかし細かく確認すると例外も多いです。
朝数本出てる草津線周りの鳥羽行きの所要時間
下手したら今とそんなに変わらないどころか
今の方が遅い…?
伊勢に行く人は、当時も近鉄(当時は大阪電気軌道、参宮急行電鉄)利用が多かったのではないでしょうか。
参宮急行(今の近鉄)に対抗する意味もありましたからね。
ただ、上本町から1時間に2本ある参急には到底叶わなかったものと思います。
鳥羽行きは参宮急行開通前から運転されていた伝統の快速列車で、当時は参宮快速と言われていました(もちろん非公式)。
@@TSUYOS185 それでも、当時は京都~宇治山田方面の特急などはなかったはずなので、京都から伊勢方面の需要は拾えたのでは?このルートでは昭和の終わりころまでは急行が走っていたと思いますが(気動車ですが)。
しかし、現在では競合していたはずの近鉄京都~伊勢志摩間の特急も大幅に減ってしまいました。
今は京都付近の人はどうやって伊勢方面に行っているのか、謎です。
メインは京都行かな。
日本の都でもありますし、何となくわかりますね。
新快速…
あのバケモノ列車の先祖とは。
この頃から、青森に行く列車もあったのですね。
驚きです。
戦前には新快速の祖先ともいえる「急電’」というものもありました。急行料金は徴収していなかったはずです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時から「バケモノ」列車が存在していたことに、
京阪神を速く移動できるようにするという意志が伝わってきますね。
池田発北陸本線経由上野行はロマンを感じますね〜。池田発なのは上野行の編成を池田行の列車に活用して、翌朝のラッシュ時に活用した為なのかもしれませんね。後青森行普通は乗り通すのが大変そうですね😅。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
間合い運用を兼ねた可能性も面白いですね。
青森に着いた頃には、背中からお尻にかけて石になってしまいそうです😄💦笑
間合い運用というより特急や急行用の客車を取り扱う宮原運転所だけでは車両を夜間に収めることが出来なかった可能性もありますね。(あくまで推測です。)
能勢口から大阪へは昭和が終わる頃まで本数の多い阪急の一択で国鉄が選ばれることはありませんでした。
確かに大阪~青森では一晩以上かかりお尻が痛くなることもあったことと思います。
大きな駅で長時間停車する間に洗面所で顔を洗ったりストレッチや軽い体操をして体をほぐしていたのかもしれませんね。
東京行が圧倒的に多かったのではないでしょうか。
ほとんどの列車が連続テレビ小説「ブギウギ」にでてきていた車内だったのでしょう...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
背もたれは、木がむき出しの座席もあったでしょうね。
行先のインパクトだけで言えば当時や現代より平成時代の方が上ですね。
1964年以降やるなら新大阪止まりと急行料金要の京都行きは省略すべきか?
特別急行
櫻、富士は下関発東京行きの夜行列車
鷗、燕は神戸発東京行きの昼行列車
共に昭和の名特急として君臨した
富士以外は新幹線で活躍している
(リニア中央新幹線開業したら列車名が富士になるかはわからないが…)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
リニア中央新幹線開業で、列車名が「富士」になるのではと考えている方もおられますね。
へぇ😯面白い!東京行きが多くてびっくり!当時大阪東京は運賃いくらなんだろ。
普通列車の三等で6円35銭、さらに急行は1円10銭増しでした。二等になるとそれぞれ倍、さらに通行税が課されました。
この当時の米一升(1.5キロ)が35銭だったそうです。
「名古屋」「静岡」「敦賀」「福井」「金沢」「富山」などが結構でてくると思ったが予想が外れた。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
名古屋行きが多くなると思っていましたので、意外な行き先が並んでいて面白かったです。
15時38分、16時20分、17時51分発普通・東京行きは、今のように青春18きっぷがあったら、18キッパーに占領されること間違いなしですね。東京到着が朝一番(5時16分、5時45分、6時丁度着)なのが魅力ですね😄
逆に4時54分、5時48分発の普通・東京行き(18時39分、20時10分着)のニーズはあったのかな?
23時30分、0時10分発の普通・東京行きも魅力的。大阪で遊んだ後、ゆっくり東京に帰れるのですから(13時5分、14時25分着)。
そして、夜行急行の東京行きは、自分のニーズに応じて6時55分~10時7分着まで選べるほど多く運行されていたのですね。
赤文字の特別急行の存在感が凄いです。 2:00 「富士」 3:04 「櫻」 3:47 「鷗」 5:57 「燕」という漢字名なのも特別感を出しています。
驚異的なのが、普通青森行き、北陸線経由上野行きという「普通じゃない」普通列車の存在。
7時1分発の北陸線経由普通・上野行きは、上野5時21分着で、やはり朝一で上野入りが出来る!!😄
14時丁度発の急行・北陸線経由上野行きも、上野着7時36分着もありますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
どれも大変インパクトのある列車ばかりですね。移動手段の選択肢が現在ほど多くない中、移動のニーズに応えるために様々な方面への列車を走らせていたのでしょうね。到着時刻や途中駅の乗換などに、当時のダイヤ作成者の配慮が感じられます。
0:43 松坂→松阪では?
wiki見ても参急の方では松阪となってたみたいなのでこっちでもそうかな〜と。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、「松阪」の間違いですね。概要欄に記載させていただきます。
ご指摘ありがとうございました。
16レだったか、専ら軍関係者や政府高官、上流階級しか利用できないように3等車を連結しない急行がありました。
「名士列車」と呼ばれていたようです。
18レです。
列車番号が振られていない京都行きの列車、もしかして『電車』ですかね?
京都以遠の列車全てや京都止めの一部列車に列車番号が振られているのは蒸気機関車なのは当然ですし
しかし高山本線方面や中央本線経由の列車は戦後からなんですね~(1940年大戦時仕様だからでしょうが)
そして草津線(と関西本線)。本来の『東海道』ルートですね
高山本線経由はおそらく戦後でしょうが、中央本線経由で名古屋~塩尻~新宿(東京)の列車設定はこのころもどうやらなかったように思われます。その理由は不明です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、列車番号が振られていない列車は、「電車」です。
時刻表には各駅停車・急電については列車番号の記載がなく、始発と終電以外の記載もないため、一部のみ紹介いたしました。
さくら(櫻)
戦前 客車 東京〜下関
戦後 客車 東京〜長崎・佐世保
新幹線 新大阪〜鹿児島中央
富士
戦前 客車 東京〜下関
戦後 電車 東京〜宇野
客車 東京〜西鹿児島(日豊本線経由)
かもめ(鷗)
戦前 客車 東京〜神戸
戦後 客車 京都〜博多
気動車 京都〜長崎
電車 小倉・博多〜長崎
新幹線 武雄温泉〜長崎
つばめ(燕)
戦前 客車 東京〜神戸
戦後 客車 東京〜大阪
電車 東京〜神戸(広島行きもあり)
電車 新大阪〜博多(新幹線岡山延伸時は岡山始発、名古屋〜熊本もあり)
新幹線 博多〜鹿児島中央(九州新幹線開業当時は新八代始発)
いつも大変わかりやすく情報をまとめていただきありがとうございます。
「富士」以外は今でもしっかり活躍していますね。
いつかどこかで「富士」の名前も再登場するのかなと思っています。
追記
つばめ 電車 門司港〜西鹿児島
大阪発普通青森行き!!🤪
めっちゃ本数少ないし普通ばっかりやねんから京阪がカーブだらけで遅い本線の反省を踏まえて速達性を目指して敷いた新京阪線の方に客が流れたわな。
それを強奪した阪急のえぐいことえぐいこと