【ゆっくり解説】古代吉備

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  • Опубликовано: 25 окт 2024

Комментарии • 37

  • @ukyotk4889
    @ukyotk4889 3 месяца назад +16

    4:15 字幕と音声で高梨川となっていますが正しくは高梁川(たかはしがわ)です。

  • @TheKzit1969
    @TheKzit1969 3 месяца назад +10

    そういえば岡山大学の構内に弥生時代の遺跡があったなー。海が近かったのかも。それとバイトで発掘してた吉備の遺跡で大きな銅鐸も出た。確かに北の方でした。

    • @楢﨑悠也
      @楢﨑悠也 3 месяца назад +4

      ちょうどそこが波打ち際と聞いたことがあります。

  • @宴は終わったが
    @宴は終わったが 3 месяца назад +3

    動画ありがとうございます。
    吉備の古墳が近畿に伝わったという説であれ、吉備の古墳が独自に発展したという説であれ、共通するのは、ともすると古代が近畿を中心に成り立っているかのような近畿中心主義を相対化するということの必要性を認識させられます。
    邪馬台国九州説の主張にしても、大和中心の歴史観に対する相対化という様相があり、うp主さんの古代史動画には近畿中心主義の相対化というものを感じる意味で非常に視点が面白いと思っております。

  • @ふかふかわたべ
    @ふかふかわたべ 3 месяца назад +2

    今調べてみましたが自分のパソコンでもタンザニアになりました。

  • @ぽっぽこーん-t3o
    @ぽっぽこーん-t3o 2 месяца назад

    やっぱ古代日本の地形関係の話はおもしろいですね。そもそも近代的な道路ができるまでは水運が大量輸送の要ですし。
    古代繋がりだと出雲大社付近も結構地形的に隆起と干拓で様子が変わっていて、ほかのチャンネル様ですが、古代はこんな風でしたなんて図を見たときにびっくりした記憶があります。
    過去の縄文人の動画もそうですが、沿岸水運に生きる海の民が古代日本列島の大多数なんでしょうね。
    動画を見ていて、内容とずれるのですが瀬戸内海の話で言えば山陽にしろ大阪湾にしろ今より広い海なんだから、そりゃ淡路島は最初に国生みされるくらい強い影響力を持てただろうなぁって思いました!

  • @AtomMonado
    @AtomMonado 3 месяца назад +2

    興味深い動画配信ありがとうございます。
    1海里=1.852km、緯度差30分=30海里=約55.5km
    箸墓古墳後円部径約165mは、55m×3=165m
    富雄丸山古墳の径約110mは、55m×2=110m
    1丁=60間、1間=1.8m
    1丁=1.8m×60=108m (神社参道の単位)
    関連ありそうです。

  • @マッチ-x1y
    @マッチ-x1y 3 месяца назад +6

    怪人キムタカ「タンザニア説!そういうのもあるのか」

  • @あや-t2v9v
    @あや-t2v9v 3 месяца назад +5

    魏志倭人伝の「支惟」が吉備ではないかと言われています。

  • @藤寅-v5q
    @藤寅-v5q 2 месяца назад +1

    吉備津神社と、吉備津彦神社があります。

  • @user-yakisoban
    @user-yakisoban 3 месяца назад +2

    吉備は瀬戸内海を跨いで讃岐の辺りまでが吉備の勢力圏。山陽側は芦田川、高梁川、旭川、吉井川の4本を軸に勢力を持っていた。吉備国の社稷は吉備津神社にとってかわられ、出雲国の社稷は保護されたのを見ると、まぁ何となく察する。どちらも近畿の勢力から見れば日本海側と瀬戸内海の海上ルート上にあり、中華大陸との繋がりを考えると友好的な関係が必要だった。吉備国は四国にまで勢力を持ってたから、近畿の勢力からすると大きすぎたのかなと、だから滅ぼされた。

  • @TheKzit1969
    @TheKzit1969 3 месяца назад +2

    高梁川の中洲にも遺跡があって、泳いでいくとそこらじゅうに弥生式の土器が土から顔を出してました。どこだったかな?

  • @newmarimo
    @newmarimo 3 месяца назад +6

    タンザニアにあったのか

    • @ayamasets
      @ayamasets 3 месяца назад +2

      ちょっとタンザニアで埴輪を探してみる。

    • @カイザーくん-k1z
      @カイザーくん-k1z 3 месяца назад +1

      耶馬台国アフリカ帝国説マジ草

  • @sayanerogoo
    @sayanerogoo 3 месяца назад +1

    吉備津神社からみて東の方には津高・津島という地域がひろがっていて、岡山大学のあるあたりでは水田遺跡もみつかってること
    上東の位置から考えて今山陽新幹線が走ってるあたりより北がだいたい陸地だったと考えると、その部分だけでも総社より倍以上は広い地域になります
    総社が中心というわけではなく、吉備津神社あたりを真ん中にして東西にひろがる地域が吉備勢力圏だったんじゃないでしょうか
    そう考えると食料の確保も容易になるし、それに加えて交易による利益もあがったとなると、巨大な墳丘墓をつくれるだけの勢力であっても不思議ではないと思います

  • @古屋公夫-s9s
    @古屋公夫-s9s Месяц назад

    造山古墳の被葬者は第7代孝霊天皇の皇子の若建吉備津日古命です。
     若建吉備津日古命は紀元128年に生まれ230年に103歳で崩御されました。
     若建吉備津日古命は桃太郎のモデルとなった人物であり吉備津神社の祭神で、鬼のモデルとなった温羅をやっつけたとされ、鳴釜神事がこの神社で行われています。

  • @ぽっぽこーん-t3o
    @ぽっぽこーん-t3o 2 месяца назад

    タンザニア邪馬台国を拡大しましたが、ビクトリア湖の東岸にあったので東に海も無く、飛躍した屁理屈もこねられそうになかったですw

  • @apuro66661
    @apuro66661 3 месяца назад +1

    邪馬台国タンザニア説が生まれていたとは・・連日猛暑日でチルノ状態ですよ

  • @sean2540
    @sean2540 3 месяца назад +6

    吉備津彦がある山のど真ん中あたりに前方後円墳があって、その古墳の形は纏向石塚古墳復元図によく似た形をしています。前方部が短くてバチ型になっている古墳ですね。これと楯築墳丘墓とはどういう関係なのでしょうか。国土地理院地図Web版傾斜量図ではっきり形を確認できますのでご覧ください。ちなみにこの形の古墳は鹿児島県薩摩川内市亀山にある端陵古墳とほぼ同じ形ですし、同型の古墳は宮崎県、大分県、福岡県、佐賀県にもあります。特に宮崎県の生目古墳群、持田古墳群、延岡市などに多数の類似があり畿内ヤマトの古墳は九州から瀬戸内海を通りヤマトに伝搬したようにも見受けられます。柄鏡式古墳がヤマトに伝播するのもそういう経緯かと思います。

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju 3 месяца назад

    ご発信いただきましてありがとうございます。
    そーいえば家康も新潟や大分などかつて大きな戦国大名の出身地をあえて規模小さな大名領としたり旗本領にして大きな勢力が出づらい地域にしましたね。吉備の分割に通じますかね。

  • @えあおqk
    @えあおqk 3 месяца назад

    邪馬台国タンザニア説w
    これには木村鷹太郎も苦笑いwww

  • @shou-sho
    @shou-sho 3 месяца назад

    集成編年の時も思ったけど、本来なら当然知っているべき1歩の長さを知らなかったというのは独学の危険なところがムチャクチャ出てて、老婆心ながら心配になります

  • @eiobhia
    @eiobhia Месяц назад

    邪馬台国タンザニア説か……
    唐突な都市伝説で申し訳ないけど、日本雛形説では九州がアフリカに対応するんだよね。
    そしてアフリカのタンザニアを日本の九州の位置で考えると日向なんだよね。
    つまり邪馬台国は日向にあったんだよね。

  • @snow_nankou
    @snow_nankou Месяц назад

    タンザニア説………なんですとぉ!?

  • @yasunori_suzuki
    @yasunori_suzuki 3 месяца назад

    数十世代にも渡って定住し続けられるような天災の少ない地域じゃないと有力なクニには育たないよね。岡山の大地は恵まれてたかな?

  • @LoopyQp
    @LoopyQp 3 месяца назад +1

    地元でありがたい❤

  • @heygabagaba5878
    @heygabagaba5878 3 месяца назад

    山間部に二万個の穴があって それ全部古代の墳墓じゃないの?って言われてる 穴の国だ!
    暑さお気をつけて ほんとに命を取りかねないやつですからね🍨✨

  • @T田-f1v
    @T田-f1v 3 месяца назад +4

    不可解なのは吉備では楯築墳丘墓より後の墳丘墓は小さくなっていくことですよね。特殊器台もだんだん雑になっていく。

    • @socrateos
      @socrateos 3 месяца назад +1

      いやいや、吉備における墳墓はますます大きくなりましたよ。造山古墳(全国で4番目の大きさ)や作山古墳(全国で10番目に大きさ)。近畿の巨大な王墓とほぼ同じぐらいの墳墓が作られています。

    • @shangtian-i3c
      @shangtian-i3c 3 месяца назад +3

      @@socrateos
      コメ主は墳丘墓限定のことを言っているのだと思いますよ。
      墳丘墓が小さくなっていって急に巨大な古墳ができるって流れが不思議だと言っているのだと思います。

    • @T田-f1v
      @T田-f1v 3 месяца назад

      @@socrateos 私がコメントしましたのは弥生後期から古墳初期にかけての話です。吉備の墳丘墓で楯築墳丘墓は最も古い時代のものと考えられています。その後は古墳時代直前にかけて少しずつ縮小しています。なお、造山古墳や作山古墳は古墳中期の話ですので100年くらいの開きがあります。もちろん関連性はあるのでしょうが、同列に語るのはいかがなものかと思います。また、古墳初期にも浦間茶臼山古墳などそれなりの規模の前方後円墳はありますが、浦間茶臼山古墳は奈良県の箸墓古墳の約2分の1です。それでも弥生時代の墳丘墓と比べたら突如として巨大化したと言ってもいいのではないかと思います。

    • @socrateos
      @socrateos 3 месяца назад +1

      @@T田-f1v
      「楯築墳丘墓より後の墳丘墓は小さくなっていく」と書かれていたので、それは事実とは違うのではないかと思いました。

  • @jsdafkl80xc-i9mknjqwojxq
    @jsdafkl80xc-i9mknjqwojxq 3 месяца назад +1

    タンザニア出るのは弥助みたいに歴史改ざんの下準備かもしれないなぁ…