江戸の町はどのように造られたのか?徳川家による江戸城の天下普請と城下町づくり
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- Опубликовано: 24 июл 2024
- 天正18年(1590年頃)の江戸は交通の要衝でしたが、小さな地方都市に過ぎませんでした。
その後、徳川家4代にかけて江戸城下町が建設され、100万人以上の人々が暮らす大江戸八百八町へ発展します。
今回は、江戸の町がどのように発展したのか、徳川家による江戸づくりと天下普請について解説します。
▼もくじ▼
00:00 動画の概要
00:42 戦国時代までの江戸
03:57 家康の江戸開発
07:00 将軍家康の天下普請
11:12 秀忠と家光の天下普請
15:11 江戸の水運と上水道
20:29 防災都市への転換と市街地の拡張
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▼主な参考書籍▼
鈴木 理生,鈴木 浩三『ビジュアルでわかる 江戸・東京の地理と歴史』(日本実業出版社、2022)
amzn.to/3yXUvfC
竹内 誠(監修)『一目でわかる江戸時代―地図・グラフ・図解でみる』(小学館、2004)
amzn.to/48RXEdT
鈴木 理生『江戸はこうして造られた』(筑摩書房、2000)
amzn.to/3VjVk9M
▼画像引用元▼
ColBase
colbase.nich.go.jp/?locale=ja
江戸始図(松江歴史館所蔵)
matsu-reki.jp/
寛永江戸全図(臼杵市教育委員会所蔵)
www.city.usuki.oita.jp/catego...
江戸一目図屏風(津山郷土博物館所蔵)
adeac.jp/tsu-haku/top/
江戸上水配水図(公益財団法人練馬区文化振興協会)
www.neribun.or.jp/furusato.html
内容が非常に濃い情報。江戸時代当時の日本人の土木技術、世界最高レベルと言っても過言ではない事が分かります。大変に勉強になりました。膨大な量の情報編集、大変だったでしょうね。ご苦労様です。ありがとうございました。
家康が江戸に移るまで、未開の地だったと習ってからずっと
そう思ってきたのが
この動画で正しい歴史を知る事が出来ました
街づくりゲームみたいなノリで地形を改変しまくっててすごい
現代の大都市東京🌆の原点である江戸の街の開発🏯発展の流れがとても解りやすく勉強になりました🧐
北条氏統治下の江戸が徳川将軍四代で、あそこまで大きくなったのには🎍天下普請で人,物,金を絞り取られた各藩の苦労もあったのは😩、現代物価高や色んな名目で税金を取られ頭を悩ます我々😫に似ていて、ある意味面白いですね😆
ともあれ、今我々が住んでる街は何も無い所から🏞️先人が開拓して出来たのだと思うと感謝しなければなりませんね😌
また勉強になる動画楽しみにしています😊
東京近郊に住んでる・住んでいたことがある方にはよりいっそう、あの土地がそうやって出来たんだって風景が思い浮かぶ、凄いためになる動画です
やっぱり 徳川家康
頭が 優れた人
現代社会の 全部とは 言わないが
善きも悪くくも
基盤を 築いた 人だと ありがと❗
素晴らしい内容。行徳までの水路の開鑿までは大体の本でもかかれますが、この初期から同時に川の付け替えを行なっていたのは初めて知りました。
家康の関東整備が如何に最初から大きなビジョンだったか感じられます
何となく江戸に入った家康がひなびた漁村を開発して~くらいしか知識がなかったので、大規模な埋め立てや運河の掘削、上水道の確保など、地形を変えるほどの大工事に驚きました。
途中何度も動画を停止しつつ、現在の地図と見比べながら、天下普請や大火後の移転拡張によって、次第に都市が作られてゆくまでの様子がよくわかりました❣ありがとうございました💖
21世紀の今日に繋がる凄い都市計画ですね!
現代にも同じぐらいの大きな視点での都市開発が必要と思いました。
いつも大変質の高い動画ありがとうございます。
大都市に発展するために緻密に考えられた街作りの歴史、面白かったです。
明暦の大火でほぼ全焼ぐらいの大惨事も教訓として、緩衝地帯を設けるなどの知恵が素晴らしい。
当時は車がなかったので、水路を使った船が物流の主役であったこといつの時代も人間の巧みな知恵に驚かされますね。
明暦の大火によって大きな犠牲者が出ましたが、結果として江戸の再開発に繋がるんですね
何て素晴らしい動画なんでしょう!とても勉強になりました。ありがとうございます。
普代大名や関ヶ原で徳川に味方した大名は内陸の条件の良い土地に江戸屋敷を割当てられ、敵対した西軍の大名は海辺や埋立した土地を割り当てられて、水道や水捌け、洪水の危険性等で苦労したそうな。
当たり前の話ですが、水が無ければ生きて行けませんものね…昔のパリ・セーヌ川なんかは上下水道も何もあったモンじゃ無くて生水飲むと赤痢になったりして亡くなる人も居たとか聞きますし、早急に水確保!!ついでに町も作ってくぞ!!ってなったの有能だ…。
そうやって発展していって建築技術も食べ物も美味しい物が増えていって…と想像すると楽しいですね😊
面白い動画でした。ありがとうございました(_ _)
家康公のおかげ。
古代ローマの石造上水路ってもんがあってだな
知ってる地名や河川がいっぱい出てきて面白い
神田川が人工川だったとは知らんかった
最近、街作りゲームの動画をよく見てるけど、この動画も江戸作りの動画だから、なんかちょっと既視感湧いたw
毎回めっちゃ勉強になる動画を有難うございます
いつかVRで江戸の街に行けるようになるだろうから、あちこち探索してみたいな
江戸の土木技術は世界一!
動画ありがとう😊
いつも質の高い動画、ありがとうございます!いつも勉強になります。これからも応援します
感謝します。江戸開発の歴史が整理できます。江戸大火の影響も大きいですね。上下水道計画、防火対策、町割り政策などなど感嘆してしまいます。家康もすごいが、古代から日本の土木、建築技術はすご過ぎです。
浜離宮から新橋・日比谷公園・銀座の辺りは入江だったなんて初めて知りました。
言われて見れば確かに、太田道灌の頃の江戸城は南東が海だったとか聞いた事あるけど、こうして図で説明を見ると驚きです。
ただ、本拠地を江戸に構えた家康だけど、家康本人が江戸城にいた時間って、そんなに長期間でもないらしく、気に入った駿府に居たことが多かったようですね。
ところで江戸城の巨石を運ぶやり方は、巨石を船の下の海中にぶら下げたんですね。なるほど賢い。
船による巨石運搬で水中に吊る、って方法は確か古代エジプトやらBC期にもすでに使われてたと思うが。
水道橋の名前の由来が分かりました。本当に水が通る橋が有ったんですね。
以前、タモリやマツコが、東京の町名は背景や歴史があるから、町名変更に反対と言ってたけど、河岸の名前なんか聞くと、なるほどその通りだなと思う。
いや、日本全国どこでもそうよ、どこの地名も、地形や当時のランドマーク、何がしかのエピソード(当時の人物名や怪奇現象や習慣やさらに古い合戦からなど)からの命名。〜谷戸・原・谷・瀬・沢・沼・尾・森・松・杉・井、〜坂・塚・路・地蔵・塚、富士〜、城+方角、馬(鳥獣)ナンチャラ、人名ナンチャラ、足洗い・〜茶屋、みんなそう。
うちの実家ギリッギリ、海の中だった。江東区。
非常にわかりやすかったです。
ありがとうございました。
身近な地名が出てくると楽しいなぁ
様々な図解がありとても良い動画です。次は「利根川東遷事業」についても動画も観たいですね。天下普請と城下町づくりにとても関係があります。豊臣秀吉による小田原征伐が決まった後、駿府は前線基地ともいえます。家康は軍事的にも関東全域を「忍者」などを用い大調査したと考えられます。おそらくですが秀吉から関東転封を命じられ時、内心小躍りしたことでしょう。秀吉の大阪の開発を観ているから、広大な関東平野を自分ならどのように開発するか早くから計画をしていたと考えられます。その結果、短期間でコメの増産に成功しており軍事費の調達だけではなく領民からも大変慕われました。私の記憶が正しければ玉川上水の水道奉行は利根川東遷事業を始めた伊奈忠次の子「伊奈忠治」が任命されましたが、完成は孫「伊奈忠克」だったと思います。「伊奈忠治」は旧筑波郡伊奈町の町名が忠治に由来するくらい関東の治水事業に多大な貢献をしています。私が住んでいる近くに「水道道路」がりますが、松平信綱は江戸の給水のみではなく玉川上水沿線の灌漑設備も整備し、多摩地域のコメの増産や生活用水にも寄与しています。ちなみに設計は総奉行・松平信綱の家臣、川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用したとされています。ただし現場の生産設計ともいえる現代でいう「施工図作成」は玉川兄弟だと思います。今後とも頑張ってこのような良い動画を作成してください。有難うございます。
家康もすごいですが、大阪の町をつくった秀吉もすごい。この時代のトップが実施したことは戦の平定よりも結局はそれを経ての土地開発。デベロッパーですね。元々大和で日本を平定した天皇も田畑の開墾など土地開発の過程の土砂の利用目的もあって前方後円墳へ発展したという説もあります。
近年では田中角栄の日本列島改造論のような考え方がトップには必要ということがよくわかります。
いまの自民党ふくめた政治家、よく理解してください。
インフラ設備の土建投資で裏金だとか政治とカネ!とか清貧ムードになっちゃうとこあるからなぁ…→昨今
二階がある意味角栄みたいな土建思想でのし上がったけど(大阪・和歌山・三重まで通す道路開通で将来的な震災に備える。能登半島を見てると…)
😂三河塩津 今川の領地
岡崎市 蒲郡市 吉良町 幡豆郡吉良町😂徳川家康😂他人とは思えない親近感ある😂
土木やってるけど、腐らず生きてる当時の家の基礎?の松杭や、茶碗、皿の破片が出てくるよ😊。
故山田風太郎のタイムスリップ+異色歴史改変IF小説「魔天忍法帖」では、冒頭いきなり江戸城落城・炎上シーンが(笑)。西軍に敗れた大御所家康が大川のほとりでバッサリ斬られ、それからはカオスまたカオスのシッチャカメッチャカという天下の奇書。
わかりやすくてとても興味が湧く内容でした❗️
すごく面白かったです❗️
重機も無いのに埋め立てすごいね
21世紀の現代なら、高速道路も高速鉄道も空路もあるから、東京から大阪の移動なんて簡単に、重機もあるから
建設もできるが、江戸時代には、鉄道も道路もない! 重機もない! 江戸城の建設も、移動でさえも楽でない。
江戸時代の人々は強靭な体力もあったのでは?
すごいよく調べれてますなぁ。自分の15年以上かけて集めてきた江戸の雑学よりも詳しい。
概要欄の参考文献を見ないのは何故
小名木川、歴史があるねぇ。
豊臣秀吉さん家康を関東に飛ばしてくれてありがとう
これはためになる。ありがとう!
よかった。深川三つ叉に興味があった。地理がよくわかった。海がかなり迫っていた。
新橋駅から日比谷公会堂方面へは、若干下っているなと思っていた。線路の辺りは前島で高かったんだな。
うちのご先祖様だ、がんばったんだな。
小名木四郎兵衛
素晴らしい動画!
作るの大変だったんじゃないかな
旧住所😅武蔵国橘樹郡御宅郷御幸村に在住😊
江戸城天守って存在が
かなり短かったのですね
国替えを命じられれば普通なら逡巡したり反発したくもなるものだが、たった一週間で素直に江戸に行ったのは只者ではないな。
三河にだって長年の人間関係の縁があるだろに。
行かない、駄々こねる イコール 謀叛の嫌疑アリ、ですよ
25:35 何とまぁジャパニーズ・ウキヨエの真骨頂とでも言うべきトンデモなパースの乱れで構成された素晴らしい一枚。当時の目の肥えた西洋人にとっては人物浮世絵だけでなくこの風景画の一枚も衝撃的だったろうな。
水に関連した名称って地盤が弱いって聞いたことあるなー
谷
池
沼
川
江戸移封後、三河武士は朝4時に起床し、
提灯もって深川の埋め立て工事に向かったという。
増えた人口は何処からきたのだろうか?
全てが江戸府内の出生者とは考えられなし、
徳川領以外の大名領からの移民とすると、他大名の窮乏策になり敵対行動になるし・・・
関八州からの移流民でしょうか。と、するとその地では過疎化が起こっていたとかするのでしょうかね。
各地からの移住です。
参勤交代で地方から多くの武士が参勤しています。
京都や大阪などの地方の都市から商人が多くの奉公人などを連れてきました。
他には農地を持たない次男以降の農民が移住して町人になりました。
現代土木もビックリの土地整備なんだが()
😂静岡県三ヶ日みかん 愛知県蒲郡みかん
😂一色町 三河鰻😂
行政府としての機構と機能、独特の生活習慣と法。
①幕藩体制で中央集権でない。
②武士以外の武器所有禁止
③寺社奉行が全国民を寺院でモラルや人間関係教育
江戸は太田道灌資長が開発した陸海の交通の要所、貿易地でした
陸奥(東北)からの荷物が浅草に水揚げされ西国からの荷物は品川に陸送されてきてそれぞれ反対側に出荷されていく関東最大の物流拠点でした
寒村だったと言うのは徳川家康を持ち上げる為の徳川史観
太田道灌の築城した江戸城は本丸以外に二の丸、三の丸に該当する建築物の他俳諧用の茶亭まである物でした
三河田舎大名だった徳川家にはまだそこまでの文化的教養を持つ家臣は居ませんでしたから後進国から先進国に引っ越して来た訳です
江戸城下の武家屋敷は度々場所が変わっていますが極初期の『慶長江戸絵図』を見ると江戸城正門の大手門や和田倉門、内桜田者、坂下門などの前には譜代大名が
丸の内や日比谷などの海には羽柴姓の外様大名の屋敷が並んでいるのが分かります
徳川家に嫌われていた伊達家などは日比谷公園、ついで汐留と2回も海を埋め立て屋敷地を作らされています
よく誤った解説がされる主人変えの名人藤堂高虎の屋敷は最初からうえのや秋葉原などの江戸郊外にしか屋敷地を与えられませんでした
彼の所領は伊勢ですから参覲交代にも反対方向とかなり待遇が悪かったのが分かります
私の先祖は慶長年間に京都から神田橋に移り今も神田橋に住んでいるので代々語り継がれている話が沢山あります
江戸=23区と思っている方もいるかも知れませんが江戸市内とは外堀内側で千代田区の大部分と中央区港区の一部です、神田山王神社の氏子地域が江戸でそこに住む町人を江戸っ子と呼びます
江戸後期には江戸郊外の百姓地も町屋を形成し江戸市中並みの扱いを受けます、そこに浅草っ子や深川っ子が生まれて江戸っ子に対抗意識を持ちますがあくまで外堀外側は年貢のある百姓地なので江戸ではありません
有名な川柳に読まれた本郷は江戸市中ではないですが『かねやす』という雑貨店が賑わっていたのでまるで江戸みたいだと詠まれています
昭和になってから江戸では無かったところまで『下町』と言い出します
『下町』とは神田から京橋まで
銀座は江戸の最南端の場末です、なので芝居小屋があった訳です
参照書籍を明記しているのは素晴らしいですね
ただ本当に研究するなら二次参照ではなく一次史料を当たった方が
鈴木理生先生はいいですが竹内誠は研究者ではなくビジネスマンなので参照注意です
家康は、菓子を家康さまのおやつの大福など作る、家康に仕える菓子職人で足が悪く歩きも、ままならないが、名前忘れたが江戸の町に上水道の水路作り命じて利根川とか荒川から町、町に張り巡らせ大工事を荒い男らも協力する河川作りの工事人と菓子職人は作った話し見ました。ドラマで
大久保主水忠行(おおくぼもんとただゆき)ですね
神田上水を完成させた後は町人となり大久保主水の屋号で幕末まで幕府御用達の菓子司でしたよ
直系の菓子屋はありませんが傍流なら今も『紅谷』という屋号で残っています
ドラマ含む各種メディア作品の内容は、ガチガチに考証準拠の作品と、トンデモな架空の演出の場合など玉石混交。その点には留意されたし。
大久保とか言われてましたね
足悪いが、各地水源など見てましたね。
直系に当たる方耐えましたか?
しかし菓子屋として別の名で
ありますか?
ありがとうございます
ヤス「シムシティやろーっと!」
今だと壮大な自然破壊の神田山崩しての埋め立てw
“ニュータウン“という言葉をご存知?アレ、大抵は丘陵や谷を造成して宅地化してんだけど
えーど!えーど!😅ノ
江戸の町作りの例を通して、昔の日本人の凄さを現代の子供たちに義務教育で教えるべきだね。 そうすれば日本人としての誇りや自信も生まれるのではないか。 もう自虐史観や反日思想は日本にはいらない。
8:17 幕末じゃないんだから、外国船なんてそこまで警戒してないでしょ。それに当時の埋め立て能力でなんとかなるような浅瀬なんて大型船にとってはむしろトラップだろうし。
そこは確かに。家康ならマニラにその能力がないことも分かってただろうし、伴天連追放の後だから。
ただ防衛上は安宅船や小早船が来られないようにするという他の武将からの脅威の対応というのは大きいかも知れませんね
島原の乱ではオランダ船で大砲を原城に打ち込みましたよ
@@amakusaiyeyasu3680 サンフェリペ号事件も四国で難破がきっかけだし「黒潮でガレオン船は壊れる」ってのは重要な情報でもあり…?
島津忠恒は鹿児島城作った時に父・義弘に「海岸に近すぎる!」に怒られて、後の薩英戦争の時に御殿に砲撃されてしまった…なんて話もあるけど、黒潮は黒船ができるまでまともに通れない。時代が進んでもエルトゥールル号が飲まれるレベルの魔境だからなぁ
追放令出てもウィリアム・アダムス来日の7年前からイエズス会と交流、秀吉逝去辺りにフランシスコ会を介してフィリピン(スペイン)に使節を派遣してたりする→家康
@@yoshimat2891 当時は破裂する砲弾が開発されていましたが爆発の威力は花火のようなもので、城壁をもたない日本での砲撃の効果は心理的なものに留まっています。西洋船を警戒してたなら幕末のように沿岸砲台を設置したでしょうけど、そういう形跡は皆無ですし。
このch主の憶測じゃなくて、概要欄の江戸研究者諸氏の研究内容ないし記述かと思われ
いち!
そりゃ後に政権を握った、家康君が、盛りに盛ってたのね。暮らして行く上の最低限の開発に留まってたのね。