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伊賀での落ち武者狩りの農民たちにとって不幸だったのは「目の前にいるのは哀れな敗残兵ではなく、死線をかいくぐり続け主君を生きて国に帰す思いの元に団結した死兵」だったこと
猛将の福島正則が島津に関わるなと下知し島津は死兵なりと言ったとか加勢を頼まれた井伊直政や松平忠吉など酷い目にあっていた命がミジンコより軽い薩摩兵ってワロタマジその通り敗残兵にしては猛者ばかり
😱😱
近世初期の本百姓は高校の教科書で言及される近世中期の本百姓と違い、往々にして帰農した元は国衆、在郷被官や地下人で何十人、何百人もの名子や被官抱えているから中世的で生意気な連中だと思う
途中、奈良県の某寺に匿われていたようですよ。住職が今も島津家から贈り物が毎年くると言ってました。
コメントありがとうございます!400年以上経っても交流があるのはちょっとほっこりしますね😄😄
家康とは方向が真逆だけど状況はまったく同じの伊賀越え、落ち武者狩りとの一戦、亀寿奪還作戦、近畿脱出、立花宗茂との再会、そして黒田との海戦。。。島津の退き口が敵中突破だけでなく、その後もこんなにドラマが詰まってたとは。。。そしてここからは兄・義久による一世一代の外交ターン!
コメントありがとうございます!他の方のコメントにもありましたけど、ぜひドラマ化してほしいですね😄😄
こういう話を聞くと光秀が落ち武者狩りにやられたのも納得が出来ます
コメントありがとうございます!義弘が遠路生還できたのはまさに奇跡ですね😄😄
なるほど~ドラマにしたくなるような逃走劇だなぁコレ😅
当家の先祖とされる人物が関ヶ原から生還した後に義弘公から感状と100石の褒美を頂戴しています。17歳で関ヶ原を生き残ったのに33歳で死去したのは関ヶ原で運を使い果たしたのか?
豊久はその後ひんしで逃げて村にたどり着き亡くなった、島津家の参勤交代の際はかならず立ち寄り贈り物をしたらしいね
退き口後半戦は立花宗茂と帰ったで大抵終りなのでその後も詳しくて(多難…)楽しめました。恐るべしは山田有栄の印象もありますが、神君伊賀越を超える苦労談は(恐らく)三河者の交渉でも役立ってますね。
木崎原の時も300人中257人戦死してるし薩摩では人命が軽かったのかと錯覚してしまいました。
投稿お疲れ様です。京都の島津製作所の由来の中に義弘公の帰還をお助けした褒美として島津の名字と丸に十字の家紋を拝領したという説があるとか、秋月種長夫人を船に同乗させたのは親切心からだけではなくいざという時日向の道中の人質としておこうと考えていたとかいう身も蓋もない話を聞いたことがあります。立花宗茂が秋月種長みたいに西軍から東軍に鞍替えする様な気性でなかったのが幸いでしたね。お家を守る為ですと言って裏切りを正当化する風潮の中で美意識に反するからしないという珍しい家風を立花家中は持ってましたから瘦せ我慢をした為に立花家は改易の憂き目を見るのですが
立花宗茂公の家臣には仇討ちの好機ではないかと諫言する者もいたが取り合わなかった。立花宗茂公の人柄でもあり正々堂々の武人らしい生き様でした。関ヶ原からの敗走でこの様な経緯を経て薩摩に帰って来れた島津義弘公の苦難と人望が分かって良かったです。
>京都の島津製作所の由来の中に義弘公の帰還をお助けした褒美として島津の名字と丸に十字の家紋を拝領したという説がある創業者の一族はもともと姫路の出身だそうだが、播磨には島津氏の分家がかなり栄えていたので、その流れだと思う。姫路には島津姓の人が多い。なお、播磨に島津義弘という薩摩の義弘より40歳程年下の同姓同名の人がいて、大坂の陣の敗戦後に逃走する等、この人も波瀾万丈の一生を送った。
義弘辞世の句「春秋の花も紅葉も留まらず人も空しき関路なりけり」からしても木崎原や根白坂より関ヶ原は痛恨だったんだろうね。
中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)の合戦談は、話を聞きに来た”にせ”(青年のこと)を待たせ、奥の部屋に入って正装してから、話をはじめたものの、涙がとまらず「関ケ原と申すは・・・・」と言葉を絞り出すのが精いっぱいだった。それほど困難を極めたの行軍だったのだと思います。兄義久公が援軍をださなかったというのは事実ですが、義弘公から藩内各地に出された援軍要請に呼応して、藩主義久公の命令に反して、厳重なはずの関所を抜け、関ケ原に駆けつけることができたのは、義久公の本心は義弘公を助けたかったのだと思います。※藩主の命令に反するの死罪なのに、そうはなっていない。
コメントありがとうございます!同母の弟で九州統一戦の苦楽をともにした仲ですから、義弘に対する情はあったでしょうね。
当時は村単位で武装してたから勝てば略奪ヒャッハー!負ければ落ち武者狩りって因果関係がしっかりしているよな
コメントありがとうございます!中世は極論すれば個々の村落が一つの国みたいなものでしたしね。
旅行ができるようになった江戸時代がいかに劇的に治安が良くなったか、ということがわかります
やはり力のある中央政権って大事ですよね…中国史でも王朝が元気な時は平民も安全に生活できましたが、ひとたび元気がなくなると途端に世紀末状態でしたし
あちこちで武装してる人が農村でいる時点で、刀狩りが形式的なものにすぎないとよくわかるw※鉄砲は猪などの獣よけに必要だから、領主に申し出ておけば所持出来たようですね
刀ばっか集めてたっぽいね
@@matukawatositane弓、槍、薙刀あたりは黙認されてましたね。脇差(短刀)はどんな感じでしたっけ。
@@delayedaflight 脇差は江戸時代とかでも護身用に持つことは許可されてたそうですただし、普段から帯びることは禁止されており旅に出る時や、正月などで正装するときだけ身に付けられたようですね2本差しは武士の象徴だから、ここだけはうるさかった模様
刀狩りについて豊臣家奉行衆の文書『越前での刀狩りだが太刀が少ない。槍や鉄砲は良いから太刀を集める様に』島津家の刀狩り担当の文書『当家では脇差ばかりで太刀が少ない。薩摩の長脇差と言うのは上方でも有名でこれでは申し開きが出来ない。即刻太刀を集める様に』と言う記録が残っている以上のような記録から、刀狩りは武装解除でなく太刀と言う侍の象徴を取り上げ身分制度をはっきりさせるためのものと言われています。この時期は大陸出兵で武力と生産能力を底上げするため、武家奉公人のような一般人でも武家でもある中途半端な存在が状況に応じて立場を変えない様に身分を固定させる必要が有ったみたいですそのため奉公人へ武士か一般人かを迫り、その後の身分変更を許さないと言う法律も有ります。また太刀の取り上げは 生産に従事するなら動員はしないよ と宣言している面もあります因みに江戸時代に入り太平の世になると奉公人を再度認め大名に限らず旗本たちもパートタイムの武士である奉公人を雇い、その割合は幕末になるにつれ高くなり動員兵力の五割以上が奉公人である大名家も珍しくなくなります。戊辰戦争でまともに戦えなかった大名が多いのも納得いく話です
とはいえ、100名規模の軍人を本気で襲う村は少なくない?
横山はそういう考えじゃ絶対無い、島津武士だよ、なんかあったら目立つ大将の鎧着て逃げて身代わりになる気満々では。
待ってました🎉動画ありがとうございます🌸
ありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです😄😄
かつて父を高橋紹運を頃した島津氏と協力して帰国する立花宗茂 なんという胸熱展開
立花宗茂は義弘の事を尊敬していましたからね。
コメントありがとうございます!立花宗茂は正真正銘の義将ですね😄😄
この島津の逃避行は我々に戦争に「負ける」のが何を意味するかを生々しく教えてくれますね。そりゃどんな手を使っても勝者の側にいたいと武将たちが考えるのも当然としか言えないです。関ヶ原の戦いの研究が進むのは良いことですが、正直いろんな説が乱立してて(中には珍説迷説らしきものもあり)収拾がついてない印象です。
コメントありがとうございます!前回はご教示いただいたのに本業のほうが多忙で返信できず失礼いたしました。関ケ原研究は一頃の本能寺の変論争のようになってしまうんですかね😥😥
そして史料を捻くれて解釈した珍説ほど一部の偽物インテリに人気を集めてしまうのも本能寺の変でよく見た現象ですよね。いずれ島津は関ヶ原に参戦していなかったんだ!とか、義弘は実は討死していた!みたいなトンデモ説が出てきそうです。
中馬重方は小説「島津奔る」で知りました。薩摩訛りが強い豪の者のイメージですね。
落伍者は農民の格好のターゲットだけど、倫理観のリミッターが切れた島津武士が相手じゃ分が悪いな。
義弘一行が立花宗茂と合流した際に、宗茂の家臣が父親の高橋紹運の敵討ちのチャンスだと進言したけど、宗茂は意に介さなかったなんて話も聞きますね。
島津軍はかつて大友家との戦いで高橋紹運の器量に降伏を勧めていた位だから宗茂との間に私怨なんてないし、朝鮮の役で義弘と宗茂の間に何か友情みたいな絆が生まれていたとかRUclips動画による立花資料館長さんの話では護衛して九州に帰った云々は盛りすぎ話の可能性もあるんだとか…宗茂ファンとして秀吉に取り立ててもらった義理を関ケ原の戦で清算出来た理由の方が気になるので
コメントありがとうございます!立花宗茂は実際に戦国でも稀な義理人情に厚い武将だったと思います😄😄
オレだったら敵討ちして、島津家晒しちゃいます。戦後に九州で戦うため島津家に恩売りたかったのかなー
@@グールーメングールーメン 宗茂の選択は生きて生還する上で妥当だったのではないですかね敵討ちで義弘だけを討てるわけはないですし、島津兵を相手に無傷でいられるわけもなく相当の犠牲が出る可能性があり、返り討ちに遭う可能性だってゼロではないでしょう上手く討ち果たせたにしても、その後に黒田方が犇めく海路や陸路を進まないといけないわけで🤔
スゴい‼️ハリウッドのアクション映画のようだ‼️ディズニープラスの「将軍」は終わったけど、スピンオフで島津の退き口すれば良いんじゃない⁉️ま、主役の犯罪シーンもあるけど😅しかし70近い人がこの逃避行に耐えるって、只者じゃないですね。そして義久の対応。二説あるのが政治家的な義久らしい、と感じますね。
コメントありがとうございます!島津の退き口のドラマ(映画でもいいですが)はぜひ見てみたいですね😆😆
次回から超引きこもり能力発動の義久の出番ですなwwwあと義弘が帰還途中で立花宗茂一行と一緒だった時に宗茂の部下が「義弘は宗茂様の父親の敵(高橋紹運)です!!今なら敵は少数。敵を取りましょう!!」って言ったけど宗茂が「敵でも弱っている敵を討つのは卑怯だ!!」とか言った話もあった様だけどやっぱり異説だったのかな?wwwまあ美談としてはあるだろうけど。
あれ?確か奈良県桜井市の三輪山平等寺に70日間匿われていたのでは?その時に借りた銀一貫の家老達が書いた借用書が今でも残っています。
コメントありがとうございます!その話はちょっと怪しいみたいですね。
宇喜多秀家を一緒に連れ帰っているはずだけど、次回の楽しみかな?
生きてたから笑い話だけど長束正家の家臣「え!?ワイも一緒にあの軍へ突撃するんですか!?」とか思ってたのかな
妙円寺詣りが鹿児島の伝統になる訳だな...
義弘主従で落命した者たちのその後が分かればぜひ知りたい。これほどの忠義は子孫に報いられてあって欲しい
エンディングのbgmが好きです何の曲か教えていただけますか?
コメントありがとうございます!エンディング曲はニコニ・コモンズから取ってきたものなんですけど、申し訳ないのですがタイトルを忘れてしまいまして…
美談が多いけど、97%の損失なんだよね...。(全滅とほぼ同じ...)本当によく生きて帰ってきたなぁ...。(汗)
この関ヶ原の新説はどこから得た情報でしょうか?島津方の山田殿の覚書が発見されたからでしょうか?
コメントありがとうございます!今回(と前回)は主に桐野作人さんの『関ケ原 島津退き口』(学研新書)を参考にしていまして、その中で山田有栄の覚書が多く引用されていますね。覚書は戦国の合戦の実際を伝えてくれる史料として注目されていますが、書いた本人の記憶違いや戦功を誇張している可能性もあるので、取り扱いには注意の部分もあるようです。
@@ゆっくり真実の戦国史 丁寧にありがとうございます。
関ケ原の島津の生還物語について、武将としての評価は下げると持論を述べたら武装した現代の島津兵が血眼になって襲ってくるのが興味深い
島津研究家の新名先生も講演でその手の話をすると年配の方から「嘘をつくな!あんたは私達の殿様を侮辱するのか!」とめっちゃ怒られた事が何回かあると語ってましたガチの専門家の先生ですら突っかかって来られるので仕方ないです
生き残った部下に恩賞はいい話なんだけど、主君を逃がす為に残って戦死した者たち(の遺族)には何か有ったのかな?負け戦はそんなものとはいえ、報われないのは気の毒すぎる・・・
下人は分かりませんが名のある武士の遺族には当然然るべき対応をしたのではないですかね武士にとっては家が一番大事。家を守るために自分の身を差し出す。主君のために死ぬだけでそれは大きな功績になり家を守ることになるのでだから武士は命を差し出すわけです
14:13 秋月氏のせいで泥沼の筑前出兵に駆り出されたのに律義よのう・・・
この頃にはすっかり腐れ縁になってたんでしょうね。まあ、九州での上陸目標の日向細島が位置的には秋月氏高鍋藩のなかにあり、島津豊久の佐土原には良港がなく、それより南の良港の赤江・油津は島津に恨み骨髄の伊東氏の拠点で近づくのも論外っていう実利もあったのかも知れませんけど。
コメントありがとうございます!困ったときはお互い様の精神だったんですかね😄😄
義弘vs落ち武者狩りvsダークライだったのか
🤣🤣
西軍が負けたのを知って、ヒャッハーしてる黒田如水と加藤清正らが跋扈してる中、帰還できたのは奇跡
コメントありがとうございます!九州の暴れん坊と策士😰😰
安宅の関のような美談ですね。事実かどうかは、どちらも疑問ですけどw
これは相互依存が最も良い形で機能した例じゃないかな 家臣たちからすれば 義弘様は死なせないために頑張ろうってなる義弘も俺が死んでしまったら 家臣たちの頑張りが無駄になってしまうから 恥を忍んでもなんとか 薩摩まで帰ろうってなるし
これは何か映画化できそうだなぁ
9:30〜からの霊夢の発言にもある通り、当時の情報伝達の遅さと風聞に頼らざるを得ない不確実性もあって、一次資料とされる史料の多くは実のところ信憑性に欠けるんじゃないかと思うんですよね。少なくとも鵜呑みには出来ない(例えば信長の鉄甲船モドキに関する記述など)。特に遠方の第三者の手による日記という形式の史料は。むしろ逆に江戸時代の二次資料であっても、出所が違う複数の史料に似た様な情報が載っている場合は概ね事実と解釈しなければ整合性が取れないと思います。ちょっと飛躍した例ですが、イエス・キリストの実在性もそうした背理法的な資料解釈で証明されていますし。
義弘の逃走劇がなんか義経主従の奥州平泉への逃走劇みたいに思えてならないんだけど……。あと信楽での脅迫とか家康の伊賀越えでもやってた話ですよね……。
あるいは義経と義弘、二つの脱出劇の違いは軍組織としての体を維持できていたか否かにある気がしますね。島津の異常な所は、木崎原の例もあった通り、損害率五割越えという普通なら壊走→総司令官討死となるような状況ですら軍隊として戦える規律と士気を維持できていたことなんですよね。
落ち武者狩りのイメージは大河ドラマで明智光秀がザ農民って人に竹槍でやられたイメージだけど、今回の話を見るとこれは明智光秀も倒されるわ。ぐらいの武装した集団だと初めて知った。
鬼島津相手に落ち武者狩りとか命知らずだわな
😨😨
義経のよう😢
これは大河ドラマ無理ですわw
金の鞘の逸話はこの時だね。
帰り道がただのグランド・セフト・オートなんよ
猫には開きません
申し訳ないけど、東軍の殺る気なさすぎ!島津軍以外の西軍も逃げ散り大阪入りするもの多数とか…
確か、島津が家康に宛てた手紙で親兄弟の屍を踏み越えて襲い掛かってくる東軍の凄まじさについて記載があったような殺る気はすごかったみたいですよ
歴史ファンは島津の退き口というエピソードを美化しすぎている島津にとっての大失敗の歴史であり誇らしく語るものではない一門も含めた多くの将兵を無残に失ったのは指揮官として評価を下げるとしか言いようがない
そもそも島津義弘は本陣に影武者として長寿院盛淳と兵のほとんどを残し、50人余りの兵に守られ旗指物も捨ててこっそり脱出したって話もありますからね。本陣に残った兵は盛淳が討死した後に押川公近に率いられ伊吹山に立て籠もるものの包囲され降伏、その後に脱走に成功した押川公近は消息不明の島津豊久の捜索の任務にあたるものの関ケ原でどのような行動を取ったか一切情報が得られず、島津家としては豊久は討死したという見解に至りました。リアル過ぎてドラマチックではないので全員で前に突撃したって話の方が人気ですけど。
そのへんは立場の違い(反島津・親島津)による歴史解釈の差、以上でも以下でもありませんよ。島津退き口の大まかな流れは多くの史料で共通するので概ね事実と見て間違いありませんが、細かい経緯の肉付けについては史料を書いた人間の立場によって色々尾鰭がついているのが当然でしょう。反島津を標榜する歴史ファンはその中でも惨めな義弘像の解釈だけを恣意的に取り入れている、というだけで。まぁその逆も然りですがね。
@@diopresario 義弘が武勇に秀でた名将であることに間違いはありません。しかし、この関ケ原の戦闘については、結果的に義弘の下した判断は失敗だと言わざるを得ない。その点を無視して尾ひれの付いた生還劇によって、義弘の武将としての評価に箔をつけるのは中立的な見方ではない
"結果的に失敗だったことを挙げ連ねて批判することは歴史を語るスタンスとして危険である"。このチャンネルの勝頼動画でも口を酸っぱくして言われてた事なんですがねぇ…晴天の霹靂とも言える三成挙兵、300の手勢では国本に帰ることも家康に誼を通じることも不可能。取れる行動が余りに限られた中で、義弘の代わりにあなたならどういう行動を取るんです?批判するなら現実的な代替策を示してくださいな。ついでにこの時の義弘の行動を批判する人は蜂須賀の親父など西国の多くの大名の行動も完全否定しなければ筋が通りませんよ。
@@diopresario 申し訳ないのですが話の論点がズレており何が言いたいのか良くわかりません。これ以上は不毛かと
伊賀での落ち武者狩りの農民たちにとって不幸だったのは
「目の前にいるのは哀れな敗残兵ではなく、死線をかいくぐり続け主君を生きて国に帰す思いの元に団結した死兵」だったこと
猛将の福島正則が
島津に関わるなと下知し島津は死兵なりと言ったとか
加勢を頼まれた井伊直政や松平忠吉など酷い目にあっていた
命がミジンコより軽い薩摩兵ってワロタ
マジその通り
敗残兵にしては
猛者ばかり
😱😱
近世初期の本百姓は高校の教科書で言及される近世中期の本百姓と違い、往々にして帰農した元は国衆、在郷被官や地下人で何十人、何百人もの名子や被官抱えているから中世的で生意気な連中だと思う
途中、奈良県の某寺に匿われていたようですよ。住職が今も島津家から贈り物が毎年くると言ってました。
コメントありがとうございます!400年以上経っても交流があるのはちょっとほっこりしますね😄😄
家康とは方向が真逆だけど状況はまったく同じの伊賀越え、落ち武者狩りとの一戦、
亀寿奪還作戦、近畿脱出、立花宗茂との再会、そして黒田との海戦。。。
島津の退き口が敵中突破だけでなく、その後もこんなにドラマが詰まってたとは。。。
そしてここからは兄・義久による一世一代の外交ターン!
コメントありがとうございます!他の方のコメントにもありましたけど、ぜひドラマ化してほしいですね😄😄
こういう話を聞くと光秀が落ち武者狩りにやられたのも納得が出来ます
コメントありがとうございます!義弘が遠路生還できたのはまさに奇跡ですね😄😄
なるほど~ドラマにしたくなるような逃走劇だなぁコレ😅
当家の先祖とされる人物が関ヶ原から生還した後に義弘公から感状と100石の褒美を頂戴しています。17歳で関ヶ原を生き残ったのに33歳で死去したのは関ヶ原で運を使い果たしたのか?
豊久はその後ひんしで逃げて村にたどり着き亡くなった、島津家の参勤交代の際はかならず立ち寄り贈り物をしたらしいね
退き口後半戦は立花宗茂と帰ったで大抵終りなのでその後も詳しくて(多難…)楽しめました。恐るべしは山田有栄の印象もありますが、神君伊賀越を超える苦労談は(恐らく)三河者の交渉でも役立ってますね。
木崎原の時も300人中257人戦死してるし薩摩では人命が軽かったのかと錯覚してしまいました。
投稿お疲れ様です。京都の島津製作所の由来の中に義弘公の帰還をお助けした褒美として島津の名字と丸に十字の家紋を拝領したという説があるとか、秋月種長夫人を船に同乗させたのは親切心からだけではなくいざという時日向の道中の人質としておこうと考えていたとかいう身も蓋もない話を聞いたことがあります。
立花宗茂が秋月種長みたいに西軍から東軍に鞍替えする様な気性でなかったのが幸いでしたね。お家を守る為ですと言って裏切りを正当化する風潮の中で美意識に反するからしないという珍しい家風を立花家中は持ってましたから瘦せ我慢をした為に立花家は改易の憂き目を見るのですが
立花宗茂公の家臣には
仇討ちの好機ではないかと諫言する者もいたが取り合わなかった。
立花宗茂公の人柄でも
あり正々堂々の武人らしい生き様でした。
関ヶ原からの敗走で
この様な経緯を経て
薩摩に帰って来れた
島津義弘公の苦難と
人望が分かって
良かったです。
>京都の島津製作所の由来の中に義弘公の帰還をお助けした褒美として島津の名字と丸に十字の家紋を拝領したという説がある
創業者の一族はもともと姫路の出身だそうだが、播磨には島津氏の分家がかなり栄えていたので、その流れだと思う。姫路には島津姓の人が多い。
なお、播磨に島津義弘という薩摩の義弘より40歳程年下の同姓同名の人がいて、大坂の陣の敗戦後に逃走する等、この人も波瀾万丈の一生を送った。
義弘辞世の句「春秋の花も紅葉も留まらず人も空しき関路なりけり」からしても木崎原や根白坂より関ヶ原は痛恨だったんだろうね。
中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)の合戦談は、話を聞きに来た”にせ”(青年のこと)を待たせ、奥の部屋に入って正装してから、話をはじめたものの、涙がとまらず「関ケ原と申すは・・・・」と言葉を絞り出すのが精いっぱいだった。それほど困難を極めたの行軍だったのだと思います。
兄義久公が援軍をださなかったというのは事実ですが、義弘公から藩内各地に出された援軍要請に呼応して、藩主義久公の命令に反して、厳重なはずの関所を抜け、関ケ原に駆けつけることができたのは、義久公の本心は義弘公を助けたかったのだと思います。※藩主の命令に反するの死罪なのに、そうはなっていない。
コメントありがとうございます!同母の弟で九州統一戦の苦楽をともにした仲ですから、義弘に対する情はあったでしょうね。
当時は村単位で武装してたから勝てば略奪ヒャッハー!負ければ落ち武者狩りって因果関係がしっかりしているよな
コメントありがとうございます!中世は極論すれば個々の村落が一つの国みたいなものでしたしね。
旅行ができるようになった江戸時代がいかに劇的に治安が良くなったか、ということがわかります
やはり力のある中央政権って大事ですよね…
中国史でも王朝が元気な時は平民も安全に生活できましたが、ひとたび元気がなくなると途端に世紀末状態でしたし
あちこちで武装してる人が農村でいる時点で、刀狩りが形式的なものにすぎないとよくわかるw
※鉄砲は猪などの獣よけに必要だから、領主に申し出ておけば所持出来たようですね
刀ばっか集めてたっぽいね
@@matukawatositane
弓、槍、薙刀あたりは黙認されてましたね。
脇差(短刀)はどんな感じでしたっけ。
@@delayedaflight 脇差は江戸時代とかでも護身用に持つことは許可されてたそうです
ただし、普段から帯びることは禁止されており
旅に出る時や、正月などで正装するときだけ身に付けられたようですね
2本差しは武士の象徴だから、ここだけはうるさかった模様
刀狩りについて
豊臣家奉行衆の文書『越前での刀狩りだが太刀が少ない。槍や鉄砲は良いから太刀を集める様に』島津家の刀狩り担当の文書『当家では脇差ばかりで太刀が少ない。薩摩の長脇差と言うのは上方でも有名でこれでは申し開きが出来ない。即刻太刀を集める様に』と言う記録が残っている
以上のような記録から、刀狩りは武装解除でなく太刀と言う侍の象徴を取り上げ身分制度をはっきりさせるためのものと言われています。この時期は大陸出兵で武力と生産能力を底上げするため、武家奉公人のような一般人でも武家でもある中途半端な存在が状況に応じて立場を変えない様に身分を固定させる必要が有ったみたいです
そのため奉公人へ武士か一般人かを迫り、その後の身分変更を許さないと言う法律も有ります。また太刀の取り上げは 生産に従事するなら動員はしないよ と宣言している面もあります
因みに江戸時代に入り太平の世になると奉公人を再度認め大名に限らず旗本たちもパートタイムの武士である奉公人を雇い、その割合は幕末になるにつれ高くなり動員兵力の五割以上が奉公人である大名家も珍しくなくなります。戊辰戦争でまともに戦えなかった大名が多いのも納得いく話です
とはいえ、100名規模の軍人を本気で襲う村は少なくない?
横山はそういう考えじゃ絶対無い、島津武士だよ、なんかあったら目立つ大将の鎧着て逃げて身代わりになる気満々では。
待ってました🎉動画ありがとうございます🌸
ありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです😄😄
かつて父を高橋紹運を頃した島津氏と協力して帰国する立花宗茂 なんという胸熱展開
立花宗茂は義弘の事を尊敬していましたからね。
コメントありがとうございます!立花宗茂は正真正銘の義将ですね😄😄
この島津の逃避行は我々に戦争に「負ける」のが何を意味するかを生々しく教えてくれますね。そりゃどんな手を使っても勝者の側にいたいと武将たちが考えるのも当然としか言えないです。
関ヶ原の戦いの研究が進むのは良いことですが、正直いろんな説が乱立してて(中には珍説迷説らしきものもあり)収拾がついてない印象です。
コメントありがとうございます!前回はご教示いただいたのに本業のほうが多忙で返信できず失礼いたしました。関ケ原研究は一頃の本能寺の変論争のようになってしまうんですかね😥😥
そして史料を捻くれて解釈した珍説ほど一部の偽物インテリに人気を集めてしまうのも本能寺の変でよく見た現象ですよね。
いずれ島津は関ヶ原に参戦していなかったんだ!とか、義弘は実は討死していた!みたいなトンデモ説が出てきそうです。
中馬重方は小説「島津奔る」で知りました。薩摩訛りが強い豪の者のイメージですね。
落伍者は農民の格好のターゲットだけど、倫理観のリミッターが切れた島津武士が相手じゃ分が悪いな。
義弘一行が立花宗茂と合流した際に、宗茂の家臣が父親の高橋紹運の敵討ちのチャンスだと進言したけど、宗茂は意に介さなかったなんて話も聞きますね。
島津軍はかつて大友家との戦いで高橋紹運の器量に降伏を勧めていた位だから宗茂との間に私怨なんてないし、朝鮮の役で義弘と宗茂の間に何か友情みたいな絆が生まれていたとか
RUclips動画による立花資料館長さんの話では護衛して九州に帰った云々は盛りすぎ話の可能性もあるんだとか…宗茂ファンとして秀吉に取り立ててもらった義理を関ケ原の戦で清算出来た理由の方が気になるので
コメントありがとうございます!立花宗茂は実際に戦国でも稀な義理人情に厚い武将だったと思います😄😄
オレだったら敵討ちして、島津家晒しちゃいます。戦後に九州で戦うため島津家に恩売りたかったのかなー
@@グールーメングールーメン
宗茂の選択は生きて生還する上で妥当だったのではないですかね
敵討ちで義弘だけを討てるわけはないですし、島津兵を相手に無傷でいられるわけもなく相当の犠牲が出る可能性があり、返り討ちに遭う可能性だってゼロではないでしょう
上手く討ち果たせたにしても、その後に黒田方が犇めく海路や陸路を進まないといけないわけで🤔
スゴい‼️
ハリウッドのアクション映画のようだ‼️
ディズニープラスの「将軍」は終わったけど、スピンオフで島津の退き口すれば良いんじゃない⁉️
ま、主役の犯罪シーンもあるけど😅
しかし70近い人がこの逃避行に耐えるって、只者じゃないですね。
そして義久の対応。
二説あるのが政治家的な義久らしい、と感じますね。
コメントありがとうございます!島津の退き口のドラマ(映画でもいいですが)はぜひ見てみたいですね😆😆
次回から超引きこもり能力発動の義久の出番ですなwww
あと義弘が帰還途中で立花宗茂一行と一緒だった時に宗茂の部下が「義弘は宗茂様の父親の敵(高橋紹運)です!!今なら敵は少数。敵を取りましょう!!」って言ったけど宗茂が「敵でも弱っている敵を討つのは卑怯だ!!」とか言った話もあった様だけどやっぱり異説だったのかな?wwwまあ美談としてはあるだろうけど。
あれ?確か奈良県桜井市の三輪山平等寺に70日間匿われていたのでは?その時に借りた銀一貫の家老達が書いた借用書が今でも残っています。
コメントありがとうございます!その話はちょっと怪しいみたいですね。
宇喜多秀家を一緒に連れ帰っているはずだけど、次回の楽しみかな?
生きてたから笑い話だけど
長束正家の家臣「え!?ワイも一緒にあの軍へ突撃するんですか!?」
とか思ってたのかな
妙円寺詣りが鹿児島の伝統になる訳だな...
義弘主従で落命した者たちのその後が分かればぜひ知りたい。これほどの忠義は子孫に報いられてあって欲しい
エンディングのbgmが好きです
何の曲か教えていただけますか?
コメントありがとうございます!エンディング曲はニコニ・コモンズから取ってきたものなんですけど、申し訳ないのですがタイトルを忘れてしまいまして…
美談が多いけど、97%の損失なんだよね...。(全滅とほぼ同じ...)
本当によく生きて帰ってきたなぁ...。(汗)
この関ヶ原の新説はどこから得た情報でしょうか?
島津方の山田殿の覚書が発見されたからでしょうか?
コメントありがとうございます!今回(と前回)は主に桐野作人さんの『関ケ原 島津退き口』(学研新書)を参考にしていまして、その中で山田有栄の覚書が多く引用されていますね。覚書は戦国の合戦の実際を伝えてくれる史料として注目されていますが、書いた本人の記憶違いや戦功を誇張している可能性もあるので、取り扱いには注意の部分もあるようです。
@@ゆっくり真実の戦国史 丁寧にありがとうございます。
関ケ原の島津の生還物語について、武将としての評価は下げると持論を述べたら
武装した現代の島津兵が血眼になって襲ってくるのが興味深い
島津研究家の新名先生も講演でその手の話をすると年配の方から
「嘘をつくな!あんたは私達の殿様を侮辱するのか!」
とめっちゃ怒られた事が何回かあると語ってました
ガチの専門家の先生ですら突っかかって来られるので仕方ないです
生き残った部下に恩賞はいい話なんだけど、
主君を逃がす為に残って戦死した者たち(の遺族)には何か有ったのかな?
負け戦はそんなものとはいえ、報われないのは気の毒すぎる・・・
下人は分かりませんが名のある武士の遺族には当然然るべき対応をしたのではないですかね
武士にとっては家が一番大事。家を守るために自分の身を差し出す。主君のために死ぬだけでそれは大きな功績になり家を守ることになるので
だから武士は命を差し出すわけです
14:13 秋月氏のせいで泥沼の筑前出兵に駆り出されたのに律義よのう・・・
この頃にはすっかり腐れ縁になってたんでしょうね。
まあ、九州での上陸目標の日向細島が位置的には秋月氏高鍋藩のなかにあり、島津豊久の佐土原には良港がなく、それより南の良港の赤江・油津は島津に恨み骨髄の伊東氏の拠点で近づくのも論外っていう実利もあったのかも知れませんけど。
コメントありがとうございます!困ったときはお互い様の精神だったんですかね😄😄
義弘vs落ち武者狩りvsダークライだったのか
🤣🤣
西軍が負けたのを知って、ヒャッハーしてる黒田如水と加藤清正らが跋扈してる中、帰還できたのは奇跡
コメントありがとうございます!九州の暴れん坊と策士😰😰
安宅の関のような美談ですね。事実かどうかは、どちらも疑問ですけどw
これは相互依存が最も良い形で機能した例じゃないかな 家臣たちからすれば 義弘様は死なせないために頑張ろうってなる義弘も俺が死んでしまったら 家臣たちの頑張りが無駄になってしまうから 恥を忍んでもなんとか 薩摩まで帰ろうってなるし
これは何か映画化できそうだなぁ
9:30〜からの霊夢の発言にもある通り、当時の情報伝達の遅さと風聞に頼らざるを得ない不確実性もあって、一次資料とされる史料の多くは実のところ信憑性に欠けるんじゃないかと思うんですよね。少なくとも鵜呑みには出来ない(例えば信長の鉄甲船モドキに関する記述など)。特に遠方の第三者の手による日記という形式の史料は。
むしろ逆に江戸時代の二次資料であっても、出所が違う複数の史料に似た様な情報が載っている場合は概ね事実と解釈しなければ整合性が取れないと思います。ちょっと飛躍した例ですが、イエス・キリストの実在性もそうした背理法的な資料解釈で証明されていますし。
義弘の逃走劇がなんか義経主従の奥州平泉への逃走劇みたいに思えてならないんだけど……。
あと信楽での脅迫とか家康の伊賀越えでもやってた話ですよね……。
あるいは義経と義弘、二つの脱出劇の違いは軍組織としての体を維持できていたか否かにある気がしますね。
島津の異常な所は、木崎原の例もあった通り、損害率五割越えという普通なら壊走→総司令官討死となるような状況ですら軍隊として戦える規律と士気を維持できていたことなんですよね。
落ち武者狩りのイメージは大河ドラマで明智光秀がザ農民って人に竹槍でやられたイメージだけど、今回の話を見るとこれは明智光秀も倒されるわ。ぐらいの武装した集団だと初めて知った。
鬼島津相手に落ち武者狩りとか命知らずだわな
😨😨
義経のよう😢
これは大河ドラマ無理ですわw
金の鞘の逸話はこの時だね。
帰り道がただのグランド・セフト・オートなんよ
猫には開きません
申し訳ないけど、東軍の殺る気なさすぎ!
島津軍以外の西軍も逃げ散り大阪入りするもの多数とか…
確か、島津が家康に宛てた手紙で親兄弟の屍を踏み越えて襲い掛かってくる東軍の凄まじさについて記載があったような
殺る気はすごかったみたいですよ
歴史ファンは島津の退き口というエピソードを美化しすぎている
島津にとっての大失敗の歴史であり誇らしく語るものではない
一門も含めた多くの将兵を無残に失ったのは指揮官として評価を下げるとしか言いようがない
そもそも島津義弘は本陣に影武者として長寿院盛淳と兵のほとんどを残し、50人余りの兵に守られ旗指物も捨ててこっそり脱出したって話もありますからね。
本陣に残った兵は盛淳が討死した後に押川公近に率いられ伊吹山に立て籠もるものの包囲され降伏、その後に脱走に成功した押川公近は消息不明の島津豊久の捜索の任務にあたるものの関ケ原でどのような行動を取ったか一切情報が得られず、島津家としては豊久は討死したという見解に至りました。
リアル過ぎてドラマチックではないので全員で前に突撃したって話の方が人気ですけど。
そのへんは立場の違い(反島津・親島津)による歴史解釈の差、以上でも以下でもありませんよ。
島津退き口の大まかな流れは多くの史料で共通するので概ね事実と見て間違いありませんが、細かい経緯の肉付けについては史料を書いた人間の立場によって色々尾鰭がついているのが当然でしょう。反島津を標榜する歴史ファンはその中でも惨めな義弘像の解釈だけを恣意的に取り入れている、というだけで。まぁその逆も然りですがね。
@@diopresario 義弘が武勇に秀でた名将であることに間違いはありません。
しかし、この関ケ原の戦闘については、結果的に義弘の下した判断は失敗だと言わざるを得ない。その点を無視して尾ひれの付いた生還劇によって、義弘の武将としての評価に箔をつけるのは中立的な見方ではない
"結果的に失敗だったことを挙げ連ねて批判することは歴史を語るスタンスとして危険である"。このチャンネルの勝頼動画でも口を酸っぱくして言われてた事なんですがねぇ…
晴天の霹靂とも言える三成挙兵、300の手勢では国本に帰ることも家康に誼を通じることも不可能。取れる行動が余りに限られた中で、義弘の代わりにあなたならどういう行動を取るんです?批判するなら現実的な代替策を示してくださいな。
ついでにこの時の義弘の行動を批判する人は蜂須賀の親父など西国の多くの大名の行動も完全否定しなければ筋が通りませんよ。
@@diopresario 申し訳ないのですが話の論点がズレており何が言いたいのか良くわかりません。これ以上は不毛かと