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【地図で分かる合戦動画】長平の戦い|最悪の結果をもたらした要因とは?!【春秋戦国時代/白起/廉頗】

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  • Опубликовано: 19 июн 2022
  • 秦と趙の決戦。
    趙は廉頗を総大将とし、趙は王齕を総大将とし決戦は始まる。
    廉頗の策で趙は負けない戦いをしていただが、それがついに崩れる瞬間がやってきます。
    長平の戦いの結末はいかに?!
    今回は地図を用いて解説していますので、是非最後までお楽しみください。
    史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)
    amzn.to/3y1xrJI
    史記〈6〉―列伝〈2〉 (ちくま学芸文庫)
    amzn.to/3O1rjXw

Комментарии • 66

  • @user-un1mv5wi9u
    @user-un1mv5wi9u 2 года назад +12

    実際には張括率いる趙軍は、元々の出城には帰還できず、やむなく付近の丘陵に逃げ込んで急場の砦を築き、秦軍に包囲され孤立して疲弊、最終的にやむを得ず打って出て殲滅された…だったと思います。

  • @AtsushiMizobe
    @AtsushiMizobe Год назад +4

    趙括については藺相如が「趙括の兵法は琴の柱を膠(にかわ、動物の皮などで作る接着剤)で固めて動かなくしてから琴を弾くようなものであるため、融通が効かず、臨機応変の処置が取れません」と言っていることから「柱に膠して瑟を鼓す(はしら(又はことじ)ににかわしてしつをこす)」とも言われています。

    • @Kyoui_Kannouchou
      @Kyoui_Kannouchou 5 месяцев назад +1

      読み方は、柱(ちゅう)が一般的ですね。

    • @AtsushiMizobe
      @AtsushiMizobe 5 месяцев назад +2

      @@Kyoui_Kannouchou
      情報ありがとうございます。

  • @suneohead0303
    @suneohead0303 2 года назад +6

    キングダムだとただの大量殺人者で終わってるけど背景まで知れて面白かった
    超活の例は現代でも良くあるし、自分にもあてはまるなー

  • @user-xb1lj4rb6v
    @user-xb1lj4rb6v 2 года назад +5

    とても面白かったです。次も楽しみにしてます。

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад +2

      ありがとうございます。
      今後ともよろしくお願いいたします!

  • @kiyotamu3298
    @kiyotamu3298 2 года назад +16

    まぁ実際のところ前任の歴戦の功のある廉頗ですら消極策を理由に更迭をされた時点で若手の趙括じゃ籠城策選べないですよね
    名将白起も君命は断われずに撤退して機を逸してますしトップの判断で戦局が変わってしまう恐怖

  • @user-do4yq2zz8n
    @user-do4yq2zz8n 2 года назад +10

    連座制は、怖いよね。
    三族、九族連座が当たり前の世界。
    白起将軍も、捕虜の扱いを、最後に
    悔いている。
    今の世に通じる個人の罪と親族の関係。
    捕虜の扱いをいかにするか、2000年以上
    前からの問題提起。
    現在も、あまり進歩していないのかも。

    • @user-ut5mo6ci7o
      @user-ut5mo6ci7o 2 года назад +5

      数十万人を捕虜にしたら自軍も含めた兵糧が枯渇するのと進軍の速度も遅れその分の追加の食料と見張りに人員を割き…
      さらに数十万人の捕虜が反乱を起こしたら踏んだり蹴ったりなので扱いが難しいですよね

  • @user-qo3fe6hl4k
    @user-qo3fe6hl4k Год назад +1

    キングダムでは無慈悲な将軍としかまだ描かれてないけどこういう背景がしっかりあったんだな

  • @user-lv5ez1cz4m
    @user-lv5ez1cz4m 2 года назад +6

    足を引っ張る味方が1番怖い
    そんな教訓

  • @user-oj2lj3fn1e
    @user-oj2lj3fn1e 2 года назад +3

    イラストの人、復活しましたね。めっちゃ上手くなってきてる

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад +2

      ありがとうございます!
      イラスト作成者に伝えておきます。
      いつも視聴いただき感謝いたします!

  • @icch100
    @icch100 2 года назад +2

    動画の中でも超活は学問書の文言をそのまま信じてしまっているので応用が利かなかったとあります。
    状況次第では表の意味が裏返る事も有り、現実に対応するには工夫も必要である。
    しかしツール自身を全ての現実や状況に対応できると信仰してしまっては利用することは叶いません。
    超活は記憶力が人並み以上かもしれませんが、ツールを利用する力という意味においては
    暗愚でしたね。

    • @icch100
      @icch100 2 года назад

      @ファミチキ さん趙括はまず宝物を頂いても部下には与えず、領民からもどうやって税を多く取ろうかを常に考えてたとあります。そして、父親である趙奢を論破したとあるのは、父親を下に見ていたと推察する事もできます。下に見るということはそんな人の話など聞く気は全く無いのは自明の理です。私的には趙括は頭でも酷く打って人格が変われば可能性も有るかなと思います。

  • @gahaha88desu
    @gahaha88desu 2 года назад +2

    実戦の経験が乏しく、論破だけで有能に見える人材を実戦投入するのは、リスクがあることがわかりました😉

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад +1

      結末が酷いだけにこの時代は恐ろしいですよね。

  • @user-kk6ts1qo9g
    @user-kk6ts1qo9g 2 года назад +2

    面白かったです^ ^

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад

      ありがとうございます!
      これからもよろしくお願いいたします!

  • @yugureyamanaka2730
    @yugureyamanaka2730 2 года назад +4

    ●リクエストで劉邦の甥っ子である劉 濞(りゅう び)が起こした大乱である『予言されていた呉楚七国の乱』を、お願いします。劉 濞(りゅう び)は、大軍での正面攻撃だけに固執して時間を浪費した結果、部下からの分離部隊の別動隊派遣案も拒否しました。そのため機動力もいかせず、長い補給路も重視せずに、逆に敵から後方かく乱されて補給路が寸断されて滅亡しました。●面白いエピソードとしては、生前の劉邦から忠告されていたことです。「予言によれば、これから50年後に(帝都の長安から見て)東南の地(呉の領域)で反乱が起こるというが、わしもお前も同じ血を引いた一族同士である。まかり間違えても反乱などと馬鹿げたことをするなよ」という部分も、甥っ子に対する劉邦の愛を感じます。●面白エピソード2としては、漢建国の功臣の周勃の次男が、周 亜夫(しゅう あふ)として『呉楚七国の乱』の鎮圧に活躍しますが、彼は、軍事以外では、意外としくじりがあることです。『呉楚七国の乱』の短期鎮圧に成功した周亜夫は丞相にまで出世しながらも最期は悲惨な餓死という形で人生を終えています。彼の軍事の天才ではありましたが、政治家には向いていませんでした。彼にも、予言エピソードがあります。周亜夫が若い時に、まだ河内太守の時に、こんな逸話があった。 有名な占い易者の「許負」は周亜夫の人相を見て、「あなた様は3年後に列侯に昇進するでしょう。さらにその8年後に大将軍となり、軍権を把握できるでしょう。またその9年後にはあなた様は餓死なされるでしょう」と述べた。これを聞いた周亜夫は「私の兄は既に亡父の後を継いでおる。もし亡くなればその嗣子が継ぐはずだ。何故この私が列侯になれようか? 許負よ、その理由を私に説明できるか?」と反論した。許負は「あなた様の口が尋常ではありません。あなた様の口は両端に縦の筋が喰い込んでおります。これはまさしく“餓死の相”であります」と述べたという。 (引用の出典『史記』です。これは、現実となり、反乱鎮圧後、周亜夫は丞相として政権の中枢に位置することとなるが、皇帝の景帝とはたびたび意見が対立し、その都度、景帝の不興を買ってしまう。そんな中、景帝は自分の寵愛する王氏(武帝の生母)を新しい皇后を冊立にしようとしたが、周亜夫はこれに真っ向から反対し、ついに丞相を罷免されてしまう。 さらに、息子が将来に周亜夫の墓に副葬すべく購入したものが、実は宮中で製作された皇帝専用の墓で使用される副葬品だった。それが、こっそりと市場に出回った物であったことから、周亜夫は息子と共に不敬罪に問われてしまう。周亜夫はこのことに対して、絶食死という形で責任を取ることによりその生涯を閉じた。●呉楚七国の乱では、改過自新(かいかじしん)という言葉も生まれました。ついでに書いておくと、呉楚七国の乱からは、他にも「舐糠及米」(しこうきゅうまい)という故事もうまれました。「舐糠及米」(しこうきゅうまい)とは、反乱を起こした劉 濞(りゅう び)が、同盟国に説得の使者として派遣した家臣である役職が「中大夫」の「応高」という名前の家臣が、他国の王に同時挙兵の決断と説得をうながす言葉として使用したと言われています。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад +1

      補足ですが、作者様、『改過自新』という言葉は、呉楚七国の乱の過程で生まれた言葉です。劉邦の甥っ子である劉 濞(りゅう び)は、前漢の朝廷から領土削減のうえに、『改過自新』を求められて激怒しました。当時の前漢の皇帝は、劉濞の息子をゲームの最中に撲殺した前科がある景帝でした。(皇帝になる皇太子の時代に撲殺事件を起こしていました。)改過自新(かいかじしん)の意味・使い方です。自分の過ちを改めて、新たに再出発すること。過ちを改めて心を入れかえることです。景帝が即位したとき、皇太子時代から側近であった鼂錯(チョウソ)が御史大夫(ギョシタイフ:官吏を監察する仕事)になりました。鼂錯の持論は、難くせを付けて、諸侯王の土地を奪うことでした。呉王の劉濞に対しては、『病気と詐称して入朝していない。呉王は、当然、【改過自新】すべきである』
      という理由で、呉の経済活動の重要な二つの地域を削り取ってしまいました。これがきっかけになり、B.C.154年「呉楚七国の乱」が起こりました。●晁 錯(ちょう そ)が、奪おうとしたのは、呉の領地と塩の産地から生み出される莫大な収益でした。当時の諸侯王のうちで、最も強い勢力を持っていたのが、呉王の劉濞であった。領内に塩と鉄の産地を抱える呉では、独自の貨幣鋳造も行われており、民衆に税をかける必要がないほどに豊かであった。また劉濞自身も、かつて劉邦に従って英布討伐で戦功を挙げた経験を持っており、皇族の長老として君臨していた。当時の皇族たちは年1回、首都である長安を訪問することが義務付けられていたが、劉濞の世子の劉賢が皇太子時代の景帝との口論の末に殺されたことから遺恨を持っており、この義務を怠るようになった。 この大勢力には晁錯もすぐには手をつけることが出来ず、まず二番手以下の大国である楚・趙などの領地を口実を設けては削り、その権力を徐々に奪っていった。こうなると諸侯王側も当然警戒し、反発の度合いを深めていく。そして、諸王の力をそぐのに成功した、晁 錯(ちょう そ)は、調子に乗って、ついに、1番の最大勢力の劉濞の元にも会稽・豫章の両郡を削ると通告した、この地方は塩の産地であって呉にとって欠くべからざる場所であった。これを契機として、劉濞は反乱を決行した。●●別の故事もうまれています。 故事の「舐糠及米」とは、被害がだんだん拡大して、ついには本体に及んでしまうことです。穀象虫(こくぞうむし)(米につく虫)のような害虫が、米の外側の糠(ぬか)を舐めはじめると、次には中の米を食べるようになり、害を及ぼすという意味です。「糠を舐りて米に及ぶ」(漢字の読みはねぶる)ともいいます。出典は、 『史記』呉王「劉 濞伝」です。歴史的な経緯は、前漢、景帝の代に諸侯の勢力を削る目的で、諸侯の領地を少しずつ削ぐ政策を行った。領地を削がれた呉王は領地がなくなってしまうことを危惧し、呉楚七国の乱を起こしたという故事からできた言葉です。
      「糠を舐(ねぶ)りて米に及ぶ」とも読む。簡単に言いますと、前漢の皇帝の景帝は諸侯の小さな落ち度を見つけて領地を削ることを続けている。それを、実行しているのは皇帝の周辺の姦臣だと、呉王の劉 濞(りゅう び)の家臣の「応高」という名前の家臣は言ったわけです。その時に、今の呉王は、害虫のような者たち(前漢の皇帝の側近たち)から「糠を舐りて米に及ぶ」ような行為をうけている。被害は大きくなっているようだと解説するように例えたのです。「応高」が、この例え話をした相手は、説得相手の他国の王です。他国の王の名前は膠西王の劉卬(りゅうごう)だと言われています。膠西郡(こうせいぐん)は、中国にかつて存在した郡です。秦代から漢代にかけて、現在の山東省の周辺です。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад +1

      呉王の部下の応高(オウコウ)は【文官】でした。 前漢においては、中大夫と呼ばれたていたの役目についてです。 前漢においては、元は中大夫と呼ばれ、論議を職務としました。(ちゅうたいふ)前漢の武帝の時代の太初元年(紀元前104年)に中大夫を光禄大夫(こうろくたいふ)と役名を、改称し、秩禄を比二千石とした。補足ですが●●皇族で 膠西王だった 劉卬(りゅうこう)についてです。
      彼は、前漢王朝の皇族の劉肥の子でした。B.C.176劉卬は劉肥の他の子6人と共に列侯に封じられ、平昌侯となった。
      B.C.165文帝は先に列侯に封じた劉肥の子らをそれぞれ王として斉の地を分割したので、劉卬は膠西王に封じられました。
      B.C.154、1月、劉卬は売爵の不正があったとして漢に所領の6県を削られた。
      漢の大臣らは、さらに呉の領地を削ることを評議した。呉王の劉濞は領地が際限なく削られるのを恐れ、陰謀をめぐらせ謀反しようとした。 諸侯のなかで、ただ劉卬のみが勇敢で軍事を好み、また斉の諸国が漢を恐れていると聞いたので、 中大夫の応高を使者にして、劉卬を内応させた。 反乱に参加することにした劉卬は他の王を説得する使者を出したので、諸国の王が参加する大乱に発展しました。 呉王の劉濞が兵を挙げると、劉卬もこれにならって兵を挙げた。 その後に、反乱が大失敗すると、 劉卬は漢の陣に赴いて、肌を脱ぎ地にひれ伏して降伏する時に、漢の武将に皇帝の領地削減政策についての不満と愚痴をこぼしました。すると、漢の武将の 韓頽当は、「皇帝からの詔書もないのに兵を動かし、さらに皇帝側に参加した正義の国((斉国 )を討っておられる。今の愚痴や不満は心からの本音ではありますまい」と皮肉を言った。なので、それを心から恥じた 劉卬は「死んでも罪を償いきれませぬ」と言って自殺した。韓頽当(カンタイトウ)漢の将軍でした。

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад +1

      コメントありがとうございます。
      呉楚七国の乱は取り上げたいと思っているので、時がきましたら配信させていただきます。
      その時は是非よろしくお願いいたします!

  • @user-zipangcode81
    @user-zipangcode81 2 года назад +4

    この時代から現場至上主義が目立つ🌟

  • @MegaYAMATODAMASHII
    @MegaYAMATODAMASHII 2 года назад +3

    大事な事も意外とくだらない感情論で決められている。

  • @ryo1979
    @ryo1979 2 года назад +5

    趙括みたい人めっちゃ多い

  • @won8601
    @won8601 2 года назад +1

    趙の家族は約束通り大丈夫だったんでしょうか?

  • @user-yp2xw3pf7w
    @user-yp2xw3pf7w 2 года назад +4

    敵を知り己を知れば百戦殆うからず
    孫子

  • @moipa808
    @moipa808 2 года назад +8

    この時代兵士を60万も集められるのか?

    • @user-ur2qg1uh7q
      @user-ur2qg1uh7q 2 года назад

      中国だからねぇ...

    • @user-ur2qg1uh7q
      @user-ur2qg1uh7q 2 года назад +2

      村単位で徴兵しまくってるから、男がごっそりなくなって潰れた村なんてざらにあるんで、まあそういうことかと

    • @user-vr7pw1mq7c
      @user-vr7pw1mq7c Год назад +1

      全国の40%以上を動員する

    • @user-sx6dg7xb9n
      @user-sx6dg7xb9n 5 месяцев назад +1

      戦闘兵はあまり多くないかもしれない60万人の兵力はあるかもしれない20万人の残りは民夫かもしれない

  • @user-kq8zt6si1t
    @user-kq8zt6si1t 2 года назад

    うぽつ!生き埋めとはクワバラクワバラ😑

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад

      いつもありがとうございます!
      うぽつコメントいただけると安心します!

  • @user-fx6ym1hh2u
    @user-fx6ym1hh2u 2 года назад +5

    秦軍50万~60万、趙軍45万とありますが実際の数はどんなもんだったんでしょうね。
    両軍100万人の2年間にも及ぶ兵站なんて紀元前じゃありえないし・・・
    まあ当時の中華はそれこそ「なんでも」喰ったらしいですけどね。

    • @user-sx6dg7xb9n
      @user-sx6dg7xb9n 5 месяцев назад +1

      いずれも全国動員であり、しかもすべてが戦闘兵ではなく、物資を輸送する民夫が多数を占めており、秦朝の戦闘兵は20万人、趙国の戦闘兵は15万人で、残りはすべて民夫か他の何かであると推測される

    • @user-sx6dg7xb9n
      @user-sx6dg7xb9n 5 месяцев назад +1

      この推測はまだ信頼できると思います。考古ドキュメンタリーを見たことがあるので、上から言えば、長平古戦場の遺跡の近くで、この万人坑を掘ったことがあります。秦軍坑が趙軍を殺した遺跡かもしれないと推測しています

  • @Unknown-cj1gd
    @Unknown-cj1gd 2 года назад

    元凶は上党郡の太守のように思えてきた。平原君も諫言を誤ったと言わざるを得ない。

  • @Mrjyosuke
    @Mrjyosuke 2 года назад

    ユキムラチャンネルの人ですか?

  • @pontarou01
    @pontarou01 2 года назад

    饅頭こわい

  • @KAZUKI1st
    @KAZUKI1st 2 года назад +2

    この時の秦王ってえいせいのおじいさんでなかったですっけ?

    • @zenreki
      @zenreki  2 года назад +3

      昭襄王は始皇帝の曽祖父になります!

    • @MDQ0426
      @MDQ0426 2 года назад +3

      @@zenreki 多分立ち絵が始皇帝だから疑問に思ったんじゃないですかね

  • @toshichika720
    @toshichika720 Год назад

    20万人生き埋め🥶🥶🙀

  • @user-ju2mx4ut6u
    @user-ju2mx4ut6u 2 года назад +2

    二十万人の生き埋めは盛り過ぎじゃないか?

    • @user-hr9dw9iu8n
      @user-hr9dw9iu8n 7 месяцев назад +1

      数千人の白骨が戦場跡から発掘されてます!

    • @Kyoui_Kannouchou
      @Kyoui_Kannouchou 5 месяцев назад

      いかにも盛ってそうで、実際には盛ってない可能性が高そう…。

  • @user-cr8bn2pm8s
    @user-cr8bn2pm8s 2 года назад +1

    中国は数字を十倍は多くいうから精々六万の兵だろうな。
    赤壁の曹操軍でさえ十万程度しか実際にはいなかったらしいからな。
    二万人生き埋めでも酷いがな。

  • @user-wu9jo2hy5b
    @user-wu9jo2hy5b 2 года назад +2

    劉備関羽張飛曹操を更迭したらそりゃ負けるわ(笑)

  • @my-eg8ge
    @my-eg8ge 2 года назад +4

    「秦が中華を統一」という言葉が違和感しかないです。「秦が中華を征服」という表現の方が正確だと思うし、商鞅も覇道を進めていけばそこが限界になってしまうと孝公に説いていた。だからこそ陳勝、呉広の乱の時、六国の復興を唱える勢力が多かったし、その後の中国史では春秋戦国時代の国号を称するする王朝が多かった。

    • @user-dx6ee6if3i
      @user-dx6ee6if3i 2 года назад +8

      統一でもいいんじゃない?始皇帝は、それまで国ごとにバラバラだった貨幣や文字も統一してるし、色んなものを一律にしたはず。また始皇帝が統一したことによって後の漢王朝の形も作られたわけだし。

    • @my-eg8ge
      @my-eg8ge 2 года назад +1

      @@user-dx6ee6if3i さん 今で例えれば、日本を中国が征服して、当然天皇は廃止、中国語や人民元を導入して日本の伝統文化は禁止するぞというわけです。「はいわかりました」と従順に受け入れるのは難しいはずで、そういう感情が中国史に大きな影響を及ぼした事は認知するべきだと愚考します。

    • @user-dx6ee6if3i
      @user-dx6ee6if3i 2 года назад +2

      統一と征服のニュアンスの違いがうまく言えないけど 征服の過程を経て統一に至ると自分は考えてます。日本の戦国時代に例えたら信長は武田家を滅ぼして征服したわけですよね?武田家統一とは言わないですよね?その過程を経て天下統一に邁進して本能寺で倒れましたけど。建前として戦国時代前半は足利幕府のもと元々一つだったのいうのもあるかもしれませんけど…
      で、最終的に秀吉が統一して家康が幕府を立てて天下統一になったわけで、
      秦が後に反乱によってあっさりバラバラになったから統一じゃないと言われたら秀吉も天下を統一したことにはならないような気がしますが…また三国志において最終的な勝者は晋が統一しましたが、八王の乱で結局バラバラになりましたし、それなら晋も統一ではなく魏呉蜀を征服しただけということになりそうですけど そういう考えでしょうか?もちろん 国の内情や考えうる前提条件は色々あると思いますが…
      現在において中国が日本を征服してそのあとにアメリカ含めて世界中の国を征服して20〜30年支配が続けばそれが世界統一という表現になるんじゃないかなーと。現在の情勢で言えばそれが妥当かなと。始皇帝の秦成立が中国史に影響を及ぼしましたけど、それを踏まえて統一でも表現としては間違ってないかなと思います。
      長文失礼しました汗

    • @Kyoui_Kannouchou
      @Kyoui_Kannouchou 5 месяцев назад

      春秋戦国時代の国号を称する国が多い理由は、秦の征服に反発するためではなく皇帝に即位した人がたまたま趙や魏,燕等その地域に縁があったからなんですよね…。曹操や拓跋珪の魏も孫権の呉も趙匡胤の宋も黄巣の斉も秦の統一からずっと後の話ですし。

  • @user-bu9uo6xh3i
    @user-bu9uo6xh3i 2 года назад

    棒読みやん

  • @user-kx7nb8ux6h
    @user-kx7nb8ux6h 2 года назад

    滑舌の悪さが気になるの〜