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当時のフジテレビの影響力恐るべし。
JR東も全面協力
あのソ連がよく協力してくれるなんてゴルバチョフさんなかなかやりますな。
外貨を落としてくれるならとシベリア鉄道利用は歓迎されていたんだヨーロッパでテストした乗用車をコンテナ便でナホトカまで航送するなんて事もあった。閉鎖的だったのは改革解放以前の中国鉄路。
ペレストロイカとかの時期だったからね
後のエリツィンやプーチンよりもゴルビーの方が柔軟思考でしたね。でもこういう人は外国では良い指導者でも、本国では弱腰、売国として嫌われてしまうのでしょうね…。まあいつの時代も洋の東西を問わず、偉い人たちが考える国益と庶民が考える国益は違うという事でしょうか。
大陸側ハバロフスク止まりで船積みしたらもう少し実現が早かったかな
@@Tsurusampachi 平壌・ソウル経由は流石に無理だったか...
日本テレビがエベレストから生中継したり、TBSが宇宙に特派員打ち上げたり…。バブル期の民放、元気良すぎ。
これを生で見れたのは一生の宝物。貴重な体験でした。特にロイヤルエンジン牽引はしびれました。
最期のゴハチとD51の重連は迫力有り見事❗贅沢を言えば横軽を3重連で走って欲しかったですね🌠
運行を終えて帰る前、最後にJR品川駅の臨時列車ホームで(←当時は「東京機関区(表記は「東」)。以下、同じ」と「品川客車区(東シナ)」が存在しました)、日本に上陸したNIOE(←ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの略。なお、管理所属は上記の「東シナ」)の一部車両の一般公開がありましたね。春休みの日でしたので(でも、土日のいずれか1日限定でしたけど)、そこへの見学を体験しましたよ(^o^)。結構、大人数の鉄道ファンが来られましたよwww。しかも、車内撮影はOKとの事で、柔軟な大らかさが感じ取れました😂
@@松本政行-x2f現代では撮り鉄などのマナー向上しない限りそのようなことは出来ないでしょうね、、、😢
@@松本政行-x2f 箱根ラリック美術館に保存されてるオリエント急行の車両には「東シナ」の表記が残ってますよ!!
@@塚越-y8n オリエント・エクスプレスは横軽対策非対応で車重が重く、残念ながらムリ💦🔵🚃
この熱意を今のテレビでも持ってほしい
フジ「銭無いねん。」
昔フジテレビの中の人から話を聞いたけど、フジテレビの「俺たち」がたくさんいたからこんなことできた…と言っていたな。やばい鉄道マニアがおそらく居ないだろう今、なかなか難しいだろうなあ…。
このオリエント急行日本入線時の日本一周走行ルートの軌道測定と支障箇所の修正工事は、結果として開業以来継ぎ接ぎ補修を繰り返すだけだった日本の幹線鉄道の設備近代化に非常に大きく貢献することになり、その効果はいまもなお享受されているので、実は単なるお祭り騒ぎとはバカにできない、日本の鉄道史上でも非常に大きな出来事だったんです。
俺は、実際に品川駅で最終展示会に見に行ったよ😃。その当時は、中学3年生だったからね😃。そして、鉄道模型メーカーのKATO`から、その名のズバリ、『オリエントエクスプレス88inジャパン』で製品化することがわかった時には、どんなにものすごく喜んだり、びっくりしたことを今でも良く覚えているよ😃♥‼️。
十数年前ミュンヘン中央駅でたまたまこの時の車両に出会いました。当時は日本にやってきたとは知らず、遠いドイツの地で田町区の表記を見たときにはもうびっくりしてしまいました。
実は、国鉄とフジは、最初はベニス社のオリエントエクスプレスを走らせようと交渉していたのだが、社長が交渉中に交代して、費用面で交渉が難航。そこで、ワゴン・リ社の元祖オリエントエクスプレスに交渉を切り替えた所、そこの社長さんは鉄ちゃんで、とても乗り気になってくれて難なく交渉も進んだという後日談もあったり。
これこそ「元気があればなんでも出来る!!」だな
鉄道の事あんまり知らないけど、そんなことよりもパリから香港までレールが繋がってることが驚き
鉄道を通して各国の偉いさんやその鉄道に関わる方々と協力して一つのプロジェクトを作り上げる平和の祭典とは名ばかりに汚職贈賄の話しか出てこないオリンピックよりよっぽど素敵だと思うまた計画してほしいな
小学生の時に帰り道に地元の駅を通るとテレビでやっていたオリ急が止まっていて見に行った。懐かしい。
戦前の東京発パリ行きの切符みたいなわくわく感
国内と国際情勢を見ると奇跡的なタイミングだったのが分かります。催行が早くても駄目(ソ連通過の困難と国鉄分割民営化)、遅くても駄目(東欧革命、ソ連解体、天安門事件、バブル崩壊)
そうそう!オリエント急行、歴史に残る激動の時代のさなかで奇跡的に走れましたね。昭和天皇崩御やソビエト崩壊ハイパーインフレもかわしました。
東欧革命の引き金引いたと思いますよ。オリエント急行。原爆落とされた国がものすごい大金持ちになって走らせたのだから。すざまじい東西格差。
88年当時私は11歳でした。当時実家の窓から毎日 あけぼの 日本海1号 日本海2号 その他列車が通ってました。オリエント急行は午後11時頃下り→函館?青森方面走行して行っての記憶してます。家の前をゆっくり60キロ位で去った感じです。当時は親が、通る予定分かってた様で、その日は夜更かししてオリエント急行が通るか起きて待ってました。見た感じは日本の寝台車よりデカイ感じに、窓が大きく、ヨーロッパの貴賓、雰囲気オーラがあり、圧巻しました。恐らくオリエント急行の原型、後者がトワイライトエクスプレスが誕生したかと、私は思います。
888000円が高いとのことですが、現代の豪華列車に乗るよりは多分価値はあると思います。乗りたかったなぁ。見るだけで精一杯でした(笑)
この列車を題材にした西村京太郎トラベルミステリー、オリエント急行の殺人事件って作品を思い出す方もいるかもしれないなぁ~!
そのうち1両が箱根に、保存してあります!🎉
英国側のオリエント急行連絡列車(プルマンカー)は日本の車体幅&長はイケそうだったけどヨーロッパ大陸側のワゴン・リの車体がでかすぎたから、線路微調整大変だったろうな😨台車は旧型客車の台車ベースのものに履き替え😮VSOEみたいに近代改造しないオリジナルそのままバージョンのノスタルジックオリエント急行が日本が来るとは😮テレビでしかこれみられませんでしたが、先んじて復活運転させたベニスシンプロンオリエント急行しか『オリエント急行』を名乗れなくて『ノスタルジックオリエント急行』運営会社は解体、車体も売却されたとか😢
オリエント急行が日本上陸した場所が山口県下松市の日立製作所笠戸製作所。日本側のスポンサーが日立製作所であった。
@大坂孝幸 あ、同じ「笠戸」でも、今は『事業所』ですので(wikipediaで調べましたら、私は「工場」と勘違いしてました。かつて、TX(つくばエクスプレス)の車両製造で「工場」と、当時の鉄道雑誌にはしっかりと紹介がありましたので、そこはご勘弁下さいm(_ _)m)。
サムネの画像、何時から日本の鉄道(JR含む)は右側通行になったんですかね?
そしてこの列車の片割れが箱根に…
当時、中1でした。フジテレビを見てたら車内の撮影会の募集をしており、往復ハガキ(時代だな)を出したら見事当選!東京駅まで撮影しに行きましたよ。名物車掌の背の高いダニエルさんもいらっしゃいました。車内は通路のみが通れてロープが張ってあって座席や寝台には座れませんでしたが良い思い出です。それにしてもスポンサーの日立はいくら出したんだろ?
さすがバブル絶頂期は勢いが違う。
オリンピックや万博よりも格段に少ない費用でこれ以上ない位世界各国を結び付けて人々に希望を与える。これをどうか再び実現させたい。その為にはロシアに侵略をやめさせることがまず第一!
当時14歳でした。大阪駅で展示されていたのをみたし、中に乗れました。
当時、フジテレビが土居まさるさん司会で特番を組んでいたなぁー。瀬戸大橋を渡って地元を通過した時は本当に感動した。
その番組、つべに転がってるぞ?
ロマンですね。情熱とあとは好景気に支えられた、奇跡的なプロジェクトの実現に胸が熱くなります。
当時熊本駅でイベントに行きました。ED76が牽引していました。外側からしか見れませんでしたがオリエント急行への思いが大きくなりました。東西冷戦末期だからこその奇跡でしょうね。いつか現地の定期運行の列車にのりたいですね。
博多駅で見ました、オーラがばんばん来てた。ダニエル車掌のサービス精神もすごかった。
背の高いダニエル車掌は、忘れてはならない存在でしたね!何しろ、サービス精神全開でしたからね(^o^)。
今でもダニエルさんとのツーショット写真は宝物です
五稜郭駅でみたなぁ
伝説やな。今のクルーズトレインと比べると安く感じるのは自分だけ?
今の時世では何かと言われる合理性だの収益性だのは二の次に、溢れるロマンと多くの人の情熱、そこにお金を動かす力が加わって、今も語り継がれる夢の企画が、見事な完成度で実現した。いつの日かまた、そんな瞬間が来ることを、待ち望んでみたくなりました。
京都駅で見ました。が、車内見学は抽選で選ばれた人しか入れなかったので奈良線のホームから写真を撮ってた記憶が。帰りの東海道上り電車からオリエント急行を見ていたら控車マニ50脇のホーム上で車掌長のダニエルさんがラフな格好で他のスタッフ数名とお弁当を食べておられたのをみつけたのもいい思い出です。
それこそ貴重な光景では
懐かしいですね。品川駅で初お披露目の際、ホームから見たのが最初。日本の車両には無い豪華さに驚きました。同じ年に運行を開始した北斗星の出発式にもいたのですが、それとは異なる驚きでした。当時赤羽に住んでたこともあり、オリエント急行はよく高校からの帰宅時に通過する姿を見ました。まだ赤羽駅が地上にあった時代、ホームから多くの人が見てたのを思い出します。日本に来る前に花魁列車で測定をする映像がRUclipsにありましたが、その際、赤羽駅7番ホームが引っ掛かりかなり削られたのですが、そのホームの削れ具合も実際に見ました。スマホがあったら撮影してたと思います。上野駅にも出発風景を2回ほど見に行きました。地下ホームが客車から出る煙とその独特の匂いが充満し、風情のある光景でした。背の高い車掌さんなどスタッフさん達からフジテレビが発行した書籍にサインしてもらったり。インスタントカメラで撮影してましたが、フィルムを何本使ったことか。スマホなら1000枚くらい撮影してしまってたでしょう。D51も友人たちと埼京線との合流地点あたりで何時間も前から待ってました。初めて見たSLがこのオリエントの運行でした。結果はピンボケでしたが、しっかり記憶に残ってます。翌日か翌々日か、バイトに行く際に、FE58に牽引された上りを見ましたが、D51の時は沿線から大観衆が見てたのと異なり、ほぼ皆無。私もカメラも持たず、ひっそりと見送りました。それが最後。年が明けて、すぐに昭和が終わりました。本当にバブルの夢だったと思います。
運行から1年後の1989年に中国の天安門事件とドイツのベルリンの壁崩壊、91年にソ連崩壊、日本でもバブル崩壊と各地でいろいろあったこと考えると、1988年に運行できたのは奇跡としか言いようがない
ちょうど高校生の頃でした。CMには松田聖子さんの曲が起用された。それにしても日本にオリエント急行を日本に走らせるなんて、バブル時代そのもの。フジテレビも元気だった…
東ドイツ内でSL「01」形が牽引だったとは、Nゲージのアーノルド製しか再現出来ない、これまた貴重な編成。
1988年10月、品川駅にて一般公開時に見に行きました。車内見学は事前応募の抽選制で、複数枚出した往復はがきから1枚だけ当たりました。車内の撮影はNGでしたが、一瞬だけであるものの、車内に入れたのは嬉しかったです。当時日本国内を走った車両のうち1両だけ、箱根にある「箱根ラリック美術館」に保存されています。こちらも見に行ったことがあります。
この時来日した編成の中のプルマン車1両が、現在箱根の「ラリック美術館」に車両1両そのまま展示されていて、予約をすると車内でティータイムを楽しめます。
ただ「東シナ」の表記はヨーロッパでの定期検査を後で通しているから、残念ながらもう無いっぽい
これが来なかったらカシオペアもトワイライトエクスプレスもない世界線だったかもしれないちなみに、やってきた客車は一時的に品川(高輪ゲートウェイのとこ)所属になってて、当初はシール対応だったのを記念に残すためペイントに変えたとのこと
JRが長距離豪華内装の車両にリキ入れ出したキッカケですからね。夢空間車両の登場もこれがキッカケでは。
乃木坂46の生駒里奈がAKB48に来るくらいの衝撃
この時の食堂車が引退後、箱根の美術館に引きとられて、見学・カフェ利用できますよ!
今思えばあの頃って夢のような時代だったんだな…
当時は、バブル景気でしたから実現できた企画だと思います。それでも各国の鉄道や役人など、関係された方の協力がなければできなかったでしょう。今の時代だともう、こういう企画は実現は難しいかな・・・。そして、この時のJRの匠たちの技術力の高さは今も脈々と受け繋がっていますね。
来日したオリエント急行の車両はこのあとお役御免となり行方不明になりましたが、少し前に発見されフランス国鉄が復活に向けて整備をしています。この際担当者は「いつか東京まで走らせたい」と話していたようです欧日と露の関係が改善されればまた見られるかもしれませんね
D51489は上越線の後閑駅構内に長年放置されてたんだよね。まさか復活するとは。
オリエントエクスプレス殺人事件を、フジでドラマやってたけど、箱根で撮影かな?あそこしかないし、保存車は?
常磐線で青い電気機関車に引かれて来るのを見てたよ。辺りは薄暗闇。白いランプが灯る機関車に引かれて、ゆっくりやって来るのが見えた。電気機関車がピッと汽笛を鳴らして通り過ぎて行ったけどさ。俺は電気機関車にピッとやられるのが苦手なんだ。
小学生でしたが実際に走る姿覚えてます。連日、フジテレビで何処を走るかやっていたし。まぁ、高すぎて乗るのは無理だったけど。Nゲージが2008年ころ出たときは買いましたが。
5000人おめ
私も高2当時、友人と共に大阪駅へ実際に見に行った。着くやいなや、あるホーム階段に列なる長蛇の列は、事前予約済みの内部見学者たちの集団だったというが、もちろんそんなワケではなく、ただ見る為に綺麗に見えるであろうベストポジションへ急ぐ。バブル時代でもあった当時、見学料も相当高値だったかもだが、色々あって今日しかないと決めた身に、そんな心配と後悔をしてる暇などなかった。しばし眺めながら記念撮影をして過ごすなか、たまたま窓から顔を出したフランス人食堂車スタッフと目があって互いに手を振りあった経験が懐かしい。本来なら成人して成功後、定年記念のフルムーン海外旅行へ行かなけりゃ見れない「本物」に、まさか若輩者が「国内」で見れるとは思えず、感慨無量だった。日本のブルトレと比較しても、やはり「本物」は風格と迫力が違う。海外へ出ずしてお目にかかれたのは改めて、貴重な「趣味財産」といえますね。この「オリエント急行日本行脚イベント」の熱気が、あの「北斗星」と「トワイライトエクスプレス」の誕生に繋がったともいえる。当時の日本は、明るい未来像に溢れた活気と夢があって素晴らしかった。あの日の華やかさよ、至急ただちに戻れ‼️‼️‼️
当時大学受験生でスケジュール調整が大変でした。彦根、米原、熱田、鶯谷、蕨で撮りました。
現車を見ることは叶いませんでしたが、特別番組はリアルタイムで見ました。鉄道雑誌でも特集が組まれ、よく実現できたな…と思ったのでした。世界情勢的にも日本国内の状況も絶妙なタイミングでした。JRになって新しいことをやってみようという機運もありましたし。
で乗り気となるフジテレビとJR東
今考えると信じられないですね。小学生時代はTVで観ていただけですが、社会人になってKATOの模型を買って楽しんでます。
自分もリアル世代で見ました。D51とEF58の重連は、今でも実家のアルバムに保存してあります。赤羽から大宮方面に向かう時に踏切で撮影しました。その当時は、まだ高校生でした。
思えば前代未聞の企画だったね。今ではまず無理だろうな。
神戸で見ました。いくつもの奇跡が重なって実現した夢の列車。もう二度と同じことはできないだろうな
投稿のお疲れ様でした。テレビの番組でですがリアルタイムで視る機会がありました。全体的には”世界の車窓から”風の走行シーンや出発などイベントの映像と時間を忘れるような内容でした。特に私的には台車の履き替えのシーンや年配の乗客の方が食事を受け付けなくなり、添乗員の持参した”どん兵衛”の汁で数日間を凌いだという、可哀想なような勿体無いようなエピソードが強く印象に残っています。なんせ35年も前の番組の事、アーカイブで残っていればもう一度、視てみたいですね。
交友社の鉄道ファン1989年1月号の特集記事がオリエント急行88であった。図書館から借りて、見た。
あ、ワタシ持ってます。本屋さんで見かけて即買いしました。ページを開くたびに華麗な装飾にうっとりしましたねぇ。
D51-498って現在はSLみなかみとかに使用されるJR東日本唯一のデゴイチ現役機な筈だけど、突貫工場な割に未だに使用に耐えてるのすげーな。
実は復活後、貸し出した仙台でボイラーの空焚きやってしまってボイラー全損させてしまい、ボイラー関係をワンオフでゼロから作り直す事故に遭っていて、2年近く走れない時期がありました。。。
ちなみに山之内秀一郎氏はその後,JR東から宇宙開発事業団(現在のJAXA)の理事長に就任しました。鉄道からロケットに鞍替えしましたが,広い視野が生きたと感じました。
オリエント急行の展示会に熱田駅に行ったり、オリエント急行客車の展示のための回送列車が来ると聞いて有休を取って静岡駅で撮影もしました。数分間の停車時間にオリエント急行の乗務員さんの写真を撮ったりもしました。残念ながら車内には入ることはできませんでしたが、間近で見れたのが最高の思い出になりました。
今の鉄道って 利便性>楽しむ っていうニーズが強いからこんなロマンの詰まった運行なんて夢のまた夢なんでしょう、自分は現役の電車の運転士をしていますが、こんな時代だからこそ誰も考えないようなぶっ飛んでいてロマンのある企画が出来ないかなぁって思っています。
懐かしい。当時、中1でした。東十条に住んでいたのでD51牽引も見ました。その後のツアーで東北本線をなん度も通ったので、何度か遭遇しました。また走って欲しいですね。
冷戦時代終焉時期、日本はバブル時代で様々な要因で達成できた企画だな。昭和は絶望もあったが希望も生み出していたんだな。
フジテレビはこの年上野~札幌寝台特急北斗星の完全走破の番組も放送していましたね。
16時間の旅路を8倍速送りで2時間で放送したやつか?
@@araara8500 様。2008年にフジテレビCSで再放送されましたね。登別~苫小牧の副音声、黒沢年男さんの「時には娼婦のように」が笑えました😁小幌駅通過、主音声がTOTOの「99」、副音声が岩崎宏美さんの「センチメンタル」でした。
常磐線で走っていたのは、ツアー版だったのかぁ中学生の時、たまたま見た記憶があります。あの時は、バブルでしたねぇありがとうございました
今これを実行したら撮り鉄に妨害されて1mmも動かずに終了しそう
D51-498号機の復活はこの出来事が大きく関わっていたのですね!
自分が小学1年生の時、親に連れられて観に行きました。確か、品川だったかと思います。懐かしいですね。当時の映像がYou Tubeでもあったと思いますよ。
最後のD51とEF5861牽引の姿を大宮駅まで見に行きました。ロイヤルエンジンがオリエント急行を牽く、その前にはデゴイチ。まさに夢の列車だったと思います。
西日暮里駅ホームからビデオ撮影しました。小田原付近でも撮影しました。
客車1両の模型を持ってます。こんなにすごい列車だったとは…
国産鉄道コレクションで牽引機持ってます
これにお友達の車掌さんが乗務してました。
フジテレビジョン開局30周年記念とJR東日本発足1周年記念事業で、フランスパリ発ベルリン、モスクワ、シベリア鉄道ハバロフスク、北京、上海、香港経由東京行オリエント急行が運行された。旅行費用なんと200万円だったとか。
ほんといい時代だな
線路移設までしていたとは驚きましたパリ東京間の通しの乗客っていたんですかね〜
品川駅での公開に行きました。日立のハイビジョンアピールカーが20系客車でそちらにもテンションが上がりました。因みにこちらの企画JR東日本サイドで叔父が関わっていました。
いや~懐かしのを見てしまった、当時国鉄の列車追っかけやってた時、ORIENT EXPRESS '88は、当時数人でこの列車の走行を各地で撮影、各駅で撮影したものです、停車駅で各車両撮影しました、今も当時のフイルムカメラもフイルム時代で(色彩を残すために)スライドで数十本撮影して残っています、列車の雑誌社写真を貸し出したこともありまだまだきれいな色彩で、フイルム防湿庫に残しています。
この時代に生まれたかった
「9泊10日で1人88,000円」“TRAIN SUITE 四季島”の3泊4日が800,000~、“TWILIGHT EXPRESS 瑞風”の2泊3日が610,000~であることを考えると、コストパフォーマンスは良い。
むしろめちゃくちゃ安く感じた1人200万いくのかと思ってた
七つ星九州は、3泊4日で100万円越えの殿様列車。
金額間違ってね?
888000円8一個忘れてるよw
TR47台車 ありがとう!お前がいなければ!影の功労者じゃなく功労車かな、オヤ32仮設で延長した矢羽で測定してましたね。オリエント急行を品川に現車見に行ったころが懐かしい。
懐かしいですね当時は中学生でしたツアーの上り(帰路)に高崎線を良く使用していたのでよく撮影しました上り最終運行日のゴハチや片言の英語でダニエルさんの写真を撮ったり…いい思い出です
D51 498号機とEF58 61号機との重連運転がすごく印象に残ってますね。TVでも当時見ました。ただ、EF65が牽引してたのは知らなかったです。
今でも現役のD58 498と、鉄道博物館に収蔵のEF58 61(ロイヤルエンジン)のペアは、上野→大宮だけでしたね。
1970年代に、ヨーロッパで廃止された直後のオリエント急行の寝台車(ワゴン・リーのもの)を滋賀県琵琶湖畔の「ホテル紅葉」が買取、敷地内でホテルとして活用したが、ホテルが畳まれると、車両が行方不明になり、ある動画で奈良山中に放置されていると投稿があった。実車を管理するのは安易では無く、鉄道模型と同じ感覚ではダメという事。
今から30数年前の話ですね😄当時高校2年の修学旅行の帰路途中静岡駅で見ました…
逆に大陸の線路が全て繋がってるっていうのがロマンに溢れてるもしも日本と大陸を繋ぐ線路ができたら普通にイギリス行きの特急とか運行されて欲しいなぁ
すごい話でした。自分が高校生ぐらいの時期の話なのか・・・
懐かしいな。淀川の橋梁まで写真を撮りに行ったわ。
当時高校生だったが、初めて新幹線で追っかけた列車、岡山の万富鉄橋で撮影して、広島まで新幹線でワープ、山口県の大畠大橋で2回目の撮影をした思い出がある(^^;)
まさにバブルだ。
当時高校2年生から3年になる時で世の中がバブル景気で金さえあれば何でもありみたいな時代だった。当時は鉄道ダイヤ情報にも運行時間と行き先が掲載されていたけど沿線は撮り鉄はほとんど皆無でした。最後はD51の復活運用でテンダーにオリエントエキスプレスのエンブレムがデザインされました。次機はお召し機で大宮駅は大パニックになりました。これがきっかけで未だに撮り鉄を続けて居る事も現実ですね~‼️😁笑
D51の時は上野~大宮間はファンと老若男女に埋めつくされた。。線路が見える所は全て人だかり。今の騒ぎどころではない。各駅のホーム端はロープで規制線が敷かれていたがおとなしくカメラを構えていた。
バブル期にできたこその大企画だったね✨。当時、テレビ番組でしか見れなかった。実際に見て📸撮りに行けばよかったと後悔したものでした。日本側の台車は旧客が履いてたTR47だったと思います。違ってたらすみません🙇です。
その通り(exactry!)、バネを新品に交換したTR47です。そのお陰で、日本国内での最高速度が95km/hになりましたけどね。あとデッキ下の足に掛かる部分が、日本でのホームに障害がある事で、日本上陸前に、TX(つくばエクスプレス)車両製造の実績がある『日立製作所笠戸工場(現在は『笠戸事業所』)』で、泣く泣く撤去せざるを得なくなりました😢。
広島駅でしゅぱつ式がありました。7番線EF651000番台2台で上り線でした。
世界中の鉄道小僧たちが熱くなったな?
ホントに走ったからなぁ。D51も牽いたし。現に、見に行った。鉄道業のお祭りだった。
クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エキスプレス」という曲が浮かんで来る。
停車駅の行き先案内は特別に“東京”とでも出されていたのだろうか。
当時のフジテレビの影響力恐るべし。
JR東も全面協力
あのソ連がよく協力してくれるなんてゴルバチョフさんなかなかやりますな。
外貨を落としてくれるならとシベリア鉄道利用は歓迎されていたんだ
ヨーロッパでテストした乗用車をコンテナ便でナホトカまで航送するなんて事もあった。
閉鎖的だったのは改革解放以前の中国鉄路。
ペレストロイカとかの時期だったからね
後のエリツィンやプーチンよりもゴルビーの方が柔軟思考でしたね。でもこういう人は外国では良い指導者でも、本国では弱腰、売国として嫌われてしまうのでしょうね…。まあいつの時代も洋の東西を問わず、偉い人たちが考える国益と庶民が考える国益は違うという事でしょうか。
大陸側ハバロフスク止まりで船積みしたらもう少し実現が早かったかな
@@Tsurusampachi 平壌・ソウル経由は流石に無理だったか...
日本テレビがエベレストから生中継したり、TBSが宇宙に特派員打ち上げたり…。
バブル期の民放、元気良すぎ。
これを生で見れたのは一生の宝物。貴重な体験でした。
特にロイヤルエンジン牽引はしびれました。
最期のゴハチとD51の重連は迫力有り見事❗
贅沢を言えば横軽を3重連で走って欲しかったですね🌠
運行を終えて帰る前、最後にJR品川駅の臨時列車ホームで(←当時は「東京機関区(表記は「東」)。以下、同じ」と「品川客車区(東シナ)」が存在しました)、日本に上陸したNIOE(←ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの略。なお、管理所属は上記の「東シナ」)の一部車両の一般公開がありましたね。春休みの日でしたので(でも、土日のいずれか1日限定でしたけど)、そこへの見学を体験しましたよ(^o^)。結構、大人数の鉄道ファンが来られましたよwww。
しかも、車内撮影はOKとの事で、柔軟な大らかさが感じ取れました😂
@@松本政行-x2f現代では撮り鉄などのマナー向上しない限りそのようなことは出来ないでしょうね、、、😢
@@松本政行-x2f 箱根ラリック美術館に保存されてるオリエント急行の車両には「東シナ」の表記が残ってますよ!!
@@塚越-y8n オリエント・エクスプレスは横軽対策非対応で車重が重く、残念ながらムリ💦🔵🚃
この熱意を今のテレビでも持ってほしい
フジ「銭無いねん。」
昔フジテレビの中の人から話を聞いたけど、フジテレビの「俺たち」がたくさんいたからこんなことできた…と言っていたな。
やばい鉄道マニアがおそらく居ないだろう今、なかなか難しいだろうなあ…。
このオリエント急行日本入線時の日本一周走行ルートの軌道測定と支障箇所の修正工事は、結果として開業以来継ぎ接ぎ補修を繰り返すだけだった日本の幹線鉄道の設備近代化に非常に大きく貢献することになり、その効果はいまもなお享受されているので、実は単なるお祭り騒ぎとはバカにできない、日本の鉄道史上でも非常に大きな出来事だったんです。
俺は、実際に品川駅で最終展示会に見に行ったよ😃。その当時は、中学3年生だったからね😃。そして、鉄道模型メーカーのKATO`から、その名のズバリ、『オリエントエクスプレス88inジャパン』で製品化することがわかった時には、どんなにものすごく喜んだり、びっくりしたことを今でも良く覚えているよ😃♥‼️。
十数年前ミュンヘン中央駅でたまたまこの時の車両に出会いました。当時は日本にやってきたとは知らず、遠いドイツの地で田町区の表記を見たときにはもうびっくりしてしまいました。
実は、国鉄とフジは、最初はベニス社のオリエントエクスプレスを走らせようと交渉していたのだが、社長が交渉中に交代して、費用面で交渉が難航。
そこで、ワゴン・リ社の元祖オリエントエクスプレスに交渉を切り替えた所、そこの社長さんは鉄ちゃんで、とても乗り気になってくれて難なく交渉も進んだという後日談もあったり。
これこそ「元気があればなんでも出来る!!」だな
鉄道の事あんまり知らないけど、そんなことよりもパリから香港までレールが繋がってることが驚き
鉄道を通して各国の偉いさんやその鉄道に関わる方々と協力して一つのプロジェクトを作り上げる
平和の祭典とは名ばかりに汚職贈賄の話しか出てこないオリンピックよりよっぽど素敵だと思う
また計画してほしいな
小学生の時に帰り道に地元の駅を通るとテレビでやっていたオリ急が止まっていて見に行った。懐かしい。
戦前の東京発パリ行きの切符みたいなわくわく感
国内と国際情勢を見ると奇跡的なタイミングだったのが分かります。催行が早くても駄目(ソ連通過の困難と国鉄分割民営化)、遅くても駄目(東欧革命、ソ連解体、天安門事件、バブル崩壊)
そうそう!オリエント急行、歴史に残る激動の時代のさなかで奇跡的に走れましたね。昭和天皇崩御やソビエト崩壊ハイパーインフレもかわしました。
東欧革命の引き金引いたと思いますよ。オリエント急行。原爆落とされた国がものすごい大金持ちになって走らせたのだから。すざまじい東西格差。
88年当時私は11歳でした。
当時実家の窓から毎日 あけぼの 日本海1号 日本海2号 その他列車が通ってました。
オリエント急行は午後11時頃下り→函館?青森方面走行して行っての記憶してます。
家の前をゆっくり60キロ位で去った感じです。
当時は親が、通る予定分かってた様で、その日は夜更かししてオリエント急行が通るか起きて待ってました。
見た感じは日本の寝台車よりデカイ感じに、窓が大きく、ヨーロッパの貴賓、雰囲気オーラがあり、圧巻しました。
恐らくオリエント急行の原型、後者がトワイライトエクスプレスが誕生したかと、私は思います。
888000円が高いとのことですが、現代の豪華列車に乗るよりは
多分価値はあると思います。乗りたかったなぁ。
見るだけで精一杯でした(笑)
この列車を題材にした西村京太郎トラベルミステリー、オリエント急行の殺人事件って作品を思い出す方もいるかもしれないなぁ~!
そのうち1両が箱根に、保存してあります!🎉
英国側のオリエント急行連絡列車(プルマンカー)は日本の車体幅&長はイケそうだったけどヨーロッパ大陸側のワゴン・リの車体がでかすぎたから、線路微調整大変だったろうな😨
台車は旧型客車の台車ベースのものに履き替え😮VSOEみたいに近代改造しないオリジナルそのままバージョンのノスタルジックオリエント急行が日本が来るとは😮
テレビでしかこれみられませんでしたが、先んじて復活運転させたベニスシンプロンオリエント急行しか『オリエント急行』を名乗れなくて『ノスタルジックオリエント急行』運営会社は解体、車体も売却されたとか😢
オリエント急行が日本上陸した場所が山口県下松市の日立製作所笠戸製作所。
日本側のスポンサーが日立製作所であった。
@大坂孝幸 あ、同じ「笠戸」でも、今は『事業所』ですので(wikipediaで調べましたら、私は「工場」と勘違いしてました。かつて、TX(つくばエクスプレス)の車両製造で「工場」と、当時の鉄道雑誌にはしっかりと紹介がありましたので、そこはご勘弁下さいm(_ _)m)。
サムネの画像、何時から日本の鉄道(JR含む)は右側通行になったんですかね?
そしてこの列車の片割れが箱根に…
当時、中1でした。
フジテレビを見てたら車内の撮影会の募集をしており、往復ハガキ(時代だな)を出したら見事当選!
東京駅まで撮影しに行きましたよ。
名物車掌の背の高いダニエルさんもいらっしゃいました。
車内は通路のみが通れてロープが張ってあって座席や寝台には座れませんでしたが良い思い出です。
それにしてもスポンサーの日立はいくら出したんだろ?
さすがバブル絶頂期は勢いが違う。
オリンピックや万博よりも格段に少ない費用でこれ以上ない位世界各国を結び付けて人々に希望を与える。
これをどうか再び実現させたい。
その為にはロシアに侵略をやめさせることがまず第一!
当時14歳でした。大阪駅で展示されていたのをみたし、中に乗れました。
当時、フジテレビが土居まさるさん司会で特番を組んでいたなぁー。
瀬戸大橋を渡って地元を通過した時は本当に感動した。
その番組、つべに転がってるぞ?
ロマンですね。情熱とあとは好景気に支えられた、奇跡的なプロジェクトの実現に胸が熱くなります。
当時熊本駅でイベントに行きました。ED76が牽引していました。外側からしか見れませんでしたがオリエント急行への思いが大きくなりました。東西冷戦末期だからこその奇跡でしょうね。いつか現地の定期運行の列車にのりたいですね。
博多駅で見ました、オーラがばんばん来てた。ダニエル車掌のサービス精神もすごかった。
背の高いダニエル車掌は、忘れてはならない存在でしたね!何しろ、サービス精神全開でしたからね(^o^)。
今でもダニエルさんとのツーショット写真は宝物です
五稜郭駅でみたなぁ
伝説やな。
今のクルーズトレインと比べると安く感じるのは自分だけ?
今の時世では何かと言われる合理性だの収益性だのは二の次に、溢れるロマンと多くの人の情熱、そこにお金を動かす力が加わって、今も語り継がれる夢の企画が、見事な完成度で実現した。
いつの日かまた、そんな瞬間が来ることを、待ち望んでみたくなりました。
京都駅で見ました。が、車内見学は抽選で選ばれた人しか入れなかったので奈良線のホームから写真を撮ってた記憶が。
帰りの東海道上り電車からオリエント急行を見ていたら控車マニ50脇のホーム上で車掌長のダニエルさんがラフな格好で他のスタッフ数名とお弁当を食べておられたのをみつけたのもいい思い出です。
それこそ貴重な光景では
懐かしいですね。品川駅で初お披露目の際、ホームから見たのが最初。日本の車両には無い豪華さに驚きました。同じ年に運行を開始した北斗星の出発式にもいたのですが、それとは異なる驚きでした。当時赤羽に住んでたこともあり、オリエント急行はよく高校からの帰宅時に通過する姿を見ました。まだ赤羽駅が地上にあった時代、ホームから多くの人が見てたのを思い出します。日本に来る前に花魁列車で測定をする映像がRUclipsにありましたが、その際、赤羽駅7番ホームが引っ掛かりかなり削られたのですが、そのホームの削れ具合も実際に見ました。スマホがあったら撮影してたと思います。上野駅にも出発風景を2回ほど見に行きました。地下ホームが客車から出る煙とその独特の匂いが充満し、風情のある光景でした。背の高い車掌さんなどスタッフさん達からフジテレビが発行した書籍にサインしてもらったり。インスタントカメラで撮影してましたが、フィルムを何本使ったことか。スマホなら1000枚くらい撮影してしまってたでしょう。D51も友人たちと埼京線との合流地点あたりで何時間も前から待ってました。初めて見たSLがこのオリエントの運行でした。結果はピンボケでしたが、しっかり記憶に残ってます。翌日か翌々日か、バイトに行く際に、FE58に牽引された上りを見ましたが、D51の時は沿線から大観衆が見てたのと異なり、ほぼ皆無。私もカメラも持たず、ひっそりと見送りました。それが最後。年が明けて、すぐに昭和が終わりました。本当にバブルの夢だったと思います。
運行から1年後の1989年に中国の天安門事件とドイツのベルリンの壁崩壊、91年にソ連崩壊、日本でもバブル崩壊と各地でいろいろあったこと考えると、1988年に運行できたのは奇跡としか言いようがない
ちょうど高校生の頃でした。CMには松田聖子さんの曲が起用された。それにしても日本にオリエント急行を日本に走らせるなんて、バブル時代そのもの。フジテレビも元気だった…
東ドイツ内でSL「01」形が牽引だったとは、Nゲージのアーノルド製しか再現出来ない、これまた貴重な編成。
1988年10月、品川駅にて一般公開時に見に行きました。
車内見学は事前応募の抽選制で、複数枚出した往復はがきから1枚だけ当たりました。
車内の撮影はNGでしたが、一瞬だけであるものの、車内に入れたのは嬉しかったです。
当時日本国内を走った車両のうち1両だけ、箱根にある「箱根ラリック美術館」に保存されています。
こちらも見に行ったことがあります。
この時来日した編成の中のプルマン車1両が、現在箱根の「ラリック美術館」に車両1両そのまま展示されていて、予約をすると車内でティータイムを楽しめます。
ただ「東シナ」の表記はヨーロッパでの定期検査を後で通しているから、残念ながらもう無いっぽい
これが来なかったらカシオペアもトワイライトエクスプレスもない世界線だったかもしれない
ちなみに、やってきた客車は一時的に品川(高輪ゲートウェイのとこ)所属になってて、当初はシール対応だったのを記念に残すためペイントに変えたとのこと
JRが長距離豪華内装の車両にリキ入れ出したキッカケですからね。夢空間車両の登場もこれがキッカケでは。
乃木坂46の生駒里奈がAKB48に来るくらいの衝撃
この時の食堂車が引退後、箱根の美術館に引きとられて、見学・カフェ利用できますよ!
今思えばあの頃って夢のような時代だったんだな…
当時は、バブル景気でしたから実現できた企画だと思います。
それでも各国の鉄道や役人など、関係された方の協力がなければできなかったでしょう。
今の時代だともう、こういう企画は実現は難しいかな・・・。
そして、この時のJRの匠たちの技術力の高さは今も脈々と受け繋がっていますね。
来日したオリエント急行の車両はこのあとお役御免となり行方不明になりました
が、少し前に発見されフランス国鉄が復活に向けて整備をしています。この際担当者は「いつか東京まで走らせたい」と話していたようです
欧日と露の関係が改善されればまた見られるかもしれませんね
D51489は上越線の後閑駅構内に長年放置されてたんだよね。
まさか復活するとは。
オリエントエクスプレス殺人事件を、フジでドラマやってたけど、箱根で撮影かな?あそこしかないし、保存車は?
常磐線で青い電気機関車に引かれて来るのを見てたよ。辺りは薄暗闇。白いランプが灯る機関車に引かれて、ゆっくりやって来るのが見えた。
電気機関車がピッと汽笛を鳴らして通り過ぎて行ったけどさ。俺は電気機関車にピッとやられるのが苦手なんだ。
小学生でしたが実際に走る姿覚えてます。連日、フジテレビで何処を走るかやっていたし。まぁ、高すぎて乗るのは無理だったけど。Nゲージが2008年ころ出たときは買いましたが。
5000人おめ
私も高2当時、友人と共に大阪駅へ実際に見に行った。着くやいなや、あるホーム階段に列なる長蛇の列は、事前予約済みの内部見学者たちの集団だったというが、もちろんそんなワケではなく、ただ見る為に綺麗に見えるであろうベストポジションへ急ぐ。バブル時代でもあった当時、見学料も相当高値だったかもだが、色々あって今日しかないと決めた身に、そんな心配と後悔をしてる暇などなかった。
しばし眺めながら記念撮影をして過ごすなか、たまたま窓から顔を出したフランス人食堂車スタッフと目があって互いに手を振りあった経験が懐かしい。本来なら成人して成功後、定年記念のフルムーン海外旅行へ行かなけりゃ見れない「本物」に、まさか若輩者が「国内」で見れるとは思えず、感慨無量だった。日本のブルトレと比較しても、やはり「本物」は風格と迫力が違う。海外へ出ずしてお目にかかれたのは改めて、貴重な「趣味財産」といえますね。
この「オリエント急行日本行脚イベント」の熱気が、あの「北斗星」と「トワイライトエクスプレス」の誕生に繋がったともいえる。当時の日本は、明るい未来像に溢れた活気と夢があって素晴らしかった。あの日の華やかさよ、至急ただちに戻れ‼️‼️‼️
当時大学受験生でスケジュール調整が大変でした。彦根、米原、熱田、鶯谷、蕨で撮りました。
現車を見ることは叶いませんでしたが、特別番組はリアルタイムで見ました。鉄道雑誌でも特集が組まれ、よく実現できたな…と思ったのでした。世界情勢的にも日本国内の状況も絶妙なタイミングでした。JRになって新しいことをやってみようという機運もありましたし。
で乗り気となるフジテレビと
JR東
今考えると信じられないですね。小学生時代はTVで観ていただけですが、社会人になってKATOの模型を買って楽しんでます。
自分もリアル世代で見ました。D51とEF58の重連は、今でも実家のアルバムに保存してあります。赤羽から大宮方面に向かう時に踏切で撮影しました。その当時は、まだ高校生でした。
思えば前代未聞の企画だったね。
今ではまず無理だろうな。
神戸で見ました。
いくつもの奇跡が重なって実現した夢の列車。
もう二度と同じことはできないだろうな
投稿のお疲れ様でした。テレビの番組でですがリアルタイムで視る機会がありました。全体的には”世界の車窓から”風の走行シーンや出発などイベントの映像と時間を忘れるような内容でした。特に私的には台車の履き替えのシーンや年配の乗客の方が食事を受け付けなくなり、添乗員の持参した”どん兵衛”の汁で数日間を凌いだという、可哀想なような勿体無いようなエピソードが強く印象に残っています。なんせ35年も前の番組の事、アーカイブで残っていればもう一度、視てみたいですね。
交友社の鉄道ファン1989年1月号の特集記事がオリエント急行88であった。
図書館から借りて、見た。
あ、ワタシ持ってます。
本屋さんで見かけて即買いしました。
ページを開くたびに華麗な装飾にうっとりしましたねぇ。
D51-498って現在はSLみなかみとかに使用されるJR東日本唯一のデゴイチ現役機な筈だけど、突貫工場な割に未だに使用に耐えてるのすげーな。
実は復活後、貸し出した仙台でボイラーの空焚きやってしまってボイラー全損させてしまい、ボイラー関係をワンオフでゼロから作り直す事故に遭っていて、2年近く走れない時期がありました。。。
ちなみに山之内秀一郎氏はその後,JR東から宇宙開発事業団(現在のJAXA)の理事長に就任しました。鉄道からロケットに鞍替えしましたが,広い視野が生きたと感じました。
オリエント急行の展示会に熱田駅に行ったり、オリエント急行客車の展示のための回送列車が来ると聞いて有休を取って静岡駅で撮影もしました。数分間の停車時間にオリエント急行の乗務員さんの写真を撮ったりもしました。残念ながら車内には入ることはできませんでしたが、間近で見れたのが最高の思い出になりました。
今の鉄道って 利便性>楽しむ っていうニーズが強いからこんなロマンの詰まった運行なんて夢のまた夢なんでしょう、自分は現役の電車の運転士をしていますが、こんな時代だからこそ誰も考えないようなぶっ飛んでいてロマンのある企画が出来ないかなぁって思っています。
懐かしい。当時、中1でした。東十条に住んでいたのでD51牽引も見ました。その後のツアーで東北本線をなん度も通ったので、何度か遭遇しました。また走って欲しいですね。
冷戦時代終焉時期、日本はバブル時代で様々な要因で達成できた企画だな。
昭和は絶望もあったが希望も生み出していたんだな。
フジテレビはこの年上野~札幌寝台特急北斗星の完全走破の番組も放送していましたね。
16時間の旅路を8倍速送りで2時間で放送したやつか?
@@araara8500 様。
2008年にフジテレビCSで再放送されましたね。
登別~苫小牧の副音声、黒沢年男さんの「時には娼婦のように」が笑えました😁
小幌駅通過、主音声がTOTOの「99」、副音声が岩崎宏美さんの「センチメンタル」でした。
常磐線で走っていたのは、ツアー版だったのかぁ
中学生の時、たまたま見た記憶があります。
あの時は、バブルでしたねぇ
ありがとうございました
今これを実行したら撮り鉄に妨害されて1mmも動かずに終了しそう
D51-498号機の復活はこの出来事が大きく関わっていたのですね!
自分が小学1年生の時、親に連れられて観に行きました。
確か、品川だったかと思います。
懐かしいですね。
当時の映像がYou Tubeでもあったと思いますよ。
最後のD51とEF5861牽引の姿を大宮駅まで見に行きました。ロイヤルエンジンがオリエント急行を牽く、その前にはデゴイチ。まさに夢の列車だったと思います。
西日暮里駅ホームからビデオ撮影しました。
小田原付近でも撮影しました。
客車1両の模型を持ってます。こんなにすごい列車だったとは…
国産鉄道コレクションで牽引機持ってます
これにお友達の車掌さんが乗務してました。
フジテレビジョン開局30周年記念とJR東日本発足1周年記念事業で、フランスパリ発ベルリン、モスクワ、シベリア鉄道ハバロフスク、北京、上海、香港経由東京行オリエント急行が運行された。
旅行費用なんと200万円だったとか。
ほんといい時代だな
線路移設までしていたとは驚きました
パリ東京間の通しの乗客っていたんですかね〜
品川駅での公開に行きました。日立のハイビジョンアピールカーが20系客車でそちらにもテンションが上がりました。因みにこちらの企画JR東日本サイドで叔父が関わっていました。
いや~懐かしのを見てしまった、当時国鉄の列車追っかけやってた時、ORIENT EXPRESS '88は、当時数人でこの列車の走行を各地で撮影、各駅で撮影したものです、停車駅で各車両撮影しました、今も当時のフイルムカメラもフイルム時代で(色彩を残すために)スライドで数十本撮影して残っています、列車の雑誌社写真を貸し出したこともありまだまだきれいな色彩で、フイルム防湿庫に残しています。
この時代に生まれたかった
「9泊10日で1人88,000円」
“TRAIN SUITE 四季島”の3泊4日が800,000~、“TWILIGHT EXPRESS 瑞風”の2泊3日が610,000~であることを考えると、コストパフォーマンスは良い。
むしろめちゃくちゃ安く感じた
1人200万いくのかと思ってた
七つ星九州は、3泊4日で100万円越えの殿様列車。
金額間違ってね?
888000円
8一個忘れてるよw
TR47台車 ありがとう!
お前がいなければ!
影の功労者じゃなく功労車かな、オヤ32
仮設で延長した矢羽で測定してましたね。
オリエント急行を品川に現車見に行ったころが懐かしい。
懐かしいですね
当時は中学生でした
ツアーの上り(帰路)に高崎線を良く使用していたのでよく撮影しました
上り最終運行日のゴハチや片言の英語でダニエルさんの写真を撮ったり…
いい思い出です
D51 498号機とEF58 61号機との重連運転がすごく印象に残ってますね。TVでも当時見ました。ただ、EF65が牽引してたのは知らなかったです。
今でも現役のD58 498と、鉄道博物館に収蔵のEF58 61(ロイヤルエンジン)のペアは、上野→大宮だけでしたね。
1970年代に、ヨーロッパで廃止された直後のオリエント急行の寝台車(ワゴン・リーのもの)を滋賀県琵琶湖畔の「ホテル紅葉」が買取、敷地内でホテルとして活用したが、ホテルが畳まれると、車両が行方不明になり、ある動画で奈良山中に放置されていると投稿があった。実車を管理するのは安易では無く、鉄道模型と同じ感覚ではダメという事。
今から30数年前の話ですね😄
当時高校2年の修学旅行の帰路途中
静岡駅で見ました…
逆に大陸の線路が全て繋がってるっていうのがロマンに溢れてる
もしも日本と大陸を繋ぐ線路ができたら普通にイギリス行きの特急とか運行されて欲しいなぁ
すごい話でした。自分が高校生ぐらいの時期の話なのか・・・
懐かしいな。
淀川の橋梁まで写真を撮りに行ったわ。
当時高校生だったが、初めて新幹線で追っかけた列車、岡山の万富鉄橋で撮影して、広島まで新幹線でワープ、山口県の大畠大橋で2回目の撮影をした思い出がある(^^;)
まさにバブルだ。
当時高校2年生から3年になる時で世の中がバブル景気で金さえあれば何でもありみたいな時代だった。当時は鉄道ダイヤ情報にも運行時間と行き先が掲載されていたけど沿線は撮り鉄はほとんど皆無でした。最後はD51の復活運用でテンダーにオリエントエキスプレスのエンブレムがデザインされました。次機はお召し機で大宮駅は大パニックになりました。これがきっかけで未だに撮り鉄を続けて居る事も現実ですね~‼️😁笑
D51の時は上野~大宮間はファンと老若男女に埋めつくされた。。線路が見える所は全て人だかり。今の騒ぎどころではない。各駅のホーム端はロープで規制線が敷かれていたがおとなしくカメラを構えていた。
バブル期にできたこその大企画だったね✨。当時、テレビ番組でしか見れなかった。実際に見て📸撮りに行けばよかったと後悔したものでした。日本側の台車は旧客が履いてたTR47だったと思います。違ってたらすみません🙇です。
その通り(exactry!)、バネを新品に交換したTR47です。そのお陰で、日本国内での最高速度が95km/hになりましたけどね。
あとデッキ下の足に掛かる部分が、日本でのホームに障害がある事で、日本上陸前に、TX(つくばエクスプレス)車両製造の実績がある『日立製作所笠戸工場(現在は『笠戸事業所』)』で、泣く泣く撤去せざるを得なくなりました😢。
広島駅でしゅぱつ式がありました。7番線EF651000番台2台で上り線でした。
世界中の鉄道小僧たちが熱くなったな?
ホントに走ったからなぁ。D51も牽いたし。現に、見に行った。鉄道業のお祭りだった。
クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エキスプレス」という曲が浮かんで来る。
停車駅の行き先案内は特別に“東京”とでも出されていたのだろうか。