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無常を感覚ではなく論理で解くのが仏教の素晴らしさだと思います。分からないけど分かるという矛盾はありません。気づきに向かって考え続ける事が重要です。その一つの手段が瞑想で有ると考えております。
大愚和尚様 私の質問に回答いただきましてありがとうございます。理解することができました。
良いご質問をしてくださり、ありがとうございます。悟りには段階があることがわかって良かったです。前の段階に後戻りしなくなった時に、その段階をクリアしていることがわかるのですね。人生色々な出来事がありますが、焦らず修行していこうと思えました。感情をコントロールし、俯瞰して物事がみれるようになるのは、至難の業ですが、その方向に努めていきます。合掌
悟りについて気を付けないといけないのは、ほとんどの人が忘れていたり興味ない中で、私は知っているとか私は中道を行っているという、自惚れにも気を付けないとお釈迦様の息子さんみたいに苦労しちゃうってこと、案外謙虚低姿勢で印象に残りにくい人ほど悟っているのかも?
仰る通りわかる人にはわかると思います。一は全、全は一もわかる人にはわかるでしょう。道に迷った時は目的以外の欲を全て手放しシンプルに目的地への導きを念じます。さすれば無意識の領域から導き出されます。それは自分以外の無意識内にも関わる導きですから自分以外は気づきません。多くは必要なことは必要なタイミングでやって来るので迷うことはありません。欲が他方向に分散されるから迷うのでしょうね。あくまで自分のことですが。全ては循環してますからね。
素晴らしいお話し、ありがとうございます。
大愚和尚様、いつもありがとうございます。私はまだまだ全然ですが、お蔭様で、昨日ある動画のコメント欄で他人に向かって「脚下照顧して~してほしい」と書かかれているのを見て、「脚下照顧して~した方が良いのは、この人の方だな…」と思いました。脚下照顧という言葉を思い出させてくれてありがとう、私こそ脚下照顧します、と思いました。ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
こんにちは。失礼を承知で申し上げますが、他人に向かって「脚下照顧して~してほしい」と書かれた方の主張も「脚下照顧して~した方が良いのは、この人の方だな…」というSawadaさんの主張も客観的な視点からすれば、同じことを言っているようにしか見えません。即ち、前者のコメントも、Sawadaさんのコメントも、「迷っている者には何が正しいがわからない」という例に他ならない、のではないでしょうか。
@@スラあめ さま、確かに失礼です。文脈の全く書かれていないコメントの一部分を切り取り、決めつけ、失礼を承知でご返信なさったのですから。せっかくですから、ご参考にさせていただきますけれども、そのようなご返信の仕方は大愚和尚様の動画のコメント欄にふさわしくなく、お釈迦様の教えにも適わないものと存じます。お互いに一層精進してまいりましょう。
高校の時、数学の先生ですごく分かりやすい授業をしてくれた先生がいました。1学年上がって、次に担当になった先生の授業は全く理解できませんでした。私的には前者の先生は、努力して勉強したから分かりやすく教えてくれた。後者の先生は元々頭のいい先生だったから、生徒に分かりやすく教えられなかった、と勝手に理解してます。
月を指す指は月ではないと賢者は言います。しかし凡夫には指の先にある月(悟り)は雲(煩悩)に隠れていて見ることが出来ないため。賢者の指に執着してしまいます。
🙏🙏🙏
悟った方は、その後の人生の指針に影響が出て、他の方への自利利他的奉仕活動や職業をされているのでしょうか?
このような小さな質問をいくつも持っていながら、スルーし忘れてしまっております。ご質問もご回答も、ありがとうございます。
珍しい人でも難しい事でもないと感じております。全ての人はすでに幼児期に体験体感していると思います。ニュートラルに一つずつ戻して行く事ではないでしょうか?
悟りって宇宙生命と私たち個の生命が一体不二の関係だと体感として確信することじゃないですか?理論、理屈じゃなく
その一体不二を体感として確信したところで、その後も煩悩は湧いてきますし、感情に振り回されたりもするので、「常に体感」する(前のステージに戻らない)ために皆さん修行をしてらっしゃるのだと思いますよ。
仏教とは、今から約2500年前にお釈迦様。悟りを開いて仏陀となられた存在が、説かれた教えを仏教と呼んでいると理解しています。当時の第一段階の修行者が目指す悟りは、阿羅漢果の境地でした。はじめに求道心があるかどうか。これがあると認められれば、釈迦教団に入門を許されました。反省して、かすかなりとも後光の出ている段階。真面目に修行していれば、阿羅漢向には、誰でもなれると言われていました。釈迦教団のはじめの第一段階の目指す悟り。それは、悟りとしては初歩的ですが、霊的自己をまず悟ることでした。初歩的な第一段階の涅槃の境地に達することを目標としていました。涅槃の境地とは、あの世に存在した意識エネルギーとこの世で同じ悟りに至ること。あの世、天上界にいたときと同じ境地をこの地上、この世で味わうこと。天国で、この世的な執着のある人は基本的にいません。したがって、お釈迦様の教えも、始めは執着を去る修行、反省修行がスタートでした。諸行無常。諸法無我。涅槃寂静の涅槃の境地ですね。これを求めて、修行が始まったわけです。お釈迦様の時代、悟りとは、第一段階としては、涅槃の境地をさしていました。霊的自己を悟る。そうしてはじめて、自分自身を第三者の視点で見つめる反省がスタートするからです。仏教は、すなわち、人生の意味は魂修行であるということです。この難しい環境、肉体に魂が宿りながら、霊的自己を悟ること。もといた天国、天上界にいたときの心境で、この世、この地上の世界を生き抜いていけるのか?魂が試される環境に、難しい環境に出てきている。そうして、この世的な、肉体に宿ることによる苦難困難、誘惑を超えて、天国にいたときの愛の心を忘れないで生きれるか?これを試されていると理解しています🙏
悟りとはそもそも何で有るか判らないが、ただ一つ私にも判ることがある。それは「留まる事無く流れ、誰もこの流れから逃れる事は出来ない」お金を追い求め巨万の富を築いても、幾万の美女と交じりても、あの世に銭一枚、美女の髪一本持って逝く事は出来ない。そしてこの世に残した巨万の富や、幾万の美女もやがては風に吹かれる塵の山と同じで瞬く間に掻き消える。これは私にも判る。
その通りですね。頭では理解していましたが私も最近になって心から理解できるようになりました。美女もやがては老婆になる。有名な富豪が美女と結婚したが、遺産目的で美女に◯されるという事件を聞き、私が思っていた幸せは本当に幸せなのだろうかと疑うようになりました。私たちは本当に愚かで恐ろしい生き物です。現実を知らず夢を見ているのが本当は一番幸せなのかもしれません。
無常を感覚ではなく論理で解くのが仏教の素晴らしさだと思います。分からないけど分かるという矛盾はありません。気づきに向かって考え続ける事が重要です。その一つの手段が瞑想で有ると考えております。
大愚和尚様 私の質問に回答いただきましてありがとうございます。
理解することができました。
良いご質問をしてくださり、ありがとうございます。
悟りには段階があることがわかって良かったです。前の段階に後戻りしなくなった時に、その段階をクリアしていることがわかるのですね。人生色々な出来事がありますが、焦らず修行していこうと思えました。
感情をコントロールし、俯瞰して物事がみれるようになるのは、至難の業ですが、その方向に努めていきます。合掌
悟りについて気を付けないといけないのは、ほとんどの人が忘れていたり興味ない中で、私は知っているとか私は中道を行っている
という、自惚れにも気を付けないとお釈迦様の息子さんみたいに苦労しちゃうってこと、案外謙虚低姿勢で印象に残りにくい人ほど悟っているのかも?
仰る通りわかる人にはわかると思います。一は全、全は一もわかる人にはわかるでしょう。
道に迷った時は目的以外の欲を全て手放しシンプルに目的地への導きを念じます。さすれば無意識の領域から導き出されます。それは自分以外の無意識内にも関わる導きですから自分以外は気づきません。多くは必要なことは必要なタイミングでやって来るので迷うことはありません。欲が他方向に分散されるから迷うのでしょうね。あくまで自分のことですが。全ては循環してますからね。
素晴らしいお話し、ありがとうございます。
大愚和尚様、いつもありがとうございます。
私はまだまだ全然ですが、お蔭様で、昨日ある動画のコメント欄で
他人に向かって「脚下照顧して~してほしい」と書かかれているのを
見て、「脚下照顧して~した方が良いのは、この人の方だな…」と
思いました。
脚下照顧という言葉を思い出させてくれてありがとう、私こそ
脚下照顧します、と思いました。
ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
こんにちは。
失礼を承知で申し上げますが、
他人に向かって「脚下照顧して~してほしい」と書かれた方の主張も
「脚下照顧して~した方が良いのは、この人の方だな…」というSawadaさんの主張も
客観的な視点からすれば、同じことを言っているようにしか見えません。
即ち、前者のコメントも、Sawadaさんのコメントも、「迷っている者には何が正しいがわからない」という例に他ならない、のではないでしょうか。
@@スラあめ さま、確かに失礼です。
文脈の全く書かれていないコメントの一部分を切り取り、決めつけ、失礼を承知でご返信なさったのですから。
せっかくですから、ご参考にさせていただきますけれども、そのようなご返信の仕方は大愚和尚様の動画のコメント欄にふさわしくなく、お釈迦様の教えにも適わないものと存じます。
お互いに一層精進してまいりましょう。
高校の時、数学の先生ですごく分かりやすい授業をしてくれた先生がいました。
1学年上がって、次に担当になった先生の授業は全く理解できませんでした。
私的には前者の先生は、努力して勉強したから分かりやすく教えてくれた。後者の先生は元々頭のいい先生だったから、生徒に分かりやすく教えられなかった、と勝手に理解してます。
月を指す指は月ではないと賢者は言います。
しかし凡夫には指の先にある月(悟り)は雲(煩悩)に隠れていて見ることが出来ないため。賢者の指に執着してしまいます。
🙏🙏🙏
悟った方は、その後の人生の指針に影響が出て、他の方への自利利他的奉仕活動や職業をされているのでしょうか?
このような小さな質問をいくつも持っていながら、スルーし忘れてしまっております。ご質問もご回答も、ありがとうございます。
珍しい人でも難しい事でもないと感じております。全ての人はすでに幼児期に体験体感していると思います。ニュートラルに一つずつ戻して行く事ではないでしょうか?
悟りって宇宙生命と私たち個の生命が一体不二の関係だと体感として確信することじゃないですか?
理論、理屈じゃなく
その一体不二を体感として確信したところで、その後も煩悩は湧いてきますし、感情に振り回されたりもするので、「常に体感」する(前のステージに戻らない)ために皆さん修行をしてらっしゃるのだと思いますよ。
仏教とは、今から約2500年前にお釈迦様。悟りを開いて仏陀となられた存在が、説かれた教えを仏教と呼んでいると理解しています。
当時の第一段階の修行者が目指す悟りは、阿羅漢果の境地でした。
はじめに求道心があるかどうか。
これがあると認められれば、釈迦教団に入門を許されました。
反省して、かすかなりとも後光の出ている段階。
真面目に修行していれば、阿羅漢向には、誰でもなれると言われていました。
釈迦教団のはじめの第一段階の目指す悟り。それは、悟りとしては初歩的ですが、霊的自己をまず悟ることでした。
初歩的な第一段階の涅槃の境地に達することを目標としていました。
涅槃の境地とは、あの世に存在した意識エネルギーとこの世で同じ悟りに至ること。
あの世、天上界にいたときと同じ境地をこの地上、この世で味わうこと。
天国で、この世的な執着のある人は基本的にいません。
したがって、お釈迦様の教えも、始めは執着を去る修行、反省修行がスタートでした。
諸行無常。諸法無我。
涅槃寂静の涅槃の境地ですね。
これを求めて、修行が始まったわけです。
お釈迦様の時代、悟りとは、
第一段階としては、涅槃の境地を
さしていました。
霊的自己を悟る。そうしてはじめて、自分自身を第三者の視点で見つめる反省がスタートするからです。
仏教は、すなわち、人生の意味は
魂修行であるということです。
この難しい環境、肉体に魂が宿りながら、霊的自己を悟ること。
もといた天国、天上界にいたときの心境で、この世、この地上の世界を生き抜いていけるのか?
魂が試される環境に、難しい環境に出てきている。
そうして、この世的な、肉体に宿ることによる苦難困難、誘惑を超えて、天国にいたときの愛の心を忘れないで生きれるか?
これを試されていると理解しています🙏
悟りとはそもそも何で有るか判らないが、ただ一つ私にも判ることがある。それは「留まる事無く流れ、誰もこの流れから逃れる事は出来ない」お金を追い求め巨万の富を築いても、幾万の美女と交じりても、あの世に銭一枚、美女の髪一本持って逝く事は出来ない。そしてこの世に残した巨万の富や、幾万の美女もやがては風に吹かれる塵の山と同じで瞬く間に掻き消える。これは私にも判る。
その通りですね。
頭では理解していましたが私も最近になって心から理解できるようになりました。
美女もやがては老婆になる。
有名な富豪が美女と結婚したが、遺産目的で美女に◯されるという事件を聞き、私が思っていた幸せは本当に幸せなのだろうかと疑うようになりました。
私たちは本当に愚かで恐ろしい生き物です。現実を知らず夢を見ているのが本当は一番幸せなのかもしれません。