【第2回:禅僧の逸話に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2024年6月11日(火)

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  • Опубликовано: 29 июн 2024
  • 「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
    禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
    「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
    なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
    禅僧の逸話に学ぶー唐代の禅僧たちー
     令和六年六月十一日  花園大学総長 横田南嶺
    一、馬祖道一禅師(709~788)(禅文化研究所『馬祖の語録』)
    「もし坐禅を学ぶのであれば、禅というのは坐ることではない。もし坐仏を学ぶのであれば、仏というのは定まった姿をもってはいない。定着することのない法について、取捨選択をしてはならない。そなたがもし坐仏すれば、それは仏を殺すことに他ならない。もし坐るということにとらわれたら、その理法に到達したことにはならないのだ」。
    「馬祖は示衆して言った「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」
    「大珠慧海が初めて馬祖に参じた。馬祖が問うた、「どこから来たか」。「越州の大雲寺から来ました」。馬祖、「ここに来ていったい何が目当てか」。「仏法を求めに来ました」。馬祖、「自分の宝蔵には見向きもせず、家をほったらかして走りまわって、どうしようというのか。わしの所には何も無い。仏法なんぞ見付かりはせぬ」。大珠はそこで礼拝して問うた、「何が私の宝蔵なのですか」。馬祖、「いま私に問うている君こそが君の宝蔵だ。一切が具わっており、何の欠けたものもなく、使おうとすれば思いのままだ。どうして外に求める必要があろう」。と聞いたとたん、はたと己が本心を譲り、踊り上がって喜び感謝した。師事すること六年であった。」
    「汾州無業禅師が馬祖に参じた。馬祖は、その風采が堂々としていて、声が鐘のようであるのを見ると、そこで言った、「堂々たる仏堂ではあるが、そこに仏が居らぬ」。無業は跪き礼拝して問うた、「三乗の学問は、あらかたその趣旨を究めました。かねて、禅門で即心是仏というのを耳にしてはいますが、まだ全く了解できぬままです」。 馬祖、「まだ了解できぬその心こそがそうだ。その上に特別な物などない」。無業がまた問うた、「達磨大師がインドよりこられて、密かに伝えられた心印とは、どういうものですか」。馬祖、「大徳(そなた)はムキになり過ぎだ。帰って出なおしなさい」。無業が出ていこうとしたとたん、馬祖は「大徳」と呼んだ。無業は振り返った。馬祖、「何とした」。無業は、たちまち領悟し礼拝した。馬祖、「にぶい奴だ、礼拝して何になる」。」
    二、百丈懐海禅師(749~814)(岩波書店『現代語訳 碧巌録』)
    「馬大師は百丈と旅していたとき、カモが飛んで行くのを見た。大師「何かな」。百丈「カモです」。大師「どこへ行ったか」。百丈「飛んで行ってしまいました」。大師は百丈の鼻づらをひねった。百丈は痛みをこらえてうめいた。大師「どうして飛び去ったことがあろうか」。(五三則)
    「僧が百丈に問うた、「どういう事がすばらしい事ですか」。百丈「ひとり大雄峰に坐っていることだ」。僧は礼拝した。百丈はすかさず打った。」(二六則)
    三、黄檗希運禅師(?~大中年間(847~859))(筑摩書房『禅の語録8伝心法要・宛陵録』)
    「祖師ダルマは西方から来られて、一切の人間はそのままそっくり仏であると直示なされた。そのことをいま君は知らずに、凡心に拘われ聖心にかかずらって、おのれの外を駆けずり廻り、あいも変らず心を見失っている。だからこそ、そういう君に対して、〈心そのものが仏だ〉と説かれたわけだ。ちらりとでも妄心が起これば、たちまち地獄に落ちることになる。」
    四、臨済義玄禅師(?~867)(岩波文庫『臨済録』)
     「もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。君たちはこれを信じきれないために、外に向って求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、皆の衆。今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。」
    番外 懶瓚和尚。布袋和尚。蜆子和尚。

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