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会社の事務所ビルで社員がみんな腰に20-30cm の長いナイフ付けてたら職場の緊張感ものすごいと思う。
部下にパワハラムーブかましたらブチ切れた相手に斬りつけられたとか、セクハラ行為やったら懐刀でどつかれたとか、取引先に無茶吹っかけたらその場で大乱闘とか起きかねませんしねwただまあそう考えると、あのでっかい江戸城中で江戸時代を通して7件ってのはだいぶ少ない気もします。
意外でした、こんなにも刃傷沙汰があったとは知りませんでした。有難うございます^_^
江戸城は言ってしまえば「武器を携えた文官・武官や地方領主、政治家などが多数いる」という結構特殊な環境になわけで、そんな環境において「江戸時代を通して7回」なら、それは「かなり少ない」なのではないかという気もします。(まぁ、表沙汰になっていないものはあるかもしれないし、武器を使わない殴り合いや「水をぶっかけた」騒ぎ程度ならあったかもしれませんが‥。)それに、起きたの刃傷事件はあくまでも個人間トラブルという面が強く、「クーデターや、政治的な意図を持った要人の暗殺」という政治的意図を含んだものではないですしね。
@@breezecaller 本当かどうか知りませんが、上野介を快く思っていない脇坂淡路守が刃傷で担ぎ運ばれる彼とすれ違いざま、「式服の家紋を血で汚すとは穢らわしい」と、上野介の刃傷沙汰でできた傷口を思い切り扇子で殴ったとか。粗っぽいと言えば粗っぽいですね。
動画面白かったです。豊島信満の事件はもう1人、豊島に縁談を仲介されてた旗本も豊島の気持ちを汲んで切腹してますね。春日局、余計なことをしたものです。
最後の事件隠蔽しようとしてそれが失敗したから後世に記録が残ってるって事は、実際はもっと刃傷事件は多かったけど隠蔽して後世に記録が残ってない戸城内の刃傷事件は多そう。
律儀に武家諸法度適用したら、いくら大名家を潰しまくって、浪人だらけの政情不安になるんですが……
面白い!ありがとうございます。
水野忠恒の事件はその後に拝謁した毛利師就が水野の忘れ物の扇子に気付き、廊下で「そこもと扇子がこのにござる」と声を掛けたところ、譜代の格上(城主)大名に対し、外様の陣屋格大名がそこもと呼ばわりしたことに腹を立て斬り付けた、そんな話を読んだ記憶がありますが、wikiにもそんな記事は無いですね。
目から鱗が落ちるとはこの事。よくぞ教えて下さった。ありがとうございます(^人^)これからもよろしくお願い致します😄
松平外記さんの書き置きがなければ、刃傷事件は6件しか後世に伝わりませんでしたね。書き置きを残すまでするのは、外記さんは衝動的に行なったのではなく、我慢の限界が来てタヒぬ覚悟で行なったように思えます。
さすがにあれだけ派手にやらかしたら、大奥からか漏れなくても、いずればれていたような気がします^^
第2、第3の『松の廊下』。それを含めて、江戸城で7回も殺傷事件が発生。その上、殆どの場合に同機不明。この動画で、初めて知りました。『基地外に刃物』、『修羅の本丸』。そんな勝手な副題が、頭に浮かびました。老中襲撃後の、御家人代役という改変。いかにも『身代わり要員』で、草が生えました。
面白い観点。側用人の権力が強まったり、その側用人出身の田沼が討たれたり。
松の廊下事件と並んで田沼意知の刃傷事件は以前から知っていました。江戸場内ではありませんが、「浄瑠璃坂事件」なんていうのも、武士同志の遺恨の刃傷沙汰として有名ですね。是非扱って下さい!
刃傷沙汰寸前ならいくらでもありそう・・・
鞘から刀を抜いた(しかし斬りかからず鞘に収める)ことはもっとたくさん有ったんだろうな
豊島信満事件は、NHK葵三代でも取り扱われてました😮
松平外記の刃傷事件は、大老酒井忠清邸で起きた伊達騒動の原田甲斐による刃傷事件に近いレベルで暴れてるな伊達騒動の刃傷事件の方が伊達安芸切り捨てたどころか酒井忠清初めとした幕閣の面々の控室にまで抜刀のまま突入しようとしてたからレベルが伊達騒動の方がヤバかったりする
「佐野政言事件」は故・みなもと太郎氏の「風雲児たち」に詳しくかつ凄惨に描かれている。興味のある方はご一読を。
@@武闘派のび太 読ませて頂きました。
板倉勝該事件。家紋を間違われた細川家。その後、「九曜紋」の周りの星を小さくしたと言われています。実はこれ以前、飫肥の伊東家も全く同じ「九曜紋」を使用していたのですが、同じ九州大名「紛らわしい」と飫肥藩は星を一つ増やしています(江戸時代初期)。54万石対5.1万石。飫肥では今でも、周りの星の数で「九曜紋」と言っていますが、本当は十曜紋。後に細川家がデザインを変えるなら、そのままでも・・・。
そもそも「江戸城内で刀をぬいてはいけない」という法度も、誰かやりかねないという前提があったからだと思うのは私だけでしょうか?
非常にストレスの多い生活で、壊れちゃったのだろうと思います。
稲葉正休と浅野長矩、あと動画にはなかったが、将軍・家綱の77日法要で宮津藩主・永井尚長が鳥羽藩主・内藤忠勝に刺殺された芝増上寺刃傷事件がある。実はこの加害者の3人にはつながりがあり、浅野長矩の母方の叔父が内藤忠勝であり、内藤忠勝の従兄甥が稲葉正休である。激しやすい血統だった可能性も考えられる。しかもこの3件はすべて将軍・綱吉の治世下でのできごと。
戦前でも斬りつけ通り魔事件が多発していた事実が有るから。時代が変化しても変わらない事だけは分かる様な気がしてしまう。
堀田が暗殺された事件と忠臣蔵のアレって20年も経ってないわけで、斬りつけた浅野内匠頭本人も堀田暗殺の経緯は知っていておかしくないはずなンですよねぇ、年齢的に。にも関わらず、わざわざ稲葉の二の轍を踏む手口で吉良に切りかかった浅野が正気じゃなかったって言っても不思議ではないような…。
水野忠恒の一件については2020年7月20日に放送された鶴見辰吾さんの「ファミリーヒストリー」でも取り上げられました。水野忠恒は信州松本藩7万石の普代大名で、その始祖は水野忠清といって、徳川家康のいとこに当たる人物です。父親は水野忠重という人物で、「どうする家康」で寺島進さんが演じた水野信元と松嶋菜々子さんが演じた徳川家康のご生母の於大の方の末弟になります。徳川家康から見れば叔父になりますが、年齢差は1歳しか違いません。水野忠重の方が一つ上になります。また、有名な水野勝成も水野忠重の息子であり、水野忠清から見れば18歳年上の異母兄に当たります。鶴見辰吾さんの父方のご先祖様は鶴見市右衛門則宗と言って元々は武田家の家臣でした。武田家滅亡後、則宗は徳川家康に仕え、則宗の息子の則満はその縁で水野忠清に仕えることとなり、信州松本藩主として入ってきた時に家臣として同伴したそうです。この則満の末裔が鶴見辰吾さんになります。この一件で水野家は改易になりますが、叔父の水野忠穀が直参旗本という形で7000石を与えられて、家名は保たれることとなりました。鶴見辰吾さんのご先祖様はその煽りを受けてリストラ対象になりましたが、危うく難を逃れそのまま家臣として引き続き仕えることとなり、40年後の1777年に忠穀の息子の忠友の時に駿河沼津藩2万石の大名として水野家は復活し、その後は老中職も勤めるようになり、鶴見辰吾さんのご先祖様も沼津藩主水野家の家臣として仕えました。
7回の刃傷沙汰 そうのうち1回が浅野内匠頭だったんですね
先日泉岳寺に行ってきました。47士の年齢見ると30代が多く大石内蔵助は50代でした。大石力は10代でした。粛々と刑に伏したのでしようか😢胸が痛くなりました。
大石力は大石主税です。
初歩的な質問で申し訳ござらんが、江戸時代の武士たちは本当に「ござる」と言って言っておったのでござろうか?それがしそれが気になって夜しか眠れんでござる。
夜寝れてれば良いではござらんか(笑)
@@kin4low 古典を読む限りでは、「ござる」とは言っていないと思います。
私が遣らせた🎵
江戸の町は人情、江戸城は刃傷w
イジメがいっぱいあったんでしょう。金田一耕助のモデルになった新見の事件みたいに。
武士のござる。遊女のありんす。地方から出てきても言葉が通じないから出来たのではないですか⁉️津軽と薩摩じゃ会話は無理でしょ😂
そんなもん持っていたら使ってみたくなるかも知れない。
刀抜いちゃだめならさやと柄一体成型の刀もたせとけばいいのに。おぼっちゃんなんかそれで十分だ。拳でぶん殴るくたいなら大丈夫なんだろ
マウント合戦だからな。
精神病患者が何人もいるな。リアル基地外に刃物。
将軍のいる江戸城内ですらこの有様なら、気の触れた殿様が庶民に刃を向けて…って話しはもっと有りそう。
刃傷沙汰を起こす人=精神病患者ではないよ。
信康事件は、信長公記の初期の本には、信康が逆心(=謀反)と記入してあったのに、その後は、信康が個人的に狂乱になったと変説し、さらには、信康事件の記述自体が削除されて、無かったかのようにされている。都合の悪いことは、単に個人の精神病として扱われることはあった模様。
私個人的には江戸城内での刃傷沙汰は行った側が例外なく非があると思う。忠臣蔵の浅野内匠頭も大石内蔵助も悲しき君主と忠臣と捉えるが、その元に虐めや不正そして恨みがあっても、それを激昂し刀を振り回す行動は太守の前に人として問題です。例えば恨みがあれば刺客を送るなり家臣団で攻めるなり、それなりの方法があったと思います。「それが出来ない時代」と藩同士の争いは禁止の時代と言うが、であれば大石内蔵助の藩を挙げての討ち入りは覚悟のうえでしょう。浅野の様な馬鹿な太守や旗本が多くの家臣を路頭に迷わせ、男児を初め罪なき者の命を馬鹿な親父や息子の為に失い、その失態に飽き足らず「仇討ち」の大義を掲げ更なる不義を働く。一人の身分を弁えない者が大名やお目見え以上の旗本だった為に、多くの罪なき人たちの命を奪った事を武士道と言うのであれば武士と武士道とは真に頓馬な者達でしょう。
3人いれば派閥が出来る。260年では少なすぎる。武士は名を重んじるという平和ボケのくだらない考えである。
会社の事務所ビルで社員がみんな腰に20-30cm の長いナイフ付けてたら職場の緊張感ものすごいと思う。
部下にパワハラムーブかましたらブチ切れた相手に斬りつけられたとか、
セクハラ行為やったら懐刀でどつかれたとか、
取引先に無茶吹っかけたらその場で大乱闘とか起きかねませんしねw
ただまあそう考えると、あのでっかい江戸城中で江戸時代を通して7件ってのはだいぶ少ない気もします。
意外でした、こんなにも刃傷沙汰があったとは知りませんでした。
有難うございます^_^
江戸城は言ってしまえば「武器を携えた文官・武官や地方領主、政治家などが多数いる」という結構特殊な環境になわけで、そんな環境において「江戸時代を通して7回」なら、それは「かなり少ない」なのではないかという気もします。
(まぁ、表沙汰になっていないものはあるかもしれないし、武器を使わない殴り合いや「水をぶっかけた」騒ぎ程度ならあったかもしれませんが‥。)
それに、起きたの刃傷事件はあくまでも個人間トラブルという面が強く、「クーデターや、政治的な意図を持った要人の暗殺」という政治的意図を含んだものではないですしね。
@@breezecaller 本当かどうか知りませんが、上野介を快く思っていない脇坂淡路守が刃傷で担ぎ運ばれる彼とすれ違いざま、「式服の家紋を血で汚すとは穢らわしい」と、上野介の刃傷沙汰でできた傷口を思い切り扇子で殴ったとか。
粗っぽいと言えば粗っぽいですね。
動画面白かったです。豊島信満の事件はもう1人、豊島に縁談を仲介されてた旗本も豊島の気持ちを汲んで切腹してますね。
春日局、余計なことをしたものです。
最後の事件隠蔽しようとしてそれが失敗したから後世に記録が残ってるって事は、実際はもっと刃傷事件は多かったけど隠蔽して後世に記録が残ってない戸城内の刃傷事件は多そう。
律儀に武家諸法度適用したら、いくら大名家を潰しまくって、浪人だらけの政情不安になるんですが……
面白い!
ありがとうございます。
水野忠恒の事件はその後に拝謁した毛利師就が水野の忘れ物の扇子に気付き、廊下で「そこもと扇子がこのにござる」と声を掛けたところ、譜代の格上(城主)大名に対し、外様の陣屋格大名がそこもと呼ばわりしたことに腹を立て斬り付けた、そんな話を読んだ記憶がありますが、wikiにもそんな記事は無いですね。
目から鱗が落ちるとはこの事。よくぞ教えて下さった。ありがとうございます(^人^)これからもよろしくお願い致します😄
松平外記さんの書き置きがなければ、刃傷事件は6件しか後世に伝わりませんでしたね。
書き置きを残すまでするのは、外記さんは衝動的に行なったのではなく、我慢の限界が来てタヒぬ覚悟で行なったように思えます。
さすがにあれだけ派手にやらかしたら、大奥からか漏れなくても、いずればれていたような気がします^^
第2、第3の『松の廊下』。それを含めて、江戸城で7回も殺傷事件が発生。その上、殆どの場合に同機不明。この動画で、初めて知りました。『基地外に刃物』、『修羅の本丸』。そんな勝手な副題が、頭に浮かびました。老中襲撃後の、御家人代役という改変。いかにも『身代わり要員』で、草が生えました。
面白い観点。側用人の権力が強まったり、その側用人出身の田沼が討たれたり。
松の廊下事件と並んで田沼意知の刃傷事件は以前から知っていました。
江戸場内ではありませんが、「浄瑠璃坂事件」なんていうのも、武士同志の遺恨の刃傷沙汰として有名ですね。是非扱って下さい!
刃傷沙汰寸前ならいくらでもありそう・・・
鞘から刀を抜いた(しかし斬りかからず鞘に収める)ことはもっとたくさん有ったんだろうな
豊島信満事件は、NHK葵三代でも取り扱われてました😮
松平外記の刃傷事件は、大老酒井忠清邸で起きた伊達騒動の原田甲斐による刃傷事件に近いレベルで暴れてるな
伊達騒動の刃傷事件の方が伊達安芸切り捨てたどころか酒井忠清初めとした幕閣の面々の控室にまで抜刀のまま突入しようとしてたからレベルが伊達騒動の方がヤバかったりする
「佐野政言事件」は故・みなもと太郎氏の「風雲児たち」に詳しくかつ凄惨に描かれている。興味のある方はご一読を。
@@武闘派のび太 読ませて頂きました。
板倉勝該事件。家紋を間違われた細川家。その後、「九曜紋」の周りの星を小さくしたと言われています。実はこれ以前、飫肥の伊東家も全く同じ「九曜紋」を使用していたのですが、同じ九州大名「紛らわしい」と飫肥藩は星を一つ増やしています(江戸時代初期)。54万石対5.1万石。飫肥では今でも、周りの星の数で「九曜紋」と言っていますが、本当は十曜紋。後に細川家がデザインを変えるなら、そのままでも・・・。
そもそも「江戸城内で刀をぬいてはいけない」という法度も、誰かやりかねないという前提があったからだと思うのは私だけでしょうか?
非常にストレスの多い生活で、壊れちゃったのだろうと思います。
稲葉正休と浅野長矩、あと動画にはなかったが、将軍・家綱の77日法要で宮津藩主・永井尚長が鳥羽藩主・内藤忠勝に刺殺された芝増上寺刃傷事件がある。実はこの加害者の3人にはつながりがあり、浅野長矩の母方の叔父が内藤忠勝であり、内藤忠勝の従兄甥が稲葉正休である。激しやすい血統だった可能性も考えられる。しかもこの3件はすべて将軍・綱吉の治世下でのできごと。
戦前でも斬りつけ通り魔事件が多発していた事実が有るから。時代が変化しても変わらない事だけは分かる様な気がしてしまう。
堀田が暗殺された事件と忠臣蔵のアレって20年も経ってないわけで、斬りつけた浅野内匠頭本人も堀田暗殺の経緯は知っていておかしくないはずなンですよねぇ、年齢的に。
にも関わらず、わざわざ稲葉の二の轍を踏む手口で吉良に切りかかった浅野が正気じゃなかったって言っても不思議ではないような…。
水野忠恒の一件については2020年7月20日に放送された鶴見辰吾さんの「ファミリーヒストリー」でも取り上げられました。
水野忠恒は信州松本藩7万石の普代大名で、その始祖は水野忠清といって、徳川家康のいとこに当たる人物です。
父親は水野忠重という人物で、「どうする家康」で寺島進さんが演じた水野信元と松嶋菜々子さんが演じた徳川家康のご生母の於大の方の末弟になります。徳川家康から見れば叔父になりますが、年齢差は1歳しか違いません。水野忠重の方が一つ上になります。
また、有名な水野勝成も水野忠重の息子であり、水野忠清から見れば18歳年上の異母兄に当たります。
鶴見辰吾さんの父方のご先祖様は鶴見市右衛門則宗と言って元々は武田家の家臣でした。武田家滅亡後、則宗は徳川家康に仕え、則宗の息子の則満はその縁で水野忠清に仕えることとなり、信州松本藩主として入ってきた時に家臣として同伴したそうです。この則満の末裔が鶴見辰吾さんになります。
この一件で水野家は改易になりますが、叔父の水野忠穀が直参旗本という形で7000石を与えられて、家名は保たれることとなりました。鶴見辰吾さんのご先祖様はその煽りを受けてリストラ対象になりましたが、危うく難を逃れそのまま家臣として引き続き仕えることとなり、40年後の1777年に忠穀の息子の忠友の時に駿河沼津藩2万石の大名として水野家は復活し、その後は老中職も勤めるようになり、鶴見辰吾さんのご先祖様も沼津藩主水野家の家臣として仕えました。
7回の刃傷沙汰 そうのうち1回が浅野内匠頭だったんですね
先日泉岳寺に行ってきました。47士の年齢見ると30代が多く大石内蔵助は50代でした。大石力は10代でした。粛々と刑に伏したのでしようか😢胸が痛くなりました。
大石力は大石主税です。
初歩的な質問で申し訳ござらんが、江戸時代の武士たちは本当に「ござる」と言って言っておったのでござろうか?それがしそれが気になって夜しか眠れんでござる。
夜寝れてれば良いではござらんか(笑)
@@kin4low
古典を読む限りでは、「ござる」とは言っていないと思います。
私が遣らせた🎵
江戸の町は人情、江戸城は刃傷w
イジメがいっぱいあったんでしょう。
金田一耕助のモデルになった新見の事件みたいに。
武士のござる。遊女のありんす。地方から出てきても言葉が通じないから出来たのではないですか⁉️津軽と薩摩じゃ会話は無理でしょ😂
そんなもん持っていたら使ってみたくなるかも知れない。
刀抜いちゃだめならさやと柄一体成型の刀もたせとけばいいのに。おぼっちゃんなんかそれで十分だ。拳でぶん殴るくたいなら大丈夫なんだろ
マウント合戦だからな。
精神病患者が何人もいるな。リアル基地外に刃物。
将軍のいる江戸城内ですらこの有様なら、気の触れた殿様が庶民に刃を向けて…って話しはもっと有りそう。
刃傷沙汰を起こす人=精神病患者ではないよ。
信康事件は、信長公記の初期の本には、信康が逆心(=謀反)と記入してあったのに、その後は、信康が個人的に狂乱になったと変説し、さらには、信康事件の記述自体が削除されて、無かったかのようにされている。都合の悪いことは、単に個人の精神病として扱われることはあった模様。
私個人的には江戸城内での刃傷沙汰は行った側が例外なく非があると思う。
忠臣蔵の浅野内匠頭も大石内蔵助も悲しき君主と忠臣と捉えるが、
その元に虐めや不正そして恨みがあっても、
それを激昂し刀を振り回す行動は太守の前に人として問題です。
例えば恨みがあれば刺客を送るなり家臣団で攻めるなり、
それなりの方法があったと思います。
「それが出来ない時代」と藩同士の争いは禁止の時代と言うが、
であれば大石内蔵助の藩を挙げての討ち入りは覚悟のうえでしょう。
浅野の様な馬鹿な太守や旗本が多くの家臣を路頭に迷わせ、
男児を初め罪なき者の命を馬鹿な親父や息子の為に失い、
その失態に飽き足らず「仇討ち」の大義を掲げ更なる不義を働く。
一人の身分を弁えない者が大名やお目見え以上の旗本だった為に、
多くの罪なき人たちの命を奪った事を武士道と言うのであれば
武士と武士道とは真に頓馬な者達でしょう。
3人いれば派閥が出来る。260年では少なすぎる。武士は名を重んじるという平和ボケのくだらない考えである。