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【次回のライブは21:30スタートです!】前の仕事の関係で21時に帰宅できるか微妙なので、21:30スタートにさせてください!(お陰様で熱は下がりましたので、次回は元気に配信できると思います!ご心配おかけしました…!)【訂正】3:43 五大老の表ですが、前田利家ではなく前田利長の誤りです。初歩的なミスで申し訳ございません。【補足】「豊臣」は氏であり、名字は「羽柴」であるため、本来は「羽柴家」と呼称するのが適切ですが、本動画では一般的に使用される「豊臣家」で統一しています。予めご了承ください。詳しくは下記の動画で解説しています。ruclips.net/video/WWQjVX5nA1k/видео.html
娘を嫁がせたのに浮気して子供つくられたら、父親切れるはな秀忠の気持ちわかる
滝田栄さん主演の大河ドラマ『徳川家康』はこの動画内容に近い形で描かれていますよね。大坂冬の陣がが始まった直後、先に大坂城を出た千姫からの嘆願により、家康は何とか秀頼を大坂城から脱出させようと尽力しますが、秀忠軍が勝手に大筒を天守閣に打ち込み、淀殿と秀頼を自害に追い込んでいましたね。
家康は秀吉から秀頼の将来を頼まれ直接約束していますから、「お守りする」以外の選択肢はなく、殺すなど論外なのです。結局それをやってしまったので、家康の印象を守るために色々な説が出ているのですが、結果は約束を破った事に変わりはありません。その事まで秀頼のせいにするのはおかしな傾向だと思います。
弟で越後高田75万の太守松平忠輝を改易にして、その分、真田幸村の兄信之を松代に国替え、福島正則の安芸備後50万石を改易にして、紀伊国主浅野家を国替え、そして弟頼宣が紀伊半島一帯を所領とする紀伊徳川家を創設したのも秀忠の時代。
余談ですけど、実は徳川は豊臣を完全に滅ぼしてはいません。おねの兄の木下家定の子供たちに「豊臣」を名乗らせて小藩、旗本として三家を存続させてます。
豊臣が家康に服従して国替えしても豊臣恩顧の大名のように改易されてただろうな秀吉が徳川を潰さなかった事によって豊臣が窮地に落ちてるから徹底的に叩いておきたかっただろうな
家康君では無く、秀忠君なのね。家康君が滅ぼす気は無くても、御高齢だった家康君、お亡くなりに成られるからなぁ、秀忠君が将軍に成られてからと、秀頼君が成人してから、変わったのね。返礼をして挨拶に行けばですけれど、家康君が亡くなられて、秀忠君が、本格的に権力を行使出来る様に成ったら、難癖をつけて、良くて改易、息子共々切腹させたかもね。
いつも分かり易い解説ありがとうございます😊豊臣を滅ぼしたかったのは秀忠だった事を始めて知りました。歴史の楽しさと大河ドラマの見方が変わりとても良い勉強をさせていただいております。これからも配信楽しみにしております😊
秀忠は自分が凡庸なのを知っており家康が存命のうちに豊臣を潰したかった。つまり家康の名前が無ければ他の大名は従わなかった可能性が高かった。
しかし、何故に秀忠は秀吉の死後に改名しなかったんですかねぇ?通字で家を入れるのが自然だと思うんだけど・・・・
関ヶ原での失態を挽回するために出陣したのに秀忠にとっては真逆の結果に…
こんばんは♪動画ありがとうございます!ライブ開始時間了解です🫡
家康が関ヶ原後に行った領地配分だけど、近年西国から豊臣家の宛行状が複数出てきて、単純に家康が好きに差配したわけでもないことがわかってきたね。
家康は秀吉死後法度破りと専横を始めるものの、関ヶ原の合戦までは豊臣家の家来として振る舞ってたが、合戦後態度を変え、頭越しに征夷大将軍を宣下させ、その3年後に秀忠に譲り、徳川家の天下としようと盛んに運動しました。やがて豊臣家に臣従を求め、いう事を聞かないと武力で滅ぼし、子孫まで断絶させ、豊国大明神まで破壊しました。これが結果としての事実です。確かに世の中の秩序で言えば権力が一本化して戦争がなくなる方が望ましいですが、家康は主君(秀頼)から直接簒奪した所が日本史上でも稀有の事だったから、人としての義理や大義名分の点から何百年経っても批判されているのでしょう。「豊臣家を滅ぼす事だけはしたくない」というのは、秀吉と直接約束したため後世の評判の点から流石にやりたくなかったというだけで、別に善性からではないと思います。結局断絶させているのですから滅ぼそうと思っていたのと同じ事です。偶然天下を取れた、豊臣家は自滅した、という類の論は家康に都合が良すぎると考えます。
徳川政権にとっては天に二日無しという事だったんでしょうね
新しい情報ですね。
確かに家康は大阪夏の陣の時も降伏すれば一大名として秀頼を生かそうとしていたふしがあるのである意味茶々事淀殿がそれをしたくなかったのが強いかもしれませんね。都市伝説として秀頼が生き残り、九州へ落ち延びたと言うのがありましたが、本当の所若干のでありますが家康としては秀頼を貴族側として活かす案も考えていたのかもしれませんね。
どうする、は家康公の前半生がメインテーマなので、後半生の尺が足りないのは仕方がない。物足りない人は「葵 徳川三代」を見るべし
そうかな 家康の本音は戦嫌いだったんだと思う 家康は 秀頼の母ちゃちゃに 子を 溺愛する女性の 母性に危険を感じていたんではないだろうか それが豊臣滅亡につながった
この前飛行機の中で見た歴史番組では家康自体やはり豊臣家を滅ぼすつもりはなかったけど源頼朝が平家に許されその後平家を滅ぼすというのには影響されていたというのは間違いないだろうって小和田さんはおっしゃってましたね
ありがとうございます!個人的にはその後の統治方針も含め、秀忠のほうが頼朝に似ているのではと考えています(後日紹介できたらする予定です!)。
@@nihonshi-salon秀忠の頼朝との類似点の解説楽しみに待ってます!😊
今川氏真みたいな生き方なら家を残せたのだろう。豊臣家が公家とか高家とかの形で残っていたら幕末に豊臣家を担いで倒幕みたいな展開もあったりして
関ケ原の合戦後の家康の土地分配についてですが、一応関ケ原の戦い自体が豊臣家臣同士の争いであるとの名目である以上、豊臣家としては自分の直轄領からも勝利した家臣に恩賞を与えたという豊臣家も納得の分配という解釈でいいのですかね?200万→70万石というとかなり減ってしまうので、どういう名目で豊臣家の直轄領を減らしたのかと思ったのですが。
建前上は西軍についた豊臣直轄地の代官を改易した、という形です。飛び地だけならともかく、大坂から目と鼻の先の堺まで奪われたことで遺恨を残すことになります。4つの金銀鉱山も奪われ、財力的にも徳川は豊臣以上に強大になっていきます。ただ、強く抗議に出れなかったのは、豊臣家に残った片桐や大野では直轄地制圧すらできずに、幕府に代官を派遣して貰うことになったからといわれています。治めも出来ないのに、返せとも言いづらいですし。武力制圧しなかったのも淀の方針として関ヶ原牢人を集めて制圧するより、公家での官位を高め関白になることで独立政権を目指したのではないかと言われています。関ヶ原のあと立花宗茂や後藤又兵衛など雇っておけばよかったのですが、まだ秀頼は幼すぎました。
信長、秀吉、家康と三代続いた一大事業、日本国統一。戦の無い平和国家。信長、秀吉も途中で挫折した。家康こそ最後の建設者であった!
豊臣が徳川家に臣従したとして家康は豊臣を滅ぼす気は無かった秀忠も恐らく滅ぼせなかった(江が頑なに反対しただろう)家光は遠慮なく滅ぼしたと言う流れになってたと思う
最近だと淀殿と江の仲は決して良くなかったのではないかという説もあるようで…
@@nichirowar仮に茶々と江の関係がよくなかったとしても千姫が犠牲になりかねないため江は承服しないと思います。(秀忠も敢えて娘を捨てたくはないだろうし)
納得の解説ですね。大河ドラマ 徳川家康で、滝田栄さんが家康役を演じられていましたが、大阪の陣で、秀頼・淀君が自害したときに家康が語った文言は、創作で狸親父を払拭するためかとその当時は思ってましたが、動画にあった話には賛同できます。では、秀頼の息子を殺害したのはこれも秀忠の命令だったのでしょうか?
今回も、新説解説により今までと異なる史実が見えて来ました。有名な寺社修復での豊臣家の支出のよる財政難もむしろ強調関係であったこと、大坂の陣後の約束違反の堀を埋めたことも創作だったのですね。途中までは豊臣、徳川双方が両立するような住み分け(ドラマでは豊臣は公家、徳川は武家と言われていました)ができていたのかもしれませんね。ただ、秀頼の成長に伴い、事態は推移していったのでしょう。秀忠が家康より強硬に豊臣家を滅ぼそうとしていたというのは、意外でした。娘のことを考えて躊躇するという面はなかったのでしょうか?秀忠は、後に家康時代からの家臣も多く改易しているので、脱家康路線を取りたかった、独自色を出したかったのでしょうか?そうであれば、ドラマで言われていた”凡庸な二代目”とは対極にありますね。ちょっと不思議に感じます。関ヶ原の戦い前は、秀頼の代理として土地分配をしていた家康が、戦後は豊臣直轄領を含む地を分配し、京都、伏見、堺を支配していたという視点が、新鮮でした。
ありがとうございます!>娘のことを考えて躊躇するという面はなかったのでしょうか?秀忠は、後に家康時代からの家臣も多く改易しているので、脱家康路線を取りたかった、独自色を出したかったのでしょうか?千姫のことは史料にも記載がないので、わからないんですよね(家康のほうが心配していたように思います)奪還できる自信があったのか、功名心が上回ってしまったのか…何か史料がでてくるといいんですけどね。おっしゃるとおり、家康死後の秀忠は家康の路線を継承している点としていない点があるので、そのあたりはまた近々動画で紹介したいなと思っています!
@@nihonshi-salon さん 楽しみにしています
そもそも三法師や織田信雄を一大名として扱い国替えを強制し応じなければ改易した豊臣家がなぜ国替えにたてついたのかが全く意味不明
家康も秀吉の国替え命令に従ってるわけだしね。
完全に淀殿が豊富家を滅ぼしたな。雌鳥鳴いたら国滅ぶ
ノブオも家康も大幅加増の国替えだからね。秀頼も加増の国替えなら、淀殿人質出して応じるって言ってるよ。家康はそれを拒否して堀を埋めることを和睦の条件にした。少しだけ加増して僻地に飛ばして、難癖付けて改易はできたと思う。やらなかっただけ。
そもそも豊臣政権を衰弱させたのは、淀殿と石田三成だと思う。秀吉の朝鮮出兵の折、加藤清正や福島正則、黒田長政などの武闘派の戦功賞を、明日三成は秀吉にちゃんと報告しなかった為に、石田三成ら豊臣政権の事務方と軋轢が生じたのが、豊臣政権が滅びた一番の原因です。関ヶ原や大坂夏の陣などが仮に無かったとしても、徳川に取ったら目の上のたんこぶな訳だから、遅かれ早かれ豊臣家は滅ぶ運命だったと思います。あと、秀忠はまだそんなに将軍といえども、まだまだ絶対的な発言力は無かった筈です。まだ大御所が駿府で命令を発していたのですから、秀忠説はちょっと眉唾物と思いますね。
家康も信雄も大幅加増です。 秀頼も冬の陣の講和の際、加増国替えは自ら提案して望んでいました。代わりに淀を江戸人質に送ることで纏まりかけていたのですが、家康公が「負けたわけではないのに加増は面子に関わる」とこれを拒否。最終的には国替え、人質、牢人問題不問の代わりに、城割り(堀埋め)と大野&有楽の人質で決着することになります。あと家康は大坂の陣までに秀頼に国替えを要求したことはありません。 秀頼が国替えに応じなかったから大坂の陣が勃発した、は嘘です。原因は方広寺の一件がきっかけで揉め始め、片桐追放が決め手になったためです。
結局淀君のプライドの高さが身を滅ぼしたとしか言いようがないな😅
豊臣秀吉だって織田家から天下奪ったんだからやられないなんてことは豊臣だって思ってないはずだ
そもそも天下を奪われる側が悪いというのが当時の認識でした。
分かってるから、江戸城を普請したり、秀吉の遺言だった関白職を秀頼まで凍結を破られても受け入れたり、二条城で下座に座って実質進化の礼を取ったり、財源潰しの神社仏閣再建を行ったり、金銀鉱山4つも取られたけど文句も言ってない。関ケ原で220万から65万石にされたけど不満すら出してない。むしろ淀殿は皆の前で「家康が秀頼の父です」宣言しちゃってる。方広寺の事件までは最終的には全て幕府側の要請に従っています。
キリシタンに対する厳格な姿勢といい、秀忠はわりと冷徹な政治家だった
そうなんだよね兄秀康の息子忠直がやらかした時も秀忠は忠直を切腹させようとした(この時は土井利勝が必死に説得して改易で済ませた)息子の忠長の事も割と早くに見限って冷遇してたみたいだしかと思いきや家康に嫌われて冷遇されてた弟の忠輝を庇ったり身内と言えど硬軟使い分ける人ではあったみたい
キリシタンは日本全体の危機に関わる問題だったから弾圧してでも抑える必要があった。あの点では秀忠は絶対正義と言っても過言じゃない。
秀忠は高台院を実の母のように慕ってて亡くなるまで良く面倒見てたなんて話もあるので公私をきっちり分ける堅物ではあるけど基本的には情はあると思う。千姫に秀頼と一緒に死ねと言ったり絶対本心じゃないのに将軍はこうあらねばならないとか自分を縛るんだろうな。
19日放送回では、ついに徳川四天王が全て退場となりましたね。名残惜しく寂しく感じつつも描かれ方は良かったですね。ドラマ上の茶々さまの焦燥ぶりは従来説通りですが、以前からご解説されているように、茶々=お江=秀忠=千姫=秀頼の関係から~徳川は豊臣の一定の権威を尊重・認めていて、一種曖昧ながらも二元体制に近い状態を許容したこと⇒よく理解出来ました。しかし、いつかは(家康存命の内?に)徳川に従属するあくまで一大名(家格は高いことを許容しても良いが)とすることを豊臣には認めてもらいたいと考えていたであろうと私は思っていました。やはりキーポイントは二条城の会見でしたかぁ・・・茶々+秀頼も天下の大権返上とまではいかずとも、一種の特別親藩待遇(縁戚関係があるから)みたいなところを希望していたとのご解説。新鮮でした。それは結構、豊臣としては現実路線と言えなくもないですから~それまで、てっきり「政権を禅譲しなさい!」がマストだと思っていました。秀忠さんの名誉回復指向の為、豊臣に対して家康以上に厳しく当たった説~あり得るなぁと思いました。家康も秀吉に小牧合戦以後の再征を強行的に仕掛けられたら徳川は危なかった💦との認識があったと思います。そこで臣従したら秀吉からの信頼を受けたことに関して感謝の気持ちも少しは有ったのかな❓でも秀頼・茶々もあと一歩妥協しておけば良かったのに😅と思わざるを得ません。しかし大坂城退去(=転封)も妥協できない必須条件になっていましたか❓すると織田信雄の「父祖伝来の地・尾張などから動きたくない!」が重なってきて、豊臣の先行き暗いですねぇ・・・
たとえ家康に豊臣家を滅ぼす意志がなかったとしても、豊臣家を各下にしようとしたこと自体相手には到底受け入れがたいものであり、そこに秀忠の汚名返上が絡んだ時点でどのみち大坂の陣は不可避であったと思います。
片桐且元を追放した時点で大坂の陣は不可避だったと思いますね。ただ、家康は何重にも豊臣家を残すチャンスを与えていたのは間違いないので、どこかで家康の要求を飲んでいれば豊臣家の存続自体はできたのではないかと思ってしまいます。
@@nihonshi-salon そうそう。「本当にいいのか?本当に?」ってなんども聞いてるんだよなぁ。それなのに・・・。
牢人追放して江戸に移り住めば秀忠の娘婿としてそれなりに格の高い高家大名のような形で残れただろう。しかし戦国最後の大戦で滅ぶのも美しいといえば美しい。
(´・ω・`)身の程知らずのおぼっちゃんと世間知らずの婆さんが招いた惨事
豊臣秀長、秀次、もしくは石田三成が生きてるいたら大坂城無血開城で伏見辺りに移転で関白家として残れたかもね。
滅ぼすありきなら方広寺で常識的に考えてぜんぜん妥協できそうな条件を突きつけないよ。さくっと改易でも切腹でも申しつければいいし実際に秀吉は佐々成政へそう接している。それに二度も反乱を起こしてなお生かすのはやっぱ無理があるでしょ。反乱を起こすような豹変は秀頼が成人した途端に起こったのだから秀頼がそういう断固そういう考えだったと見る方が妥当。
まず方広寺の一件は大蔵卿と手打ちになってるし、俗に言う3か条で秀頼に迫ったのは片桐です。家康から秀頼に正式要請の資料は今のところ見つかっていません。一緒に交渉した大蔵卿はなにも聞いてなかったので、片桐の内通が疑われ、大野らによる暗殺未遂も起き、秀吉は片桐を追放することにします。これを聞いて激怒した家康はその日に大阪への出陣命令を出しています。翌日には秀頼も全国の大名や浪人に檄を飛ばし、大坂の陣が始まります。片桐が自分で善かれと思って判断したのか、裏で家康が大蔵卿と片桐に二枚舌を使ったのかは諸説あります。
関ヶ原の時の味方の大名もバシバシ潰したのは秀忠で、或る意味で優秀。外様どころか譜代や兄弟の親藩まで潰しているので、これは秦・漢などが出来た時も忠臣を粛清したのと似ている。秦二世皇帝は宦官出身の実質の最高権力者に害されたが、これが宇都宮城の釣り天井みたいな謀反で、下剋上が起きなかったのが、違いかもしれない。
武家と公家の中途半端な方向性が招いた結果関白家(公家)として生きていけば良かっただけ武家として生き延びるのには徳川に頭を下げるのが筋
茶々(淀殿)が意地でも天下人は秀吉の子である秀頼であり、徳川幕府は認めないとしたのでは?(ただし秀頼が本当に秀吉の血を引くのかは不明)
二条城で上座を譲って実質臣下の礼取ってるからなぁただ、関白就任は狙ってたので野心はありありだったと思う。いずれは順番で関白になった可能性があるので、その前に潰した家康は戦国大名として正しかったと思う。
豊臣側は、行く末の国のあり方のビジョンが機能してないように思うのです我の富と名声の固執が共感できなかったのかも‼️
やっぱり西田敏行さんの秀忠は最高でした👍
葵徳川三代の秀忠公は大好きです
秀・忠!!ハハッ(汗の定番のやり取りを思い出す
軍事的な手柄が乏しい秀忠が戦後の統治を考え、諸大名に実力を示したかったのでは?と
秀忠は自分が戦下手であることを知っていたから家康が死んだ後に立場が逆転することを予想していたでしょうね
関白の位などで実体の無い朝廷に寄って行った豊臣家と武士の世を目指している実感の有った徳川では乱世を生き抜いた武家達には簡単な選択だったと思う
関ヶ原から10年以上たってるし、本当に豊臣を滅ぼすつもりならもっと早く動いた気もするんですよね。家康が生きてるかもわからないわけだし。
そうなると福島や加藤が生きてるから戦になった時どう動くか分からんリスクがある少なくとも加藤と福島は三成憎しで関ヶ原では家康についたわけだから三成が居なくなった後に豊臣を攻める戦が起きたとしたら家康に味方する義理は無いわけだし
福島や加藤よりも家康が先に死ぬ可能性も十分にあったわけですし、それはそれでリスクですよね。どうするでも、成長が遅い秀忠にイラつく場面が描かれ、秀忠と秀頼の成長レースが表現されましたが、いかんせん尺が短すぎて。。
隆慶一郎さんの小説に出てくる「家康は英傑だが、秀忠は〇〇」というのが史実に近かったんですね。
影武者徳川家康?
@@石塚大吾-s2g あと『吉原赦免状』も秀忠さんがアレな性格ですwww
@@石塚大吾-s2gさんめちゃくちゃ悪役な奴ね
秀忠が豊臣秀頼と比べて戦したら負ける自信が有るって感じのどうする家康の予告だった。
豊臣も武家に拘らす公家としての転身を模索してれば存続したかも😢
模索してたけど、家康が秀吉の遺言である秀頼まで関白職を停止させる、を破ってまた五摂家独占に戻したから怒った秀頼は大臣辞めて、ちょっとした騒動になってる。たしか元服も公家のやり方だし、秀吉は最後まで羽柴の偏位を与えていたけど、秀頼は一度たりとも羽柴を名乗ってはいません。秀頼自身は公家だと思ってたと思う。武士だと将軍の命令に従わないといけないし、逆に摂家なら関白になって将軍よりも官位は上になるしね。まあ、徹底的に官位コントロールされてたけど。大権化さまに抜かりはない。一枚も二枚も上手でした笑
家康にとって四天王抜きで天下を治めるには必要な外様を味方に確保する必要があったからこそ、豊臣家も残そうと考えていたと思いますが。家康の思惑が外れたのは、関ケ原の戦により浪人が溢れ彼らが当然大坂城に集結していった事。こうなると淀と秀頼だけでは豊臣家をコントロール出来なくなり、城を枕に討ち死にする反徳川の巣窟に成り下がっていった。西軍だった輝元も景勝もお家存続の為に豊臣家を見切ったし、立花宗茂は浪人を経て徳川家の大名になってしまった事で明らか。秀忠の方が潰そうとしたのは時勢の成り行きで当然だっただけ。
お疲れ様です。平八郎、小平太が今回で最後。これで家康の若い頃からの家臣がいなくなっちゃて淋しくなります。あっ、正信が残ってましたね。我々がよく知ってる本田忠勝の肖像画、創作でしょうがいいエピソードだと思いました。確か、忠勝の辞世の句、家康の事を思うと死にたくない、死にたくないと詠んでたと、ドラマ同様に家康の事が好きだったんだなぁと思います。家康、小平太、平八郎の3人の笑い合うシーンが素敵だった。気になっていたのですが、寧々様の落飾は、もう少し先だったんですか?従来のドラマでは、もう尼の格好をしていたような。。。次回予告で家康を抱きしめたのは、もしかして氏真?
私も氏真さんだと思いました😃大坂冬の陣の頃まで存命だったようですね。
忠勝さんは亡くなる前年に「たとえ戦で手柄を挙げられずとも、難事に対して不退転に臨み~主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るのが侍というものだ!」旨を家臣たちに語っているそうですね。ドラマでも忠勝さんは、関ヶ原での傷が元で亡くなった井伊直政さんのことを準戦死と捉えて「あいつは上手くやりおった!」と一種、羨ましがっていたのが印象的でした。
毎年、西暦何年の演出が榊原康政と本田忠勝が亡くなるカウントダウンのように思えました。
@@hamham3601 まさにそうでした。と同時に~去り行く二人の老兵と成長してゆく秀頼さんを対比させた時間経過を柱のキズで表現するところ~約10年の時の流れを、違和感なく一話の中に盛り込んでいて秀逸でしたね。
もし本多忠勝・榊原康政の両名が大坂の陣まで存命だったら這ってでも参陣していただろう。最悪、輿に乗ってでも戦場に行きそうだな。大坂の陣まで存命なら66,7歳か・・・。因みに関ケ原で金森長近が76歳、島津義弘が65歳で参陣しています。
家康からしたら世代交代のタイミングで西側の豊臣勢と遺恨を残したくなかった。と言うのが本音かと。時間をかけて豊臣の周りを切り崩して反乱を防ぎたい。だから真っ向から豊臣潰したくはないはず
凡庸な秀忠にとって優れた資質を持っていた秀頼は脅威だったはずです。たとえ一大名になったとしても秀頼は幕府の重鎮になり、将軍である秀忠が霞んでしまうという事を恐れたのでしょう。
知ってた(゚∀゚)
自分が秀忠だったらやはり豊臣家を滅ぼさない限り遅参の屈辱を晴らす事は出来ないと考えるだろう。
前回の凡庸だと言われていた秀忠がコンプレックスから秀頼引いては豊臣家の滅亡を思っていたとしたらなかなか面白い展開だなぁと思いますねぇ〜にしても、後世の創作はどれだけ家康が豊臣憎しみたいに創作して豊臣家を滅ぼしたと書いていたか……まるで去年の鎌倉殿みたいに義時が敢えて己を悪人として描いて息子の泰時の評判を良くする為悪役に徹した姿のオマージュに見えてしまいますなぁ〜
このような話を大河で描かないのは本当に謎です。
五大老五奉行の表ですが、関ヶ原の合戦前に前田利家は病死してますけど‥
ありがとうございます!利長と表記したつもりが利家になっていました…気づかず申し訳ございません。
本当に豊臣家を滅ぼしたのは、秀吉自身と淀だと思う。秀吉は淀が再度子供を身ごもった際に、関白職を譲ったおいの秀次を強引に自害させ、その家族まで全員を殺害してしまった。もし秀次が関白のままであったなら、豊臣家が滅びることはなかったかも知れない。また淀は秀吉の子ではない男の子供を秀吉の子と偽り、天下を自分のものにしようとした。時代の流れも読み取れず、また私利私欲に走った愚かな女が豊臣家を滅ぼすことになった。愛人は愛人らしく、つつましやかにしていれば良かったものを、織田から天下を奪い取った秀吉への復讐を果たした結果、自らも滅びることになったに過ぎない。
秀次に秀頼が元服したら関白職は秀頼に譲るように秀吉が一筆書かせていれば歴史は変わったと思いますね。ただ豊臣政権の中での徳川家の領地からしてもう少し減らして移封していればまたそれも歴史が変わっていた可能性が。
同感です。ただ、徳川家康の実力を良く知っていた秀吉としては、江戸に国替えを命じた際に、江戸に国替えさせるが、石高は上がることを伝えないと、家康の反発があるのではないかと思ったのではないでしょうか? 豊臣家としては、秀吉が生きている内に徳川家と戦っておくべきだったと思います。個人的な展開ですが、秀吉の晩年は人間として狂っていたと思います。その点で徳川が天下を握ったのは神様のご意思だったのかも知れません。徳川政権に対する意見は様々ですが、その後、260年にも及ぶ平和の時代が続き、民が戦で苦しむことはなかったのですから。@@hamham3601
@@hamham3601秀吉の遺言で、秀頼までは関白職を凍結しています。家康はそれを破り元の五摂家ローテーションに戻したので、秀頼が怒って右大臣を辞する騒ぎに発展しました。最後は朝廷の業務が滞るとの家康の主張に、豊臣が折れることで決着しました。
秀次事件は秀吉の精子が腐ってて子供が出来ても?腐った劣化遺伝子のせいか早死にしたのが原因子孫残せないならどの道終わりやん
豊富秀次残しておかなかったのが運命分けたと思う。切腹させのも惨い
流石に政権は徳川に移っていただろうけど家は存続できただろうと思います。その引き換えに豊臣姓ではなく羽柴姓に復すとかになりそう。
名前の「通字」の問題(:北条なら「時」、徳川なら「家」という字が名前に入っているもの)で、秀忠には「家」が入って無くて、秀吉の「秀」が入っているということを、秀忠は大変気にしていたという説があって、それだからこそ、豊臣家(羽柴家)の存続に厳しくなった、なんてことがあったりして。
そもそも秀忠の秀は秀吉から拝領した一字だし何なら兄秀康の「秀」も弟忠吉の「吉」も秀吉から貰ってる一字本人はそんなに気にしてなかったと思うけど
縁戚大名、と言います
秀吉が秀忠の母方の祖先を土人呼ばわりしたって話をどこかで見た記憶があるけど、もしかしてそれが、、、、んなわけないかw
秀忠は家康の3男ですよ。江戸幕府2代目になりましたが、嫡男とは全然意味が違います
ご指摘ありがとうございます。嫡男は家督相続権を持つ子であり、長男とは異なります。当初は長男信康が嫡男でしたが、信康事件で廃嫡され、のちに秀忠が嫡男となっています。そのため、参考文献等も秀忠を嫡男と表記されていますので、本動画でも秀忠を嫡男としています。
秀忠は三男だよ。
秀忠は腹黒の人物ですね
サムネが、イチローさんに見える👀!
狸おやじかと思っていたが狸爺だったんですね!秀忠が豊臣を滅ぼしたかったなら豊臣が従属して一大名になっても家康死後福島みたいに難癖付けて結局お取潰しになっていたでしょうね。
関ヶ原の合戦後、山内に土佐を与えた神の君だったが、島津と手を組まれる事を懸念して、私の先祖を隠密として土佐に送り込んだのでございました。
大阪の陣の家康(関が原以降の家康で、おそらくは松平の一族の一人・世良田次郎三郎)は確かに豊臣を滅ぼすつもりはなかったでしょう。でもそれ以前の家康(戦国武将としての徳川家康。関が原で戦死)が生きていたら秀忠と同様の決断を下したでしょう。情けない自滅で幕府を滅ぼした足利家はともかく、戦国を終焉させた豊臣の声望は幕府にとって危険と判断したのではないでしょうか?そして秀忠も「本物の父が生きていたらそう考えるはずだ」との思いで行動したと思います。
秀吉は誠の武士ではないから!
ですね。摂家なので公家色の方が強いと思います。
【次回のライブは21:30スタートです!】
前の仕事の関係で21時に帰宅できるか微妙なので、21:30スタートにさせてください!
(お陰様で熱は下がりましたので、次回は元気に配信できると思います!ご心配おかけしました…!)
【訂正】
3:43 五大老の表ですが、前田利家ではなく前田利長の誤りです。初歩的なミスで申し訳ございません。
【補足】
「豊臣」は氏であり、名字は「羽柴」であるため、本来は「羽柴家」と呼称するのが適切ですが、本動画では一般的に使用される「豊臣家」で統一しています。予めご了承ください。詳しくは下記の動画で解説しています。
ruclips.net/video/WWQjVX5nA1k/видео.html
娘を嫁がせたのに浮気して子供つくられたら、父親切れるはな秀忠の気持ちわかる
滝田栄さん主演の大河ドラマ『徳川家康』はこの動画内容に近い形で描かれていますよね。大坂冬の陣がが始まった直後、先に大坂城を出た千姫からの嘆願により、家康は何とか秀頼を大坂城から脱出させようと尽力しますが、秀忠軍が勝手に大筒を天守閣に打ち込み、淀殿と秀頼を自害に追い込んでいましたね。
家康は秀吉から秀頼の将来を頼まれ直接約束していますから、「お守りする」以外の選択肢はなく、殺すなど論外なのです。
結局それをやってしまったので、家康の印象を守るために色々な説が出ているのですが、結果は約束を破った事に変わりはありません。
その事まで秀頼のせいにするのはおかしな傾向だと思います。
弟で越後高田75万の太守松平忠輝を改易にして、その分、真田幸村の兄信之を松代に国替え、福島正則の安芸備後50万石を改易にして、紀伊国主浅野家を国替え、そして弟頼宣が紀伊半島一帯を所領とする紀伊徳川家を創設したのも秀忠の時代。
余談ですけど、実は徳川は豊臣を完全に滅ぼしてはいません。
おねの兄の木下家定の子供たちに「豊臣」を名乗らせて小藩、旗本として三家を存続させてます。
豊臣が家康に服従して国替えしても豊臣恩顧の大名のように改易されてただろうな
秀吉が徳川を潰さなかった事によって豊臣が窮地に落ちてるから徹底的に叩いておきたかっただろうな
家康君では無く、秀忠君なのね。家康君が滅ぼす気は無くても、御高齢だった家康君、お亡くなりに成られるからなぁ、秀忠君が将軍に成られてからと、秀頼君が成人してから、変わったのね。返礼をして挨拶に行けばですけれど、家康君が亡くなられて、秀忠君が、本格的に権力を行使出来る様に成ったら、難癖をつけて、良くて改易、息子共々切腹させたかもね。
いつも分かり易い解説ありがとうございます😊
豊臣を滅ぼしたかったのは秀忠だった事を始めて知りました。
歴史の楽しさと大河ドラマの見方が変わり
とても良い勉強をさせていただいております。
これからも配信楽しみにしております😊
秀忠は自分が凡庸なのを知っており家康が存命のうちに豊臣を潰したかった。つまり家康の名前が無ければ他の大名は従わなかった可能性が高かった。
しかし、何故に秀忠は秀吉の死後に改名しなかったんですかねぇ?通字で家を入れるのが自然だと思うんだけど・・・・
関ヶ原での失態を挽回するために出陣したのに秀忠にとっては真逆の結果に…
こんばんは♪
動画ありがとうございます!
ライブ開始時間了解です🫡
家康が関ヶ原後に行った領地配分だけど、近年西国から豊臣家の宛行状が複数出てきて、単純に家康が好きに差配したわけでもないことがわかってきたね。
家康は秀吉死後法度破りと専横を始めるものの、関ヶ原の合戦までは豊臣家の家来として振る舞ってたが、合戦後態度を変え、頭越しに征夷大将軍を宣下させ、その3年後に秀忠に譲り、徳川家の天下としようと盛んに運動しました。
やがて豊臣家に臣従を求め、いう事を聞かないと武力で滅ぼし、子孫まで断絶させ、豊国大明神まで破壊しました。
これが結果としての事実です。
確かに世の中の秩序で言えば権力が一本化して戦争がなくなる方が望ましいですが、家康は主君(秀頼)から直接簒奪した所が日本史上でも稀有の事だったから、人としての義理や大義名分の点から何百年経っても批判されているのでしょう。
「豊臣家を滅ぼす事だけはしたくない」というのは、秀吉と直接約束したため後世の評判の点から流石にやりたくなかったというだけで、別に善性からではないと思います。
結局断絶させているのですから滅ぼそうと思っていたのと同じ事です。
偶然天下を取れた、豊臣家は自滅した、という類の論は家康に都合が良すぎると考えます。
徳川政権にとっては天に二日無しという事だったんでしょうね
新しい情報ですね。
確かに家康は大阪夏の陣の時も降伏すれば一大名として秀頼を生かそうとしていたふしがあるのである意味茶々事淀殿がそれをしたくなかったのが強いかもしれませんね。都市伝説として秀頼が生き残り、九州へ落ち延びたと言うのがありましたが、本当の所若干のでありますが家康としては秀頼を貴族側として活かす案も考えていたのかもしれませんね。
どうする、は家康公の前半生がメインテーマなので、後半生の尺が足りないのは仕方がない。物足りない人は「葵 徳川三代」を見るべし
そうかな 家康の本音は戦嫌いだったんだと思う
家康は 秀頼の母ちゃちゃに 子を 溺愛する女性の 母性に危険を感じていたんではないだろうか
それが豊臣滅亡につながった
この前飛行機の中で見た歴史番組では家康自体やはり豊臣家を滅ぼすつもりはなかったけど源頼朝が平家に許されその後平家を滅ぼすというのには影響されていたというのは間違いないだろうって小和田さんはおっしゃってましたね
ありがとうございます!個人的にはその後の統治方針も含め、秀忠のほうが頼朝に似ているのではと考えています(後日紹介できたらする予定です!)。
@@nihonshi-salon秀忠の頼朝との類似点の解説楽しみに待ってます!😊
今川氏真みたいな生き方なら家を残せたのだろう。
豊臣家が公家とか高家とかの形で残っていたら
幕末に豊臣家を担いで倒幕みたいな展開もあったりして
関ケ原の合戦後の家康の土地分配についてですが、一応関ケ原の戦い自体が豊臣家臣同士の争いであるとの名目である以上、豊臣家としては自分の直轄領からも勝利した家臣に恩賞を与えたという豊臣家も納得の分配という解釈でいいのですかね?
200万→70万石というとかなり減ってしまうので、どういう名目で豊臣家の直轄領を減らしたのかと思ったのですが。
建前上は西軍についた豊臣直轄地の代官を改易した、という形です。
飛び地だけならともかく、大坂から目と鼻の先の堺まで奪われたことで遺恨を残すことになります。
4つの金銀鉱山も奪われ、財力的にも徳川は豊臣以上に強大になっていきます。
ただ、強く抗議に出れなかったのは、豊臣家に残った片桐や大野では直轄地制圧すらできずに、幕府に代官を派遣して貰うことになったからといわれています。
治めも出来ないのに、返せとも言いづらいですし。
武力制圧しなかったのも淀の方針として関ヶ原牢人を集めて制圧するより、公家での官位を高め関白になることで独立政権を目指したのではないかと言われています。
関ヶ原のあと立花宗茂や後藤又兵衛など雇っておけばよかったのですが、まだ秀頼は幼すぎました。
信長、秀吉、家康と三代続いた一大事業、日本国統一。戦の無い平和国家。信長、秀吉も途中で挫折した。家康こそ最後の建設者であった!
豊臣が徳川家に臣従したとして
家康は豊臣を滅ぼす気は無かった
秀忠も恐らく滅ぼせなかった(江が頑なに反対しただろう)
家光は遠慮なく滅ぼした
と言う流れになってたと思う
最近だと淀殿と江の仲は決して良くなかったのではないかという説もあるようで…
@@nichirowar
仮に茶々と江の関係がよくなかったとしても千姫が犠牲になりかねないため江は承服しないと思います。(秀忠も敢えて娘を捨てたくはないだろうし)
納得の解説ですね。大河ドラマ 徳川家康で、滝田栄さんが家康役を演じられていましたが、大阪の陣で、秀頼・淀君が自害したときに家康が語った文言は、創作で狸親父を払拭するためかとその当時は思ってましたが、動画にあった話には賛同できます。では、秀頼の息子を殺害したのはこれも秀忠の命令だったのでしょうか?
今回も、新説解説により今までと異なる史実が見えて来ました。有名な寺社修復での豊臣家の支出のよる財政難もむしろ強調関係であったこと、大坂の陣後の約束違反の堀を埋めたことも創作だったのですね。途中までは豊臣、徳川双方が両立するような住み分け(ドラマでは豊臣は公家、徳川は武家と言われていました)ができていたのかもしれませんね。ただ、秀頼の成長に伴い、事態は推移していったのでしょう。
秀忠が家康より強硬に豊臣家を滅ぼそうとしていたというのは、意外でした。娘のことを考えて躊躇するという面はなかったのでしょうか?秀忠は、後に家康時代からの家臣も多く改易しているので、脱家康路線を取りたかった、独自色を出したかったのでしょうか?そうであれば、ドラマで言われていた”凡庸な二代目”とは対極にありますね。ちょっと不思議に感じます。関ヶ原の戦い前は、秀頼の代理として土地分配をしていた家康が、戦後は豊臣直轄領を含む地を分配し、京都、伏見、堺を支配していたという視点が、新鮮でした。
ありがとうございます!
>娘のことを考えて躊躇するという面はなかったのでしょうか?秀忠は、後に家康時代からの家臣も多く改易しているので、脱家康路線を取りたかった、独自色を出したかったのでしょうか?
千姫のことは史料にも記載がないので、わからないんですよね(家康のほうが心配していたように思います)奪還できる自信があったのか、功名心が上回ってしまったのか…何か史料がでてくるといいんですけどね。
おっしゃるとおり、家康死後の秀忠は家康の路線を継承している点としていない点があるので、そのあたりはまた近々動画で紹介したいなと思っています!
@@nihonshi-salon さん 楽しみにしています
そもそも三法師や織田信雄を一大名として扱い国替えを強制し応じなければ改易した豊臣家がなぜ国替えにたてついたのかが全く意味不明
家康も秀吉の国替え命令に従ってるわけだしね。
完全に淀殿が豊富家を滅ぼしたな。
雌鳥鳴いたら国滅ぶ
ノブオも家康も大幅加増の国替えだからね。
秀頼も加増の国替えなら、淀殿人質出して応じるって言ってるよ。
家康はそれを拒否して堀を埋めることを和睦の条件にした。
少しだけ加増して僻地に飛ばして、難癖付けて改易はできたと思う。やらなかっただけ。
そもそも豊臣政権を衰弱させたのは、淀殿と石田三成だと思う。
秀吉の朝鮮出兵の折、加藤清正や福島正則、黒田長政などの武闘派の戦功賞を、明日三成は秀吉にちゃんと報告しなかった為に、石田三成ら豊臣政権の事務方と軋轢が生じたのが、豊臣政権が滅びた一番の原因です。関ヶ原や大坂夏の陣などが仮に無かったとしても、徳川に取ったら目の上のたんこぶな訳だから、遅かれ早かれ豊臣家は滅ぶ運命だったと思います。
あと、秀忠はまだそんなに将軍といえども、まだまだ絶対的な発言力は無かった筈です。
まだ大御所が駿府で命令を発していたのですから、秀忠説はちょっと眉唾物と思いますね。
家康も信雄も大幅加増です。
秀頼も冬の陣の講和の際、加増国替えは自ら提案して望んでいました。
代わりに淀を江戸人質に送ることで纏まりかけていたのですが、家康公が「負けたわけではないのに加増は面子に関わる」とこれを拒否。
最終的には国替え、人質、牢人問題不問の代わりに、城割り(堀埋め)と大野&有楽の人質で決着することになります。
あと家康は大坂の陣までに秀頼に国替えを要求したことはありません。
秀頼が国替えに応じなかったから大坂の陣が勃発した、は嘘です。
原因は方広寺の一件がきっかけで揉め始め、片桐追放が決め手になったためです。
結局淀君のプライドの高さが身を滅ぼしたとしか言いようがないな😅
豊臣秀吉だって織田家から天下奪ったんだからやられないなんてことは豊臣だって思ってないはずだ
そもそも天下を奪われる側が悪いというのが当時の認識でした。
分かってるから、江戸城を普請したり、秀吉の遺言だった関白職を秀頼まで凍結を破られても受け入れたり、二条城で下座に座って実質進化の礼を取ったり、財源潰しの神社仏閣再建を行ったり、金銀鉱山4つも取られたけど文句も言ってない。関ケ原で220万から65万石にされたけど不満すら出してない。
むしろ淀殿は皆の前で「家康が秀頼の父です」宣言しちゃってる。
方広寺の事件までは最終的には全て幕府側の要請に従っています。
キリシタンに対する厳格な姿勢といい、秀忠はわりと冷徹な政治家だった
そうなんだよね
兄秀康の息子忠直がやらかした時も秀忠は忠直を切腹させようとした
(この時は土井利勝が必死に説得して改易で済ませた)
息子の忠長の事も割と早くに見限って冷遇してたみたいだし
かと思いきや家康に嫌われて冷遇されてた弟の忠輝を庇ったり
身内と言えど硬軟使い分ける人ではあったみたい
キリシタンは日本全体の危機に関わる問題だったから弾圧してでも抑える必要があった。
あの点では秀忠は絶対正義と言っても過言じゃない。
秀忠は高台院を実の母のように慕ってて
亡くなるまで良く面倒見てたなんて話もあるので
公私をきっちり分ける堅物ではあるけど基本的には情はあると思う。
千姫に秀頼と一緒に死ねと言ったり絶対本心じゃないのに
将軍はこうあらねばならないとか自分を縛るんだろうな。
19日放送回では、ついに徳川四天王が全て退場となりましたね。名残惜しく寂しく感じつつも描かれ方は良かったですね。ドラマ上の茶々さまの焦燥ぶりは従来説通りですが、以前からご解説されているように、茶々=お江=秀忠=千姫=秀頼の関係から~徳川は豊臣の一定の権威を尊重・認めていて、一種曖昧ながらも二元体制に近い状態を許容したこと⇒よく理解出来ました。しかし、いつかは(家康存命の内?に)徳川に従属するあくまで一大名(家格は高いことを許容しても良いが)とすることを豊臣には認めてもらいたいと考えていたであろうと私は思っていました。やはりキーポイントは二条城の会見でしたかぁ・・・茶々+秀頼も天下の大権返上とまではいかずとも、一種の特別親藩待遇(縁戚関係があるから)みたいなところを希望していたとのご解説。新鮮でした。それは結構、豊臣としては現実路線と言えなくもないですから~それまで、てっきり「政権を禅譲しなさい!」がマストだと思っていました。
秀忠さんの名誉回復指向の為、豊臣に対して家康以上に厳しく当たった説~あり得るなぁと思いました。家康も秀吉に小牧合戦以後の再征を強行的に仕掛けられたら徳川は危なかった💦との認識があったと思います。そこで臣従したら秀吉からの信頼を受けたことに関して感謝の気持ちも少しは有ったのかな❓でも秀頼・茶々もあと一歩妥協しておけば良かったのに😅と思わざるを得ません。しかし大坂城退去(=転封)も妥協できない必須条件になっていましたか❓すると織田信雄の「父祖伝来の地・尾張などから動きたくない!」が重なってきて、豊臣の先行き暗いですねぇ・・・
たとえ家康に豊臣家を滅ぼす意志がなかったとしても、豊臣家を各下にしようとしたこと自体相手には到底受け入れがたいものであり、そこに秀忠の汚名返上が絡んだ時点でどのみち大坂の陣は不可避であったと思います。
片桐且元を追放した時点で大坂の陣は不可避だったと思いますね。ただ、家康は何重にも豊臣家を残すチャンスを与えていたのは間違いないので、どこかで家康の要求を飲んでいれば豊臣家の存続自体はできたのではないかと思ってしまいます。
@@nihonshi-salon そうそう。「本当にいいのか?本当に?」ってなんども聞いてるんだよなぁ。
それなのに・・・。
牢人追放して江戸に移り住めば
秀忠の娘婿としてそれなりに格の高い高家大名のような形で残れただろう。
しかし戦国最後の大戦で滅ぶのも美しいといえば美しい。
(´・ω・`)身の程知らずのおぼっちゃんと世間知らずの婆さんが招いた惨事
豊臣秀長、秀次、もしくは石田三成が生きてるいたら大坂城無血開城で伏見辺りに移転で関白家として残れたかもね。
滅ぼすありきなら方広寺で常識的に考えてぜんぜん妥協できそうな条件を突きつけないよ。さくっと改易でも切腹でも申しつければいいし実際に秀吉は佐々成政へそう接している。
それに二度も反乱を起こしてなお生かすのはやっぱ無理があるでしょ。反乱を起こすような豹変は秀頼が成人した途端に起こったのだから秀頼がそういう断固そういう考えだったと見る方が妥当。
まず方広寺の一件は大蔵卿と手打ちになってるし、俗に言う3か条で秀頼に迫ったのは片桐です。
家康から秀頼に正式要請の資料は今のところ見つかっていません。
一緒に交渉した大蔵卿はなにも聞いてなかったので、片桐の内通が疑われ、大野らによる暗殺未遂も起き、秀吉は片桐を追放することにします。
これを聞いて激怒した家康はその日に大阪への出陣命令を出しています。
翌日には秀頼も全国の大名や浪人に檄を飛ばし、大坂の陣が始まります。
片桐が自分で善かれと思って判断したのか、裏で家康が大蔵卿と片桐に二枚舌を使ったのかは諸説あります。
関ヶ原の時の味方の大名もバシバシ潰したのは秀忠で、或る意味で優秀。外様どころか譜代や兄弟の親藩まで潰しているので、これは秦・漢などが出来た時も忠臣を粛清したのと似ている。
秦二世皇帝は宦官出身の実質の最高権力者に害されたが、これが宇都宮城の釣り天井みたいな謀反で、下剋上が起きなかったのが、違いかもしれない。
武家と公家の中途半端な方向性が招いた結果
関白家(公家)として生きていけば良かっただけ
武家として生き延びるのには徳川に頭を下げるのが筋
茶々(淀殿)が意地でも天下人は秀吉の子である秀頼であり、徳川幕府は認めないとしたのでは?
(ただし秀頼が本当に秀吉の血を引くのかは不明)
二条城で上座を譲って実質臣下の礼取ってるからなぁ
ただ、関白就任は狙ってたので野心はありありだったと思う。
いずれは順番で関白になった可能性があるので、その前に潰した家康は戦国大名として正しかったと思う。
豊臣側は、行く末の国のあり方のビジョンが機能してないように思うのです
我の富と名声の固執が共感できなかったのかも‼️
やっぱり西田敏行さんの秀忠は最高でした👍
葵徳川三代の秀忠公は大好きです
秀・忠!!
ハハッ(汗
の定番のやり取りを思い出す
軍事的な手柄が乏しい秀忠が戦後の統治を考え、諸大名に実力を示したかったのでは?と
秀忠は自分が戦下手であることを知っていたから家康が死んだ後に立場が逆転することを予想していたでしょうね
関白の位などで実体の無い朝廷に寄って行った豊臣家と武士の世を目指している実感の有った徳川では乱世を生き抜いた武家達には簡単な選択だったと思う
関ヶ原から10年以上たってるし、本当に豊臣を滅ぼすつもりならもっと早く動いた気もするんですよね。
家康が生きてるかもわからないわけだし。
そうなると福島や加藤が生きてるから
戦になった時どう動くか分からんリスクがある
少なくとも加藤と福島は三成憎しで関ヶ原では家康についたわけだから
三成が居なくなった後に豊臣を攻める戦が起きたとしたら家康に味方する義理は無いわけだし
福島や加藤よりも家康が先に死ぬ可能性も十分にあったわけですし、それはそれでリスクですよね。どうするでも、成長が遅い秀忠にイラつく場面が描かれ、秀忠と秀頼の成長レースが表現されましたが、いかんせん尺が短すぎて。。
隆慶一郎さんの小説に出てくる「家康は英傑だが、秀忠は〇〇」というのが史実に近かったんですね。
影武者徳川家康?
@@石塚大吾-s2g あと『吉原赦免状』も秀忠さんがアレな性格ですwww
@@石塚大吾-s2gさん
めちゃくちゃ悪役な奴ね
秀忠が豊臣秀頼と比べて戦したら負ける自信が有るって感じのどうする家康の予告だった。
豊臣も武家に拘らす公家としての転身を模索してれば存続したかも😢
模索してたけど、家康が秀吉の遺言である秀頼まで関白職を停止させる、を破ってまた五摂家独占に戻したから
怒った秀頼は大臣辞めて、ちょっとした騒動になってる。
たしか元服も公家のやり方だし、秀吉は最後まで羽柴の偏位を与えていたけど、秀頼は一度たりとも羽柴を名乗ってはいません。
秀頼自身は公家だと思ってたと思う。
武士だと将軍の命令に従わないといけないし、逆に摂家なら関白になって将軍よりも官位は上になるしね。
まあ、徹底的に官位コントロールされてたけど。
大権化さまに抜かりはない。一枚も二枚も上手でした笑
家康にとって四天王抜きで天下を治めるには必要な外様を味方に確保する必要があったからこそ、豊臣家も残そうと考えていたと思いますが。
家康の思惑が外れたのは、関ケ原の戦により浪人が溢れ彼らが当然大坂城に集結していった事。こうなると淀と秀頼だけでは豊臣家をコントロール出来なくなり、城を枕に討ち死にする反徳川の巣窟に成り下がっていった。
西軍だった輝元も景勝もお家存続の為に豊臣家を見切ったし、立花宗茂は浪人を経て徳川家の大名になってしまった事で明らか。秀忠の方が潰そうとしたのは時勢の成り行きで当然だっただけ。
お疲れ様です。
平八郎、小平太が今回で最後。これで家康の若い頃からの家臣がいなくなっちゃて淋しくなります。あっ、正信が残ってましたね。我々がよく知ってる本田忠勝の肖像画、創作でしょうがいいエピソードだと思いました。確か、忠勝の辞世の句、家康の事を思うと死にたくない、死にたくないと詠んでたと、ドラマ同様に家康の事が好きだったんだなぁと思います。
家康、小平太、平八郎の3人の笑い合うシーンが素敵だった。
気になっていたのですが、寧々様の落飾は、もう少し先だったんですか?従来のドラマでは、もう尼の格好をしていたような。。。
次回予告で家康を抱きしめたのは、もしかして氏真?
私も氏真さんだと思いました😃大坂冬の陣の頃まで存命だったようですね。
忠勝さんは亡くなる前年に「たとえ戦で手柄を挙げられずとも、難事に対して不退転に臨み~主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るのが侍というものだ!」旨を家臣たちに語っているそうですね。ドラマでも忠勝さんは、関ヶ原での傷が元で亡くなった井伊直政さんのことを準戦死と捉えて「あいつは上手くやりおった!」と一種、羨ましがっていたのが印象的でした。
毎年、西暦何年の演出が榊原康政と本田忠勝が亡くなるカウントダウンのように思えました。
@@hamham3601 まさにそうでした。と同時に~去り行く二人の老兵と成長してゆく秀頼さんを対比させた時間経過を柱のキズで表現するところ~約10年の時の流れを、違和感なく一話の中に盛り込んでいて秀逸でしたね。
もし本多忠勝・榊原康政の両名が大坂の陣まで存命だったら這ってでも参陣していただろう。
最悪、輿に乗ってでも戦場に行きそうだな。大坂の陣まで存命なら66,7歳か・・・。
因みに関ケ原で金森長近が76歳、島津義弘が65歳で参陣しています。
家康からしたら世代交代のタイミングで西側の豊臣勢と遺恨を残したくなかった。
と言うのが本音かと。時間をかけて豊臣の周りを切り崩して反乱を防ぎたい。
だから真っ向から豊臣潰したくはないはず
凡庸な秀忠にとって優れた資質を持っていた秀頼は脅威だったはずです。たとえ一大名になったとしても秀頼は幕府の重鎮になり、将軍である秀忠が霞んでしまうという事を恐れたのでしょう。
知ってた(゚∀゚)
自分が秀忠だったらやはり豊臣家を滅ぼさない限り遅参の屈辱を晴らす事は出来ないと考えるだろう。
前回の凡庸だと言われていた秀忠がコンプレックスから秀頼引いては豊臣家の滅亡を思っていたとしたらなかなか面白い展開だなぁと思いますねぇ〜
にしても、後世の創作はどれだけ家康が豊臣憎しみたいに創作して豊臣家を滅ぼしたと書いていたか……まるで去年の鎌倉殿みたいに義時が敢えて己を悪人として描いて息子の泰時の評判を良くする為悪役に徹した姿のオマージュに見えてしまいますなぁ〜
このような話を大河で描かないのは本当に謎です。
五大老五奉行の表ですが、関ヶ原の合戦前に前田利家は病死してますけど‥
ありがとうございます!利長と表記したつもりが利家になっていました…気づかず申し訳ございません。
本当に豊臣家を滅ぼしたのは、秀吉自身と淀だと思う。秀吉は淀が再度子供を身ごもった際に、関白職を譲ったおいの秀次を強引に自害させ、その家族まで全員を殺害してしまった。もし秀次が関白のままであったなら、豊臣家が滅びることはなかったかも知れない。また淀は秀吉の子ではない男の子供を秀吉の子と偽り、天下を自分のものにしようとした。時代の流れも読み取れず、また私利私欲に走った愚かな女が豊臣家を滅ぼすことになった。愛人は愛人らしく、つつましやかにしていれば良かったものを、織田から天下を奪い取った秀吉への復讐を果たした結果、自らも滅びることになったに過ぎない。
秀次に秀頼が元服したら
関白職は秀頼に譲るように
秀吉が一筆書かせていれば
歴史は変わったと思いますね。
ただ豊臣政権の中での徳川家の
領地からしてもう少し減らして
移封していればまたそれも
歴史が変わっていた可能性が。
同感です。ただ、徳川家康の実力を良く知っていた秀吉としては、江戸に国替えを命じた際に、江戸に国替えさせるが、石高は上がることを伝えないと、家康の反発があるのではないかと思ったのではないでしょうか? 豊臣家としては、秀吉が生きている内に徳川家と戦っておくべきだったと思います。個人的な展開ですが、秀吉の晩年は人間として狂っていたと思います。その点で徳川が天下を握ったのは神様のご意思だったのかも知れません。徳川政権に対する意見は様々ですが、その後、260年にも及ぶ平和の時代が続き、民が戦で苦しむことはなかったのですから。@@hamham3601
@@hamham3601
秀吉の遺言で、秀頼までは関白職を凍結しています。
家康はそれを破り元の五摂家ローテーションに戻したので、秀頼が怒って右大臣を辞する騒ぎに発展しました。
最後は朝廷の業務が滞るとの家康の主張に、豊臣が折れることで決着しました。
秀次事件は秀吉の精子が腐ってて子供が出来ても?腐った劣化遺伝子のせいか早死にしたのが原因
子孫残せないならどの道終わりやん
豊富秀次残しておかなかったのが運命分けたと思う。切腹させのも惨い
流石に政権は徳川に移っていただろうけど家は存続できただろうと思います。
その引き換えに豊臣姓ではなく羽柴姓に復すとかになりそう。
名前の「通字」の問題(:北条なら「時」、徳川なら「家」という字が名前に入っているもの)で、秀忠には「家」が入って無くて、秀吉の「秀」が入っているということを、秀忠は大変気にしていたという説があって、それだからこそ、豊臣家(羽柴家)の存続に厳しくなった、なんてことがあったりして。
そもそも秀忠の秀は秀吉から拝領した一字だし
何なら兄秀康の「秀」も弟忠吉の「吉」も秀吉から貰ってる一字
本人はそんなに気にしてなかったと思うけど
縁戚大名、と言います
秀吉が秀忠の母方の祖先を土人呼ばわりしたって話をどこかで見た記憶があるけど、もしかしてそれが、、、、
んなわけないかw
秀忠は家康の3男ですよ。
江戸幕府2代目になりましたが、嫡男とは全然意味が違います
ご指摘ありがとうございます。嫡男は家督相続権を持つ子であり、長男とは異なります。
当初は長男信康が嫡男でしたが、信康事件で廃嫡され、のちに秀忠が嫡男となっています。そのため、参考文献等も秀忠を嫡男と表記されていますので、本動画でも秀忠を嫡男としています。
秀忠は三男だよ。
ご指摘ありがとうございます。嫡男は家督相続権を持つ子であり、長男とは異なります。
当初は長男信康が嫡男でしたが、信康事件で廃嫡され、のちに秀忠が嫡男となっています。そのため、参考文献等も秀忠を嫡男と表記されていますので、本動画でも秀忠を嫡男としています。
秀忠は腹黒の人物ですね
サムネが、イチローさんに見える👀!
狸おやじかと思っていたが狸爺だったんですね!秀忠が豊臣を滅ぼしたかったなら豊臣が従属して一大名になっても家康死後福島みたいに難癖付けて結局お取潰しになっていたでしょうね。
関ヶ原の合戦後、山内に土佐を与えた神の君だったが、島津と手を組まれる事を懸念して、私の先祖を隠密として土佐に送り込んだのでございました。
大阪の陣の家康(関が原以降の家康で、おそらくは松平の一族の一人・世良田次郎三郎)は確かに豊臣を滅ぼすつもりはなかったでしょう。
でもそれ以前の家康(戦国武将としての徳川家康。関が原で戦死)が生きていたら秀忠と同様の決断を下したでしょう。
情けない自滅で幕府を滅ぼした足利家はともかく、戦国を終焉させた豊臣の声望は幕府にとって危険と判断したのではないでしょうか?
そして秀忠も「本物の父が生きていたらそう考えるはずだ」との思いで行動したと思います。
秀吉は誠の武士ではないから!
ですね。摂家なので公家色の方が強いと思います。