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【訂正】2:11 浅野幸長の読みを間違えていました。正しくは「あさのよしなが」です。申し訳ございません。今回の「どうする家康」では茶々(淀殿)が黒幕のように描かれていましたね。関ヶ原の戦いの時の茶々の動向については、次回のライブで少し触れたいと思います。
茶々はこの関ヶ原の戦い付近までは反対・反論はしていなかったというのがよ言われているので石田三成とかには『噛ませ犬』としてどちらでも転べる様にしたかったのかもしれないですけどね。まぁ間違いは誰でもあるので仕方ないですね。これまでの歴史も後世の歴史での名前や事実も変わるのでお気になさらずにです。配信お疲れ様でした。
淀が黒幕ってのは無理がある淀に豊臣家の武将を動かせるだけの力はない彼女は側室です 黒幕と言うならむしろ正室の北政所だと思いますね
今回の大河ドラマで淀殿が黒幕扱いってのはドラマの都合でしょうが三成が首謀者では無く毛利側が主で持つなり側は従と言う風に描きたかったと感じました。関ヶ原の布陣図に関してはあんなに北に布陣していたら佐和山に退却出来ないので変だなと長期間の関ヶ原合戦のゲームで感じていたので新説を聞いて納得してました。大垣城から移動して関ヶ原で決戦、ってのはよく考えると通説通りだと変。家康は毛利を調略してるから包囲されそうな所に入ってもOKと考えたとしてますがあの配置なら南宮山の毛利が叩かれてしまう。三成らは情勢不利を悟って佐和山方面に撤退するところを東軍に襲われた…大谷隊は後詰のはずが小早川との挟撃にあって瞬時に壊滅、そのまま西軍はボロ負けした…撤退を考えていたから関ヶ原南側の山中付近が戦場になったと考えるのが自然に思えてしまいます。
黒幕、というと「ある特定の人物」による指示があったというイメージとなりますが、古今限らず日本の政治は、集団の中で暗黙の合意が形成されていくパターンが多いです。関ヶ原も淀殿や毛利輝元の意向を受けて(示唆を受けて)、実行役の奉行衆が動いたといったところでしょう。「指示」ではなく「示唆」であるところが日本風です。しくじった際に、エラい人がなるべく責任を取らされずに済むような社会システムは昔も今も同じです。
定説が覆りつつある一方、新たな謎が出てくる。だから歴史はややこしく、そして面白いと思います。
いろんな方の新説紹介助かります。沢山の本や論文を読み込めるほどの頭を持ってないので、こうしてまとめてくださると、最近の歴史家たちがどのような研究をしているのか短い時間で理解できるので興味津々です。これからの研究がさらに楽しみになりますね。後世に作られた説を否定して、その時代の資料のみからどのような事実があったのかを探る・・・歴史研究者たちの腕の見せ所ですね。
お疲れ様です。新説が多くて、頭の中がごちゃごちゃします。😂でも、面白いですね。ドラマでは、正信の家康の肩を叩きながら、ぽんぽこぽん〜は笑いました。カッコイイ登場の忠勝、直政、康政、元忠に次いで守綱は、誰だぁーと言われちゃって、笑いを誘いましたね。殿と酒を酌み交わす元忠。これが最後になると分かってるので、涙が出ました。夏目広次、数正、忠次と重臣との別れのシーンは、今回丁寧に描かれていて良かったと思います。関ヶ原の黒幕は茶々にはビックリしました。また、白々しく光秀が勝手に挙兵して恐ろしいと手紙を送る、女狐ぶりに、あなたの方が恐ろしいんだよってツッコミを入れたくなりました。
新説には常に反論もあるので、どれが正解かはなかなか見極められないですよね。私も、次回の日本史サロンさんの解説を見てから、もう一度整理したいと思います。
超面白かったです😆
こういう歴史考証、面白いです。
山中の戦いは小早川vs大谷、関ケ原の戦いは徳川vs石田だったので、徳川の文献では関ケ原記述が多くなっていった。小早川は大谷隊を瞬時に壊滅させて関ケ原方面に進出、睨みを利かせる功績があったので家康書状はそのことを褒めた――と考えれば、2戦場説の説明はつく。そう読めるよねってことで真相がどうこうまで言わんが。
配信ありがとうございます。たしかに混乱してきました(^_^;)次回とセットで頭の整理をしたいです😃ドラマ進行は従来通りの「政権簒奪阻止」ですから、ドラマ視聴者も安心・安定でしょうが、研究では三成失脚後も家康との関係性が保たれていたという説から、何故三成出兵❓が今一つ腹に収まりません😅やはり毛利輝元❓いや、次回のご解説を待ちましょう!😁宜しくお願い致します。ドラマの~お茶々の黒幕説=二股命令(家康と三成派の両方に討伐命令)にもビックリ😵そう、来るか~。
襲撃事件は室町幕府の御所巻きみたいなイメージ
関ヶ原の場所は興味ありますね。でも山中だと何処でも日本中にあるから、要所の関の前の原っぱの方が分かり易いからでしょうね。本当なら関の山中…もちょっと違うかなw
毎度、新しい歴史観をありがとうございます。関ケ原は色々な歴史観がありますよね。その歴史観の中で 小早川秀秋は決戦前日に寝返った?のは他の歴史動画でもその考え方があるのは知っていましたが、本戦の戦場は関ヶ原ではなかった、山中が戦場であった?は初めて知りました。また 毛利家は本戦前日に降伏したのか?これも新しい歴史観になるかと思います。河原先生は、どのようにこのような新説を知られるのですか?やはり書籍ですか?
御返事が遅れてしまい大変申し訳ございません!基本的には書籍ですね〜!(今回は論文もいくつかあたりましたが…!)動画の概要欄にあるので、気になるものがあれば読んでみてください…!
密約であれば特に書物の形では残りにくいでしょう。手紙等が残されていたとしても、実際本人がどういう考えで動いていたかは本人の心の中をのぞかない限り理解はできない。歴史って本当に難しい。また大河ドラマでは家康が三成を庇護したという説を取り入れなかったわけですね。色んな新説がある中でドラマを作らなければならない。ドラマスタッフも大変。歴史考証において全ての視聴者を満足させることなんて不可能なんでしょうね。
質問です。7:33と12:58に出てくる光成氏というのは、専門家の先生でしょうか?三成と家康を戦わせようと裏で操る茶々さまの笑みは怖かったですね〜🫣
御返事が遅れてしまい大変申し訳ございません!光成準治氏という先生です。紛らわしいのに紹介をせず失礼いたしました。今後気をつけます。
首謀者は毛利輝元で、野心家の輝元が勝利したなら豊臣政権が危うくなるから三成が出陣したて説も出てきてますよね。
確か、関ヶ原に関する新説って、①関ヶ原付近に布陣していた西軍の大谷隊が、夜明けに(小早川軍の救援要請を受けて出撃してきた)東軍先鋒部隊と松尾山から降りてきた小早川隊に挟み撃ちにされて壊滅→②山中近辺に陣取っていた西軍諸部隊が午前10時頃に東軍の大軍に攻撃されて2時間で蹴散らされた、という概要だよね。だとすれば、白峰氏に対する反論はそれほど説得力があるようには思われないけど。だって、「2時間で決着が着いた」と認識されている戦いが②の戦闘であって、かつ、家康が小早川に謝意を示している戦いが①の戦闘である可能性も大いにあるわけで。しかも、①の戦闘については時間が経つにつれて話が盛られて創作じみた真似までもされてた節もあるから、書状等でも山中と関ヶ原がゴッチャにされてるのは何ら不自然な話でもないでしょ。あと、小早川前日裏切り懐疑説論者は、西軍の諸部隊が松尾山に向けて陣地を構築していたという話や、石田三成の「松尾山には毛利勢を入れてほしい」という内容の一次史料との整合性についてはどう説明するんだろうね。一見小早川軍にメリットがなくても、早めに東軍に救援要請を出して上手いこと後詰めをさせれば逆に敵を殲滅できるよ。西軍としても東軍の大軍に大垣城を攻められてた状況だったから、城郭化していた松尾山に入った小早川軍をすぐに包囲殲滅できるだけの余力があったとも思えないし。
関ヶ原に限らず定説の大半は二次史料なので…鵜呑みには出来ない。真相は一次史料。とはいえ1つ2つで断定も難しいが。
私は毛利▪吉川▪小早川をセット(3本の矢)と考えるので小早川が裏切った時点で周りは毛利勢が裏切ったと考えたと思い(新たな裏切りを誘発した)勝敗を決したと思う。
う~ん、二段階にわたる戦闘となると、がっぷり四つの組み合いではなかったという見方ができますね?この辺り難しいですが~例えば、桶狭間古戦場跡についても二説で意見が分かれています。(名古屋市緑区と隣接する豊明市)こちらも戦域の移動・戦いの推移を表していると言えるかもしれませんね。どちらも戦場跡だと・・・今川義元公討ち死場所がある程度判明していれば、其処に定めても良いとは思いますが、今川軍への追撃戦の場所としたら(豊明市側か?)そちらも戦跡ということを否定出来ないと思います。関ケ原・桶狭間どちらも辺り一帯の土地の錯綜具合も関係しますね。
山中で西軍壊滅、一部は東に逃げてきた。それを毛利監視後の家康が退治。家康は何もしてないと言われたくないので家康は残党狩りを戦闘と言い張った。違うかな?😅
訴訟行為だったとすれば、奉行を隠居させるには相応の根拠が必要な所三成の罪状が分からない所が問題です。毛利輝元については、関ヶ原本戦後も大坂城におり、毛利勢は無傷でしたから、黒田・加藤らと連携すればまだ戦えたと思われますが、あっさり退去しているのは謎です。
家康を総大将とした上杉討伐軍(公儀による軍編成)に対して金穀(二万両と二万石)の下賜は、おそらく史実でしょうが~なんと三成の佐和山城内にも金の延べ棒が⁉ザクっと~茶々さまの豊臣グループ・影のオーナー宣言ですね😅実際のところ、西軍側に公儀下賜の「餅代」は無かったのでしょうか❓あっても、そんなに不思議ではない気が・・・😁⇒10/31ライブにて、『東軍西軍双方に対して茶々は中立だったがどちらかというと【東軍寄り】の中立。(東軍=上杉討伐軍は豊臣としての指令ですから、当然と言えば当然ですね)西軍(毛利輝元ら)の大坂城入りも半ばクーデター状態。茶々はそれに対して弾劾こそしていないものの、秀頼からのお墨付き発給などを認めず西軍を是認しつつも静観する構え&家康に事態収拾の為に戻ってきて欲しい旨の書状を送っている』件などのご解説ありがとうございました😃西軍への軍資金供与はあり得ないですね😅
小早川秀秋は裏切り者ではなく、忠義に厚い勇猛果敢な猛将。ただ体調は実際悪かった。吉川広家が動かなかったのには、色々理由があっただろうな。降伏交渉はしていて徳川家康はそれを長引かせている間に関ヶ原(山中)で決着がついたんだろう。いずれにせよ吉川広家のおかげで毛利家は残ったともいえるし、関ヶ原で敗北したともいえる。・・・まぁ、西軍が勝つ可能性は薄かったから、広家のおかげで長州藩は存続できたとするのが正解だろうな。
七之助さんが頼みの綱他は大根
清正にブチ切れされて、キョトンとしている芝居は場違いに感じた。自らの失言が分かっていない事を表現したとされる向きもあるが、眼から血(涙)を流さんばかりに怒りを爆発させる淵上さんの熱い演技に全く噛み合っていなかった。
三成襲撃は御所巻きでは?
なんで数百年前の事実がわからないのか?😮
創作かよ
毛利軍や小早川軍は大軍なのに山に陣取ったので敵(東軍)からも丸見え状態。東軍から三成らが大垣城から出て関ケ原の麓に陣を構えたことも丸見えだったのに戦が長期化するのはあり得ません。長期化するのには敵の動向が分からないことも必須条件ではないでしょうか。このことから毛利輝元は三成にそそのかされていたのではなく、家康に領土拡大を目論んでいた野心を黙認されて代わりに三成が挙兵したら西軍に付くよう家康から"恐喝されていた"のでは。領土拡大は婚姻よりも秀吉の遺言に背く行動ですから。家康も秀頼様に忠義する名目で戦に臨んでいる為、大坂城を別の誰かに乗っ取られると戦に勝利しても責任を詰問されるため、輝元には大坂城にいてくれた方が都合がよいという説です。毛利軍は関ケ原にいましたが…立花宗茂軍が代わりに守るのを無視して進軍したため大津城の京極高次に寝返らせて足止めさせたと。
西軍は前半優勢であり、小早川軍が合戦当初より参戦したとは思えません。後半の裏切りですよ、小早川軍の松野主馬は同意せず参戦しませんでした
この大河の登場人物はみんな脳みそお花畑だね
脚本家がお花畑だからね
【訂正】2:11 浅野幸長の読みを間違えていました。正しくは「あさのよしなが」です。申し訳ございません。
今回の「どうする家康」では茶々(淀殿)が黒幕のように描かれていましたね。
関ヶ原の戦いの時の茶々の動向については、次回のライブで少し触れたいと思います。
茶々はこの関ヶ原の戦い付近までは反対・反論はしていなかったというのがよ言われているので石田三成とかには『噛ませ犬』としてどちらでも転べる様にしたかったのかもしれないですけどね。まぁ間違いは誰でもあるので仕方ないですね。これまでの歴史も後世の歴史での名前や事実も変わるのでお気になさらずにです。配信お疲れ様でした。
淀が黒幕ってのは無理がある
淀に豊臣家の武将を動かせるだけの力はない
彼女は側室です 黒幕と言うならむしろ正室の北政所だと思いますね
今回の大河ドラマで淀殿が黒幕扱いってのはドラマの都合でしょうが三成が首謀者では無く毛利側が主で持つなり側は従と言う風に描きたかったと感じました。関ヶ原の布陣図に関してはあんなに北に布陣していたら佐和山に退却出来ないので変だなと長期間の関ヶ原合戦のゲームで感じていたので新説を聞いて納得してました。大垣城から移動して関ヶ原で決戦、ってのはよく考えると通説通りだと変。家康は毛利を調略してるから包囲されそうな所に入ってもOKと考えたとしてますがあの配置なら南宮山の毛利が叩かれてしまう。
三成らは情勢不利を悟って佐和山方面に撤退するところを東軍に襲われた…大谷隊は後詰のはずが小早川との挟撃にあって瞬時に壊滅、そのまま西軍はボロ負けした…撤退を考えていたから関ヶ原南側の山中付近が戦場になったと考えるのが自然に思えてしまいます。
黒幕、というと「ある特定の人物」による指示があったというイメージとなりますが、古今限らず日本の政治は、集団の中で暗黙の合意が形成されていくパターンが多いです。関ヶ原も淀殿や毛利輝元の意向を受けて(示唆を受けて)、実行役の奉行衆が動いたといったところでしょう。「指示」ではなく「示唆」であるところが日本風です。しくじった際に、エラい人がなるべく責任を取らされずに済むような社会システムは昔も今も同じです。
定説が覆りつつある一方、新たな謎が出てくる。だから歴史はややこしく、そして面白いと思います。
いろんな方の新説紹介助かります。
沢山の本や論文を読み込めるほどの頭を持ってないので、こうしてまとめてくださると、最近の歴史家たちがどのような研究をしているのか短い時間で理解できるので興味津々です。
これからの研究がさらに楽しみになりますね。
後世に作られた説を否定して、その時代の資料のみからどのような事実があったのかを探る・・・歴史研究者たちの腕の見せ所ですね。
お疲れ様です。
新説が多くて、頭の中がごちゃごちゃします。😂でも、面白いですね。
ドラマでは、正信の家康の肩を叩きながら、ぽんぽこぽん〜は笑いました。
カッコイイ登場の忠勝、直政、康政、元忠に次いで守綱は、誰だぁーと言われちゃって、笑いを誘いましたね。
殿と酒を酌み交わす元忠。これが最後になると分かってるので、涙が出ました。夏目広次、数正、忠次と重臣との別れのシーンは、今回丁寧に描かれていて良かったと思います。関ヶ原の黒幕は茶々にはビックリしました。また、白々しく光秀が勝手に挙兵して恐ろしいと手紙を送る、女狐ぶりに、あなたの方が恐ろしいんだよってツッコミを入れたくなりました。
新説には常に反論もあるので、どれが正解かはなかなか見極められないですよね。私も、次回の日本史サロンさんの解説を見てから、もう一度整理したいと思います。
超面白かったです😆
こういう歴史考証、面白いです。
山中の戦いは小早川vs大谷、関ケ原の戦いは徳川vs石田だったので、徳川の文献では関ケ原記述が多くなっていった。小早川は大谷隊を瞬時に壊滅させて関ケ原方面に進出、睨みを利かせる功績があったので家康書状はそのことを褒めた――と考えれば、2戦場説の説明はつく。そう読めるよねってことで真相がどうこうまで言わんが。
配信ありがとうございます。たしかに混乱してきました(^_^;)次回とセットで頭の整理をしたいです😃ドラマ進行は従来通りの「政権簒奪阻止」ですから、ドラマ視聴者も安心・安定でしょうが、研究では三成失脚後も家康との関係性が保たれていたという説から、何故三成出兵❓が今一つ腹に収まりません😅やはり毛利輝元❓いや、次回のご解説を待ちましょう!😁宜しくお願い致します。
ドラマの~お茶々の黒幕説=二股命令(家康と三成派の両方に討伐命令)にもビックリ😵そう、来るか~。
襲撃事件は室町幕府の御所巻きみたいなイメージ
関ヶ原の場所は興味ありますね。
でも山中だと何処でも日本中にあるから、要所の関の前の原っぱの方が分かり易いからでしょうね。
本当なら
関の山中…もちょっと違うかなw
毎度、新しい歴史観をありがとうございます。関ケ原は色々な歴史観がありますよね。その歴史観の中で 小早川秀秋は決戦前日に寝返った?のは他の歴史動画でもその考え方があるのは知っていましたが、本戦の戦場は関ヶ原ではなかった、山中が戦場であった?は初めて知りました。また 毛利家は本戦前日に降伏したのか?これも新しい歴史観になるかと思います。河原先生は、どのようにこのような新説を知られるのですか?やはり書籍ですか?
御返事が遅れてしまい大変申し訳ございません!
基本的には書籍ですね〜!(今回は論文もいくつかあたりましたが…!)動画の概要欄にあるので、気になるものがあれば読んでみてください…!
密約であれば特に書物の形では残りにくいでしょう。手紙等が残されていたとしても、実際本人がどういう考えで動いていたかは本人の心の中をのぞかない限り理解はできない。
歴史って本当に難しい。
また大河ドラマでは家康が三成を庇護したという説を取り入れなかったわけですね。
色んな新説がある中でドラマを作らなければならない。ドラマスタッフも大変。歴史考証において全ての視聴者を満足させることなんて不可能なんでしょうね。
質問です。7:33と12:58に出てくる光成氏というのは、専門家の先生でしょうか?
三成と家康を戦わせようと裏で操る茶々さまの笑みは怖かったですね〜🫣
御返事が遅れてしまい大変申し訳ございません!
光成準治氏という先生です。紛らわしいのに紹介をせず失礼いたしました。今後気をつけます。
首謀者は毛利輝元で、野心家の輝元が勝利したなら豊臣政権が危うくなるから三成が出陣したて説も出てきてますよね。
確か、関ヶ原に関する新説って、①関ヶ原付近に布陣していた西軍の大谷隊が、夜明けに(小早川軍の救援要請を受けて出撃してきた)東軍先鋒部隊と松尾山から降りてきた小早川隊に挟み撃ちにされて壊滅→②山中近辺に陣取っていた西軍諸部隊が午前10時頃に東軍の大軍に攻撃されて2時間で蹴散らされた、という概要だよね。だとすれば、白峰氏に対する反論はそれほど説得力があるようには思われないけど。だって、「2時間で決着が着いた」と認識されている戦いが②の戦闘であって、かつ、家康が小早川に謝意を示している戦いが①の戦闘である可能性も大いにあるわけで。しかも、①の戦闘については時間が経つにつれて話が盛られて創作じみた真似までもされてた節もあるから、書状等でも山中と関ヶ原がゴッチャにされてるのは何ら不自然な話でもないでしょ。
あと、小早川前日裏切り懐疑説論者は、西軍の諸部隊が松尾山に向けて陣地を構築していたという話や、石田三成の「松尾山には毛利勢を入れてほしい」という内容の一次史料との整合性についてはどう説明するんだろうね。一見小早川軍にメリットがなくても、早めに東軍に救援要請を出して上手いこと後詰めをさせれば逆に敵を殲滅できるよ。西軍としても東軍の大軍に大垣城を攻められてた状況だったから、城郭化していた松尾山に入った小早川軍をすぐに包囲殲滅できるだけの余力があったとも思えないし。
関ヶ原に限らず定説の大半は二次史料なので…鵜呑みには出来ない。
真相は一次史料。とはいえ1つ2つで断定も難しいが。
私は毛利▪吉川▪小早川をセット(3本の矢)と考えるので小早川が裏切った時点で周りは毛利勢が裏切ったと考えたと思い(新たな裏切りを誘発した)勝敗を決したと思う。
う~ん、二段階にわたる戦闘となると、がっぷり四つの組み合いではなかったという見方ができますね?この辺り難しいですが~例えば、桶狭間古戦場跡についても二説で意見が分かれています。(名古屋市緑区と隣接する豊明市)こちらも戦域の移動・戦いの推移を表していると言えるかもしれませんね。どちらも戦場跡だと・・・今川義元公討ち死場所がある程度判明していれば、其処に定めても良いとは思いますが、今川軍への追撃戦の場所としたら(豊明市側か?)そちらも戦跡ということを否定出来ないと思います。関ケ原・桶狭間どちらも辺り一帯の土地の錯綜具合も関係しますね。
山中で西軍壊滅、一部は東に逃げてきた。それを毛利監視後の家康が退治。家康は何もしてないと言われたくないので家康は残党狩りを戦闘と言い張った。
違うかな?😅
訴訟行為だったとすれば、奉行を隠居させるには相応の根拠が必要な所三成の罪状が分からない所が問題です。
毛利輝元については、関ヶ原本戦後も大坂城におり、毛利勢は無傷でしたから、黒田・加藤らと連携すればまだ戦えたと思われますが、あっさり退去しているのは謎です。
家康を総大将とした上杉討伐軍(公儀による軍編成)に対して金穀(二万両と二万石)の下賜は、おそらく史実でしょうが~なんと三成の佐和山城内にも金の延べ棒が⁉ザクっと~茶々さまの豊臣グループ・影のオーナー宣言ですね😅実際のところ、西軍側に公儀下賜の「餅代」は無かったのでしょうか❓あっても、そんなに不思議ではない気が・・・😁
⇒10/31ライブにて、『東軍西軍双方に対して茶々は中立だったがどちらかというと【東軍寄り】の中立。(東軍=上杉討伐軍は豊臣としての指令ですから、当然と言えば当然ですね)西軍(毛利輝元ら)の大坂城入りも半ばクーデター状態。茶々はそれに対して弾劾こそしていないものの、秀頼からのお墨付き発給などを認めず西軍を是認しつつも静観する構え&家康に事態収拾の為に戻ってきて欲しい旨の書状を送っている』件などのご解説ありがとうございました😃西軍への軍資金供与はあり得ないですね😅
小早川秀秋は裏切り者ではなく、忠義に厚い勇猛果敢な猛将。ただ体調は実際悪かった。
吉川広家が動かなかったのには、色々理由があっただろうな。降伏交渉はしていて徳川家康はそれを長引かせている間に関ヶ原(山中)で決着がついたんだろう。
いずれにせよ吉川広家のおかげで毛利家は残ったともいえるし、関ヶ原で敗北したともいえる。・・・まぁ、西軍が勝つ可能性は薄かったから、広家のおかげで長州藩は存続できたとするのが正解だろうな。
七之助さんが頼みの綱
他は大根
清正にブチ切れされて、キョトンとしている芝居は場違いに感じた。
自らの失言が分かっていない事を表現したとされる向きもあるが、眼から血(涙)を流さんばかりに怒りを爆発させる淵上さんの熱い演技に全く噛み合っていなかった。
三成襲撃は御所巻きでは?
なんで数百年前の事実がわからないのか?😮
創作かよ
毛利軍や小早川軍は大軍なのに山に陣取ったので敵(東軍)からも丸見え状態。東軍から三成らが大垣城から出て関ケ原の麓に陣を構えたことも丸見えだったのに戦が長期化するのはあり得ません。長期化するのには敵の動向が分からないことも必須条件ではないでしょうか。
このことから毛利輝元は三成にそそのかされていたのではなく、家康に領土拡大を目論んでいた野心を黙認されて代わりに三成が挙兵したら西軍に付くよう家康から"恐喝されていた"のでは。領土拡大は婚姻よりも秀吉の遺言に背く行動ですから。
家康も秀頼様に忠義する名目で戦に臨んでいる為、大坂城を別の誰かに乗っ取られると戦に勝利しても責任を詰問されるため、輝元には大坂城にいてくれた方が都合がよいという説です。毛利軍は関ケ原にいましたが…立花宗茂軍が代わりに守るのを無視して進軍したため大津城の京極高次に寝返らせて足止めさせたと。
西軍は前半優勢であり、小早川軍が合戦当初より参戦したとは思えません。後半の裏切りですよ、小早川軍の松野主馬は同意せず参戦しませんでした
この大河の登場人物はみんな脳みそお花畑だね
脚本家がお花畑だからね