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毌丘倹の動画だから控えるべきかもしれないけれど、司馬懿を『名将司馬懿』足らしめたのはやっぱり異常なまでの行軍速度なんだよな。古今東西、名将の率いた軍は必ずと言っていい程早く動く。無双とか演義だと諸葛亮が五丈原に戦場を設定したように書かれるけど、実際は司馬懿が既に到着してたからそこに陣を敷かざるを得なかったんじゃないかと。三国志だと曹躁、司馬懿がこの特徴が出ていると思う。
現在はどうなってるか分かりませんが、かつてのコーエーの三国志シリーズでは毌丘倹は隠しステータスの義理が0で野心は15という感じの設定になっていましたが、「これっておかしくね?」とずっと思っていました。それに対し劉備は常に義理:15ということも含めて。
三国志の三英傑没後の時代に関する読み物が少なくて、今までの私の認識は毌丘倹は大した計画も立てずに蜂起して、その反乱は司馬師に看破されており、素早く鎮圧されてしまった人物…だったのですが、名将であったことなどは知りませんでした。鍾会、登艾、諸葛誕、夏侯覇あたりは読んだ本の中に出てきて少しは知っていたのですが毌丘倹は一言で言うと反逆者くらいの認識でしたね。認識を改めさせられました❗️😁名将で忠臣、毌丘倹ですね❗️😁👍️
そうするしかないとはいえども死にかけの身で強行した司馬師も凄まじいよな
司馬懿の下にいた時に戦について学んだのかもしれないですねそう考えると失敗しても腐らないまっすぐな人物だったのかも
某ゲームのイメージが強すぎて文欽と反乱おこしたくらいしか知らなかったから見て良かったですー
近年の田中俊明氏の調査で毋丘(ぶきゅう)とされる証拠があるそうですね。三国志展に行って初めて知りましたが、まだ自分も馴染んでいません(笑)
自分も三国志展に行って、これからはこっちが主流になるんだなぁと思いました(笑)
証拠というか確率というか世の流れが今そんな感じらしいですねでももう今さらだしカンでいい気もしますけど
諸葛誕は不仲だった文欽が先に毌丘倹軍に参加していたので毌丘倹の反乱に加わらず、むしろ鎮圧する方に回ったと言われている。
結果論になっちゃうんだけど、後で反乱するなら一緒にしてしまえばとは考えちゃうよね
文欽・・・あちこちで問題を起こす厄介者だね。だから諸葛誕も後に反乱を起こすときは文欽なんかと組まなければよかったのにね。
@@stone3944 諸葛誕が反乱を起こした時には「呉に援軍要請をしたら援軍として来た武将の一人が文欽だった」という流れだったので選択の余地は無かったかと。
政治とか関係なく武人として仕えていたんだろうな…だからこそ我慢がならなかったと想像しちゃう
三国志後半になると、前半に見かけない姓が出てくる。毋丘姓は黄巾の乱の頃ってどこで何をしていたんだろう?
特に理由はないけどこの人好き
毌丘倹の妻の荀氏は荀顗らの嘆願によって許され、娘も母の荀氏が何曾に助命を嘆願したため許されてますね。呉への使者となった毌丘宗はそのまま呉に仕えて、西晋が呉を討伐後息子の毌丘奥と共に西晋に出仕しているあたり、族滅したわけでは無さそうです。
補足助かる(´;ω;`)
『毌丘倹』の字に関してはそもそも『母(はは)』だと思い込んでいた派です('ω')ノ関西では母親のことを「おカン」と呼ぶので「ああ中国語でも『母』は「カン」って読むんだな😃」と普通に思ってた笑 ※たまたまですが本当に今回解説にあがった『毋(ブ)』の字は『母(ボ)』から音だけ借りて派生したそうです後に「わかりづれえよ!」ってなって『毋(「無い」)』と『母(「はは」)』で意味ごとに文字を微妙に書き分けた(真ん中のちょんちょん部分笑)ようです('ω')ノ
司馬師が逝くまで暫し待てなかったのか。
それを暗に文欽に伝えようとしたけど、当の文欽は全く気づいてなかった、みたいなエピソードをどっかで見た気がする……(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 尹大目さんですね
日本でも天皇になる望みを断たれた以仁王が1180年に平清盛に対して反乱を起こしてるからねぇ 大それたこと故歯止めがかからないのかもしれない 因みに清盛は翌年に亡くなった
王凌、毌丘倹、諸葛誕の淮南三反は司馬氏との格の差を感じますね。反乱せざるを得ない状況に持っていって各個撃破。後世の人間からしたら、仲違いせずに一緒に反旗を翻したらよかったのにと思いますが、その人間関係も含めて司馬氏の手のひらなんでしょうね。
毋丘倹「司馬昭に変わってくれれば大丈夫だから…」文欽「司馬氏、絶対に許さん」毋丘倹「えっ?」文欽「えっ?」
文鴦「父さん!なんとか司馬師を追い詰めました!」文欽「敵多過ぎワロタ。無理だ逃げよ」文鴦「えっ」文欽「うん?」
@@KOUMEI_NO_WANADA 文虎「あかん、これはオワタ」
文欽の害悪さがやばい
高句麗は毌丘倹に叩きのめされて丸都城(現吉林省)から平壌に逃走したので、ここで中国史から朝鮮史になるんですね。(現在の国境線で語ることの無意味さはおいといて)さておき、曹操が死にかけた北伐ルート(実際郭嘉は病死した)を踏破した毌丘倹はもっと評価されてもいいのでは? と思ってます。
あの快進撃はもはや異常の域だと思ってます(笑)
《毌丘倹の記述で見逃せない事実は、毌丘倹の出身地が河東郡聞喜県で、裴潜・裴秀親子と同県同郷であるという事》毌丘倹が荊州刺史となったのは、裴潜が尚書として中央に召還された後任であるという事。録尚書事陳羣の死後、裴潜が尚書令となった時に、毌丘倹は幽州刺史に異動しているのです。つまり、裴潜の肝煎り人事で、対公孫淵討伐の準備に送り込まれたと言えます。毌丘倹にとって、司馬懿は荊州刺史時代の上官という縁もあり、司馬懿の弟司馬孚は、同郷の裴潜と同僚の尚書。鄧艾はこの時、中央に出てきて尚書郎となっていました。特に、裴潜は異民族外交のスペシャリストで、毌丘倹単独では倒すのは難しいと、公孫淵を孤立無援にする下準備をしていたと考えられます。司馬懿が容易に公孫淵討伐を成功させたものの、司馬懿の居ぬ間に曹爽が実権を握り、更に曹叡が亡くなった事で、裴潜も政治の表舞台から去る事になりました。裴潜の死後、息子の裴秀を推挙したのが、毌丘倹です。裴秀は高平陵の変に巻き込まれて免職になっていますが、毌丘倹の元に身を寄せていたと考えられます。毌丘倹が揚州諸軍事となると、鄧艾が青州の城陽太守から豫州の汝南太守に異動しました。ちなみに、毌丘倹を豫州刺史にしたのは、尚書令に昇進していた司馬孚。後任の幽州刺史には、杜恕(杜預の父)が就任しています。毌丘倹と司馬孚の関係はかなり親密で、実際諸葛誕の敗北で毌丘倹が代わりに揚州諸軍事となり、諸葛恪が攻め込んで来た時、司馬師は信用出来ないと、当時太尉であった司馬孚に救援要請を出しているのです。地理の鬼才である裴秀は、政務に無関心で女遊びに興じている曹芳廃位・希望の皇帝曹髦擁立を支持した司馬孚派。司馬師とは、一線を画していました。「毌丘倹が潰されたのは、諸葛恪来襲に抗い、司馬孚と共に撤退させ、司馬師以上の信望を集めた事。忠義でも蛮行でもなく、東興の戦いで敗れた盟友である諸葛誕の復権を望む司馬師の心情による処が大きい。文欽一人だけの反乱ならば、汝南太守から兗州刺史となった鄧艾一人でも対処が可能でした。それでも、司馬師自身が出陣したのは、文欽の反乱に連座させて(管理責任を問い質し)毌丘倹を急襲して討伐する目的があったからだと想われます。でなければ、毌丘倹をこんな簡単には倒せなかったでしょう」
毋丘倹。カンキュウケン。初めて知った時名前が読めなかった。ちゃんとドラマ性のある人生歩んだ人なんですね。勉強になります
武人として稀有の器量を備えた方。でも政治家としては司馬師に及ばなかった・・といった印象。権力闘争は、戦場よりもある意味陰惨で容赦がない世界でありますから。ただ彼が懸命に曹叡の遺志を守ろうとしたことは確かでありましょう。司馬一族が専横を欲しいままにするとしても、誰もがそれに媚びへつらい異議を唱えないのであれば、あまりにもやるせない。
こういう凄い人で不器用な人は憎めないですw
この字何の意味かわからなかったが貫くの上の部分なのか
なんで諸葛誕ノリノリで攻めてるんだろう、大体似たような立ち位置だったのになんで一緒に反乱起こさないんだろう。これも毌丘倹の反乱が急だったせいなのかしら……
諸葛誕は司馬氏と婚姻関係がありますからね。夏侯玄とは確かに親しかったでしょうけれど、まだ親密な関係を維持してたんだと思います。
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど、この時はまだ諸葛誕の立場は安泰ではあったんですね。しかし、この3年後に同じく諸葛誕も反乱に追いやられ、その2年後には皇帝の曹髦、更に3年後には鍾会も……正始の変から僅か15年足らずで皇帝含め政敵を葬りさる。神か悪魔か、恐るべし司馬一族😱
諸葛誕の乱は、賈充の陰謀説がありますからねぇ。賈充の「司馬家の天下になる」的な発言、諸葛誕はどう答えても難癖付けられますし。
@@chiakik1472 その中でも保身に走らず、「賈豫州の子が、魏の恩を忘れたのか!」と言い返したのはカッコいいですよねそういう傑物である所が警戒されて反乱に追い込まれたのかもですが……
反逆者として有名だけど、反逆も粛清もされなかったら呉の滅亡はもっと早かったかもしれないな。
ちなみに息子の毌丘甸は処刑されたが、毌丘倹の妻は名門荀氏の出だったのでその罪を許されて後の世まで血縁は続いている。
位宮は何代目の国王ですか?
毎回紹介人物には今回みたいに始めだけルビをふってほしい。三國志初心者だと発音聞いても正確な名前がわからん時ある動画は見やすくてためになります
したり顔で発言してしまいますが、目標は自分が亡くなった後で達成できたので無念の思いで亡くなり、死後も思い描く内容とならなかった三国志の登場人物達よりは、良かったのかもしれません。魏内部で司馬一族が権力を増しますが、誰も止めようがありませんので。
反乱という一撃が司馬師にトドメをさしたようにも思う(>_
劉備が安喜県の令から出奔して反董卓連合に参加するまでの間に揚州征伐に参加したときの朝廷の武将に毋丘毅という将軍がいた
出典は不明だけど、毋丘毅→毋丘興→毌丘倹とする家系図があったはず。毋丘興は武威太守で涼州・雍州で活躍した人だから、元々武門の家柄だったのだろうね。別に辺境の出身ではないのに辺境に将軍として送られるのは、孫堅とかも同じだし。
【237年】公孫淵、毌丘倹軍を撃退。燕王を称す→\( 'ω')/
何か可哀想。何か惜しい人。
数年前に毌じゃなくて母と確定されてなかったっけ?..
毌丘倹の動画だから控えるべきかもしれないけれど、司馬懿を『名将司馬懿』足らしめたのはやっぱり異常なまでの行軍速度なんだよな。
古今東西、名将の率いた軍は必ずと言っていい程早く動く。
無双とか演義だと諸葛亮が五丈原に戦場を設定したように書かれるけど、実際は司馬懿が既に到着してたからそこに陣を敷かざるを得なかったんじゃないかと。
三国志だと曹躁、司馬懿がこの特徴が出ていると思う。
現在はどうなってるか分かりませんが、かつてのコーエーの三国志シリーズでは毌丘倹は隠しステータスの義理が0で野心は15という感じの設定になっていましたが、「これっておかしくね?」とずっと思っていました。
それに対し劉備は常に義理:15ということも含めて。
三国志の三英傑没後の時代に関する読み物が少なくて、今までの私の認識は毌丘倹は大した計画も立てずに蜂起して、その反乱は司馬師に看破されており、素早く鎮圧されてしまった人物…だったのですが、名将であったことなどは知りませんでした。
鍾会、登艾、諸葛誕、夏侯覇あたりは読んだ本の中に出てきて少しは知っていたのですが毌丘倹は一言で言うと反逆者くらいの認識でしたね。
認識を改めさせられました❗️😁
名将で忠臣、毌丘倹ですね❗️😁👍️
そうするしかないとはいえども死にかけの身で強行した司馬師も凄まじいよな
司馬懿の下にいた時に戦について学んだのかもしれないですね
そう考えると失敗しても腐らないまっすぐな人物だったのかも
某ゲームのイメージが強すぎて文欽と反乱おこしたくらいしか知らなかったから見て良かったですー
近年の田中俊明氏の調査で毋丘(ぶきゅう)とされる証拠があるそうですね。三国志展に行って初めて知りましたが、まだ自分も馴染んでいません(笑)
自分も三国志展に行って、これからはこっちが主流になるんだなぁと思いました(笑)
証拠というか確率というか
世の流れが今そんな感じらしいですね
でももう今さらだしカンでいい気もしますけど
諸葛誕は不仲だった文欽が先に毌丘倹軍に参加していたので毌丘倹の反乱に加わらず、むしろ鎮圧する方に回ったと言われている。
結果論になっちゃうんだけど、後で反乱するなら一緒にしてしまえばとは考えちゃうよね
文欽・・・あちこちで問題を起こす厄介者だね。だから諸葛誕も後に反乱を起こすときは文欽なんかと組まなければよかったのにね。
@@stone3944
諸葛誕が反乱を起こした時には「呉に援軍要請をしたら援軍として来た武将の一人が文欽だった」という流れだったので選択の余地は無かったかと。
政治とか関係なく武人として仕えていたんだろうな…だからこそ我慢がならなかったと想像しちゃう
三国志後半になると、前半に見かけない姓が出てくる。毋丘姓は黄巾の乱の頃ってどこで何をしていたんだろう?
特に理由はないけどこの人好き
毌丘倹の妻の荀氏は荀顗らの嘆願によって許され、娘も母の荀氏が何曾に助命を嘆願したため許されてますね。
呉への使者となった毌丘宗はそのまま呉に仕えて、西晋が呉を討伐後息子の毌丘奥と共に西晋に出仕しているあたり、族滅したわけでは無さそうです。
補足助かる(´;ω;`)
『毌丘倹』の字に関してはそもそも『母(はは)』だと思い込んでいた派です('ω')ノ
関西では母親のことを「おカン」と呼ぶので「ああ中国語でも『母』は「カン」って読むんだな😃」と普通に思ってた笑
※たまたまですが本当に今回解説にあがった『毋(ブ)』の字は『母(ボ)』から音だけ借りて派生したそうです
後に「わかりづれえよ!」ってなって『毋(「無い」)』と『母(「はは」)』で意味ごとに文字を微妙に書き分けた(真ん中のちょんちょん部分笑)ようです('ω')ノ
司馬師が逝くまで暫し待てなかったのか。
それを暗に文欽に伝えようとしたけど、当の文欽は全く気づいてなかった、みたいなエピソードをどっかで見た気がする……(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 尹大目さんですね
日本でも天皇になる望みを断たれた以仁王が1180年に平清盛に対して反乱を起こしてるからねぇ 大それたこと故歯止めがかからないのかもしれない 因みに清盛は翌年に亡くなった
王凌、毌丘倹、諸葛誕の淮南三反は司馬氏との格の差を感じますね。反乱せざるを得ない状況に持っていって各個撃破。
後世の人間からしたら、仲違いせずに一緒に反旗を翻したらよかったのにと思いますが、その人間関係も含めて司馬氏の手のひらなんでしょうね。
毋丘倹「司馬昭に変わってくれれば大丈夫だから…」
文欽「司馬氏、絶対に許さん」
毋丘倹「えっ?」
文欽「えっ?」
文鴦「父さん!なんとか司馬師を追い詰めました!」
文欽「敵多過ぎワロタ。無理だ逃げよ」
文鴦「えっ」
文欽「うん?」
@@KOUMEI_NO_WANADA 文虎「あかん、これはオワタ」
文欽の害悪さがやばい
高句麗は毌丘倹に叩きのめされて丸都城(現吉林省)から平壌に逃走したので、ここで中国史から朝鮮史になるんですね。
(現在の国境線で語ることの無意味さはおいといて)
さておき、曹操が死にかけた北伐ルート(実際郭嘉は病死した)を踏破した毌丘倹はもっと評価されてもいいのでは? と思ってます。
あの快進撃はもはや異常の域だと思ってます(笑)
《毌丘倹の記述で見逃せない事実は、毌丘倹の出身地が河東郡聞喜県で、裴潜・裴秀親子と同県同郷であるという事》
毌丘倹が荊州刺史となったのは、裴潜が尚書として中央に召還された後任であるという事。録尚書事陳羣の死後、裴潜が尚書令となった時に、毌丘倹は幽州刺史に異動しているのです。
つまり、裴潜の肝煎り人事で、対公孫淵討伐の準備に送り込まれたと言えます。毌丘倹にとって、司馬懿は荊州刺史時代の上官という縁もあり、司馬懿の弟司馬孚は、同郷の裴潜と同僚の尚書。鄧艾はこの時、中央に出てきて尚書郎となっていました。
特に、裴潜は異民族外交のスペシャリストで、毌丘倹単独では倒すのは難しいと、公孫淵を孤立無援にする下準備をしていたと考えられます。
司馬懿が容易に公孫淵討伐を成功させたものの、司馬懿の居ぬ間に曹爽が実権を握り、更に曹叡が亡くなった事で、裴潜も政治の表舞台から去る事になりました。裴潜の死後、息子の裴秀を推挙したのが、毌丘倹です。裴秀は高平陵の変に巻き込まれて免職になっていますが、毌丘倹の元に身を寄せていたと考えられます。毌丘倹が揚州諸軍事となると、鄧艾が青州の城陽太守から豫州の汝南太守に異動しました。
ちなみに、毌丘倹を豫州刺史にしたのは、尚書令に昇進していた司馬孚。後任の幽州刺史には、杜恕(杜預の父)が就任しています。毌丘倹と司馬孚の関係はかなり親密で、実際諸葛誕の敗北で毌丘倹が代わりに揚州諸軍事となり、諸葛恪が攻め込んで来た時、司馬師は信用出来ないと、当時太尉であった司馬孚に救援要請を出しているのです。地理の鬼才である裴秀は、政務に無関心で女遊びに興じている曹芳廃位・希望の皇帝曹髦擁立を支持した司馬孚派。司馬師とは、一線を画していました。
「毌丘倹が潰されたのは、諸葛恪来襲に抗い、司馬孚と共に撤退させ、司馬師以上の信望を集めた事。忠義でも蛮行でもなく、東興の戦いで敗れた盟友である諸葛誕の復権を望む司馬師の心情による処が大きい。文欽一人だけの反乱ならば、汝南太守から兗州刺史となった鄧艾一人でも対処が可能でした。それでも、司馬師自身が出陣したのは、文欽の反乱に連座させて(管理責任を問い質し)毌丘倹を急襲して討伐する目的があったからだと想われます。でなければ、毌丘倹をこんな簡単には倒せなかったでしょう」
毋丘倹。カンキュウケン。
初めて知った時名前が読めなかった。
ちゃんとドラマ性のある人生歩んだ人なんですね。
勉強になります
武人として稀有の器量を備えた方。でも政治家としては司馬師に及ばなかった・・といった印象。権力闘争は、戦場よりもある意味陰惨で容赦がない世界でありますから。ただ彼が懸命に曹叡の遺志を守ろうとしたことは確かでありましょう。司馬一族が専横を欲しいままにするとしても、誰もがそれに媚びへつらい異議を唱えないのであれば、あまりにもやるせない。
こういう凄い人で不器用な人は憎めないですw
この字何の意味かわからなかったが
貫くの上の部分なのか
なんで諸葛誕ノリノリで攻めてるんだろう、大体似たような立ち位置だったのになんで一緒に反乱起こさないんだろう。これも毌丘倹の反乱が急だったせいなのかしら……
諸葛誕は司馬氏と婚姻関係がありますからね。夏侯玄とは確かに親しかったでしょうけれど、まだ親密な関係を維持してたんだと思います。
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど、この時はまだ諸葛誕の立場は安泰ではあったんですね。しかし、この3年後に同じく諸葛誕も反乱に追いやられ、その2年後には皇帝の曹髦、更に3年後には鍾会も……正始の変から僅か15年足らずで皇帝含め政敵を葬りさる。神か悪魔か、恐るべし司馬一族😱
諸葛誕の乱は、賈充の陰謀説がありますからねぇ。
賈充の「司馬家の天下になる」的な発言、諸葛誕はどう答えても難癖付けられますし。
@@chiakik1472 その中でも保身に走らず、「賈豫州の子が、魏の恩を忘れたのか!」と言い返したのはカッコいいですよね
そういう傑物である所が警戒されて反乱に追い込まれたのかもですが……
反逆者として有名だけど、反逆も粛清もされなかったら
呉の滅亡はもっと早かったかもしれないな。
ちなみに息子の毌丘甸は処刑されたが、毌丘倹の妻は名門荀氏の出だったのでその罪を許されて後の世まで血縁は続いている。
位宮は何代目の国王ですか?
毎回紹介人物には今回みたいに
始めだけルビをふってほしい。
三國志初心者だと発音聞いても
正確な名前がわからん時ある
動画は見やすくてためになります
したり顔で発言してしまいますが、目標は自分が亡くなった後で達成できたので無念の思いで亡くなり、死後も思い描く内容とならなかった三国志の登場人物達よりは、良かったのかもしれません。魏内部で司馬一族が権力を増しますが、誰も止めようがありませんので。
反乱という一撃が司馬師にトドメをさしたようにも思う(>_
劉備が安喜県の令から出奔して反董卓連合に参加するまでの間に揚州征伐に参加したときの朝廷の武将に毋丘毅という将軍がいた
出典は不明だけど、毋丘毅→毋丘興→毌丘倹とする家系図があったはず。毋丘興は武威太守で涼州・雍州で活躍した人だから、元々武門の家柄だったのだろうね。別に辺境の出身ではないのに辺境に将軍として送られるのは、孫堅とかも同じだし。
【237年】公孫淵、毌丘倹軍を撃退。燕王を称す→\( 'ω')/
何か可哀想。何か惜しい人。
数年前に毌じゃなくて母と確定されてなかったっけ?..