【三国志解説29】病に斃れた悲運の大才・蒋琬【ゆっくり史伝】三國志14発売記念

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  • Опубликовано: 4 янв 2025

Комментарии • 97

  • @装甲猫
    @装甲猫  4 года назад +15

    月宮雪兎さんにご指摘頂いて気付きましたが、元号と西暦の変換計算が間違ってました。費禕に大将軍録尚書事を譲ったのは243年、蒋琬が没したのは246年です(※元号はそのままであってます)ここに訂正とお詫び申し上げます。月見雪兎さん、ご指摘ありがとうございました!

    • @scipio99
      @scipio99 Год назад

      董卓が就いた官職は丞相ではなく相国ではありませんか?
      前漢では呂産が相国だった時に丞相も同時に置かれていたので、相国と丞相が同義という訳でもありません。

  • @ふあ-b5v
    @ふあ-b5v 4 года назад +11

    蒋琬、董允、費禕の3人はセットで覚えています。諸葛亮亡き後の蜀をどうにか支えた名臣。
    彼らが亡くなった後蜀は更に危うい状況に立つ事になってしまいました。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      コメントありがおうございます!諸葛亮が整え、諸葛亮の残した臣が延命させる。って感じですかね

  • @kirin4126
    @kirin4126 2 года назад +2

    蒋琬の作戦は呉が大攻勢をかけた時に合わせてやることで意味があり時期を逸していたともいえますね
    孫登も諸葛謹も既になく呉はゴタゴタのただなかになっていました

  • @tfujisaki72jp
    @tfujisaki72jp 4 года назад +8

    病に倒れたのが本当に残念ですね。もし長生きしたら三国鼎立が違ったかたちになったでしょうね。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      そうですね!劇的に、とまでは変わらなくても、影響力のあった人物だと思います

  • @文ちょ様
    @文ちょ様 4 года назад +4

    今回も武将紹介動画有難う御座いました。
    いつの日か不幸な弟糜芳を取り上げてもらえると嬉しいです。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      コメントありがとうございます!糜芳は何気に兄と違って武断派、という

  • @mockymacky6101
    @mockymacky6101 3 года назад +2

    装甲猫さんの動画は丁寧ですっと頭に入って来ます。
    また正史に触れる機会がなかったので新鮮です。
    これからもマイペースで動画作成頑張って下さい!楽しみにしています。

    • @装甲猫
      @装甲猫  3 года назад

      ありがとうございます~
      次回は魏延を投稿しますが、今回使ったから更に地図が更新されてます
      というか、私が不勉強だったせいですが(汗
      ご期待下さい

  • @sanderalex5331
    @sanderalex5331 4 года назад +3

    自分の好きな武将です!ゲームでは鄧艾か蒋琬でプレイしてました。蜀の滅亡前の名臣です。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +1

      コメントありがとうございます!今後も気軽にコメント下さいね!私は蜀末期だと、蒋琬、費禕、姜維なんかが好きですね!

  • @takspa2850
    @takspa2850 4 года назад +2

    晩年の蜀を支えた費禕・蒋琬の名前しか知らなかったので勉強になりました。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      コメントありがとうございます!そういって貰えると投降した甲斐があります!

  • @tha5816
    @tha5816 4 года назад +11

    馬謖「私の…本当は私の出世コースだったんでしょう?丞相?」

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +3

      コメントありがとうございます(笑 多分、街亭がなければそうだったと思いますよ

  • @もみぢ-d9x
    @もみぢ-d9x 4 года назад +9

    蒋琬の紹介お疲れ様です
    魏の政治家の毛介をリクエストします。
    いつか気が向いたら教えてください

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +4

      毛介ですか?また渋いですね~(笑リクエストノートには追加しておきます!

  • @稲庭健
    @稲庭健 4 года назад +2

    今回も大変お疲れ様でした!
    見るのが遅くなってしまいましたが大変楽しかったです。
    李厳もたのしみですねー♪

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      楽しんで頂けて良かったです!

  • @uema06w
    @uema06w 4 года назад +6

    長時間のエンコードお疲れさまでした。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      ありがとうございます😊

  • @野口野口-f8y
    @野口野口-f8y 4 года назад +10

    蒋琬は根っからの政治家かと思いきや軍事方面にも携わってたんですね、考えてみれば内政しか出来ない人を後継者にせんか。
    それにしても上傭攻略作戦はハイリスクローリターンに思いますね、呉軍との同時攻撃なども想像したが結局漢中が手薄になると重要拠点を失くすからやはり厳しいですね。
    やはり最後にモノを言うのは兵力差か…

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +3

      正直、私も最初に蒋琬プランを考えた際に、これ漢中おさえられたらアウトだよね?と考えて、検証を投げそうになりました(笑。ただ、そこに人口分布、輜重(補給)、移動距離、といった諸問題を加えて、何とか愚策ではない、というレベルまでは検証できたかな?と思います。ハイリスク、ローリターンは変わりませんでしたけどね(笑

  • @川上智広-x7h
    @川上智広-x7h 3 года назад +1

    蒋琬も諸葛亮と同じような死因。
    蜀というブラック企業に勤めたことによる過労死。
    後を受けた董允も恐らく。

  • @dignity9315
    @dignity9315 4 года назад +6

    色々とお疲れ様です。
    孟達の裏切りが成功していれば、展開が違ったように思えますね。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +3

      コメントありがとうございます!確かに成功していれば違った展開も有ったかも知れまんね。ただ、魏興や上庸といった地域は、漢中と荊州という南北両方を保持していないと、戦略的に意味を成さないので、残念ながらそこまで大きくは変わらなかったと思います。

  • @keikei959
    @keikei959 4 года назад +7

    蒋琬は知られている割に中々渋い逸話が多い人で好きなんですよ。
    当分蜀続きなら、鬼門(?)の廖化をお願いします。
    名前は知られている割に、生没年やその事績は意外と謎に包まれてるので・・

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      廖化ですか?廖化といえば荊州一の富豪で貴族ってネタしか持ってないんですよね(汗

  • @月宮Y
    @月宮Y 4 года назад +9

    蒋琬は239年に(三公格、時期によっては三公自体の地位である)大司馬になっているのではないでしょうか?費禕に大将軍・録尚書事を譲った後も大司馬に留任したままと認識しておりました。
    劉備と諸葛孔明は人柄も人材の好みも対照的で、劉備が登用した曲者荒くれ者を諸葛孔明が持て余す、劉備が評価しなかった人物を諸葛孔明が評価するというのは枚挙にいとまがないですが、蒋琬は学者肌・士大夫的な諸葛孔明の眼鏡にかなうタイプだったのでしょうね。
    蒋琬の人物って破天荒で器量・才気を感じるところと謹厳実直なところが入り混じり、なかなかに複雑だと思います。
    諸葛孔明も一種の天才には間違いないですが、いわゆる天才肌の特徴や欠点とは正反対の、用意周到で万事に配慮の行き届いた、神算などに頼らない稀代の人物という感じです。むしろ演義の諸葛孔明が単なるなろう系の薄っぺらいチートキャラに見えてしまうぐらい。
    李厳との九錫問答や罷免の際の周到なやり口など、この人がいかに日々心を砕き配慮を重ねていたかは…きっと李厳回に?
    楽しみにしております。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +3

      ご指摘を受けて動画を見直したところ、西暦の年は計算違いで2年ずつズレてました!教えて頂きありがとうございます!蒋琬が大将軍を譲ったのは動画で245年といってますが243年の間違いで、蒋琬の没年は248年ではなく246年です。
      私も諸葛亮は同じ印象ですね。史書の諸葛亮を知れば知るほど、本当に演義の孔明が薄っぺらくみえてしまう(笑

    • @月宮Y
      @月宮Y 4 года назад +4

      @@装甲猫 恐れ入ります。むしろこのような計算ミスの存在により、装甲猫さんが資料の記載を単に乗せるのではなく一つ一つ逆算、照合などを行われている事を表しているという事が見え、僭越な申しようながら感銘を受ける次第です。
      実権は委譲しているとは言え大司馬蒋琬、大将軍費禕の時期があったらしいのは、動画中で触れられている、単に荊州出身か益州出身というのに留まらない複雑な蜀漢内の派閥、政治的立場のバランスも影響しているのかなとも。費禕もやりにくかったのではないかと推察…。

  • @vtkarz
    @vtkarz Год назад

    私は亡くなった丞相に及ばないのは事実なのだから、私が丞相より劣っている。と言う者がいても本当のコトを言っているだけだ。と、平然としていた話しは大好きです。

    • @装甲猫
      @装甲猫  Год назад

      事実なんだから悪口ではない、なんてよほどに大きな器がないと言えないですよね

  • @MM-ts7wy
    @MM-ts7wy 4 года назад +3

    蒋琬の功績は、孔明亡き後の為かあまり知りませんでした。惜しむべきは、蜀の武将にパッとする人物が少なく、東征も成功したか疑わしい事。それでも蜀を盛り上げ、孔明の遺志を引き継ごうとした、稀有の人物と理解しました。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      コメントありがとうございます!蒋琬は孔明の既定路線を越えようとした稀有な人材ですね!

    • @黒猫紫陽花
      @黒猫紫陽花 2 года назад

      蒋琬は政治的な才能が高くて、公明正大な人柄だった様です。
      蜀軍の単独では北進も東進も難しいかとは思いますが、呉の魏への進攻に呼応する形で蒋琬は漢水を下り上庸方面へ出兵します。
      撤退の難しさから反対意見も多く、劉禅からの中止命令もあって上庸の攻略までには至りませんでしたが、呉と共同で積極的に魏を攻めていたら違った展開があったかも知れないですね。
      蒋琬が健在だった時期は大掛かりな北伐も無く、その後の姜維の度重なる北伐を可能にする程に国力が充実した時期であった可能性もあります。

  • @3yamaguchi179
    @3yamaguchi179 3 года назад +1

    漢字の作りが未来を当ててしまう不思議

  • @くま爺-t4z
    @くま爺-t4z 4 года назад +5

    リアルタイムで見れんやった、うーむ残念。蒋琬と言えば真偽は不明ですが漢中の方で、
    魏延の祭祀を執り行った、と言うのを何かで見た記憶があります。心情的には魏延のことを惜しいと思ってたのかもですね。
    息子の蒋斌も相当優秀でしたが、鍾会の乱に巻き込まれてしまったのは残念な話ですね。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      蒋斌は鍾会との逸話もあって言及したかったですが、尺の都合上削りました(汗。魏延については時々目にする話なんですが、出典が分からないんですよね。北行数十里(10km)程度だと成都に近すぎる気がして、原文を知りたいんですけどね~

  • @藤寅-v5q
    @藤寅-v5q 4 года назад +2

    蒋エンの北伐を見て見たかった。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      本当ですね!どれだけ検証してみても、実際に行われてみない事には真価はわからないですからね!別のドラマも生まれたでしょうし!

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 4 года назад +5

    蔣琬の妹は関羽の敗死後呉に降った潘濬に嫁いでいたので、蔣琬が諸葛亮の後継者となり大将軍に就任すると、呉では「潘濬が妻の兄である蔣琬と内通している」と疑う者が居たという。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +1

      コメントありがとうございます!潘濬も勿体無いんですよね~蜀にとっては。蒋琬の行動は呉には疑われて、歩隲や朱然が蜀が裏切るって上疏して孫権がなだめる、なんて事もありました。

    • @濵本竜司
      @濵本竜司 2 года назад

      @@装甲猫 潘濬は呂壱の排除に貢献した人物。そして諸葛瑾と共に呉が魏を攻めるのに合わせて蜀にも魏を攻めるよう孫権に進言するなど蒋エンの北伐計画に大きな影響を与えています。ただ蒋エンが北伐を断念する前に潘濬が亡くなり、蜀との共同作戦に反対だった朱然・歩隲が蜀は呉を裏切って攻めてくると讒言した事で呉は単独で魏を攻め、ある程度までは順調にいっていたのに太子孫登の死で撤退に追い込まれてしまいます。蒋エンが費イ・姜維と諮って涼州へ方針転換したのはそれが影響したからです。加えて諸葛瑾も亡くなり、呉に蜀と話が出来る人間がいなくなった事も大きかったと。何せ朱然・歩隲ら反蜀派に加え、才能はあるけど高慢ちきな諸葛恪では到底無理だし。

  • @Rookie-pk9qy
    @Rookie-pk9qy 2 года назад +1

    蔣琬が費禕に位を譲ったというのは新発見でした。
    これまでは政敵である費禕に北伐の失敗につけこまれて失脚したと思っていました。

    • @装甲猫
      @装甲猫  2 года назад +1

      実際問題、蒋琬は北伐自体を実施してないですからね
      むしろ費禕に失脚させられた話の方が初耳です

    • @stone3944
      @stone3944 2 года назад +1

      自分は蔣琬は費禕によって失脚したのが半分、本当に病が深刻で費禕に託さざるを得なかったが半分だと考えています。費禕が興勢山で曹爽を撃破、同時に蔣琬の北伐案は完全に廃止、大将軍曹爽が率いたほどの大規模な戦に対応したのが王平と劉敏のみで、北伐推進派とされる姜維やその他高級将校が全然活躍していない、という点から、結果論ではありますが興勢山の戦いが費禕の名声確立=蔣琬は完全に飲まれた、という構図を生み出し、蜀漢が費禕の時代を迎えることになったのだと。

  • @nobusumi4
    @nobusumi4 4 года назад +1

    掾は,じょう と読むと思ってましたが,違うのか?勉強になりましたありがとうございます😊
    じょう【×掾】 1律令制で、国司の第三等官。→判官2 近世以降、主として浄瑠璃の太夫に与えられた称号。大掾・掾・少掾の3階級があり デジタル大辞泉より

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +1

      掾を「ジョウ」と読むのは訓読みですね〜音読みだと漢音・呉音問わず「エン」です〜

  • @ver2.525
    @ver2.525 4 года назад +7

    平時でも歴代王朝の名宰相にも劣らない功績を上げたであろう人物ですね。
    河下り大作戦について少々私見を。
    当時は前線指揮官も兵站を担う人物もそれほど残っていません。
    孔明が後を継いだ時より非常に悪化しています。
    そして力量等の差が出にくい短期決戦を仕掛けられるのが上庸方面しか無かったと。
    過去の北伐自体に陽動の効果が生まれるので対蜀戦線の武将も対処が遅れるという副産物も。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      十分あり得る話だと思います。さらに言えば、魏興郡、上庸郡などの人口は多くて2〜3万人のため、大軍を維持する基盤がなく、コミュニティに地図とともに公開しましたように、遠路を補給するという、兵站に致命的ともいえる欠点を抱えています。

  • @小野裕輝-o7p
    @小野裕輝-o7p 3 года назад +3

    姜維は蒋エンとは馬が合っていたので蒋エンが長生きしていたらもっと活躍できたかも。

    • @stone3944
      @stone3944 2 года назад

      蔣琬は存外大胆な性格みたいだし、北伐を抜きにしても気が合った可能性は高そうね。

  • @ユーショー-p3j
    @ユーショー-p3j 3 года назад +1

    蒋琬の案は魏延が提案して孔明に退けられた案と共通点があるので孔明死後の楊儀とのいさかいで死亡してなければ蒋琬案はどうなっていたのだろうと思ってしまう。

    • @装甲猫
      @装甲猫  3 года назад +1

      色々と想像できますよね

  • @跳びクジラ
    @跳びクジラ 4 года назад +5

    現実の孔明も結構化け物なんだ

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +4

      コメントありがとうございます!晋の皇帝は蜀を滅ぼす時に、必ず孔明の軍法を持ち帰れよ、ってそれ専門の人を派遣した位には知られてましたね。

    • @こおりあめ-n2d
      @こおりあめ-n2d 4 года назад +4

      蜀漢の滅亡が263年、晋の建国265年なので蜀を滅ぼしたのは魏ですよね?
      晋の皇帝が蜀を滅ぼす時にっていう逸話があるという事はこの辺も諸説あるのでしょうか?

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      ナイスコメント!確かにそうですね。これは私の書き方が正確じゃありませんでしたね(汗。実際は、司馬昭のちに晋の文帝とされる人物が陳勰という人物に命じた逸話です。なので「正確にはのちに晋の皇帝号を受ける、魏の司馬昭が命じた」ですね!

  • @バンギラス先輩
    @バンギラス先輩 4 года назад +5

    再生リストなのですが魏呉蜀で分けるというのはどうでしょうか?

    • @kkk_kin
      @kkk_kin 4 года назад +3

      @バンギラス先輩③
      魏呉蜀その他(武将)、戦略…とか細かくして貰えたらありがたいと思いますが…多分それする事はウプ主③も大変なのかなぁ…と…細かく分けて貰えたらありがたいですね。

    • @バンギラス先輩
      @バンギラス先輩 4 года назад +2

      laranja kin 武官文官と分けるだけなら出来そうなんですけどね……難しいか

    • @kkk_kin
      @kkk_kin 4 года назад +1

      @バンギラス先輩③
      オレは観るだけなんでウプ主③がそれするのにどれだけの手間が掛かるのかとか考えるとなんとも言えません笑
      観る側からしたら観やすいと思いますけど。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      コメントありがとうございます。分けるのはそんなに難しくはないですよ~。今度やってみましょうか

    • @kkk_kin
      @kkk_kin 4 года назад +2

      @装甲猫③
      難しくないなら一度でいいんで試してください笑

  • @じの-w4p
    @じの-w4p 4 года назад +5

    リクエストに応えていただいてありがとうございました
    田豊の時も名前を呼んでいただいて嬉しいですw
    蒋琬は第二次世界大戦で言う電撃戦?と言うかそんな感じがします。
    ただ魏が捨て駒に使うかもですが蒋琬の北伐が実行されてたらなと思います・・・
    まぁ・・・維持できるかは疑問ですが・・・
    ただゲームの三国志の印象ですが上庸を取れて維持できれば最後は蜀が滅びるかもだがまだいい方向になった予感がします・・
    蒋琬がまだ長生きしたら・・・といつも妄想してしまいます・・・

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +2

      楽しんで頂けたようで良かったです。正直な話、蒋琬の策はリスクが高すぎる、という点はあるんですよね。参考文献に呉主伝が入ってるように、蒋琬の策を呉はどうみたか?というと裏切って呉に攻める気だ、って思われたんですよね。孫権が退けましたが。なので共同もどこまで出来たか、という感じですが、ロマンはある計画だったと思います。それに諸葛亮の路線から外れようとした気概、というのも立派だと思いますね

    • @じの-w4p
      @じの-w4p 4 года назад +2

      @@装甲猫
      確かにリスクは高いですね・・
      夷陵の再現になるかもしれませんしね・・・
      呉が動かないとなると厳しいけど上庸を確保出来たら長安の喉元にナイフを突きつけることになりそうだし面白い案とは思うんだけどな。。
      正直、天水とか取るよりいいと思うけど・・
      まぁ・・維持できるかは謎ですがねw
      漢中と上庸で戦力分散しないといけないし・・
      蒋琬の北伐を一度見てみたかった。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +1

      成功していたら、後世に水陸協同の電撃戦として、戦史に残ったかも知れませんね!
      ただ、なぜか上庸から長安に迫れる、という誤解が広まっていますね(汗
      確かに白地図でみると、そう見えますが、実際は長安に行くには南陽に出て、東に周り込んで武関経由でないと行けないんです。
      だから長安防衛の要害に対上庸のものは無いんですよ。
      どうしてそんな誤解が広まっているのか?う~ん…?(困

    • @じの-w4p
      @じの-w4p 4 года назад +1

      @@装甲猫
      ありゃそうなんだ💧
      そうなると戦略的には微妙なんかな。。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +1

      でも、ロマンがあります!諸葛亮の軛を越えて計画を立てた最後の一人ですから、蒋琬は!
      実際のところは、動画でもチラと解説したように、蒋琬も自分で戦略的には微妙というのは分かってたようですね。
      あくまで領土を切り取って魏に損害を与えるのが目的だったみたいですから。

  • @成子坂
    @成子坂 3 года назад +1

    理想の上司像の一つです。黙って付いて行けば勝てそうな演義孔明も良いですが、意見したり提案したい性分なので上司としては蒋琬の方が魅力的です。軽輩でも良い意見なら採用、見送られた場合でも理由をちゃんと言ってくれそうです。
    蒋琬が考えたものの諸将に総スカンにされた北伐策は採用されず残念でしたが、戦闘や兵站などそれぞれのプロが駄目と判断したものを自ら取り下げられた点は素晴らしいです。それが健全な組織であり、それを作り上げた所は彼の功績だと思います。とは言え、彼は諸将に駄目と言われた後に「うわー駄目かー、頑張って考えたんだけどなー」と苦笑いをしながら諸将に向って悔しがっていそうです。
    和気あいあい、ワイワイガヤガヤが似合いそうな職場環境だったのだと思います。ただ、この職場環境は、魏延と楊儀が居なかったからこそだと思います。そう思うと、有能な二人だっただけに複雑です。

  • @士会雄樹
    @士会雄樹 4 года назад +5

    蒋琬は孔明の影に隠れてはいるけど凄い功績なんだよね。
    孔明亡き直後の宮中も収め、国を滅亡へと向かわせなかった。
    大概は後継者争いや権力争いで弱体化するけど、蒋琬は事に治めた。
    蒋琬亡き後の費禕までが蜀が国として存続できたと思う。
    孔明は文官を見る目は確かだしこれと思う人物が居たら引き上げる人だと思う。
    蒋琬は個人的にもっと評価されても良い人物だと思う。
    孔明が有名すぎてどうしても地味になってしまうけど。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      孔明がなんでも作っちゃったから、後の人は敢えて変更する必要がなく、結果として地味に見えちゃうんですよね。本当は凄いのに。でも、後世の人も四相(ししょう)として孔明と蒋琬を並び称えていますから、分かる人には分かるんでしょうね!

  • @conn4454
    @conn4454 4 года назад +10

    斜陽に差し掛かった蜀を支える人はみんな過労気味ですね・・・(笑)

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +4

      中堅には人材が居たんですけどね!問題は後に続く人材が年々数が減ってることでしょうか

  • @YH-nu7wc
    @YH-nu7wc 4 года назад +2

    許靖は確か成都城を劉備軍が追い詰めたときに、逃げ出したのを聞いたから、嫌ってた話が。
    裏切るにもあまりにもタイミングが悪すぎました。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад

      そうですね。劉備が嫌うタイプで、法正が「用いないと、有徳の人物を軽んじている、と思われる」と諌めてようやくですね。

  • @shou-sho
    @shou-sho 4 года назад +3

    まあ魏だって黙って見てる訳がないので、魏興・上庸で待ち構えることになるんじゃないでしょうか。
    北伐と違い大量の船が必要になるので侵攻はバレバレですし。
    夷陵の戦いでは劉備という名将だから陸遜は持久戦に持ち込まざるをえなかったけど、もう蜀に他国を恐れさせる将はいないですし。

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +5

      そうなんですよ!のちの晋が呉を討伐した時の話しを持ち出すまでもなく、魏が気づかないハズはなくて、じゃあ、なんでそんな策を考えたのか?蒋琬が軍事オンチと切って捨てれば、終わりなんですが、当人の紹介では出来る限り好解釈を心がけているので、色々と考えた結果、人口分布と輜重の問題により、魏は大軍を魏興・上庸に駐留出来なかった、と考えてみました。

  • @nigedanjio
    @nigedanjio 2 года назад

    李厳紹介はまだ?

    • @装甲猫
      @装甲猫  2 года назад +1

      投稿をやめた訳ではないので気長に待って頂ければ…
      最近パリピ孔明を観て私の三国志熱が再燃しつつあるので。

    • @nigedanjio
      @nigedanjio 2 года назад

      @@装甲猫 生きててよかったです!またお待ちしております!

  • @サーシ-k7b
    @サーシ-k7b 4 года назад +7

    もう少し 存命なら 蜀より 先に 呉が 降伏して 歴史が 変わって いたかも? 実に惜しい 人材を亡くしましたね
    (T_T)

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +1

      コメントありがおうございます!歴史がどう動いたか?興味は尽きませんね

  • @モッチー太モチ
    @モッチー太モチ 4 года назад +3

    他の解説者さんとかぶってますけど?被らないようにしたほうがいいんじゃないですか?

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +9

      そうなんですか?教えて頂きありがとうございます~。一応、直近で投稿した人がいないか検索してるんですけどね~私が調べた時は3年前くらいのしか無かったんですけど…他の方の動画も見て頂いた方が、一つの意見だけを聞くより良いと思いますよ~

    • @モッチー太モチ
      @モッチー太モチ 4 года назад

      向こうは前からツィッターでアンケートをやってたんですが?

    • @装甲猫
      @装甲猫  4 года назад +13

      はぁ、そう言われましても(汗。そこまで調べる必要があるのでしょうか?。先にアンケートしてたから、投稿の優先権が有る、という事なのでしょうか?。動画投稿に前も後も無いと思うのですが…。