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庶民は食卓を囲んで〜 とありますがこれは「皆で一緒に食べた」と言う意味であって、実際は食卓は存在せず、各人が腕を床に置いて食べていたようです。
@@junesunshine417 お膳ですな
粗末と言わず質素と言いましょうよw私は関西の田舎育ちですが、父方も母方も法事などの宴会料理には全て手をつけずにほとんど残し、家に持ち帰って家族で食べる習慣がありました。子供ながらに楽しみでしたよ。古来は家族以外の使用人にも振る舞ってたんでしょうね。後世の通称である「十二単」は、「女房装束」か「裳唐衣」。宮中で身分の低い女房が、使える主人に失礼のないために正装するからですね。(今の感覚だと位の高い人の方が豪華な格好を普段からしてそうですけど逆ですね。)模様や色も使える相手に合わせて結構決まっていたし、使ってはいけない色も模様もあります。現代でも着物は、場によって使ってはいけない模様や色・素材がありますしね。平安時代はとんでもなく紙が貴重なので、たとう紙は普通の人は持てません。紫式部が初期に物語を執筆する紙がなくって困ってたくらい。あと、紫式部は父と夫がギリ昇殿を許される正五位、おそらく自身は藤原北家にプライベートで雇われていたので無位か、夫と父の地位から推測して六位?下級も下級です。
ぬ
@@sumomo-m8c 高貴な女性は人前に出ないので正装はなかったはずですね。細長とか衽のない着物だったとか聞いたことがあります
裳は紐ではなく後ろに垂らすエプロンみたいなものです。表着は一本の紐で襟元を整えてその上にまた着物を重ねるとその紐を抜いて上に着た着物の襟元を整える、というのを何度も繰り返します。十二単というけれど寒い時は20枚くらい重ねたそうです。夜は重ねたまま着物をまとめて脱いでそれを掛けて寝てたそうです。
当時は十二単衣は五つ衣や七つ衣と呼んだと聞いたことがある。足して12になるから十二単衣と呼ぶのかと思っていた。12枚も重ねたら重いし…。 身分の高い女性は殆ど座っていると聞いた同級生が、足太くなるねと言っていたが、スカート履かないから大丈夫でしょともう一人が応じていた😅。
@@user-oz6de7jg9g なるほど〜❣️袴を履いていたので正座ではなく立て膝だったらしいですよあと、高貴な人は白米を食べてたので脚気は多かったそうです。脚気で脚がだるいわ〜ってのがやんごとない姫のお姿だったらしいですwwそれから十二単はひとえなので裏がついていないので一枚(一領?)は割と薄いです。着付け習ったことがあるけど新幹線の改札とかは通れまへん
アマヅラは、幻ではなくツタの樹液を煮詰め糖度75%くらいにしたものだそうですよ
小袖が着用されるようになったのは平安末期です。ほぼ鎌倉時代です。庶民は小袖でなく筒袖、広袖です。庶民に小袖が普及したのは鎌倉時代中期です。
実家が古民家なのですが、古い箪笥には筒袖や船底袖のつい丈の着物が残っていました。明治の頃でも、普段着はそうしたものだったようです。
「せい・しょうなごん」に好感
トイレは、何処のお屋敷か忘れたけど、家の外から水路を引いて、水洗トイレにしていたのが、見つかったと読んだことが あります。 だとしても数軒でしょうね。
庶民を踏みつけにして優雅な暮らしをしていたと思うと、庶民の出の私は怒りを禁じえません😊
真面目なお勉強チャンネルかと思ったら💩が流れてきた😂最高ですね!
この時代の絵は皆顔が下脹れで、こういう顔が美人とみなされていたと聞いていたのですが、ネットサーフィンで平安末期の有名な後白河法皇の母藤原璋子とその娘統子内親王の肖像画を見つけ、現代美人と変わらないその美しさに驚きを感じました。
平城京から平安京へ移転した理由の一つにトイレ事情があったと聞きました。 平城京は都の中心部に流れる川が無くて、末期の頃は都中が臭かったらしいですね。平安京は西京部分に毎年反乱する桂川があり、東京部分には鴨川があったので水利事業により衛生環境が維持できたようです。
高い身分の女性が着ていたとされる着物👘が展示されていたのを見た時、かなり小さく今なら小学生⁉️って感じたので当時の人は皆小柄だったのだろうなぁ❓と思いました😮
栄養失調だったうえに重たい物着てたらそりゃ小さくなるよね・・・当時の女性の平均身長は140センチくらいだったらしいよ。
江戸の末期に海外から来た人が着ていた物も展示してあるものを見るととても小さく感じますね。
十二単の話を聞くと暑い夏はどうしてたのかなと思いますね。当時はいまより涼しかったのかな。
動画に加えて、視聴者さんのコメントも勉強になる内容が多くて、少し賢くなった気分です(笑)
岐阜寄りの愛知の尾張弁に固いという言葉を、明治生まれの祖父母は「コワイ」と言っていたのを思い出しました。固いご飯を「コワメシ」と言っていたような… 「強飯」がコワイイと読むのは知りませんでした。尾張には荘園が広く点在していましたし、天皇の勅命で建てられた寺院があり、実際に勢力争いから一時的に京都からある姫様が移り住んだ記録が残っていますから、大和言葉が一部残ったということも考えられると思うのです。
兵庫県民です。うちは、60代の母も水加減まちがえてご飯がかたくなったとき「ご飯がコワイ」って言ってますよ🤭あと、強飯は今のおこわの語源みたいですねおこわはモチモチしてて、かたくないですか…。
方言周圏論っていうのもあるし、京都から距離があるから大和言葉が残ったのかもしれない
十二単というのは後世の人の呼び方で当時は「女房装束」とか呼んでいました。女房とは召使い、メイドみたいなもんで奥さんは北の方とか呼ばれてます。つまり執事のタキシードやメイド服と同じようなポジションですね。
メイドに当たるのは雑仕だと思います。確か義経の母がそれだったと。
平安の人びとは、オシャレだったのですね😮貴族以外の人もこだわりがあるようですね😊すごく興味深い。平安面白い❤
十二単は、1度に全て脱げてしまうので、脱ぐのは簡単です
食卓ってホームドラマで普及したとか聞いたけど❓️お膳って言うテーブルみたいの無かったと今は亡き母が言ってました‼️箱膳って言う必殺シリーズの中村主水がめざしと味噌汁の乗った一人用ですね‼️
テレビが一般国民に普及する前からちゃぶ台はありましたよ。家族は食事時になったらちゃぶ台を囲んで座って食事していました。冬は掘りごたつでしたね。
@@torimoti4581 勿論ありましたよ‼️でも普通に考えてください昔の家族はおじいちゃんおばあちゃんのいる3世代が普通で子供も兄弟が複数います❗️家族で食事をお膳でできませんよね‼️テレビの普及と核家族化と時代が変わっていったと聞いてます‼️
町がトイレ代わりな様子は昔のヨーロッパも同じですね。ハイヒールは糞尿避けなのも一緒。
せっかくの動画ですが、四位と五位の中流貴族の例に紫式部は無いでしょう。それにしても、お偉いさんの服装で後ろに長く衣装を延ばすのは、何故か西洋でもありますね。何なんでしょうか😅
甘蔓煮はそら手間隙掛かりすぎる高級品だから廃れるよかたくりの根から片栗粉作らなくなったのと同じ理由
女性の服装ですが、真夏になると絽か紗の単衣だけになるって聞いたけど、これ本当なんです❓さぞ涼しかったでしょうネェ。❤😂
この時代の商人の生活も知りたいです。
きらびやかな生活に見えてもその実態は糞だったんだね。勉強になりました。その時代の貴族より、今の民のほうが、はるかに恵まれて幸せだと思います。
平安貴族の生活、食事も衣服もムダが多すぎる~!と驚愕したけど、現代なんかもっと無駄なことが多いから、違う時代のこと言えないなって思った…( ˙꒳˙ )
時代考証をしっかりしないと大河ドラマもこけるわな😢化粧もまるで違うしね〰️💦
思ったけどマジでやるとなるとアダルトビデオレベルにしないと無理
平安時代の庶民の住居について取り上げてほしい
このような時代で最も気になるのは トイレ事情です お腹が痛んで特急状態な時は 間に合ったのでしょうかね??
❤❤❤❤❤❤❤❤❤❤😮❤
本当にそうですよね。お腹壊したとき間に合ったのかなとか疑問に思います。個室ではなくて、簾の仕切りだから匂いとか音とか…色々と謎です。
まったくのデタラメは少ないので、暇つぶしに良いチャンネル。
サムネのまるで囲ってあるのは何ですか?
トイレは大変だったでしょうね
わたしの食事時間は平安時代と同じw
朗読の仕方が、非常に解り易くて、拝聴していて気分が快いですね❣️ どこぞの誰かさんの歴史chは、声が美しいのを動画内で自慢するかの様な雰囲気で、ベタベタなお芝居の朗読は腹が立って仕方がないです💢。
宴会の残り物話で、6:32に出てくる男は病草紙にでてくる歯槽膿漏に悩む男でしょうか?
貴族衣装の製造工程を説明してほしい。
たしかに服職人ってどんな感じか知らないな道具類も
ごっつぁんです‼️‼️ごっつぁんです‼️‼️
当時の女性達の生理事情はどうなっていたのでしょうか?着物を汚したりはしなかったのか気になります。
経血コントロールできてた、と聞きました。つまり、おしっこのように、キュッと閉めて流れ出ないように出来た、ということです。大正生まれの祖母は、生理帯を手作りしていた、と言ってましたよ。
アマチャヅルからお花祭の甘茶の抽出、現在でも行われているけど、アマヅラと甘茶蔓は関係ないのかな?と思います。
味噌はもうあるでしょ粗末っていうのは宜しく無いです
現実に即した刀伊の入寇等の外敵侵入を実話として入れて頂きたい。
「貴族はあまり食べなかった」ということですが、人は身体機能を維持するための基礎代謝がありますから、その相当量は食べなくてはいけません。隠れて食べていたということでしょうか?
12:23 天皇ほかの皇孫は公卿とは全く別の身分ですね。特に天皇は公卿を任命する側です12:52 六位から下は貴族じゃないと思いますね。五位が通貴と呼ばれる下級貴族だと思います
藤原道長も糖尿病で死んだ説もあるくらいだから、上級貴族は現代人並に贅沢だったんだよな
奈良女子大学でツタからあまづらせんを再現するプロジェクトがありますね
それでもあんなふきっさらしの屋敷で生活できたのですから、今よりも相当暑かったんでしょうね。地震や津波も半端じゃなかったようで。どこかの超文明がCO2まきちらしていたのかにゃ???
信長以前までは「古代」とする考えもありますからね。
粟や稗にも劣る麦が現代人の主食です。便の処理に苦労するような時がもうすぐ訪れそうです。
当時の町は、かなり臭かった?人も近づくと臭かった?
もしかして、餓鬼(当然、人だよね)って人の糞まで食っていたのかなそんな時代には生まれたくないなぁ~
>もしかして、餓鬼(当然、人だよね)って人の糞まで食っていたのかなはい食ってました。調べてみると「餓鬼」とは栄養失調状態にある飢えと喉の渇きに苦しむ亡者と書かれています。だから栄養失調状態でいつ亡くなってもおかしくないホームレスみたいな人でしょう。餓鬼の食べ物は人の糞便や嘔吐物など~と出てくるので庶民が排便中にそれを貰って〇べていた~と思います。考えるとゾッとしますがこの時代に庶民以下に人権という考えも無く、病院や治療も受けられないなら病気になればいずれは。。
あれは餓鬼草子の絵巻物ですね仏教の地獄ですこうやってひとは、誤認から嘘を吹聴するんだなって、面白かった(笑)文系の人は感性に走りすぎて調べが甘いからね
好きな女性を忘れるために、おまるを盗んだ男の話を思い出しました
アマズラって5月の花祭にお釈迦様の像に掛ける時に使われる甘茶なのでは?。 妃たちに仕える女房の食事って何処で食べたのかな?。 妃たちに食事を運ぶのは雑司?。 妃が食べる時に控えて、後から食べるのかな?。交代で?。想像つかない世界だ。
6:57 立命館大学と奈良女子大学がその正体を探るために研究されているそうですね😊概ねナツヅタが有力らしいですが、冬にしか手に入らず、歩留まりが悪いらしいですね😅
食うもんね〜じゃん!!
貴族も大変な部分があると言えど、やはり食べ物を残す行為は今の感覚だと許せん気持ちになるな。庶民は食えてないんだし。そして庶民と貴族は違うのという選民意識もあるはずだからそこも嫌い。
既出ならすみません。オクラは、幕末から明治初期にかけて日本に渡来した植物です。平安時代の食卓にあがるのはおかしいのでは?
動画を閲覧いたしました。感想は、食事について、調理内容や健康ではなくて、見た目や品数の多さや豪華さを競いあう所なんて、現在の資本主義社会やSNSの世界と変わらないですね。貴族の生活は見た目は綺麗かもしれないですが、生活の質や内容があまり良くないように思いました。動画から衛生や健康意識が低かったんだなと思いました。動画の川への汚物の垂れ流しについて、政権握ってるのに、上下水道の整備が進んでいなかったのでしょうか?日本の貴族は、三次元での、感性や意識は低い人達だったんだなと思いました。動画で、平安時代の都市計画や上下水道の整備の状況などを当時の資料も添えて取り上げて貰えると嬉しいです。日本の場合、貴族政権の時代から武家政権に移ってから、戦国時代を除いて、庶民の生活は少しずつ良くなっていったように思うので、本当に日本に武士政権の時代があって良かったと思いました。
仏敎の影響ではなく日本人は肉食ではないだけです
日本人は草食人類だって牟田口先生が言ってた
現在の日本は残さず食べるのが美徳ですが、そうなったのはいつからですか?また、これがマナーになったのはいつから?
呉服のルーツを調べて。あとなぜ大和をヤマトと読むのか?飛鳥は?
大和は奈良時代に天皇が良い字を当てようと言い出して大和にしたんです。和泉とかも同じ理由です。飛鳥は「飛ぶ鳥の」が明日香の枕詞で、そのまま飛ぶ鳥が明日香の別名で飛鳥になりました。
いやだからなぜその字があてられたのかを知りたい。飛鳥は分かった。@@ほちこ-t5b
@@ほちこ-t5b なら邪馬台国の名前を使って、ヤマトと付けた。という可能性があるな。出典がどこか解りますか?
化粧はどうしていたのでしょう?
【平安時代の 化粧】って《ググって》ね。詳しく教えてくれますよ。
@@vp33333 なるほど、でした。ありがとうございます。
酢酸使ってたからそれはそれは臭かったwww
あちこち間違いがある😂
虫歯だらけでお歯黒とか画面で映せないレベル。
で、いつの時代も 苦しめられる 農民 2024年日本も そんな農民はやってられないと どんどん サービス業だけを望む国民になっちまったでしかしさ~~~~ 農業林業漁業という産業を つぶしまくっていて将来はあるのだろうかね~~~ 笑い
普通にハラたってきた
おい グッドごはん おまえら 寄付金の使途明細を すべて 公開しろ
どこが衝撃なの?
排泄物は庭だし、くそベラは貴族も普通
こわめし と よぶんとちゃうん
衛生観念の無い不潔な時代。貴族の女性も匂いがきつかっただろう。一部の特権海峡のための時代であり日本史では一番退屈な時代でもあった。学校の歴史でもくそつまらない平安時代などは飛ばしてもらいたくらいで好きな人だけ大学等で学べ良い。逆に現代史から教えてもらいたいくらいだ。
現代の食生活とは異なるので、現代人より体臭は強くなかったのではないか?とも言われていますが、体は拭けても、長い髪の毛は簡単に洗えなかったので、臭いを誤魔化す為に香が焚かれていた説もあります。
髪は、コメのとぎ汁で洗っていたそうだけ。かえって汚れそうだけど。で、広げて乾かすので、凄く時間がかかったとか。あと、そのスキマが、1ミリ無いような櫛で髪を梳かして汚れを取っていたよう。博物館で、櫛を見たことがある。
生まれた時から、皆が臭ければ臭いとは思わないのかも
@@御衣黄-v2e 目が細かいので、虱の卵も取れます。なかなか売ってるとこがないです。
食亊を殘すというのも疑問を感じます日本人は勿体無い精神が或ので違うように思います
りち
粗末と言わず質素と言いましょうよw私は関西の田舎育ちですが、父方も母方も法事などの宴会料理には全て手をつけずにほとんど残し、家に持ち帰って家族で食べる習慣がありました。子供ながらに楽しみでしたよ。古来は家族以外の使用人にも振る舞ってたんでしょうね。後世の通称である「十二単」は、「女房装束」か「裳唐衣」。宮中で身分の低い女房が、使える主人に失礼のないために正装するからですね。(今の感覚だと位の高い人の方が豪華な格好を普段からしてそうですけど逆ですね。)模様や色も使える相手に合わせて結構決まっていたし、使ってはいけない色も模様もあります。現代でも着物は、場によって使ってはいけない模様や色・素材がありますしね。平安時代はとんでもなく紙が貴重なので、たとう紙は普通の人は持てません。紫式部が初期に物語を執筆する紙がなくって困ってたくらい。あと、紫式部は父がギリ昇殿を許される従五位下、おそらく自身は藤原北家にプライベートで雇われていたので無位か、夫と父の地位から推測して六位?下級も下級です。
庶民は食卓を囲んで〜 とありますがこれは「皆で一緒に食べた」と言う意味であって、実際は食卓は存在せず、各人が腕を床に置いて食べていたようです。
@@junesunshine417 お膳ですな
粗末と言わず質素と言いましょうよw
私は関西の田舎育ちですが、父方も母方も法事などの宴会料理には全て手をつけずにほとんど残し、家に持ち帰って家族で食べる習慣がありました。子供ながらに楽しみでしたよ。古来は家族以外の使用人にも振る舞ってたんでしょうね。
後世の通称である「十二単」は、「女房装束」か「裳唐衣」。宮中で身分の低い女房が、使える主人に失礼のないために正装するからですね。(今の感覚だと位の高い人の方が豪華な格好を普段からしてそうですけど逆ですね。)模様や色も使える相手に合わせて結構決まっていたし、使ってはいけない色も模様もあります。現代でも着物は、場によって使ってはいけない模様や色・素材がありますしね。平安時代はとんでもなく紙が貴重なので、たとう紙は普通の人は持てません。紫式部が初期に物語を執筆する紙がなくって困ってたくらい。
あと、紫式部は父と夫がギリ昇殿を許される正五位、おそらく自身は藤原北家にプライベートで雇われていたので無位か、夫と父の地位から推測して六位?下級も下級です。
ぬ
@@sumomo-m8c 高貴な女性は人前に出ないので正装はなかったはずですね。細長とか衽のない着物だったとか聞いたことがあります
裳は紐ではなく後ろに垂らすエプロンみたいなものです。表着は一本の紐で襟元を整えてその上にまた着物を重ねるとその紐を抜いて上に着た着物の襟元を整える、というのを何度も繰り返します。
十二単というけれど寒い時は20枚くらい重ねたそうです。夜は重ねたまま着物をまとめて脱いでそれを掛けて寝てたそうです。
当時は十二単衣は五つ衣や七つ衣と呼んだと聞いたことがある。足して12になるから十二単衣と呼ぶのかと思っていた。12枚も重ねたら重いし…。
身分の高い女性は殆ど座っていると聞いた同級生が、足太くなるねと言っていたが、スカート履かないから大丈夫でしょともう一人が応じていた😅。
@@user-oz6de7jg9g なるほど〜❣️袴を履いていたので正座ではなく立て膝だったらしいですよ
あと、高貴な人は白米を食べてたので脚気は多かったそうです。脚気で脚がだるいわ〜ってのがやんごとない姫のお姿だったらしいですww
それから十二単はひとえなので裏がついていないので一枚(一領?)は割と薄いです。着付け習ったことがあるけど新幹線の改札とかは通れまへん
アマヅラは、幻ではなく
ツタの樹液を煮詰め糖度75%くらいにしたものだそうですよ
小袖が着用されるようになったのは平安末期です。ほぼ鎌倉時代です。庶民は小袖でなく筒袖、広袖です。庶民に小袖が普及したのは鎌倉時代中期です。
実家が古民家なのですが、古い箪笥には筒袖や船底袖のつい丈の着物が残っていました。明治の頃でも、普段着はそうしたものだったようです。
「せい・しょうなごん」に好感
トイレは、何処のお屋敷か忘れたけど、家の外から水路を引いて、水洗トイレにしていたのが、見つかったと読んだことが あります。 だとしても数軒でしょうね。
庶民を踏みつけにして優雅な暮らしをしていたと思うと、庶民の出の私は怒りを禁じえません😊
真面目なお勉強チャンネルかと思ったら💩が流れてきた😂
最高ですね!
この時代の絵は皆顔が下脹れで、こういう顔が美人とみなされていたと聞いていたのですが、ネットサーフィンで平安末期の有名な後白河法皇の母藤原璋子とその娘統子内親王の肖像画を見つけ、現代美人と変わらないその美しさに驚きを感じました。
平城京から平安京へ移転した理由の一つにトイレ事情があったと聞きました。 平城京は都の中心部に流れる川が無くて、末期の頃は都中が臭かったらしいですね。
平安京は西京部分に毎年反乱する桂川があり、東京部分には鴨川があったので水利事業により衛生環境が維持できたようです。
高い身分の女性が着ていたとされる着物👘が展示されていたのを見た時、かなり小さく今なら小学生⁉️って感じたので当時の人は皆小柄だったのだろうなぁ❓と思いました😮
栄養失調だったうえに重たい物着てたらそりゃ小さくなるよね・・・当時の女性の平均身長は140センチくらいだったらしいよ。
江戸の末期に海外から来た人が着ていた物も展示してあるものを見るととても小さく感じますね。
十二単の話を聞くと暑い夏はどうしてたのかなと思いますね。当時はいまより涼しかったのかな。
動画に加えて、視聴者さんのコメントも勉強になる内容が多くて、少し賢くなった気分です(笑)
岐阜寄りの愛知の尾張弁に固いという言葉を、明治生まれの祖父母は「コワイ」と言っていたのを思い出しました。
固いご飯を「コワメシ」と言っていたような…
「強飯」がコワイイと読むのは知りませんでした。
尾張には荘園が広く点在していましたし、天皇の勅命で建てられた寺院があり、実際に勢力争いから一時的に京都からある姫様が移り住んだ記録が残っていますから、大和言葉が一部残ったということも考えられると思うのです。
兵庫県民です。うちは、60代の母も水加減まちがえてご飯がかたくなったとき「ご飯がコワイ」って言ってますよ🤭
あと、強飯は今のおこわの語源みたいですね
おこわはモチモチしてて、かたくないですか…。
方言周圏論っていうのもあるし、京都から距離があるから大和言葉が残ったのかもしれない
十二単というのは後世の人の呼び方で当時は「女房装束」とか呼んでいました。
女房とは召使い、メイドみたいなもんで奥さんは北の方とか呼ばれてます。
つまり執事のタキシードやメイド服と同じようなポジションですね。
メイドに当たるのは雑仕だと思います。確か義経の母がそれだったと。
平安の人びとは、オシャレだったのですね😮貴族以外の人もこだわりがあるようですね😊すごく興味深い。平安面白い❤
十二単は、1度に全て脱げてしまうので、脱ぐのは簡単です
食卓ってホームドラマで普及したとか聞いたけど❓️お膳って言うテーブルみたいの無かったと今は亡き母が言ってました‼️箱膳って言う必殺シリーズの中村主水がめざしと味噌汁の乗った一人用ですね‼️
テレビが一般国民に普及する前からちゃぶ台はありましたよ。家族は食事時になったらちゃぶ台を囲んで座って食事していました。
冬は掘りごたつでしたね。
@@torimoti4581 勿論ありましたよ‼️でも普通に考えてください昔の家族はおじいちゃんおばあちゃんのいる3世代が普通で子供も兄弟が複数います❗️家族で食事をお膳でできませんよね‼️テレビの普及と核家族化と時代が変わっていったと聞いてます‼️
町がトイレ代わりな様子は昔のヨーロッパも同じですね。
ハイヒールは糞尿避けなのも一緒。
せっかくの動画ですが、四位と五位の中流貴族の例に紫式部は無いでしょう。
それにしても、お偉いさんの服装で後ろに長く衣装を延ばすのは、何故か西洋でもありますね。
何なんでしょうか😅
甘蔓煮はそら手間隙掛かりすぎる高級品だから廃れるよ
かたくりの根から片栗粉作らなくなったのと同じ理由
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この時代の商人の生活も知りたいです。
きらびやかな生活に見えてもその実態は糞だったんだね。
勉強になりました。
その時代の貴族より、今の民のほうが、はるかに恵まれて幸せだと思います。
平安貴族の生活、食事も衣服もムダが多すぎる~!と驚愕したけど、現代なんかもっと無駄なことが多いから、違う時代のこと言えないなって思った…( ˙꒳˙ )
時代考証をしっかりしないと大河ドラマもこけるわな😢化粧もまるで違うしね〰️💦
思ったけど
マジでやるとなるとアダルトビデオレベルにしないと無理
平安時代の庶民の住居について取り上げてほしい
このような時代で最も気になるのは トイレ事情です お腹が痛んで特急状態な時は 間に合ったのでしょうかね??
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本当にそうですよね。
お腹壊したとき間に合ったのかなとか疑問に思います。
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サムネのまるで囲ってあるのは何ですか?
トイレは大変だったでしょうね
わたしの食事時間は平安時代と同じw
朗読の仕方が、非常に解り易くて、拝聴していて気分が快いですね❣️
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宴会の残り物話で、6:32に出てくる男は病草紙にでてくる歯槽膿漏に悩む男でしょうか?
貴族衣装の製造工程を説明してほしい。
たしかに服職人ってどんな感じか知らないな
道具類も
ごっつぁんです‼️‼️ごっつぁんです‼️‼️
当時の女性達の生理事情はどうなっていたのでしょうか?着物を汚したりはしなかったのか気になります。
経血コントロールできてた、と聞きました。つまり、おしっこのように、キュッと閉めて流れ出ないように出来た、ということです。大正生まれの祖母は、生理帯を手作りしていた、と言ってましたよ。
アマチャヅルからお花祭の甘茶の抽出、現在でも行われているけど、アマヅラと甘茶蔓は関係ないのかな?と思います。
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「貴族はあまり食べなかった」ということですが、人は身体機能を維持するための基礎代謝がありますから、その相当量は食べなくてはいけません。隠れて食べていたということでしょうか?
12:23 天皇ほかの皇孫は公卿とは全く別の身分ですね。特に天皇は公卿を任命する側です
12:52 六位から下は貴族じゃないと思いますね。五位が通貴と呼ばれる下級貴族だと思います
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奈良女子大学でツタからあまづらせんを再現するプロジェクトがありますね
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信長以前までは「古代」とする考えもありますからね。
粟や稗にも劣る麦が現代人の主食です。便の処理に苦労するような時がもうすぐ訪れそうです。
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人も近づくと臭かった?
もしかして、餓鬼(当然、人だよね)って人の糞まで食っていたのかな
そんな時代には生まれたくないなぁ~
>もしかして、餓鬼(当然、人だよね)って人の糞まで食っていたのかな
はい食ってました。
調べてみると
「餓鬼」とは栄養失調状態にある飢えと喉の渇きに苦しむ亡者と書かれています。
だから
栄養失調状態でいつ亡くなってもおかしくないホームレスみたいな人でしょう。
餓鬼の食べ物は人の糞便や嘔吐物など~と出てくるので
庶民が排便中にそれを貰って〇べていた~と思います。
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妃たちに仕える女房の食事って何処で食べたのかな?。 妃たちに食事を運ぶのは雑司?。 妃が食べる時に控えて、後から食べるのかな?。交代で?。想像つかない世界だ。
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既出ならすみません。
オクラは、幕末から明治初期にかけて日本に渡来した植物です。
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動画を閲覧いたしました。
感想は、食事について、調理内容や健康ではなくて、見た目や品数の多さや豪華さを競いあう所なんて、現在の資本主義社会やSNSの世界と変わらないですね。
貴族の生活は見た目は綺麗かもしれないですが、生活の質や内容があまり良くないように思いました。
動画から衛生や健康意識が低かったんだなと思いました。
動画の川への汚物の垂れ流しについて、政権握ってるのに、上下水道の整備が進んでいなかったのでしょうか?
日本の貴族は、三次元での、感性や意識は低い人達だったんだなと思いました。
動画で、平安時代の都市計画や上下水道の整備の状況などを当時の資料も添えて取り上げて貰えると嬉しいです。
日本の場合、貴族政権の時代から武家政権に移ってから、戦国時代を除いて、庶民の生活は少しずつ良くなっていったように思うので、本当に日本に武士政権の時代があって良かったと思いました。
仏敎の影響ではなく日本人は肉食ではないだけです
日本人は草食人類だって牟田口先生が言ってた
現在の日本は残さず食べるのが美徳ですが、そうなったのはいつからですか?
また、これがマナーになったのはいつから?
呉服のルーツを調べて。あとなぜ大和をヤマトと読むのか?飛鳥は?
大和は奈良時代に天皇が良い字を当てようと言い出して大和にしたんです。和泉とかも同じ理由です。
飛鳥は「飛ぶ鳥の」が明日香の枕詞で、そのまま飛ぶ鳥が明日香の別名で飛鳥になりました。
いやだからなぜその字があてられたのかを知りたい。飛鳥は分かった。@@ほちこ-t5b
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化粧はどうしていたのでしょう?
【平安時代の
化粧】
って《ググって》ね。詳しく教えてくれますよ。
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酢酸使ってたからそれはそれは臭かったwww
あちこち間違いがある😂
虫歯だらけでお歯黒とか画面で映せないレベル。
で、いつの時代も 苦しめられる 農民 2024年日本も そんな農民はやってられないと どんどん サービス業だけを望む国民になっちまったで
しかしさ~~~~ 農業林業漁業という産業を つぶしまくっていて将来はあるのだろうかね~~~ 笑い
普通にハラたってきた
おい グッドごはん おまえら 寄付金の使途明細を すべて 公開しろ
どこが衝撃なの?
排泄物は庭だし、くそベラは貴族も普通
こわめし と よぶんとちゃうん
衛生観念の無い不潔な時代。貴族の女性も匂いがきつかっただろう。一部の特権海峡のための時代であり日本史では一番退屈な時代でもあった。学校の歴史でもくそつまらない平安時代などは飛ばしてもらいたくらいで好きな人だけ大学等で学べ良い。逆に現代史から教えてもらいたいくらいだ。
現代の食生活とは異なるので、現代人より体臭は強くなかったのではないか?とも言われていますが、体は拭けても、長い髪の毛は簡単に洗えなかったので、臭いを誤魔化す為に香が焚かれていた説もあります。
髪は、コメのとぎ汁で洗っていたそうだけ。かえって汚れそうだけど。で、広げて乾かすので、凄く時間がかかったとか。あと、そのスキマが、1ミリ無いような櫛で髪を梳かして汚れを取っていたよう。博物館で、櫛を見たことがある。
生まれた時から、皆が臭ければ臭いとは思わないのかも
@@御衣黄-v2e
目が細かいので、虱の卵も取れます。なかなか売ってるとこがないです。
食亊を殘すというのも疑問を感じます日本人は勿体無い精神が或ので違うように思います
りち
粗末と言わず質素と言いましょうよw
私は関西の田舎育ちですが、父方も母方も法事などの宴会料理には全て手をつけずにほとんど残し、家に持ち帰って家族で食べる習慣がありました。子供ながらに楽しみでしたよ。古来は家族以外の使用人にも振る舞ってたんでしょうね。
後世の通称である「十二単」は、「女房装束」か「裳唐衣」。宮中で身分の低い女房が、使える主人に失礼のないために正装するからですね。(今の感覚だと位の高い人の方が豪華な格好を普段からしてそうですけど逆ですね。)模様や色も使える相手に合わせて結構決まっていたし、使ってはいけない色も模様もあります。現代でも着物は、場によって使ってはいけない模様や色・素材がありますしね。平安時代はとんでもなく紙が貴重なので、たとう紙は普通の人は持てません。紫式部が初期に物語を執筆する紙がなくって困ってたくらい。
あと、紫式部は父がギリ昇殿を許される従五位下、おそらく自身は藤原北家にプライベートで雇われていたので無位か、夫と父の地位から推測して六位?下級も下級です。