日本を「編集」した偉人たち~松岡正剛をしのぶ|鎌田東二

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  • Опубликовано: 18 окт 2024
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    1983年、京都生まれ。大阪府立大学 社会福祉学部卒業。普通の高校生として過ごしていた15歳のある日「北極老人(ほっきょくろうじん)」に出会い、占いの道に入る。
    9つの流派を極め5万件以上の鑑定歴を持つ北極老人から「北極流」を受け継ぎ、高校生ながら生年月日、手相、風水、方位、姓名判断などの様々な占いをマスター。
    また同時に、日本各地の神社の秘密や女神になる秘訣を口伝によって、のべ数千時間にわたって学ぶ。
    神秘体験は数知れず。 大学生時代から本格的に、人生相談(出会い、恋愛、結婚、夫婦関係、命名、子育て、就職、転職、人間関係、引っ越し、お金…、などの悩み)に乗り、3000人以上を開運へと導く。
    著書:「出会いの教科書」「書けば叶う」「龍の神様と出会うたった一つの方法」「神社ノート」「たった1日の参拝で人生が変わる! 六龍が導く神社ガイド」「開運秘伝 神社の秘密 出雲大社編」「なぜ日本人が世界を変えていくのか?」
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    #羽賀ヒカル #鎌田東二 #松岡正剛

Комментарии • 35

  • @ひのあかり-z5y
    @ひのあかり-z5y 18 дней назад +10

    大変でいらっしゃるかもしれない中、神社チャンネル⛩️さんにての貴重なお話🧡有難うございます🙏🐉🍊
    たくさん学ばせて頂いており、心より感謝申し上げます💞🇯🇵🗾🌟🌸
    どうかお大切になさってくださいませ🌎🍎🍑🍓🌞

  • @onethirdful
    @onethirdful 17 дней назад +3

    混乱の世に癒しの鎌田東ニ先生でした✨ありがとうございます。

  • @ひのあかり-z5y
    @ひのあかり-z5y 16 дней назад +2

    サムネイルにもある「・・・変容が起こらなかったらアウト」のお話から、鎌田先生からのゆにわさんへの並々ならぬ大きな期待が感じられます🙏素晴らしいですね💖さらにひろがっていかれますように🌸有難うございます🔥🌎🍓🐉🌞

  • @きのしたあゆみ-g2g
    @きのしたあゆみ-g2g 18 дней назад +9

    めっちゃ面白かったです^^
    ありがとうございます♪

  • @三島昌子-h8y
    @三島昌子-h8y 17 дней назад +3

    60になったばかりのおばあちゃんです。
    工作舎懐かしいです😆

  • @まさみつ-x7n
    @まさみつ-x7n 16 дней назад +3

    松岡正剛さんを取り上げて頂き誠に有り難い。彼の「千夜千冊」は私が密かに素晴らしい!著作やと思っていた本が異様にヒット率が高い。然も誰でもヒットするよなって思える著作やなくて「漆の話」八代幸雄著「水墨画」山本七平著「現人神の創作者」坂田明著「クラゲの正体」ETCこんな人は他に居ません。更に1943?年生まれで「正剛」と云う名前・中野正剛が自刃した事をご尊父が意を込めて命名されたのかもって感じました。筑摩書房の学芸文庫の彼の著作は何度も何度も読み返しました。ご病気が重い事は存じ上げていましたが、残念でなりません。有難う。

  • @ひのあかり-z5y
    @ひのあかり-z5y 16 дней назад +2

    ステキな鎌田先生のチャンネル?「京都面白大学」さま💖の方でも同内容を拝聴し、神社チャンネル⛩さんと、おそらくどこに焦点が当たるか、が、微妙に異なっており、どちらも素晴らしい内容に大いに学ばせて頂き、有難うございます🙏
    どういった内容に焦点が当たるかといった違いこそ、編集の力?と感じました🙏
    字幕?もさすが✨でいつもありがとうございます🪷どうかご自愛くださいませ🌎🍓🐉🍊🍎🌞

  • @ひのあかり-z5y
    @ひのあかり-z5y 16 дней назад +2

    継体天皇さまのお話に感動でございます🙏有難うございます💖🌞

  • @ここ-i8z
    @ここ-i8z 17 дней назад +1

    面白かったです!
    鎌田さんはなぜ手袋をしてるのですか?

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

    ・寺山 修司
    (てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の歌人・劇作家。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名[3][4]をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。
    ・高橋 秀元
    (たかはし ひではる 1944年5月13日-)は、日本の編集者、著述家[1]。
    編集工学研究所特別研究員、松岡正剛とともに『 遊 』出版メンバー。主な仕事は『情報の歴史』(NTT出版)『解釈の冒険 情報とシステム』(NTT出版)「『生命・AI・物語』 / 情報編集としての物語を考える」(記号学会)「 九州大学『 空海の言語論にふれる 』」「 編集学校 輪読座 『 聖徳太子と日本唯識を読む』」『反構造としての笑い-破壊と再生のプログラム』(NTT出版 )中でも執筆の『滑稽と烏滸』は山口昌男が高く評価。
    ・ティモシー・フランシス・リアリー
    (Timothy Francis Leary, 1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、アメリカの心理学者である。集団精神療法の研究で評価され[1]、ハーバード大学で教授となる。ハーバード大学では、シロシビンやLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)といった幻覚剤による人格変容の研究を行った。幻覚剤によって刷り込みを誘発できると主張し、意識の自由を訴えた。しかし、マリファナ所持で投獄される。囚人生活中に宇宙移住計画の構想をまとめた。晩年は、宇宙移住をサイバースペースへの移住へと置き換え[2]、コンピューター技術に携わった。コンピュータを1990年代のLSDに見立て[3]、コンピュータを使って自分の脳を再プログラミングすることを提唱した[4]。
    ・ライアル・ワトソン
    (Lyall Watson, 1939年4月12日 - 2008年6月25日)は南アフリカ共和国生まれのイギリスの植物学者・動物学者・生物学者・人類学者・動物行動学者。ニューサイエンス(ニューエイジサイエンス)に類する書籍を多く上梓し、中でも『スーパーネイチュア』は世界的なベストセラーとなった。
    ライアル・ワトソンは動植物界、人間界における超常現象を含む科学の水際をフィールドワークとして「新自然学」の確立を目指し、自然的現象と超自然的現象を生物学的見地から解説しようと試みた。「百匹目の猿」という言葉が最初に使用されたのは、ワトソンが1979年に出版した『生命潮流』であった。これは科学界において興味と同時に反駁を呼んだが、現在では、ワトソンの単なる作り話であることがわかっている。また『生命潮流』においてワトソンは「グリセリンの結晶化に関する都市伝説」が事実であるかのように記述している[1]。百匹目の猿現象およびグリセリンの結晶化に関する都市伝説を参照のこと。
    ・吉田 兼倶
    (よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。卜部兼名の子。官位は従二位・非参議。本姓は卜部氏。吉田神社の神主。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者[注 1]。
    経歴
    家系は神祇の四姓の一つである卜部氏の系譜をひき、兼倶の代に吉田家を興した。
    永享7年(1435年)、卜部兼名の子として誕生。初め兼敏と称したが、文正元年(1466年)に兼倶に改名している。
    始め神祇大副を務め、卜部氏の家職・家学を継承していたが、次第に家学・神道説を整理し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。その後も神道説の中心となる「日本書紀」神代巻と「中臣祓(なかとみはらえ)」について研鑚を重ね、後土御門天皇に進講したのを始め、公家達にも講義を行った。文明16年(1484年)、吉田神社に斎所として虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る大元宮を創建して、日本各地の神を祭ったが、伊勢神宮には反対された[2]。吉田神道の入門書であり、また根本経典でもある「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著し、また朝廷・幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。
    ・平田 篤胤
    (ひらた あつたね、安永5年8月24日〈1776年10月6日〉 - 天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。
    出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。
    幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。大角(だいかく)または大壑(だいがく)とも号した。医者としては玄琢(のちに玄瑞)を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
    復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人(しうし)の中の一人として位置付けられている[1]。
    生涯
    秋田を出奔
    久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれた[2][3]。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学や神道とは無縁であった[4]。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад +1

    編集工学
    「生涯一編集者」をモットーとする松岡正剛が提唱する編集工学(英: editorial engineering)は、人間の思考や社会のコミュニケーション・システムや創造性にかかわる総合的な方法論である。その創始は日本がまさに情報化時代に突入していく1980年代に遡る。当時の情報科学がもっぱら情報の記号的・データ的処理を前提としていることに対し、松岡は、生涯を通じて各種編集、プロデュースにかかわる中で、いちはやく人間の意識や感情や行為のともなう「意味情報」に着目し、それらが生成され交換される『生きた情報システム』を扱っていくための方法論の構築に向かった。
    松岡によるとその理論的背景には、当時三つの思想・研究動向、すなわちフランス思想界やアメリカ文学界で流行した「ディコンストラクション」(脱構築)、広範な科学の分野で提示されつつあった「自己組織化理論」、マーヴィン・ミンスキーなどによる認知科学と人工知能の研究動向があったという。このように編集工学は、「知」が寸断されたまま大量に流通されていく情報洪水時代到来の予見と、現代思想の提示する「知のコンセプト」や「知のモデル」の統合化の必要性という、時代の要請にこたえるかたちで、生み出されたものであるといえる。
    編集工学の扱う領域、すなわち『編集素材』は非常に広範なものである。松岡の整理によると、まずその領域には「身体に起因するもの」「好みから発するもの」「直観あるいは啓示によるもの」「学習性の堆積によるもの」「表現構成が喚起するもの」「ゲーム適用によるもの」「図像にひそむもの」「物語が伝えるもの」「歴史に内属するもの」「合理的再現性によるもの」「日常性によるもの」がある。このそれぞれから発せられる情報には、数値情報・事物情報・現象情報・解釈情報・理論情報・心理情報・図像情報・様式情報・構造情報・物質情報・時間情報・音響情報・物語情報・報道情報など25の様式がある。
    一方、これらを扱っていくための「編集方法」として、松岡は、「データ情報」を扱うための基本技法である収集・選択・分類・流派・系統の5つの「編纂」(英: compile)と、「意味情報」を扱うための基本技法である要約・模型・順番・交換・適合・共鳴・比喩・図解・注釈・暗示・擬態・変容・歪曲・装飾・保留・構造・焦点・劇化・遊戯・翻訳・周期など59の「編集」(英: edit)の、あわせて64の編集技法を体系化している。この「64編集技法」体系の最後には、『総合』と『創造』が挙げられているのだが、ここに松岡独自の編集哲学が発揮されているのを見ることができる。松岡は『総合』を「以上のすべての組み合わせ」とし、『創造』を「以上のすべての組み合わせ以外の創造」であるとしている[14]。
    「編集術」「編集工学」は、体系化された方法の『型』を訓練することによって、情報編集の技術を手軽に修得できるプログラムであり、書籍や映像など編集業務における専門性の強化、ビジネスにおける企画力、教育や人とのコミュニケーションからクリエイティブワークにおける表現力の向上まで、あらゆる分野での応用性を目指している。編集工学を学ぶための場として開かれているウェブ上の学校「イシス編集学校」では、一般の主婦から学生、編集者、プランナー、デザイナー、アーティストなど、様々な分野の人々が、松岡正剛の編集的方法を学んでいる。

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад +2

    ・継体天皇
    (けいたいてんのう、旧字体:繼體天皇、450年?〈允恭天皇39年〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は、日本の第26代天皇[1](在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)。
    元の名はヲホドノオウ[2]。漢字では、男大迹王や乎富等王など[2]。
    『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。 朝鮮半島の百済国との関係が深く武寧王とは従兄弟の関係であるという説(隅田八幡神社人物画象鏡の銘文)もある。 武寧王と天皇家の関係性には「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」との上皇明仁の言葉にある通り血縁関係が史実として存在する。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

      ・丹後王国論
      (たんごおうこく ろん)は、日本古代史が専門の歴史学者・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権や吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国(たんご おうこく)と呼んだもの。ただし丹後国は和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを丹波王国(たんば おうこく)と呼ぶこともある。
      門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。
      背景
      丹後地方には網野銚子山古墳・神明山古墳・蛭子山古墳などの大型古墳が集中している。この事実に加え、近年の発掘調査などから、この地方には古代に独立した勢力が存在していたと考えられるようになってきた。
      参考文献
      門脇禎二 『丹後王国論序説 日本海域の古代史』 東京大学出版会、1986年
      関連項目

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

      ・丹波王国の誕生
       丹波の古代
       律令制以前は但馬、丹後も含んでいた。現在の京都府の中北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)に北部5郡を丹後国として分離し、現在の状況になった。
       丹波地方は飛騨王朝が鉄生産を目的に、BC300年頃、先進地域として認定し、扇谷遺跡・途中ヶ丘遺跡を中心として、鉄生産を推進してきたと推定した地域である。ここで製造された鉄が、日本海ルートの飛騨国立石遺跡・青森県弘前市砂沢遺跡などの水田稲作推進に使われたと解釈している。ところが、この地域がBC200年頃より大きく変化するのである。
      弥生時代中期中葉(BC200年頃)
       弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると鉄・玉を製造する遺跡が急増する。弥栄町の奈具岡遺跡、野田川町の寺岡遺跡、加悦町の日吉ヶ丘遺跡、舞鶴市の志高遺跡、桑飼上遺跡などである。奈具岡遺跡では、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっている。この工房では、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていたようである。この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、大和や河内など近畿地方の中心部に比べて、「鉄の量としては桁違いの多さ」である。その鉄製品の量は相当なものだったと考えられる。このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていたようである。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土している。
       加悦町の日吉ヶ丘遺跡に大きな墳丘墓が造られている。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれ、それが多量に使われているのである。そして、墓に接するように環濠集落が存在している。
       この墓は、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代である。吉野ヶ里よりわずかに小さいのであるが、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡の場合は一人のための墓である。当然、王墓と考えられ、古代丹後王国があったという推定が成り立つ。
      弥生時代後期(BC30年頃)
       弥生時代後期になると(BC30年頃以降)中期中葉以降繁栄した上記遺跡は姿を消し、代わりに峰山町古殿遺跡、大宮町谷内遺跡、宮津市宮村遺跡などが繁栄する。後期になっても、鉄器、玉の出土は多く、先進文化は継続されていたようである。古墳時代になっても巨大古墳が数多く築造されており、大和政権に組み込まれた後も朝廷にとって重要地域だったようである。丹後半島は、日本海岸にあり、対馬海流がすぐ沖を流れており、朝鮮半島からの直接の流入があったものと考えられる。
      統一の時期
       遺跡の変化を見てみると、大きな変動があったのは弥生時代前期末、中期中葉、後期初頭の3つの時期であることがわかる。このうち、第一の画期は前期末で、中国大陸での戦乱を避けて大陸からの渡来人が流入し、飛騨王朝がそれを利用して鉄生産の先進地域として開発したためと考えられる。この人たちが製鉄技術を作られた鉄製品は日本海ルートで各地に運ばれ稲作推進に使われたものであろう。
       第二の画期が中期中葉である。この時期はBC200年頃と推定されている。徐福が日本列島に上陸した時期とほぼ重なるのである。丹後半島新井崎に徐福が上陸したとの伝承地がある。また、豊受大神の伝承との関連も考えられる。この画期については後に検討してみよう。
       第三の画期が後期初頭である。この画期こそ素戔嗚尊・饒速日尊の統一事業とかかわっていると推定される。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

      徐福上陸伝承
       丹後半島東岸より東を見ると、海上に浮かんでいるように見えるのが常世島とも呼ばれている冠島である。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ,丹後半島へ上陸したと言われている。徐福の求めた不老不死の仙薬とは,この島に生える黒茎の蓬や九節の菖蒲と言われている。京都府与謝郡伊根町新井の海岸には「秦の始皇帝の侍臣,徐福着岸の趾」の碑が立つ場所がある。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で,現在の海水面からはやや高い位置にある。その上に新井崎神社があり、事代主命、宇賀之御魂命と徐福が祭神として祀られている。徐福は,医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた産土神として祀られ,今も土地の人たちが大切にしている。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って,ここに住みついたと伝えられている。新井崎神社を童男童女宮とも呼ぶが、これは、徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われる。
      羽衣伝承
      <丹後国風土記>
       昔、磯砂山の山麓で八人の美しい天女が水浴びをしていました。その様子をそばで見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまったため、 その天女は天に還ることができなくなってしまい、やむなく老夫婦の養女として暮らすことになりました。
      天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝え、老夫婦はすっかり裕福になりましたが、ある日老夫婦は「汝は我が児に非ず」とし て天女を追い出してしまいました。悲しみに暮れた天女(豊宇気比売)は、奈具の村に行き着き・・・・・・
      京丹後市峰山町に伝わる羽衣伝説は、丹後風土記にも登場する日本最古のもので、奈具神社には豊宇気比売がお祀りされています
      <天女の家、安達家に伝わる天女伝説>
      磯砂山(比治山)で狩猟をしていた猟師の三右衛門(さんねも)が、女池で水浴をしていた八人の天女のうち、一人の天女の羽衣を盗んで家に持ち帰った。羽衣をなくした天女は、天に帰れず、とうとう三右衛門の嫁になった。
       そして、三人の子が生まれた。天女は農耕や養蚕、機織、などを広め、その家は豊かになった。
      ある日、天女は、子供に「お父さんは、毎日どこを拝んでいるのか?」と聞いた、 子は「大黒柱を、拝んでいる」と答えた。
      そこで、大黒柱を探すと、穴が開いているところに、羽衣が隠されていた。天女はその羽衣を身につけ天に帰ってしまった。
      その後、長女は、「乙女神社」に、次女は、「多久神社」に、三女は「奈具神社」にそれぞれ氏神として、また農業の神として祭られた。
      豊受大神
      <比沼麻奈爲神社>
       比沼麻奈爲神社は豊受大神最初の降臨地として伝承されている。
      ① 遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。
      ② 久次・・・太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術を始められた尊い土地である故、久次比(奇霊クシヒ)の里と呼ばれていた。
      ③ 久次嶽(眞名井岳)・・・豊受大神が、稲作りなどの農業をこの山麓ではじめられた"奇霊岳"であり、九州の天忍穂井の眞名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰であるので、眞名井岳とも言われている。この山頂近くに「大神杜」あり、古、大神鎮座の地と言い、千古不伐、老樹鬱蒼とした中に巨岩累々として、古より女人禁制の仙境であります。この森の近くに「降神岩」、中腹に眞名井の水を移されたと伝えられる「穂井の段」、大神が五穀や種々の御饌物を天神に奉られた机代の石と伝えられる「應石(おおみあえいし)」があります。
      ④ 清水戸(稲種漬井)・・・豊受大神が稲作りをせられるとき、始めて稲種を浸された霊井で、常に少し白濁しており旱魃にも涸れることがないと言われています。
      ⑤ 月輪田(三ヶ月田)・・・豊受大神が始めて稲を植えられた霊蹟。
                                  <比沼麻奈爲神社御由緒書より>
      <籠神社伝承>
      彦火明命が丹後の地に降臨され、眞名井神社に元初の神、豊受大神をお祀りされた。天ノヨサヅラ(ひょうたん)に天の眞名井の御神水を入れてお供えされたので、この宮を吉佐(ヨサ)宮という。
       豊受大神とは誰か
       籠神社伝承によると、「豊受大神は亦名を天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。」と伝わっており、国の大元の神と言われている。饒速日尊も新技術を持って地方を統一しているが、豊受大神の技術内容(稲作)の方が明らかに古い。豊受大神には饒速日尊の姿があるのではあるが、ここに登場する豊受大神は饒速日尊ではないように思える。この丹後の地に上陸した天火明命は豊受大神を始原の神として祭祀している。天火明命(饒速日尊)が自分自身を祭祀するのもおかしな話で、豊受大神と饒速日尊は別人となる。そして、饒速日尊が丹後にやってきたのは豊受大神が活躍した時代よりだいぶ後のことであろう。そうでなければ、豊受大神を始原の神として祭祀することはありえないのである。
       上にあげた伝説はこの土地の人々に各種技術を伝えた人物の伝承であり、内容はかなり似通っている。徐福=天女=豊受大神ということは考えられないであろうか。
       徐福はBC209年佐賀平野に上陸し、しばらく滞在後、太平洋岸を山梨県まで移動し、そこで亡くなっている。京都府には直接本人は来ていないのではないかと推定している。徐福自信と行動を共にしていた重要人物(氏名不詳=豊受大神)の一団がこの丹後にやってきたものと思われる。この人物の行動が徐福伝説、羽衣伝説、豊受大神の伝説のもとになっていると思われる。徐福一行は当時の中国における最高技術を持って渡来しているのである。日本列島に当時流れ込んでいた技術よりもはるかに高度なものだったに違いない。丹後半島の上陸した一行(豊受大神一行)は、その当時丹後地方にあった技術をさらに高度化することを現地の人々に伝えたものであろう。最高技術を持っていた豊受大神一行は、最高技術を伝えることによりこの地方をまとめ上げ、その結果丹後半島の玉造遺跡が急増したものと考えられる。豊受大神一行はここに王国を築き、日本列島の他地域に先駆けて王墓として方形貼石墓が存在することになったのであろう。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

      丹後王国がまとまった結果、技術を守るための大規模高地性環濠集落は必要なくなり、扇谷遺跡は衰退したものであろう。そして、豊受大神は丹後で神としてあがめられるようになったものと推定する。
       豊受大神は男神であろうか、女神であろうか?一般的には女神として扱われているが、伊勢神宮の外宮の本殿千木、比沼麻奈爲神社本殿千木は共に外削ぎである。千木は例外もあるが、祭られている神が男神なら外削、女神なら内削と言われている。豊受大神を祭った神社が外削ぎであるということは本来の豊受大神は男神であったことを意味しているのではないだろうか、古代において、女性が単独で、旅をすることは考えにくく、外部からやってきた豊受大神は男神でなければならない。ただ、豊受大神は一人の人間を意味しているのではなく、新井崎に上陸した一団を表しているともいえる。そうであれば、男神とともにやってきた女神が現地の人と結婚し、直接の技術指導を行ったと考えることもでき、羽衣伝承のようなことが起こったとも考えられる。
       豊受大神の御陵と思われるものが出雲大神宮の背後の山(御陰山)である。ここは現在なお禁足地とされている。豊受大神の御陵が丹後半島から離れた地にあるということは、このあたりまで、丹波国として統一していたことを意味している。
      飛騨王朝とのかかわり 
       日本列島内の徐福上陸伝承地は、その多くが太平洋岸である。日本海側の上陸伝承地は、この丹波以外に秋田県男鹿半島と青森県小泊にしかない。ただ、富山県の海岸沿いの村では徐福が水産業の守り神とされているそうであり、日本海ルートの移動もしていると思われる。
       丹後半島は当時の飛騨王朝にとって先進地域であり、稲作推進をするために鉄生産を増大させる必要があった。そのために、先進技術を持った徐福の上陸は飛騨王朝にとってはまたとない機会だったはずである。徐福が飛騨にやってきたという伝承は全く存在しない。飛騨王朝の方から徐福に会いに行ったと考えられる。
       日本海ルートの上陸伝承地がほとんどない中、丹後半島にあることから、縄文連絡網によって徐福一行が佐賀平野に上陸したという情報を聞いた飛騨王朝はマレビトとともに使者を派遣し、徐福一行の中の鉄生産技術者を含む一団を丹後半島に派遣することを依頼したと推定する。徐福の方も縄文連絡網を持っている飛騨王朝からの情報は貴重な情報となるはずで、徐福は、その情報を得て4000人もの上陸団の移動先を決めたと思われる。その中の一団が丹後半島に派遣され、そのリーダーが豊受大神と呼ばれるようになった人物ではあるまいか。
       豊受大神は丹後半島に上陸すると、現地の人々に溶け込み、鉄器生産技術を伝授するとともに、それを利用して農地開発をはじめとする農業技術を革新させたと思われる。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

      坂口安吾氏の
      「日本は飛騨から始まった」という話
      匠 照人・文
       作家坂口安吾氏は、日本史に深い関心をもち、『安吾史譚』(「オール読物」)などの作品を残している。
       その安吾氏が、「飛騨は日本の古代史では重大きわまる土地であります」と、『安吾新日本地理』(『文芸春秋』)の「飛騨・高山の抹殺」の冒頭に記している。
       安吾氏の飛騨の古代に関する作品は、ほかに『飛騨の顔』(『別冊文芸春秋』)と飛騨の匠をテーマにした、『夜長姫と耳男』(『新潮』)の三編である。
       ところで安吾氏は、もともと日本の正史とされている『古事記』や『日本書紀』(『記・紀』と略す)を信用せず、彼独自の日本史観をもっている。それには二つの理由がある。一つは聖徳太子の系譜や伝記を記した『上宮聖徳法王帝説』(8世紀末に完成)に、『記・紀』には全く記されていない「蘇我天皇」の存在をほのめかした記録があること。もう一つは、本来日本の古代史における大化改新(646年)以前というのは、神々も天皇たちもそんなに多くなく、かつ期間も精々100年ほどのごく短期間だったものを、「両面神話」たとえば景行天皇の子、大碓命(兄)と小碓命(弟・日本武尊)の双子の皇子のように、二人一組によるいろいろな話によって、多くの神々や天皇たちを創作し、「長い長い日本古代史」に仕立てあげられた、というのである。
       そのうえで、安吾氏は「飛騨は日本古代史では重大きわまる土地であります」として、その理由を次のように述べている。
       現天皇家が本当に確立の緒についたとみられる天武持統の両御夫妻帝(天武は天智の弟で、天智の御子大友親王「弘文天皇」を仆して皇位に即き、実質的には現天皇家の第三祖に当られる御方のようです)はヒダとスワの両国に対して特にフシギな処置をほどこしております。スワは信濃の国に属しておりますが、一時分離されてヒダ、スワと二国特別の扱いをうけた。その理由は国史の表面には一度も説かれておりません。特にヒダは古代史上、一度も重大な記事のないところで、昔から鬼と熊の住んでいただけの未開の山奥のようだ。
       ところが国史の表面には一つも重大な記事がないけれども、シサイによむと何もないのがフシギで、いろいろな特殊な処置がある隠されたことをめぐって施されているように推量せざるを得なくなるのです。
       そこで、安吾氏の「ある隠されたこと」の一点とは、飛騨の古代道だという。つまり古代の本当の東山道は美濃から飛騨・信濃を経て夷たちの国ぐにに通じる道だったのが、危険なため、持統朝に新しく木曽道が開かれたというわけである。もう一点は、「千申の乱」である。その理由は、「飛騨国風土記」の逸文に、「飛騨の国はもと美濃国のうちであった」と記されていることに着目して、「紀」に書かれている「美濃」を「飛騨」に置きかえて、つまり飛騨の北側に大友軍、南側に大海人軍を配して、戦局の経緯をみるとよく理解できるというのである。
       すなわち安吾氏は、千申の乱は美濃や近江などで行われたのでなく、本当は飛騨を舞台にして行われたのだと、まことに日本古代史の常識をくつがえす奇想天外な推論をし、このことが日本古代史から「飛騨が抹殺された」重大な事実だというわけである。つまり、安吾流にいえば、「日本は飛騨から始まった」ことになるのである。
       では、飛騨の古代について、安吾氏は一体どう見ていたのか。この疑問について、安吾氏は『飛騨の顔』で、こう答えている。
       ヒダの王様が大和へ進出する前に大和飛鳥に居た王様は物部氏だったろう。これは四国の方から進出してきたもので、追われて後に、また四国の方と、伊豆や東国へと逃げた。そして彼らを追っ払ったヒダ朝廷の庶流が嫡流をヒダまで追い落として亡すと、物部一族をなだめすかして、味方につけ同族の一派、功臣というような国史上の形をつくってやった。
      * 天武天皇も持統天皇もヒダ王朝出身の皇統に相違ないのですが、嫡流を亡ぼして、故郷のヒダを敵にしたから、しばらくの期間はヒダのタクミたちを召しだしてミヤコづくりの手伝いをやらせるのに差支えがあったように思われます。いろいろと手をつくしてヒダの土民のゴキゲンをとりむすんで、奈良期の終わりごろにはどうやらヒダにも国司を置いて税をとることができるようになった。
       このように、安吾氏独特の日本古代史観から導き出された安吾流飛騨古代史は、さきにあげたように庶流の天皇に飛騨に追い落とされて滅んだ嫡流の最後の王、つまりこの最後の天皇こそ、両面宿儺だと、安吾氏は推定したのだが、彼は最後まで、その正体を特定しなかった・・・。
      (次回は、遥かな古代に東海王朝があったか、という話)

  • @とほかみえみため山下白雨
    @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад +3

    温故知新による統合からの新しい潮流
    ・弓前文書 神文(現代語訳)
    2023-07-13 14:05:27 | 弓前文書(神文)
     弓前文書(ゆまもんじょ)とは、「神文」と「委細心得」という二つの文書をさす。
     「神文(かみふみ)」とは、文字の無い倭人が弥生時代から口伝で伝えてきたものを、七世紀初頭に香取神宮の神官であった弓前値成(ゆまあてな)が、万葉仮名を参考に漢字を利用し文字化した。その特徴は、倭人語の一音の意味に近い文字を選びだし、その発音は倭人の発音とした。発音を借りた万葉仮名とは大きく異なる。万葉仮名は音読み、に対して、いわゆる、訓読みと考えれば良いだろう。また、漢字に無い特殊文字も創作して使用している。
     「委細心得(いさいこころえ)」は、「神文」の取り扱いや、経緯が漢文で書枯れている。
     弓前文書原文の神文は、縦四十五センチ×横十八センチ×厚さ三ミリ~五ミリの木板七枚に、それぞれ一行十字、上下二段十四行にわたって、隙間なく書き込まれた漢字(変体形を含む)九八〇字である。
     代々の神官が受け継ぐ秘文とされ、第67代弓前和(ゆまに)の池田秀穂により、解読、公開された。
     池田秀穂は次のように述べている。
     私はいま、まず神文を公開し、さらに「ユマニは他言すべからず」の秘聞まで公開してしまった。ユマニの守るべき掟はすべて破ってしまった。当然神罰あるだろう。わが家滅ぶべし。(中略)すべて覚悟の上。「弥生の言葉と思想が伝承された家」(朝日カルチャーセンター)
     それから(作り始めてから)丸五年、平成五年末、上下二巻五百頁の大冊、『弥生の言葉と思想が伝承された家』五百部が完成した。有名神社、大学、親戚、友人、縁故は勿論のこと、朝日カルチャーセンターに五十部委託し、出入りの学者に頒布していただくようお願いする等、様々に伝手を求めて頒布していただいたのであった。こうして置けば何れの日か、種から芽が出ることだろう。「日本曙史話」(沖積舎)
     池田秀穂は、覚悟をもって弓前文書を世に出し、そして研究されることを望んでいる。
         神文(現代語訳文)
      (第1章)
    大宇は意図す、大自然変化の流れ。行く道筋、始まりの秩序立て。
    大宇は意図す、原点の真相は、事態の自在無限なる疎密運動にある。
    大宇の秩序立ては、事態が驚きの無限力塊の姿となったことである。
       (第1節)
     大自然、始まりの芽生え。
    物質を造るという驚きの意志が生まれた。
    力は発動した。物質を造るという驚きの意志のそれだ。
    出現莫大なる増殖、爆発的に数多火の玉の素粒となった。
    宇宙の心、溢れ出た力は奇しき大本となって、大震動を起こし、秩序立てられて行く。
    宇宙の秩序立ては、纏まろうとする力が働いて行く。
    宇宙の秩序立ては、数多流れ出す自由力の永久不変の形成にあった。
    宇宙の姿は、不思議な数多纏まりの力が働き合っている。
    宇宙の姿は、さまざまな星で満たされている。
       (第2節)
     恵みの太陽が、輝き出した。
    宇宙形成のなか、ガスが纏まり行く。
    宇宙における、形造られ行く力体となった。
    宇宙の流れ、秩序立ての大きな垣根が造られる。
    宇宙における、核を取り巻く数多の力が覆う集積体となった。
    宇宙の流れ、圧縮され混沌状態になる。
    宇宙における、灼熱の基が造られた。
    宇宙の流れ、灼熱は輝きの放射となった。
    宇宙における、輝く存在となった。
       (第3節)
     大いなる秩序の集積が形成され出した。
    大いなる垣根が保たれた。
    燃える灼熱体で満たされてゆく。
    吸いこまれる数多灼熱の塊。
    浮きあがる様々な灼熱の塊。
    どんどん変化して行く岩盤。
    乱雑に重なり合う岩盤。
    入や(いや)盛り上がり寄せ集まつた所。
    浮き上がったものですっかり満たした所。
       (第4節)
     いわゆる生命現象を持ったものが出現、蔓延しだした。
    自然力結実の世代。
    自然カの結実は小さな現象として芽生えた。
    自然意志増殖の生態。
    自然意志によって動く単体が出現した。
    遺伝、種子増殖の世代。
    自己意志による統一活動体が出現した。
    親接(雌雄)増殖の生態。
    生命有限の個別現象が出現した。
      (第2章)
    大宇は意図す、大自然変化の流れ。行く道筋、移り行く秩序立て。
    ああ威大なる熱と光の太陽の恵み、与え続ける力の流れ。
    ああ威大なる総合秩序、さまざまの与え続ける力の流れ。
       (第1節)
     大空この虚空に踊るもの(それは次に示す通り)、充ち充ちたる不思議なる大本は、因果は幾重にも重なり動いている。
        
    ああ威大なる照り輝く実体。
    明るく照り輝く実体。
    光り輝き続ける星。
    巨大な力が流れ出ている星。
    自に見えぬ力を持つ星。
    燃える恐ろしい星。
    目に見えぬ力を持つもの。
    映える粒子。
       (第2節)
     ああ威大なる恵みを与える総合の流れ(それは次に示す通り)、自然に醸され、形成され溢れ出た力の流れである。
        
    大空より降り注ぐ威大な力の流れ。
    大地から湧き上がる組織的な力の流れ。
    稲妻の流れ。
    火炎の流れ。
    風の流れ。
    水の流れ。
    生き物が造り出す力の流れ。
    岩石土砂が造り出す力の流れ。
       (第3節)
     豊かに生み育てる母なるもの(それは次に示す通り)、生育完成、余剰から増加へとの一元の力の流れである。
        
    秩序を生み出す霊力。
    自然力を捕捉し活性化する。
    水という媒体の霊力。
    秩序体を捕えわが物とする。
    余分の力を生み出す霊力。
    意志を分化、籠らせ、寄せ集める。
    分体を造り出す霊力。
    充実するとその雛形を分離する。
       (第4節)
    生まれ出る秩序体の過程は(次に示す通り)物事にはすべて生命がある。
    妙なる力が醸し出される意志の段階。
    自然力から分化した真の意志。
    与えられた力が流れ出す意志行動の段階。
    力を行使する基本意志。
    物質組織段階。
    物質形成の意志。
    現世対応の段階。
    秩序現象を続けようとする意志。
      (第3章)
    大宇は意図す、大自然変化の流れ。行く道筋、永久の秩序立て。
    大自然変化現相。
    大自然変化現象。

    • @とほかみえみため山下白雨
      @とほかみえみため山下白雨 18 дней назад

      (第1節)
       新羅万象は、大自然保有力が起こす因果の永久輪廻運動である(これを輪廻因の法則という) 。
      因縁結実相。
      自然力吸収象。
      事物発現相。
      自然力集中現象。
      事物分解相。
      自然力解放現象。
      余韻因果相。
      自然力拡散象。
         (第2節)
       現実その裏に潜む意志の力は、現実が積み上がって行くうちに、意志は薄れ、力を失い、現実は永久の風化物となる(これを有限集゛(じゅ)の法則という) 。
      あるきっかけで自然力は意志として活動して現実の種となった。
      定められた因縁に従って発芽増殖分化して雛形となった。
      その結果、定められた通り形成され充実し、有り余れる力を持つものとなった。
      現実の積み重ねが増すにつれて、生まれる力は流れ去る。
      定められた通り現実は風化しカは失せた。
         (第3節)
       始まりあれば必ず移り行くあり、その軌跡は影を永久に残す(これを無限覆の法則という) 。
      大自然の威大な有り余れる力が輪廻している。
      因縁の原点、大本の心の意図する所は。
      初めの緒(いとぐち)は混沌から秩序立て完成へと進んで行く。
      力の集積体が出来上がり、それが明らかに照らし出す現世その太陽の下。
      あるきっかけで大本の意志が分化し、発動し、その現れは物質化の種となった。
      芽は霊妙に定められた通り育ち行く。
      集積、増殖、分化して妙なる現象となった。
      余分のカは現象の増大に変化し。
      現象が重ねられて行くうちに、根や木の芽のような秩序体に力は転換されて行く。
      現象は異物、風化物に変わり消滅し、散り行く。
      混沌は行きわたり覆い尽くして、因縁の原点に返ってしまった。
      その軌跡の影だけは永久にのこる。
         (第4節)
       さまざまな因果によって生まれ、形成されて来た過去(次に示す通り)に戻って行くなれば、その間の罪穢れは消え失せ、大自然の心に帰一する(これを帰納充凝因゛の法則という) 。
      威大な大自然の余剰力が輪廻する、その意志の中にはさまざまな因縁を持つ数多因子が蠢き回っている。
      意思の因子が輪廻の力と邂逅し、結実に至る段階を大本の世界という。
      与えられた力を発動して次々自然力を集中させて行くのは、結実してこの世に出た雛形である。
      この現実の意志が力を獲得している段階を、生長の世界という。
      取得した力を消耗して行くのが、完成した現実である。
      現実を維持し、また分派して行く段階を、力の移り行く世界という。
      持てる力はなくなった。ただ生きようという意志がある。
      過去の影なる段階を、見えない道を行く世界という。
         (第4章)
      大宇は意図す、大自然変化の流れ行く道筋、秩序立てへの順応。
          (第1節)
       この世の姿誘(いざな)うは、周囲の霊を誘発し、秩序をたてて醸しだせ。
      自然の心分霊(わけひ)となれり。
      意志は籠りて倍々増える。
      力は溢れ、さらに増え行く。
      道に生きたり、ああ生みの母。
      さらに増え益し、弥(いや)重ね積む。
      周囲の霊気誘われ震う。
      自然の力集まり来たり。
      自然に種が姿を見せむ。
          (第2節)
       現実阻む罪穢れ、自然の流れ張り放つ、秩序を立てて醸し出せ。
      威大な力が輪廻する。
      現れにける大自然。
      この現実の浮世にて。
      罪と穢れは行く道塞ぐ。
      霊気震えば妙なる流れ、障りはすべて融し込む。
      霊気張り出し過去の世界へ。
      かくして行く手は晴れやかに。
      宜しき萌(きざ)しは弥(いや)萌え出でむ。
          (第3節)
       現実の主その力、自然の力を吸い寄せる、秩序を立てて醸し出せ。
      自然心凝(こ)りて分霊と纏まりて。
      力は横溢発動し、物の種とはなりにける。
      種の定めに従がいて倍加、分裂、増殖し、かくは雛子となりにける。
      さらに奇しくも成長し力余れる物となる。
      己の維持と後のため齢を重ね力失せゆく。
      垢は霊気に洗われて霊気も力失いつ。
      統(すぶ)る霊気は震い立て新たな縁を求めなむ。
      空虚を造れ震い立て、ここに縁をば迎えなむ。
      空虚が迎えし大霊気。
      新たな力得たりける。
      統ぶる霊気を鎮めませ。
      霊気の流れ分霊のカまた新たなり。
         (第4節)
       生きる意思なる生垂増(いくたま)は何処(いずこ)へ道を辿(たどる)やら、真の姿おしえなむ。
      威大な力が輪廻する。
      自然変化の道筋に。
      浮世の世界を歩むうち生きる力を失いて。
      生きる力を失いて辿るは何処生垂増は。
      因果の影へと迷い込む。
      自然の力を吸い取りし。
      生まれ出て来た元の道。
      罪も穢れもその道に通り過ぎれば何もなし。
      浮世の心霧晴れむ。
      流れ来たりし始まりの。
      分霊(わけい)となりしはこのところ垂増(たま)は垂真(たま)なり今覚めぬ。
      奇しき廻(めぐ)りに生き会いて、妙なる所に至るべし。
      威大な力が輪廻する。
      生まれる基のこの力。
      元の垂真とて改まり。
      輪廻の流れの一因子、自然の心と融けて行くらむ。

  • @jewerlyharakin8293
    @jewerlyharakin8293 8 дней назад

    松岡正剛は、通俗的なオカルト・スピリチュアルで扱えるようなレベルじゃないと思うけどなー
    圧倒的な知識経験の差がありながらユーチューバーの話を聞く鎌田東二w