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今川義元は室町幕府の実権を握るくらいの認識だっただろう
川中島合戦で上杉軍が妻女山に陣取ったというけど、一万数千の軍勢が長期間滞在した陣城のような遺構が全くないらしい。善光寺の北に西条山って山があってそこには砦があったようだから、謙信はそこに陣取っていた可能性もある。だから啄木鳥戦法もやっぱりなかったのかも。個人的には謙信は早々に引き上げたかったけど、一戦もせずに引き上げると自身の評判にもかかわるから、武田方と八幡原で一戦交えようと示し合わせて戦って、それで痛み分けで引き上げたんじゃないかと思ってる
天下取り考えていた武将など、信長などごく一部に過ぎない。例えば毛利元就や長宗我部元親などは、土台となった土地と周辺の地方を平らげたら、あとはこれらの土地を守り、家の安泰を図る事が第一だったんじゃないかな。
同感です、天下統一を本気で考えていたのは「信長」だけ「秀吉」と「家康」はアレンジを加えていますが、あくまでも「信長」路線の延長線。そのほかの武将はそもそも自分が天下統一を果たすべきとは考えていなかったと思います。末期症状とはいえう足利将軍が存在していますから、中世の身分感覚を考えれば難しいでしょう。
安芸武田氏が滅びたのは銀山城の戦いです吉田郡山城の戦いは毛利&大内連合VS尼子
つきやまとみたじょうではなく、がっさんとだじょうです。読み方は正しく、お願いいたします。
幸松丸(こうまつまる)陶晴賢(すえはるかた)月山富田城(がっさんとだじょう)ゆっくりの誤字かも知れないけど読み間違いが多すぎて気になる後、毛利元就は確かに当初はいち国主に過ぎず、従属国衆の長という立場を取っていましたが隆元の代で井上一族を粛清したり同盟国ではなく、毛利家臣として従わせることを明確にしていますよ
確かにすごく気になりました
こんにちは😊
天下よりも、もっと大事な物があったんですね幼い頃から晩年まで、沢山の仲間(家族、親族、家臣、同盟相手)を失い(特に手伝い戦がメイン)もう、二度とそんな思いはしたくなかったし…子供や仲間達には、そんな想いをしてほしくなかったんでしょう
天下を狙っていたなんて初めて聞いた信玄や謙信や義元が
彼らは、土地に縛られていた中世から脱却できなかった大名。だから農閑期にしか合戦をしていない。春から夏にかけても合戦ができる織田、羽柴軍に勝てなかったのは、それが原因。兵農分離ができていれば、もっと版図は広がったはず。
「上杉謙信は天下人になる野心を持って居なかった事は有名ですよね。」“関東管領の職を果たす為に尽力”
武田と毛利は1つの戦いに時間をかけるから上洛する前に寿命が切れた。
UBIとロックリー「こくじん?漢字わからん。黒人か」
中国地方の覇者鬼島津四国地方の覇者越後の龍甲斐の虎天才軍師
有能な大名は数多いるが、野心と運と時勢を読む力がなければ天下は取れない。信玄は三国同盟を結んだ時点で西上作戦〔東美濃から真っ直ぐ京〕を取ればワンチャンあったかもな。
近江伊勢尾張美濃大和の貫高が圧倒的でそれ以外から天下人生まれないと思う
信長からすれば尾張の港で儲かるし美濃で武器を作れるし最高ですね。それを近江の水運で運べるし。石高プラス産業と立地が良し。
足利尊氏って一時期九州に落ち延びた上で天下取ったのやばいんやなって…
しんしゅうかいぎではなくきよすかいぎで
アタマよわそう
地の利
と天下を取る野心と計画性ですね。
『天下人は天が決める。』
元就が天下を目指さなかったことをあげれば信頼できる家臣団いなかったことも予想できる。信長の家臣団は尾張と美濃出身の家臣団が多く秀吉は近江、尾張、美濃出身であるのに対して、毛利氏は大半が安芸で一部周防の元大内家臣がいるくらいなうえ、軍政権を次男の元春と三男の隆景に集中しすぎたこともあったのかと思います。しかも安芸では長年盟主を大内と尼子の間を右往左往と変えるするありさまで、大内と尼子領を平定後も動画にあるように主君と家臣ではなく盟主という信頼するには他家と比較してもいまいちだったのではないかという点もあげられます。(だから後年重臣たちに起請文を出させて主君と家臣を明文化させた)
まず毛利家は元就の代になってからは一貫して大内家と組んでることそこから安芸備後最大の国衆になりあがりました苦しい状況でも変わりませんでした小早川吉川が権力が大きいと錯覚されてますが最大勢力はあくまで宗家毛利宗家はしっかり奉行制度が確立しておりそれに両川が参画する形をとってます決して専横させてるわけではないです
次男の元春と三男の隆景が優秀すぎたから、結果的に軍政権が両川に集中したのかと思います。逆に両川がダメダメだったら、ここまで毛利家が拡大できなかったでしょう。軍政権が両川に集中してなくても。
全く違ーう。天下を手に入れた武将、そして統一した者が最強の称号を手にするのだ。
強いも者が勝つのではない、勝った者が強いのだ。のベッケンバウアー氏の名言を思い出す
結論:最強武将が全員天下をとれるわけがないのです。天下を取れるのは基本一人だけだから、それ以外が取れなかった話なのです。
良い話なのに、聞き取りずらいので、途中で止めます。
肖像画にいちゃもんをつけてマウントを取ろうとする近頃の学者は気に入らない。仏像がお釈迦様に似てるか似てないか、誰もあげつらったりしない。
今川義元は室町幕府の実権を握るくらいの認識だっただろう
川中島合戦で上杉軍が妻女山に陣取ったというけど、一万数千の軍勢が長期間滞在した陣城のような遺構が全くないらしい。善光寺の北に西条山って山があってそこには砦があったようだから、謙信はそこに陣取っていた可能性もある。だから啄木鳥戦法もやっぱりなかったのかも。個人的には謙信は早々に引き上げたかったけど、一戦もせずに引き上げると自身の評判にもかかわるから、武田方と八幡原で一戦交えようと示し合わせて戦って、それで痛み分けで引き上げたんじゃないかと思ってる
天下取り考えていた武将など、信長などごく一部に過ぎない。例えば毛利元就や長宗我部元親などは、土台となった土地と周辺の地方を平らげたら、あとはこれらの土地を守り、家の安泰を図る事が第一だったんじゃないかな。
同感です、天下統一を本気で考えていたのは「信長」だけ「秀吉」と「家康」はアレンジを加えていますが、あくまでも「信長」路線の延長線。そのほかの武将はそもそも自分が天下統一を果たすべきとは考えていなかったと思います。末期症状とはいえう足利将軍が存在していますから、中世の身分感覚を考えれば難しいでしょう。
安芸武田氏が滅びたのは銀山城の戦いです
吉田郡山城の戦いは毛利&大内連合VS尼子
つきやまとみたじょうではなく、がっさんとだじょうです。
読み方は正しく、お願いいたします。
幸松丸(こうまつまる)
陶晴賢(すえはるかた)
月山富田城(がっさんとだじょう)
ゆっくりの誤字かも知れないけど読み間違いが多すぎて気になる
後、毛利元就は確かに当初はいち国主に過ぎず、従属国衆の長という立場を取っていましたが
隆元の代で井上一族を粛清したり
同盟国ではなく、毛利家臣として従わせることを明確にしていますよ
確かにすごく気になりました
こんにちは😊
天下よりも、もっと大事な物があったんですね
幼い頃から晩年まで、沢山の仲間(家族、親族、家臣、同盟相手)を失い(特に手伝い戦がメイン)もう、二度とそんな思いはしたくなかったし…子供や仲間達には、そんな想いをしてほしくなかったんでしょう
天下を狙っていたなんて初めて聞いた信玄や謙信や義元が
彼らは、土地に縛られていた中世から脱却できなかった大名。だから農閑期にしか合戦をしていない。春から夏にかけても合戦ができる織田、羽柴軍に勝てなかったのは、それが原因。兵農分離ができていれば、もっと版図は広がったはず。
「上杉謙信は天下人になる野心を持って居なかった事は有名ですよね。」
“関東管領の職を果たす為に尽力”
武田と毛利は1つの戦いに時間をかけるから上洛する前に寿命が切れた。
UBIとロックリー「こくじん?漢字わからん。黒人か」
中国地方の覇者
鬼島津
四国地方の覇者
越後の龍
甲斐の虎
天才軍師
有能な大名は数多いるが、野心と運と時勢を読む力がなければ天下は取れない。信玄は三国同盟を結んだ時点で西上作戦〔東美濃から真っ直ぐ京〕を取ればワンチャンあったかもな。
近江伊勢尾張美濃大和の貫高が圧倒的でそれ以外から天下人生まれないと思う
信長からすれば尾張の港で儲かるし美濃で武器を作れるし最高ですね。それを近江の水運で運べるし。石高プラス産業と立地が良し。
足利尊氏って一時期九州に落ち延びた上で天下取ったのやばいんやなって…
しんしゅうかいぎではなくきよすかいぎで
アタマよわそう
地の利
と天下を取る野心と計画性ですね。
『天下人は天が決める。』
元就が天下を目指さなかったことをあげれば信頼できる家臣団いなかったことも予想できる。
信長の家臣団は尾張と美濃出身の家臣団が多く秀吉は近江、尾張、美濃出身であるのに対して、毛利氏は大半が安芸で一部周防の元大内家臣がいるくらいなうえ、
軍政権を次男の元春と三男の隆景に集中しすぎたこともあったのかと思います。
しかも安芸では長年盟主を大内と尼子の間を右往左往と変えるするありさまで、大内と尼子領を平定後も動画にあるように主君と家臣ではなく盟主という
信頼するには他家と比較してもいまいちだったのではないかという点もあげられます。
(だから後年重臣たちに起請文を出させて主君と家臣を明文化させた)
まず毛利家は元就の代になってからは一貫して大内家と組んでること
そこから安芸備後最大の国衆になりあがりました
苦しい状況でも変わりませんでした
小早川吉川が権力が大きいと錯覚されてますが最大勢力はあくまで宗家
毛利宗家はしっかり奉行制度が確立しておりそれに両川が参画する形をとってます
決して専横させてるわけではないです
次男の元春と三男の隆景が優秀すぎたから、結果的に軍政権が両川に集中したのかと思います。逆に両川がダメダメだったら、ここまで毛利家が拡大できなかったでしょう。軍政権が両川に集中してなくても。
全く違ーう。天下を手に入れた武将、そして統一した者が最強の称号を手にするのだ。
強いも者が勝つのではない、勝った者が強いのだ。
のベッケンバウアー氏の名言を思い出す
結論:最強武将が全員天下をとれるわけがないのです。天下を取れるのは基本一人だけだから、それ以外が取れなかった話なのです。
良い話なのに、聞き取りずらいので、途中で止めます。
肖像画にいちゃもんをつけてマウントを取ろうとする近頃の学者は気に入らない。
仏像がお釈迦様に似てるか似てないか、誰もあげつらったりしない。