太田道灌~『元祖・江戸っ子』扇谷上杉に尽くしたスーパー家宰~
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- Опубликовано: 23 июл 2020
- 太田道灌~『元祖・江戸っ子』扇谷上杉に尽くしたスーパー家宰~
について紹介しています。
~目次~
■ややこしすぎる○○上杉
■とんちの利いた少年時代
■山吹の娘
■『猫地蔵』道灌と黒猫
■VS.古河公方、長い戦いの始まり
■江戸城を築城
■戦乱の世の幕開け
■長尾景春の乱
■享徳の乱が終息、しかし・・・
■道灌暗殺
■まとめ
ナレーション:真加藤沙織
脚本・監修:歴史の細道
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~画像~
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~音源~
DOVA-SYNDROME 様
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ついに太田道灌を取り上げてもらって嬉しいです。
北条早雲が大河ドラマになったら知恵比べのライバルみたいな役回りで出てきそうだなぁ…いや、出て欲しい‼︎
大変良かったです。(^o^)
素晴らしい動画を有難うございました。
太田道灌末裔の川越城末裔と、岩槻城末裔がいますね。川越城末裔の方は今、大河ドラマを太田道灌にする署名活動をしています。千代田区には太田道灌の姫、太田姫神社もあり、皇居には太田道灌堀もあります。太田道灌の末裔達は各地で頑張っています。
大河道灌を是非、バッドエンドですが…。
さおりさんやっぱり素敵❤️
大河ドラマ「北条早雲」を作るとしたら
前半のトリはこの人になるでしょうね。
道灌好きなら、川越観光がお勧め!
古い街並みが残っているし、川越博物館も道灌推しだよ!
後、謎のお菓子横丁もある。
少年時代に『江戸城は誰が作った?』との質問に『大工さん』に次いで『太田道灌』との回答で遊んでました!
太田道灌の中身は今回はじめて知りました。ありがとうございます!
今回も楽しく拝見させて頂きました。次回も楽しみにしてます。
山吹の里は他にも言い伝えのある場所がありますね。
「おおた」は、「大田」でなく、「太田」が多いのは、太田道灌 が有名だったからだそうです。
「たけだ」は、竹田より武田が多いのは、武田信玄 からとのこと。
地元は、太田道灌に攻め滅ぼされた城下町で現在も滅亡した一族の姫さまを偲んでお祭りをしており、太田道灌は蛇蝎の如く忌み嫌われています。
江戸っ子道灌と聞いて…
道灌出陣
「ったりめぇだあ!合点承知よぉ!」
道灌謀殺
「テヤンでぇ、チキショー!!」
と江戸弁で捲し立てる道灌が思い浮かびましたw
雪斎や玄庵や宗滴や官兵衛や光秀と肩を並べる名将
足利政知は、義政より1歳年上だけれど、家柄(義政の母は日野重子)から弟とされている書もある。もし試験問題にされたらどっちが正しいのだろう?
死ぬ間際に下の句読んだの本当だったとしたらすごいw
山吹町に住んでます
氏神の赤城神社もその由縁らしいですが
住んでから太田道灌ゆかりの地ということを知りました
なので道灌のことを知れて嬉しいです
錦糸町近くの石原三丁目付近に太田道灌公ゆかり報恩寺があります😃
その後、どのような経緯があったのか調べていませんが、太田家の子孫の方が家の近所(滋賀県草津市)で酒蔵を開いています。
父上が子供の頃の道灌を諌めようとしたのにそれを屁理屈で返した道灌。大人になってそれが増長してしまったのか?
こちらの動画で紹介された、天才ながらも悲劇の家宰、太田道灌(資長)を主人公とした、戦国初期(と言うより中世期)が舞台の大河ドラマとかがもし実現されたら、何だか興味が湧く程面白そうな気がするので是非共見てみたい。
容姿端麗、頭脳明晰、迦陵頻伽
結婚してください。
初代江戸城主太田道灌
沙織さんこんばんはお疲れ様です。
太田道灌、江戸城(千代田城)築城した事や扇谷上杉氏に仕えていた武将くらいの知識しか
知らなかったですが、参考になりました。
七重八重 花は咲けども 山伏の
味噌一樽と 鍋と釜敷。
落語「道灌」より
江戸城を築城した立役者❗️
関係ないけど、さおりさん、
堀北真希さん似てますね〜(^ω^)
がんばったんだね。
江戸には太田道灌の前の江戸氏が居たと聞いた事があります。けど、
享徳の乱の辺りは鎌倉公方、堀越公方、古河公方、山内上杉、扇ガ谷上杉が組んず解れつしていたので覚えるのが大変だった所です。それにしても太田道灌の逸話はどこまでが事実なんでしょうねえ。貧農の娘が後拾遺集にある醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌を意識して山吹の花を差し出したというのは出来過ぎだなあと思いました。まぐれだったのかもしれませんけどね。
元祖は江戸重継で
本家は太田道灌
地元日暮里の英雄‼️
第十八代遠藤宗家の縁戚である太田道灌公は、古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、長禄元年(1457年)中世の江戸氏の居館跡に江戸城を築城した。御殿山城は太田道灌館とも呼ばれ、初代の江戸城構築した、太田道灌公が江戸近辺に築いた多くの城館の一つで江戸城もその特性を活かしたことは注目され。現在は国際フォーラムの銅像と化してます。
『新編武蔵国風土記稿』によれば、太田道灌公が江戸城に入る前の長禄年間(1457年 から1460年)に城を構えて居住しておりましたが、夢のお告げがあったため江戸城に入り、御殿山城(太田道灌館)には家臣の宇多川和泉守長清を配置したと『道灌日記』に記載されています。当時は眼下に、浅草湊と並んで栄えた品川湊を見下ろす武蔵野山地(後に台地)の低山であったのです。武蔵野台地から低山ですが、関東平野の基軸を為す奥利根川の山々の隆起は利根川東遷前ですので、2千mの奥利根川の山々をメインとして武蔵野山地や奥秩父山地が、陸地化するには隆起と侵食作用があって山々が、侵食作用で扇状地が益々と広がり、恐らくは奥利根川の山々の褶曲作用が低山である高尾山や御岳山位の標高が、山の手の山々にあって侵食作用が台地を形成したと地質学的には推察され、山の手地域層は江戸時代に異なる地層が混在します。
大切な有楽層の分布を調査して大まかな流れは掴めました。江戸時代の有楽層の層厚は下町周辺に分布しており、日本橋、浅草、深川、本所、葛西、浦安、行徳の地域が、特に有楽層の層厚は、奥利根川水系の有楽層が顕著でした。意味する事は関東平野形成や河川流域の多様さです。その中心河川が利根川にあり、600年以降の堆積流域が膨大な流域で構成されました。しかし将軍の5代徳川綱吉が田沼意次に「江戸湾に流域を90度東側の銚子沖へ流域を変えた利根川東遷を命じた結果、隅田川を除き、江戸下町の全ての河川は掘削と埋め直し、付替え工事で江戸下町の河川や地形を変えた」事が殆どが触れられておりません。紀州の河川掘削法は直線掘り、茅場町の茅や葦の植生や水鳥繁殖に土壌豊かな有楽層が必要でした。後に明治政府の行政区域割付けの間違えと成りました。
大田道灌の後に徳川家康公が江戸城に入ってからは、武蔵野山々(侵食後に加賀藩の崖崩れと侵食と建造物構築の台地化へ平準化)御殿山(後に台地)は「道灌館を品川宿の利用で御殿(休憩所)」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所として利用されました。その際、遠藤宗家甲賀百人組は、徳川将軍家が鷹狩りに御成りの際、警護を担います。また、幕府重臣を招いての茶会の場として利用されていたほか、植樹した桜の名所としたのでした。
しかし、元禄15年(1702年)2月11日 四ッ谷太宗寺付近の出火で、青山(後に台地)から麻布山(後に台地)御殿(休憩所)へ至り、品川宿(江戸外)でようやく鎮火しました。寛文年間(1661年 〜 1673年)に亘り桜が移植され、文政7年(1824年)の「宿差出明細帳写」によると、御殿山(道灌館は後に休憩所)の面積は11,500坪(38,016平方メートル)、600本に及ぶ桜の名所として整備されました。文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃咩命を勧請して祀り、品川大明神とも称した。 鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に北条高時の臣、二階堂道蘊が「宇賀之売命(稲荷神)」を、更に室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌公が「素戔嗚尊(天王神)」をそれぞれ祀ります。慶長5年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の祭に神社(東海道沿い)を参拝して戦勝祈願し、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(行徳の後藤重光の神輿)などを奉納し、天正19年(1591年)には徳川家康公から5石高の社領の朱印を受けました。特に、塩と鮮魚、寺町の行徳には徳願寺は徳川家の菩提寺です(2代の秀忠の正室のお江の方の墓所も)。加えて、此の為に小名木を掘削させた程でした。元祖、江戸っ子です。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町7代末孫
元祖江戸っ子は江戸四郎さん
江戸重継「元祖は俺だろ」
実は北条早雲と同い年だったりする
何が何やら解りにくい
ややこしすぎてわけわからんw
昔占い師に、私の祖先は太田道灌だと宣言された事があったのを思い出し調べていたらこの動画が出て来たので拝見させていただきました。
大変勉強になり感謝申し上げます。
顔出さない方が伸びるんじゃないか?