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「論理的思考」の文化的基盤を始め渡邉先生の本は英語やペルシャ語などに翻訳されるべきだなと思いました。
興味深いお話でした。日本語から英語への論文の翻訳は、AIではまだうまくできないというのは、さもありなんと思いました。「AIがイラン型、フランス型と、日本型の論理の違いを知っているか」というのは面白いですね。AIが自分で「学習」すべきなのか、プログラミングで「指導」すべきなのか、どうなんでしょうか。。英語圏に居住して9年になりますが、英語ができないという現実にあらためて直面し、四苦八苦しています。言語学等の専門知識がないため、自分の経験・感覚だけですが、英語と日本語の違いに、言葉の視点が異なることがあると感じています。英語は第三者視点(事実を伝えるのに適している)、日本語は当事者視点(本人や相手の気持ちを考慮する)という違いがあるのではないか、そんな風に最近思っています。イメージスキーマという言葉は最近知りましたが、その違いも大切だと思いますが、日本語や各言語が持つ(または持たない)心の影響もあるのではないか、そう思いながらこの休みの間に、動画をいろいろ視聴しています。
ゴミ捨て場で若者に「これ(分別)どっちが正解ですか?」と聞かれた。もちろん自治体ごとにルールはあるが、「正解」の使い方にドキッとした。価値観や文化の多様性が狭められないよう、生きづらさや閉塞感が減りますよう、入試が豊かさに貢献しますよう。
興味深いお話ありがとうございます。お好み焼きの作り方をイタリア式の論理で、ってしたらピザになったりして🍕冗談ですけど😆
我々は、状況に応じて適切な論理を組み立てて生活していると思う。例えば、上司に報告するときはアメリカ式の結論優先で、また、人を説得するときはフランス式の弁証法的手段で、さらに、法律がからむ案件には、イラン式の演繹的議論を加味して説明や議論をしていると思う。今回、それらの論理法が、異なる文化を背景にしているということに興味を持ちました。
その通り!
記号論理(形式論理)は、特殊な記号論理規則を除くことを条件に、万国共通の記号体系で制御され運用されている、と想定できるが、意味論理(非形式論理)は、意味定義(意味解釈)が不統一であるため、万国共通の意味体系で制御され運用されている、とは想定できない。それは、国家や民族によって文化(事実観や価値観や思考様式や知識内容)が違い、意味体系も違うからで、意味が関与する場合の「論理的思考」も、文化の違いで衝突や無理解を生じさせる。この場合、自他の意味体系の違いを考慮した上で、相手に合わせた「論理的思考」の様式を個別に組み立てねばならない。それは、「説得論法」でもある。「論理的思考」と言っても、記号論理で考えるか、意味論理で考えるかで、全く違ったものになる。さらに厄介なことに、「矛盾」の捉え方や扱い方も、文化的相違となって現れる。特に、宗教や思想が絡む場合の「矛盾」の捉え方や扱い方は、大きく違ったものになる。だが、それは、「論理」を破壊し兼ねない大事件である。rakue.ganriki.net/
動画は見てないのですが、論理ではなく定義でしょうね。論理は数学で言うところの算術ですから、基本構造は合意できるはずなんですよ。捉え方が変化するのは定義で、同じものが違うものに見える現象、つまり1が文化圏によっては⁻0,8や0,2とかから1,2と始まったり、7進数とかだったり、マイナスが+だったりするんですよ。
次は見てからコメントしてみたらいいかも
@@ri1944 ざっと見たけど意見は同じだね。付け加えるとすると、論理構造は話せばわかり合えるし考えればいいだけなんだけど、定義や感覚的なものは文化的背景や経験的体感によるところが多いので、すれ違いや勘違いに留まらず、合意しながらも対立するというような構図すらも見受けられる。なので考えたことがないだとか、極めて経験が浅いだとかだとまぁ論理がどうとか最低限必要だとかいうのはわかるんだけど、問題となる原因はその先にあるということを言いたいわけなのです。つまり体が二つないと二つの文化圏の気持ちにはなれないみたいな現象が起こるわけで、だからこそ解決が困難なのです。人によってはいくつもできるしできなくとも我慢という選択肢もあるが、人によっては一つが既に無理だったり、どうしても我慢ならんことなどもあるわけなのです。そして正義は極悪となる。つら
「論理的思考」の文化的基盤を始め渡邉先生の本は英語やペルシャ語などに翻訳されるべきだなと思いました。
興味深いお話でした。日本語から英語への論文の翻訳は、AIではまだうまくできないというのは、さもありなんと思いました。「AIがイラン型、フランス型と、日本型の論理の違いを知っているか」というのは面白いですね。AIが自分で「学習」すべきなのか、プログラミングで「指導」すべきなのか、どうなんでしょうか。。
英語圏に居住して9年になりますが、英語ができないという現実にあらためて直面し、四苦八苦しています。言語学等の専門知識がないため、自分の経験・感覚だけですが、英語と日本語の違いに、言葉の視点が異なることがあると感じています。英語は第三者視点(事実を伝えるのに適している)、日本語は当事者視点(本人や相手の気持ちを考慮する)という違いがあるのではないか、そんな風に最近思っています。イメージスキーマという言葉は最近知りましたが、その違いも大切だと思いますが、日本語や各言語が持つ(または持たない)心の影響もあるのではないか、そう思いながらこの休みの間に、動画をいろいろ視聴しています。
ゴミ捨て場で若者に「これ(分別)どっちが正解ですか?」と聞かれた。もちろん自治体ごとにルールはあるが、「正解」の使い方にドキッとした。価値観や文化の多様性が狭められないよう、生きづらさや閉塞感が減りますよう、入試が豊かさに貢献しますよう。
興味深いお話ありがとうございます。
お好み焼きの作り方をイタリア式の論理で、ってしたらピザになったりして🍕
冗談ですけど😆
我々は、状況に応じて適切な論理を組み立てて生活していると思う。例えば、上司に報告するときはアメリカ式の結論優先で、また、人を説得するときはフランス式の弁証法的手段で、さらに、法律がからむ案件には、イラン式の演繹的議論を加味して説明や議論をしていると思う。今回、それらの論理法が、異なる文化を背景にしているということに興味を持ちました。
その通り!
記号論理(形式論理)は、特殊な記号論理規則を除くことを条件に、万国共通の記号体系で制御され運用されている、と想定できるが、
意味論理(非形式論理)は、意味定義(意味解釈)が不統一であるため、万国共通の意味体系で制御され運用されている、とは想定できない。
それは、国家や民族によって文化(事実観や価値観や思考様式や知識内容)が違い、意味体系も違うからで、意味が関与する場合の「論理的思考」も、文化の違いで衝突や無理解を生じさせる。
この場合、自他の意味体系の違いを考慮した上で、相手に合わせた「論理的思考」の様式を個別に組み立てねばならない。それは、「説得論法」でもある。
「論理的思考」と言っても、記号論理で考えるか、意味論理で考えるかで、全く違ったものになる。
さらに厄介なことに、「矛盾」の捉え方や扱い方も、文化的相違となって現れる。
特に、宗教や思想が絡む場合の「矛盾」の捉え方や扱い方は、大きく違ったものになる。だが、それは、「論理」を破壊し兼ねない大事件である。
rakue.ganriki.net/
動画は見てないのですが、論理ではなく定義でしょうね。論理は数学で言うところの算術ですから、基本構造は合意できるはずなんですよ。捉え方が変化するのは定義で、同じものが違うものに見える現象、つまり1が文化圏によっては⁻0,8や0,2とかから1,2と始まったり、7進数とかだったり、マイナスが+だったりするんですよ。
次は見てからコメントしてみたらいいかも
@@ri1944 ざっと見たけど意見は同じだね。付け加えるとすると、論理構造は話せばわかり合えるし考えればいいだけなんだけど、定義や感覚的なものは文化的背景や経験的体感によるところが多いので、すれ違いや勘違いに留まらず、合意しながらも対立するというような構図すらも見受けられる。
なので考えたことがないだとか、極めて経験が浅いだとかだとまぁ論理がどうとか最低限必要だとかいうのはわかるんだけど、問題となる原因はその先にあるということを言いたいわけなのです。つまり体が二つないと二つの文化圏の気持ちにはなれないみたいな現象が起こるわけで、だからこそ解決が困難なのです。
人によってはいくつもできるしできなくとも我慢という選択肢もあるが、人によっては一つが既に無理だったり、どうしても我慢ならんことなどもあるわけなのです。そして正義は極悪となる。
つら