【ゆっくり解説】奥州藤原氏はなぜ滅亡したのか。。。
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- Опубликовано: 9 фев 2025
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
たとえ義経匿ってなくても、頼朝により滅ぼされたと思う。
どういう理由で?
@@電卓-q4u 其れは、朝廷よりも豪勢な生活、威勢を示したからでは?余りにも多くの富を見せびらかせば、時の権力者は欲しく成る。・・・其れを「自慢高慢莫迦がする」と言う。根源は「自慢高慢」と「財は奪わられる為に有る」だろう。栄華を見せびらかし続けていれば、恨みを買いいつかは奪われる?
源平合戦中に源氏側につくと明確に態度を示していた場合には鎌倉幕府の御家人たちの中でも圧倒的な軍事力と領地を有する勢力になったと思うけど、鎌倉御家人としての奥州藤原氏がその後の幕府内でどのような扱いを受けるのか気になる
歴史にIfは禁物ですが、もし奥州藤原氏が後々まで存続していたならば、平泉は京都に屈する観光都市になっていたでしょうね。
初代から三代までは全身ミイラで残っていて、泰衡は首だけだったよね。
泰衡は遺言を破った挙句情けない助命嘆願までしてこの結末だったから、遺言を守って派手に戦って死んだほうがまだ綺麗な終わり方だった。
追い詰められた後に、裏切った人間がその後生き続けられた試しがない。
長田忠致、景致父子然り、小山田信茂然り。
大河ドラマ炎立つは何故か基衡の話は原作小説でも無かった。
昨今『光る君へ』関連の藤原氏本が多数出てるが、ドサクサに紛れて『平泉藤原氏』関連の本も出てるのが好き(^ ^)
藤原氏は今日に至るまで影響を与えている。
日本三大最悪なタイミングで死んだ人の一人、藤原秀衡
炎立つでは、泰衡がわざわざ鎌倉まで出向いて頼朝に頭を下げていたが、北条時政に「帰れ!」と罵られ、兄の国衡や弟の忠衡は「みっともない」と非難していた。あのドラマでは3部の主役である事もあり、泰衡はそんなに無能な人物には描かれていたけど…
中央から独立した一代勢力としてよく関東の北条と比較されるけど栄華を極めた奥州藤原の最後は実にあっけなくて情けない
マキャベリズムに徹するなら、平家と連携して源頼朝の後背を突くか、それをチラつかせて頼朝に奥州における覇権を認めさせるべきだったし
義経が逃れたきた段階なら情け容赦無く義経を頼朝に引き渡すべきだったし
義経を匿ってしまったのであればそれを押し立てて最後まで戦うべきだった
・・・身内による血で血を洗う争いの末に棚ぼたで成立した地方政権だったから戦いのない浄土を求めたのは分かるが
3代4代と栄華を極めるうちに平和ボケして戦って守るという気概を忘れてしまったのが滅亡の根本原因じゃないのかな
やってることが日和見で一貫性も覚悟も無いように見える
同意します。ただ当時はいわゆるマキャベリズム的な行動様式を徹底していた人物は本当に少ないので、当時の為政者で言えばこんなところかと思いますよ。
当時マキャベリズムに比較的近い行動様式だったのはむしろ頼朝なので、頼朝の思惑通りになったのは必然かと私は思います。
可能性の話に過ぎず都市伝説寄りの話になりますが、奥州藤原氏や安東氏が宋と交易していくうちに中国で日本には「黄金の国」があるという噂が伝わるようになり、その噂を聞いたマルコ・ポーロが後に『東方見文録』で「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに紹介したという話もありますね。
中立勢力というのは争う勢力があって初めて成り立つのだから決着がつく前に去就を表明するか、どちらも滅びないように介入しないと次のターゲットになりかねない。強大な中立勢力が決着後に生き延びたためしなんてないのだから
頼朝たちが平家と戦っている間に恭順しなかった以上、平家滅亡後に次の標的にされるのは避けようが無いよね。
義経の件はたまたま都合の良い口実になっただけで、それがなくとも別の難癖をつけて滅ぼしにかかっていたであろうことは疑うまでもない。
もちろん平家と戦っている間に恭順していても無事が保証されるわけではないのだけど…その後に多くの御家人、一族が滅んでいったしね。
中立を守るには軍事力が必要なのに怠ったから。宋と貿易していたなら火薬を使用した武器を輸入していたら戦えた。
鎌倉軍が白河の関を越えた後、やっと動員令を下してる位だったから。
泰衡君余りにも情けないねぇ⤵️最期頼朝君に殺されてしまった😢
鎌倉中期以降日本は、寒冷期に入っていく。
平安時代中期以降、関東から東北へと農業が広まっていったが、
そうはいかなくなっていった。
足利や新田が、関東から関西へ行って、2度と帰らなかったのは、
生産力が以前より極端に落ちていたから。
ましては東北地方は、人口減が進んでいた。
平泉は学生時代から何度も訪れていて、高橋克彦氏の『炎立つ』の原作を読み、『火怨』や『風の陣』等、東北、蝦夷と呼ばれた人々の歴史、文化、習俗を平泉のレンタサイクルや自前のバイクであちこち巡って、今は東北の縄文遺跡巡りをしています。毛越寺のユースホステルには学生時代から何度も宿泊してました。確か、ユースホステルの営業を止める直前も泊まった記憶があります。
何故奥州平泉文化が花開いたかと言えば、本格的なインフラ整備(仏教都市としてですが)を行った藤原清衡は、そういった才能と思想、ビジョンがあり、その実現に必要なものを得ていたという事でしょう。でなければ、都市開発なんて出来ませんし、平安時代中期から後期にかけて、武士が台頭してきたという意味が、その答えになるでしょう。あまりの治安の悪さに、自衛の武力を持たなければならなくなった、地方の荘園や領地はまさに末法の世だと思われていたのでしょう。まぁ遠からずといった所でしょうね。
しかし、当たり前の話ですが、芭蕉が『金鶏山に残すのみ』と奥の細道で記述していますが、同じく東北で安東氏の拠点として大いに栄えた十三湊も、今はただの寒村でしかありません。あをによしと歌われた大和の地(奈良盆地)も、平安京遷都後は、歴史の陰へと埋没してゆきます。再び脚光を浴びたのは千三百年経った後、昭和に入ってからです。京都は日本の結節点であり、街道の集中する場所なので、往来は途切れる事が無かったのとは対照的ですね。
・・・つらつらと書いてきてしまいましたが、現代と違い、石炭石油水力電力エネルギー革命が起こる明治以前の時代には、生産能力も限られていて、人の住まなくなった場所が荒野に帰するのもある意味必然であったという事ですね。鎌倉幕府も室町幕府も、社会的基盤を整えて都市整備を行うという事を、してこなかった為(鎌倉街道くらいですかね?)土地所有はぐちゃぐちゃになり、徳川幕府の出現を待つまで日本の『都市開発』すなわち『インフラ整備』は進まなかったという事です。
あ、土地をいじくるのが禁忌だった(時代が長かった)とは知りませんでした。
奥州藤原氏のことを知りたいなら大河ドラマ「炎立つ」を見ていると分かりやすかった。奥州藤原氏が滅びた原因は他にも金の産出量の低下、交易相手の宋の衰退なども挙げられると思う。
それは甲斐武田氏とて同じ事。
奥州藤原氏だけでなく安倍一族も古代東北人の家系である一方で貴族の血族との婚姻関係によって成り立っている。
奥州藤原氏は藤原秀郷の末裔。
奥州藤原氏の先輩にあたる安倍氏や清原氏も元々は京都朝廷から派遣された貴族の在庁官人が土着したと考えられていますね‼️🤗
奥州藤原氏が安倍氏や清原氏の後を引き継いだ?
確かに初期の蝦夷の頭領は阿弖流為やモレは名字を名乗っていなかったから安部も清原も中央の出身の可能性がある。
息子可哀想かな、義経迷惑かな人気者かも知れんけど迷惑だわ
炎立つ。^^
秀衡が時勢を読めなかったことが主因に思える
興味深く拝見させていただきました。
逃避行後の義経は比較的行動は自由で、出羽や比叡山に出没し、泰衡とも共同歩調を取っていました。
頼朝の家系と泰衡の家系は代々争い合う関係にあり、福島県に長大な防衛施設を建設し、朝廷とは交易を通じて裏では結託、頼朝の側近に内通者を作るなど、平泉は鎌倉をリードしていました。
義経の死は病死か事故死の類ではないかと推理しています。その首を2ヶ月もかけて、鶴岡八幡宮五重塔の落成式に合わせて頼朝を嫌悪させているからです。義経の首は川に遺棄されましたが、果たせるかな鎌倉幕府公認の怨霊となりました。
不仲と言われた国衡と泰衡ですが、実は運命を共にしており、平泉藤原氏得意の流言飛語だったように感じます。
泰衡最期の地では自害し、家臣に首を託したが、家臣は反逆者にされたと伝わり、泰衡の首の傷は晒された時に死者を侮辱するためにつけられたものと考えられます。
泰衡もまた、そうすることで義経と共に鎌倉幕府公認の怨霊となりました。東北仏法楽土を守護するためです。平泉は征服後も秀衡泰衡基準での統治が行われ、平泉は戦にわざと負けることで国土を守ることに成功しました。
だから泰衡の首桶には仏教最高の生命体たる蓮の種が添えられ、今に開花しているのです。
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奥州藤原氏はなぜ滅んだか?
1.奥州藤原氏は棚ボタで誕生した政権である。武力で勝ち取った政権ではないから、武力で守ろうとする意志が弱い。
2.源義家には、清原氏を滅ぼしたのは自分であるのに、おいしいところは藤原清衡に取られたという思いがあっただろう。
この悔しい思いが子孫の源頼朝に引き継がれていて、頼朝は初めから奥州藤原氏を敵視していた。
3.奥州藤原氏は貴族化し、京都を重視し、奥州を軽視していた。
一方の鎌倉政権は、奥州も含めた、東国を重視する政権。奥州の民衆はどちらを支持するかは明らか。
鎌倉政権っていうほど奥州の事、重視してた?。
最大の原因は、平家が滅んで、パワーバランスが崩れたから。
こんばんは
義経が奥州藤原氏を頼った理由は謎だったんですね。
昔から唐突感あったんですが、誰もわからないってことだったんだ。
それにしても、
義経が戦のセンスは抜群なのにその他の立ち回りが残念なことを差し引いても
頼朝はやっぱり好きになれない…。
そりゃあ頼朝が苦心して創り上げようとしている、鎌倉中心の秩序をよりによって実弟が根底から揺さぶりかねない行動取ったらね。
もしかしたら、義経は一種の発達障害か何かだったのではないかと思われる。
頼朝が苦心して創ろうとしている秩序の一部でも理解していたらこうはならなかったと思う。
泰衡が不甲斐ないばかりに…
義経に関わったから。特に二度目
奥六郡は草も生えぬ雪国だから
冗談はさておき東国軍事政権が出来たら衝突は避けられないよなぁ…
というより、どっち付かずの中立(中途半端)の時点で色々と詰んでいる気がするのだが...。
@@55tg 下についても正直攻められない理由が見つからないっす
せっかく大陸と貿易していたなら大陸の最新の武器を輸入して軍備拡張すべきだった。当時はすでに火薬を使用した武器があったから、鎌倉武士を圧倒できた。
喜色悪い絵をなんとかして。
奥州藤原氏が生き残るためには、軍略の天才義経を総大将にして鎌倉軍と決戦するほかなかったと思う。それで平泉軍が勝てたとしても、何十年か後の義経亡き後に鎌倉に滅ぼされただろうけど。そういう世界線の歴史を見てみたいものだ。
義経、余計なことしやがって、、、