Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
私の父親(1943年生まれ)も、1960年代に大阪で創価学会で活動していたそうです。その後地元に戻った後は、自民党候補者の選挙運動に参加したそうです。先生のご講義で、若かりし日の父が自分の居場所を探し続けていた様に思えました。たどり着いた先で家庭を持ち、私たち家族を大切にしていたありし日の父を思い出しました。私にとって大変意義深い講義となりました。ありがとうございます。
ピースボート懐かしい。乗ろうと思ってポスター貼りしてたけど、あの独特の雰囲気に馴染めなくて辞めてしまったわ。もれなく全員、情報商材に騙されそうな雰囲気してた。
そうなんすか?笑
成長主義の中では「満足している」が絶望とイコールになるかもしれない。もう成長しなくていいって考えているとも読める?脱成長主義に移行していく時代なのかなマイヤン最強説を私は推しています。視野が狭い(=相対的に自分の存在がデカくなる)から、俺最強と思いやすい。マイヤンはエリート達と比べてよりハッピーに生きている印象があります。社会関係資本の不在って無敵の人のことだよなぁ。社会関係資本って同心円状に広がっていて、自分を円の中心として関係の深い人がより内側に来るような形。無敵の人は社会関係資本を持たないから、最も内側の円が社会全体になってしまうんだよなぁ。ピストル事件も現代の無敵の人と同じような背景があるのかなぁ。
60年代に幼少期を過ごしていた現在63才の私としては買い物ひとつするにも市場でおっちゃんやおばちゃんと会話をしながらものを買う事が当たり前でした近所のおばちゃん、おっちゃんもまるで身内のように話しかけて来る三つ子の魂百までと言いますが…なのでやはり今の方が人間関係は希薄になったと僕は思うのですが
『まなざしの地獄』を読むとき、『天気の子』の内容を思い出した。この映画の主人公も田舎出身、都市に辛い生活を過ごす、しかも、ピストルもあります。微妙な関連があるかもしれません
自分も小学生のころに親の都合で海外に数年間過ごしたから地元における社会資本はほぼ壊滅しました😂 日本人学校の友達とは今でも交流できてるけど、、
60年代というと丁度,郊外の団地化と重なりますね.農村部の労働を都会に移転.家族単位で地域からの強制的な引き離しによる地域の空洞化を招いた,社会現象の一旦だと感じました.また,強い紐帯(=高い維持コストを要請する共同体)は必要だと再認識しました.強い繫がり(=ネット),弱い繫がり(=リアル)の現状で,ネット関係はターミネイトも容易(=維持コストが低い)ことが心情的不安定に繋がると思いました.先の展開が,リッツァの「マクドナルド化する社会」などに繋がり..
丁稚奉公も生涯未婚率が高かったりと集団就職と似たような傾向があったみたいですね
コメント、ありがとうございます。丁稚奉公のデータなどは見たことがないのですが、ありそうなお話ですね。当時の雇用者側も丁稚奉公のようなものを想定して若者を雇っていたんじゃないでしょうか。だからプライバシーもクソもなかったし、真面目な人ほど飼い殺しにされるケースも多かったのかもしれません。あえて言うなら、それ以前の丁稚奉公と集団就職の最大の違いは、おそらく規模なんじゃないでしょうか。学校を卒業した若者が一斉に田舎から都会へ移動し、同時に働き始めるという現象がこの時代特有だったということですね。
ご丁寧にお返事くださりありがとうございます。規模感で見るとあの時代特有の現象も見られたかもしれませんね引き続きこのような形で授業を公開していただけると新たな気付きが得られ非常に助かります残りの授業もすべて拝見します
うーん、田舎育ちで正直田舎の悪癖を知ってるばっかりに社会資本が生きる上で必要だとしても、拒否反応がでるんですよね…価値観を押しつけてくるし、大人になっても子どもの時の関係性が引き継がれるしで、田舎はまるで大きな小学校ですよ。個人的な感想ですが、スクールカーストの上位はいいかもしれませんが、下位は社会資本を捨ててでも都会へと出たほうが幸福に生きられると思います。下位が田舎にいては理不尽を強いられて一生奴隷です。それなら苦しいですが、ある程度はまだ正しく評価してくれる資本主義の奴隷になったほうがまだマシです。
実感のこもったコメント、ありがとうございます。この動画では、高度成長期を題材にしたので、こういう話になっていますが、田舎に限らず、社会関係資本のダークサイドについてはコクトーさんの意見に基本的に賛同します。だからこそ、当時の人々にとって都会に出ることは社会関係資本の喪失というよりも自由の獲得として受け止められたのでしょう。この動画で言及したかどうか忘れましたが、スクールカーストの延長という話は古谷経衡さんの『意識高い系の研究』という本で面白い仮説が示されていました。彼の定義によれば、田舎にいようが都会にいようが、生まれ育った土地にそのまま住み、学校時代にカーストが高くて、その時に獲得した社会関係資本を元手に楽しく暮らしている人間を「リア充」というそうです。逆にカースト中下位の人間は大学ぐらいで地元を離れる動機づけが強い。その中の一部が意識高い系になる・・・みたいなお話だったと思います。実証性はともかくとして、このストーリーはスクールカースト最下位だった僕から見て身につまされるような気がしました(苦笑)。だからコクトーさんのおっしゃっていることもよくわかりますし、自らそのコミュニティを退出するのも、間違いなく正解だと思います。そんなところに付き合うのはつまんないですもんね。そのうえで、自由なきコミュニティに閉じ込められて生きるか、孤独な自由に生きるかという2択以外の選択肢を模索することこそ、現代に必要なことなんじゃないかと思います。言い換えれば、個々人が自分の気に入った関係性を自然に結び、コミュニティをなんとなく作り上げていくみたいなことを起こせないかということですね。趣味縁という概念はそうした模索の過程で生まれてきたヒントの1つなのだと思います。コクトーさんのおっしゃるように、昔の田舎的コミュニティに戻っても仕方ないので、みんな次を見据えてるけど、決定打がないまま、無敵の人みたいなのが増えてしまってるのが現状なんですよね。
環境運命論地元の友達が大切とは一概に言えない。選択肢が狭い。大人になってもっと若い時代に出会いたかったという人物に遭遇することが多い。もっと違う人生があったのではないか?
集団就職で最初に入った会社でずっと働いていた人は、ほとんどいません。転々と職業をかえて、良い方向には行かなかったようです。下流老人と言われている人の中には、多くいるようです。
コメント、ありがとうございます。当時の状況はおっしゃる通りだったようですね。たしか『まなざしの地獄』でも離職率の高さに少し言及されていた気がします。他の動画で話しているのですが、終活をはじめとして、集団就職世代に関係する課題は今も社会のあちこちに散見されます。桧村さんがおっしゃるとおり、「下流老人」の問題もこういう歴史的事実との連続性から見るべき部分も多いですね。
ネットがない時代ですから無知につけこまれて悪い大人に騙されるんですよね~
みたむねすけなんですね。けんだそうすけだとおもっていました。
よくありますよね(笑)。ちなみに彼にはもう1つのペンネームがあって、真木悠介と言います。同一人物なんで、気に入ったら探してみてくださいね。
私の父親(1943年生まれ)も、1960年代に大阪で創価学会で活動していたそうです。その後地元に戻った後は、自民党候補者の選挙運動に参加したそうです。先生のご講義で、若かりし日の父が自分の居場所を探し続けていた様に思えました。たどり着いた先で家庭を持ち、私たち家族を大切にしていたありし日の父を思い出しました。私にとって大変意義深い講義となりました。ありがとうございます。
ピースボート懐かしい。乗ろうと思ってポスター貼りしてたけど、あの独特の雰囲気に馴染めなくて辞めてしまったわ。もれなく全員、情報商材に騙されそうな雰囲気してた。
そうなんすか?笑
成長主義の中では「満足している」が絶望とイコールになるかもしれない。
もう成長しなくていいって考えているとも読める?脱成長主義に移行していく時代なのかな
マイヤン最強説を私は推しています。視野が狭い(=相対的に自分の存在がデカくなる)から、俺最強と思いやすい。マイヤンはエリート達と比べてよりハッピーに生きている印象があります。
社会関係資本の不在って無敵の人のことだよなぁ。社会関係資本って同心円状に広がっていて、自分を円の中心として関係の深い人がより内側に来るような形。無敵の人は社会関係資本を持たないから、最も内側の円が社会全体になってしまうんだよなぁ。ピストル事件も現代の無敵の人と同じような背景があるのかなぁ。
60年代に幼少期を過ごしていた現在63才の私としては
買い物ひとつするにも市場でおっちゃんやおばちゃんと会話をしながらものを買う事が当たり前でした
近所のおばちゃん、おっちゃんもまるで身内のように話しかけて来る
三つ子の魂百までと言いますが…
なのでやはり今の方が人間関係は希薄になったと僕は思うのですが
『まなざしの地獄』を読むとき、『天気の子』の内容を思い出した。この映画の主人公も田舎出身、都市に辛い生活を過ごす、しかも、ピストルもあります。微妙な関連があるかもしれません
自分も小学生のころに親の都合で海外に数年間過ごしたから地元における社会資本はほぼ壊滅しました😂 日本人学校の友達とは今でも交流できてるけど、、
60年代というと丁度,郊外の団地化と重なりますね.
農村部の労働を都会に移転.家族単位で地域からの強制的な引き離しによる地域の空洞化を招いた,社会現象の一旦だと感じました.
また,強い紐帯(=高い維持コストを要請する共同体)は必要だと再認識しました.
強い繫がり(=ネット),弱い繫がり(=リアル)の現状で,ネット関係はターミネイトも容易(=維持コストが低い)ことが心情的不安定に繋がると思いました.先の展開が,リッツァの「マクドナルド化する社会」などに繋がり..
丁稚奉公も生涯未婚率が高かったりと集団就職と似たような傾向があったみたいですね
コメント、ありがとうございます。
丁稚奉公のデータなどは見たことがないのですが、ありそうなお話ですね。
当時の雇用者側も丁稚奉公のようなものを想定して若者を雇っていたんじゃないでしょうか。
だからプライバシーもクソもなかったし、真面目な人ほど飼い殺しにされるケースも多かったのかもしれません。
あえて言うなら、それ以前の丁稚奉公と集団就職の最大の違いは、おそらく規模なんじゃないでしょうか。
学校を卒業した若者が一斉に田舎から都会へ移動し、同時に働き始めるという現象がこの時代特有だったということですね。
ご丁寧にお返事くださりありがとうございます。
規模感で見るとあの時代特有の現象も見られたかもしれませんね
引き続きこのような形で授業を公開していただけると新たな気付きが得られ非常に助かります
残りの授業もすべて拝見します
うーん、田舎育ちで正直田舎の悪癖を知ってるばっかりに社会資本が生きる上で必要だとしても、拒否反応がでるんですよね…
価値観を押しつけてくるし、大人になっても子どもの時の関係性が引き継がれるしで、田舎はまるで大きな小学校ですよ。
個人的な感想ですが、スクールカーストの上位はいいかもしれませんが、下位は社会資本を捨ててでも都会へと出たほうが幸福に生きられると思います。下位が田舎にいては理不尽を強いられて一生奴隷です。
それなら苦しいですが、ある程度はまだ正しく評価してくれる資本主義の奴隷になったほうがまだマシです。
実感のこもったコメント、ありがとうございます。
この動画では、高度成長期を題材にしたので、こういう話になっていますが、田舎に限らず、社会関係資本のダークサイドについてはコクトーさんの意見に基本的に賛同します。
だからこそ、当時の人々にとって都会に出ることは社会関係資本の喪失というよりも自由の獲得として受け止められたのでしょう。
この動画で言及したかどうか忘れましたが、スクールカーストの延長という話は古谷経衡さんの『意識高い系の研究』という本で面白い仮説が示されていました。
彼の定義によれば、田舎にいようが都会にいようが、生まれ育った土地にそのまま住み、学校時代にカーストが高くて、その時に獲得した社会関係資本を元手に楽しく暮らしている人間を「リア充」というそうです。
逆にカースト中下位の人間は大学ぐらいで地元を離れる動機づけが強い。その中の一部が意識高い系になる・・・みたいなお話だったと思います。
実証性はともかくとして、このストーリーはスクールカースト最下位だった僕から見て身につまされるような気がしました(苦笑)。
だからコクトーさんのおっしゃっていることもよくわかりますし、自らそのコミュニティを退出するのも、間違いなく正解だと思います。
そんなところに付き合うのはつまんないですもんね。
そのうえで、自由なきコミュニティに閉じ込められて生きるか、孤独な自由に生きるかという2択以外の選択肢を模索することこそ、現代に必要なことなんじゃないかと思います。
言い換えれば、個々人が自分の気に入った関係性を自然に結び、コミュニティをなんとなく作り上げていくみたいなことを起こせないかということですね。
趣味縁という概念はそうした模索の過程で生まれてきたヒントの1つなのだと思います。
コクトーさんのおっしゃるように、昔の田舎的コミュニティに戻っても仕方ないので、みんな次を見据えてるけど、決定打がないまま、無敵の人みたいなのが増えてしまってるのが現状なんですよね。
環境運命論
地元の友達が大切とは一概に言えない。選択肢が狭い。
大人になってもっと若い時代に出会いたかったという人物に遭遇することが多い。
もっと違う人生があったのではないか?
集団就職で最初に入った会社でずっと働いていた人は、ほとんどいません。転々と職業をかえて、良い方向には行かなかったようです。下流老人と言われている人の中には、多くいるようです。
コメント、ありがとうございます。
当時の状況はおっしゃる通りだったようですね。
たしか『まなざしの地獄』でも離職率の高さに少し言及されていた気がします。
他の動画で話しているのですが、終活をはじめとして、集団就職世代に関係する課題は今も社会のあちこちに散見されます。
桧村さんがおっしゃるとおり、「下流老人」の問題もこういう歴史的事実との連続性から見るべき部分も多いですね。
ネットがない時代ですから無知につけこまれて悪い大人に騙されるんですよね~
みたむねすけなんですね。けんだそうすけだとおもっていました。
よくありますよね(笑)。
ちなみに彼にはもう1つのペンネームがあって、真木悠介と言います。
同一人物なんで、気に入ったら探してみてくださいね。