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大変です。NHKで古墳をかなり深掘りしてオンエアしてました。継体天皇のお話はふむふむの納得の内容でした。これでこのチャンネルに行き着く一般大衆がワンサカきますよ!NHKに感謝!
ギャフン。普段、テレビを見てないから見逃してしまいました。(TT)
邪馬台国マニアってわけではないですがとても興味深い内容でいつもありがとうございます。ハルキーさんも場所は大した問題ではないと言っているのに共感はしているものの最近愛媛松山や讃岐に天皇が在任していた痕跡(特に斉明天皇や仁徳天皇)がいくつか紹介されている動画をみてぐらっと来ています。大きな謎の役所跡もあり、どう考えてもここは都の後じゃないのかなと思いました。越智先生の話。。。誘導されたかもしれないですが。。。また同時に魏志倭人伝記載の7万戸という人口は何を生業にしていたのかという視点がグラッとポイントです。論争=ハルキーさんは対岸なわけですがここでも同じことを言っている範囲かもしれないと思い始めています。金印が出たら、出たそこら辺でしょうけど出るまでは論争でいいですよね。。。
ありがとうございます。私も、結論に至るまでにいろいろ考えることが大事で、結論はあとからついてくるくらいに考えています。痕跡などがあれば、それを考察し、何かしら見解を出すことになると思いますが、その見解が当初一致しないことは小さな問題なのかも知れません。
ハルキーさん、今回もありがとうございます。基本的なことをお聞きします。土器が広範囲に移動していますが、それは土器そのものが交易の対象であったのか、それとも容器として利用されていたのか、という点です。子供の頃、釜飯の駅弁があり、小さな陶器の釜に入っていました。家に持ち帰ると、母が梅干しの入れ物などに再利用した覚えがあります。タッパーの無い時代です。古代の人たちも交易品を運んだ後「あら、これ使えるわ」とか言って、何らかの再利用をしていたりするのかな?と思いました。ハルキーさんが土器のことを熱く語られる度に、美味しかった釜飯を思い出しています。
土器には確かに用途があります。祭祀用、煮炊き用、貯蔵用、運搬用。特殊器台などは祭祀用。庄内式土器、布留式土器などは煮炊き用だと思います。壺とかは液体を運んでいるように思います。また、広範囲に広がる場合でも、運搬されてきたものと、流行からか真似て作ったものとがあります。ちなみに壱岐の外来土器はまねて作ったものではなく、ほんとうに通過地点として外から土器そのものがもたらされたもののようです。その中には運搬用と、生活用具があると思われます。いろいろな用途や可能性を考えると、想像が膨らみます。容器の再利用、分かる気がします。実際、運搬用に使われたものを、貯蔵用に利用することはあったと思います。話は変わりますが、製塩土器などは塩を作る土器ですが、それはそのまま塩が詰まったまま運搬されたようです。
貴重な情報、ありがとうございます。○ 他の地方の土器を真似して作っているうちに、ご本家を超えるほどのクオリティを身につける○ もったいない精神なんだか私たちに似ていて、やっぱり、ご先祖さまなんだなぁ、と心温まる思いがします。塩の甕をそのまま運搬に使うのはグッドアイデアですね、合理的です。また、いろいろ教えてください😊
@@TheKzit1969物が大切に使われていたのですね。東南アジアの甕は、便利で魅力的だったと思います。そんなエピソードを知ると、嬉しくなります。
@@あまべまろ土器を博物館で見るたびに何を入れてたんだろうとかよく妄想します。是非いろんな博物館なりへいらして形やらをその時代に当てはめてみるのも楽しいです。当チャンネル主さんは布留式土器の布留0を境目とされていらっしゃいます。本編の表はとてもわかりやすい指標でその境目が弥生時代と古墳時代をもっとも的確に捉えていると思います。土器に製塩土器があります。塩を作るのに欠かせない器です。塩もまた生きるのに欠かせません。土器について当チャンネルでアレコレ教えて頂き特に須恵器などに興味を持ちました。出土品で全国的津々浦々どこからでも出て膨大な数の土器です。謎を解くカギが必ずやあると思っています。土器…少し覚えると楽しいですよ!
韓半島との貿易について倭国が一番欲しかったのは鉄だろうと思いますが、北九州の国で交易をする物品が何があったかちょっと思いつかないですが、そうしますと九州の王族が韓半島の王族と血のつながりがあり、そのため鉄鉱石の産地に何か利権を持っておりただで鉄を取得したのではないかと思いますし、もかしたら北部九州の国から兵を出して収奪したのかもしれません。いずれにしても今の交易の考え方とはだいぶんと異なる方法で鉄を入手したように思いますがいかがでしょうか。
戦争で手に入れるものもあると思いますが、戦時中でもモノは行き交うので、倭からは真珠、翡翠、黒曜石なんかが渡ったかも知れません。鉄については鉄製品を買うより、鉱山の採掘権を取得していて、倭人が現地でほぼほぼ鉱山ごと管理していたというのもあるかも知れませんね。
コメントをいただきましてありがとうございます。纏向政権成立には鉄と韓半島からの技術者が関わっていると思います。たぶん纏向以前は鉄は北九州が独占していたわけでなぜその独占が崩れたのでしょうか。このあたりが纏向の成立にかかわっていると思いますがどうでしょうか。
@@滝川弘 邪馬台国東遷説なんかも浮かびますが、どんな説をとっても、倭の中枢が変わったのは事実。半島との交易、瀬戸内での交易、東方との交易、こういった交易のバランスによって、中枢が変わったのかも。
もう武田さんの動画アップスピードについていけません。3周ぐらい周回遅れのコメントで失礼します。比恵(那珂)遺跡というのはどういう位置づけになるのでしょうね。地域的には博多湾貿易の範疇に入るのでしょうが、西新町遺跡などより前に栄えているような気がします。私の勝手なイメージでは三雲→比恵→西新町という感じです。たしか久住先生は奴国の中心が須玖岡本遺跡から比恵・那珂遺跡群に移動したようなことを書かれていたような記憶があります。
西新式という土器があるくらいだから、西新も繁栄していたとは思いますが、やはり、比恵(那珂)遺跡の方が圧倒的な気がします。なので、須玖岡本遺跡→比恵(那珂)遺跡の流れが正しいように思えまが、もしかしたら、西新が貿易を担い、比恵(那珂)が政治中枢だったのかも。
@@takedaharuki おお、いまクリックしたらちょうど3000回視聴目でした!
@@J-history おぉ、意外と好評です。マニアックな内容だけど、視聴者に恵まれています。
この交差編年表を見ながら解説が聞けるなんて有料級の贅沢さだと思います相対年代については僕も近いイメージで捉えています。個人的には原の辻 三雲貿易はガラス玉の価値の変遷が大きく動いた時代であったのでは無いかと思っています。
ありがとうございます。ガラス玉という視点は持っていませんでした。興味深いです。いろいろな色がついたものとかありますね。
アップ有難う御座います!毎度勉強させて頂いています。これみると、庄内式というのは卑弥呼の統治期間、フル式で完全に新体制へ!ってことになりますね。岡上流東遷説の場合ですけど、笑
貿易論と合わせるとそういう見解になるかも。こんな感じで条件と照らし合わせて考えるのが大好きです。
自分は博多湾貿易論については良く知らないのですが。交易はあくまで交易であって、その拠点であることと政治的な力関係は別ではないかと感じます。豊かであったことは間違いないのでしょうが。また、交易ルートが壱岐経由になっていたのは航海技術が未熟だったためで、それが古墳時代に入るあたりまでには航海技術が進歩し、対馬から博多へ直行出来るようになり、それに伴い交易ルートが変わったというのが基本ではないかと推察しています。また、この辺りについての皆さまの議論を楽しみにしております。
もちろん、壱岐が邪馬台国以上とか大和王権以上というわけではないです。しかし、貿易と政治とは密接と私は考えています。海外交易をする勢力、つまり、壱岐に土器を残すような勢力はやはりそれなりに力があったと思いますし、当時、流通の拠点を回避して無謀な交易をしたり、港以外に税関を置くようなことはなかったと思えるので。また、伊都ー壱岐間と博多ー壱岐間に極端な違いがないようにも思え、300年続いた交易拠点の終わりと1000年続いた弥生時代の終わりが軌を一にすることは、何かしらの因果関係を感じます。
魏志倭人伝の記述が正しいという前提ですが、卑弥呼の時代、伊都国には一大卒が置かれ、一支国はそれを畏れ憚った国の一つだったろうと思われます。とするとこの交易ルートを政治的に支配していたのは邪馬台国・女王国であり、伊都国ですら、どの程度物申せたのか疑問に思います。なぜ伊都国を窓口にしたのかという点については、中国人をそれ以上先に入れたくなかったのかもしれないのかなと考えています。自分、奴国の王族と伊都国の王族は太古以来姻戚関係を結んできた同族のようなものであり、伊都国は常に奴国王家に忠実であったのではないかと思います。無事、倭国統一が成って伊都国の役割も終わり、伊都国の支配層も東に移っていったのではないかと妄想しています。
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。古代日本をアカデミックに探究してるチャンネルは少ないので、楽しく見させてもらってます。
ありがとうございます。私の興味のままに動画を作っているため、結構、マニアックなテーマになってますが、意外と見てくれる方も多く、作った甲斐があります。たぶん、アマチュアの自由な発想と、専門家の根拠に基づいた理解がうまくミックスされれば、古代史はより深く楽しめる気がします。
北九州北岸の貿易は華々しく感じますね。有明海ルートでそれ程繁栄してないのは交易品が来ても牛耳られて安く買い叩かれていたんでしょうか?うちの品物も昭和59年から500円くらいしか上がってないんです。儲からない訳です。半ばボランティアです。
貿易は凄く興味深いです。広い交易網が見えつつ、一部の商品は北部九州ががめていたかも知れませんね。楽浪土器とかはあまり拡散してなかったりします。
@ この前の吉野ヶ里の話と合わせると牛耳っていたのは周辺の外来勢力かもしれません。楽浪土器が行き渡らない事を見ても対等な交易ではなく一方通行なんじゃないかと。
@@潤也藤原 筑紫で流行していた甕棺墓は弥生後期になると衰退し、箱式石棺や石蓋土壙墓に変わっていくから、弥生後期になると、周辺の影響は強く受け始めたいたと私も思います。
おはようございます。配達の順番待ちでみてしまいました。なるほど!原の辻・三雲貿易がその狭間なんですね!おーっと動き出したので失礼します。
原の辻・三雲貿易から博多湾貿易へ。そして、微妙な位置にある庄内期はぎりぎり原の辻・三雲貿易の時代。いろいろと興味深いです。
@@takedaharuki帰宅してからまた拝見しました。九州の旅動画今回はずいぶんハードでしたね!行ってみたくなりました。大陸との玄関口はかつて山陰と思っています。舟の推進力の発達によって九州北部がとって変わった。出雲の衰退とそれにとって変わった勢力が大陸側の目線では邪馬台国。島国の目線では大和王権。なーんてね!三連休は兵庫県ウロチョロです。滝野社辺りと三木辺りを…昔よく食べたラーメン食べたくなりました。播州ラーメン。
@@きゅーぴーたろう ありがとうございます。いえいえ、今回は気候が穏やかだったこともあり、おとなしい旅だったかも。いつもがハードだけに。
@@takedaharukiごめんね!鳥山明に反応してしまいました。大学生の頃に…んちゃ! にえらく楽しみました。うんちを ツンツンとかスッパマンとか.…既成に対してに一石!なーんてたいそうなものではなかたったかも知れませんが…悟空が大活躍するドラゴンボールもハチャメチャで…かの手塚治先生の悟空の大冒険とは違った展開と設定には驚きと期待がありました。ジャンプの黄金期でしたね
@@きゅーぴーたろう 当時、あられちゃんもドラゴンボール好きでした。当初、西遊記もどきかと思いきや、あぁいう展開になるとは驚きでした。
宇美町回楽しく観返させていただきました😚時間の関係上、博物館めぐりされたんですね〜w土器も色々揃ってて見比べれて楽しいですね。原の辻・三雲貿易は度々話題出てますね〜。伊都国エリアにある今宿五郎江遺跡からも貨泉や楽浪系土器が出土していますので、壱岐との貿易で仕入れていたのかな?とふと思いました😚
ありがとうございます。次の日から仕事ということもあり、のんびり博物館めぐりにしてました。今宿五郎江遺跡。実は今回行こうかなとも過りましたが、去年、伊都国に行っているから、断念しました。行きたいところをいっぱい残しています。(^^)
@@takedaharukiそうだったんですね〜😚お休みの時間が限られてますんで、なかなか回りきれないですよね(泣)北九州、大分、熊本など九州各地、気になる遺跡の宝庫なので、私もゆっくり巡りたいです(¯―¯٥)
とてもいい話題を有難うございます。これらの地域間での土器の流通の変遷を調べるのが古代史解明のひとつのカギですね。ご存じと思いますが、弥生後期から古墳前期初頭の北部九州から東北・北海道までの土器編年と並行関係が調べられています(西相模考古研・兵庫考古懇談会編「弥生時代の東西交流」一六書房2020年)。ただし、半島と岡山については記載されていませんので、ご紹介いただいた編年並行関係図はとても有用です。弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて各地にどのような政治勢力が存在したか、相互の関係はどうだったのかを知るために、時代の大きな変化をもたらしたと考えられるターニングポイントとなる史実群を抽出し、ヤマト王権成立過程の仮説を構築しました。他の事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証してもっともらしい仮説が得られています(詳細は「刮目天の古代史 なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」「【刮目天の古代史】仮説を検証する!」参照)。お邪魔しました(;^ω^)
情報ありがとうございます。まさかそんな交差編年があったとは! こういったのをいろいろ見て、いろいろ比較したいです。さすがお詳しいです。
一大国、宇美国探訪の旅おつかれさまでした。そして大変参考になる土器編年表ありがとうございます。交易ルートにはとても興味があるのですが、土器の区別がつかなくて難儀しておりましたので大変助かります。個人的には交易ルートの変更は政変の現れと見ています。奴王国滅亡→伊都国興隆(原の辻・三雲貿易開始)崇神武(伊都国傍流王族)権力喪失→垂仁~仲哀(物部系)興隆(博多湾貿易開始)ついでにいうと神功皇后クーデターで蘇我=紀・伊都国(筑紫)系に権力が移り、継体天皇クーデターでまたまた物部系に権力が移る(筑紫の君滅亡)最終的には丁未の乱で蘇我によって物部が滅ぼされ、蘇我も藤原に潰されて終わりますが古代は筑紫系と豊(物部)系の権力闘争だったという視点でみると面白いです。
交易ルートの変更は政変。興味深いです。そのあたり、機会を見つけると、いろいろ想像しています。原の辻・三雲貿易が終わった時、伊都国王家はどうなったんだとか、私のようなアマチュアとしてはそういうところが凄く気になります。崇神武=伊都国傍流王族。結構、そんな気がします。
昼休みに見ました これこそぼくの一番好きな個所のひとつです。この交易体制が高天原に時々見えるのでした
地理的に必ず壱岐を通るからまるでゲート。魏志倭人伝では伊都国が荷物のチェック場所。考古学的には原の辻・三雲貿易という時代。なんか全てが繋がる気がします。山陰も豊前もみんな壱岐を経由、半島からの人もみんな壱岐を経由。面白いです。
こんばんはいつも楽しみにしています宇美町辺りが不弥国とすれば、近畿説に辿り着くのは…物証もあるのに…出土品がないのは土壌のせいでとは……が頭の中を駆け巡る…を空想するのも好きですが時々なぜか、歪みを感じブラックホールへ旅シリーズ、その解説とイメージ湧いて妄想楽しんでます
ありがとうございます。旅しながら、考古学者気取りで土器を眺め、当時の人やモノの流れを想像したりしています。実際の土器や旅の雰囲気の中での妄想は最高です。確かに見ているものは現実なんだと実感を感じます。
宇美町に行ったのはそういった話じゃったか。納得です。普通に考えて、末羅国を経由する意味がなくなれば、糸島に直接行けば良いし、糸島に用が無くなれば博多に直接行けば良い。卑弥呼の時代に何かあったんだろうなぁ。。 案外と、手狭になったから次回からは博多に直接来てね、みたいなことかもしれないですね。
旅行中に行先を変更しました。(^^) 博多湾の方が広い。確かにそれはあるかも知れません。一方で、奴国王の時代を経ても、伊都国に貿易拠点を置き続けた理由が謎です。奴国王という一時期が玄界灘ブロック勢力の気まぐれなのかな。
YOさんこんばんは!楽浪郡などの華僑との対外交易は伊都国どまりだったのですね。たぶん伊都国は防疫国家?。当時の大都会は奴国の比恵・那珂遺跡群でした。列島の倭人(縄文系も含めて)が奴国のこの交易センターに集まってました。でも、倭人とシナ人の混血も進んできたので、ある時代から外国人様歓迎で博多に直接入れたのかな?倭国の主体が纏向遺跡に遷ったから、伊都国よりも玄関口としてより近い(大して違いはないけど)博多湾西新町遺跡にしたのではないかと考えています。あと、ヤマト王権は伊都国で女王台与を殺してしまったから祟りが怖ろしいので伊都国は避けられるようになったとも考えています(#^.^#)
行った事のない展示館情報は助かります。意外と充実しているのですね。最近、伊都国の役割ではなく実力(軍事力)はどのくらいだったのかを妄想しています。クニである以上は独立を保ちつつも邪馬台国よりもはるかに軍事力が大きかったのは間違いないと思っています。(代々王が居たと言う記述からも)
ありがとうございます。旅行中の気付きで寄った新宮の博物館でしたが、私としては大満足でした。また、ユース式土器の展示も充実しており、朝鮮通信使の船だけでなく食事の復元もありました。
糟屋郡…伊賀駅が在るとこですね!為吾國が伊賀ならココかな?って思っちゃう伊賀駅が在る糟屋郡!おっと書くのに夢中になって動画の内容が耳に入ってないから戻って視聴し直します!カレーといえば昨日スリランカ料理店でパスマティライスにカレー味の鯖やら何やらも含めて色んな副菜を合わせて食べて来ました!
そう言えば、確かに伊賀という地名ありました。旅行していると、駅名もまた楽しいです。動画の中では語っていないのですが、香椎、箱崎、宇美、酒殿など、私にとっては気になる地名でした。カレー味の鯖。それもいいですね。連休中にちゃんとしたカレー店に行こうかな。
個人的には元々福岡の須玖岡本が中心でそこから三雲平原に移って、また博多に戻っている気がしています。この時代何があったんでしょうね。それと磐井の乱の時には、筑紫が肥と豊も勢力下においていますので、3~6世紀にどういった移り変わりがあったのか気になります。新といえば東夷王が国珍を献上した話があったような。もしも倭のことだったら王朝交代のタイミングを見て結構やり手な外交をしていたのではと感じてます
なるほどです。確かにその理解が正解の気がします。伊都国と奴国は戦った形跡がないので、どういう状況だったのか、いろいろ気になります。楽浪土器が多く出ること自体が、外交のやり手の証。当時の倭の政治的手腕を想像してしまいます。
@@takedaharuki 個人的には伊都国、奴国、早良国辺りはほぼ同族だったのではと思っています。糸島時代の後、王墓がない状態で比恵那珂が発展していって貿易の窓口になる点が面白いですよね。隋書倭国伝の壱岐からそのまま筑紫に来ている点や「自竹斯國以東皆附庸於俀」といった記述とも整合性が取れている気がしています。
@@hirouchida3068 結構、文献と考古学は整合性がとれていると私も思います。伊都国、奴国、早良王国。こんなに近接していて争っているようにも見えないから、私も同族かなと予想します。
貴重な情報ありがとうございます。伊都国が役目を終えるのは政治の主体が九州から遷都したから、あるいは遷都の先発隊が遷都先で権力を掌握し、主体が遷都先に移動したからとも妄想出来ます。第一次先発隊がニギハヤヒで第二次隊が神武だったのかも。じゃあ第三次の政治主体部の移動って、、、、。その時代に西殿塚や箸墓古墳が造られた のかな。
私もこのあたり妄想しまくっています。いつも、その妄想のための材料集めのような旅です。(^^) 「政治中枢が九州から大和に遷ったから伊都国がその役目を終えた」というのは私も同じ考えです。大和王権にとってはもはや伊都国よりも博多湾の方がおそらく交通的にも便利だったのだと思います。また、ニギハヤヒの一次、神武の二次といったあたりも、そうだった気がします。私自身も何回かの流れがあったと見ています。
伊都/イト 貿易衰えたら、終わり。来訪者が減る国に、"それ"は訪れる。(三角帆掛け船が漂着する)現地人:ハーイ、ハルキ― いい船だね 修理してほしい?まで、妄想しました
世の移ろい。そう言えば、今回、冒頭でギリシア悲劇のような仰々しい会話を楽しんでしまいました。(^^)
参考になりました。なるほど・ザ・ハルキー。
ありがとうございます。私の相対的な年代観の元ネタになっているような論文を紹介してみました。
個人的には、楽浪土器の終焉と原の辻・三雲から博多湾への主役交代の時期がほぼかぶっているところに注目したいです。伊都国と楽浪郡の衰退は2つセットだったのかも。
伊都国が楽浪郡と強く結びついていたのなら、その衰退と連動することは確かにありそうです。
こんにちは。ちょうど白井氏・久住氏の資料を集めていたのでグッドタイミングでした。私は邪馬台国久留米八女説ですが、自称「ゴリゴリの畿内説」の久住氏の論文…楽しみです!
まさか、同じあたりを調べられているとは。嬉しいです。ちなみに私も九州説なのですが、久住氏の論文を重宝しています。私の予想では、絶対年代の理解によって畿内説向けに見える論文になっているだけで、楽浪土器の終焉が楽浪郡の滅亡と結びつくという理解をするだけで、九州説向けの論文になると考えています。(^^)
糸島が衰退したのは磐井や水沼の君と言った大宰府から八女辺りが隆盛になり博多からの街道が整備され糸島の勢力が衰退したのかも 後に有明海経由も確立されてきてます志賀島に土器が大量に埋まっている海岸線があり この島が門のような役目かもと妄想しますが(笑)
筑後平野方面も考慮すれば、確かに古墳時代は、交通の要衝として博多の方が望ましかったのかも知れませんね。
西新式の時代に庄内式土器が福岡平野・三雲遺跡に密集する理由を知っていたら教えてください。
あくまでも私自身の理解の範囲で説明します。弥生後期以降、倭の政治の中枢だったかは別問題として、三雲あたりは少なくとも交易の中枢でした。それは庄内期まで続きます。原の辻・三雲貿易の時代です。ちなみに原の辻・三雲貿易というのは、原の辻と三雲間の貿易という意味ではなく、原の辻・三雲を中継地とする倭と半島との交易という意味です。実際、山陰など各国も原の辻・三雲を経由して半島と交易しています。庄内期になるとここに大和が加わります。おそらく瀬戸内経由です。庄内期と言うと大和王権が始まったとも言える時代であり、庄内式土器などは弥生時代の土器とは違って全国展開する土器です。だから、福岡平野・三雲遺跡に限らず、関東でさえ出土します。これが福岡平野・三雲遺跡で特に多く見られるのは、福岡平野・三雲遺跡が『交易の中枢』だったからだと私は予想します。一方で、三雲だけでなく福岡平野でも見られるのは、原の辻・三雲貿易から博多湾貿易への過渡期だからとも説明できますが、大和王権が三雲遺跡よりも福岡平野を重宝したため、原の辻・三雲貿易から博多湾貿易への過渡期となってしまったというのも面白い解釈かと考えています。
@@takedaharuki 勉強になります、有り難うございます。邪馬台国のことを考える参考になるかと思い、質問しました。
@@kzn3720 いろいろ興味深い論考だと考えています。まだまだ解釈についてはそれぞれの研究者に寄るところもあるとは思いますが、私自身も重宝しています。
そうか、原の辻(壱岐)は貿易の要だったんですね。魏略には一支国とあるのに魏志倭人伝には一大国とあります。私は「壱岐には一大卒を置いていたから陳寿は一大国と記したのでは」という考えを捨てられずにいます。貿易の要だったらそこそこ人もいたし一大卒もいたかも、と、考えてしまいました。
当時、半島と倭の間を行き交う際には、必ず、壱岐は通る場所でした。なので、そこで出土する土器から読み取れる倭の状況は興味深いです。
いつも楽しませていただいてます。新しい視点で興味深いですね。ど素人の疑問ですが、魏の使者はどうして松浦で降りて陸路をとったのでしょうか、荷物もあるはずなのに、、伊都国まで船で行くのが自然なのに。すでに結論が出ているのかもしれませんが、ずっと疑問に思っています
私自身は魏志倭人伝は複数の報告書から成り立っていると考えています。そして、通常、壱岐ー糸島ルートだったのに、何かしらの事情で松浦に寄ることがあり、その報告書が残っていて、それが歴史書にマージされたと予想しています。「官の記述がない」「前の人が見えないくらいの場所を中国人に歩かせる」「伊都国への方位がおかしい」など、いろいろ気になる点が多いので。
@@takedaharuki 早速の回答ありがとうございました。私は、伊都国を松浦から見て内陸部と考えるべきかとも思いました。糸島への県境は当時なら断崖です。山道を行く描写もありますが、あえてこのコースを選ぶ必要がない。南東方向なら筑紫・佐賀平野あたりになりますが、奴國、不弥国との位置関係がおかしくなる。ただ、伊都国がそのあたりなら、交通の要衝だった大分県日田を通って陸路で先生のお説の豊前に至ります。正史にあるからには、何らかの意味や重みがあると思うのですが。その点が不明なためか、「まつら」を西の伊万里や、逆に東の宗像に比定する人もいるようです。まあ、九州説にこだわった小さな話です。
@@87652168 海岸線は基本がっけぽっくなっていて歩けない場所ではあります。豊前への道とかはいろいろ考えることが多いです。
収録前の様子も乗せてしまうなんてハルキーさんはうっかりですね
今回は珍しいく、開演前からの開始でした。(^^;
絶対経由する場所の一支のまたの名が天比登都柱なのがどういう役割なのかを示してるようですね
なるほと。天地を繋ぐ一本道。興味深いです。
日本の側から出発するのは伊都国、壱岐・対馬というのは疑いようはないのですが、半島からの出発点は時代とともに変化というのはなかったのでしょか❓半島の歴史にはとんとうといので、単なる妄想の域ですが半島内でも出発する港はその時々の勢力と力関係で変わることもあったのでは❓と思うのです。半島の東側であれば海流にそって出雲や越へたどり着く方がらくだったろうし、半島の西側であれば直接九州へ来やすかっただろうし、伊都国のような存在も時代とともに出雲にあったり、九州にあったりと変化することもあったのかな❓と。倭国大乱もそういう権益の簒奪が理由の一つだったりするのかな❓とか妄想はとまりませんね 笑。それでも任那は日本にこつこつと鉄を送っていたんですよね❓あーわからん。
半島の出発点は時代と共に変わっています。古い時代は勒島だったり、楽浪郡との交易もあったり、古墳時代になって金海付近との交易もあるけれど、そこだけじゃなかったり、隆盛したり、衰退したり。なお、壱岐や伊都国は中継地で、必ずしも政治的中枢という意味ではないです。また、玄界灘だけで半島と交易したいたという意味でもないです。出雲などが壱岐を中継地として使っているという意味です。出雲の先から見れば、出雲もまた中継地です。
鳥山明にとよたろう、ときましたか。最近は憑依系の描き出が目立つようになってきましたね。
ドラゴンボール。絵は凄くそっくりです。超(スーパー)は少しだけ読んだことがあります。
え~と?弥生時代に政治的に重要だった伊都国が古墳時代には次第に衰えてゆき、政治中心はヤマトに貿易の中心は奴国などに移っていった、という認識で良いでしょうか?あと、光正寺古墳の出土品展示がある「宇美町郷土資料館(ちっちゃいんだこれが)」の紹介があっても、その横にある、神功皇后が応神天皇を出産したという「宇美八幡宮」に一言も言及されてないあたり、「神功皇后伝説」を見限ったと感じた次第です。
政治の中枢が大和、貿易の中枢が伊都国から奴国という理解で合っています。私はそう考えています。宇美八幡の言及がないのはあまり詰め込むとごった煮になってしまうからです。たぶん、私が神社について語り出すと、とんでもないことになるかも。30年くらい前、九州にある神功皇后関係の神社を結構まわりました。今後、それらの動画を作ることもあると思います。昔、個人的に安曇磯良の研究をしていたこともあるので、そのあたりの動画からになりそうです。
阿波型小型丸底の土器が壱岐対馬から出土してれば、阿波説の可能性も有るかも知れません!
弥生時代の阿波なら、大和よりも半島と交易していた可能性が高そうな気もします。出土の多い少ないは距離や半島への興味など諸条件によりますが、豊前の土器や西部瀬戸内の土器が普通に壱岐から出ているので、阿波の土器が出ても全然不思議ではないと思います。阿波説については可能性の一つではありますが。
お願いです、ハルキーさんの声が小さいのかよく聞き取れません。字幕で理解しているのですよ!中身が濃いから聞き逃したくない。
ちょっと調整してみます。このあたり、よく分からず、デフォルトを使うようにしているのですが、なかなか難しいところです。
@kk2488ii様、私には小さい声には聞こえません。言われてみると、還元炎焼成土器の声がやや、くぐもってるような気はしますが、、、。
横からですがよく聞こえています。設定の問題の可能性はどうでしょうか?
スマホの機種の問題かも・・・。
大変です。
NHKで古墳をかなり深掘りしてオンエアしてました。
継体天皇のお話はふむふむの納得の内容でした。
これでこのチャンネルに行き着く一般大衆がワンサカきますよ!
NHKに感謝!
ギャフン。普段、テレビを見てないから見逃してしまいました。(TT)
邪馬台国マニアってわけではないですがとても興味深い内容でいつもありがとうございます。
ハルキーさんも場所は大した問題ではないと言っているのに共感はしているものの最近愛媛松山や讃岐に
天皇が在任していた痕跡(特に斉明天皇や仁徳天皇)がいくつか紹介されている動画をみてぐらっと来ています。
大きな謎の役所跡もあり、どう考えてもここは都の後じゃないのかなと思いました。越智先生の話。。。
誘導されたかもしれないですが。。。
また同時に魏志倭人伝記載の7万戸という人口は何を生業にしていたのかという視点がグラッとポイントです。
論争=ハルキーさんは対岸なわけですがここでも同じことを言っている範囲かもしれないと思い始めています。
金印が出たら、出たそこら辺でしょうけど出るまでは論争でいいですよね。。。
ありがとうございます。私も、結論に至るまでにいろいろ考えることが大事で、結論はあとからついてくるくらいに考えています。痕跡などがあれば、それを考察し、何かしら見解を出すことになると思いますが、その見解が当初一致しないことは小さな問題なのかも知れません。
ハルキーさん、今回もありがとうございます。
基本的なことをお聞きします。土器が広範囲に移動していますが、それは土器そのものが交易の対象であったのか、それとも容器として利用されていたのか、という点です。
子供の頃、釜飯の駅弁があり、小さな陶器の釜に入っていました。家に持ち帰ると、母が梅干しの入れ物などに再利用した覚えがあります。タッパーの無い時代です。
古代の人たちも交易品を運んだ後
「あら、これ使えるわ」とか言って、何らかの再利用をしていたりするのかな?と思いました。
ハルキーさんが土器のことを熱く語られる度に、美味しかった釜飯を思い出しています。
土器には確かに用途があります。祭祀用、煮炊き用、貯蔵用、運搬用。特殊器台などは祭祀用。庄内式土器、布留式土器などは煮炊き用だと思います。壺とかは液体を運んでいるように思います。また、広範囲に広がる場合でも、運搬されてきたものと、流行からか真似て作ったものとがあります。ちなみに壱岐の外来土器はまねて作ったものではなく、ほんとうに通過地点として外から土器そのものがもたらされたもののようです。その中には運搬用と、生活用具があると思われます。いろいろな用途や可能性を考えると、想像が膨らみます。容器の再利用、分かる気がします。実際、運搬用に使われたものを、貯蔵用に利用することはあったと思います。話は変わりますが、製塩土器などは塩を作る土器ですが、それはそのまま塩が詰まったまま運搬されたようです。
貴重な情報、ありがとうございます。
○ 他の地方の土器を真似して作っているうちに、ご本家を超えるほどのクオリティを身につける
○ もったいない精神
なんだか私たちに似ていて、やっぱり、ご先祖さまなんだなぁ、と心温まる思いがします。
塩の甕をそのまま運搬に使うのはグッドアイデアですね、合理的です。
また、いろいろ教えてください😊
@@TheKzit1969
物が大切に使われていたのですね。東南アジアの甕は、便利で魅力的だったと思います。そんなエピソードを知ると、嬉しくなります。
@@あまべまろ
土器を博物館で見るたびに何を入れてたんだろうとかよく妄想します。
是非いろんな博物館なりへいらして形やらをその時代に当てはめてみるのも楽しいです。
当チャンネル主さんは布留式土器の布留0を境目とされていらっしゃいます。本編の表はとてもわかりやすい指標でその境目が弥生時代と古墳時代をもっとも的確に捉えていると思います。
土器に製塩土器があります。塩を作るのに欠かせない器です。塩もまた生きるのに欠かせません。
土器について当チャンネルでアレコレ教えて頂き特に須恵器などに興味を持ちました。
出土品で全国的津々浦々どこからでも出て膨大な数の土器です。謎を解くカギが必ずやあると思っています。
土器…少し覚えると楽しいですよ!
韓半島との貿易について倭国が一番欲しかったのは鉄だろうと思いますが、北九州の国で交易をする物品が何があったかちょっと思いつかないですが、そうしますと九州の王族が韓半島の王族と血のつながりがあり、そのため鉄鉱石の産地に何か利権を持っておりただで鉄を取得したのではないかと思いますし、もかしたら北部九州の国から兵を出して収奪したのかもしれません。いずれにしても今の交易の考え方とはだいぶんと異なる方法で鉄を入手したように思いますがいかがでしょうか。
戦争で手に入れるものもあると思いますが、戦時中でもモノは行き交うので、倭からは真珠、翡翠、黒曜石なんかが渡ったかも知れません。鉄については鉄製品を買うより、鉱山の採掘権を取得していて、倭人が現地でほぼほぼ鉱山ごと管理していたというのもあるかも知れませんね。
コメントをいただきましてありがとうございます。纏向政権成立には鉄と韓半島からの技術者が関わっていると思います。たぶん纏向以前は鉄は北九州が独占していたわけでなぜその独占が崩れたのでしょうか。このあたりが纏向の成立にかかわっていると思いますがどうでしょうか。
@@滝川弘 邪馬台国東遷説なんかも浮かびますが、どんな説をとっても、倭の中枢が変わったのは事実。半島との交易、瀬戸内での交易、東方との交易、こういった交易のバランスによって、中枢が変わったのかも。
もう武田さんの動画アップスピードについていけません。
3周ぐらい周回遅れのコメントで失礼します。
比恵(那珂)遺跡というのはどういう位置づけになるのでしょうね。
地域的には博多湾貿易の範疇に入るのでしょうが、
西新町遺跡などより前に栄えているような気がします。
私の勝手なイメージでは三雲→比恵→西新町という感じです。
たしか久住先生は奴国の中心が須玖岡本遺跡から比恵・那珂遺跡群に移動したようなことを書かれていたような記憶があります。
西新式という土器があるくらいだから、西新も繁栄していたとは思いますが、やはり、比恵(那珂)遺跡の方が圧倒的な気がします。なので、須玖岡本遺跡→比恵(那珂)遺跡の流れが正しいように思えまが、もしかしたら、西新が貿易を担い、比恵(那珂)が政治中枢だったのかも。
@@takedaharuki
おお、いまクリックしたらちょうど3000回視聴目でした!
@@J-history おぉ、意外と好評です。マニアックな内容だけど、視聴者に恵まれています。
この交差編年表を見ながら解説が聞けるなんて有料級の贅沢さだと思います
相対年代については僕も近いイメージで捉えています。
個人的には原の辻 三雲貿易はガラス玉の価値の変遷が大きく動いた時代であったのでは無いかと思っています。
ありがとうございます。ガラス玉という視点は持っていませんでした。興味深いです。いろいろな色がついたものとかありますね。
アップ有難う御座います!毎度勉強させて頂いています。これみると、庄内式というのは卑弥呼の統治期間、フル式で完全に新体制へ!ってことになりますね。岡上流東遷説の場合ですけど、笑
貿易論と合わせるとそういう見解になるかも。こんな感じで条件と照らし合わせて考えるのが大好きです。
自分は博多湾貿易論については良く知らないのですが。交易はあくまで交易であって、その拠点であることと政治的な力関係は別ではないかと感じます。豊かであったことは間違いないのでしょうが。
また、交易ルートが壱岐経由になっていたのは航海技術が未熟だったためで、それが古墳時代に入るあたりまでには航海技術が進歩し、対馬から博多へ直行出来るようになり、それに伴い交易ルートが変わったというのが基本ではないかと推察しています。
また、この辺りについての皆さまの議論を楽しみにしております。
もちろん、壱岐が邪馬台国以上とか大和王権以上というわけではないです。しかし、貿易と政治とは密接と私は考えています。海外交易をする勢力、つまり、壱岐に土器を残すような勢力はやはりそれなりに力があったと思いますし、当時、流通の拠点を回避して無謀な交易をしたり、港以外に税関を置くようなことはなかったと思えるので。また、伊都ー壱岐間と博多ー壱岐間に極端な違いがないようにも思え、300年続いた交易拠点の終わりと1000年続いた弥生時代の終わりが軌を一にすることは、何かしらの因果関係を感じます。
魏志倭人伝の記述が正しいという前提ですが、卑弥呼の時代、伊都国には一大卒が置かれ、一支国はそれを畏れ憚った国の一つだったろうと思われます。とするとこの交易ルートを政治的に支配していたのは邪馬台国・女王国であり、伊都国ですら、どの程度物申せたのか疑問に思います。
なぜ伊都国を窓口にしたのかという点については、中国人をそれ以上先に入れたくなかったのかもしれないのかなと考えています。
自分、奴国の王族と伊都国の王族は太古以来姻戚関係を結んできた同族のようなものであり、伊都国は常に奴国王家に忠実であったのではないかと思います。
無事、倭国統一が成って伊都国の役割も終わり、伊都国の支配層も東に移っていったのではないかと妄想しています。
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。
古代日本をアカデミックに探究してるチャンネルは少ないので、楽しく見させてもらってます。
ありがとうございます。私の興味のままに動画を作っているため、結構、マニアックなテーマになってますが、意外と見てくれる方も多く、作った甲斐があります。たぶん、アマチュアの自由な発想と、専門家の根拠に基づいた理解がうまくミックスされれば、古代史はより深く楽しめる気がします。
北九州北岸の貿易は華々しく感じますね。有明海ルートでそれ程繁栄してないのは交易品が来ても牛耳られて安く買い叩かれていたんでしょうか?うちの品物も昭和59年から500円くらいしか上がってないんです。儲からない訳です。半ばボランティアです。
貿易は凄く興味深いです。広い交易網が見えつつ、一部の商品は北部九州ががめていたかも知れませんね。楽浪土器とかはあまり拡散してなかったりします。
@ この前の吉野ヶ里の話と合わせると牛耳っていたのは周辺の外来勢力かもしれません。楽浪土器が行き渡らない事を見ても対等な交易ではなく一方通行なんじゃないかと。
@@潤也藤原 筑紫で流行していた甕棺墓は弥生後期になると衰退し、箱式石棺や石蓋土壙墓に変わっていくから、弥生後期になると、周辺の影響は強く受け始めたいたと私も思います。
おはようございます。
配達の順番待ちでみてしまいました。
なるほど!原の辻・三雲貿易がその狭間なんですね!
おーっと動き出したので失礼します。
原の辻・三雲貿易から博多湾貿易へ。そして、微妙な位置にある庄内期はぎりぎり原の辻・三雲貿易の時代。いろいろと興味深いです。
@@takedaharuki
帰宅してからまた拝見しました。
九州の旅動画今回はずいぶんハードでしたね!
行ってみたくなりました。
大陸との玄関口はかつて山陰と思っています。舟の推進力の発達によって九州北部がとって変わった。出雲の衰退とそれにとって変わった勢力が大陸側の目線では邪馬台国。島国の目線では大和王権。
なーんてね!
三連休は兵庫県ウロチョロです。
滝野社辺りと三木辺りを…
昔よく食べたラーメン食べたくなりました。播州ラーメン。
@@きゅーぴーたろう ありがとうございます。いえいえ、今回は気候が穏やかだったこともあり、おとなしい旅だったかも。いつもがハードだけに。
@@takedaharuki
ごめんね!
鳥山明に反応してしまいました。
大学生の頃に…
んちゃ! に
えらく楽しみました。
うんちを ツンツンとか
スッパマンとか.…
既成に対してに一石!
なーんてたいそうなものではなかたったかも知れませんが…
悟空が大活躍するドラゴンボールもハチャメチャで…
かの手塚治先生の悟空の大冒険とは違った展開と設定には驚きと期待がありました。ジャンプの黄金期でしたね
@@きゅーぴーたろう 当時、あられちゃんもドラゴンボール好きでした。当初、西遊記もどきかと思いきや、あぁいう展開になるとは驚きでした。
宇美町回楽しく観返させていただきました😚時間の関係上、博物館めぐりされたんですね〜w土器も色々揃ってて見比べれて楽しいですね。原の辻・三雲貿易は度々話題出てますね〜。伊都国エリアにある今宿五郎江遺跡からも貨泉や楽浪系土器が出土していますので、壱岐との貿易で仕入れていたのかな?とふと思いました😚
ありがとうございます。次の日から仕事ということもあり、のんびり博物館めぐりにしてました。今宿五郎江遺跡。実は今回行こうかなとも過りましたが、去年、伊都国に行っているから、断念しました。行きたいところをいっぱい残しています。(^^)
@@takedaharukiそうだったんですね〜😚お休みの時間が限られてますんで、なかなか回りきれないですよね(泣)北九州、大分、熊本など九州各地、気になる遺跡の宝庫なので、私もゆっくり巡りたいです(¯―¯٥)
とてもいい話題を有難うございます。
これらの地域間での土器の流通の変遷を調べるのが古代史解明のひとつのカギですね。ご存じと思いますが、弥生後期から古墳前期初頭の北部九州から東北・北海道までの土器編年と並行関係が調べられています(西相模考古研・兵庫考古懇談会編「弥生時代の東西交流」一六書房2020年)。ただし、半島と岡山については記載されていませんので、ご紹介いただいた編年並行関係図はとても有用です。
弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて各地にどのような政治勢力が存在したか、相互の関係はどうだったのかを知るために、時代の大きな変化をもたらしたと考えられるターニングポイントとなる史実群を抽出し、ヤマト王権成立過程の仮説を構築しました。他の事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証してもっともらしい仮説が得られています(詳細は「刮目天の古代史 なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」「【刮目天の古代史】仮説を検証する!」参照)。お邪魔しました(;^ω^)
情報ありがとうございます。まさかそんな交差編年があったとは! こういったのをいろいろ見て、いろいろ比較したいです。さすがお詳しいです。
一大国、宇美国探訪の旅おつかれさまでした。
そして大変参考になる土器編年表ありがとうございます。
交易ルートにはとても興味があるのですが、土器の区別がつかなくて難儀しておりましたので大変助かります。
個人的には交易ルートの変更は政変の現れと見ています。
奴王国滅亡→伊都国興隆(原の辻・三雲貿易開始)
崇神武(伊都国傍流王族)権力喪失→垂仁~仲哀(物部系)興隆(博多湾貿易開始)
ついでにいうと神功皇后クーデターで蘇我=紀・伊都国(筑紫)系に権力が移り、
継体天皇クーデターでまたまた物部系に権力が移る(筑紫の君滅亡)
最終的には丁未の乱で蘇我によって物部が滅ぼされ、蘇我も藤原に潰されて終わりますが
古代は筑紫系と豊(物部)系の権力闘争だったという視点でみると面白いです。
交易ルートの変更は政変。興味深いです。そのあたり、機会を見つけると、いろいろ想像しています。原の辻・三雲貿易が終わった時、伊都国王家はどうなったんだとか、私のようなアマチュアとしてはそういうところが凄く気になります。崇神武=伊都国傍流王族。結構、そんな気がします。
昼休みに見ました これこそぼくの一番好きな個所のひとつです。
この交易体制が高天原に時々見えるのでした
地理的に必ず壱岐を通るからまるでゲート。魏志倭人伝では伊都国が荷物のチェック場所。考古学的には原の辻・三雲貿易という時代。なんか全てが繋がる気がします。山陰も豊前もみんな壱岐を経由、半島からの人もみんな壱岐を経由。面白いです。
こんばんはいつも楽しみにしています
宇美町辺りが不弥国とすれば、近畿説に辿り着くのは…
物証もあるのに…
出土品がないのは土壌のせいでとは…
…が頭の中を駆け巡る
…を空想するのも好きですが
時々なぜか、歪みを感じブラックホールへ
旅シリーズ、その解説とイメージ湧いて妄想楽しんでます
ありがとうございます。旅しながら、考古学者気取りで土器を眺め、当時の人やモノの流れを想像したりしています。実際の土器や旅の雰囲気の中での妄想は最高です。確かに見ているものは現実なんだと実感を感じます。
宇美町に行ったのはそういった話じゃったか。納得です。
普通に考えて、末羅国を経由する意味がなくなれば、糸島に直接行けば良いし、糸島に用が無くなれば博多に直接行けば良い。
卑弥呼の時代に何かあったんだろうなぁ。。 案外と、手狭になったから次回からは博多に直接来てね、みたいなことかもしれないですね。
旅行中に行先を変更しました。(^^) 博多湾の方が広い。確かにそれはあるかも知れません。一方で、奴国王の時代を経ても、伊都国に貿易拠点を置き続けた理由が謎です。奴国王という一時期が玄界灘ブロック勢力の気まぐれなのかな。
YOさんこんばんは!
楽浪郡などの華僑との対外交易は伊都国どまりだったのですね。たぶん伊都国は防疫国家?。当時の大都会は奴国の比恵・那珂遺跡群でした。列島の倭人(縄文系も含めて)が奴国のこの交易センターに集まってました。
でも、倭人とシナ人の混血も進んできたので、ある時代から外国人様歓迎で博多に直接入れたのかな?倭国の主体が纏向遺跡に遷ったから、伊都国よりも玄関口としてより近い(大して違いはないけど)博多湾西新町遺跡にしたのではないかと考えています。あと、ヤマト王権は伊都国で女王台与を殺してしまったから祟りが怖ろしいので伊都国は避けられるようになったとも考えています(#^.^#)
行った事のない展示館情報は助かります。意外と充実しているのですね。最近、伊都国の役割ではなく実力(軍事力)はどのくらいだったのかを妄想しています。クニである以上は独立を保ちつつも邪馬台国よりもはるかに軍事力が大きかったのは間違いないと思っています。(代々王が居たと言う記述からも)
ありがとうございます。旅行中の気付きで寄った新宮の博物館でしたが、私としては大満足でした。また、ユース式土器の展示も充実しており、朝鮮通信使の船だけでなく食事の復元もありました。
糟屋郡…伊賀駅が在るとこですね!為吾國が伊賀ならココかな?って思っちゃう伊賀駅が在る糟屋郡!
おっと書くのに夢中になって動画の内容が耳に入ってないから戻って視聴し直します!
カレーといえば昨日スリランカ料理店でパスマティライスにカレー味の鯖やら何やらも含めて色んな副菜を合わせて食べて来ました!
そう言えば、確かに伊賀という地名ありました。旅行していると、駅名もまた楽しいです。動画の中では語っていないのですが、香椎、箱崎、宇美、酒殿など、私にとっては気になる地名でした。カレー味の鯖。それもいいですね。連休中にちゃんとしたカレー店に行こうかな。
個人的には元々福岡の須玖岡本が中心でそこから三雲平原に移って、また博多に戻っている気がしています。この時代何があったんでしょうね。それと磐井の乱の時には、筑紫が肥と豊も勢力下においていますので、3~6世紀にどういった移り変わりがあったのか気になります。
新といえば東夷王が国珍を献上した話があったような。もしも倭のことだったら王朝交代のタイミングを見て結構やり手な外交をしていたのではと感じてます
なるほどです。確かにその理解が正解の気がします。伊都国と奴国は戦った形跡がないので、どういう状況だったのか、いろいろ気になります。楽浪土器が多く出ること自体が、外交のやり手の証。当時の倭の政治的手腕を想像してしまいます。
@@takedaharuki 個人的には伊都国、奴国、早良国辺りはほぼ同族だったのではと思っています。
糸島時代の後、王墓がない状態で比恵那珂が発展していって貿易の窓口になる点が面白いですよね。隋書倭国伝の壱岐からそのまま筑紫に来ている点や「自竹斯國以東皆附庸於俀」といった記述とも整合性が取れている気がしています。
@@hirouchida3068 結構、文献と考古学は整合性がとれていると私も思います。伊都国、奴国、早良王国。こんなに近接していて争っているようにも見えないから、私も同族かなと予想します。
貴重な情報ありがとうございます。伊都国が役目を終えるのは政治の主体が九州から遷都したから、あるいは遷都の先発隊が遷都先で権力を掌握し、主体が遷都先に移動したからとも妄想出来ます。第一次先発隊がニギハヤヒで第二次隊が神武だったのかも。じゃあ第三次の政治主体部の移動って、、、、。その時代に西殿塚や箸墓古墳が造られた のかな。
私もこのあたり妄想しまくっています。いつも、その妄想のための材料集めのような旅です。(^^) 「政治中枢が九州から大和に遷ったから伊都国がその役目を終えた」というのは私も同じ考えです。大和王権にとってはもはや伊都国よりも博多湾の方がおそらく交通的にも便利だったのだと思います。また、ニギハヤヒの一次、神武の二次といったあたりも、そうだった気がします。私自身も何回かの流れがあったと見ています。
伊都/イト 貿易衰えたら、終わり。
来訪者が減る国に、"それ"は訪れる。
(三角帆掛け船が漂着する)
現地人:ハーイ、ハルキ―
いい船だね
修理してほしい?
まで、妄想しました
世の移ろい。そう言えば、今回、冒頭でギリシア悲劇のような仰々しい会話を楽しんでしまいました。(^^)
参考になりました。なるほど・ザ・ハルキー。
ありがとうございます。私の相対的な年代観の元ネタになっているような論文を紹介してみました。
個人的には、楽浪土器の終焉と原の辻・三雲から博多湾への主役交代の時期がほぼかぶっているところに注目したいです。伊都国と楽浪郡の衰退は2つセットだったのかも。
伊都国が楽浪郡と強く結びついていたのなら、その衰退と連動することは確かにありそうです。
こんにちは。
ちょうど白井氏・久住氏の資料を集めていたのでグッドタイミングでした。
私は邪馬台国久留米八女説ですが、自称「ゴリゴリの畿内説」の久住氏の論文…楽しみです!
まさか、同じあたりを調べられているとは。嬉しいです。ちなみに私も九州説なのですが、久住氏の論文を重宝しています。私の予想では、絶対年代の理解によって畿内説向けに見える論文になっているだけで、楽浪土器の終焉が楽浪郡の滅亡と結びつくという理解をするだけで、九州説向けの論文になると考えています。(^^)
糸島が衰退したのは
磐井や水沼の君と言った大宰府から八女辺りが隆盛になり博多からの街道が整備され糸島の勢力が衰退したのかも 後に有明海経由も確立されてきてます
志賀島に土器が大量に埋まっている海岸線があり
この島が門のような役目かもと妄想しますが(笑)
筑後平野方面も考慮すれば、確かに古墳時代は、交通の要衝として博多の方が望ましかったのかも知れませんね。
西新式の時代に庄内式土器が福岡平野・三雲遺跡に密集する理由を知っていたら教えてください。
あくまでも私自身の理解の範囲で説明します。弥生後期以降、倭の政治の中枢だったかは別問題として、三雲あたりは少なくとも交易の中枢でした。それは庄内期まで続きます。原の辻・三雲貿易の時代です。ちなみに原の辻・三雲貿易というのは、
原の辻と三雲間の貿易という意味ではなく、原の辻・三雲を中継地とする倭と半島との交易という意味です。実際、山陰など各国も原の辻・三雲を経由して半島と交易しています。庄内期になるとここに大和が加わります。おそらく瀬戸内経由です。庄内期と言うと大和王権が始まったとも言える時代であり、庄内式土器などは弥生時代の土器とは違って全国展開する土器です。だから、福岡平野・三雲遺跡に限らず、関東でさえ出土します。これが福岡平野・三雲遺跡で特に多く見られるのは、福岡平野・三雲遺跡が『交易の中枢』だったからだと私は予想します。一方で、三雲だけでなく福岡平野でも見られるのは、原の辻・三雲貿易から博多湾貿易への過渡期だからとも説明できますが、大和王権が三雲遺跡よりも福岡平野を重宝したため、原の辻・三雲貿易から博多湾貿易への過渡期となってしまったというのも面白い解釈かと考えています。
@@takedaharuki 勉強になります、有り難うございます。
邪馬台国のことを考える参考になるかと思い、質問しました。
@@kzn3720 いろいろ興味深い論考だと考えています。まだまだ解釈についてはそれぞれの研究者に寄るところもあるとは思いますが、私自身も重宝しています。
そうか、原の辻(壱岐)は貿易の要だったんですね。
魏略には一支国とあるのに魏志倭人伝には一大国とあります。私は「壱岐には一大卒を置いていたから陳寿は一大国と記したのでは」
という考えを捨てられずにいます。
貿易の要だったらそこそこ人もいたし一大卒もいたかも、と、考えてしまいました。
当時、半島と倭の間を行き交う際には、必ず、壱岐は通る場所でした。なので、そこで出土する土器から読み取れる倭の状況は興味深いです。
いつも楽しませていただいてます。新しい視点で興味深いですね。ど素人の疑問ですが、魏の使者はどうして松浦で降りて陸路をとったのでしょうか、荷物もあるはずなのに、、伊都国まで船で行くのが自然なのに。すでに結論が出ているのかもしれませんが、ずっと疑問に思っています
私自身は魏志倭人伝は複数の報告書から成り立っていると考えています。そして、通常、壱岐ー糸島ルートだったのに、何かしらの事情で松浦に寄ることがあり、その報告書が残っていて、それが歴史書にマージされたと予想しています。「官の記述がない」「前の人が見えないくらいの場所を中国人に歩かせる」「伊都国への方位がおかしい」など、いろいろ気になる点が多いので。
@@takedaharuki 早速の回答ありがとうございました。私は、伊都国を松浦から見て内陸部と考えるべきかとも思いました。糸島への県境は当時なら断崖です。山道を行く描写もありますが、あえてこのコースを選ぶ必要がない。南東方向なら筑紫・佐賀平野あたりになりますが、奴國、不弥国との位置関係がおかしくなる。ただ、伊都国がそのあたりなら、交通の要衝だった大分県日田を通って陸路で先生のお説の豊前に至ります。
正史にあるからには、何らかの意味や重みがあると思うのですが。その点が不明なためか、「まつら」を西の伊万里や、逆に東の宗像に比定する人もいるようです。まあ、九州説にこだわった小さな話です。
@@87652168 海岸線は基本がっけぽっくなっていて歩けない場所ではあります。豊前への道とかはいろいろ考えることが多いです。
収録前の様子も乗せてしまうなんてハルキーさんはうっかりですね
今回は珍しいく、開演前からの開始でした。(^^;
絶対経由する場所の一支のまたの名が天比登都柱なのがどういう役割なのかを示してるようですね
なるほと。天地を繋ぐ一本道。興味深いです。
日本の側から出発するのは伊都国、壱岐・対馬というのは疑いようはないのですが、半島からの出発点は時代とともに変化というのはなかったのでしょか❓半島の歴史にはとんとうといので、単なる妄想の域ですが半島内でも出発する港はその時々の勢力と力関係で変わることもあったのでは❓と思うのです。半島の東側であれば海流にそって出雲や越へたどり着く方がらくだったろうし、半島の西側であれば直接九州へ来やすかっただろうし、伊都国のような存在も時代とともに出雲にあったり、九州にあったりと変化することもあったのかな❓と。倭国大乱もそういう権益の簒奪が理由の一つだったりするのかな❓とか妄想はとまりませんね 笑。それでも任那は日本にこつこつと鉄を送っていたんですよね❓あーわからん。
半島の出発点は時代と共に変わっています。古い時代は勒島だったり、楽浪郡との交易もあったり、古墳時代になって金海付近との交易もあるけれど、そこだけじゃなかったり、隆盛したり、衰退したり。なお、壱岐や伊都国は中継地で、必ずしも政治的中枢という意味ではないです。また、玄界灘だけで半島と交易したいたという意味でもないです。出雲などが壱岐を中継地として使っているという意味です。出雲の先から見れば、出雲もまた中継地です。
鳥山明にとよたろう、ときましたか。最近は憑依系の描き出が目立つようになってきましたね。
ドラゴンボール。絵は凄くそっくりです。超(スーパー)は少しだけ読んだことがあります。
え~と?弥生時代に政治的に重要だった伊都国が古墳時代には次第に衰えてゆき、政治中心はヤマトに貿易の中心は奴国などに移っていった、という認識で良いでしょうか?
あと、光正寺古墳の出土品展示がある「宇美町郷土資料館(ちっちゃいんだこれが)」の紹介があっても、その横にある、神功皇后が応神天皇を出産したという「宇美八幡宮」に一言も言及されてないあたり、「神功皇后伝説」を見限ったと感じた次第です。
政治の中枢が大和、貿易の中枢が伊都国から奴国という理解で合っています。私はそう考えています。宇美八幡の言及がないのはあまり詰め込むとごった煮になってしまうからです。たぶん、私が神社について語り出すと、とんでもないことになるかも。30年くらい前、九州にある神功皇后関係の神社を結構まわりました。今後、それらの動画を作ることもあると思います。昔、個人的に安曇磯良の研究をしていたこともあるので、そのあたりの動画からになりそうです。
阿波型小型丸底の土器が壱岐対馬から出土してれば、阿波説の可能性も有るかも知れません!
弥生時代の阿波なら、大和よりも半島と交易していた可能性が高そうな気もします。出土の多い少ないは距離や半島への興味など諸条件によりますが、豊前の土器や西部瀬戸内の土器が普通に壱岐から出ているので、阿波の土器が出ても全然不思議ではないと思います。阿波説については可能性の一つではありますが。
お願いです、ハルキーさんの声が小さいのかよく聞き取れません。字幕で理解しているのですよ!中身が濃いから聞き逃したくない。
ちょっと調整してみます。このあたり、よく分からず、デフォルトを使うようにしているのですが、なかなか難しいところです。
@kk2488ii様、私には小さい声には聞こえません。言われてみると、還元炎焼成土器の声がやや、くぐもってるような気はしますが、、、。
横からですがよく聞こえています。設定の問題の可能性はどうでしょうか?
スマホの機種の問題かも・・・。