信長追撃戦の最高傑作!長篠・設楽原の戦い【信長の戦い#19】
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- Опубликовано: 1 окт 2024
- 1574年、この頃信長に敵対する勢力は東の武田氏と西の大坂本願寺と阿波三好氏、北に加賀本願寺、南に伊勢長島の願正寺と四方を敵に囲まれる状態であった。
信長は本拠岐阜から一番近い伊勢長島を完全に葬り、そして次に狙ったのは西の大坂本願寺と阿波三好氏であった。
●目次
00:48 新堀城の戦い
07:44 大岡弥四郎事件
10:28 東三河を巡る戦い
22:40 長篠・設楽原の戦い
※季節感が分かりやすいよう新暦を採用しています。
●訂正箇所
・塙直政の永禄年間
×1570~80→〇1558~70
●参考資料
『現代語訳信長公記』中川太古
amzn.to/49fz7yY
『織田信長合戦全録』谷口克広
amzn.to/3uvh3Ce
『織田信長』柴裕之
amzn.to/3HMfByp
『織田信長』神田千里
amzn.to/3x6ieJC
『織田信長』池上裕子
amzn.to/4bpGFB7
『裏切られ信長』金子拓
amzn.to/3OwNebv
『織田信長の実像』金子拓
amzn.to/3ujB4Mc
『信長公記』和田裕弘
amzn.to/49dnuZK
『信長の戦争』藤本正行
amzn.to/4dsKsyX
『信長軍の合戦史』日本史史料研究会
amzn.to/4devFri
『織田信長の外交』谷口克広
amzn.to/492GQ3M
『信長と家康の軍事同盟』谷口克広
amzn.to/3SHoobm
『信長軍の司令官』谷口克広
amzn.to/3UuCzlg
『信長と消えた家臣たち』谷口克広
amzn.to/492cgar
『信長家臣明智光秀』金子拓
amzn.to/3vZrkXT
『明智光秀』早島大祐
amzn.to/4aQYKaO
『柴田勝家』和田裕弘
amzn.to/3ukLWt4
『織田信長の家臣団』和田裕弘
amzn.to/49VLkJD
『織田信忠』和田裕弘
amzn.to/3xV4pht
『信長・秀吉と家臣たち』谷口克弘
amzn.to/3yP6dcj
『徳川家康』柴裕之
amzn.to/3UihN6z
『徳川家康』笠谷和比古
amzn.to/45cvhpR
『徳川家康と武田勝頼』平山優
amzn.to/44xsQhj
『家康の正妻築山殿』黒田基樹
amzn.to/3Vxa0nh
『鳥居強右衛門』金子拓
amzn.to/3QoKLkb
『国衆の戦国史』鈴木将典
amzn.to/49UqNEZ
『検証 長篠合戦』平山優
amzn.to/3X8REdu
『武田三代』平山優
amzn.to/3UhKAYZ
『武田氏滅亡』平山優
amzn.to/4buISe7
『武田勝頼』丸島和洋
amzn.to/4aPz7XX
『長篠・設楽原の戦い』小林芳春
amzn.to/3RazK6s
『顕如』神田千里
amzn.to/3vZLdxT
『本願寺と天下人の50年戦争』武田鏡村
amzn.to/42u2v2g
『足利義輝・義昭』山田康弘
amzn.to/42tjAtd
『三好一族』天野忠幸
amzn.to/485bjx5
『三好一族と織田信長』天野忠幸
amzn.to/49mJZve
『松永久秀と下剋上』天野忠幸
amzn.to/3ucH09R
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#織田信長
#徳川家康
#武田勝頼
義昭と共に戦に次ぐ戦
義昭追放後も戦に次ぐ戦
上洛を決断したのが良かったのかどうか振り返る暇もない人生
主さんのシリーズでより鮮明に見えて来た信長の姿には勇壮ながら
時代に翻弄されもした主人公の悲哀も感じてしまいますね
相変わらずの凄まじい情報量。丹念に調べているのが動画見ていると良く分かります
ん?と思いましたが大岡弥四郎事件って近年じゃ長篠の戦いの直前の出来事とされているのですね。勝頼の侵攻路も何となく南信濃からだと思って居たのですが、遠江から家康領国を縦横無尽に突っ切って居ますね。岡崎城も危機でしたが何気に吉田城が大ピンチ。これ何気に三方ヶ原以上に家康領国崩壊の瀬戸際だったのでは
織田徳川連合軍の快勝だったので気がつきませんでしたが、家康の方は結構瀬戸際をしのぎ続けた上での勝利だったのですね
いつもありがとうございます
励みになります
家康命拾いしましたね
緻密で鋭い解説動画ありがとうございます。動画を拝見して感じた点は
・武田軍は長篠城攻撃中の数日間に弓鉄砲で激しく攻めたので、弾薬を消耗したが、甲斐からの兵站補給は無さそう。
・梅雨の時期なので、信長は3万の兵の3000人の鉄砲隊以外の 2万7千人の弓・投石・槍部隊も揃えて雨へ対策してた。
・当日は晴れ、設楽原で両軍とも鉄砲の射撃戦、朝~午後まで続くと、1分に1発で6時間も打つと、1丁あたり360発。
鉄砲足軽は一人あたり300発の弾薬を携行? 武田軍は長篠城攻めで弾薬を消耗、雨中射撃で火薬も湿って不調、
・小川を掘に見立て土塁を設け馬防柵、に武田兵は段差を登る際に手を使って無防備になる瞬間に近距離で銃撃される。
・織田・徳川軍は馬防柵と土塁を構築して、土塁で武田軍からの弓鉄砲を防ぎつつ射撃。
・酒井忠次の奇襲を聞いた勝頼は「三千人の武田兵を素早く負かすには、弱兵の敵軍はいったい数万人で襲ったか?」
くらいの恐怖を感じたのでは? 同じ人数の戦いなら、強兵の武田兵が織田徳川の兵に負けるはずかない?
設楽原からの追撃戦は、2年前の刀根坂の再現ですね。あの時口ごたえした佐久間信盛が最右翼なのは、なんだかんだ能力は認めているという事なのか、嫌がらせなのか。動画が詳細なので妄想もはかどります笑
次も楽しみに待っています!
刀根坂を再現できましたね!
妄想のお役に立てて幸いです笑
大変丁寧な内容で、素晴らしいと思います。この戦いは、「経済戦」で勝つ条件を整えたという意味で、画期的だったと思っています。ただ、織田型の鉄砲の数は間違いなく3000以上だと思いますね。まず、別働隊に鉄砲兵500をつけた、というのはどの資料も同じ。本隊が1000というのは有り得ないと思いますし、武田方の軍役帳にも「鉄砲一割」というのがあるようなので、3000以上だと思いますね。
信長は長篠や設楽原に行ったことないハズなのに。この完璧な戦闘準備と地形利用。
戦場の霧は両軍に等しくあるはずが、信長には晴れて見えます。
いつもありがとうございます。
信長会心の勝利でしたね
合戦の前の徳川両国は削りに削られてますね。そりゃ離反者出るわ
更新きたー!
地図付きなので判りやすく有り難いです。
大坂本願寺から京都を経て岐阜へ、岐阜から長篠へと信長は大忙しですね。
道を整備した甲斐がありました。
いつもありがとうございます!
道の整備、地味に勝利に貢献してますよね。
勝頼にとっては退きつつ損失を最小限に抑える事の方が難しく
勝ちさえすればと賭けに出てしまったように見えますね。相続の流れも含めてやはり悲運と不運の勇将かな
勝頼からしたら、撤退したら信長や家康に「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。
甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。
そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
これらの理由から長篠で撤退したら「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、俺の領地の民達はどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」と風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わっただけでなく面子まで潰された家臣や国衆達に不満を抱かれてしまう。
そうなったら今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
勝頼が家督継承した前後の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った為、家康を激怒させて武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ったり、信長に武田と手を切るように何度も求めていたらしい事を考えると無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
時間が経てば経つほど武田が不利になる状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのも納得です。 私が勝頼でも織田や徳川と和睦できないのなら、これ以上不利になる前に戦って勝つしかないと判断すると思います。
撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という耕作に向いた地を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
織田に臣従すればという意見もありますが、鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門・武田家の当主としてそれはできないでしょうし、勝頼本人が臣従を受け入れたとしても、そんな事をしたら自分達の利益を守ろうとしない当主など不要だと家臣達が別の武田家の人間を担ぎ出して、勝頼を追放するか殺そうとすると思います。
進むも地獄、退くも地獄という状況に追い込まれてしまった勝頼が可哀想です。
@@峻-k5k さん
彼個人に目立った失敗が無いこと
後継者となってからの困難な立場
そして悲壮な最後
勝頼像は単純ではなく彼個人で打開可能だったかも含めて見直されて行くべきだと思いますぬ
これほど戦い続けた武将は日本史上
信長ただ1人。その事に畏怖を覚えますね。最後も対毛利という大合戦に出兵途上だった。全方位と戦うために畿内を押さえに行ったようにさえ
見えてしまう。傑出した異常な偉人
最近まで柵の鉄砲隊に向って突撃する騎馬隊ーというのが長篠の戦いだったけど、そんなことだろうか?と不思議だった。歴史家ってなんなの。
これは信長の分業の妙。それまでの戦は総力戦。あっても二手に分かれるぐらい。だから勝者もかなり犠牲が出るし、敗者もそれなりに助け合って逃げられる。だけど信長は一次柵は破られることを想定して、二次柵に鉄砲隊をかくしている。そこで勝敗は決するのだが、さらに追撃隊まで用意しておき、全滅をねらっている。信長は三国志を読んでいたんだろか。
三国志時代に信長ならどうしただろうかと考えてみるのも面白い。
設楽原は水田地帯のため進軍があぜ道となる関係で騎馬が突撃するには向いていない場所。前面が水田と小川、そして柵・逆茂木で簡易防衛陣地は攻めがたく守りやすい。
信長も「四郎が出てこなければよし、出てきたら一網打尽」と言っていたのは、このような寄せてに不利な地形を勘案したのもあったろう。だが勝頼は救援部隊が数キロ手前で止まって陣地を構築し出したのを臆したと思い、状況判断を誤って進軍したのが敗因。
この戦に参加した武田方の末裔の人が先祖から口伝で伝えられた言葉に「(水田の)ぬかるみに足を取られ難渋しながら進むと鉄砲に撃たれて味方が倒された」というものがある。
攻めるには厳しい場所だったのだろう。何度か現地に行ってみたが水田が広がり連合軍側は小高い丘陵地帯になっていて、確かに厳しいだろうなと思った。
丘陵は連なっていたから、信長公記の記述にある通り兵の多くを隠して寡兵を装ったと推察されます。
山縣昌景は、まだ戦線が崩れていないうちに戦死した=山縣の討死が敗戦のきっかけ
のように描かれることが多いですが、実際には戦線が崩壊して追撃・掃討戦になってから
山縣ら重臣はボロボロと討たれていったのですね。
やはり長篠・設楽原合戦は信長の名戦の一つですね
ある意味で信長の真骨頂とも言える戦ですね。正直、ここにいたのが勝頼でなくとも…若き日の信玄であろうとも、もはや敗北は免れなかったでしょう。
生き残るなら畿内抑えられた時点で軍門に下るべきなんだけど、甲斐源氏が尾張守護代に大人しく従えないか。
待ってました!本当にありがとうございます。
こちらこそありがとうございます!
待ってましたよ!
そろそろかな?と思って、遡って復習してました
いつもありがとうございます!
励みになります
8:28
浜松城主が信康になってますよw
ありがとうございます!
動画のアップありがとう御座います!大河ドラマだとただただ鉄砲のみが取り上げられますが、実はこうした細かい努力や失敗の積み重ねによる結果だとゆう事が良く解る動画でした。本当に感謝します!😊
武田信玄だったらこの場合どういった戦略で織田徳川連合軍と戦ったかな?
信長追撃戦の最高傑作!→なんてのはハタの者が興味だけでいういい方。当事者たちはまさしく命懸けですよ。この環境下でここまで多くの実績を残した勝頼はなかなかのやり手です、なんせ最大の敵は信玄軍の猛者や豪族ですからね。最後も武士らしい潔さ、散りゆく美しさを有しています。諏訪で静かに眠ってください。ご冥福をお祈りします。あとふと感じますが、やはり信長は稀代の天才でしたな。なんせ発想が自由そのもの、でも現実も直視していたし頭の回転や切り替えも早い、大したものです。
4:05 永禄は1558年から1570年
長篠・設楽原の戦いの前まで勝頼が織田軍に軍勢を向けると一貫して戦いを避け引いていた。信長は織田軍は自分が攻めれは逃げる腰抜けと錯覚するようしむけたのでしょう、
長篠・設楽原の戦いでの織田徳川軍の戦死者が6000人いたとする説をよく耳にしますが、徳川軍が8000人なのだから、戦死者の半分が徳川勢だとすると再起不能に近い大損害になってしまうので、誇張ではないかと思います。実際はどれくらいだったのでしょうかね?
いつも楽しく拝見させていただいてます。30分近いのに時間を感じさせない面白さ、大変でしょうが次も楽しみにしています。
ありがとうございます。
次作も励みます。
長岡藤孝と細川藤孝、どっちかに統一したほうがいいと思う。
思わず、別人だったっけ?って調べ直してしまった。
こんにちは(*゚ー゚)v😮😊
こんばんは😊✨
ノッブの頭に🎵が増えたな。
こりゃあこの後勝ち確やな。
海外在住なのですが、貴殿の動畫を拜見して谷口先生の著作(電子書籍版)を賈いました。 參考文獻欄にあるもので電子書籍が出ているものはすべて讀んでみようと思います。
ありがとうございます!
谷口先生は読みやすいので個人的にもおすすめです。
応援してます❤
面白かったです!
待ってました。ありがとうございます😊
続きを待っています。
ありがとうございます😊
次も励みます。
4:05 永禄はもう10年くらい前だと思います
いつもありがとうございます!
何でここで滅ぼす迄攻撃しなかったんかな?知らんけど
鳥居強右衛門についても勝頼本人は強右衛門の忠義の心に感心して援軍が来ると告げた強右衛門を助命しようとしたが強右衛門が助命を断ったとか、信玄の弟で勝頼の叔父の信廉が勝頼の命令が来る前に既に強右衛門を殺していたとか諸説あるようです。
今でも長篠の戦いで撤退すべきだったという人が多いようですけど、私はそうは思えません。
勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めがいずれも失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。
甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。
そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
これらの事を考えて長篠で撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、俺の領地の民達はどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」と風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
勝頼が家督継承した前後の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、それで家康を激怒させて武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求めていたらしい事を考えると無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
状況を打開するにはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのかもしれません。 私が勝頼でもそう判断すると思います。
撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という耕作に向いた地を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
誰が、織田軍の3000丁による鉄砲隊の勝利なんぞ、言い出したのか?😠😠😠😠😠😠😠😠😠😠😠😠
長篠設楽原合戦は戦国時代最大クラスのジャイアントキリングといえる。ランチェスターの法則に従って武田陣営と織田徳川陣営の戦力を比較すると織田徳川陣営の兵士25人と武田陣営の兵士1人がほぼ同等の戦力となり、実際の両陣営の動員数に当てはめれば織田徳川陣営38,000に対し武田陣営は380,000となりほぼ10倍の戦力差となる。その戦力差10倍を覆すには経済力を背景にした火力を集中させた上で英仏百年戦争で劣勢のイギリス軍が用いたモードアングレでギャンブルに出るしかなかった。ただモードアングレで織田徳川本隊の撤退する時間を稼げればそれでもよかったのかも。ただモードアングレが思った以上に機能したのは想定外だったりして。
この時代にライフルがあったら、天下統一はもっと早まったのだろうか?