碓氷峠専用機として登場したのに廃線となってしまいお役御免となってしまった悲劇の機関車’’峠のシェルパ’’こと「EF63」【ゆっくり解説】
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- Опубликовано: 25 фев 2023
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BGM
OP 『Dramatic train』 TAM Music Factory
劇中 曲名『Train』 作曲 Ryu Ito ryu110.com/train/#google_vign...
鉄道唱歌-First Train Arrange-【DL】
高宮いぬかみ 旧 高宮魔女
ED 「LAMP BGM」様
#鉄道 #ゆっくり解説
長野の親戚の家に帰る時にいつも乗ってました。特急は協調運転時、空気バネの空気を抜くので振動が強くなり、ズズン、ズズンと力強く登っていく音と雰囲気が好きでした。カーブ時、車窓から前方や後方を見るとEF63が見えカッコ良かったです。横川でEF63を連結する時間で峠の釜飯を買ったり、連結シーンを見るのも好きでした。無くなる時はとても残念で悲しかったです。緑色で窓を大きくし、座席もグレードアップした189系あさまが大好きでした。489系白山も良かったです。
以前、碓氷鉄道文化村に行って現地で元機関士の方にEF63の説明をして貰いました。
本当に苦労する話から機関車の構造まで、上野方の機関車に重しを付けているのは驚いた登ってる時に編成が真っ直ぐ保つ様にしてるとは意外だった。
鉄道ファンではないけれど、この話を聞くと
勇敢な車両に魅了されました
お二人の詳しくわかりやすい解説大好きです
「峠のシェルパ」感動しました。急な勾配、困難を乗り越えていく姿。その姿が私たちの心に残り続けるんでしょうね。
シェルパーは今尚偉業を称え残ったがアスリートは脳裏にも残らず消え去った。可哀想EF200よ。
@@user-zz2dr6vv6k 返信ありがとうございます。不遇の列車もあるのですね。そんな多くの列車たちが日本の高度成長を支えてきたのだと思うと最前線で戦った戦士たちのようですね。いつまでも覚えて置いてあげたいです。
66.7‰の坂道はほんと凄い!
二年前、根性のない私は熊ノ平から横川までを散策しました。
上から見たあの坂は本当に急で
自分の身体を加速させないように歩くだけでも大変だった。
下りも大変だか登りも大変だったんだろうと実感している中
遥か向こうからズンズン進んでくる人が上がってくる……
白髪の老夫婦がにこやかに挨拶をしながら急な坂をものともぜず
往年の63重連を思い起こすかの様な足取りで上がっていく。
その数は一組だけではない(驚)
今では63の勇姿は見られないが
微笑ましい老夫婦の重連を見る事は出来ますよ😊
ロマンの塊だから大好き
強く同感です‼️🤗
50代半ばの上越地方生まれ。
昼行の特急「あさま」で帰省のときは。横川での63連結時間に買い、台車ずれ防止のためバネ空気を抜いたカタゴト車内で食べた「峠の釜めし」。
夜行の客車急行「妙高」で戻る際は、軽井沢で63重連+62の三重連。
力強いブロワ音が懐かしいです。
EF63の相方であったEF62は横軽経由の貨物列車廃止後は一部を残し東海道・山陽本線の荷物列車に転用されていた。国鉄末期の86年11月まで活躍していた。
歴史の重み。アプト式がああなってたこと、アプト式がなぜ廃止になったか、は教科書には出てこなかったナゾで解明された。すばらしい動画。
うすい鉄道文化むらで
EF63運転してます
こうして動画にしてくれて
ありがとうございます
お疲れ様です。
ギア比の低速よりな〝EF62、EF63〟は、〝碓氷峠仕様〟だった為引退してしまいましたが、兄弟機種で中速よりギア比の〝EF64、EF65〟は、今でも活躍している車両がありますね。SL〝ぐんまよこかわ〟のバックアップとしてはEF64が走っています。
ちなみに、
〝鉄道文化むら〟から、今でも旧信越本線の下り線、軽井沢方面への登り勾配を〝峠の湯〟まで体験乗車できますね。
〝トロッコ列車シェルパくん〟に乗り、途中の〝旧丸山変電所〟を過ぎて左にカーブして少し行ったあたりに、今でも〝65.0‰〟の勾配表示があります。
電気機関車に興味を持ち鉄道に興味を持った。
それは仕事になり現在は貨物で機関車のマスコンを握っている。ありがとうロクサン。
おおっ‼️🤩
横軽は何度も乗ってるので印象強いですね。
489、189、169、80、115、旧客に14系客車。
横川の「峠の釜めし」は有名だけど、軽井沢の「ゴルフ弁当」「テニス弁当」のユニークな容器も好きだった🍱
北陸新幹線が開通してめっちゃ便利になったけど、同時に味気無さを感じずにはいられない。
63、64、65は大人しめな見た目で重厚感あってかなり好き。
碓氷峠の大変さが分かる話ですね!😊😊
急勾配の極。
空気ばねの空気を抜いて走る振動が大好きでした。振動を感じつつ食べるおぎのやの釜めしで旅情は最高潮!
このような貴重なお話が、スマホさえ持っていればどこに居ても気軽に視聴できるようになって素晴らしい!!以前は考えられなかった事です😭
EF63形がこんなにも人々の思いや苦労が詰まった車輌だとは知りもしませんでした。ためになりました!
昔の人は本当に苦労して、時には犠牲も払って、多くの困難を乗り越えてきたのだと思います。
この碓氷峠の鉄道敷設も、そこを走破する事も、凄く大変だったと思います。
今の時代は極楽です!
一番好きな機関車です。
私にとって、横軽は「鉄道の聖地」です🚋💨
ゆっくり鉄道博物館さん最近本人が好きなんだろうなって思える動画作ってる感じして高感度高い
4:12貴重な歌声
小さい頃に本でしか見てないけど、パンタグラフ全出しで、碓氷峠を通るEF63は圧巻でしたね。
横軽間が廃止になる前に上野駅から直江津行きの特急あさまに乗りましたが横川駅でEF63を連結するときの振動や横川を発車してゆっくりと登っていく光景は良い思い出でした。
EF63形機関車は車重が重すぎて他線区で走行するとレールへのダメージが大きすぎるので転用できなかったとも聞きます。
EF63の車両重量を重くすればレールとの粘着もあがるのでわざと車重を重く作ったとも聞いたことがあります。
重量って重要
しかしいらんとこはいらんもまた事実・・・
ケツが痺れる独特の乗り心地になる横軽区間。
当時は何も考えてなかったが、理由が分かって改めて凄いと思った。
路線的にも電車的にも。
最後まで見通しました
なぜあの地域で過去の鉄道の歴史について盛んに振り返られているのか理解できました
帰省する時に信越本線を利用していたので、とても懐かしく感じました。機関車連結のための横川駅停車時間に、釜飯を買いに走ったのもよい思い出です。
横川の釜飯は現在でも上信越自動車道のSAで売られてますね。近年、仕事で通ったついでに買って帰ったものの、決して旨いとは思えなかったです😞 やはり当時の現地で食べるのが1番と思う祭りの出店みたいな😁 ちなみにソレの例の空容器は現在も保存しておりますです❗🤗
@@user-iy6dh3vd9i さま
私も空容器、保存してます。何故か捨てられないんですよねー。^_^
@@junichif17さん コレって鉄道ロマンの極みですかね?あの横軽の碓氷峠越えは蒸気機関車では不可能で古い時代の山岳鉄道をそのまま採用したアプト式ですね。しかしその工事は多数の犠牲者伴った「黒部ダム」に通じるカタチでシベリア鉄道も戦争に於ける捕虜達が過酷な労働環境での…😰 ちなみに、ただでさえ狭く限られた日本列島に、更に自然環境破壊してまでリニア新幹線は必要なのかと岸田総理に聞きたいモンですね❗🤔
一回だけでも、特急あさまで軽井沢までいけばよかったと思うアラフィフでした。
同じです。
この区間は若かりし頃EF621に牽引された寝台急行能登号で通った記憶が有る。この動画で横川駅にまた行きたくなった。ありがとうございます。
屋外展示車両の劣化が激しく鉄道文化むらの状態自体があまり芳しくない気がしますね。
歴史的にみてもただの廃線区間ではないので確実に存続する事を願います。
多分、その急行「能登」は、上越新幹線開業で、元々信越本線経由の急行「越前」福井行きを、金沢止まりにして改称された列車です。元来の「能登」号は上越線経由の金沢行きでした。
@@user-nr1wq1xb2j さん、有難うございます。先述のとおり横川駅停車の記憶がないのですが、乗車したのは1989年春ですので信越本線経由ですね。
夜中直江津駅で時間調整していた記憶だけあります。早朝富山駅に着いてますのすし弁当を買って駅で食べました。
@@Fairy-tail4161 信越本線経由になった「能登」は金沢到着が早い時間なので、到着してからしばらくはホームにて停留措置のサービスが取られていた様な話を聞いています。記憶が定かではありませんが。
ちょうど30年前の2月24日に、特急「白山」を上野−金沢間を乗り通した。大学受験のため。普段遠出しない家庭だったので、ワクワクしたよ。けど、えらい時間がかかった。いい思い出となりました。その後も帰省などで何度か乗ったよ。
EF 63は自分にとっても特別な存在だなぁ近々碓氷峠鉄道文化むらに会いに行こうかな
特急と連結しているのが好きです。
「毎日の重労働を黙ってこなす男」って感じですごく渋くてかっこいい!
1度でいいから乗ってみたかったなぁ
わかりやすく、勉強になりました。ありがとうございました。
懐かしいな
機関車わ連結するまでの待機時間、登り下りのガコガコいうノロノロ運転、切り離しの時間…
今では新幹線で超スムーズ…
まぁそんだけ人のみ流れる新幹線で対応出来る区間って事だね。物流なんぞトラックでOK。良いな。まぁシェルパー自体登山者の補助だからな。でも電磁強制粘着システムは素晴らしいよね。
EF63型、懐かしいなぁ…
バンドの追っかけやってた頃、長野から東京方面行くのに特急・夜行・普通車とずいぶんお世話になりました。
横川では連結時間にダッシュで峠の釜めし買ってました。
あの駅弁売りの従業員さん達が列車が出ていく時にずっとお辞儀をして見送ってくれた光景が忘れられません。
碓氷峠鉄道文化むらとアプトの道は一度行ってみたいですね。
懐かしい動画、ありがとうございました。
最近全部のものが効率を求めるだけだからこういうロマンは本当によい
現役当時は経済的合理性があったから存在していた。別にロマンのために存在したわけではない。
16:45 転属できない理由はEF63がいろいろ積みすぎて車重がめっちゃくちゃ重くなり他路線で走ると線路を削りながら走ることになるから転属の話は無くなった。
平坦路線走行なら、最高時速100Kmで運転可能なパワーを有していただけに、実に残念ですね
その百キロも滅茶苦茶トルク重視な為電気使用料莫大。
@@user-zz2dr6vv6k
モーターはEF60、62と変わらないから消費電力はたいして変わらないと思いますよ
軸重が大きいのが問題
車重が重いのは勾配を登ってるときに空転して走行不能にならないように重りを載せて車輪を線路に押し付けているから。
定期検査のために大宮工場に運ぶときは重りを全部外して自力回送していた。
ソースは知らんが、電磁吸着ブレーキと死重を外せば軸重は16トン
これが本当ならEF60とか65と軸重では同等な訳か
でも結局弱め界磁の設定とかで高速性能に難があるだろうし、そのままだと転属はむりだったんだろうなあ
EF63形電気機関車は横軽対策として特殊な装備が多かったので横川~軽井沢間が廃止となると他に用途がなく年数も経っていることから碓氷峠鉄道文化むらなどに保存する以外廃車も致し方ないですね。
総重量が108㌧と最重量電気機関車であったEF63形電気機関車。
すごく、わかりやすい説明、感謝します。
最終列車の長大な涙の汽笛を思い出し、感じ入りました。
旅客列車については動力分散化と出力アップで碓氷峠を除けば次第に克服された。
碓氷峠に限らず板谷峠に瀬野八と鉄道による貨物荷物郵便輸送が物流の中心だった時代は難所でもソコを越えるしか無かった。
碓氷峠を通常の粘着運転による改良が計画されたのが1950年代で実施されたのが1960年代初頭。
道路は舗装道路すら少なく雨が降れば水溜まりと川になり車両は泥まみれという有様。
まだまだ鉄道と船舶が物流の中心だった時代。
SL時代から補機には汎用性なんてものを捨てたスペシャルでないと務まらなかった。
貨物に限れば最近“梅田峠”が誕生した事で補機はまだまだ現役。
1:47用地の関係からスイッチバックやループ式が使えないことはありません。しっかり計画のひとつになってます。
2:36 犠牲者500人は出ていません。
今のJR、特に東日本を見てみると、仮に長野(北陸)新幹線の計画が無かったとして、この区間の為だけにJRがELを拵えるとは到底思えないので、いずれ補機不要な電車が開発されるか、若しくは第三の新線ができてどっちにしろ横軽のシェルパは63が最後になったと思う。
昭和59年にこの区間の貨物列車が無くなったのも大きい。第三の新線が新幹線
客車で高崎~軽井沢間を何度も旅行しました。
客車は窓が手動で開くので、夏などはトンネル内も窓を開けて通過していました。
客車の窓から顔を出したりして、スリルを楽しんだ思い出があります。
(いまなら絶対ニュースレベルになる)
やっぱり、峠の釜飯とプラスチック製のボトルに入った緑茶を思い出します。
当時は釜飯が500円でした。
懐かしいですね。アプト式は過密ダイヤには出来なかったから横川から高崎寄りと軽井沢から長野寄りは過密に出来ても横川 軽井沢間は単線の為出来なかった。63が登場してから途中にある熊ノ平を中継に一列車しか走れない規則がある。前の列車が熊ノ平を通過しないと横川を出発出来ない。逆もそうです。単線でもいいから復活して欲しいですね。
瀬野八で補機つかなくなったら日本の鉄道補機も終焉かなぁ、と思ってたのに
21世紀も令和になってまさかの新規補機が爆誕するとはまったく予想外だった。しかもうちは地元だし
セノハチは永遠に不滅❓
多分横軽専用ではないと思うけどコンビで活躍していたと思われるEF62もとりあげてほしい
EF62は中央東線や篠ノ井線とかでも運用されていましたからね~
あと偶に御殿場線で貨物(太平洋セメントの)運用とか霜取り列車として早朝見かけましたよ。
急行白山や能登の489系と協調運転しているイメージしかなかった。
一回でも横軽区間乗りたかったなあ。
1975年に横川運転区へ向かっていた、
EF62,EF63号は碓氷峠の途中で脱線し、
EF62,EF63-5と9号機の4両全車が廃車になるという事故だった。
連結の制限
181 あさま 8両
189 あさま 11両(9両もあり)
489 白山 能登 9両
169 妙高&とがくし 10両
あの独特な甲高い音が懐かしいですね。新幹線になってからバス使うようになりました。そこまで速達性必要な距離でもないのに高い!
新幹線の開業は決定的でしたが、1984年2月に横軽経由の貨物列車が廃止された時点で運命は決まっていましたね。上越線、中央線に割り振れば信越線は必要なし。
山はどこでも上るより下るのが重要なんすね
しかしコレが169.189.489系が登場したんだよね
タモリさんがブラタモリでEF63を体験運転してましたね
最急勾配66.7‰って、日本どころか、世界レベルの険しさでしょう。
ちなみに、世界的には480‰が最高で、日本で似たような体験をしたいなら東京の王子にある飛鳥山公園のアスカルゴがおすすめですな
勾配を計算すると450‰になるので、登山電車気分が味わえます
また、近所を走る都電荒川線の王子駅前と飛鳥山の間にある急坂は、碓氷峠と同じ66・7‰です
箱根電気鉄道 京阪電鉄にも、66.7‰があったように思います
@@user-bk6rs2js4d 箱根は良いけど、御京阪って関西では下衆いって認識だよ。何でも有りって云う意味で。因みに下衆いって酷い言われ方ですが反面尊敬とか偉業の妬みも有ります。唯一長編成の路面使用維持とか非常災害時にも普通に運行とか。南海の様に莫大な先行投資で維持継続運営はまぁ解るがソレせず魔改造やコツコツ維持で繋げ激戦区を未だ駆け抜ける凄さは全国区では解り難いだろうね。
@@user-bk6rs2js4d 京阪の方は京都市営地下鉄東西線開通と引き換えに廃止に
EF63との協調運転用に造られた489系電車、189系電車、169系電車は横軽間が廃止になっても使えたのとは対照的ですね。
EF63の電磁吸着ブレーキは止まるのが目的では無く停車を維持する為のものらしいですよ
使用された事は、一度も無かったそうです。
1001は確か映画「風立ちぬ」に登場し!
映画の中でもラックレールを走っていました!
当時の再現がRUclipsにありますね
機関士チルノの碓氷越え
個人的にはニコ動の方がオススメです(投稿者がコメントで解説してくれる)
動画見ましたけど、余計なやりとり・無駄口を喋っていたのが残念でしたね。
実録動画を見ると、機関士さんは指差呼称以外は無言で運転に集中して鬼気迫るものがありました。
無駄口を言わせなくても真剣さを伝えられることはできると思うので、あの動画は作り直して欲しいですね。
@@user-ck5vq5ke1p だが、「東方projectの二次創作」としてはあれで完璧なんだよなあ
EF63は最終手段のブレーキとして電機子短絡スイッチがありました
モーターを意図的に破壊するため1度しか使えませんが……
1:25
>日本の様々な場所に鉄道が敷設されるようになると
>東京から新潟に至る路線を完成させるために
これは正確ではない。
確かに碓氷峠を含む信越本線は長野回りで東京と新潟を結ぶルートとして最終的な地位を確立したが、
あくまでも建設当初は、京阪神と東京を連絡する鉄道(中山道鉄道)の一区間という位置づけだった。
すなわち、東京・大阪周辺でしか鉄道インフラが整備されておらず鉄道網の完成は全く見通せない黎明期に
東海道本線と同格の東西連絡のメインルートととして計画されたもので、
概ね現在の東北本線、高崎線、信越本線、中央本線、東海道本線を繋げたようなものだった。
ルート選定のための調査は、実に新橋・横浜間で日本初の鉄道が開業した1872年の2年後の1874年にまで遡る。
鉄道を長い事苦しめ続けた事で有名ですからねぇ… >碓氷峠
EF63と同い年で生まれ、同じ66.7‰を走破し、同じ1997年に線路廃止で引退した京阪80系はすごい電車なんだなと改めて思った。
御京阪地道にパネ〜よ。台風でも洪水でも関西に無い積雪でも通常運行。御京阪が止まった時は関西激ピンチってバロメーターに成ってますね。
鉄道文化村小学生の頃行って以来行けてない😢あさま最終日はニューステで見た
昔は横川駅側線にEF63、189系停まってたからな。乗った事ないけど昔の信越本線、北陸本線は特急街道ですごいと思う
EF63型は横川~軽井沢間を往き来した峠のシェルパと呼ばれ、軽井沢へ向かう場合は列車の後部に、一方の横川へ向かう場合は前部に2両連結されていました。by酒向正也
北陸新幹線から見える軽井沢駅東側にはまだ架線柱等の遺構がそのままになっていますよね。
寂しい風景になったものの当時の横軽超えの要衝の雰囲気が色濃く残ってます。
あの風景見るのが大好きです。
EF63最晩年の横川周辺は一部の心ない人によるネガティブな話も実に多かったですね。それはともかく、EF63の影に隠れた悲運の横川通過用専用機EF62をぜひ取り上げてください。63の2倍以上の54輌が製造され、地味ながら横軽だけでなく、山陽本線でも使用されました。63と比べ、日陰の存在だったかもしれませんが、日本形唯一のC-C軸配置で、63同様の特殊装備を持った62は、信越本線の急行 能登、越前、妙高などを牽いた知られざる名機と思います。
一度横川からめがね橋まで線路沿いに歩いて登った頃がありましたが、かなりきついです。
三月中に碓氷峠にやっと行くことができるからめちゃ楽しみ
1996年8月から現北陸新幹線工事が始まってから碓氷峠を走ってきた団体 臨時電車と185系の普通列車が運転をおえた それからは北陸新幹線の工事がすすんできたことにはらがたってきた それはさておき97年9月30日35年の歴史に幕を閉じた 泣いたよ
一見大きそうに見えるEF66の重量が100tちょいのところ、EF63の方が108tで最も重い国鉄機関車なんですね。あの箱に安全装置をぎっちぎちに詰め込んでたから…。
もっとも、EF58型電気機関車113t、マンモス貨物電気機関車EH10型電気機関車に至っては、118tとEF63型電気機関車よりも重量級だったが!
JR時代に「急行能登」(14系客車使用)が使われた時の話。横川駅でかなりの時間を要して連結作業・エアサス台車の空気抜き取りなどを行い。ようやく動き出した時の速度は人間がジョギングかマラソンする位の速度で、しかも深夜帯。振動がもろに伝わりまるで引きずられてる(客車列車だから電気機関車に引きずられるのは当たり前の事)ような感覚で軽井沢まで無事に到着。機関車の取り換え、エアサス台車の空気充填などの工程を経て、無事に軽井沢を出発。まぁこの間ズルズルと音を立てながら碓氷峠を越えてゆく正に峠のシェルパの活躍を体験しました。エアサスの空気を抜かないと14系客車の車輛が浮き上がる危険性がある(下手をすると崖下に堕ちて今の自分は存在しなかったでしょう)事もこの時知りました。その14系客車お世辞にも座席は簡易リクライニングチェアで、ストッパーが付いてないので仮眠するにもちょっとでも体重を掛けないと車内にバタン!と音がする曲者座席でした。12系客車ならそんなことは気にしませんが(ボックスシートなので)兎に角横軽には重要不可欠な電気機関車だと認識した体験をしました。まぁ関西圏には地下鉄運用から登山電車、そして路面電車の3刀流の京阪800系が横軽並み小関越えの急こう配を4両編成を右へ左へくねらせて走る電車や、高野線の橋本~極楽橋間をキーキー鳴らしながら(紀伊と冠の付いた駅とキーキーを掛け合わせた桂文珍の落語のマクラに使われた)走る電車も走っています。
碓氷峠を超えるトンネルを最初から作って、あとは複線化していれば廃線を回避できたかもしれないのになー
現役時代に横川であさまに連結中父が名物の釜飯を買って来てくれたのを思い出しました。
高校の頃、夏休みを利用してクラスの友達と3人で東京へ日帰りの卒業旅行 へ行きました。その時に乗った信州リレー号を軽井沢で停車中に降りてEF63と連結する所を撮影しました。このときに連結した信州リレー号は確か185系(特急踊り子で使用していた方ではない)でした。
似たようなパターンは奥羽本線に投入されたEF71も同じように山形新幹線開業でお役御免になってしまった。
一度しか特急あさまに乗ったことありませんが記憶に残っております。横川駅の釜飯旨かったのとすごい急勾配を登って行くもんだなと当時小学生だった小生は覚えております。あと軽井沢駅でレンタサイクル家族で借りたのですがすごーーーく乗りにくかった(笑)のを覚えております。
一度は碓氷峠越えてみたかったな横軽
横軽間は、新幹線開業前に何度か乗ったことがあります。EF63の概要については鉄道雑誌で知っていましたが、改めて見ると勉強になります。
できれば、画像にあった、自分がよく知らない双頭連結器について解説をしていただけるとさらによかったです。
まさかEF63を引退に追いやったE2系(赤帯)が先に姿を完全に消すとは思わなかったですね😃
碓氷峠の電気機関車は凄く大好きです。
やはり峠を越える機関車はいつ見ても逞しくてカッコいいですね!
私のいる九州には肥薩線という路線があり、そこは矢岳越えと呼ばれる九州一の難所があります。そこでもEF63形のように、昔は専用機器類を装備したデゴイチ(D51形蒸気機関車)が活躍してました。その1台が今も矢岳駅という駅に大切に保存されています。
碓氷峠越え用EF63形と矢岳越え用D51形が力を合わせたら、凄く迫力ありそうな気がします😆
2022年11月に碓井峠鉄道文化むらに行ってきたばかりです。
あさまを2台機関車で引っ張り上げる(実際は押上)姿がかっこよく見えたので、磯部温泉の時に行きました。(帰りは富岡製糸場)
昔の御殿場駅でも似たようなものだったのかなと空想します。
雨の一日だったので休日でしたが人手は少なかったです。
今まで思い込んでいたのと違うことが多く驚いてました。
鉄道模型のデモが結構なものだと思います。
おぎのやの前を通ってすぐにあるという話を帰ってからしたら「なぜおぎのやで食べてこなかったの?もったいない」
一般の人の興味は釜めしだったようです。近所のスーパーでも駅弁フェアで釜めしはすぐに売り切れます。
横川駅から軽井沢駅までまだレールは繋がって居る。
群馬県には水上機関区にEF16と言う補機があったこともお忘れなく。
いわゆる横軽超えは鉄道ロマンとして様々な思いありますです‼️🥰
碓氷峠に行って撮影したのが懐かしいね、97年9月の廃線寸前の土日にも行ったけどあの賑わいはもうないだろうね。
自分はいわゆる鉄ではないので、つい数年前までは、碓井峠で電車を引っ張ってる機関車と、ブルートレインとかを引っ張ってるEF65は同じ物だと思ってました。まぁ、今でも、パッと見では区別出来ないですが…数年前に鉄道文化村に行って初めて別モンだと知りましたよ。
関係ないけど、文化村は、廃線を利用したトロッコ列車、ミニSL、ミニミニSLなど、乗り物が結構あったので、鉄分少な目でも楽しめました。子どもを連れて行ったら、結構楽しんでくれました。
公園内には、お座敷客車の廃車を休憩スペースにしてたり、何故か、碓井峠と関係なさそうなEF58とか関門海峡用のかな?みたいな機関車も展示されてるので、鉄ではないけど小さい頃「でんしゃのずかん」を見てたくらいの大人も楽しめるように思います。
碓氷峠を乗り越える為のシステムですよね。小2の頃に乗りました😊思い出がたくさんあったので廃止は、残念ですね😢
碓氷峠は、急勾配の極。
EF63形電気機関車は、横川駅から軽井沢駅間専用の機関車であった。
総重量が108㌧と超重量電気機関車で転用先がなく、北陸新幹線開業に合わせて、全機廃車となってしまった。
長野新幹線で一番煽りをくらったのは横川駅周辺だと思う。
新潟県も伸びなければ、北陸延伸は無かったから偉く迷惑
小諸駅周辺の凋落ぶりも激しいです。
@@user-tk5tv8hs9l小諸は小諸市民が望んだ結果だから知らん。
峠の釜めしが…
この路線で上京・里帰りしていた身としては、信越本線が無くなるなんて想像すらなかったなぁ・・・
63の、あのやかましすぎるブロアーの轟音と、峠を登り降りしている姿が懐かしいですね。
JR貨物の現役機関士の友人と鉄道文化むら行ったときに本線を運転する免許あるって言ったけどやっぱり同じように訓練受けないとダメって言われた。
まあ係員の元機関士の人とはいろいろ話が盛り上がったけども。
すごいっす‼️
楽しい😂
80歳を迎えた父が乗っていたと聞き興味がありました。修学旅行などの特別車でと。
碓氷峠鉄道文化村行きたいです。車では碓氷峠行くのですが…
碓氷峠鉄道文化むらにたくさんあっていいですよね~
自分も行ってみたくなりました!あと、個人で保存所有している人が気になります、どんだけお金かかったのか😳
1997年9月中旬、横川駅で開催されたさよならイベントに参加しました。
EF63車両の部品や関連グッズのオークションは大盛況でした。
使用済みのベアリング15,000円はお得だったのか当時は理解出来ませんでしたが、今思えば買っておけば良かったかな?
EF63は 40年以上前におばあちゃんに買ってもらった雑誌 鉄道ファンに特集があって知った機関車です。
実物を見たことは,北長野駅周辺の車庫にとまってるの見かけたぐらいしか記憶にないです。
EF63と言えば、連結切り離し時に横川駅で買った峠の釜めしを思い出しますね~
あと懐かしのポリ茶瓶とか
またEF63は運用区画も廃止ってことで脚光を浴びましたが
同じような運用なのに殆ど注目も浴びずにフェードアウトしたEF71(板谷峠用)も特集して欲しい
あのお茶不味かったなぁ…
EC40は酷い時には、全12輌の内、4輌しか動か無い事も有ったそうです。
複雑過ぎて整備力が足り無かった!でもアノ時代から既に鉄道先進国だったんだね。
新線も莫大な費用かけて建設されたはずですが、30余年で廃止するほどコストを食うものだったんだろうね。
温泉の前にあるのは状態かなり酷かったな…
4:13 このチャンネルで初めて笑ったw