動力車だけでなく客車も、でしょうね。10系は下降窓からの腐食が早く廃車が相次ぎ、逆に車体が重くエンジンが非力で自家用車以下の走行性能と酷評された40系気動車がエンジン挿げ替えで却って長命を保つ。まあジュラ電みたいに雨に打たれただけでイオン化傾向による腐食を起こす恐ろしい車両も在りましたが。simple is best.がすべてではないけれど、公共交通のための最小構成は在るし、ソレは如何に経費理由があっても無視して欲しくない。81系のトラブル群は会議成功のためのメンツが原因だったのかなあ。本来なら潤滑の悪い横型エンジンを熟成もさせずに使わんでしょうに。
現在88才の父が、当時尾久客車区の気動車チームに勤務していました。父が休みの時に、尾久まで連れて行ってもらい、車両に間近で接する機会があったことを懐かしく思い出します。キハ81は記憶がありませんが、つばさのヘッドマークを付けたブルドッグの前で撮影した写真が今も残っています。去年父を京都鉄道博物館に連れて行き、保存中のキハ81と記念写真を撮ることが出来、嬉しそうな父親の姿を見て、少しは親孝行できたかなと思っています。
私の母も88歳です。昭和9年か10年生まれかな?
お互いいつまでも元気であってほしいと願います。
母親が山形出身で自分が幼い頃には里帰りに着いて行き、つばさには毎年のように乗っていたけどお父様が整備された車両だったのですね。尾久客車区所属の気動車特急はいつもピカピカで、つばさ電車化で西日本方面に転属した181系が煤けているのと対象的でした。件のキハ81先頭のつばさは一度だけ乗った記憶があり、その後もボンネット型のつばさを待ち続けたのに来るのは貫通型ばかりでガッカリしたものです。(当時はキハ82とキハ181の違いも分からず、ある日書店でキハ181とEF71の連結面のアップが表紙の雑誌を見つけ熟読してキハ81が来ない謎が解けた)尾久客車区で手塩にかけた気動車特急が鉄博に1両も保存されてないのが残念です
@@おしげ-b6k
こんにちは。
キハ81に乗車した記憶がおありとのこと。羨ましいです。キハ81がつばさに使用された期間が短いので、再び出会えなかったのはそのせいかもしれませんね。おしげさまの仰るとおり、鉄博に気動車特急車両が保存されていないのは自分も常々残念だと思っていました。
めっちゃええ話ですね。お父様も喜ばれていたと思いますよ。
自分の亡くなった父は上野車掌区勤務で尾久駅は職場のようなものでした。
写真では見た事ありましたが、実物は京都に展示されているのですね。
ブルドッグという愛称もさることながら、ボンネットを開いた写真を見て友人が、今週のビックリドッキリメカを出しそうだと言っていた事も思い出しましたw
使い勝手に難有りなのは判っていても、ボンネットってデザインとしてとても良いなと思っています。
良く残してくれたと思います。
色々あった経緯とは別に、ピカピカでスーパースター然として鎮座しております。
1970年、小学4年生の時、 26:42 京都から博多までキハ82系のかもめに乗ってからキハ82のファンです。山陽本線の緩い上り坂でも、エンジンを唸らせて登っていたのを今でも良く覚えています。当時撮った白鳥、まつかぜ、かもめ、やくも写真を今でも持っています。
キハ81系はいなほ時代に乗りました。個性的な先頭車で、とても印象に残っています。小学校時代のいい想い出です。
非常に精度の高い動画ですね。1971年に「平→上野」をキハ80系に乗車しました。当時、何故電化区間なのに気動車が走るのか数十年疑問でしたが、この動画で疑問が解消されました。キハ82系も少なくなってきた2003年頃、「益田→下関」を山陰線経由で走る”まつかぜ”に乗車したのを思い出します。毎回、動画を楽しみにしています。
まだブルドッグが弁天町にいた頃に会いにいきました。
流浪の民ではあったけれども、大所帯ひたちのさきがけになったのは誇らしいことだと思いますよ。
見応えがあった。面白かった。
ちょうどHOゲージのカツミ製の古いキハ80系を修理して集めてるから、ある程度知ってるけど解説ありがたい。
まだまだ知らない事が多かった。
客車専門だったのにキハの沼にハマりそう…
よくそんな短命で少数派ではるか昔に運用の終わったキハ81を交通科学博物館は押さえてたなぁ
おかげで今でも梅小路で見ることができる。
弁天町で何度も見たけど梅小路でまた見たくなってきた。
そこまで短命だったとは…
カツミのキハ82系は模型界の名車です。古いものだと塗装済みキットもあり最短で2両から運行で来たのでお年玉で買った子供も多かったはず、今のは出来は良いけど財布には優しくなくなった。
@@N--jv3go
なるほど‼︎
それで内装無しのキハ82は同じ20系客車などより中古で見かける事が多いのですね!
それにキット組みっぽいのに塗装は皆同じ????
って思ってたのも塗装済みキットだったのですね!
納得です。
出ました、伝説の『はつかりがっかり事故ばっかり』❣❣
キハ80系 母と小学生の私と弟3人で北海道から連絡船経由青森発新潟の叔母の家まで特急白鳥に乗りました。今から50年前の事です。指定席二席を大人一人子供二人で、シェアしてちょっと窮屈でしたが冷房付き白いシートカバー折り畳みテーブルなど子供ながらにリッチな気分を味わえました。朝でしたので食堂車でハムエッグトースト コーヒー シリアルという当時のガキンチョの自分としては相当オシャレな洋朝食を、食べました。今でも鮮烈に覚えております。キシ80の厨房横の窓際を、歩く廊下!今でも私の生涯の中でも素晴らしい列車の旅でした!
小学5年生の時、キハ81の「はつかり」から青函連絡船1便(深夜便)、函館からキハ82「おおぞら」で札幌への旅をした67歳です。
鉄道雑誌の記事や誰かの投稿で読んだことがあるのですが、キハ81のエンジン故障の他の原因として、DMH17竪型機関を(静粛性のために)横型機関にしたことがあるそうです。
何でも、潤滑オイルがかたよって、エンジン全体に負荷がかかったとか…。
後に改良されたらしいです。
根本原因は
戦前のエンジンを出力不足のまま誤魔化して使った事。
何しろスーパーチャージャーさえ装備不能の代物だったし
戦前のエンジンでは無く、戦後のエンジンです。ただ、設計は戦前の試作型を流用しているところもあり、戦前設計に近い戦後エンジンですね。ただ、DMH17HはそれまでのDMH17Cとはかなり設計変更されているので、似て非なるものでもあります。
潤滑不良は、対策としてシリンダーを完全水平では無く若干傾けてはありましたが、まだ完全では無かった、と言う事になりますね
@@t.w.6664さん
残念ながら事実上戦前のエンジン
実際アルカディア事故の直後、JR東日本の会長(技術畑出身)が真っ先にエンジンを疑い、図面を取り寄せさせて見た瞬間図面を投げつけて
これは何だ!戦前のエンジンをまだ使ってるのか!今すぐ新車に買い替えるかエンジンを交換しろ!会議?そんなもん時間の無駄だ!会議中にまた同じ事故起きたらどうする!外国のエンジンでも何でも使え!
と即刻エンジン換装を命令、自身もJR東海に出向き頭下げて当時設計中の新型特急気動車(キハ85系)のエンジンメーカー(カミンズ)を紹介してもらい、船会社社長時代に縁のあったコマツにも出向き新型エンジン購入を持ち掛けてます。
ここで買ったどのエンジンもインタークーラー&ターボ過給機付の高性能エンジン
@@古家武史-f5d さん
事実上ですよね。そのことは私のコメントにも書いてあります。実際に車両に載せられたのは戦後であり、基本設計は戦前、その後、設計を流用したのが戦後ですから、戦後のエンジンで間違いないです。
アルカディア事故当時のJR東日本会長であった山下氏は技術者上がりだったので、エンジンの載せ替えが早急に完了した話しは私も知っています。
ちなみに、当時採用されたカミンズNTA855シリーズ、ニイガタDMF13HZシリーズ、コマツSA6D125シリーズ、全て直噴エンジンと言う事もお忘れ無く。
キハ81 3を保存したのは先見の明があったと思います。
当時は様々なトラブルに見舞われましたが、その後の発展の礎になった事は間違いないでしょうね。
昔は「ブルドッグ」と呼ぼれてたけど、1976年以降だったら「ヤッターワン」と呼ばれてたでしょうかね。
ボンネットを開けた様子が「今週のビックリドッキリメカ、発進!」
ブルドッグですね。昔話ですが「ウンコ」を浴びさせた列車でした。野壺にはまったり、今では想像出来ない思い出でした。
私はキハ82「あさしお」で初めて乗りましたが、子供心に「遅い!」という印象でしたね~。
大阪→京都を117系新快速で移動して乗り継いだので、余計にそう感じたのかも知れません。
昔のいい思い出です。同じように子供の頃特急雷鳥って乗った事があります。今はサンダーバードに変わりましたが。また取りあげて欲しいな。
昔、天王寺から名古屋迄乗りました❗️キハ81が先頭でしたね😃のんびりした旅でしたね。ありがとうございます。
12:09 地元の人や鉄道ファンしか知らなさそうな「能生」ってなってますけど、
ある職種の人たちの間では結構有名だったんです。午前中に海沿いのカニ専門
店で売り切れ御免のワンコイン(500円)で塩茹での採れたてのカニ一杯を
提供していたので、国道8号線を行き来する長距離トラック運転手の間で利用
する人が多かったのです。僕が現役の時って30年近く前ですけど、現在でも
継続して営業しているみたいです。
はつかり、がっかり、故障ばかり。
実は、ある会議に間に合わせるために急いで開発したためらしいですね。
『アジア鉄道会議』だったかと思います。
昭和48年3月に81系ブルドック、くろしおに乗りました。
昭和35年製造でブルーのシートモケットがかなりへたっていて酷使されているんだなぁという感想でした。
もちろん、満員でした。
ブルドックはARCがなかったら開発中や製作に時間が取れて下手したら増備もブルドッグで82型はもっとあとになっていたかも。 でも ひたち、いなほになってもちょくちょく故障していて451系ひたち も走っていたそうだ。
153系の「こだま(かえだま)」みたいな…?
山之内秀一郎さんはこのキハ82系の件の他、1982年の東北新幹線開業により東那須野駅から那須塩原駅に改称させた際に、口頭で最高幹部に辞意を伝えざるを得なくなったと言われています。
3:47 あたりから「ビジネス特急こだま」の話が出てきますけど、東京-大阪間を6時間50分かけて走るってものだったんですよねw
1939年生まれで去年(2022年に)死んだ私の親父も乗ったことがあるらしいんですが「当時は速いと思ったなぁ」って言ってましたよ。
kato hoのキハ81はなかなかカッコいいね
性能はともかく
ワイルドさは
天下一品
81系
上品さは
天下一品
82系
俺は都内某所でこの列車が走っているのを一度だけ見たことがある。
それはまるで東京でオニヤンマが飛んでいるのを見たくらい貴重な経験だった。
一緒にいた友達があの列車は何なんだとしばらく興奮していたのを覚えている。
【メンツを最優先にしてグダグダに】
…後のブラック企業経営者のはしりである😳
色々問題はあった様だが、カッコは良いと思う。
ちなみに、電化は東海道本線の全線電化はS31だけど、奥羽本線の福島駅 - 米沢駅間の電化は東海道線よりも先のS24だった。
この区間は急坂の為にトンネル内でSLが空転して立往生しそのために機関士が酸欠死したり失神して、SLが逆走暴走する事故が多発していたので、全国に先駆けて電化された。廃棄された旧トンネルを見ると、架線を張る高さを確保する為にトンネルの天井を改良したり、床を掘り下げたりしていたようです。
福島庭坂間には沢山の廃トンネルがあるそうです。明治期に最初に奥羽本線が全通した時のトンネルもまだ一部残っているそうです。その中には何と排煙の為の煙突のようなものがあるトンネルも残っているようです。
(旧トンネルの一部は新トンネルの一部になってしまっているものもあるそうな。)
キハ81系もその後はしっかりトラブルを克服しましたね。技術陣の苦労と努力も大変なものだったんでしょう。
能生駅の駅員も知らなかったのなら切符特急券も売っちゃってたのかな?
実際には性能を落として騙し騙し使っていたそうで
はつかりの増結も輸送力増強よりはむしろエンジンを増やしてカタログ出力強化が目的。
何しろ5分全力運転したらもうニュートラル運転しないとエンジンが焼き切れるなんて特急の恥でキハ40系より悲惨
キハ80系をベースに高山線直通用に
作成されたのが、名鉄キハ8000系ですね〜。
乗ってみたかったな〜。
確かに車体はそうかもしれませんが、名鉄らしい転換クロスシートで、足回りは完全に急行型キハ58系がベースで、スピードも「ひだ」のキハ82形には敵いませんでした。
@@坂田庄司-g6n 頑張ってフルパワー出しても、せいぜい時速90Km程度でしたね
それ故に?初代プレステの「電車でGO!名古屋鉄道編」で再現出来た点が挙げられますね😅
当時小学生だった私は、北アルプスに乗るお金も無く、間合い使用の神宮前発津島行きの特急に乗ったのは懐かしい思い出
「初期故障」なる言葉が一般に知られる様になったのは、このキハ81のトラブル報道からだったとか。
尤も似たような失態、京浜東北線の電車運転開始を確か将軍の凱旋式典に合わせようとして、電車全く動けずとかもあったし、最近だと山手線で試験中だったE235系でも。
0:43~0:57
今では床下に搭載している蓄電池でモーターを駆動させる車両もあるね。
JR東海HC85系ですね
HC85系などハイブリッド車は電車では無く気動車に分類されますが、蓄電池車は電車になります。似ていても分類上は別物です。蓄電池車と言えば、現在はJR九州のBEC819系やJR東日本のEV-E301系やE801系が蓄電池車で、バッテリー容量があればパンタグラフを上げなくても電気で走行でき、電車に分類されます。
キハ82のウンジンエンジン音が懐かしいです~まだ南紀号がくろしお号と呼ばれていた頃キハ81型が先頭に立っていて名古屋駅11番船に止まっていたのをみたことがありますかつて東北本線はつかりでデビューしブルドッグの愛称がありました最後は和歌山機関区に転属して紀勢本線のくらし応号でラストになり1978年に引退しました。現在は京都鉄道博物館ひ保存されています
昭和55年ごろ常磐線の平行き、鈍行列車として早朝走っていて、特急券買わずに乗れるの嬉しかったこと思い出した、懐かしい、気動車だったんですね、ひたちはすべて電車だと思いこんでいましたがたしかにひたちのなかでもこのタイプレアだったので、旧式なのかと思ってました
道民のおっさんです。定期運用末期に全列車乗れました。おおぞら・おおとり・北斗・北海・オホーツク… 在来線の昼行特急で最後の食堂車体験もこれでした。
引退直前の臨時北斗も乗れました。キハ183-500と同じ回転リクライニングシートに交換されてて快適でしたね。
ひだ・南紀は乗れず。ただ、乗りに行ける頃には正直魅力的では無かったので… よりによって、117・185系と同じ転換式クロスシートになってたので orz
初めて乗った気動車特急がキハ82系南紀、懐かしいです!キハ85系南紀に代わった時早くて驚きました!👍👍
ちなみにですが、紀勢本線で活躍した、キハ81「くろしお」ですが、常磐線の「ひたち」で活躍したものを充当しました。運転室屋根部にアンテナが取り付けてあったものを、撤去し、アンテナ台枠だけ残して、そのまま「くろしお」
として、運用しました。
ブルドッグよく1両だけ残ったなぁ…
こういうのはキチンとやらないとあとあと大変な事になる
特に後継のキハ181系だと出力を450馬力あたりに抑えて冷却系統の大幅強化(床下設置のみ)などしてれば…
ましてや戦前設計なんて、絶対に壊れること前提にしか見えない…
あの当時自動車用ターボでさえはインタークーラーが無い時代でしたからね、熱のリスクが大きい車両を東北一暑い区間に走らせたのは馬鹿げてました。
@@maruhiroya417 というか自動車用ターボって1979年に出た日産430セドグロのターボが最初なんじゃないんですか?
@@asokai2346
海外も含めてという事です、海外だと既にシボレー•コルベアにターボがありましたから。
キハ181系のDML30HSと同時開発されたDMF15HZエンジンにはインタークーラーが付いてました(国鉄時代のディーゼルエンジンの型式末尾のアルファベットZはインタークーラー付、Sはインタークーラー無しの過給器付という意味)
@@maruhiroya417 bmw・2002ターボが一番最初だったと思うんですが。あとコルベアって1969年に製造終了した車ですか?
新幹線の愛称募集でメッチャ人気だった「はつかり」が採用されないのは、このキハ81のトラウマがあるのも一因だと思う。
キハ81に限らず暖かい山陽や九州を走っている583系、関東を走るE653系ベースのE751系も「はつかり」で導入されてトラブっているしね。
幼少期特急くろしおで乗っていました。黒煙が凄かった記憶があります!
キハ82系事故といえば昭和47年3月の特急おおぞらの排気管の過熱での火災事故、昭和57年の特急オホーツクの作業員の手抜きでの脱線事故ですかね。
最後に乗ったキハ82系はナゴヤ球場ナイター輸送だったの思い出した
仮設の「ナゴヤ球場正門前」駅でしたっけ?
中央西線か東海道線の車内から停車しているキハ82系が見えました
乗っておけば良かったと後悔…
DMH17Hと言う非力なエンジンのまま最後まで走った気動車特急でしたね。
特急を走らせる計画を早めるのと旧国鉄の財政事情が厳しいと言う事もありエンジンが新型にならなかったのが惜しまれます。
千葉で大出力エンジンのテスト(キハ60系)を行ったがうまくいかなかったと聞いた事がある。
新しいエンジンを開発しようにも、サヨクな奴らがギャーギャー喚いて世論を煽動する時代な事も一因?
@@N--jv3goさん
エンジンも液体変速機も過給機も、全て周回遅れだったからね。
但しキハ60系がモノになってこれベースの特急車(キハ81系の当初設計版)が出来ていたら
世界最高水準のディーゼル特急になっていたのですが。
何しろ400×8=3200馬力ですからね。
ちなみにキハ181系最大の失敗は技術力以上に投入線区からして間違えていた事です。
実際屋上ラジエーターはトンネルのない平坦線を高速走行する分には最高の能力が発揮されるのですが、トンネルだらけの勾配線区では熱がこもって全く冷えない、と言う構造上避けられない欠陥があります。
またギア比も高速よりですので
むしろ平坦線を電車特急以上の速度で走るのに適した車両でしたね。
もっとも晩年は223系新快速との性能差が大きくダイヤ設定には難儀してましたが。
中学生の頃、この車両の晩年の運用であった「くろしお」での活躍を見るため、天王寺駅に良く足を運んだものです。良くも悪くも国鉄時代らしいデザインの車両ですが、個人的にはこのボンネット型の特急車両は大好きです。ほんで、キハ82の「白鳥」でのトラブルの新聞記事の見出しの、「瀕死の白鳥」って、笑ろたらアカンけどオモロすぎる。
鉄道は全然詳しくないけど子供の頃あさしおによく乗ったディーゼルエンジンのあの音は心地よかった
運転停車してて偉い!
同じボンネットスタイルでも華麗な151系と比べてみると不細工
でも、それが「ブルドッグ」の愛称に繋がり親しまれた訳ですからキハ81も中々の人気者
貫通形キハ82は大型のパノラミックウィンドウを採用した洗練された前面デザインで現在でも非常に人気があります
キハ82気動車は、今見ても素敵な先頭車両。パノラマウインドウはとても美しい。今の時代に電車として、リバイバル復活して欲しい。
@@マゼラン銀河-b6vさん
実はあのガラス、名鉄パノラマカーの前面展望室ガラスより値段が高かったそうです。
理由は平面の名鉄より曲面の方が難しく歩留まりも低いから
能生はいわゆる地下鉄みたいなトンネルばっかしの
新線になる前の駅だった。
つまり頸城トンネルや地下鉄駅みたいな筒石駅もまだなかった。
そもそも発端がその筒石駅付近が地滑りして列車ごと流され
ちゃったのが理由。
ちなみに白鳥のためにEF63のジャンパー線のチャンネルに
キハ82用チャンネルが付いていた。
現在の能生には道の駅マリンドリーム能生が立地してて、地元の海洋高校の訓練船や紅ズワイガニの直売所が並んでる隠れたスポットになってます
長距離ドライブの際には是非とも
キハ81系は
ある番組で知っていました。
キハ81系のはつかりが
「はつかりがっかり」、
「事故ばっかり」が
出ていました。
キハ82系でも
事故があったと
思いもよりませんでした。
それに
山之内秀一郎氏が
画像に出ていたとは。
瀕死の白鳥
ですね
子供の頃、父の実家に帰省するときに京都からキハ82系の特急あさしおを利用していました。京都から福知山までの短い区間の利用でしたが、思い出がたくさんあります。
この当時山陰線京都口の特急、急行の本数が少なく、あさしおの指定席を取るに両親が大変だったことを覚えています。
このあさしおは、1日に京都~米子1往復、京都~倉吉1往復、京都~城崎(山陰線のみ経由と舞鶴線、宮津線経由各1往復)を計4往復する列車だったと思います。
1982年に伯備線が電化されたことで特急やくもに使用されたいた181系が、余剰となりそれに置き換えられました。
子供の頃、茅ヶ崎のあたりの50mくらいある踏切で、踏切待ちをしている間に犬顔のこだまと初期型の新幹線が走っているのを見たことがありました。
あの犬顔の列車は凄く憧れていましたね。
何故なら、上野から山形に行くやまばとは、ああいう格好いいものは無かったからです。
やまばとはディーゼルでしたが、あのこだまもディーゼルだったのですね。
個人的には電車よりもディーゼル車両の方が好きです。
走り出す時、電車は「ガクン」というショックがあるのに対して、ディーゼルはそういうショックは無くて徐々に走り出す感じだったからです。
でもやっぱりディーゼルはパワーが無かったのか、やまばとは途中の登り坂で機関車を2台で押していました。
6:50 1960年に東京でアジア鉄道首脳会議が開かれる事に前年秋に決まったことで特急型気動車の製作が決まった。
その会議に間に合わせるように特急型気動車を製作しろと当時の十河総裁が指示をしたのだが、DMH17に代わるエンジンと液体変速機の開発に時間がかかり計画より大幅に遅れ、やっとのことで1960年1月にキハ60系が登場して実車試験を行う事態に…会議が行われる10月までに試験の結果を基に特急型気動車を製作するのは時間切れとなったために既存の技術を使った特急型気動車キハ80系が製作されることになった。
「架線」のことを「がせん」と読む諸兄もおられますな。
河川と区別するため、がせんと発音するそうですな。
この車両、リアルタイムで動いている姿は見たことがありません。ボンネットタイプなど、いかつい独特の姿ですね。一両でも保存されているのは奇跡です…
キハ82は三笠鉄道記念館クロスフォード公園に現役当時を彷彿とさせる長さで保存されてるよ
実は36.10でキハ82系を使った四国特急を設定するはずだったのですが、初期故障対策で予備車を多く確保しておく(だから「ひばり」「みどり」が不定期列車として誕生した)必要があった事で没になったのでした・・・
キハ80系の性能を考えると、智頭急行とJR西日本をまたがって走る「スーパーはくと」は気動車の究極型特急車両ですねぇ。
一度乗った事ありますが、
確かに、ディーゼルとは思えない、走りっぷりでしたね。
速い。
キハ81系桶川市の親戚の家で見た記憶がある 小学生の頃「いなほ」だと思います。キハ82系に乗車したことがあります。昭和時代、国鉄時代 「北斗」「南紀」です。
くろしおはブルドックからパンダになりましたね。w
イルカにも化けましたから
昭和44年の夏に父の田舎の山形に行った時に乗っていたようです。当時4歳の幼稚園児でしたが、上野駅で乗車前に記念撮影してわかりました。
まだ特急が本当の特別急行だった時代、キハ22やキハ56.旧客ばかりのホームに颯爽と入線してきた82系13連…子供なら誰でも憧れましたね。
大きなブルーがかった開かない窓、タイフォンも上品な音でした。
今でも私の中でのディーゼル特急の第一人者ですね。
能生停車の糸魚川快速ですか?それならば懐かしい。最期の頃新潟で並んでグリーン自由席に乗りました。
柏崎~新潟がピッタリ100キロなので何回かグリーン車に乗りましたな。最後に乗った際は満席で、グリーン券を持っているのに、車掌から退室させられました。(ヽ´ω`)
この車両(先頭車のキハ81)は、トイレが、車両の中央にあったことが特徴でした。そのために、ときに、乗務員と、鉢合わせになることもあります。自分自身が、トイレを利用することがわかってしまい、気まずい思いをすることもあります。もちろん和式で、垂れ流しであったので、使用することを躊躇してしまいそうです。そんな私も、スカート男子として、女子同様に、腰かけてしています。洋式でないとできません。しかし、国鉄時代の列車トイレは、ほとんどが和式でしたので、長時間の乗車で、幾度も、和式トイレで、しゃがんでしていたことを思うと、洋式トイレのある、いまの列車は、とてもありがたいです。自分自身も、多機能トイレの利用者として、普及を進めていきたいと思います。(23-02-16)
本来トイレを設置すべき場所に売店を設けたため、キハ81は客室と運転室との間がトイレになりましたね。
DMZ17エンジン搭載車の液体変速機は直結段(自動車用トルコンでいうロックアップ)は付いていたがオーバードライブは付いておらず車軸1つのみ駆動、試作のキハ60(DMF31エンジン搭載)では液体変速機に直結段が2つあり(直結1がロックアップ、直結2がオーバードライブ)車軸2つを駆動だが、量産に移せず。エンジンだけでなく、液体変速機や逆転機といった駆動系の開発の遅れもスピードアップの足枷になっていた気がします。
元々キハ80系はDMF31HSAとDW1を使う予定でしたが、これらの不具合を解決できなかったので、仕方なくキハ55に習った構成になりましたね。
ちなみに同じ直結2段のDW14もオーバードライブはありません。その代わり、直結2段より減速比の大きい直結1段を設けてエンジンの出力を有効に使うようにしています。
典型的日本あるあるで
最初の性能は世界水準以上を目指し、図面上では世界最高水準だが
実物は周回遅れ
ですからね。
もしキハ60系モデルの車両にしていたら
400✖️8=3200
又はインタークーラー取り付け、もしくは過給機の性能向上の上
500×6=3000
と言う世界最高水準のディーゼル特急が誕生してましたね。
キハ82系は1970年代に長野へ行ったときに15:55発の特急「しなの」と、同じ年代の特急「白鳥」しか知らない。
長野でのことは、16:00発の急行「とがくし」に乗るときに見たものだ。
50代前半ですが、81も82も1度も乗ったことかなく、写真だけでその姿を知らないです。でも国鉄色のカラーリングは他のどの車両よりも格好良かったと思います。
キハ80系は、人生裏街道というか、151系こだま・富士の華やかな鉄道人生に比べて、地味な生涯だったと思う。151系は東海道・山陽本線・鹿児島本線の鳴物入り花形であった事に対し、80系は常磐線・紀勢本線・羽越線等、どちらかと言えば脇役路線。82系は全国を網羅したが、短命であった事と言い、時代の狭間で光の当たる事は少なかった。それに80系の走行時のやかましさ、軽油の臭い侵入、気になりました。
性能面でもパワー不足とエンジンの不調、ガッカリ特急と揶揄されても仕方ないほど。国鉄は特急電車や電車急行、快速、通勤電車には力を入れたが、気動車は地方線区で、設計・制作が甘かったと思う。例えば80系はつかり、くろしおにしても、ブルドック顔で高運転台にして、踏み切りのトラブルの視認を良くしたり、前方視界を確保しているが、車掌は単線区間でタブレットの交換が座席が高い位置にある為、大変な苦労をした。エンジンの稼働率の悪さも含め、国鉄本社の机上での草案が優先され、地方線の実情を考慮されてなかった。コレも国鉄が東京本社が圧倒的に権限を持ち、地方は発言権が無かった表れだ。この体質から、結局国鉄は潰れた。
ディーゼル車の出発時の爆音、そして煙をモクモク吐いて、その割にほとんど動かず、しばらくしてからゆっくり動き出す
続き) 常磐線にしろ、紀勢本線にしろ、羽越線、何処もかしこも電化されました。それなら、機動性や速度には劣るがディーゼル機関車2輌付けて、特急用客車牽引の方が無駄な開発費は要らなかったのでは無いかと思います。
@@枝豆とビール-o4hさん
それも無理です。
と言うのは貴殿の方式を取るには1500馬力以上の大型エンジンとそれに対応した駆動装置が必要ですが、そのどちらも日本では開発に失敗(特にエンジン)し、貴殿の方式を取るにはDF50MAN型を2台連結した車両にぢ、かつ編成両数を短くするしかなく、これでは輸送力が大幅にダウンします。
一応1500馬力級機関車は試作のDF93が有ったのですが、これも軸重問題で量産化は 2:23 断念しています。
つまり日本のポンコツな内燃機関技術と液体変速機を前提にするならキハ81系のあの方式しか勝たんわけ。
ちなみに諸外国では貴殿の方式を用いた高速特急車はあり、特に西ドイツVT601型は世界最高水準のディーゼル特急でしたが、これも編成長をはつかりの2/3、更に定員をはつかりの一等車と同じ定員に制限してやっと実現した代物。後年長編成化されて観光特急に転用後は故障を乱発して引退を余儀なくされてます。
但し貴殿方式は国鉄時代何度も構想にのぼってはいます。
国鉄は鉄道用ディーゼルエンジンの自社開発にこだわりすぎだったのではと湯口徹氏がおっしゃってますね。実際気動車用エンジンは10t積みトラック用のエンジンの多少パワーを増したもの程度であったようですし。
キハ81形ブルドックに代表されるキハ80系初期型は、「はつかり」→東北本線電化、「つばさ」→キハ181系へ置き換え(後奥羽本線電化)、「いなほ」(間合いで「ひたち」)→羽越本線電化、「くろしお」→紀勢(西)本線電化、という具合に、配置、転配の度にその幹線を即電化させるという皮肉な結果(模型の取説の解説より)になったが、颯爽と登場した151系電車「こだま」形のスタイル、車内設備を踏襲し非電化でも特急としてのステータスを十分に発揮し国鉄の特急車両の標準を確立させたのは事実。ただ国鉄の運用、「つばさ」(最終はキハ181系)の電車化による間合いの「あおば」の廃止、「にちりん」の電車化による「おおよど」の廃止と、運用上やむを得ない理由でも、DC特急でも利用率の高い特急を廃止した事例、もう少し何とかならなかったか。廃止された後はキハ58系の急行だけではさすがに特急の名残は浮かばなかった。
短期間でのつばさ運用からの撤退は、板谷峠の関係で増結出来なくて、キハ81の定員が40名キハ82が52名で1編成24名の差は7両編成(内1両は食堂車)では大きく、数ヶ月後の181系化を待てなかった結果ですね
昭和40年代生まれの自分ですが、このボンネット型は見たことがありません。この列車が登場するまで日本中で当たり前のようにSLが走っていたと言うのが信じられないですね。今からせいぜい6〜70年前の事なのですが…。今でもJR北海道で気動車特急が不具合を起こしたりしますし、気動車というのは技術的に難しいものだと言うのが再認識されます。
80系気動車は何とか走っていた。
東北線の電化前、上野⇔黒磯間には急行のキハ55(MAX95㎞/h)が走っていた。例えば、キハ55の10両編成だと180PSのエンジン20基で、冷房もないのですべてのパワーを走行用に使えた(360PS/1両)。
しかし、特急のキハ80系(MAX100㎞/h)が登場すると、冷房や食堂車用の電源を載せるため、重量も増加し、同じ10両だと走行用の180PSエンジンは16基くらいなので、編成全体ではパワーダウンを起こしていた(約290PS/1両)。当然キハ55の方が足が早かった。
そんなところで、さらに電化したものだから、ここに115系普通電車(MAX110㎞/h)を投入したので、電車の加速力はものすごく(約500~600PS/1両)、単純な所要時間のみだと、普通>急行>特急という逆転現象が起きていた。
これを何とか優等列車は、駅を通過させることで、ごまかして、対処していた。
新型エンジンを積んだその後の181系気動車も、パワーアップはしたものの、これも未熟で安定性等に欠け、よくオーバーヒートなどを起こして立ち往生をした。
本格的に電車並みの性能の特急形気動車が登場したのは、90年近く頃に登場したJR東海のキハ85系からである。民営化により高性能のエンジンが自由に手に入るようになったからだ。
151系こだまがボンネットの中に騒音の元になるサービス電源(MG)やコンプレッサーを収納して客室の静寂性を確保していたのに習ってキハ81も発電用エンジンをボンネットに(枕木方向へ)横置に収納したためブルドッグのような顔になってしまいました。ですが元々気動車なので発電用エンジンだけ客室から離しても大して意味は無く、キハ82以降は床下に戻してしまいました。しかし後のキハ181やキハ183は常に大爆音で回り続ける発電エンジンがかなり耳障りだったのでブルドッグの設計には多少なりとも効果があったのかと思われます。
特急白鳥は、北陸線初の特急列車でした。夕方5時頃に福井を通過して大阪に向かっていきました。女王白鳥は、青森白鳥と信越白鳥を連結した堂々たる長編成で圧倒する美しさでした。この白鳥の停車を巡って、動橋駅と大聖寺駅の激しい争いが起こり、上りと下りで停車駅を分けると言う前代未聞の措置が取られました。結果的に中間の何でもない田舎の駅だった作見駅が加賀温泉駅に変貌するきっかけになり、両駅につながっていた北陸鉄道の加南線の廃線をもたらしました。ついには両駅とも無人駅となって衰退しました。動橋駅のホームなど、白鳥停車していた名残からホームが長いです。ここに白鳥が停車していたなど想像もつかない寂れようです。白鳥も夢の跡。
大阪~直江津間は食堂車が2両!食べ比べをした人もいたとか。(*´・∀・)
実際にはどっちか忘れましたが雷鳥新設事に上下統一されてます(白鳥が通過する駅に雷鳥が停車する様になった為)
子どもの頃「はつかり」に乗りました。
水戸で壊れました(>_
大阪の交通科学博物館のキハ80系が懐かしいです。交通科学博物館ではデッキだけでしたが中に入ることができて、古い車両の香りを楽しむことができたことが懐かしいです。
天王寺駅1番ホームに入線するキハ81カッコよかったな。
同じ年にデビューした、東武1720系DRCの方が性能・内装も素晴らしく誰もがブルーリボンは、東武DRCだと思ったら、受賞は初の気動車特急と言う事で、キハ81ブルドックに成りその後、東武はDRCの置き換えの時に、スペーシアを本気で作ったと本に書いて有りましたね🤔
実はDRCの時はローレル賞は通勤車限定でした。(ローレル賞が特急車も対象になったのは西鉄2000系から…。)
@@meckey1939さん
厳密には西鉄2000系は通勤車扱いでした。
エンジン不調はヤバいて
一目惚れしました🎉
運転停車についてですが、手動ドアの列車の場合は運転停車の概念はなく、列車交換のためなどでとまる場合は、通常普通しかとまらない駅でも停車扱いでした。
具体例で、広島県の山陽本線瀬野駅では、上り列車のみセノハチ越えの補機連結のため特急や急行が停車していました。
秘境駅で有名な宗太郎駅に急行「高千穂」が停車していて、乗換なしで東京駅と直通できていたと言う。
上越線の客車急行は水上駅の補機連結が深夜の為に運転停車だけど駅弁売りが来たそうです
電気を御飯には、中々でしたが、はつかりは、不名誉な伝説が、伝わってるんだなぁ?、試運転をろくにしなかった、嫌、出来なかった、いきなり、長距離に駆り出されて、はつかり、事故ばかり、がっかりってのは、まことしやかに伝わってますわ、本当に火を吹いたりして、
試運転期間が短く営業運転始めた直後には車両トラブル多発、本来なら試運転期間は
最低でも3年間はしなければならない。試運転期間中にトラブルがあれば改善して
起こさないようにする、これが本来のやり方です。
国鉄ディーゼルカーがあまりにもひどかったので、JRになってからのディーゼルカー・キハ85系に乗った時はあまりにも衝撃的だった!
キハ110系も始めて乗った時は驚いた、車内設備はともかく走行性能はキハ58とは別物であった。
ふてぶてしくて、押し出しが強い。国産鉄道車両としては珍しいタイプですね。
北海道で函館、札幌間を北斗、九州で人吉、宮崎間をおおよど、に乗りましたね。
北斗は、もうシートもへたれていたけど、函館本線、千歳線を飛ばしていました。
当時は周遊券で無料の急行乗車が当たり前にの身には、特急は心地よくて
寝てしまいましたね。 おおよども、肥薩線のループなんか、あんまり気にならないほど
快適で、寝てしまいました。四国で181系にも乗りましたが こちらは65系同様エアサスで
さすがに快適度があがり、やっっぱり寝てしまいました。 当時は特急は最優等列車で、
たとえ貧乏学生でも、特急の客、には車掌も丁寧な扱いでしたね。
エンジンに関してはネコ・パブリッシング社発行の「キハ07とその系譜」の中で客車気動車研究の第1人者の故・岡田誠一先生が当時のエンジン設計の担当者であった故・北畠顕正氏に取材をしておられまして、その中に於いて『戦後の気動車のディーゼルエンジンは元々キハ43000型の横型気筒エンジンのDMF31Hと言う240PSの物を使いたかったんだけど、既にエンジン自体が大陸に渡ってしまっていて国内に無く、また図面も散逸してしまっていたので新規で作り直すと最低でも2年はかかる事から、早急な無煙化の為に古く出力不足ではあったけど図面があって予備部品も幾つかが存在していて広く普及していて製造・整備がしやすいDMH17に落ち着いたんですよ。』と言う事を語っておられた事から、既にキハ81系列に搭載するには出力が小さかった事が否めなかったのは間違いなく、それこそ全車を2エンジン搭載にしないと所定の性能が出せない所に「グリーン車と食堂車は冷房、グリーン車は1エンジンまたはエンジンなし、食堂車はエンジンなし」と言う上からの指令があった為かなり無理をして設計をしていたと言う事がキハ81のエピソードとして語られていたりします。
その為電源用エンジンを両端のボンネットに入れ何とか電源とエンジンスペースを確保し、グリーン車も1エンジン化する事で体裁は取れた物のいざ運転をして見ればエンジンを100%出力稼動をさせないと不可能(通常の常時使用出力は最大値の75~70%)で、これではエンジンが潰れるのは見えていたと言うのが実情であり、アジア鉄道会議が日本で開催されていて海外へ売り込みたいと言う思惑もあってかなり勇み足で開発された事がキハ81にとっては不遇になった原因ではないかと思います。
実際キハ81を担当した青森局ではあまりの故障の多さに毎年局で参加していた恒例のねぶた祭りへの参加を見送ってまでこの車両に向かい合ったと言う点では現場を知らない財務担当のせいで色んな不遇を回りに与えたと言う悪い見本ではないかと思います。
色んな失敗と無茶に振り回されたキハ81系列の技術的克服をした物がキハ82系列であり、その両者の終焉の地が紀勢本線(キハ81はくろしお、キハ82はくろしお→南紀)で終えられた事には何か因縁や運命を感じる物がありますよね。
鉄道ピクトリアル2023年10月号の特集は、キハ82ですね⁉️❤😂
先頭車は、キハ82が好きだな。
あと80・82系共に初期の近代動力車にありがちな老朽化の早さってのがあったなぁ。同時期の101系や111系にも同じこと言えたけど、初期の新性能電車&気動車は老朽化がクッソ進行が早かった印象が強い。後年115系がメチャメチャ頑丈に作られるようになったのも、101系や111系の老朽化があまりにも早すぎたからという理由で鋼体の強化を施してたぐらいだし。今現状残ってる115系は、良く28年で国鉄型車両は廃車にするように設計されているとは聞くけど、あれでっち上げだしね。115系後期車は立派に40年ぐらい生きてるし、まぁ嘘なんだなぁとは思う
動力車だけでなく客車も、でしょうね。10系は下降窓からの腐食が早く廃車が相次ぎ、逆に車体が重くエンジンが非力で自家用車以下の走行性能と酷評された40系気動車がエンジン挿げ替えで却って長命を保つ。まあジュラ電みたいに雨に打たれただけでイオン化傾向による腐食を起こす恐ろしい車両も在りましたが。simple is best.がすべてではないけれど、公共交通のための最小構成は在るし、ソレは如何に経費理由があっても無視して欲しくない。81系のトラブル群は会議成功のためのメンツが原因だったのかなあ。本来なら潤滑の悪い横型エンジンを熟成もさせずに使わんでしょうに。
@@wataken8527 あとはですね、同じ同一形式を20年近く延々と作るのも問題があると言えます。技術的に遅れを取ってた国鉄ですので、103系や115系と言った電車を20年近く作らざる負えない状況になってしまったのかもしれませんが、1974年を境に新形式の登場をしなければ本来はいけなかったのに、やれ労組が怖いだ政府がうるさいだと抜かし、近隣私鉄がどんどん最新技術を搭載しているのに国鉄は未だにMT54やMT55に満足して新型モーターや制御方式の採用を見送ってたなんてよく聞く話ですが、しょうがなかったと言えばそれまででしょうが、私的には103系や115系は1970年代前半に製造終了して、新時代の通勤・近郊型電車を作るべきだったと思います。あと台車関係の事を語りたいのですが、これ語ると長くなるので割愛します。とにかく、色々と突っ込みどころ満載ですね。
181系【とき】はS40年代後半に雪害で痛めつけられて183系への置き換えが進みましたが、同じく上越国境を越える165系はそういった事もなく、平成までローカル運用などで生き延びましたな。急行【アルプス】の運転士は貫通扉からの隙間風で寒い!(ヽ´ω`)とか言っていましたな。
20系電車(後の181系)は軽量化の為に薄い高張力鋼板を使用して腐食に弱かった様です。豪雪地帯の運用で老朽化が早まり、上越新幹線開業が待てずに長野で廃車予定の181系も含め、少しでも状態の良い車両を残し(結果M'Mユニットがバラバラになった車両も)初期車を中心に183系1000番代へ置き換えられました
@@クモハ165 165系は過去の新型国電の老朽化を見据えて鋼板を改められてるので、157系時代のような老朽化は特にはないと思いますよ。あの車両、上越線で使えるように設計されています。
小学校だったか子供会やったか…遠足で交通科学博物館に行った時にはじめて「惚れた」って言う鉄道車両でした。
当時ははつかりがっかりじこばっかり~なんてのも知らんかったけど(笑)ボンネットの中の発電セット見れた時何か言いようのない感動があったのも覚えてる。
まぁ確かに故障多かった車両なんですけどキハ81に会うてへんかったら多分今のあたしはなかった、と思う。ここまでメカ好きにはなってへんかったなぁ、と。
幼い頃のDC 『くろしお』の記憶は確かにあるが、実際見たのはいずれも『貫通扉付き』のキハ82系で、『ブルドック』の存在はずいぶん後から知った。確かに形状からして編成上の応用は利かず、乗員運用が限定されるのは避けられなかったワケだ………………
乗れはせずとも、せめて一度は走る姿を拝みたかったものだよ。あまりにも勿体なかったな……………
懐かしい…と思っていたら181系じゃなかった……(1973年生まれ)
ブルドッグはカッコ悪いが味がある、今の殆どの鉄道車両と真逆だ。。。
キハ81ブルドッグには、現役時代のくろしおとひたちで乗りました。
81系には乗車出来ませんでしたが
82系は
まつかぜ はまかぜ
くろしお 南紀に乗車しました。
3時間以上の乗車は
かなりきつく感じましたね?
この顔が1番好き
ボンネットタイプのブルドック顔がアムトラック(メトラ)のディーゼル機関車F40PHシリーズそっくりだな。
特急なのに自転車より遅いと言われていたキハ81は子供ながらにショックでした