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法正の政略が見事にハマった感じです。法正病死しなかったら、また違った歴史になってたかも。すごいプレッシャーだったのも考えると
大分以前にリクエストしていた定軍山の戦いの解説がとうとう来て感無量ですね。劉備と曹操のガチの決戦だけに参戦してる武将の豪華さが際立ちますね。劉備のキレキレっぷりも凄いですが、古参の武将を失いながらも、メリット、デメリットを比較して、全軍撤退の決断を下して、軍にこれ以上、致命的な損害を与えなかった曹操も流石だと思いました。逆に劉備はこの後、私怨に囚われ過ぎて引き際を見誤った結果、夷陵の戦いで国が傾くほどの損害を出したのが対照的ですね。ただ、曹操に対する漢中の重要性と劉備に対する荊州の重要性が違い過ぎるので、比較は出来ないかもですが。
ただここで劉備が冷静に損得勘定で決断を下せるような人間なら、劉備は英傑としてここまで語り継がれたりはしなかったでしょうし、こういう点も含めて「劉備」なのかなぁ、なんて(笑)
孔明が自らの遺体を埋めろといった場所も定軍山蜀にとって象徴的な場所だったのかもしれません
ですね。ここから蜀漢が始まった、みたいな意味合いもある戦いだったんだと思います。
定軍山は、孔明の墓があると同時に、魏将夏侯淵が落命した場所。後に蜀漢に降った夏侯覇は、この地をどのように感じたのだろうか。夏侯覇にとっては、父親の墓としての意味合いもあったりして…。
夏侯覇は、その境遇を考えるだけでも色んな解釈できる人物ですよね。
劉備がちゃんと自分の地盤で将兵を持ったらこうなるってのが見れた気がする定軍山は
蒼天航路でのこの戦いはやはり夏候淵が劉備に一太刀浴びせるシーンが印象的ですねそして馬超と張飛が案外ウマが合っていたのも笑えましたw
法正を抱きしめる劉備好き
@@KOUMEI_NO_WANADA 軍才では孔明凌ぐ人ですから損失デカすぎましたね~😭
演技などで語られる品行方正な劉備。立派ではあるけれど昔の人はそういう人の為に命を賭けていたのだろうか?という疑問があった。しかし蒼天航路の劉備なら分かるという気持ちになりました
特に言ってる人もいないようなので補足しときます。20:52 ここで突然劉備軍が盆地内に現れますが、陽平関を迂回したんですね。「二十四年春,自陽平南渡沔水」(先主伝)陽平関は街道から盆地への入口ですから、守る方としては多対一で戦えました。夏侯淵からすれば突然背後を取られた形になります。あと無視されがちですが、この戦いにおける功労者の一人が楊洪です。彼が益州をまとめ上げ補給を送り続けたことで劉備は戦い抜くことができました。逆に魏は漢中派遣の部隊が反乱を起こすなど(張儼伝)、混乱が生じています。
魏軍は逃げたとき、楊修の言葉聞いときゃよかったなんて話もあった
横山光輝の三國志では夏侯惇が撤退した時に頭の中で楊修の残存がよぎったシーンがありましたね。夏侯惇したら何故、殿(曹操)は楊修の意見を素直に聞かないで殺してしまったんだと心の中で思ったんだろうな。
漢中攻略戦は芸術的、緩急織り交ぜる劉備の用兵の局地とも言えますね局地的な敗戦にも動じずかえって状況を有利に進めて夏侯淵駆逐後はブレることなく要塞保持を貫く。その強靭なメンタルも凄いです
鮮やかさすら感じてしまいますよね(*'ω'*)
漢中王劉備。あの頃は良かった…。(遠い目)
ここから数カ月後に、国運が暗転。
一番乗り。やはりこの定軍山の戦いが劉備軍のピークだったと言えよう。後に諸葛亮が埋葬されたが、蜀滅亡の時諸葛亮の胸いかなる思いが胸中をよぎっただろう。
この定軍山は、孔明の墓にまでなった程の場所だから、きっと姜維の北伐にも重要な役割を果たしていた事は確かでしょうね。たぶん姜維は、北伐の度に孔明の墓をお参りしていたものと推察します。
定軍山や漢中をめぐる戦いに出てくる将達の魏蜀のオールスター戦感過去に演義被害者の動画で定軍山の戦いの事にチラッと触れていた話が今回の動画で理解できた
曹真・曹休の名将コンビ来たァァァァァァッ!それと兗州攻防戦をお願いします。
歴戦の名将、劉備の脂が乗り切った戦遂に宿敵曹操を打ち負かし、関羽も北上を始めており劉備軍団としては絶頂期…劉備の悲願達成まであともう少し
本当に、ここからなんだよ、ここからだったのに…
この動画を拝見しながらふと思った。こういうのを「好事魔多し」と言うのだろうと。
上手く行った後ほど、その後の揺りもどしも大きいですからね
玄徳が関羽を失うのと曹操が夏侯淵を失ったのは、同等だったと思う。しかし玄徳にとっての荊州は、曹操にとっての漢中の比ではなかっただろう。
横山光輝三国志だったか、人形劇だったか…両軍が向かい合った時、いつもなら吹けば飛ぶような小勢で戦い(逃げ)抜いてきた劉備軍の陣容が、その恐るべき曹操軍と対等の強大な勢力として対比する描き方をされていて、とうとうこの時が…と感動しました。夏侯淵、戦乱の中ずっと生き残ってきて大丈夫だったからいつも勝ってきたとおりにやったのだろうけど、自分を殺すためにコレだけの準備が行われる存在になっていたという事は中々理解できないのかもしれないですね。同じ年月生き残ってきた劉備からしたら、それが手に取るように分かったのかも。そして、同じ様に劉備軍の宿将も間もなく失われることになるわけですが…関羽と並び立てる将などいるはずもないとは言え、難しい地域でたった一人に全権を委ねてしまうような人事もなんとかならなかったものか…
横山三国志を観ていた幼い頃は「張郃ってしぶといやられ役だな」みたいにしか思ってなかったけど、改めてみると長い間に渡って奮戦してきた随一の名将てすね。魏の武将の中でも今は大好きな武将です。初めて光栄三国志やった時は曹操が死んだ時、良くわからずに夏候淵を君主に据えた思い出。
蒼天航路の張郃見て歴戦ってすごいと思いました負けて戦死したら名将だったとしても挽回できる次はないわけで、、
関羽は気がはやりすぎたなこの関羽の敗戦が蜀滅亡のきっかけになってしまった
よく言われてるけど、プライドが高すぎて、内務、外交がボロボロだったのが一番でかいかと。呉に突かれなければ間違いなく落ちてた状況で、呉蜀のいざこざに関羽と孫権の関係が悪いのに目をつけた曹魏が一枚上手だった。
夏侯淵は『曹操の援軍に劉備軍は押されてて戦況はこちらに有利!』と思っていて自分の首一つを虎視眈々と狙われてるとは思いもよらなかったんだろうな
ほんとこの心理に持っていくのが鮮やかすぎる
惇兄!約束の盃を揚げよう!
わたしの中では三国志の中で一番大好きな場面です❗やっと曹操に軍団対決での勝利、そして漢中王へ‥‥そのあとが悲しいですが‥‥。
この勝利があまりにも劇的なだけに、反動も大きすぎる…😭
黄忠が夏侯淵を討ち取ることができたのは曹魏史上最大の軍事事故と言えるが…征西将軍で戦線総司令官の夏侯淵は本営に鎮座せず、部隊を指揮して張郃を支援することもなく、自ら400人の騎兵を連れて本営の15里外に赴き、火消しと鹿角の補修の小さな仕事をしていたからだ…このような重要ではない小さな仕事は校尉に任せて解決すべきだったが、征西将軍は自ら400人を連れて出撃し、黄忠は近くの高地で、短い伏撃戦を直接完成させた。曹魏の騎兵400人が本営に戻った時、夏侯淵が死んでいることに気づいた。
歴代三国志ゲームで張飛の知謀数値はいずれも低い。客観的に評価すると、張飛が奇謀で巴西の戦で張郃を破り、葭萌関から江州まで無敗、長坂坂の戦で20騎殿後に曹魏大軍を阻止した功績による。正史にしても、『三国志演義』にしても、知勇兼備の武将である。ゲームで75程度の知略レベルを獲得するのは全く問題ないが、夏侯淵の50-60程度の知略は、明らかに高い。彼の最大の才能といえば、軽装部隊長を自ら率いて奇襲をかけることが得意だ。これは都尉、校尉、護軍将軍にとって極めて優れた才能だが、征西将軍になってからもそうすれば、自分と曹魏全軍に対する無責任だ。
曹操は夏侯淵と漢中を失った時、張魯を降した際に「この勢いに乗って蜀に攻め込むべき」という意見を聞かずに兵を引いたことを悔やんだかもしれない。
赤壁の敗戦を経験したし、内乱もあったから慎重論を取ったつもりが裏目に出たのがな若い頃なら、同時進行で内乱は曹休らに収めさせ、自分は最前線で蜀と対峙してたろうに
戦役の準備段階の話ですが劉備って自分の陣営内で特定の派閥が力を持ちすぎないように弱小派閥や新参が不満を持たないようにバランスを取るのが非常に上手かったんですね
バランスというか、皆がちゃんと劉備のために働くというカリスマ性が高いように僕は思っていますね。バランス面で言えば諸葛亮が苦心しつつも見事な手腕を見せてるイメージ。
劉備生前「主のため頑張る!」劉備没後「先帝のため頑張る!」この圧倒的カリスマ
いつも楽しく拝見しています^ ^定軍山の戦いは、最初で最後の劉備オールスター戦みたいな感じなので、ワクワクしながら解説を聞いていました(*゚∀゚*)bただ、この後が辛過ぎる(´;ω;`)
この後もまた後程、しっかり解説していきます…( ;∀;)
@@KOUMEI_NO_WANADA 動画はめちゃくちゃ楽しみですが、トラウマがえぐられそう(´;ω;`)
漢中王即位から樊城の流れは史実じゃなかったら鬱展開すぎるからな〜漫画やアニメでやったら総合スレが丸ごとアンチスレ化するレベル
張飛、馬超、趙雲、魏延、黄忠、、、本当に1ヶ所にこんなに揃ってたとしたら無理やん!?となってしまう
航空写真で見た陣の張り方で、見事に夏侯淵を誘い出したのが分かる……あそこに郭淮や徐晃がいたらもっと守りに適した陣にしてたんだろうになぁ……
定軍山関係ないけど黄忠伝読み返したら、若い頃太史慈と戦ってたんだね
劉磐とかいう孫策と太史慈を動かした暴れん坊
蒼天航路では曹丕が四友と相談して「鶏肋」言うて曹操にぶちギレられてましたね。しかし、曹操は『漢中を手に入れたときに蜀に攻め入っとけば。。。。』って後悔したのでしょうかね?浪漫があります。
そしてそこから「蒼天航路」、一気に怒涛のフィナーレへ。
天下三分の計の大前提である”荊州”を失った蜀漢がそれでもまだ首の皮一枚北伐の可能性を見出せたのは荊州北部、司州(長安)、益州の交差路であるこの漢中をギリ保有していたからなんですよね😗
荊州を失ったのは蜀としては大打撃だったわけだが、さらに悪いのは呉と同盟を組んで魏の国力を削って国力差を無くさないといけないのにその呉と総力上げて戦争した事かな。天下三分の計は三国の国力が拮抗してないと成立しないしな。中原という有利な土地を独占してる魏の弱体化が最優先事項。
曹操や劉備が使う分には有能ではあるけど、方面司令官にはするには何かしらの問題がある人物って扱いに困るよねこの戦いと次の戦いは夏侯淵と関羽のその弱点が完全に露呈して恐らく張飛もそれがあるから大守を魏延にしたんだろうから劉備陣営は劉備に代わって任せれる人材が欠けていたのが致命傷だったかもね諸葛亮は出来るだろうけど、留守番役やらせたいし黄権なら出来たかもだけど逆に呉はこういう人材に事欠かないからここからは蜀はやはり人材難で劉備(with法正)と諸葛亮の力で何とかした国なんだなって如実に出た流れだよね
希望→絶望までが急転直下。。歴史って俯瞰で見ると必然でしかないけど、その地点からのifを無限に想像できるのも知恵が深まりますよね。僕個人としては、もし、漢中決戦で敗北をしてたら蜀の未来は明るい方へ大きく変わったのではないかと思っています。惜敗し撤退→確実に取りに行くために周到な準備→呉との関係一時修復、連携で3方面攻撃荊州、益州人事転換→曹操vs劉備全面決戦…曹操と比べて、戦術的に優れている劉備と、司馬懿、夏ク以上とも思える法正、比類なき内政官諸葛亮、武神、軍神の集結。。。劉備が勝っただろうと思っています‥
夏侯淵の戦死時の職務は征西将軍であり、蜀漢が討ち取った曹魏将軍の中で最も階級と職務の高い一人と言える、曹操の西部戦線総司令官に相当する。実は曹操のこの職務配置はかなり失敗しており、夏侯淵は勇敢で無謀なことで知られており、「戦線司令官」や「方面軍総司令官」のような規格の重要な職務にはまったく適任できなかった。最高司令官だった夏侯淵は、なんと兵営周辺から出火したため、自ら400人の騎兵を連れて消火や鹿の角の補修に奔走し、蜀漢軍に討たれた。曹操は後に夏侯淵にかなり低い評価を返した。「白地将軍」、つまり軍事管理の才能がなく、計画に乏しい将軍という意味だ。
夏侯淵は涼州平定の一連の流れを見て攻撃面を見るならかなり華麗な戦争を展開させる人なんですけどね…長駆行軍を高速で行うにはは行軍路や食料計算ができないと上手くいかないでしょうし、、地頭は良さそうなんですが。防衛戦はどうも向いてなさそうな、というかあまり経験がないまま西部戦線の総大将になったところを歴戦の名将かつ勢いに乗る劉備と戦ったのも運が悪かったなあと思ってしまいます。『白地将軍』は言い過ぎかなぁとか思ってしまいますが西方の地を平らげた将軍ということにもかけたあだ名だったのかも知れませんね。
漢中を取れば中原にはもっと楽に出ていけるだろうし、だからこそこの戦いは重要なんだけど、つくづく夷陵の戦いの失敗が痛い・・・。
常に曹操に負けて逃げて負けて逃げてを繰り返していた劉備が荊州、益州を領有し曹操の親戚でもある大将軍夏侯淵を討ち取る、この辺までの蜀漢の全盛期感ほんとすこだぁ、、、当時の人たちはまさに項羽と劉邦を思い描いただろう
本当、法正の早世が悔やまれる。法正さえ生きていれば、劉備は曹操と互角に戦えたかもしれないのに・・・
いや国力の違いは圧倒的です。浪漫は感じますがここで言う国力というのは何も物資や兵力の問題だけでなく人材にも大きく関係するはず。
関羽を動かさず、漢中を落ち着かせてから呉に攻め込んでたらとも考える。
@@だも-s7g蜀漢が長安ほか関中平原を制圧できたところで相手の曹魏は戦国時代の五カ国分なわけで、楚漢戦争のときみたいに中原が分裂しないと無理でしょうね。秦始皇も劉邦も関中+巴蜀から全国統一に至ったのでロマンはありますが。
夏侯淵は一武将としては優秀だが司令官としては二流。曹操からも指揮官たるもの臆病さも必要で、知略を用いよと戒めていた。夏侯淵は即断即決の傾向があり、定軍山の戦いで指摘された欠点が露呈し敗死する結果に。味方から白地将軍と陰口を叩かれ、自ら逆茂木の修復に行くとか軽率すぎる。
将軍には将軍の役割があるのに。下っ端の兵隊へのパフォーマンスだったのかなあ
曹操陣営からみれば漢中は地理的に秦嶺山脈を挟んで飛び地に当たる為に維持するのが難しいんだよね。益州攻略の拠点として重要だし取ったらすぐにでも益州侵攻を目指すべきだった。やらなかったのか出来なかったのかは分からないけど結果こうなるのは残当というか。劉備側としては益州の安全の為にも絶対押さえておかないといけない盾みたいなものだからね。
演義では人徳はあるが武将としての能力はあまり高くないようなイメージのある劉備だが正史を紐解くと違う一面が見えてくるな黄巾族との戦いでも義勇軍という小さな部隊を率いて功績を残し今回の漢中攻略戦でもその用兵はずば抜けてる放浪時代にどこの陣営に行ってもその野心家ぶりに危険視されながらも客将として厚遇され続けていたのは実際の彼が将としてトップクラスに有能だから手元に置いておきたいと思われてた可能性は結構あったのではそう例えるなら呂布のように
ここまで生き延びているのは曹操と劉備のみ。戦下手なはずがない、と思います🐎
曹操が夏侯淵が討ち取られたのは法正の策だと気付いた時は悔しがっていましたが仮の話、曹操が劉備より早く益州の一部を掌握していれば情勢は変わっていたかもしれないです法正の性格や人物眼では曹操に従う気はおそらくないかもしれませんけど
定軍山の戦いがメインだが、曹操軍(魏)・孫権軍(呉)・劉備軍(蜀漢)の思惑が入り組んでいましたね。それまでも局地戦では劉備軍も曹操軍に対峙してはいたが、物量や戦力差などから押されていたのを荊・益州を領土に組み込んだことと法正など軍略が立てられる人材も揃ったことで好勝負になりました。孫権軍と曹操軍の結びつきで窮地に陥る関羽の死、そして英雄・曹操の死が続き三国鼎立と均衡が始まる。あと、【まとめテストの答え】が前回の張飛の回と同じです。
修正します!!!
某人形劇では魏軍屈指の名将ポジション。史実ではそうでもない夏侯淵将軍。
曹操としては最初は夏侯淵を救出して劉備を追い払えば目的達成だったのに、夏侯淵が討たれて漢中を獲られたために奪い返さないといけなくなった。でもそこまでの用意はできていなかったのでしょうね。 実権が無いとはいえ献帝劉協が健在なのに、劉備が漢王朝復興って「?」ってなりますね。
でも劉備の臣下達からすれば、やっぱり自分達が支えてきた大将を皇帝に押し上げたいわけで。司馬昭や司馬炎に晋建国を勧めた人々も然り。それで献帝を仮に皇帝に据えても、劉備の臣下達へのメリットは無さそうですし、こればっかりは仕方ない話なのかなぁと('ω')
この勝利の後に蜀の転落が待ち受けているとは‥
これはもう劉備の真骨頂、集大成みたいな戦いだなぁ奇襲強襲の得意な夏侯淵を最終的に逆に強襲して討ち取るという作戦だったのかなあの曹操が全くなにもできず、鶏食べて引き上げただけだったしかしその後の劉備に待っていたのはひどい鬱展開だもの
曹操が、鶏肋よろしく漢中をあっさりあきらめたから、その後の関羽侵攻にも対応できたと思う。
魏にとって漢中は拠点である長安から遠いのがネック結局この問題は鄧艾の時代まで続く事になる
思えばこの頃が劉備陣営(蜀漢)が版図・勢い・文武両面での人材面に於いて最大最高の最盛期だったよな… 後は…
この勢いのまま登っていくものだと、劉邦の再来だと、漢王朝は不滅だと、誰もが思ったであろう瞬間でしたね🥲
曹操ファンとしては赤壁に並ぶ敗戦でぐぎぎ。しかし、曹操軍で司令官クラスの将が戦死ってこれが初じゃなかろうか? あと、劉備は戦が強いのかそれほどではないのか分からん。
劉備が力を持てばこうなると言うのをしっかりと見せつけた場面ですよね。ほぼ一方的に曹操倒してる
夏侯淵を責任ある立場に就ければ考えて行動すると思っての任官だったのかもしれないが、結局は忠告を聞かずに敗れてしまった。諸葛亮が馬謖を抜擢したことと同レベルの過ちだったんじゃないかと思う。
しかしまあ、言うて夏侯淵の軍中における存在感を考えれば、しかるべき地位に置かないわけにはいかなかったから、大抜擢の馬謖とは事情が違うとも思いますね。彼の失敗も、その性格の隙を見事に衝いた劉備の謀計の凄みを思うべきなのかもしれません。
劉備が漢中王を名乗った!と知った当時の人々はどう思ったんだろう、興味ある
献帝が、果たして本当に喜んでいたかどうかも気になる。
ここは無謀な夏侯淵ではなく、無難な曹洪が良かったか。
曹洪のほうが何かと問題点が多くて、特攻隊長にしとくしかない感じがする…(笑)
正史を見る限り討たれるて総崩れするような決断はしないような。。。
孫呉における孫堅孫策周瑜の早世は、夏侯淵・関羽の敗死以上の衝撃だったろうに、後世の史家は関羽をだまし討ちした一党には冷たい。
連絡網を断つのが“釣り”とわかっていても対応せんとアカンかったやろうし。曹操側は局地戦では勝っていても後手であり、どこか動きも鈍い印象。劉備は将棋とかも強いんか?wこの心躍るピーク時からのトラウマ展開ったら…。12月観測最高気温だった昨日から、明日からの寒波という落差以上や。。。
確かに、将棋が強そうな戦運びですね🐎
劉備が総大将として良い作戦を選択して大勝利したんだから文句なく劉備の勝利と言って間違いないでしょう 次の戦い?ククク…曹操は張魯攻める時も山だらけなのにうんざりして帰りたがって劉曄に尻叩かれてたので、今回も夏侯淵討たれた時点で本心は戦いたくなかったかもしれないですね
曹操からすれば遠くまで来ている訳だから蜀まで侵攻するのは危険過ぎる。撤退は賢明な判断だと思う。
??「張コウを仕留めきれなかった張飛は最悪の愚将。張飛を可愛がってた先帝も丞相に比べ見る目が無さ過ぎる!」
この戦役でもし曹操が自身で漢中に行かずに長安あたりに陣営を置いて、そこから軍を派遣するという形をとっていたらどうなっていたかと思いますね。後の曹丕や曹叡と比較しても、曹操は一つ前の世代の人物だなと感じます。
たぶん最初はそんな感じで曹洪部隊を派遣してたのでしょうけど、夏侯淵が討たれるという最悪の展開となり、自分が出ていくしかなくなったみたいな感じなんでしょうね。というか夏侯淵然り、曹仁然り、前線に駐屯させてる軍の数が少なすぎる気がするんですよね。たぶんこれは屯田制の影響なんでしょうけど。司馬懿の頃になると軍屯に移行して、いくらか防衛戦力が増強されるイメージはある🤔
それは前提条件が違う。後の曹叡の時は長安の防衛、この時は漢中の防衛。長安との間には秦嶺山脈があり、言わば敵側にある飛び地みたいなもん。敢えてたらればを言うのであれば漢中奪取時に司馬懿の言に従い益州攻略に乗り出すべきだった。
二番海苔
乱戦じゃなかったの?都合よく黄忠が切れたの?一騎討ちだったの?漫画キングダムみたいに
局地戦ではほぼ全敗した劉備軍ですが、それが曹操軍の分散と慢心に繋がった布石なんですよね
本当に震えるレベルの戦略眼
赤壁あたりとこの辺の曹操はなんか冴えないんだよな
法正カナ?
劉備が勝ったのはただのまぐれ。
かかってこいや!?(厄介オタク)
それ、「ただのまぐれに負けた曹操」と言ってるのに等しいで?曹操を馬鹿にしたい人なのかな?
@@akitech多分これコメ主のアイコンと名前からして、夏侯淵本人の僻みというネタコメントだと思うw
夷陵の戦いの時、劉備が法正が生きていればといったという。
諸葛亮じゃなかったっけ?法正が劉備の隣に控えていればこの様な事態にはならなかったものを、もしくはこの戦争自体を止めれたものをってやつ
赤壁の郭嘉にも言えるけどたられば話だからそりゃいい方向にしか考えないよね実際生きていたとしてもそんな結果変わってたかな?とは思う(戦自体が起きなかったなら有り得る)
法正の政略が見事にハマった感じです。法正病死しなかったら、また違った歴史になってたかも。すごいプレッシャーだったのも考えると
大分以前にリクエストしていた定軍山の戦いの解説がとうとう来て感無量ですね。
劉備と曹操のガチの決戦だけに参戦してる武将の豪華さが際立ちますね。
劉備のキレキレっぷりも凄いですが、古参の武将を失いながらも、メリット、デメリットを比較して、全軍撤退の決断を下して、軍にこれ以上、致命的な損害を与えなかった曹操も流石だと思いました。
逆に劉備はこの後、私怨に囚われ過ぎて引き際を見誤った結果、夷陵の戦いで国が傾くほどの損害を出したのが対照的ですね。ただ、曹操に対する漢中の重要性と劉備に対する荊州の重要性が違い過ぎるので、比較は出来ないかもですが。
ただここで劉備が冷静に損得勘定で決断を下せるような人間なら、劉備は英傑としてここまで語り継がれたりはしなかったでしょうし、こういう点も含めて「劉備」なのかなぁ、なんて(笑)
孔明が自らの遺体を埋めろといった場所も定軍山
蜀にとって象徴的な場所だったのかもしれません
ですね。ここから蜀漢が始まった、みたいな意味合いもある戦いだったんだと思います。
定軍山は、孔明の墓があると同時に、魏将夏侯淵が落命した場所。後に蜀漢に降った夏侯覇は、この地をどのように感じたのだろうか。夏侯覇にとっては、父親の墓としての意味合いもあったりして…。
夏侯覇は、その境遇を考えるだけでも色んな解釈できる人物ですよね。
劉備がちゃんと自分の地盤で将兵を持ったらこうなるってのが見れた気がする定軍山は
蒼天航路でのこの戦いはやはり夏候淵が劉備に一太刀浴びせるシーンが印象的ですね
そして馬超と張飛が案外ウマが合っていたのも笑えましたw
法正を抱きしめる劉備好き
@@KOUMEI_NO_WANADA 軍才では孔明凌ぐ人ですから損失デカすぎましたね~😭
演技などで語られる品行方正な劉備。立派ではあるけれど昔の人はそういう人の為に命を賭けていたのだろうか?という疑問があった。しかし蒼天航路の劉備なら分かるという気持ちになりました
特に言ってる人もいないようなので補足しときます。
20:52 ここで突然劉備軍が盆地内に現れますが、陽平関を迂回したんですね。
「二十四年春,自陽平南渡沔水」(先主伝)
陽平関は街道から盆地への入口ですから、守る方としては多対一で戦えました。
夏侯淵からすれば突然背後を取られた形になります。
あと無視されがちですが、この戦いにおける功労者の一人が楊洪です。
彼が益州をまとめ上げ補給を送り続けたことで劉備は戦い抜くことができました。
逆に魏は漢中派遣の部隊が反乱を起こすなど(張儼伝)、混乱が生じています。
魏軍は逃げたとき、楊修の言葉聞いときゃよかったなんて話もあった
横山光輝の三國志では夏侯惇が撤退した時に頭の中で楊修の残存がよぎったシーンがありましたね。夏侯惇したら何故、殿(曹操)は楊修の意見を素直に聞かないで殺してしまったんだと心の中で思ったんだろうな。
漢中攻略戦は芸術的、緩急織り交ぜる劉備の用兵の局地とも言えますね
局地的な敗戦にも動じずかえって状況を有利に進めて夏侯淵駆逐後はブレることなく要塞保持を貫く。
その強靭なメンタルも凄いです
鮮やかさすら感じてしまいますよね(*'ω'*)
漢中王劉備。あの頃は良かった…。(遠い目)
ここから数カ月後に、国運が暗転。
一番乗り。やはりこの定軍山の戦いが劉備軍のピークだったと言えよう。後に諸葛亮が埋葬されたが、蜀滅亡の時諸葛亮の胸いかなる思いが胸中をよぎっただろう。
この定軍山は、孔明の墓にまでなった程の場所だから、きっと姜維の北伐にも重要な役割を果たしていた事は確かでしょうね。たぶん姜維は、北伐の度に孔明の墓をお参りしていたものと推察します。
定軍山や漢中をめぐる戦いに出てくる将達の魏蜀のオールスター戦感
過去に演義被害者の動画で定軍山の戦いの事にチラッと触れていた話が今回の動画で理解できた
曹真・曹休の名将コンビ来たァァァァァァッ!
それと兗州攻防戦をお願いします。
歴戦の名将、劉備の脂が乗り切った戦
遂に宿敵曹操を打ち負かし、関羽も北上を始めており劉備軍団としては絶頂期…
劉備の悲願達成まであともう少し
本当に、ここからなんだよ、ここからだったのに…
この動画を拝見しながらふと思った。こういうのを「好事魔多し」と言うのだろうと。
上手く行った後ほど、その後の揺りもどしも大きいですからね
玄徳が関羽を失うのと曹操が夏侯淵を失ったのは、同等だったと思う。しかし玄徳にとっての荊州は、曹操にとっての漢中の比ではなかっただろう。
横山光輝三国志だったか、人形劇だったか…両軍が向かい合った時、いつもなら吹けば飛ぶような小勢で戦い(逃げ)抜いてきた劉備軍の陣容が、その恐るべき曹操軍と対等の強大な勢力として対比する描き方をされていて、とうとうこの時が…と感動しました。
夏侯淵、戦乱の中ずっと生き残ってきて大丈夫だったからいつも勝ってきたとおりにやったのだろうけど、自分を殺すためにコレだけの準備が行われる存在になっていたという事は中々理解できないのかもしれないですね。同じ年月生き残ってきた劉備からしたら、それが手に取るように分かったのかも。
そして、同じ様に劉備軍の宿将も間もなく失われることになるわけですが…関羽と並び立てる将などいるはずもないとは言え、難しい地域でたった一人に全権を委ねてしまうような人事もなんとかならなかったものか…
横山三国志を観ていた幼い頃は「張郃ってしぶといやられ役だな」みたいにしか思ってなかったけど、改めてみると長い間に渡って奮戦してきた随一の名将てすね。
魏の武将の中でも今は大好きな武将です。
初めて光栄三国志やった時は曹操が死んだ時、良くわからずに夏候淵を君主に据えた思い出。
蒼天航路の張郃見て歴戦ってすごいと思いました
負けて戦死したら名将だったとしても挽回できる次はないわけで、、
関羽は気がはやりすぎたな
この関羽の敗戦が蜀滅亡のきっかけになってしまった
よく言われてるけど、プライドが高すぎて、内務、外交がボロボロだったのが一番でかいかと。呉に突かれなければ間違いなく落ちてた状況で、呉蜀のいざこざに関羽と孫権の関係が悪いのに目をつけた曹魏が一枚上手だった。
夏侯淵は『曹操の援軍に劉備軍は押されてて戦況はこちらに有利!』と思っていて自分の首一つを虎視眈々と狙われてるとは思いもよらなかったんだろうな
ほんとこの心理に持っていくのが鮮やかすぎる
惇兄!約束の盃を揚げよう!
わたしの中では三国志の中で一番大好きな場面です❗やっと曹操に軍団対決での勝利、そして漢中王へ‥‥そのあとが悲しいですが‥‥。
この勝利があまりにも劇的なだけに、反動も大きすぎる…😭
黄忠が夏侯淵を討ち取ることができたのは曹魏史上最大の軍事事故と言えるが…征西将軍で戦線総司令官の夏侯淵は本営に鎮座せず、部隊を指揮して張郃を支援することもなく、自ら400人の騎兵を連れて本営の15里外に赴き、火消しと鹿角の補修の小さな仕事をしていたからだ…このような重要ではない小さな仕事は校尉に任せて解決すべきだったが、征西将軍は自ら400人を連れて出撃し、黄忠は近くの高地で、短い伏撃戦を直接完成させた。曹魏の騎兵400人が本営に戻った時、夏侯淵が死んでいることに気づいた。
歴代三国志ゲームで張飛の知謀数値はいずれも低い。客観的に評価すると、張飛が奇謀で巴西の戦で張郃を破り、葭萌関から江州まで無敗、長坂坂の戦で20騎殿後に曹魏大軍を阻止した功績による。正史にしても、『三国志演義』にしても、知勇兼備の武将である。ゲームで75程度の知略レベルを獲得するのは全く問題ないが、夏侯淵の50-60程度の知略は、明らかに高い。彼の最大の才能といえば、軽装部隊長を自ら率いて奇襲をかけることが得意だ。これは都尉、校尉、護軍将軍にとって極めて優れた才能だが、征西将軍になってからもそうすれば、自分と曹魏全軍に対する無責任だ。
曹操は夏侯淵と漢中を失った時、張魯を降した際に「この勢いに乗って蜀に攻め込むべき」という意見を聞かずに兵を引いたことを悔やんだかもしれない。
赤壁の敗戦を経験したし、内乱もあったから慎重論を取ったつもりが裏目に出たのがな
若い頃なら、同時進行で内乱は曹休らに収めさせ、自分は最前線で蜀と対峙してたろうに
戦役の準備段階の話ですが
劉備って自分の陣営内で
特定の派閥が力を持ちすぎないように
弱小派閥や新参が不満を持たないように
バランスを取るのが非常に上手かったんですね
バランスというか、皆がちゃんと劉備のために働くというカリスマ性が高いように僕は思っていますね。バランス面で言えば諸葛亮が苦心しつつも見事な手腕を見せてるイメージ。
劉備生前「主のため頑張る!」
劉備没後「先帝のため頑張る!」
この圧倒的カリスマ
いつも楽しく拝見しています^ ^
定軍山の戦いは、最初で最後の劉備オールスター戦みたいな感じなので、ワクワクしながら解説を聞いていました(*゚∀゚*)b
ただ、この後が辛過ぎる(´;ω;`)
この後もまた後程、しっかり解説していきます…( ;∀;)
@@KOUMEI_NO_WANADA
動画はめちゃくちゃ楽しみですが、トラウマがえぐられそう(´;ω;`)
漢中王即位から樊城の流れは史実じゃなかったら鬱展開すぎるからな〜
漫画やアニメでやったら総合スレが丸ごとアンチスレ化するレベル
張飛、馬超、趙雲、魏延、黄忠、、、本当に1ヶ所にこんなに揃ってたとしたら無理やん!?となってしまう
航空写真で見た陣の張り方で、見事に夏侯淵を誘い出したのが分かる……
あそこに郭淮や徐晃がいたらもっと守りに適した陣にしてたんだろうになぁ……
定軍山関係ないけど黄忠伝読み返したら、若い頃太史慈と戦ってたんだね
劉磐とかいう孫策と太史慈を動かした暴れん坊
蒼天航路では曹丕が四友と相談して「鶏肋」言うて曹操にぶちギレられてましたね。
しかし、曹操は『漢中を手に入れたときに蜀に攻め入っとけば。。。。』
って後悔したのでしょうかね?
浪漫があります。
そしてそこから「蒼天航路」、一気に怒涛のフィナーレへ。
天下三分の計の大前提である”荊州”を失った蜀漢がそれでもまだ首の皮一枚北伐の可能性を見出せたのは荊州北部、司州(長安)、益州の交差路であるこの漢中をギリ保有していたからなんですよね😗
荊州を失ったのは蜀としては大打撃だったわけだが、さらに悪いのは呉と同盟を組んで魏の国力を削って国力差を無くさないといけないのに
その呉と総力上げて戦争した事かな。天下三分の計は三国の国力が拮抗してないと成立しないしな。中原という有利な土地を独占してる魏の弱体化が最優先事項。
曹操や劉備が使う分には有能ではあるけど、方面司令官にはするには何かしらの問題がある人物って扱いに困るよね
この戦いと次の戦いは夏侯淵と関羽のその弱点が完全に露呈して恐らく張飛もそれがあるから大守を魏延にしたんだろうから劉備陣営は劉備に代わって任せれる人材が欠けていたのが致命傷だったかもね
諸葛亮は出来るだろうけど、留守番役やらせたいし黄権なら出来たかもだけど
逆に呉はこういう人材に事欠かないからここからは蜀はやはり人材難で劉備(with法正)と諸葛亮の力で何とかした国なんだなって如実に出た流れだよね
希望→絶望までが急転直下。。
歴史って俯瞰で見ると必然でしかないけど、その地点からのifを無限に想像できるのも知恵が深まりますよね。
僕個人としては、もし、漢中決戦で敗北をしてたら蜀の未来は明るい方へ大きく変わったのではないかと思っています。
惜敗し撤退→確実に取りに行くために周到な準備→呉との関係一時修復、連携で3方面攻撃
荊州、益州人事転換→曹操vs劉備全面決戦…
曹操と比べて、戦術的に優れている劉備と、司馬懿、夏ク以上とも思える法正、比類なき内政官諸葛亮、武神、軍神の集結。。。劉備が勝っただろうと思っています
‥
夏侯淵の戦死時の職務は征西将軍であり、蜀漢が討ち取った曹魏将軍の中で最も階級と職務の高い一人と言える、曹操の西部戦線総司令官に相当する。実は曹操のこの職務配置はかなり失敗しており、夏侯淵は勇敢で無謀なことで知られており、「戦線司令官」や「方面軍総司令官」のような規格の重要な職務にはまったく適任できなかった。最高司令官だった夏侯淵は、なんと兵営周辺から出火したため、自ら400人の騎兵を連れて消火や鹿の角の補修に奔走し、蜀漢軍に討たれた。曹操は後に夏侯淵にかなり低い評価を返した。「白地将軍」、つまり軍事管理の才能がなく、計画に乏しい将軍という意味だ。
夏侯淵は涼州平定の一連の流れを見て攻撃面を見るならかなり華麗な戦争を展開させる人なんですけどね…長駆行軍を高速で行うにはは行軍路や食料計算ができないと上手くいかないでしょうし、、地頭は良さそうなんですが。
防衛戦はどうも向いてなさそうな、というかあまり経験がないまま西部戦線の総大将になったところを歴戦の名将かつ勢いに乗る劉備と戦ったのも運が悪かったなあと思ってしまいます。
『白地将軍』は言い過ぎかなぁとか思ってしまいますが西方の地を平らげた将軍ということにもかけたあだ名だったのかも知れませんね。
漢中を取れば中原にはもっと楽に出ていけるだろうし、だからこそこの戦いは重要なんだけど、つくづく夷陵の戦いの失敗が痛い・・・。
常に曹操に負けて逃げて負けて逃げてを繰り返していた劉備が
荊州、益州を領有し
曹操の親戚でもある大将軍夏侯淵を討ち取る、この辺までの蜀漢の全盛期感ほんとすこだぁ、、、
当時の人たちはまさに項羽と劉邦を思い描いただろう
本当、法正の早世が悔やまれる。
法正さえ生きていれば、劉備は曹操と互角に戦えたかもしれないのに・・・
いや国力の違いは圧倒的です。浪漫は感じますが
ここで言う国力というのは何も物資や兵力の問題だけでなく人材にも大きく関係するはず。
関羽を動かさず、漢中を落ち着かせてから呉に攻め込んでたらとも考える。
@@だも-s7g蜀漢が長安ほか関中平原を制圧できたところで相手の曹魏は戦国時代の五カ国分なわけで、楚漢戦争のときみたいに中原が分裂しないと無理でしょうね。
秦始皇も劉邦も関中+巴蜀から全国統一に至ったのでロマンはありますが。
夏侯淵は一武将としては優秀だが司令官としては二流。曹操からも指揮官たるもの臆病さも必要で、知略を用いよと戒めていた。夏侯淵は即断即決の傾向があり、定軍山の戦いで指摘された欠点が露呈し敗死する結果に。味方から白地将軍と陰口を叩かれ、自ら逆茂木の修復に行くとか軽率すぎる。
将軍には将軍の役割があるのに。下っ端の兵隊へのパフォーマンスだったのかなあ
曹操陣営からみれば漢中は地理的に秦嶺山脈を挟んで飛び地に当たる為に維持するのが難しいんだよね。益州攻略の拠点として重要だし取ったらすぐにでも益州侵攻を目指すべきだった。やらなかったのか出来なかったのかは分からないけど結果こうなるのは残当というか。劉備側としては益州の安全の為にも絶対押さえておかないといけない盾みたいなものだからね。
演義では人徳はあるが武将としての能力はあまり高くないようなイメージのある劉備だが
正史を紐解くと違う一面が見えてくるな
黄巾族との戦いでも義勇軍という小さな部隊を率いて功績を残し
今回の漢中攻略戦でもその用兵はずば抜けてる
放浪時代にどこの陣営に行ってもその野心家ぶりに危険視されながらも客将として厚遇され続けていたのは
実際の彼が将としてトップクラスに有能だから手元に置いておきたいと思われてた可能性は結構あったのでは
そう例えるなら呂布のように
ここまで生き延びているのは曹操と劉備のみ。戦下手なはずがない、と思います🐎
曹操が夏侯淵が討ち取られたのは法正の策だと気付いた時は悔しがっていましたが
仮の話、曹操が劉備より早く益州の一部を掌握していれば情勢は変わっていたかもしれないです
法正の性格や人物眼では曹操に従う気はおそらくないかもしれませんけど
定軍山の戦いがメインだが、曹操軍(魏)・孫権軍(呉)・劉備軍(蜀漢)の思惑が入り組んでいましたね。
それまでも局地戦では劉備軍も曹操軍に対峙してはいたが、物量や戦力差などから押されていたのを荊・益州を領土に組み込んだことと法正など軍略が立てられる人材も揃ったことで好勝負になりました。
孫権軍と曹操軍の結びつきで窮地に陥る関羽の死、そして英雄・曹操の死が続き三国鼎立と均衡が始まる。
あと、【まとめテストの答え】が前回の張飛の回と同じです。
修正します!!!
某人形劇では魏軍屈指の名将ポジション。史実ではそうでもない夏侯淵将軍。
曹操としては最初は夏侯淵を救出して劉備を追い払えば目的達成だったのに、夏侯淵が討たれて漢中を獲られたために奪い返さないといけなくなった。でもそこまでの用意はできていなかったのでしょうね。
実権が無いとはいえ献帝劉協が健在なのに、劉備が漢王朝復興って「?」ってなりますね。
でも劉備の臣下達からすれば、やっぱり自分達が支えてきた大将を皇帝に押し上げたいわけで。司馬昭や司馬炎に晋建国を勧めた人々も然り。
それで献帝を仮に皇帝に据えても、劉備の臣下達へのメリットは無さそうですし、こればっかりは仕方ない話なのかなぁと('ω')
この勝利の後に蜀の転落が待ち受けているとは‥
これはもう劉備の真骨頂、集大成みたいな戦いだなぁ
奇襲強襲の得意な夏侯淵を最終的に逆に強襲して討ち取るという作戦だったのかな
あの曹操が全くなにもできず、鶏食べて引き上げただけだった
しかしその後の劉備に待っていたのはひどい鬱展開だもの
曹操が、鶏肋よろしく漢中をあっさりあきらめたから、その後の関羽侵攻にも対応できたと思う。
魏にとって漢中は拠点である長安から遠いのがネック
結局この問題は鄧艾の時代まで続く事になる
思えばこの頃が劉備陣営(蜀漢)が版図・勢い・文武両面での人材面に於いて最大最高の最盛期だったよな… 後は…
この勢いのまま登っていくものだと、劉邦の再来だと、漢王朝は不滅だと、誰もが思ったであろう瞬間でしたね🥲
曹操ファンとしては赤壁に並ぶ敗戦でぐぎぎ。しかし、曹操軍で司令官クラスの将が戦死ってこれが初じゃなかろうか? あと、劉備は戦が強いのかそれほどではないのか分からん。
劉備が力を持てばこうなると言うのをしっかりと見せつけた場面ですよね。ほぼ一方的に曹操倒してる
夏侯淵を責任ある立場に就ければ考えて行動すると思っての任官だったのかもしれないが、結局は忠告を聞かずに敗れてしまった。
諸葛亮が馬謖を抜擢したことと同レベルの過ちだったんじゃないかと思う。
しかしまあ、言うて夏侯淵の軍中における存在感を考えれば、しかるべき地位に置かないわけにはいかなかったから、大抜擢の馬謖とは事情が違うとも思いますね。
彼の失敗も、その性格の隙を見事に衝いた劉備の謀計の凄みを思うべきなのかもしれません。
劉備が漢中王を名乗った!と知った当時の人々はどう思ったんだろう、興味ある
献帝が、果たして本当に喜んでいたかどうかも気になる。
ここは無謀な夏侯淵ではなく、
無難な曹洪が良かったか。
曹洪のほうが何かと問題点が多くて、特攻隊長にしとくしかない感じがする…(笑)
正史を見る限り討たれるて総崩れするような決断はしないような。。。
孫呉における孫堅孫策周瑜の早世は、夏侯淵・関羽の敗死以上の衝撃だったろうに、後世の史家は関羽をだまし討ちした一党には冷たい。
連絡網を断つのが“釣り”とわかっていても対応せんとアカンかったやろうし。
曹操側は局地戦では勝っていても後手であり、どこか動きも鈍い印象。
劉備は将棋とかも強いんか?w
この心躍るピーク時からのトラウマ展開ったら…。
12月観測最高気温だった昨日から、明日からの寒波という落差以上や。。。
確かに、将棋が強そうな戦運びですね🐎
劉備が総大将として良い作戦を選択して大勝利したんだから文句なく劉備の勝利と言って間違いないでしょう 次の戦い?ククク…
曹操は張魯攻める時も山だらけなのにうんざりして帰りたがって劉曄に尻叩かれてたので、今回も夏侯淵討たれた時点で本心は戦いたくなかったかもしれないですね
曹操からすれば遠くまで来ている訳だから蜀まで侵攻するのは危険過ぎる。撤退は賢明な判断だと思う。
??「張コウを仕留めきれなかった張飛は最悪の愚将。張飛を可愛がってた先帝も丞相に比べ見る目が無さ過ぎる!」
この戦役でもし曹操が自身で漢中に行かずに長安あたりに陣営を置いて、そこから軍を派遣するという形をとっていたらどうなっていたかと思いますね。後の曹丕や曹叡と比較しても、曹操は一つ前の世代の人物だなと感じます。
たぶん最初はそんな感じで曹洪部隊を派遣してたのでしょうけど、夏侯淵が討たれるという最悪の展開となり、自分が出ていくしかなくなったみたいな感じなんでしょうね。
というか夏侯淵然り、曹仁然り、前線に駐屯させてる軍の数が少なすぎる気がするんですよね。たぶんこれは屯田制の影響なんでしょうけど。
司馬懿の頃になると軍屯に移行して、いくらか防衛戦力が増強されるイメージはある🤔
それは前提条件が違う。後の曹叡の時は長安の防衛、この時は漢中の防衛。長安との間には秦嶺山脈があり、言わば敵側にある飛び地みたいなもん。敢えてたらればを言うのであれば漢中奪取時に司馬懿の言に従い益州攻略に乗り出すべきだった。
二番海苔
乱戦じゃなかったの?都合よく黄忠が切れたの?一騎討ちだったの?漫画キングダムみたいに
局地戦ではほぼ全敗した劉備軍ですが、それが曹操軍の分散と慢心に繋がった布石なんですよね
本当に震えるレベルの戦略眼
赤壁あたりとこの辺の曹操はなんか冴えないんだよな
法正カナ?
劉備が勝ったのはただのまぐれ。
かかってこいや!?(厄介オタク)
それ、「ただのまぐれに負けた曹操」と言ってるのに等しいで?
曹操を馬鹿にしたい人なのかな?
@@akitech
多分これコメ主のアイコンと名前からして、夏侯淵本人の僻みというネタコメントだと思うw
夷陵の戦いの時、劉備が法正が生きていればといったという。
諸葛亮じゃなかったっけ?
法正が劉備の隣に控えていればこの様な事態にはならなかったものを、もしくはこの戦争自体を止めれたものをってやつ
赤壁の郭嘉にも言えるけどたられば話だからそりゃいい方向にしか考えないよね
実際生きていたとしてもそんな結果変わってたかな?とは思う(戦自体が起きなかったなら有り得る)