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私は牧師のいない団体にいるのでかえって牧師に違和感を覚えました。超教派の方々と一緒に伝道等の働きをするときに、いつでも牧師が中心で、それ自体がおかしく感じました。牧師先生と呼ばないと嫌な顔をされたりして、おかしな感じでしたよ。牧師いなくても、教会は大丈夫です。もちろん年配の方等には、敬意を払ったりしますし秩序も大切にします。聖書に書いていないことは、伝統なので、変えて良いことだと考えています。私にとって牧師がいるのが不自然だし、何でもかんでも中心になってやりたがる牧師も変だと感じるし、自分がなんでも目立つ位置や先頭に立たないと満足しない牧師も変だなぁと思っています。まぁ、そのへんは牧師というよりもその人の課題なのかなぁと思うけどねぇ( *´艸`)クスクス
同意します。ですが個人的には、牧師は聖書の中にのみ存在していて、イエスさまと12弟子、パウロとバルナバがそうであるという認識です。そして我々は聖書から学ぶことが、結果的に牧師から学んでいるということになるのではと思います
>まぁ、そのへんは牧師というよりもその人の課題なのかなぁと思うけどねぇ( *´艸`)クスクスですね…
面白かったです!私は牧師と言う立場は当たり前すぎて違和感はなかったけど、友人が伝道師になった時に今日から◯◯伝道師って呼ぶようにしましょう!!と言われて、特別な人みたいな扱いに違和感がありました。牧師夫人はいつも一生懸命で、信徒を想う気持ちからなんでしょうが、監督みたいな感じで指示したり、呼び出されて◯◯が出来てないのはなんで?と責められたり…礼拝で子どもが騒いでしまったら悪魔がそうさせてるとか言われたりしていました…。(それは意味わからないですけど。)毎週、数名の子どもを一人で連れて来て礼拝するのは本当に大変で、辛くてしばらく休んだ事もあったな〜。よく説教で教会を変えるのは良くないと言われ、教会を離れないために結婚する相手は連れてくるようしましょうと言われ…。牧師も牧師夫人も人間だから仕方ないのかも知れないけど、それを必死に守ってずっと着いて来ている信徒を大切にしてほしいと思いますね!まぁ、その時には分からない事で、今ではこう言う意味だったんだろうなと思うこともありますが、神さまを愛して委ねる事の大切さを感じますね。教会を大きくするために、信徒を縛らなくても良いと思うし、私の悲しい気持ちは失くなりません。
えらいめんどくさい教会ですねぇ‥アタシの教会は福音派プロテスタントですが、子供は騒ぎ放題だし、結婚相手を連れてこいなんて言われたこともない。それが望ましいとは言われますが、あーせーこーせー言われるのはどうなんだろ?
興味深く拝見しました。私が救いを受けた時に通っていた「無教会」の系譜であるキリスト集会では、代表者は「主催者」という肩書きで、呼び方は信徒は全員兄弟姉妹という考えから、名字に兄(けい)を付けて「◯◯兄」というようにお呼びしていました。名建築家として世界的に名が知られている安藤忠雄氏は、工業高等学校ご出身で、建築学の専門教育を受けることなく、独学で世界的に評価される建築家になられました。代表作に「光の教会」があります。神様は[日本の建築業界]において、専門教育を受けることなく世界で評価される人材を出されました。であるならば、[日本のキリスト教界]において、専門教育(神学校)を受けることなく、聖霊様のお導きによる独学だけで、聖書を解き明かすことができる人材を神様が出されたとしても、全く不思議ではないと私は思っております。
安藤忠雄さんの建築はコンクリートがむき出しで必ずいいとは思えませんね。
投稿者様はコンクリートがむき出しの建築が好みではないということだと思いますが、どのようなことにおいても好き嫌いは分かれます。私が言いたかったのは、専門教育を受けずに、建築界のノーベル賞と言われているプリッカー賞を受賞することができる程の人材を神様は現実に出されたということです。これは極めて稀なケースだと思いますが、極めて稀なケースが現実にこの日本に存在しているということが言いたかったことです。@@赤松繁-n8k
私は「クリスチャンメンター」という肩書きで、隣人に仕え、その人の歩みに寄り添う活動を始めています。特に私の周りに、心の病を持つ人々が多いので、心のケアについて重荷を持って取り組んでいるところです。聖書にはメンターって言葉はないと思いますが、「羊飼い」的な役割なのかなと私は思いました。
動画ありがとうございます。海外に住んでいて、日本語が危うくなってきているので、練習がてら聞き始めました😅。教会育ちで、クリスチャンホ--ムづくりに心を注いでいる者ですが、最近組織の問題を感じて、教会の会員辞めました。自由な気分になりました。😊家族全員で、キリスト者であるとは、と学んでいます。
こんにちは。鈴木と申します。聖書で教会と訳されているのは話された通り「エクレシア=召し出された者の集まり」ですので、正しくは集会と呼ぶべきでしょう。決して教会堂の様な建物の事ではありませんね。聖書に牧師と言う職業や階級制度が存在しない事もその通りです。黙示録の2章15節に「ニコライ派の教え」が非難されていますが、それは階級制度の事のようです。平信徒などと言う思想は聖書に有りません。牧師は牧者であり訳に問題が有ります。主イエス御自身が「あなたがたは先生~師と呼ばれてはいけません」と言われました。集会の中で崇められる存在や人の上に立つ存在であっては決していけません。(学校の先生が学校の役割として先生と呼ばれることは別ですが。)牧者は群れの先頭に立って導く存在です執事も牧者も共に仕えるものです。主イエスの下働きとして兄弟姉妹に仕える、云わば奴隷の様なものです。奴隷には勝手気ままは赦されません。神の声に従って奉仕をする姿勢が不可欠となります。聖書には長老と言う言葉が出てきますが、その意味は3つあると言えます。1つは年配者、2つ目は熟練した者、3つ目は集会の監督としての長老です。新約の集会に於ける長老には年配者と言う意味は特に含まれていません。熟練した者、良く訓練され、聖書を正しく教え、指導し、模範によって導く力が有ることを示し、監督は集会をパン種や悪い者から守り責任をもって采配を振るう役割を、牧者は羊を牧草地に導いてみ言葉と言う食物を与える働きを教えていると言えます。それ故、牧者は教者であり監督であり長老です。それらの事はⅠテモテ3,4章に詳しく書かれています。監督=長老の働きに立つのには条件がある事がテモテ書とテトス書に書いてある通りですが、テモテ3章1節には「人がもし監督の職⇒働きにつきたいと思うなら」と前書きが有ってその条件が記されているので、その働きをしたいという思いがあるならば、この条件を【自分に当てはめて良く吟味してみる事】がどうしても必要になります。そうすれば自己推薦などは絶対に出来ないはずです。Ⅱコリント10章12~18節の通り、『主に推薦される人=主によって召され立てられた人』は他の信者の目にも明らかになり、認められるようになる筈です。ダビデがそうであったように。更に使徒20:28に「聖霊は~牧させるために~監督をお立てになった」と記されているように、監督=牧者、教者=長老は聖霊なる神が立てるのです。私たちはテモテ書やテトス書に記されている基準に沿って、聖霊がお立てになった監督を知り認めることが必要になります。勿論、テモテ書やテトス書に記されている条件を全ての面で100%クリヤする完璧な人はいないはずです。程度の問題があるでしょう。例えば子供がいない人が監督=牧者になれないと言う事は有りません。聖書を読み解く場合にはどのような背景でそのことが書かれているかを必ず考えなければなりません。法律の解釈にも目的論的解釈が有り、その法律が定められた目的に沿って解釈する仕方で、これは聖書で禁じられている私的解釈には当たりません。監督の厳しい条件が記されたのは集会の秩序と調和、健全さと証しの為です。それ故その条件に完全に一致していなくとも近い事が必要になります。そうでなければ集会をリードし導くことは大変難しくなります。更に使徒20:28でひとつの集会に監督は【overseers】と複数であることを示しています。テトス1:5にも「町ごとに長老たち」、ヤコブ5:14「教会(単数)の長老たち」と記されており、一つの集会に一人の牧者は聖書的ではありません。監督=牧者は確かに神の前に責任を持たなければなりませんが、監督を単に責任者と考えてしまえばテモテ書などに記されている監督の条件を当て嵌めなくてよい事になり、混乱を生じさせてしまうでしょう。み言葉を畏れる心が求められます。物理的にも共に集まるのが集会の基本です。ネットで集まるのを神の集会(教会)と呼ぶのは聖書的に無理があるでしょう。ネット教会も牧師同様、聖書に存在しません。いろいろ書きましたが批判の意図は有りません。
拍手喝采👏
ルター以前では、一般の信者は、殆ど聖書を読めない人で、聖書も教会に置いてある。ルター以後に印刷して金持ちから聖書が一般に普及して、今は誰でも読むことができる。買うことができる。
クリスチャンの立場から言うと、牧師という単語は安心感がありますよね?未信者に話すとき、私の行っている教会には牧師がいなくて、神学校を出てはいない人がメッセージを取り次いでいるのよ、と話すと未信者は混乱します。実際、そういう教会、エクレシア、つまり集会に行っていました。現在はあれこれ迷いの中にいます。迷える子羊婆さん😂
パウロが連れてった、テモテは伝道者(それとも教師)というジャンルにはいるのかな?教える人がいて教えられる人がいる、、、でも教えている人も時に教えられることがある、なぜなら聖書は神の言葉で私たちはある意味まだまだ神様のレベルから見れば幼いから、、、ヤコブ書には口を制御するのは難しいからだれでも教師になってはいけない(?)と書いてある、ヘブル書には教師になって要るぐらいの時間が与えられていたのにまだ幼いと言うような表現がある、、、信者になったばかりの人を指導的立場に置くのがいけないのかも知れない、またペテロ書を読むと長老(教師的な人か?)的な人が神の羊を牧しなさいとかいてあります。(牧師の牧はここからきているのかわかりませんが)、強制されてでもなく、神に従って、、、、お金を目的でもなく、支配するのでもなく、模範になるようにと、、、結局みんなが十分に成長して、より救われ、その方々がまた成長して、だれが上とか勝っているとかじゃなくみんないっぱい恵みを受けるって言うのが神様の目的かな?
エペソ書 第四章 十一節彼は或人(あるひと)を使徒とし、或人を預言者とし、或人を伝道者とし、或人を牧師•教師として与え給えり。(日本聖書協会 1974 文語訳聖書)御参考迄に!
まぁ、相変わらずですが、完全に同意しますね。
共感できます。個人的に思っているのは、私たち信仰者はイエスに在る信仰に繋がるお互いで、既に私たちは神から見ても世から見ても「群れ」である、という認識です。だから、まずは一個人として、イエスの救いを信じ受け入れた自分は神のからだの一部とされている自覚が前提にあって、そこからの考えだなあと思いました。それで、神がその一人ひとりに「役割」をお与えくださっているという理解を私はしています。その時点で「責任」があるのもまた大前提なんだと思っています。(第一コリント10章31節)人が複数人になって増えるほど、問題や混乱も増えると思うのですが、そこで様々な「役割」が自ずと必要になってくるのだとも思います。キリスト者としての、責任も、群れにおける秩序も、神に従うために丁寧でありたいと考えています。しかし失敗ばかりが現状で。でも、そのためにも「互い」を、神はおいてくださっているんだなあ、と…。様々に、イエスに繋がる愛を示し合うために。これが神様の御恵みだなあとも、日頃よく思います。相手がクリスチャンであってもなくても、主の愛を意識した生活をしていたいです。信じる者の内に主が住んでいてくださり、共に歩んでいてくださることに、改めて感謝がわきました。興味深い内容を今回もありがとうございます。
私が自分の肩書きとするのは、、と考えたら、「ハレルヤばあば」かな、と思いました。笑イエスラバー❤もいいですね。!いつも斬新な?バイブルシンキングをして下さり、ほんとに面白いし、目からうろこです。楽しく、また、有意義に学ばさせてもらっています。ありがとうございます。
ユダヤ暦5784年第4月3回めの安息日(改良ユリウス暦2024年7月27日)おめでとうございます!ヘンボッカン・アンシギル~。この対談動画の最初の部分。「牧師(仕)」という言葉自体は、エペソ書4章11節の新改訳のみならず文語訳・口語訳でも使われていますが、なぜこのおふたりは新改訳のみと言い切ったのか?その点は疑問ですが、この対談自体は有益で示唆に富むものでした。私が拓馬さんを誉めるのはまあ非常に珍しいですが。苦笑 皆さま、暑い中ですが最良の聖日をお過ごし下さい。
タンムズの月の21日
確かに私もプロテスタントも、カトリックの流れから来てます。小林さんのおっしゃてる牧師さんは?普通の牧師さんは主につかえ、信徒さんに、つかえておられます。カルトの教会は、あきません。
聖書を読める人、聖書的に誤りか正しいか検証できる人がかつての教師で識字リテラシーがほぼ完全になった段階で万人牧者が達成された。せいぜい私塾の先生です。資格もへったくれももともとないでしょう。
聖書にないって言うのなら、ネットで教えることも問題なんと違いますか?
牧師という職業は人間が作った制度なので、、まあ、それを取り入れるのか否かは、人が決める事なので、、聖書によれば必要ないのですが、人間の知恵の結果が、組織、資格、権威、、となっていきます。歴史はその繰り返しという事ですが、、原則必要のないものと、気づかされました。、
「給食当番」に思わず「それそれ!」ってなりました(笑´∀`)マネジメントという表現は今の時代とっても分かりやすいと思いました。
イエスLOVERです!
最初の教会でも言われたな。「説教中の話はイエス様の言葉として聞いてください」と。
聖書に牧師、と言う言葉はないことは知ってましたが、例えばアメリカとかはどんな単語が使われますか?私の最初の教会は、牧師に当てはまる人をリーダーと呼び、代表の立場のアメリカから宣教に来た人を宣教師、と呼びました。一般の人に話すときは、牧師、という言葉は分かりやすいです。
聖書の解説者。
私の知っている長老派教会は、今回のお話の通りの教会でした。今思えば、特殊な群の人たちです。
私の出身中学の前にあって、牧師さんに聞くとフランスのカルビン派だと大昔に聞いた気がします。
日本のクリスチャン人口が1パーセント未満と言ってるけど、私はそうは思いません。お二人のように有名でなくても、地道に、【家の教会】を作って活動したり、SNSで教会活動をしている人もいるので、実際はもっといると思います。そして私も牧師と信徒は同じだと思っています。’私の派はそう言うところです。牧師はメッセージを語る権威をいただいている人。信徒それぞれも賜物をいただいて教会を立て上げる人たちです。しかしたまに牧師の中にも勘違いして、私には権威があると思っている人もちらほら。
同じ部屋だよねわかっていても、あれって思う
理屈は分かるけど、今現在、大学の神学部や神学校にいかずに牧師になれるかな。また、信者が認めてくれるでしょうかね。ちなみに、最近、神学校の生徒が激減しているし、東京ルーテル神学大学の学生の募集を中止にしたと聞きました。理由は、一神教が日本にあってないのかかも知れないのと、明治の始め頃と終戦直後は、欧米からの圧力があって特別な時期だったが、今後はキリスト教信者は激変するかも知れないですね⁉️
既存の教会のスタイルは、変わるかもしれませんね。でもクリスチャンは、存続しますよ。
もうすでにキリスト教信者は激変し始めていますね。 それは、反社会的な入れ墨を入れた人達がキリスト教会の頭になっているということです。 そのような人達がキリスト教会の牧師になっていることを危惧するプロテスタント信者は多いと思いますが、彼らのような人達がキリスト教会の頭となることこそ神の導きなのです。 プロテスタント信者たちは聖書を読み、学び、研究している人達が多いのに、何故そのことに気付かないのでしょうか? 福音書を読めばイエス・キリストと弟子たちは反社会的な人達として書かれています。 彼らが律法学者たちに迫害されていたのは、彼らがキリスト者だったからです。 彼らはナルドの香油というバルサム油を灌がれていたために迫害され、イエス・キリストは裁判で有罪になり、使徒パウロは獄に入れられていたのです。 現在のプロテスタント教会が激変したキリスト教会の姿であるということにプロテスタント信者は気付くべきです。 キリスト教会はとても危険な場所になりつつありますから。
@@フクダセツコ-g9q 先生、私の思うところは、西成カトリック教会は除くとして、私の行っていたカトリック教会は、高学歴高収入のエリート集団だったので行くのを辞めました。私が友達に誘われ行ったカトリック教会は、中高一貫のキリスト教の進学校を卒業したお医者さん、高校の教員、銀行の支店長さんが信者のボス集団でいて、ぞーじるしの会社に勤めているご主人の奥さんが、「お宅のご主人は、どこの大学を卒業されているのですかと聞かれて高校卒業です」と言うと凄く馬鹿にされて気分が悪くなって、カトリック教会を辞めましたね。ちなみに、カトリック教会の洗礼は、慣習として同性の立ち合い人❨※信者仲間❩がいる事と、神父さんに謝礼として1万円、洗礼ネームの登録代金が1万円となっています。ただ、このカトリックの洗礼証書は、例えば長崎市に旅行して、浦上天主堂に行っても洗礼証書を見せれば、心良く日曜日のミサに入れてくれるそうですよ。一方、プロテスタントは、社会のレールから外れたホームレスは、大阪市西成区の釜ヶ崎の炊き出しなので、キリスト教に触れて洗礼を受けてクリスチャンになる人が多いと、NHKのEテレの「ここの時代」で時々、ホームレス救済事業を取り上げていますよ。先生、このお名前の牧師さん知っているでしょうか、西成区釜ヶ崎のメデタ教会牧師の西田好子牧師さん、北九州の小倉市でホームレス救済事業をしている牧師さんの奥田知志牧師さんは、ともに関西学院大学神学部卒業です。それと、元極道で背中一面に入れ墨をして、大阪のミナミで、信者のほとんどが元ヤクザの弟子教会を経営している金沢○○牧師さんは、生駒聖書学院を卒業されています。聖書の大昔の話されたる早稲田大学を卒業してTBSに勤めていた牧師さんの理屈は分かりますが、結婚式、葬式、洗礼式、聖餐式はやはり神学校か、大学の神学部を出ないと分からない儀式の型と聖書の解釈がゆがんでくると思うので、牧師さんにはなれないと思いますけどね。また、カトリック教会は、上智大学神学部、聖公会は立教大学神学部の卒業が絶対に必要だと思います。私はこの神学部と神学部を否定する牧師さんの話を聞いていて思ったのは、東京都世田谷区経堂にある内村鑑三さんの無教会主義のキリスト教集会場がいいと思いますけどね。あそこは、大学教授、弁護士、医師などの知識人の集まりだと来ていますけどね。ルーテル教会で居眠りをしているヘボクリスチャンよりの感想でした。
えーっと母教会は、牧師の決定に一切意見を言うことも、質問することも許されません。
エペソ4:11や第一コリント12:27,28を根拠とする牧師や教師は現存しない役割だと思います。というのも、その役割は人選ではなくキリストが当時の時代に直接お立てになったものだからです。現代、牧師を名乗る人は、自分がキリストによって立てられたとどう証明するのでしょうか。監督や執事や長老と、牧師や教師(ディダスカロス)は区別して考えなければいけないと思います。したがって、クリスチャン一人ひとりは、「本来の」牧師や教師(ディダスカロス)の発言には、絶対服従すべきだと思います。
両親は12年前津波で亡くなりました。16歳の時です。母が見つかった時聖書が懐に、父は未だに不明。今は結婚して子供二人。昨日その聖書を燃やしました。これ三軒隣の奥さんの事です。私の家にマッチがあったので旦那さんと三人でしゃがんで皿の上のそれを燃やしました。それでキリストはもう居ません。来てもらっても困ると言ってました。二人は火が消える迄泣いていた。
あなた方は地の果てまで伝えなさい,この事をわかっていますか
羊の執事
私は牧師のいない団体にいるのでかえって牧師に違和感を覚えました。
超教派の方々と一緒に伝道等の働きをするときに、いつでも牧師が中心で、それ自体がおかしく感じました。
牧師先生と呼ばないと嫌な顔をされたりして、おかしな感じでしたよ。
牧師いなくても、教会は大丈夫です。
もちろん年配の方等には、敬意を払ったりしますし秩序も大切にします。
聖書に書いていないことは、伝統なので、変えて良いことだと考えています。
私にとって牧師がいるのが不自然だし、何でもかんでも中心になってやりたがる牧師も変だと感じるし、自分がなんでも目立つ位置や先頭に立たないと満足しない牧師も変だなぁと思っています。
まぁ、そのへんは牧師というよりもその人の課題なのかなぁと思うけどねぇ( *´艸`)クスクス
同意します。ですが個人的には、牧師は聖書の中にのみ存在していて、イエスさまと12弟子、パウロとバルナバがそうであるという認識です。そして我々は聖書から学ぶことが、結果的に牧師から学んでいるということになるのではと思います
>まぁ、そのへんは牧師というよりもその人の課題なのかなぁと思うけどねぇ( *´艸`)クスクス
ですね…
面白かったです!私は牧師と言う立場は当たり前すぎて違和感はなかったけど、友人が伝道師になった時に今日から◯◯伝道師って呼ぶようにしましょう!!と言われて、特別な人みたいな扱いに違和感がありました。牧師夫人はいつも一生懸命で、信徒を想う気持ちからなんでしょうが、監督みたいな感じで指示したり、呼び出されて◯◯が出来てないのはなんで?と責められたり…礼拝で子どもが騒いでしまったら悪魔がそうさせてるとか言われたりしていました…。(それは意味わからないですけど。)毎週、数名の子どもを一人で連れて来て礼拝するのは本当に大変で、辛くてしばらく休んだ事もあったな〜。よく説教で教会を変えるのは良くないと言われ、教会を離れないために結婚する相手は連れてくるようしましょうと言われ…。
牧師も牧師夫人も人間だから仕方ないのかも知れないけど、それを必死に守ってずっと着いて来ている信徒を大切にしてほしいと思いますね!まぁ、その時には分からない事で、今ではこう言う意味だったんだろうなと思うこともありますが、神さまを愛して委ねる事の大切さを感じますね。
教会を大きくするために、信徒を縛らなくても良いと思うし、私の悲しい気持ちは失くなりません。
えらいめんどくさい教会ですねぇ‥アタシの教会は福音派プロテスタントですが、子供は騒ぎ放題だし、結婚相手を連れてこいなんて言われたこともない。それが望ましいとは言われますが、あーせーこーせー言われるのはどうなんだろ?
興味深く拝見しました。
私が救いを受けた時に通っていた「無教会」の系譜であるキリスト集会では、
代表者は「主催者」という肩書きで、
呼び方は
信徒は全員兄弟姉妹という考えから、
名字に兄(けい)を付けて
「◯◯兄」というようにお呼びしていました。
名建築家として世界的に名が知られている
安藤忠雄氏は、
工業高等学校ご出身で、
建築学の専門教育を受けることなく、
独学で世界的に評価される建築家になられました。
代表作に「光の教会」があります。
神様は[日本の建築業界]において、
専門教育を受けることなく世界で評価される人材を出されました。
であるならば、
[日本のキリスト教界]において、
専門教育(神学校)を受けることなく、
聖霊様のお導きによる独学だけで、
聖書を解き明かすことができる人材を
神様が出されたとしても、
全く不思議ではないと私は思っております。
安藤忠雄さんの建築はコンクリートがむき出しで必ずいいとは思えませんね。
投稿者様はコンクリートがむき出しの建築が好みではないということだと思いますが、
どのようなことにおいても好き嫌いは分かれます。
私が言いたかったのは、
専門教育を受けずに、
建築界のノーベル賞と言われているプリッカー賞を受賞することができる程の人材を
神様は現実に出されたということです。
これは極めて稀なケースだと思いますが、
極めて稀なケースが
現実にこの日本に存在しているということが
言いたかったことです。@@赤松繁-n8k
私は「クリスチャンメンター」という肩書きで、隣人に仕え、その人の歩みに寄り添う活動を始めています。
特に私の周りに、心の病を持つ人々が多いので、心のケアについて重荷を持って取り組んでいるところです。
聖書にはメンターって言葉はないと思いますが、「羊飼い」的な役割なのかなと私は思いました。
動画ありがとうございます。海外に住んでいて、日本語が危うくなってきているので、練習がてら聞き始めました😅。教会育ちで、クリスチャンホ--ムづくりに心を注いでいる者ですが、最近組織の問題を感じて、教会の会員辞めました。自由な気分になりました。😊
家族全員で、キリスト者であるとは、と学んでいます。
こんにちは。鈴木と申します。聖書で教会と訳されているのは話された通り「エクレシア=召し出された者の集まり」ですので、正しくは集会と呼ぶべきでしょう。決して教会堂の様な建物の事ではありませんね。
聖書に牧師と言う職業や階級制度が存在しない事もその通りです。黙示録の2章15節に「ニコライ派の教え」が非難されていますが、それは階級制度の事のようです。平信徒などと言う思想は聖書に有りません。
牧師は牧者であり訳に問題が有ります。主イエス御自身が「あなたがたは先生~師と呼ばれてはいけません」と言われました。集会の中で崇められる存在や人の上に立つ存在であっては決していけません。(学校の先生が学校の役割として先生と呼ばれることは別ですが。)牧者は群れの先頭に立って導く存在です
執事も牧者も共に仕えるものです。主イエスの下働きとして兄弟姉妹に仕える、云わば奴隷の様なものです。奴隷には勝手気ままは赦されません。神の声に従って奉仕をする姿勢が不可欠となります。
聖書には長老と言う言葉が出てきますが、その意味は3つあると言えます。1つは年配者、2つ目は熟練した者、3つ目は集会の監督としての長老です。新約の集会に於ける長老には年配者と言う意味は特に含まれていません。熟練した者、良く訓練され、聖書を正しく教え、指導し、模範によって導く力が有ることを示し、監督は集会をパン種や悪い者から守り責任をもって采配を振るう役割を、牧者は羊を牧草地に導いてみ言葉と言う食物を与える働きを教えていると言えます。それ故、牧者は教者であり監督であり長老です。それらの事はⅠテモテ3,4章に詳しく書かれています。
監督=長老の働きに立つのには条件がある事がテモテ書とテトス書に書いてある通りですが、テモテ3章1節には「人がもし監督の職⇒働きにつきたいと思うなら」と前書きが有ってその条件が記されているので、その働きをしたいという思いがあるならば、この条件を【自分に当てはめて良く吟味してみる事】がどうしても必要になります。そうすれば自己推薦などは絶対に出来ないはずです。Ⅱコリント10章12~18節の通り、『主に推薦される人=主によって召され立てられた人』は他の信者の目にも明らかになり、認められるようになる筈です。ダビデがそうであったように。更に使徒20:28に「聖霊は~牧させるために~監督をお立てになった」と記されているように、監督=牧者、教者=長老は聖霊なる神が立てるのです。私たちはテモテ書やテトス書に記されている基準に沿って、聖霊がお立てになった監督を知り認めることが必要になります。
勿論、テモテ書やテトス書に記されている条件を全ての面で100%クリヤする完璧な人はいないはずです。
程度の問題があるでしょう。例えば子供がいない人が監督=牧者になれないと言う事は有りません。聖書を読み解く場合にはどのような背景でそのことが書かれているかを必ず考えなければなりません。法律の解釈にも目的論的解釈が有り、その法律が定められた目的に沿って解釈する仕方で、これは聖書で禁じられている私的解釈には当たりません。監督の厳しい条件が記されたのは集会の秩序と調和、健全さと証しの為です。それ故その条件に完全に一致していなくとも近い事が必要になります。そうでなければ集会をリードし導くことは大変難しくなります。
更に使徒20:28でひとつの集会に監督は【overseers】と複数であることを示しています。テトス1:5にも「町ごとに長老たち」、ヤコブ5:14「教会(単数)の長老たち」と記されており、一つの集会に一人の牧者は聖書的ではありません。監督=牧者は確かに神の前に責任を持たなければなりませんが、監督を単に責任者と考えてしまえばテモテ書などに記されている監督の条件を当て嵌めなくてよい事になり、混乱を生じさせてしまうでしょう。み言葉を畏れる心が求められます。
物理的にも共に集まるのが集会の基本です。ネットで集まるのを神の集会(教会)と呼ぶのは聖書的に無理があるでしょう。ネット教会も牧師同様、聖書に存在しません。いろいろ書きましたが批判の意図は有りません。
拍手喝采👏
ルター以前では、一般の信者は、殆ど聖書を読めない人で、聖書も教会に置いてある。
ルター以後に印刷して金持ちから聖書が一般に普及して、今は誰でも読むことができる。
買うことができる。
クリスチャンの立場から言うと、牧師という単語は安心感がありますよね?未信者に話すとき、私の行っている教会には牧師がいなくて、神学校を出てはいない人がメッセージを取り次いでいるのよ、と話すと未信者は混乱します。実際、そういう教会、エクレシア、つまり集会に行っていました。現在はあれこれ迷いの中にいます。
迷える子羊婆さん😂
パウロが連れてった、テモテは伝道者(それとも教師)というジャンルにはいるのかな?教える人がいて教えられる人がいる、、、でも教えている人も時に教えられることがある、なぜなら聖書は神の言葉で私たちはある意味まだまだ神様のレベルから見れば幼いから、、、ヤコブ書には口を制御するのは難しいからだれでも教師になってはいけない(?)と書いてある、ヘブル書には教師になって要るぐらいの時間が与えられていたのにまだ幼いと言うような表現がある、、、信者になったばかりの人を指導的立場に置くのがいけないのかも知れない、またペテロ書を読むと長老(教師的な人か?)的な人が神の羊を牧しなさいとかいてあります。(牧師の牧はここからきているのかわかりませんが)、強制されてでもなく、神に従って、、、、お金を目的でもなく、支配するのでもなく、模範になるようにと、、、結局みんなが十分に成長して、より救われ、その方々がまた成長して、だれが上とか勝っているとかじゃなくみんないっぱい恵みを受けるって言うのが神様の目的かな?
エペソ書 第四章 十一節
彼は或人(あるひと)を使徒とし、或人を預言者とし、或人を伝道者とし、或人を牧師•教師として与え給えり。
(日本聖書協会 1974 文語訳聖書)
御参考迄に!
まぁ、相変わらずですが、完全に同意しますね。
共感できます。
個人的に思っているのは、私たち信仰者はイエスに在る信仰に繋がるお互いで、既に私たちは神から見ても世から見ても「群れ」である、という認識です。
だから、まずは一個人として、イエスの救いを信じ受け入れた自分は神のからだの一部とされている自覚が前提にあって、そこからの考えだなあと思いました。
それで、神がその一人ひとりに「役割」をお与えくださっているという理解を私はしています。
その時点で「責任」があるのもまた大前提なんだと思っています。(第一コリント10章31節)
人が複数人になって増えるほど、問題や混乱も増えると思うのですが、そこで様々な「役割」が自ずと必要になってくるのだとも思います。
キリスト者としての、責任も、群れにおける秩序も、神に従うために丁寧でありたいと考えています。
しかし失敗ばかりが現状で。でも、そのためにも「互い」を、神はおいてくださっているんだなあ、と…。様々に、イエスに繋がる愛を示し合うために。これが神様の御恵みだなあとも、日頃よく思います。
相手がクリスチャンであってもなくても、主の愛を意識した生活をしていたいです。
信じる者の内に主が住んでいてくださり、共に歩んでいてくださることに、改めて感謝がわきました。
興味深い内容を今回もありがとうございます。
私が自分の肩書きとするのは、、と考えたら、「ハレルヤばあば」かな、と思いました。笑
イエスラバー❤もいいですね。!
いつも斬新な?バイブルシンキングをして下さり、ほんとに面白いし、目からうろこです。
楽しく、また、有意義に学ばさせてもらっています。
ありがとうございます。
ユダヤ暦5784年第4月3回めの安息日(改良ユリウス暦2024年7月27日)おめでとうございます!ヘンボッカン・アンシギル~。この対談動画の最初の部分。「牧師(仕)」という言葉自体は、エペソ書4章11節の新改訳のみならず文語訳・口語訳でも使われていますが、なぜこのおふたりは新改訳のみと言い切ったのか?その点は疑問ですが、この対談自体は有益で示唆に富むものでした。私が拓馬さんを誉めるのはまあ非常に珍しいですが。苦笑 皆さま、暑い中ですが最良の聖日をお過ごし下さい。
タンムズの月の21日
確かに私もプロテスタントも、カトリックの流れから来てます。小林さんのおっしゃてる牧師さんは?普通の牧師さんは
主につかえ、信徒さんに、つかえておられます。
カルトの教会は、あきません。
聖書を読める人、聖書的に誤りか正しいか検証できる人がかつての教師で識字リテラシーがほぼ完全になった段階で万人牧者が達成された。せいぜい私塾の先生です。資格もへったくれももともとないでしょう。
聖書にないって言うのなら、ネットで教えることも問題なんと違いますか?
牧師という職業は人間が作った制度なので、、
まあ、それを取り入れるのか否かは、人が決める事なので、、
聖書によれば必要ないのですが、人間の知恵の結果が、
組織、資格、権威、、となっていきます。
歴史はその繰り返しという事ですが、、
原則必要のないものと、気づかされました。、
「給食当番」に思わず「それそれ!」ってなりました(笑´∀`)
マネジメントという表現は今の時代とっても分かりやすいと思いました。
イエスLOVERです!
最初の教会でも言われたな。
「説教中の話はイエス様の言葉として聞いてください」と。
聖書に牧師、と言う言葉はないことは知ってましたが、例えばアメリカとかはどんな単語が使われますか?私の最初の教会は、牧師に当てはまる人をリーダーと呼び、代表の立場のアメリカから宣教に来た人を宣教師、と呼びました。一般の人に話すときは、牧師、という言葉は分かりやすいです。
聖書の解説者。
私の知っている長老派教会は、今回のお話の通りの教会でした。今思えば、特殊な群の人たちです。
私の出身中学の前にあって、牧師さんに聞くとフランスのカルビン派だと大昔に聞いた気がします。
日本のクリスチャン人口が1パーセント未満と言ってるけど、私はそうは思いません。お二人のように有名でなくても、地道に、【家の教会】を作って活動したり、SNSで教会活動をしている人もいるので、実際はもっといると思います。そして私も牧師と信徒は同じだと思っています。’私の派はそう言うところです。牧師はメッセージを語る権威をいただいている人。信徒それぞれも賜物をいただいて教会を立て上げる人たちです。しかしたまに牧師の中にも勘違いして、私には権威があると思っている人もちらほら。
同じ部屋だよね
わかっていても、あれって思う
理屈は分かるけど、今現在、大学の神学部や神学校にいかずに牧師になれるかな。また、信者が認めてくれるでしょうかね。
ちなみに、最近、神学校の生徒が激減しているし、東京ルーテル神学大学の学生の募集を中止にしたと聞きました。理由は、一神教が日本にあってないのかかも知れないのと、明治の始め頃と終戦直後は、欧米からの圧力があって特別な時期だったが、今後はキリスト教信者は激変するかも知れないですね⁉️
既存の教会のスタイルは、変わるかもしれませんね。でもクリスチャンは、存続しますよ。
もうすでにキリスト教信者は激変し始めていますね。 それは、反社会的な入れ墨を入れた人達がキリスト教会の頭になっているということです。 そのような人達がキリスト教会の牧師になっていることを危惧するプロテスタント信者は多いと思いますが、彼らのような人達がキリスト教会の頭となることこそ神の導きなのです。 プロテスタント信者たちは聖書を読み、学び、研究している人達が多いのに、何故そのことに気付かないのでしょうか? 福音書を読めばイエス・キリストと弟子たちは反社会的な人達として書かれています。 彼らが律法学者たちに迫害されていたのは、彼らがキリスト者だったからです。 彼らはナルドの香油というバルサム油を灌がれていたために迫害され、イエス・キリストは裁判で有罪になり、使徒パウロは獄に入れられていたのです。 現在のプロテスタント教会が激変したキリスト教会の姿であるということにプロテスタント信者は気付くべきです。 キリスト教会はとても危険な場所になりつつありますから。
@@フクダセツコ-g9q 先生、私の思うところは、西成カトリック教会は除くとして、私の行っていたカトリック教会は、高学歴高収入のエリート集団だったので行くのを辞めました。私が友達に誘われ行ったカトリック教会は、中高一貫のキリスト教の進学校を卒業したお医者さん、高校の教員、銀行の支店長さんが信者のボス集団でいて、ぞーじるしの会社に勤めているご主人の奥さんが、「お宅のご主人は、どこの大学を卒業されているのですかと聞かれて高校卒業です」と言うと凄く馬鹿にされて気分が悪くなって、カトリック教会を辞めましたね。ちなみに、カトリック教会の洗礼は、慣習として同性の立ち合い人❨※信者仲間❩がいる事と、神父さんに謝礼として1万円、洗礼ネームの登録代金が1万円となっています。ただ、このカトリックの洗礼証書は、例えば長崎市に旅行して、浦上天主堂に行っても洗礼証書を見せれば、心良く日曜日のミサに入れてくれるそうですよ。
一方、プロテスタントは、社会のレールから外れたホームレスは、大阪市西成区の釜ヶ崎の炊き出しなので、キリスト教に触れて洗礼を受けてクリスチャンになる人が多いと、NHKのEテレの「ここの時代」で時々、ホームレス救済事業を取り上げていますよ。
先生、このお名前の牧師さん知っているでしょうか、西成区釜ヶ崎のメデタ教会牧師の西田好子牧師さん、北九州の小倉市でホームレス救済事業をしている牧師さんの奥田知志牧師さんは、ともに関西学院大学神学部卒業です。
それと、元極道で背中一面に入れ墨をして、大阪のミナミで、信者のほとんどが元ヤクザの弟子教会を経営している金沢○○牧師さんは、生駒聖書学院を卒業されています。
聖書の大昔の話されたる早稲田大学を卒業してTBSに勤めていた牧師さんの理屈は分かりますが、結婚式、葬式、洗礼式、聖餐式はやはり神学校か、大学の神学部を出ないと分からない儀式の型と聖書の解釈がゆがんでくると思うので、牧師さんにはなれないと思いますけどね。また、カトリック教会は、上智大学神学部、聖公会は立教大学神学部の卒業が絶対に必要だと思います。私はこの神学部と神学部を否定する牧師さんの話を聞いていて思ったのは、東京都世田谷区経堂にある内村鑑三さんの無教会主義のキリスト教集会場がいいと思いますけどね。あそこは、大学教授、弁護士、医師などの知識人の集まりだと来ていますけどね。
ルーテル教会で居眠りをしているヘボクリスチャンよりの感想でした。
えーっと
母教会は、牧師の決定に一切意見を言うことも、質問することも許されません。
エペソ4:11や第一コリント12:27,28を根拠とする牧師や教師は現存しない役割だと思います。というのも、その役割は人選ではなくキリストが当時の時代に直接お立てになったものだからです。現代、牧師を名乗る人は、自分がキリストによって立てられたとどう証明するのでしょうか。監督や執事や長老と、牧師や教師(ディダスカロス)は区別して考えなければいけないと思います。
したがって、クリスチャン一人ひとりは、「本来の」牧師や教師(ディダスカロス)の発言には、絶対服従すべきだと思います。
両親は12年前津波で亡くなりました。16歳の時です。母が見つかった時聖書が懐に、父は未だに不明。今は結婚して子供二人。昨日その聖書を燃やしました。これ三軒隣の奥さんの事です。私の家にマッチがあったので旦那さんと三人でしゃがんで皿の上のそれを燃やしました。それでキリストはもう居ません。来てもらっても困ると言ってました。二人は火が消える迄泣いていた。
あなた方は地の果てまで伝えなさい,この事をわかっていますか
羊の執事