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日本に生まれて良かった!幸せです。
小名木先生、今日はいつにも増してカッコいい🤗戦後の教育で妙な自虐史観を植え付けられ、さも当たり前のように渡来人説などの珍説を信じさせられてきた私たちにとって、考古学的、地質学的、分子生物学的に新しい発見が続き、事実に基づいて歴史を正そうとされる先生の御講義は、理にかなった正論だと思います。おかげで国家観を正すことが出来ました。ありがとうございます🙏応援しています🙋
小名木先生の貴重な研究、素人にも分かりやすいご説明 実に楽しく拝聴させて頂いております。
いつも、楽しく見させて頂いております。
!
インドの南にあるゴアに行ったとき、地域の言葉の中を聞いていると、まるで日本語かと思うような同じ単語がたくさんあることに気が付きました。当時はポルトガルの植民地であったゴアと、鉄砲とともに日本に入ってきたポルトガル語のためかと思ったが、もっと奥の深いところに起源があったかもしれないと勉強になりました。ゴアとマドラスは大航海時代、日本へ渡る航路でつながっていました。ちなみにインドの東、カルカッタの近くに、見かけも風習もまるで日本人の少数民族があります。世界はロマンにあふれている!
インダス文明とメソポタミア文明は貿易などを通して交流があったことは明らかです。そしてインダス文明が滅んだあと、その人々がインドに散りました。ゴアでもインダス文明の影響を受けた人たちなのかもしれませんね。インダスの人たちがどうなったのか、よくわかってないようですが、タミールに移ったと考える説が有力です。タミール語は学習院の大野晋先生が日本語の起源ではないか考え、国語学会から孤立しながらも最後の20年間をその証明に心血を注がれた学説です。航海術や遺伝子調査の人たちは、この説に賛成なのですが、国語学、歴史学の先生たちは否定的です。でもいつか大野説が勢いを取り戻す日が来ると信じております。
インドは神道が語源。ヒンズー教も同じ語源。社会階層も当時の日本の社会階層同じ。
インドの地名は神道が語源。ヒンズー教の語源も同じ。社会階層の成り立ちも完全に日本と同じ。
小名木先生 ホントよく勉強 研究なさってますね! お陰で興味深い面白いお話し聞かせて戴いて有り難う御座いましす!私歴史には興味があって色々な本を読んできました、が、先生の話はちょっと一味います!もう73才に成りますが、昔 歴史本を楽しく読んだ頃を思い起こし 先生の講義で残りの人生を楽しく過ごします‼️・・・🙏🤗🤣🇯🇵
小名木先生の授業好き!
いつも楽しく見ています。これからも宜しくお願いします。日本をカッコよく!
小田先生、いつもありがとうございます😊感謝いたしております❣️
この番組を、中学の義務教育で取り上げ学習してほしいよね・・
今回も深い学びをありがとうございます。ほんと日本に生まれて良かったなとホクホクします。
舒明天皇のお歌を「俺の女になれ」と訳した人がいるとのお話で、思い出したことが。額田王の歌「あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る」の美しい歌を何処をどう訳したらそうなるのか、全部は忘れましたが「股を広げて待っている……」。それを言ったのが、韓国の大学で日本文学を研究している女性の教授で、この歌は韓国語としても読める、韓国語として読んだらこうなる、の一節でした。本当に見かけは上品な方だったので、衝撃的でした。なんて下品な解釈なんだ、もう日本の一切に関わらないでくれと憤慨したのを思い出しまた。舒明天皇のお歌を訳した方もひょっとしたら韓国系の方かも知れませんね。
李寧熙『もう一つの万葉集』ではそんな裏読みができるそうですが、古代史研究者の小林惠子氏によると、政治的な窮地や年齢から考えてありえないと言ってます。さても万葉集巻1-1雄略天皇の御製の歌の小名木さんの現代語解釈は、わたしを活眼させる折口信夫がすっかり霞むほど秀逸です。
ややや~ ままま~ とっとっと沢山の調和と統合心を音で表し、文字で示す。表現て面白いな
ニッポン→ジャパン(英語訛り)だったんですねwなんでJapanなんだろうとずっと不思議でした。日本は和の国。「やまと」という響きは、とても懐かしい、日本人にとって心地良い響きですよね。現在の日本にも雄略天皇が欲しい‼︎(悪人をやっつけて‼︎)
本当に素晴らしいです。日本に生まれて本当によかったです。ありがとう御座いました。
いつも貴重な同じを楽しく分かりやすく教えて下さりありがとうございます。"やまと"が万葉集から来てると学校で教わった記憶が無くて焦ります。万葉集自体馴染みが無く深掘りした事がありませんでした。こんなに素晴らしいお心を持ってらっしゃった天皇の事をもっと知るべきだと思いました。仁徳天皇の国民が貧しい時課税や課役を免除された事も有名ですが、そういう大切な事も大人になって初めて知りました。そして日本から16支族が海外へ渡り、また帰って来ると約束したというお話を耳にしますが、その証拠が、実証されて来ていると感じます。日本人としてのアイデンティティが危うくなってると感じる昨今、私達は進んでもっと日本国の本来の姿を勉強するべきだと思います。そしてその日本魂を結んで行きたいですね。
日本→日ノ本(ひのもと)は別に⌈霊(ひ)ノ本⌋と言う意味があり、森羅万象の元を成す、全てを生み出す本の国と言う意味も有ります
大変勉強になりました。分かりやすい説明して下さりありがとうございました。
南米から縄文土器の破片が出るくらいなので、日本人は世界中の海を旅していたはずですよ。
小中学校で教えていただきたいです。ありがとうございました。
日本は 昔々においても 精神性 高いですね それをず〜と伝えてきた。大切で 大事にしていきたい事です。お話有難うございました。
やまと、喜び溢れる楽しい国。精神文化においては、1,000年前からあったやまと。ハッキリ声は素晴らしく解り易い説明です。美しい理想の国家。
「やまと」の他の我が国の呼称って扶桑や蓬莱以外にも色々ありますね。 敷島、八島(大八島)、山城、山背、葦原瑞穂の国、等。昔の人がいかに相応しい国称にするか思い悩んで熟孝していたかが伺えます。 (そして後世、その名前を片端から戦艦の名前につける…)
「ヤマトンチュ」と沖縄方言でいわれる内地人。「ヤマト」は強烈な印象を残したのだろう。
日本・日本人とは、何者か?中川八洋 著『超先進国日本』渡部昇一 著『かくて歴史は始まる』ボブ・フィックス 著『時を超える聖伝説』千賀一生 著『ガイアの法則』シリーズ
親父ギャグとか駄洒落とか万葉集のころから続く文化だった大事に継承していきましょう
「やまと」を紐解くと日本のくにの形が見えてくるのですね。つくづくよい国なんだなーとありがたく感じます。このよい日本を千代に八千代に残して行きたいですね
大和に差し掛かる度にクスッと笑うのが良いですね(笑)色々と勉強になります。と言うか陰謀論や都市伝説が真実に近い事が実証されてきて個人的には非常に楽しく拝見させて頂いています。
ポルトガル人が1543年に初めて日本と接触した後、南蛮貿易で大規模な奴隷貿易が発展しました。ポルトガルの貿易の1つには、ポルトガル自体を含む海外のさまざまな場所に販売した日本人のポルトガル人による購入が含まれ、南蛮貿易が存在していました。 16世紀から17世紀を通して。多くの文書は、日本人の奴隷化に対する抗議とともに大規模な奴隷貿易に言及しています。 1555年にローマンカソリック教会が指摘したように、日本の奴隷は彼らの国で最初にヨーロッパに到着したと考えられており、ポルトガル人は性的な目的でポルトガルに連れて来るために多数の日本の奴隷の女の子を購入しました。ポルトガル語での奴隷貿易が大幅に拡大して以来、カトリックの改宗に悪影響を及ぼしたため、彼は1571年にそれを禁止するよう命じた。ガスパール・フェルナンデス、ミゲル、ベンチュラという16世紀の3人の日本人奴隷がメキシコに到着したという記録によると、彼らは日本のポルトガル人奴隷貿易業者によって購入され、マニラに運ばれ、所有者のペレスによってメキシコに送られました。 数万人以上の日本人、特に女性が奴隷として売られた。ポルトガル人の訪問者は日本で奴隷制に従事することが多く、時には南アジアとアフリカの乗組員がマカオや東南アジア、アメリカ大陸、そしてゴアに日本の奴隷と商人のコミュニティがあったインドの他のポルトガルの植民地に連れて行かれました。 17世紀初頭までに、その多くは売春婦になりました。奴隷にされた日本人女性は、1598年の文書でポルトガルのイエズス会のルイス・セルケイラが言及したように、日本で取引されているポルトガルの船に乗るヨーロッパの対応者と一緒に、アフリカの黒人乗組員にコンキュバインとして売られることさえありました。 秀吉はこの奴隷貿易についてポルトガル人とイエズス会を非難し、結果としてキリスト教徒の改宗を禁止した。しかし、歴史家は、特にポルトガル人による性的目的での日本人女性の購入に関して、反ポルトガルのプロパガンダが日本人によって積極的に促進されたと指摘している。南蛮貿易で日本に来ていたポルトガル人の中にも1492年以降、異端審問を逃れてきたセファルディム系の人たちがいたと思いますが日本には悲しい歴史がありました。大村純忠がカソリックに回収してポルトギーズの奴隷と自らなりカソリックに回収しない大和民族を次々にポルトガル船に引き渡した歴史があります。弾丸一つに対して50人ほどの女性、処女はポルトガル人の奴隷として売られていたほどです。モザンビークの黒人奴隷がポルトガル船に載せられて日本に到着した際にポルトガル人はモザンビークからの黒人奴隷に日本人奴隷を買う許可を与えていたのでモザンビークの黒人奴隷が性的欲望に飢えていたのを切っ掛けに日本人奴隷、(主に女性、処女)は売り飛ばされていた現実があったことに信じられないほどの驚きがありました。日本の教科書に載せられなかった現実な真実です。その数は何千万人とも言われています。ユダヤ教では奴隷制度がありましたが現在の奴隷密度とは異なっていました。でもポルトガル人の奴隷制度は厳しかったと歴史が伝えています。まあ、この事も歴史の一部として心に残しておいて下さい。先程説明にありますようにモザンビークの黒人奴隷が性的欲望の為に大和民族の女性、処女を買っていたことについては歴史上信じられない驚きがあります。弥助というモザンビーク黒人奴隷が日本の将軍になったのはご存知でしょうか❓約四十万人以上との情報。弾丸一つに50人ほどの女性、処女はポルトガル船に載せられて連れて来られたモザンビークの黒人奴隷が性的欲望の為に処女を使用したとの事も発覚している。ポルトガル人奴隷となった日本人は未だに奴隷であり自由の身になっても奴隷であることは変わりない。奴隷の主である者が解放し、証明を提出しない限り奴隷である。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り、性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。ポルトガルの奴隷貿易で数十万人以上の日本人、特に故郷から遠く離れた異国で働く水夫等を懐柔するための奴隷として女性が売られたとされている。日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ (Luís Cerqueira) が1598年に書かれた文書で述べている。ポルトガル人がアフリカ土人 ー ポルトガル系モザンビーク黒人の奴隷を所有し、その黒人奴隷が日本人の奴隷を所有するというように、自ら他の奴隷の奴隷になった者もいたという。掘り下げが、もうひとつな記事。九州キリシタン大名(ローマンカソリック宗派)の多くが、火薬欲しさの改宗で、その代金として、領民、特に高く売れる若い女性を、ローマンカソリック教会キリシタンがらみの奴隷商人に積極的に売っていたのが、事実でしょう。同時代に、ローマ法皇を訪れた、天正少年施設団によると、道中インドや東南アジア、ヨーロッパ各国に、あまりに日本人の奴隷にあふれ、虐げられている事実に驚愕したとあります。その数一説には、数十万人とも言われ、メキシコや、アルゼンチンにも達したと言われています。とすると、九州でのローマカソリック教会キリシタン狩りの、通常日本人ではありえない残酷な拷問などの弾圧も、奴隷売買=ローマンカソリック教会キリシタンの、民衆の深い憎悪がベースにあるとすると、自然です。秀吉による禁教は、むろんこのためでしょう。明治維新の西欧化政策に加え、GHQのウォーギルティプログラムにより、ローマンカソリック教による東洋の植民地支配の事実を封じるため、こうした史実はタブー視され、原資料、二次文献も、焚書されているのが、実情かと思います。家畜の売買と同じ。あと、宣教師たちに奴隷を提供したのは日本人の奴隷商人(大村純忠、長崎、大分県達)だったことも知っておいて下さい。。。。。。
ヤマトゥは、ヒブル語では、ヤー 神 マトゥ 民神の民
それが 一番近いと思います。
先生の声ははっきりと聴こえています。
幕末パリ万博の時、徳川幕府と薩摩藩が夫々独自に出展した。彼らは我こそは「日本国の代表」と主張して廻った事例と、旧唐書の記録は合致する。
【「倭」から「大和」と「日本」への考察】 大と八は何方も字形は末広がりであり、大は八に一を加えた形状をしています。漢字としての意味は「大きい」と当時の大和人には「大きな数字」または「沢山」の意とするならば、その下に「倭」のと同じ読みの「和」和み、融和の意を込め大きな和み、沢山の和族の様な意味を持たせたかったのかもしれませんね。 また、「日本」の「日」は、太陽や重要な3神の第一の「天照大神」を含めると共に、「数字の1」の意の「ひ」を重ね「やまと(HIaMaTo)」、または、もう一つの漢音の「いち」の発音を借り、「やまと(IaMaTo)」としたのかもしれませんね。 一件、倭と大和と日本には何も関係が見い出せませんが、「筑紫の日向(ひなた)」(伊都の北の日向峠近辺)での禊(みそぎ)から始まった地上の神話、或いは須佐之男命から大国主命につながる「労働集約型水耕稲作」文化の源として、①太陽運行の照らす影の先の観測を②月齢観測に「夏至や冬至」を加えた暦を加え、③大地の鼻つまり高いところから流れ出る水を治める匠の力を総合し確立した三神(自然の摂理=自然科学上の法則)の①太陽運行を1番崇める心が、大陸側の通称「倭」を良しとせず、「大和」そして「日本」に改める根底に在ったのかもと想えて来ました。 日本語の数の「ひ・ふ・み…」と「いち・に・さん…」の最初の1に当たるものも、元は「Hi(tch(i))」とかの発音で、「H音」を認識しない海人族が「I(tchi)」、大丈夫な海人族が「Hi」と発音していたことに始まるのかもしれませんね。地球規模の海洋民族ネットワークの流れを考えると、それぞれの元の言語族の出自により同じ言語に同化しても発音の得て不得手で発音に癖は出るものです。今でも、江戸下町言葉では「し」と「ひ」の区別が、九州北部でも「さ行」が「しゃ行」で発音されたり「うどん」が「うろん」となる等の多様性が残っています。同じスペイン語でも「LL」音はスペイン本国は「りゃ」、南米系では「じゃ」に聴こえる発音をしていますが、本人達は同じに聴こえるらしいですから、ヒトの言語脳と言うものは罪なものです。また関東と関西ではアクセントの違いで意味が異なる言葉もそれぞれで在りますし、関東系に近いアクセントながらも九州北部の様にアクセントによる意味区分を認識しない日本語族も存在してもいます。五十音を文字の上での標準としてからでも、文字で著したものを違う発音やアクセントで活用する語族が仲良く和を保ち、列島に共存し続けたということかと思います。7世紀以前の海洋民族ネットワークの実態と行動半径が明らかに成れば、そのネットワークの列島の倭人の文化的位置付けの変遷や、陸の「労働集約型農耕文明」を基盤とした国家を作る発掘遺跡に先行する「海洋民族」の培って行った文明の息吹が感じ取ることが出来ることでしょう。 残念なから記紀は7世紀の「労働集約型水耕稲作文明」が確立後の編纂で、海洋民族ネットワークの一翼を担った古代海人族の文明は、日本史上も先史と成ってしまっています。津波や海面下の都市遺跡の水没等で海中深くの地層に埋まり朽ちることなく存在する遺物の発掘から、大量の古代文字を刻んだ木簡等が発見されることを期待しています。主に日本から世界中に文明が伝搬しただけなら難しいですが、逆の流れが在れば、西の古代文字で記載された古代日本語が見付かる可能性も在ります。そうしたら、古代日本語の発音の変遷や形成の過程迄解明出来るかもしれません。
良く聞こえています
ヲシテ文献でのヤマトの意味は恵みを分け与えること。共産主義が闇の社会主義だとしたら、日本は光の社会主義の国であった。
感動しました
あにはからんや、日の本の国は、欧米に対して、最古の磨製石器が有り、漆細工が有り、煮炊きの出来る焼結土器を用いていた。名実共に万の先に立った国です。ここから世界の文明が広がった。宗教の基の形を作ったのかも知れない。土器の文化(文明)は、日の本から始まった。
言葉や文字は時代と共に変化進化していった、生き物みたい。固定概念にとらわれず、聞いていくと、ガクモンも学びから楽しみに 楽問に変わるかもしれない。
聴こえています。大変わかりやすく、勉強になります。有難うございます❗️
カザフスタンの地名に"ヤマトゥ"があるそうです。そこから200km南に"ナラ"があるそうです。そから東隣国キルギスには海幸彦山幸彦の同じ内容の神話があるそうですね。 秦氏は中央アジアルートで来たガド族(マナセ族等他族と一緒に)かもとの説を散見します。 ガド族のマークはテントみたいなマークで、移動に耐える幌式の社を用いた儀式があったことから、もしかしたらガド族は祭祀を司る部族(?)と妄想してます。先に到達した、王を輩出したエフライム族は、移転先の調和(浸透)を重視し、後に到達した、祭祀を担うガド族は、アイデンティティ復興のため呼称を含む様式の復刻を試み努めたのかもしれません。…などと個人的に超妄想して楽しんでます。😆
ヤマトは神のお告げにより船で1年半かけて直行してきた人びとが住んで居るところですからへブル語で神に選ばれた人々が住むところという意味ですそのままです
中央アジアに居た秦氏(ヘブライ)を 何とかの天皇が招聘。秦氏の住んでいた地名がヤマト。ヤハヴエのヤ マトは人々。ヤマトとは神に選ばれし人々。男系の皇室はヘブライ系だと思います。
感動しました😭
モーセ率いるユダヤ人がアッシリヤの奴隷だった時代にその奴隷の人達をヤマトゥ族と呼んでいた カザフのイリ川沿いにイリ王朝があってその都をヤマトゥと呼んでいた (聖書より引用)
まぁ、自分自身のことを「わ」と発音するので、自分の国は「わのくに=わこく」ですし、自分自身は「わたし」なわけですよ。当時は翻訳家も通訳も今ほど厳密に言語体系を理解して通話していたわけでないですから、和音の「わ」に対してどの漢字を当てはめるかだけの問題だったと思いますね…最初は音だけの「倭」だったんでしょうけど、よりいい意味を持つ「(大いなる)和」に変化したでしょうし、さらに「自国の成り立ちの意味」を考えて「日本」をヤマトと実は読ませていたのかもしれません。…時代は下って知恵のついた者たちは「ひのもと」と呼ばせていたかもしれませんが…。ヲシテでは国造りのはじめである「トの教え」を最初に成しえた地域をヤマトと呼んだみたいですね。その素晴らしい国の記憶が代々受け継がれ、ヤマトと訓読みさせたのかもしれません。Japanなんて日本を支那読みしてジーパンが変形(一説)…最終的には我々はそんな風に呼ばせないのと一緒ですよ( *´艸`)
ジャパンの語源はジュパンでペルシャが使った、ジュとはユダヤの語源で東アジア人の事で特に日本人を指す、パンとは同盟という意味で東アジア人同盟という事で日本列島と満州、モンゴルなどとの同盟組織の事、ジュパンには古代ペルシャも含まれるとも思われる、同盟会議がジルガジル=大きい、ガ=ガザリング=会議、ちなみにジルガは約一年に渡り開催、そこで決まったのがイズムで開催された場所はイズモとなった、
ヲシテ文字の「ヤマト」を見れば理解出来ます。後から漢字を当てはめたのですから、何通りも出来たことでしょう。漢字の元となる意味は既に古来より日本に存在していたので意味から当てはめたのでしょう。山止、耶麻土、地方にあらゆるヤマトがあって当然と言えば、当然ですね。
戦艦の命名は旧国名により、巡洋艦は川や山の名前から命名されましたの。航空母艦は神獣(鳥)の名から命名されましたわ。ただし、戦艦や巡洋艦から改修された航空母艦の艦名は元のままです。
ヒトはコミュニケーションを図るために音声による話し言葉が最初にあったと考えます。それは日本列島という島国でも地域差があったように思います。また、外国?から日本列島に来た民族が新たな言語を使います。そもそも日本語の50音に落ち着いたのは平安時代。同じものを指す別の言葉は時の勢力者の力加減で「ことば」の重要度が変化したのではないかと思います。 最初は「クニ」という概念がなくクニをあらわす言語は必要なかったかもしれません。国と国との外交が必要な時に「自分たちの国の名前」と「相手の国の名前」がでてくるはずです。 日本では奈良時代に文献として現れますが、中国の古文献には日本列島から朝貢があったと書かれていますので、何かしらの「クニの名前」を少なくとも音声で伝えたと思います。それが「ワ」であった可能性が高いと思います。また、「ナ」多分あなたの意味で発した言葉が誤解され「ナ国」なるものができたのでは・・・・。それに、充てられた漢字が「倭」であり「那」であったと考えるとつじつまが合います。 「やまと」も先に音ことばあり、それに漢字を当てはめた。ヤマトを国の名前にしたかどうかはわかりません。しかし、政治の中心になった種族が自分の住んでいる場所をそう呼んだのかもしれません。いつの間にかその種族が多くの地域を統率するようになり、ヤマトの範囲が増加していったのではないか。その語源はやはり、外来語ヘブライなどの種族の言葉で影響をうけたのではないでしょうか。 「ひのもと」一番東の土地。大陸を意識したことばですね。奈良時代に外交で自国を誇示するためにつけた名前でしょう。のちに、漢字を日本の50音に変化させて当て字(意味を持たせた)に使ったのです。音と訓読み、あいまい音を無くしていった結果、現在の言葉になって残っていると考えます。日本語の標準語、常用漢字などはつい最近のこと。それまでは、中央政府の標準語や漢字は存在していたとしても、日本国中に浸透していません。別々の言葉を使っていたでしょう。
左翼学会の出してる歴史教科書が如何に出鱈目か良く分かりますよね。
まあ、左翼の人達は中国が主人ですからねー。
恐い恐い、あいつらは歴史まで嘘をつくからな
「常磐神社」の「常」は「と」ですね。
にほんと読むのは、日本橋、日本書紀のみと大正13年に正式に制定されました。
いつも勉強させていただいております!ありがとうござます!せっかくならニホンではなくニッポンと発音された方が良いかと思います。
石野遺跡の魔制石斧の謎をお願いします!
物部氏の本拠地東大阪の草香の枕詞が「日下」(ひのもと)で世界の中心という意味。物部氏の尊称を「日下大将軍」ともいう。「日下草香」(ひのもとのくさか)が転じて、「日下」を(くさか)と呼ぶようになった。「日下部」(くさかべ)さんて聞いたことがある苗字だ。「日本」という国号は、「倭」が(小さい人)という意味で中国が当てはめた劣字だったので、それを嫌い変更したものだ。ヤマトの名がその拠点である現在の奈良地域を指すことと混乱していたので、敢えて「日下」(ひのもと)を採用し、よりましな威信のある文字に置き換え、「日本」にしたのだろうか。
平和で有ってこその文化の文明
生駒市北部高山地区に北倭村っていう村があったそうです。本当かどうかは知りませんが 大和王朝前にニギハヤヒさんの王朝があったらしくニギハヤヒさんが物部氏の祖神で天照大神であり猿田彦さんでありキリストだとおっしゃる方もいらして 生駒市真弓に墳墓があり妻が瀬織津姫であり卑弥呼さんだとおっしゃる方がいらっしゃって 近くの長久寺の中にある伊弉諾神社も登美神社だとおっしゃる方もいて気になっています。また邪馬台国があったっていう方もいてます。(色々な方のブログより)倭は北倭村と関わりがないのでしょうか?そこも とても気になっています。近くの富雄の丸山古墳も卑弥呼さんや皇祖神のニギハヤヒさんの古墳だと考察されてる方もいらっしゃるようです。真実を知りたいです。考察 よろしくお願いいたします。
ジャレド ダイアモンド(Jared Diamond)のカラプス(Collapse)の第2章 にイースター島の黎明と衰退 にポリネシア語が出てきまして、穂先が黒曜石の槍(複数)をマタアと呼ぶそうです。後はどこで読んだのか忘れましたが、マタアが集まると「的 マト 部隊」になるそうです。マトが沢山でヤ大和(ヤマト 軍団)になりませんか?今は使っていませんがヤマト糊の蓋は矢が的に当たっている図柄でして、ヤマトそのものです。私はヤマトの語源をポリネシア語だと思っていました。
耶摩斗と漢字あそびをすると耶は村を指し摩は磨製の磨と同じで擦るみがく斗は柄杓のような軽量できる容器そういうものを産出する集落だった気がするw
大陸から見て、沖縄に住む人は海人(うみんちゅ)で、阿蘇の山がある九州の島に住む人が山の人。だから、自分たちのことをやまとと呼ぶのだと思います。(自説)
私も似たような発想で考えていました。「やまと」は遡ると「やまんと」で「やまのひと」を表すのではないかと。これは当時大陸に住んでいた倭人が日本列島側の人たちを指した呼称ではないかと想像しています。その頃は列島の周(しゅう)が把握されていなかったために「しま」だとは認識されておらず、陸地という意味で「やま」を使ったのではないかと思っています。もし、しまであることが分かっていたら、「しまんと」から「しまと」に変化していただろうと想像します。その後倭人は皆この列島に移り住んでしまったために、もともとは少数派の意味が込められていた「やまと」が普通のひとたちを表すようになってしまい「やまと」の意味が分からなくなってしまったのではないかと思います。(私の自説)
👍✨ 戸田健樹1944 東京 Very Very Good 😘💖🎉🎉
山門もあります。
戦艦扶桑の同型艦は山城ですね
大和ヤマト=(ヘブライ語)意味=>神によって選ばれた卓越した強い民族
ヘブライ語でやまとは神に選ばれた国、の意味ですか、誇りにに思います。
素敵です!ありがとうございます✨
1万6千年前に太陽系にオリオンの片隅から氷天体(月)を盾とした異星人侵入あり。30日30夜、月を覆う氷が太陽熱で溶け地球に注ぎ地球人類避難船が山に留まった。此の山が蓬莱山。山に留まったから山止。水が次第に引き、裾野にも人々が住めるようになり都となり山都となった。月は古代遺跡にも伝説にも太陽系に存在記載無い事実有り。僅か1万6千年前に突然現れた。人類が増えて大和となり矢張りヤマトと称す。此の膨大な水と月からの砂が地球直撃地が中近東。此の反対側の直撃力出口が琵琶湖。此の出口から表面地面が吹き飛び淡路島ができた。パウチッコの様に淡路島と琵琶湖が完全に適合するのもこのため。此の膨大な水と砂の重量増加で地球自転速度遅く壱年360日が365日となった。更に重量のある巨大恐竜は身動きが鈍くなり獲物捕獲不可能となり絶滅。
地球体積増加により地球引力増加が巨大爬虫類の身動き鈍化が獲物捕獲不可能事体が恐竜絶滅原因。月は人口天体。宇宙戦艦。月の表面が穴ぼこだらけは太陽系からの攻撃の痕跡。月の裏側は完全はノッペラボウ。は、月が盾の役目であった事実。中は空洞。侵略異星人は結果、太陽系に服従したが密かに地球支配の悪計図った。今の火星は太陽系の軌道に有った本来の火星を破壊して軌道強奪。
先生「あなたの車ぶつけちゃった(笑)」では、優しさではなく感じ悪さを助長してしまいます(困惑)
邪馬台国→やまと国和の国の王たちが協力して大きな和を作った→大和日いづる国→日の本→日本これが正解だと思う
日本国の国名についてということなんですが、辞書は引いておられますか。例えば文安元年に作られた国語辞典『下学集』の巻之上、天地門には「磤馭慮嶋」(おのころしま)・秋津嶋(あきつしま)・野馬台(やまたい)・「山迹」(やまと)・「敷嶋」(しきしま)・豊葦原(とよあしはら)という日本国の別名が掲げられており、著者東麓破衲(とうろくはのう)の注も付いておりますよ。上記の通り、『下学集』に掲げられているのはたった6個ですが、同じ室町時代成立の『日本略記』には11個掲げられておりますよ。
聴こえてます
邪馬台国や倭(ヤマト)は何故「ヤマ」がつくのか。色々な説があるなかに、「ヤマ」は昆虫の蜻蛉(トンボ)を指しているとする説がある。蜻蛉には霊力があり瑞兆をあらわすと云われた。
次は扶桑の国と呼ぶいわれもお願いします🙇⤵️
山常(やまと)の常は、常盤(ときわ)の”と”と通じますね。
だよね。恣意的だよね。でもヤマトの音は好きだな
残念ハズレ!古事記成立当時そこは蝦夷の地で関係が無い!
@@夢野琴音-j1m いや、読み方の話でしょ。常滑(とこなめ)なので「と」の音が充てがわれる文字です。
出雲、飛鳥、太秦、等も気になります。
元に言葉あり、カタカムナその表記が難しかったようですね。
敗戦国(この呼び名も嫌ですが)の悲劇とは言いたくありません!これも学びだったんでしょう。🗾は今から建て直しです。ワタシも中年になり、これから自分なりに出来ることを去年から模索中です…🗾を選んで生まれてきた事の意味を感慨深く感じてます…「やまと」という響き、昔から大好きです
聞こえてます‼️
根源的には「☉」のニュアンスでしょう。なので矢の的でもあながち外れでは無い。「弥(イヤ・イヨイヨ)まとまる」だとおもってます。
発音で考えてみますと 自分のこと=わし わたし われわれ わが とあります倭国というのは 自分のことを「わ」という人の国の意味だった気がします
한국 전남 서부.== 우덜 우리
日本の歴史▪社会の教科書の文言を、考古学的な資料に基づき、正しく買えてほしいと思います!
聞こえてます
ありがとうございます。繰り返し聞かせて頂きます。バカには頭へ入り切れまsrん。
聞こえています‼️
奈良県に「山門」という地名があって、これは「長門」など門に「と」という訓音を当てる地名の型でこれが「やまと」の原型だと左翼の?副島隆彦が書いていました。それに紫禁城の「大和門」(ダイワモン)の大和を被せて「大和」(やまと)としたというのが彼の説です。彼は中国に投資を勧め、欧米諸国の場合は比較的正確な判断をするのですが、日本となると執拗に貶める言説で有名な人です。
古代からのメッセージ!やまとに込められたロマンですね。
中国語でかんじが書けない時、とりあえず似てるよみが同じ漢字をいれて後でわかったら直す文化があるようですにほんならひらがなカタカナで書いといて、思い出したら漢字にするができるけど他のくには出来ないので当て字になるのではないですか
今回の話と全然関係ないのですが、質問があります。先生のジャンルには入るとおもいます。グーグルマップの🌍️で過去に起きたマグニチュード9.0以上の大地震5個をプロップしたら、地球を真っ二つに成りました。。その誤差は40キロメートルです。その誤差は赤道の周囲距離と南北周りの周囲距離と同じです。半分は太平洋を含み、他はユーラシア大陸やアメリカ大陸等を含みます。この事実は、どんなことを意味するのか、先生の意見お聞かせください。
日本人はやべぇと思います。( *´艸`)文字だけでは伝わらない部分も、文字で表現しちゃうんだからw
自分の家の姓はやまとに由来ときがついて好きになった、あまりにl平凡な姓で好きでななかったが。
какой красивый! カッコイ クラシーヴィ!(ロシア語)意味は、how handsome!、どんだけ美形なの!(男性形)これが、日本語の格好いい の正体です。日本人の多言語の自国語化技術は、実に、かっこいい!現代でも、イケメンを見たロシア人女性は、ヴィ(彼方は)カッコイ クラシーヴィ!カッコイ!カッコイ!と言います。
苗字 常盤(ときわ)があるので山常(やまと)かな?
日本では、いくさの時代が終わって、文化を蓄積する時代が続く中で、海外では、沢山の人々を効率的にコロす技術が発展し続けました。その技術のギャップは追いつかないと、海外に良いようにされてしまいますからね。だいぶされたけど。
山間跡、八岐大蛇位?
最近の教科書で幕府成立の年号が変わったと聞きますが征夷大将軍に天皇から任命された年が違っていたという事でしょうか。それとも都建設の年が幕府成立の年とかはあり得ませんよね。それだと豊臣秀吉の時代も大阪幕府になりますし大和朝廷すら幕府に格下げになりますから幕府とは征夷大将軍の下に士農工商(民)を司る体制の事だと思うのですがいかがでしょうか。
近年は実質的に幕府の機構が整った時を幕府成立の年としているようです鎌倉ですと、頼朝が守護地頭の任命権を朝廷に認めさせた年の1185年だそうですしかし従来の「征夷大将軍に任命された年」というのは段階的に整えてきた幕府機構が「名実ともに」成立した年であって、我が国の最高権威たる天皇の存在を霞ませる嫌な流れだなあと個人的には感じております
@@kalno3778さんありがとうございます。この考えだと歴史の整合性が取れませんし天皇の存在を薄めたいとしか思えませんね。其の内、平清盛や源頼朝のノという天皇から賜った苗字という意味のノも消されそうですね。
@@TheEae22723 本当にそうですね解釈は人の数だけあってもよいけれど、その分教わる知識は浅くても広く、公平かつ中立でなければ偏ってしまう聖徳太子や坂本龍馬という長年日本の偉人とされてきた有名な名前をわざわざ教科書からこそげおとす事にもなにか意図的なものを感じます我が国の歴史という情報が色褪せずに後世に伝わっていって欲しいですねこちらのような草の根的な動画は未来の日本人に対して非常に重要な媒体となると思います
うぅ〜ん???何か? 長ーく聞いていますが、何故、日本がヤマトと呼ばれる様になったってお話より、ヤマトや日本の当て字のお話がメインになってるような...日本→音読み=中国語→じつほん ですか?中国語では、リーベン 的な発音ではないんでしょうか?↑は北京語で、当時の呉や漢では、『じつほん』だったんでしょうか???
山ばかりなので、山の都で山都はいかがでしょうか。
ライブのがした
OKです
常は、常(とこ)と読みますが、山常は、「やまとこ」とも読めますね、そこから、「やまと」に変わったのかもしれません。
日本は本当は日夲と書いていた。古い書物をみれば全部この字を使っている。夲はトウと発音する。日をなぜヤマと読むかはわからない。太陽が昇る大いなる十字架の国ということだろうか?
ヤーパンヤポンハポンジャパンジパング。ということで「本」はポンが自然かと。
日本と言うのは青森に何かの碑が有りましたね❗GHQのお陰でかなり混乱しましたが?其成りに利権の有る日本人の改竄が酷いですね‼️解りずらく成りましたが素直に考えれば解る事ですね⁉️概ね想像通り20代の頃は絶望しか有りませんでしたが歴史を学ぶ希望が出て来ました😁有る意味良い時代です、、、🐒
倭、邪馬台、大和か・・・むすび大学は古事記や阿波風土記にはスルーされますか?大嘗祭をはじめ阿波は重要なところですが。
日本に生まれて良かった!
幸せです。
小名木先生、今日はいつにも増してカッコいい🤗戦後の教育で妙な自虐史観を植え付けられ、さも当たり前のように渡来人説などの珍説を信じさせられてきた私たちにとって、考古学的、地質学的、分子生物学的に新しい発見が続き、事実に基づいて歴史を正そうとされる先生の御講義は、理にかなった正論だと思います。おかげで国家観を正すことが出来ました。ありがとうございます🙏応援しています🙋
小名木先生の貴重な研究、素人にも分かりやすいご説明 実に楽しく拝聴させて頂いております。
いつも、楽しく見させて頂いております。
!
インドの南にあるゴアに行ったとき、地域の言葉の中を聞いていると、まるで日本語かと思うような同じ単語がたくさんあることに気が付きました。
当時はポルトガルの植民地であったゴアと、鉄砲とともに日本に入ってきたポルトガル語のためかと思ったが、もっと奥の深いところに起源があったかもしれないと勉強になりました。
ゴアとマドラスは大航海時代、日本へ渡る航路でつながっていました。
ちなみにインドの東、カルカッタの近くに、見かけも風習もまるで日本人の少数民族があります。世界はロマンにあふれている!
インダス文明とメソポタミア文明は貿易などを通して交流があったことは明らかです。そしてインダス文明が滅んだあと、その人々がインドに散りました。ゴアでもインダス文明の影響を受けた人たちなのかもしれませんね。インダスの人たちがどうなったのか、よくわかってないようですが、タミールに移ったと考える説が有力です。タミール語は学習院の大野晋先生が日本語の起源ではないか考え、国語学会から孤立しながらも最後の20年間をその証明に心血を注がれた学説です。航海術や遺伝子調査の人たちは、この説に賛成なのですが、国語学、歴史学の先生たちは否定的です。でもいつか大野説が勢いを取り戻す日が来ると信じております。
インドは神道が語源。ヒンズー教も同じ語源。社会階層も当時の日本の社会階層
同じ。
インドの地名は神道が語源。ヒンズー教の語源も同じ。社会階層の成り立ちも完全に日本と同じ。
小名木先生 ホントよく勉強 研究なさってますね! お陰で興味深い面白いお話し聞かせて戴いて有り難う御座いましす!私歴史には興味があって色々な本を読んできました、が、先生の話はちょっと一味います!もう73才に成りますが、昔 歴史本を楽しく読んだ頃を思い起こし 先生の講義で残りの人生を楽しく過ごします‼️・・・🙏🤗🤣🇯🇵
小名木先生の授業好き!
いつも楽しく見ています。
これからも宜しくお願いします。
日本をカッコよく!
小田先生、いつもありがとうございます😊感謝いたしております❣️
この番組を、中学の義務教育で取り上げ学習してほしいよね・・
今回も深い学びをありがとうございます。ほんと日本に生まれて良かったなとホクホクします。
舒明天皇のお歌を「俺の女になれ」と訳した人がいるとのお話で、思い出したことが。
額田王の歌「あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る」の美しい歌を何処をどう訳したらそうなるのか、全部は忘れましたが「股を広げて待っている……」。それを言ったのが、韓国の大学で日本文学を研究している女性の教授で、この歌は韓国語としても読める、韓国語として読んだらこうなる、の一節でした。本当に見かけは上品な方だったので、衝撃的でした。なんて下品な解釈なんだ、もう日本の一切に関わらないでくれと憤慨したのを思い出しまた。
舒明天皇のお歌を訳した方もひょっとしたら韓国系の方かも知れませんね。
李寧熙『もう一つの万葉集』ではそんな裏読みができるそうですが、古代史研究者の小林惠子氏によると、政治的な窮地や年齢から考えてありえないと言ってます。
さても万葉集巻1-1雄略天皇の御製の歌の小名木さんの現代語解釈は、わたしを活眼させる折口信夫がすっかり霞むほど秀逸です。
ややや~ ままま~ とっとっと
沢山の調和と統合
心を音で表し、文字で示す。
表現て面白いな
ニッポン→ジャパン(英語訛り)だったんですねwなんでJapanなんだろうとずっと不思議でした。日本は和の国。「やまと」という響きは、とても懐かしい、日本人にとって心地良い響きですよね。現在の日本にも雄略天皇が欲しい‼︎(悪人をやっつけて‼︎)
本当に素晴らしいです。日本に生まれて本当によかったです。ありがとう御座いました。
いつも貴重な同じを楽しく分かりやすく教えて下さりありがとうございます。"やまと"が万葉集から来てると学校で教わった記憶が無くて焦ります。万葉集自体馴染みが無く深掘りした事がありませんでした。こんなに素晴らしいお心を持ってらっしゃった天皇の事をもっと知るべきだと思いました。仁徳天皇の国民が貧しい時課税や課役を免除された事も有名ですが、そういう大切な事も大人になって初めて知りました。そして日本から16支族が海外へ渡り、また帰って来ると約束したというお話を耳にしますが、その証拠が、実証されて来ていると感じます。日本人としてのアイデンティティが危うくなってると感じる昨今、私達は進んでもっと日本国の本来の姿を勉強するべきだと思います。そしてその日本魂を結んで行きたいですね。
日本→日ノ本(ひのもと)は別に⌈霊(ひ)ノ本⌋と言う意味があり、森羅万象の元を成す、全てを生み出す本の国と言う意味も有ります
大変勉強になりました。分かりやすい説明して下さりありがとうございました。
南米から縄文土器の破片が出るくらいなので、日本人は世界中の海を旅していたはずですよ。
小中学校で教えていただきたいです。ありがとうございました。
日本は 昔々においても 精神性
高いですね それをず〜と伝えてきた。
大切で 大事にしていきたい事です。
お話有難うございました。
やまと、喜び溢れる楽しい国。
精神文化においては、1,000年前からあったやまと。ハッキリ声は素晴らしく解り易い説明です。美しい理想の国家。
「やまと」の他の我が国の呼称って扶桑や蓬莱以外にも色々ありますね。 敷島、八島(大八島)、山城、山背、葦原瑞穂の国、等。昔の人がいかに相応しい国称にするか思い悩んで熟孝していたかが伺えます。 (そして後世、その名前を片端から戦艦の名前につける…)
「ヤマトンチュ」と沖縄方言でいわれる内地人。「ヤマト」は強烈な印象を残したのだろう。
日本・日本人とは、何者か?
中川八洋 著
『超先進国日本』
渡部昇一 著
『かくて歴史は始まる』
ボブ・フィックス 著
『時を超える聖伝説』
千賀一生 著
『ガイアの法則』シリーズ
親父ギャグとか駄洒落とか万葉集のころから続く文化だった
大事に継承していきましょう
「やまと」を紐解くと日本のくにの形が見えてくるのですね。つくづくよい国なんだなーとありがたく感じます。このよい日本を千代に八千代に残して行きたいですね
大和に差し掛かる度にクスッと笑うのが良いですね(笑)
色々と勉強になります。
と言うか陰謀論や都市伝説が真実に近い事が実証されてきて個人的には非常に楽しく拝見させて頂いています。
ポルトガル人が1543年に初めて日本と接触した後、南蛮貿易で大規模な奴隷貿易が発展しました。ポルトガルの貿易の1つには、ポルトガル自体を含む海外のさまざまな場所に販売した日本人のポルトガル人による購入が含まれ、南蛮貿易が存在していました。 16世紀から17世紀を通して。多くの文書は、日本人の奴隷化に対する抗議とともに大規模な奴隷貿易に言及しています。 1555年にローマンカソリック教会が指摘したように、日本の奴隷は彼らの国で最初にヨーロッパに到着したと考えられており、ポルトガル人は性的な目的でポルトガルに連れて来るために多数の日本の奴隷の女の子を購入しました。ポルトガル語での奴隷貿易が大幅に拡大して以来、カトリックの改宗に悪影響を及ぼしたため、彼は1571年にそれを禁止するよう命じた。ガスパール・フェルナンデス、ミゲル、ベンチュラという16世紀の3人の日本人奴隷がメキシコに到着したという記録によると、彼らは日本のポルトガル人奴隷貿易業者によって購入され、マニラに運ばれ、所有者のペレスによってメキシコに送られました。
数万人以上の日本人、特に女性が奴隷として売られた。ポルトガル人の訪問者は日本で奴隷制に従事することが多く、時には南アジアとアフリカの乗組員がマカオや東南アジア、アメリカ大陸、そしてゴアに日本の奴隷と商人のコミュニティがあったインドの他のポルトガルの植民地に連れて行かれました。 17世紀初頭までに、その多くは売春婦になりました。奴隷にされた日本人女性は、1598年の文書でポルトガルのイエズス会のルイス・セルケイラが言及したように、日本で取引されているポルトガルの船に乗るヨーロッパの対応者と一緒に、アフリカの黒人乗組員にコンキュバインとして売られることさえありました。 秀吉はこの奴隷貿易についてポルトガル人とイエズス会を非難し、結果としてキリスト教徒の改宗を禁止した。しかし、歴史家は、特にポルトガル人による性的目的での日本人女性の購入に関して、反ポルトガルのプロパガンダが日本人によって積極的に促進されたと指摘している。
南蛮貿易で日本に来ていたポルトガル人の中にも1492年以降、異端審問を逃れてきたセファルディム系の人たちがいたと思いますが日本には悲しい歴史がありました。大村純忠がカソリックに回収してポルトギーズの奴隷と自らなりカソリックに回収しない大和民族を次々にポルトガル船に引き渡した歴史があります。弾丸一つに対して50人ほどの女性、処女はポルトガル人の奴隷として売られていたほどです。モザンビークの黒人奴隷がポルトガル船に載せられて日本に到着した際にポルトガル人はモザンビークからの黒人奴隷に日本人奴隷を買う許可を与えていたのでモザンビークの黒人奴隷が性的欲望に飢えていたのを切っ掛けに日本人奴隷、(主に女性、処女)は売り飛ばされていた現実があったことに信じられないほどの驚きがありました。日本の教科書に載せられなかった現実な真実です。その数は何千万人とも言われています。ユダヤ教では奴隷制度がありましたが現在の奴隷密度とは異なっていました。でもポルトガル人の奴隷制度は厳しかったと歴史が伝えています。まあ、この事も歴史の一部として心に残しておいて下さい。先程説明にありますようにモザンビークの黒人奴隷が性的欲望の為に大和民族の女性、処女を買っていたことについては歴史上信じられない驚きがあります。弥助というモザンビーク黒人奴隷が日本の将軍になったのはご存知でしょうか❓約四十万人以上との情報。弾丸一つに50人ほどの女性、処女はポルトガル船に載せられて連れて来られたモザンビークの黒人奴隷が性的欲望の為に処女を使用したとの事も発覚している。ポルトガル人奴隷となった日本人は未だに奴隷であり自由の身になっても奴隷であることは変わりない。奴隷の主である者が解放し、証明を提出しない限り奴隷である。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り、性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。ポルトガルの奴隷貿易で数十万人以上の日本人、特に故郷から遠く離れた異国で働く水夫等を懐柔するための奴隷として女性が売られたとされている。日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ (Luís Cerqueira) が1598年に書かれた文書で述べている。ポルトガル人がアフリカ土人 ー ポルトガル系モザンビーク黒人の奴隷を所有し、その黒人奴隷が日本人の奴隷を所有するというように、自ら他の奴隷の奴隷になった者もいたという。
掘り下げが、もうひとつな記事。九州キリシタン大名(ローマンカソリック宗派)の多くが、火薬欲しさの改宗で、その代金として、領民、特に高く売れる若い女性を、ローマンカソリック教会キリシタンがらみの奴隷商人に積極的に売っていたのが、事実でしょう。
同時代に、ローマ法皇を訪れた、天正少年施設団によると、道中インドや東南アジア、ヨーロッパ各国に、あまりに日本人の奴隷にあふれ、虐げられている事実に驚愕したとあります。その数一説には、数十万人とも言われ、メキシコや、アルゼンチンにも達したと言われています。とすると、九州でのローマカソリック教会キリシタン狩りの、通常日本人ではありえない残酷な拷問などの弾圧も、奴隷売買=ローマンカソリック教会キリシタンの、民衆の深い憎悪がベースにあるとすると、自然です。秀吉による禁教は、むろんこのためでしょう。明治維新の西欧化政策に加え、GHQのウォーギルティプログラムにより、ローマンカソリック教による東洋の植民地支配の事実を封じるため、こうした史実はタブー視され、原資料、二次文献も、焚書されているのが、実情かと思います。
家畜の売買と同じ。あと、宣教師たちに奴隷を
提供したのは日本人の奴隷商人(大村純忠、長崎、大分県達)だったことも知っておいて下さい。。。。。。
ヤマトゥは、ヒブル語では、
ヤー 神
マトゥ 民
神の民
それが 一番近いと思います。
先生の声ははっきりと聴こえています。
幕末パリ万博の時、徳川幕府と薩摩藩が夫々独自に出展した。
彼らは我こそは「日本国の代表」と主張して廻った事例と、
旧唐書の記録は合致する。
【「倭」から「大和」と「日本」への考察】
大と八は何方も字形は末広がりであり、大は八に一を加えた形状をしています。漢字としての意味は「大きい」と当時の大和人には「大きな数字」または「沢山」の意とするならば、その下に「倭」のと同じ読みの「和」和み、融和の意を込め大きな和み、沢山の和族の様な意味を持たせたかったのかもしれませんね。
また、「日本」の「日」は、太陽や重要な3神の第一の「天照大神」を含めると共に、「数字の1」の意の「ひ」を重ね「やまと(HIaMaTo)」、または、もう一つの漢音の「いち」の発音を借り、「やまと(IaMaTo)」としたのかもしれませんね。
一件、倭と大和と日本には何も関係が見い出せませんが、「筑紫の日向(ひなた)」(伊都の北の日向峠近辺)での禊(みそぎ)から始まった地上の神話、或いは須佐之男命から大国主命につながる「労働集約型水耕稲作」文化の源として、①太陽運行の照らす影の先の観測を②月齢観測に「夏至や冬至」を加えた暦を加え、③大地の鼻つまり高いところから流れ出る水を治める匠の力を総合し確立した三神(自然の摂理=自然科学上の法則)の①太陽運行を1番崇める心が、大陸側の通称「倭」を良しとせず、「大和」そして「日本」に改める根底に在ったのかもと想えて来ました。
日本語の数の「ひ・ふ・み…」と「いち・に・さん…」の最初の1に当たるものも、元は「Hi(tch(i))」とかの発音で、「H音」を認識しない海人族が「I(tchi)」、大丈夫な海人族が「Hi」と発音していたことに始まるのかもしれませんね。地球規模の海洋民族ネットワークの流れを考えると、それぞれの元の言語族の出自により同じ言語に同化しても発音の得て不得手で発音に癖は出るものです。今でも、江戸下町言葉では「し」と「ひ」の区別が、九州北部でも「さ行」が「しゃ行」で発音されたり「うどん」が「うろん」となる等の多様性が残っています。同じスペイン語でも「LL」音はスペイン本国は「りゃ」、南米系では「じゃ」に聴こえる発音をしていますが、本人達は同じに聴こえるらしいですから、ヒトの言語脳と言うものは罪なものです。また関東と関西ではアクセントの違いで意味が異なる言葉もそれぞれで在りますし、関東系に近いアクセントながらも九州北部の様にアクセントによる意味区分を認識しない日本語族も存在してもいます。五十音を文字の上での標準としてからでも、文字で著したものを違う発音やアクセントで活用する語族が仲良く和を保ち、列島に共存し続けたということかと思います。7世紀以前の海洋民族ネットワークの実態と行動半径が明らかに成れば、そのネットワークの列島の倭人の文化的位置付けの変遷や、陸の「労働集約型農耕文明」を基盤とした国家を作る発掘遺跡に先行する「海洋民族」の培って行った文明の息吹が感じ取ることが出来ることでしょう。
残念なから記紀は7世紀の「労働集約型水耕稲作文明」が確立後の編纂で、海洋民族ネットワークの一翼を担った古代海人族の文明は、日本史上も先史と成ってしまっています。津波や海面下の都市遺跡の水没等で海中深くの地層に埋まり朽ちることなく存在する遺物の発掘から、大量の古代文字を刻んだ木簡等が発見されることを期待しています。主に日本から世界中に文明が伝搬しただけなら難しいですが、逆の流れが在れば、西の古代文字で記載された古代日本語が見付かる可能性も在ります。そうしたら、古代日本語の発音の変遷や形成の過程迄解明出来るかもしれません。
良く聞こえています
ヲシテ文献でのヤマトの意味は恵みを分け与えること。
共産主義が闇の社会主義だとしたら、日本は光の社会主義の国であった。
感動しました
あにはからんや、日の本の国は、欧米に対して、最古の磨製石器が有り、漆細工が有り、煮炊きの出来る焼結土器を用いていた。名実共に万の先に立った国です。ここから世界の文明が広がった。宗教の基の形を作ったのかも知れない。土器の文化(文明)は、日の本から始まった。
言葉や文字は時代と共に変化進化していった、生き物みたい。
固定概念にとらわれず、聞いていくと、ガクモンも学びから楽しみに 楽問に変わるかもしれない。
聴こえています。大変わかりやすく、勉強になります。有難うございます❗️
カザフスタンの地名に"ヤマトゥ"があるそうです。そこから200km南に"ナラ"があるそうです。そから東隣国キルギスには海幸彦山幸彦の同じ内容の神話があるそうですね。 秦氏は中央アジアルートで来たガド族(マナセ族等他族と一緒に)かもとの説を散見します。 ガド族のマークはテントみたいなマークで、移動に耐える幌式の社を用いた儀式があったことから、もしかしたらガド族は祭祀を司る部族(?)と妄想してます。
先に到達した、王を輩出したエフライム族は、移転先の調和(浸透)を重視し、
後に到達した、祭祀を担うガド族は、アイデンティティ復興のため呼称を含む様式の復刻を試み努めたのかもしれません。
…などと個人的に超妄想して楽しんでます。😆
ヤマトは神のお告げにより船で1年半かけて直行してきた人びとが住んで居るところですからへブル語で神に選ばれた人々が住むところという意味ですそのままです
中央アジアに居た秦氏(ヘブライ)を 何とかの天皇が招聘。秦氏の住んでいた地名がヤマト。ヤハヴエのヤ マトは人々。ヤマトとは神に選ばれし人々。男系の皇室はヘブライ系だと思います。
感動しました😭
モーセ率いるユダヤ人がアッシリヤの奴隷だった時代にその奴隷の人達をヤマトゥ族と呼んでいた カザフのイリ川沿いにイリ王朝があってその都をヤマトゥと呼んでいた (聖書より引用)
まぁ、自分自身のことを「わ」と発音するので、自分の国は「わのくに=わこく」ですし、自分自身は「わたし」なわけですよ。
当時は翻訳家も通訳も今ほど厳密に言語体系を理解して通話していたわけでないですから、和音の「わ」に対してどの漢字を当てはめるかだけの問題だったと思いますね…
最初は音だけの「倭」だったんでしょうけど、よりいい意味を持つ「(大いなる)和」に変化したでしょうし、さらに「自国の成り立ちの意味」を考えて「日本」をヤマトと
実は読ませていたのかもしれません。…時代は下って知恵のついた者たちは「ひのもと」と呼ばせていたかもしれませんが…。
ヲシテでは国造りのはじめである「トの教え」を最初に成しえた地域をヤマトと呼んだみたいですね。その素晴らしい国の記憶が代々受け継がれ、ヤマトと訓読みさせたのかもしれません。
Japanなんて日本を支那読みしてジーパンが変形(一説)…最終的には我々はそんな風に呼ばせないのと一緒ですよ( *´艸`)
ジャパンの語源はジュパンでペルシャが使った、ジュとはユダヤの語源で東アジア人の事で特に日本人を指す、パンとは同盟という意味で東アジア人同盟という事で日本列島と満州、モンゴルなどとの同盟組織の事、ジュパンには古代ペルシャも含まれるとも思われる、同盟会議がジルガジル=大きい、ガ=ガザリング=会議、ちなみにジルガは約一年に渡り開催、そこで決まったのがイズムで開催された場所はイズモとなった、
ヲシテ文字の「ヤマト」を見れば理解出来ます。後から漢字を当てはめたのですから、何通りも出来たことでしょう。漢字の元となる意味は既に古来より日本に存在していたので意味から当てはめたのでしょう。
山止、耶麻土、地方にあらゆるヤマトがあって当然と言えば、当然ですね。
戦艦の命名は旧国名により、巡洋艦は川や山の名前から命名されましたの。
航空母艦は神獣(鳥)の名から命名されましたわ。
ただし、戦艦や巡洋艦から改修された航空母艦の艦名は元のままです。
ヒトはコミュニケーションを図るために音声による話し言葉が最初にあったと考えます。それは日本列島という島国でも地域差があったように思います。また、外国?から日本列島に来た民族が新たな言語を使います。そもそも日本語の50音に落ち着いたのは平安時代。同じものを指す別の言葉は時の勢力者の力加減で「ことば」の重要度が変化したのではないかと思います。
最初は「クニ」という概念がなくクニをあらわす言語は必要なかったかもしれません。国と国との外交が必要な時に「自分たちの国の名前」と「相手の国の名前」がでてくるはずです。
日本では奈良時代に文献として現れますが、中国の古文献には日本列島から朝貢があったと書かれていますので、何かしらの「クニの名前」を少なくとも音声で伝えたと思います。それが「ワ」であった可能性が高いと思います。また、「ナ」多分あなたの意味で発した言葉が誤解され「ナ国」なるものができたのでは・・・・。それに、充てられた漢字が「倭」であり「那」であったと考えるとつじつまが合います。
「やまと」も先に音ことばあり、それに漢字を当てはめた。ヤマトを国の名前にしたかどうかはわかりません。しかし、政治の中心になった種族が自分の住んでいる場所をそう呼んだのかもしれません。いつの間にかその種族が多くの地域を統率するようになり、ヤマトの範囲が増加していったのではないか。その語源はやはり、外来語ヘブライなどの種族の言葉で影響をうけたのではないでしょうか。
「ひのもと」一番東の土地。大陸を意識したことばですね。奈良時代に外交で自国を誇示するためにつけた名前でしょう。のちに、漢字を日本の50音に変化させて当て字(意味を持たせた)に使ったのです。音と訓読み、あいまい音を無くしていった結果、現在の言葉になって残っていると考えます。日本語の標準語、常用漢字などはつい最近のこと。それまでは、中央政府の標準語や漢字は存在していたとしても、日本国中に浸透していません。別々の言葉を使っていたでしょう。
左翼学会の出してる歴史教科書が如何に出鱈目か良く分かりますよね。
まあ、左翼の人達は中国が主人ですからねー。
恐い恐い、あいつらは歴史まで嘘をつくからな
「常磐神社」の「常」は「と」ですね。
にほんと読むのは、日本橋、日本書紀のみと大正13年に正式に制定されました。
いつも勉強させていただいております!ありがとうござます!せっかくならニホンではなくニッポンと発音された方が良いかと思います。
石野遺跡の魔制石斧の謎をお願いします!
物部氏の本拠地東大阪の草香の枕詞が「日下」(ひのもと)で世界の中心という意味。物部氏の尊称を「日下大将軍」ともいう。
「日下草香」(ひのもとのくさか)が転じて、「日下」を(くさか)と呼ぶようになった。「日下部」(くさかべ)さんて聞いた
ことがある苗字だ。「日本」という国号は、「倭」が(小さい人)という意味で中国が当てはめた劣字だったので、それを嫌い変更
したものだ。ヤマトの名がその拠点である現在の奈良地域を指すことと混乱していたので、敢えて「日下」(ひのもと)を採用し、
よりましな威信のある文字に置き換え、「日本」にしたのだろうか。
平和で有ってこその文化の文明
生駒市北部高山地区に北倭村っていう村があったそうです。本当かどうかは知りませんが 大和王朝前にニギハヤヒさんの王朝があったらしくニギハヤヒさんが物部氏の祖神で天照大神であり猿田彦さんでありキリストだとおっしゃる方もいらして 生駒市真弓に墳墓があり妻が瀬織津姫であり卑弥呼さんだとおっしゃる方がいらっしゃって 近くの長久寺の中にある伊弉諾神社も登美神社だとおっしゃる方もいて気になっています。また邪馬台国があったっていう方もいてます。(色々な方のブログより)
倭は北倭村と関わりがないのでしょうか?そこも とても気になっています。近くの富雄の丸山古墳も卑弥呼さんや皇祖神のニギハヤヒさんの古墳だと考察されてる方もいらっしゃるようです。
真実を知りたいです。
考察 よろしくお願いいたします。
ジャレド ダイアモンド(Jared Diamond)のカラプス(Collapse)の第2章 にイースター島の黎明と衰退 にポリネシア語が出てきまして、穂先が黒曜石の槍(複数)をマタアと呼ぶそうです。後はどこで読んだのか忘れましたが、マタアが集まると「的 マト 部隊」になるそうです。マトが沢山でヤ大和(ヤマト 軍団)になりませんか?今は使っていませんがヤマト糊の蓋は矢が的に当たっている図柄でして、ヤマトそのものです。私はヤマトの語源をポリネシア語だと思っていました。
耶摩斗と漢字あそびをすると耶は村を指し摩は磨製の磨と同じで擦るみがく
斗は柄杓のような軽量できる容器
そういうものを産出する集落だった気がするw
大陸から見て、沖縄に住む人は海人(うみんちゅ)で、阿蘇の山がある九州の島に住む人が山の人。だから、自分たちのことをやまとと呼ぶのだと思います。(自説)
私も似たような発想で考えていました。「やまと」は遡ると「やまんと」で「やまのひと」を表すのではないかと。これは当時大陸に住んでいた倭人が日本列島側の人たちを指した呼称ではないかと想像しています。その頃は列島の周(しゅう)が把握されていなかったために「しま」だとは認識されておらず、陸地という意味で「やま」を使ったのではないかと思っています。もし、しまであることが分かっていたら、「しまんと」から「しまと」に変化していただろうと想像します。その後倭人は皆この列島に移り住んでしまったために、もともとは少数派の意味が込められていた「やまと」が普通のひとたちを表すようになってしまい「やまと」の意味が分からなくなってしまったのではないかと思います。(私の自説)
👍✨ 戸田健樹1944 東京 Very Very Good 😘💖🎉🎉
山門もあります。
戦艦扶桑の同型艦は山城ですね
大和ヤマト=(ヘブライ語)意味=>神によって選ばれた卓越した強い民族
ヘブライ語でやまとは神に選ばれた国、の意味ですか、誇りにに思います。
素敵です!ありがとうございます✨
1万6千年前に太陽系にオリオンの片隅から氷天体(月)を盾とした異星人侵入あり。30日30夜、月を覆う氷が太陽熱で溶け地球に注ぎ地球人類避難船が山に留まった。此の山が蓬莱山。山に留まったから山止。水が次第に引き、裾野にも人々が住めるようになり都となり山都となった。月は古代遺跡にも伝説にも太陽系に存在記載無い事実有り。僅か1万6千年前に突然現れた。人類が増えて大和となり矢張りヤマトと称す。此の膨大な水と月からの砂が地球直撃地が中近東。此の反対側の直撃力出口が琵琶湖。此の出口から表面地面が吹き飛び淡路島ができた。パウチッコの様に淡路島と琵琶湖が完全に適合するのもこのため。此の膨大な水と砂の重量増加で地球自転速度遅く壱年360日が365日となった。更に重量のある巨大恐竜は身動きが鈍くなり獲物捕獲不可能となり絶滅。
地球体積増加により地球引力増加が巨大爬虫類の身動き鈍化が獲物捕獲不可能事体が恐竜絶滅原因。月は人口天体。宇宙戦艦。月の表面が穴ぼこだらけは太陽系からの攻撃の痕跡。月の裏側は完全はノッペラボウ。は、月が盾の役目であった事実。
中は空洞。侵略異星人は結果、太陽系に服従したが密かに地球支配の悪計図った。今の火星は太陽系の軌道に有った本来の火星を破壊して軌道強奪。
先生
「あなたの車ぶつけちゃった(笑)」では、優しさではなく感じ悪さを助長してしまいます(困惑)
邪馬台国→やまと国
和の国の王たちが協力して大きな和を作った→大和
日いづる国→日の本→日本
これが正解だと思う
日本国の国名についてということなんですが、辞書は引いておられますか。例えば文安元年に作られた国語辞典『下学集』の巻之上、天地門には「磤馭慮嶋」(おのころしま)・秋津嶋(あきつしま)・野馬台(やまたい)・「山迹」(やまと)・「敷嶋」(しきしま)・豊葦原(とよあしはら)という日本国の別名が掲げられており、著者東麓破衲(とうろくはのう)の注も付いておりますよ。上記の通り、『下学集』に掲げられているのはたった6個ですが、同じ室町時代成立の『日本略記』には11個掲げられておりますよ。
聴こえてます
邪馬台国や倭(ヤマト)は何故「ヤマ」がつくのか。色々な説があるなかに、「ヤマ」は昆虫の蜻蛉(トンボ)を指しているとする説がある。蜻蛉には霊力があり
瑞兆をあらわすと云われた。
次は扶桑の国と呼ぶいわれもお願いします🙇⤵️
山常(やまと)の常は、常盤(ときわ)の”と”と通じますね。
だよね。恣意的だよね。
でもヤマトの音は好きだな
残念ハズレ!古事記成立当時そこは蝦夷の地で関係が無い!
@@夢野琴音-j1m いや、読み方の話でしょ。常滑(とこなめ)なので「と」の音が充てがわれる文字です。
出雲、飛鳥、太秦、等も気になります。
元に言葉あり、カタカムナその表記が難しかったようですね。
敗戦国(この呼び名も嫌ですが)の悲劇とは言いたくありません!
これも学びだったんでしょう。
🗾は今から建て直しです。
ワタシも中年になり、これから自分なりに出来ることを去年から模索中です
…
🗾を選んで生まれてきた事の意味を感慨深く感じてます
…
「やまと」という響き、昔から大好きです
聞こえてます‼️
根源的には「☉」のニュアンスでしょう。
なので矢の的でもあながち外れでは無い。
「弥(イヤ・イヨイヨ)まとまる」だとおもってます。
発音で考えてみますと 自分のこと=わし わたし われわれ わが とあります
倭国というのは 自分のことを「わ」という人の国の意味だった気がします
한국 전남 서부.== 우덜 우리
日本の歴史▪社会の教科書の文言を、考古学的な資料に基づき、正しく買えてほしいと思います!
聞こえてます
ありがとうございます。
繰り返し聞かせて頂きます。
バカには頭へ入り切れまsrん。
聞こえています‼️
奈良県に「山門」という地名があって、これは「長門」など門に「と」という訓音を当てる地名の型でこれが「やまと」の原型だと左翼の?副島隆彦が書いていました。
それに紫禁城の「大和門」(ダイワモン)の大和を被せて「大和」(やまと)としたというのが彼の説です。
彼は中国に投資を勧め、欧米諸国の場合は比較的正確な判断をするのですが、日本となると執拗に貶める言説で有名な人です。
古代からのメッセージ!やまとに込められたロマンですね。
中国語でかんじが書けない時、とりあえず似てるよみが同じ漢字をいれて後でわかったら直す文化があるようです
にほんならひらがなカタカナで書いといて、思い出したら漢字にするができるけど
他のくには出来ないので当て字になるのではないですか
今回の話と全然関係ないのですが、質問があります。先生のジャンルには入るとおもいます。グーグルマップの🌍️で過去に起きたマグニチュード9.0以上の大地震5個をプロップしたら、地球を真っ二つに成りました。。その誤差は40キロメートルです。その誤差は赤道の周囲距離と南北周りの周囲距離と同じです。半分は太平洋を含み、他はユーラシア大陸やアメリカ大陸等を含みます。この事実は、どんなことを意味するのか、先生の意見お聞かせください。
日本人はやべぇと思います。( *´艸`)
文字だけでは伝わらない部分も、文字で表現しちゃうんだからw
自分の家の姓はやまとに由来ときがついて好きになった、あまりにl平凡な姓で好きでななかったが。
какой красивый! カッコイ クラシーヴィ!(ロシア語)
意味は、how handsome!、どんだけ美形なの!(男性形)
これが、日本語の格好いい の正体です。
日本人の多言語の自国語化技術は、実に、かっこいい!
現代でも、イケメンを見たロシア人女性は、ヴィ(彼方は)カッコイ クラシーヴィ!カッコイ!カッコイ!と言います。
苗字 常盤(ときわ)があるので山常(やまと)かな?
日本では、いくさの時代が終わって、文化を蓄積する時代が続く中で、
海外では、沢山の人々を効率的にコロす技術が発展し続けました。
その技術のギャップは追いつかないと、海外に良いようにされてしまいますからね。だいぶされたけど。
山間跡、八岐大蛇位?
最近の教科書で幕府成立の年号が変わったと聞きますが征夷大将軍に天皇から任命された年が違っていたという事でしょうか。それとも都建設の年が幕府成立の年とかはあり得ませんよね。それだと豊臣秀吉の時代も大阪幕府になりますし大和朝廷すら幕府に格下げになりますから幕府とは征夷大将軍の下に士農工商(民)を司る体制の事だと思うのですがいかがでしょうか。
近年は実質的に幕府の機構が整った時を幕府成立の年としているようです
鎌倉ですと、頼朝が守護地頭の任命権を朝廷に認めさせた年の1185年だそうです
しかし従来の「征夷大将軍に任命された年」というのは段階的に整えてきた幕府機構が「名実ともに」成立した年であって、我が国の最高権威たる天皇の存在を霞ませる嫌な流れだなあと個人的には感じております
@@kalno3778さん
ありがとうございます。
この考えだと歴史の整合性が取れませんし天皇の存在を薄めたいとしか思えませんね。
其の内、平清盛や源頼朝のノという天皇から賜った苗字という意味のノも消されそうですね。
@@TheEae22723
本当にそうですね
解釈は人の数だけあってもよいけれど、その分教わる知識は浅くても広く、公平かつ中立でなければ偏ってしまう
聖徳太子や坂本龍馬という長年日本の偉人とされてきた有名な名前をわざわざ教科書からこそげおとす事にもなにか意図的なものを感じます
我が国の歴史という情報が色褪せずに後世に伝わっていって欲しいですね
こちらのような草の根的な動画は未来の日本人に対して非常に重要な媒体となると思います
うぅ〜ん???
何か? 長ーく聞いていますが、何故、日本がヤマトと呼ばれる様になったってお話より、ヤマトや日本の当て字のお話がメインになってるような...
日本→音読み=中国語→じつほん ですか?
中国語では、リーベン 的な発音ではないんでしょうか?
↑は北京語で、当時の呉や漢では、『じつほん』だったんでしょうか???
山ばかりなので、山の都で山都はいかがでしょうか。
ライブのがした
OKです
常は、常(とこ)と読みますが、山常は、「やまとこ」とも読めますね、
そこから、「やまと」に変わったのかもしれません。
日本は本当は日夲と書いていた。古い書物をみれば全部この字を使っている。夲はトウと発音する。日をなぜヤマと読むかはわからない。太陽が昇る大いなる十字架の国ということだろうか?
ヤーパンヤポンハポンジャパンジパング。ということで「本」はポンが自然かと。
日本と言うのは青森に何かの碑が有りましたね❗GHQのお陰でかなり混乱しましたが?其成りに利権の有る日本人の改竄が酷いですね‼️解りずらく成りましたが素直に考えれば解る事ですね⁉️概ね想像通り20代の頃は絶望しか有りませんでしたが歴史を学ぶ希望が出て来ました😁有る意味良い時代です、、、🐒
倭、邪馬台、大和か・・・むすび大学は古事記や阿波風土記にはスルーされますか?大嘗祭をはじめ阿波は重要なところですが。