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日本史で覚えた人物のお墓がこうやって立派に残ってるのは凄いし、歴史好きには堪らないですねー。
前半の丁寧な解説からの、淡路島御陵への流れはとてもわかりやすかったです。お2人がどんな思いで淡路島で過ごし、亡くなられたのかを慮るほど、先生が手を合わせられる姿に、胸に迫るものがあります。それにしても、青い空、緑の山、鳥の囀り、可愛い猫ちゃん…心癒される風景ですね。今日も先生の旅に心から感謝致します😊
茂木先生、いつもありがとうございます。淳仁天皇陵は実家のすぐ近く、高速を降りて実家に向かう途中にあり何度も何度も何度も通ってきた場所なんです。小学生の頃、天皇のお墓だと教わった時から尊敬の気持ちを持ち、京の都から流されて来られた可哀想な方であるが地元の民から大切にされてきたというなんだか誇らしいような不思議な愛着を持ってきました。茂木先生の詳しいお話はいつも勉強になります。茂木先生の動画の独特のタイミングの取り方、回りの音を生かした沈黙(静寂)の生かし方はまるでヨーロッパ(特にフランス)映画のようで、とても心地良く、ドキュメンタリー仕立てのロードムービーを観ているようでハマってしまいます。当麻陵前でさらっと玉ねぎ小屋の横に車を停められたところが冒険の旅っぽくていいですね(笑)
あれ、玉ねぎ小屋でしたか!
@@maomao96363 ご存知かもしれませんが南あわじ市は玉ねぎの産地、あのような小屋は収穫された玉ねぎを吊して乾燥保管するための小屋です。いや、もしかしたら駐車場と玉ねぎ小屋を兼ねているのかもしれません(笑)
今回もとてもわかり易い説明で勉強になりました。ところで今回の系統図に出てきました光明皇后について興味があります。光明皇后が作られた「浴室(からふろ)」は悲田院や施薬院をまねたようですが、それは聖徳太子により建てられた四天王寺の影響(光明皇后は聖徳太子をかなり尊敬していたと聞いたことがあります)だそうです。そしてその浴室(からふろ)では病人を救済するために体を洗ってあげていたとか。千人の患者を洗おうとしていたら、最後の千人目の患者の体は全身が膿だらけの悪疾者でしたが光明皇后はその患者の体を洗い、膿を吸い取ってあげたとの言い伝えがあります。そして光明皇后はこの患者に「一切他言せぬように」と言われたそうですが、この話はまったくもって新約聖書にキリストの行ないとして同じことが記載されていました。(読んだときに全身鳥肌が立ちました)つまり、聖徳太子以来仏教を日本に広めていたはずですがキリスト教の影響もあるのでがないかと。キリスト教は中国では景教と呼ばれており、キリスト教のネストリウス派がローマ教より異端扱いされて追放された後、シルクロードを通って中国、そして日本に既に入っていきているのではないかということです。また空海が遣唐使として中国へ留学した際に空海へ密教を授けた恵果は中国の長安におり、その長安では既に景教(キリスト教ネストリウス派)の教会も存在しており、密教自体にもキリスト教の「神」の概念が含まれているように感じます。私たちが学校で習ったり一般的に信じられていることがはたして正しい知識なのか、間違っていたり或いは不十分極まりないのではと思うこの頃です。
光明子については、次に出す『感染症の人類史』に書きました。
@@maomao96363 ありがとうございます。勉強させてもらいます。
淡路は近いので是非とも参拝させて頂きたいと思います。全く知りませんでした。貴重な情報ありがとうございます。
動画前半の授業がんばって頭に詰め込んだのに次の画で唐突に、猫を愛でる二人のおじさんの愛くるしさに死ぬほどツボにハマって😂全て吹っ飛びました〜。先生は今、千葉の辺りのはずなのに淡路島にもいらっしゃる錯覚がして頭が嬉しい混乱💞
淡路廃帝、お気の毒です。陵がきれいに管理されていて慰みになるでしょうか?私は、自分と天武の間に生まれた草壁皇子の血統に拘り、謀略の限りを尽くして皇胤を殺してきた持統女帝が大嫌いです。天武には大勢の皇子がいたのに…結局この系統は絶え天智系統に戻りますが、ひっそり命を繋いでいた男系男子の意味と有り難さが理解できます。旧宮家の皇族復帰を切に願います。
必死に守った血筋があんな形で最後を迎えるなんて…女帝なりの覚悟と執念で天武の正当な血筋を残したかったのでしょう。私はこの辺の歴史は永井路子さんの小説で覚えたので持統の肩を持ちたくなります。
@@高見章代 私も永井路子さんの小説は随分と読みました。母系の蘇我氏の血統に重点を置いていましたよね。家の繁栄を望むなら、自分が産んだ息子以外を立てて存続させたゴッドマザーは日本史上います。永井氏の現代小説『茜さす』に影響されて奈良県に引っ越し、文化財研究所で働いたことがあります。青かったw井上靖の『額田女王』のヒロインの突き放した生き方に共感できます。
個人的に漫画「天上の虹」でこの辺の時代が好きになったので持統天皇が好きです。ただ歴史の流れとしては「直系に拘ると破滅する」という強い教訓を残したのかなと・・・。ちなみに「天上の虹」の作者の里中満智子先生は先の有識者会議で男系男子派の有識者として参加されていたので贔屓のキャラクターはそれとして漫画家として歴史を学んだ自負があるのかなという気がします。
@@口頭内侍 わかりますぅ~でも女の情念丸出しの永井路子さんの書きっぷりも好き😻ありがとうございます✨
@@口頭内侍 凄い所で働いていたのですね。羨ましい😻確かに永井先生は倉山田石川麻呂の血筋にこだわってましたね。懐かしい
三毛たんかわいい♡淡路御陵ののどかな風景に、淳仁天皇の御霊が癒されているように感じました。
おはようございま🤗先生は、千葉から栃木、三重、淡路島…超ハードすぎます〜🤣💦先生の解説で、時代の背景がすごく良く伝わって来て…涙が😹 歴史を辿って旅がしたくなりました。
17:00 奈良、山の辺の道沿いに点在する古墳と違って、お母様の墳墓だと、敷地の外側の囲いや正門も無く、立ち入ろうと思えば、そのまま奥へ入っていけるのですね。宮内庁の立札🪧は立っているけど、管理方法が全く違っているのですね😲😱20:40 こちらは流石に天皇の墳墓の風格が正面にはありますが、やはり敷地全体に囲いが巡らされているのか?そういう囲い、結界を作らずとも1,400年も人々に守られて来たのですね。china大陸では権力を失えば、忽ちあばかれ、盛り土などの影も形も無くなって居ただろうに。淡路の人たちの温かな心を感じます。
まさにこれが保守ということなのですね!神社参拝、、これからは自分の欲ばかりでなく国を守るために祈りにいきます!
大化の改新が、そもそも皇室の事件であることすら、学校では教えてもらった覚えがないです。分かりやすくて良い勉強になりました。
猫ちゃんが可愛いかったデスねぇ💜ダヤンみたいなお目目で😍
昨年6月にその辺を通りました。淳仁天皇陵の標識は見たのですが用があってお参りしてません。一度行かねばと思います。
高知県の物部川沿いに光明氏が沢山います。正直、皇后との関係性は不明ですが、ビッグネームの光明を名乗る以上、何かしら関係性はあると思います。
淳仁天皇とお母様の当麻山背のお墓が今も歴然とアリ…然も地元の方々により美しく整備されている事に驚きです!…個人的感想を挟むと。藤原ってのは嫌いなんですよー!猫チャン可愛い😽😽…で茂木サンって運転上手いですよねー。失礼致しました🙇🏻♀️🙇🏽♂️🙇❣️💦
おはようございます😊
49代目の天皇はどなたなのかと調べてみたら、次の光仁天皇は称徳天皇の姉妹が皇后として結ばれてるのですね。継体天皇を思い出しました。
茂木先生 ありがとうございます!
昨年12月の滋賀での講演会の前に行われたサイン会で、先生に「おのごろ島の次はどこに行かれるご予定ですか?」とお伺いした時に、先生は、「淡路に廃された天皇の御陵に行った」というお話をしてくださいましたが、それは、淳仁天皇のことだったのですね・・・。淳仁天皇のお名前自体は知っておりましたが、淡路に配流されたということまでは知りませんでした・・・。勉強不足です😢。家から淡路島までは、車で行くことが可能なので、沼島、絵島のおのごろ島とともに、淳仁天皇の御陵も参拝しようと思います。
4位13階の僧位制度を創設した仲麻呂と、風紀がたるんだ僧に戒律を徹底させたい鑑真は仲が良く、唐招提寺に寄進したそうです。
なるほど!
すごく分かりやすかったです。遠くから見た感じ藤原種継の暗殺容疑で淡路島に流された桓武天皇の弟の早良親王の墓も同じような木のしげった小型の山でしたがこんな整備された墓は有ったのだろうか?!近くまで行って見ればよかったです・・。平城京、長岡京、平安京が無実を訴え絶食を続けたまま亡くなった早良親王の怨念で呪われ魂をしずめるために桓武天皇が建てさせたと言われている淡路市の常隆寺はながめも良いし古い立派な樹木が立ち並ぶお寺でしたがちなみに皇族の罪人を淡路に流す風習がもしかして有ったのでしょうか?
久しぶりのコメントになってしまいましたが、『人はなぜ戦争を選ぶのか』読みました。現代に通ずる内容ばかりでしたが、一番心に残ったところは、第3の演説「責任を指導者に押し付けるのは誤り」です。「諸君らがわたしに腹を立てているのだとしても、何をすべきか理解し、それを言葉にできると言う点で私は秀でた存在であり、汚職とも無縁の愛国者だ。略。また、両方の資質を兼ね備えていたとしても、都市に対して敵意を抱いていれば、その利益の擁護者としてふるまうことはできない。一方で真の愛国者であっても、賄賂の誘惑に打ち勝てないのであれば、いずれは国家そのものを売り渡してしまうだろう」これを読んで安倍さんを思い出しました。安倍さん亡き今、ペリクレスのような指導者が日本にいるのでしょうか。嘆かわしいことです…
余談ですが当麻山背という事で、仲麻呂の兄で藤原宗家4代目豊成の娘中将姫は淳仁帝からの後宮入りを断り、二上山麓の当麻寺(當麻寺)で尼となり當麻曼陀羅を織り上げたという伝説は釋超空(折口信夫)の死者の書でも有名ですね。
天武天皇は偉大だったと思う私にとって、天武系の断絶は寂しい限りです。廃帝の文字に限りない寂寥感が・・・
持統女帝が必死に守った血筋があんな形で終わった事にも無常を感じます。
@@高見章代 遥か昔、永井路子氏の「あかねさす」を読んでいたく感動したことを思い出しました。倉山田石川麻呂とかの名前もふんわり思い出して、まさに「無常」だなと・・・波乱万丈の鵜野の執念、もっと言えば怨念みたいなのを茂木先生にも語ってほしかったな。
大炊王は、天皇の孫ですが、『王』なのですね。これは当時の律令での定めかなと思いました。 ちなみに、大炊王は、仲麻呂邸に住むとは、人質のような感じですね。『里内裏』のようなものと考えれば、違和感は薄くなるのかもしれませんけども。いや、里内裏自体が、人質態勢の状態化なのかもしれないと、こちらの動画を拝聴して、感じた次第です。
天皇・皇子・皇弟の直系のお子様は「親王/内親王」、それ以外の皇族のお子様は「王/女王」。いまでもそうです。
@@maomao96363 様有難う御座いました。大炊王は、天武天皇のお孫さんであって、お子ではないですね(舎人親王のお子様ですね)。文武天皇からはイトコに過ぎません。(天皇の甥·姪までが、親王·内親王になると理解しておけば、わかりやすいと思いました。甥·姪までが、親王宣下や内親王宣下により、親王·内親王になりうるということですね。現代では、親王宣下等は不要となつているようです。)
@@maomao96363 そうだとすると文武天皇は無理してますよね~まして聖武天皇に繋げていくわけですから。
現皇室につながる御方がひっそりと有るということが、なんとも言えぬ思いを抱かされますね。
一度斎王斎宮制度について話を聞いてみたいです。当然この制度の為に多くの皇子が跡目争いに巻き込まれたり、いざこざの原因になったと思いますが、本当はどうやって跡取りを決めたのでしょうか。
淡路島というと、連想するのが稲田一族。江戸時代の初期より幕末まで淡路の領主でしたが、初代領主・稲田植元の父が稲田大炊助貞祐で、“大炊助” を名乗って尾張・織田家・岩倉城の家臣でした。淡路島に大炊王・淳仁天皇御陵があるとは・・・・本動画で初めて知りました。“大炊つながり” の不思議な縁を感じました。
先日、徳島で稲田氏が阿波の白人神社を大切にしていたと、うさぎ年ならではの番組がありました。最近、白人神社⛩とフルリ人が関係ある事を知りました。スバルからきたと自称していたフルリ人から、稲田氏へ続いているとすると北海道へ渡っていった稲田氏を感慨深く思いました。
いつもためになるお話、勉強になります。画質を1080P以上にしていただけるとなおありがたいです。
ノートPCでサクサク編集するには、720pがちょうどよいのです。
@@maomao96363 返信いただき恐縮です。ハードウェアの問題ではアップグレード難しそうですね。御陵の映像をより鮮明に見たいと思っただけです。ところでこのシリーズで徳島の三好家のお話がありますが、実は親戚に三好姓の者がいます。本籍は徳島で彼は次男坊の70歳の人ですが、今度家の由来を聞いてみようと思います。今後とも日本と世界の成り立ちのお話を楽しみにしております😅
里山のこんもりした森の神殿に日本の歴史上人物の存在と伝承が確かにある事は感動以外の何物でもありません。お家の猫様はお留守番しているのでしょうか❓( ´∀` )
ニャルソック、警戒中です。
茂木先生おはよう御座います🌱風景が…………手入れの行き届いた盆栽のよう( ꈍᴗꈍ)私もいつの日か訪ねたいです。︙先生のお話し聴いていて思い出しました。西部邁先生は、天皇が大権ふるうなら男系………文化的元首なら女帝の方がふさわしい………と、仰ってました。︙(ホシュじゃなくて)これ言うとウ・ヨクは怒るんだ………と。慣習を守ることと、伝統形式を守ることの違いを解説されながら。
西洋保守思想の優れた紹介者だった西部先生、灯台下暗しでした。
@@maomao96363 先生へ返信有り難うございます。お弟子の浜崎先生や中島先生や藤井先生と、茂木先生が語り合う日が…………きっと来るんだと思います。というか、必要なんだと思ってます。
夢のまた夢…持統女帝は草壁の皇子の血筋を残すために腹をくくって自らの手をあれだけ汚したのに。女帝は称徳天皇が道鏡に溺れていく姿をどのような想いでみていたのか…私は永井路子さんの大ファンなので自らの意思で行動する女性の肩を持ちたくなるんですよね。
あからんはあかるの否定であかんはあからんのら抜き言葉ですが、標準語では限定的に明/開の当ての範囲に絞られて、常用したのは漱石くらいまでの世代でしょうか。あからんは和歌山、瀬戸内、九州に残り、あかんは京阪に残ります。ダメは和語というより囲碁用語ですね。
「あかん」の原語だった!
江戸時代の川柳①道鏡は座ると膝が三つでき②道鏡に根まで入れろとみことのり③朕はもう崩御崩御とのたまひぬ
淳仁天皇→約400年後…讃岐・香川県への崇徳院島流し…菅原道真公を上回る…怨霊←友人である西行法師の鎮魂の旅に繋がる訳ですね。
46代孝謙天皇と48代称徳天皇は同一人物という事でしょうか。また、49代光仁天皇の父と母は誰なのでしょうか。
調べてください。
田舎だね、猫もかわいいし。時間がゆっくりと流れている感じがすてきでした。わたしは直系女子でもいいのかな、と思っています。なによりも、皇室の出生率が大事です。2を下まわりつつある現在、男子男系にこだわりすぎると、皇室の伝統文化がおろそかにされてゆきます。出生率が2を下まわるということは、男子が誕生する確率は、ゼロから2人まで。女の子ふたりの家庭も存在しうるということです。自然法則は、日本の伝統より上位にある絶対的な真理ですから、無理に続けようとすると、皇室に生まれる子供たちに大きなストレスを与える。内親王を外に放り出し、皇太子の妃として、皇室の外に生まれた女性を迎い入れる。代々それを続けてゆけば、皇室行事が軽んじられる。出生率が高かった時代には、そのプランがうまくゆきました。内親王を尼門跡寺院に押し込めて、世俗の権力から遠ざけて、一生を尼さんとして過ごさせる。男子男系を存続させるためには、不都合な真実もたくさんあります。昭和時代まで、妾文化があったのも、皇室の優雅が妾文化に権威を与えていたからでしょう。しかし昭和天皇によって、貧しきときも、病めるときも、ただひとりの女性を愛するという理想が、皇室の理想になりました。230万人の日本軍の軍人は、いかなる民族も差別されてはならないという理想のために戦い、戦死したわけですから、その思いを継いでゆくなら、女性という理由で、内親王をニューヨークで暮らさせるようなプランは、修正すべき時期だと思います。眞子さまに起きていることは、現代版の尼門跡寺院です。わたしが理解できないのは、皇位継承第一位と第二位の男子がいらっしゃる秋篠宮家を、こともあろうか、男子男系を主張する保守が批判する構図です。これがまったく理解できない。そんなことをすれば、自分で自分の首をしめることになる。令和の政治家は、机上の理想しか語れなくなり、実社会の経験が希薄になりました。保守こそが日本をみっともなくし、滅ぼしているという現実もあるのです。
>>出生率が2を………男子が誕生する確率はゼロから二人まで………︙藤井先生も同じ事仰ってました。藤井先生の師匠の西部先生も、男系という慣習を無理に守ろうとすれば、不都合がおこる………とお話しされてました。血統ではなく家柄の連続、伝統という形式………文化的元首なら女帝の方がふさわしい……上手くお伝え出来ませんがそんな内容でした。西部先生の一番弟子(?)を自負するch桜の水島さんは、男系男子一択で旧宮家復活です。
旧皇族も含め、男系男子がいらっしゃる限りは男系男子でつなげる。どなたもいらっしゃらない場合は、女系もやむなし。
旧宮家の復帰を検討するなら、まずは旧宮家の方々、及び現皇族の方々のDNA鑑定は必要不可欠です。これをせずに、男系、女系を論ずること自体間違っています。ちなみに、私の父は昭和天皇の晩年に皇宮警察護衛部長を勤めさせていただきました。その父が、今上陛下が成年になられた時に「浩宮さまがいらっしゃるから、日本は大丈夫だ!」と、それは嬉しそうに語っていました。そして、退職後は、A宮夫妻の行いを、大変危惧しておりました。
あの三毛猫ちゃんのいるところはどこなんですか?
ホテルの駐車場です。
仲麻呂の乱を沈めた人物に吉備真備もいますが、吉備真備の3代前迄の出自を調べて下さい。あれ? 何で? と思うはずです。それと、藤のルーツは① 〇〇家の養子→中臣→藤(鎌系)② 〇〇家→藤③ ルーツはあえて言いませんが、とにかく藤の3パターンですが、③が一番高貴、②も大変高貴です。①は②の〇〇へ養子に入っただけです。ちなみに、日本社会では藤系だらけですが、私自身は①の人となるべく関わらないようにしています。経験上、良い事は一切無く、嫌な事しかありませんので。①②③を其々、簡単に見極める方法(①系の藤に追いやられた一族の間では常識)もありまして、それを頼りに②や③の人とだけお付き合いしています。藤の詳しい事を知りたい人は、徳島の山奥から北、北東、東、南東の4方向へ山下りして、地元の高齢者の人達とお話しして下さい。それで話は戻りますが、藤一族の△□氏なのに藤一族からいじめられた人いますよね? あの人は③の出自だと思います。茂木先生、藤を探って下さい。悪い藤と高貴で良い藤の見極めが出来ると古代史だけではなく現代の日本社会を見る目が変わります。
淡路の地元民の伝承はちょっと違っています。幽閉されなくなったのは伊弉諾神宮近くのお寺。同寺は淳仁さまの慰霊、菩提寺、墓は近隣の長沢地区の山中にひっそり。そもそも継体~始まる今の皇室は、出雲神族。継体天皇は元出雲王家の御次男。要するに出雲族のリーダー出雲族は古墳時代、四隅突きだし方墳。これは、うえから俯瞰すると突きだし部分がXになり、それは出雲の幸の神信仰の徴神社の千木の由来も同じ。元来、出雲は縦そぎ。渡来人の物部はそれを真似て、そぎは横そぎ。男神、女神云々は本質を誤魔化すブラフ。もとい。皇室(継体~。実質は欽明~)は当初、出雲族、第二次出雲王国の意識から突きだし部分を省略化した方墳。因みに、飛鳥の所謂、石舞台古墳は、用明天皇(欽明天皇の皇子)が、生前に築造した寿陵墓(生前墓の事。現代でもめでたい。とされる)の桃源陵。で方墳だった。のが本当の話。大王、天皇の御陵、それもご本人が築造に関わっていますから巨大サイズは当然です?継体天皇の孫ですから、出雲族の意識ははっきりとお持ちだったかと。前方後円墳。は、渡来人(徐福の子孫、勢力)のモノ。(出雲族は古墳の築造技術に長けていたので、請け負い築造はしたかもしれませんが、仇敵である物部等、渡来人の前方後円墳には埋葬されないはず)用明天皇は史上初めて仏教を養護し推進なさったお方。それがどうしても許せない道教徒の物部守屋は徒党をくんで用明天皇の坐す大王宮を取り囲んで大王宮もろともに用明天皇を焼き殺した。その焼け跡から上宮皇子(太子)は手ずから父帝の焼死体を拾い挙げて件の桃源陵に埋葬なさった。当時、成人前で大した力をもたなかった上宮皇子は深くリベンジを胸に刻んだ。後年、石川臣麻古(蘇我馬子)らの与力を得て物部守屋を襲撃、殺害。父帝の恥辱を雪ぎ無念を晴らされた。(余談。これにより、物部守屋が推古天皇より拝命していた高砂の石切場の作業があと、少しと言うところで中断~中止されて放置された。→石の宝殿(イザナギの神岩。完成したら橿原の山中の所謂、益田磐船遺跡(イザナミの神岩)と歓喜の合体する予定だった)
魚谷佳代さんにお会いされましたか?
神道が宗教となったのは、幕府が出来て以降でしょうね。特に法的に明治でしょうか。それ以前は神道は、宗教であり政治であり道徳でしたから、概念が違うでしょうね。藤原氏の先祖はあの岩屋戸の時に行事をしきっていた天児屋命です。また中臣とは本来役職名で代々祝詞を奉じる家系を指しました。中臣とは、君と神とのなかを取り持つ言葉「なかつをみ」が中臣に変わったそうです。それなりの神主によると、歴史家の歴史は皇室関係に現存したスピリチュアル的な側面が抜けて落ちていると言いますね。女性の天皇と言うと神功皇后がいますが、彼女は生まれた時から男として育てられ髪形や服装も男性であったそうです。
先例・直系・男系
諸外国では長年の血生臭い争いを避ける為に、近年男女問わず直系長子が継ぐ様に変わりましたね。日本ではまだ男子のみなので女性の地位ランクが世界で底辺に近い116位。
日本は実質、女性が強いですけどね。何とかランキングは基本、都合の良い方向へ誘導するツールにすぎませんから。
日本史で覚えた人物のお墓がこうやって立派に残ってるのは凄いし、歴史好きには堪らないですねー。
前半の丁寧な解説からの、淡路島御陵への流れはとてもわかりやすかったです。お2人がどんな思いで淡路島で過ごし、亡くなられたのかを慮るほど、先生が手を合わせられる姿に、胸に迫るものがあります。
それにしても、青い空、緑の山、鳥の囀り、可愛い猫ちゃん…心癒される風景ですね。
今日も先生の旅に心から感謝致します😊
茂木先生、いつもありがとうございます。淳仁天皇陵は実家のすぐ近く、高速を降りて実家に向かう途中にあり何度も何度も何度も通ってきた場所なんです。小学生の頃、天皇のお墓だと教わった時から尊敬の気持ちを持ち、京の都から流されて来られた可哀想な方であるが地元の民から大切にされてきたというなんだか誇らしいような不思議な愛着を持ってきました。茂木先生の詳しいお話はいつも勉強になります。茂木先生の動画の独特のタイミングの取り方、回りの音を生かした沈黙(静寂)の生かし方はまるでヨーロッパ(特にフランス)映画のようで、とても心地良く、ドキュメンタリー仕立てのロードムービーを観ているようでハマってしまいます。当麻陵前でさらっと玉ねぎ小屋の横に車を停められたところが冒険の旅っぽくていいですね(笑)
あれ、玉ねぎ小屋でしたか!
@@maomao96363 ご存知かもしれませんが南あわじ市は玉ねぎの産地、あのような小屋は収穫された玉ねぎを吊して乾燥保管するための小屋です。いや、もしかしたら駐車場と玉ねぎ小屋を兼ねているのかもしれません(笑)
今回もとてもわかり易い説明で勉強になりました。
ところで今回の系統図に出てきました光明皇后について興味があります。光明皇后が作られた「浴室(からふろ)」は悲田院や施薬院をまねたようですが、それは聖徳太子により建てられた四天王寺の影響(光明皇后は聖徳太子をかなり尊敬していたと聞いたことがあります)だそうです。そしてその浴室(からふろ)では病人を救済するために体を洗ってあげていたとか。千人の患者を洗おうとしていたら、最後の千人目の患者の体は全身が膿だらけの悪疾者でしたが光明皇后はその患者の体を洗い、膿を吸い取ってあげたとの言い伝えがあります。そして光明皇后はこの患者に「一切他言せぬように」と言われたそうですが、この話はまったくもって新約聖書にキリストの行ないとして同じことが記載されていました。(読んだときに全身鳥肌が立ちました)
つまり、聖徳太子以来仏教を日本に広めていたはずですがキリスト教の影響もあるのでがないかと。
キリスト教は中国では景教と呼ばれており、キリスト教のネストリウス派がローマ教より異端扱いされて追放された後、シルクロードを通って中国、そして日本に既に入っていきているのではないかということです。
また空海が遣唐使として中国へ留学した際に空海へ密教を授けた恵果は中国の長安におり、その長安では既に景教(キリスト教ネストリウス派)の教会も存在しており、密教自体にもキリスト教の「神」の概念が含まれているように感じます。
私たちが学校で習ったり一般的に信じられていることがはたして正しい知識なのか、間違っていたり或いは不十分極まりないのではと思うこの頃です。
光明子については、次に出す『感染症の人類史』に書きました。
@@maomao96363 ありがとうございます。
勉強させてもらいます。
淡路は近いので是非とも参拝させて頂きたいと思います。全く知りませんでした。貴重な情報ありがとうございます。
動画前半の授業がんばって頭に詰め込んだのに次の画で唐突に、猫を愛でる二人のおじさんの愛くるしさに死ぬほどツボにハマって😂全て吹っ飛びました〜。先生は今、千葉の辺りのはずなのに淡路島にもいらっしゃる錯覚がして頭が嬉しい混乱💞
淡路廃帝、お気の毒です。陵がきれいに管理されていて慰みになるでしょうか?
私は、自分と天武の間に生まれた草壁皇子の血統に拘り、謀略の限りを尽くして皇胤を殺してきた持統女帝が大嫌いです。天武には大勢の皇子がいたのに…
結局この系統は絶え天智系統に戻りますが、ひっそり命を繋いでいた男系男子の意味と有り難さが理解できます。
旧宮家の皇族復帰を切に願います。
必死に守った血筋があんな形で最後を迎えるなんて…女帝なりの覚悟と執念で天武の正当な血筋を残したかったのでしょう。私はこの辺の歴史は永井路子さんの小説で覚えたので持統の肩を持ちたくなります。
@@高見章代
私も永井路子さんの小説は随分と読みました。母系の蘇我氏の血統に重点を置いていましたよね。
家の繁栄を望むなら、自分が産んだ息子以外を立てて存続させたゴッドマザーは日本史上います。
永井氏の現代小説『茜さす』に影響されて奈良県に引っ越し、文化財研究所で働いたことがあります。青かったw
井上靖の『額田女王』のヒロインの突き放した生き方に共感できます。
個人的に漫画「天上の虹」でこの辺の時代が好きになったので持統天皇が好きです。
ただ歴史の流れとしては「直系に拘ると破滅する」という強い教訓を残したのかなと・・・。
ちなみに「天上の虹」の作者の里中満智子先生は先の有識者会議で男系男子派の有識者として参加されていたので
贔屓のキャラクターはそれとして漫画家として歴史を学んだ自負があるのかなという気がします。
@@口頭内侍 わかりますぅ~でも女の情念丸出しの永井路子さんの書きっぷりも好き😻ありがとうございます✨
@@口頭内侍 凄い所で働いていたのですね。羨ましい😻確かに永井先生は倉山田石川麻呂の血筋にこだわってましたね。懐かしい
三毛たんかわいい♡
淡路御陵ののどかな風景に、淳仁天皇の御霊が癒されているように感じました。
おはようございま🤗
先生は、千葉から栃木、三重、淡路島…超ハードすぎます〜🤣💦
先生の解説で、時代の背景がすごく良く伝わって来て…涙が😹 歴史を辿って旅がしたくなりました。
17:00 奈良、山の辺の道沿いに点在する古墳と違って、お母様の墳墓だと、敷地の外側の囲いや正門も無く、立ち入ろうと思えば、そのまま奥へ入っていけるのですね。
宮内庁の立札🪧は立っているけど、管理方法が全く違っているのですね😲😱
20:40 こちらは流石に天皇の墳墓の風格が正面にはありますが、やはり敷地全体に囲いが巡らされているのか?
そういう囲い、結界を作らずとも1,400年も人々に守られて来たのですね。china大陸では権力を失えば、忽ちあばかれ、盛り土などの影も形も無くなって居ただろうに。淡路の人たちの温かな心を感じます。
まさにこれが保守ということなのですね!
神社参拝、、これからは自分の欲ばかりでなく国を守るために祈りにいきます!
大化の改新が、そもそも皇室の事件であることすら、学校では教えてもらった覚えがないです。
分かりやすくて良い勉強になりました。
猫ちゃんが可愛いかったデスねぇ💜
ダヤンみたいなお目目で😍
昨年6月にその辺を通りました。淳仁天皇陵の標識は見たのですが用があってお参りしてません。一度行かねばと思います。
高知県の物部川沿いに光明氏が沢山います。正直、皇后との関係性は不明ですが、ビッグネームの光明を名乗る以上、何かしら関係性はあると思います。
淳仁天皇とお母様の当麻山背のお墓が今も歴然とアリ…然も地元の方々により美しく整備されている事に驚きです!…個人的感想を挟むと。藤原ってのは嫌いなんですよー!猫チャン可愛い😽😽…で茂木サンって運転上手いですよねー。失礼致しました🙇🏻♀️🙇🏽♂️🙇❣️💦
おはようございます😊
49代目の天皇はどなたなのかと調べてみたら、次の光仁天皇は称徳天皇の姉妹が皇后として結ばれてるのですね。
継体天皇を思い出しました。
茂木先生 ありがとうございます!
昨年12月の滋賀での講演会の前に行われたサイン会で、先生に「おのごろ島の次はどこに行かれるご予定ですか?」とお伺いした時に、先生は、「淡路に廃された天皇の御陵に行った」というお話をしてくださいましたが、それは、淳仁天皇のことだったのですね・・・。淳仁天皇のお名前自体は知っておりましたが、淡路に配流されたということまでは知りませんでした・・・。勉強不足です😢。家から淡路島までは、車で行くことが可能なので、沼島、絵島のおのごろ島とともに、淳仁天皇の御陵も参拝しようと思います。
4位13階の僧位制度を創設した仲麻呂と、風紀がたるんだ僧に戒律を徹底させたい鑑真は仲が良く、唐招提寺に寄進したそうです。
なるほど!
すごく分かりやすかったです。
遠くから見た感じ藤原種継の暗殺容疑で淡路島に流された桓武天皇の弟の早良親王の墓も同じような木のしげった小型の山でしたがこんな整備された墓は有ったのだろうか?!近くまで行って見ればよかったです・・。平城京、長岡京、平安京が無実を訴え絶食を続けたまま亡くなった早良親王の怨念で呪われ魂をしずめるために桓武天皇が建てさせたと言われている淡路市の常隆寺はながめも良いし古い立派な樹木が立ち並ぶお寺でしたがちなみに皇族の罪人を淡路に流す風習がもしかして有ったのでしょうか?
久しぶりのコメントになってしまいましたが、『人はなぜ戦争を選ぶのか』読みました。
現代に通ずる内容ばかりでしたが、一番心に残ったところは、第3の演説「責任を指導者に押し付けるのは誤り」です。
「諸君らがわたしに腹を立てているのだとしても、何をすべきか理解し、それを言葉にできると言う点で私は秀でた存在であり、汚職とも無縁の愛国者だ。略。また、両方の資質を兼ね備えていたとしても、都市に対して敵意を抱いていれば、その利益の擁護者としてふるまうことはできない。一方で真の愛国者であっても、賄賂の誘惑に打ち勝てないのであれば、いずれは国家そのものを売り渡してしまうだろう」
これを読んで安倍さんを思い出しました。
安倍さん亡き今、ペリクレスのような指導者が日本にいるのでしょうか。
嘆かわしいことです…
余談ですが当麻山背という事で、仲麻呂の兄で藤原宗家4代目豊成の娘中将姫は淳仁帝からの後宮入りを断り、二上山麓の当麻寺(當麻寺)で尼となり當麻曼陀羅を織り上げたという伝説は釋超空(折口信夫)の死者の書でも有名ですね。
天武天皇は偉大だったと思う私にとって、天武系の断絶は寂しい限りです。
廃帝の文字に限りない寂寥感が・・・
持統女帝が必死に守った血筋があんな形で終わった事にも無常を感じます。
@@高見章代 遥か昔、永井路子氏の「あかねさす」を読んでいたく感動したことを思い出しました。
倉山田石川麻呂とかの名前もふんわり思い出して、まさに「無常」だなと・・・
波乱万丈の鵜野の執念、もっと言えば怨念みたいなのを茂木先生にも語ってほしかったな。
大炊王は、天皇の孫ですが、『王』なのですね。これは当時の律令での定めかなと思いました。
ちなみに、大炊王は、仲麻呂邸に住むとは、人質のような感じですね。『里内裏』のようなものと考えれば、違和感は薄くなるのかもしれませんけども。いや、里内裏自体が、人質態勢の状態化なのかもしれないと、こちらの動画を拝聴して、感じた次第です。
天皇・皇子・皇弟の直系のお子様は「親王/内親王」、それ以外の皇族のお子様は「王/女王」。いまでもそうです。
@@maomao96363 様
有難う御座いました。大炊王は、天武天皇のお孫さんであって、お子ではないですね(舎人親王のお子様ですね)。文武天皇からはイトコに過ぎません。
(天皇の甥·姪までが、親王·内親王になると理解しておけば、わかりやすいと思いました。甥·姪までが、親王宣下や内親王宣下により、親王·内親王になりうるということですね。現代では、親王宣下等は不要となつているようです。)
@@maomao96363 そうだとすると文武天皇は無理してますよね~まして聖武天皇に繋げていくわけですから。
現皇室につながる御方がひっそりと有るということが、なんとも言えぬ思いを抱かされますね。
一度斎王斎宮制度について話を聞いてみたいです。当然この制度の為に多くの皇子が跡目争いに巻き込まれたり、いざこざの原因になったと思いますが、本当はどうやって跡取りを決めたのでしょうか。
淡路島というと、連想するのが稲田一族。
江戸時代の初期より幕末まで淡路の領主でしたが、
初代領主・稲田植元の父が稲田大炊助貞祐で、
“大炊助” を名乗って尾張・織田家・岩倉城の家臣でした。
淡路島に大炊王・淳仁天皇御陵があるとは・・・・
本動画で初めて知りました。“大炊つながり” の不思議な縁を感じました。
先日、徳島で稲田氏が阿波の白人神社を大切にしていたと、うさぎ年ならではの番組がありました。
最近、白人神社⛩とフルリ人が関係ある事を知りました。
スバルからきたと自称していたフルリ人から、稲田氏へ続いているとすると北海道へ渡っていった稲田氏を感慨深く思いました。
いつもためになるお話、勉強になります。
画質を1080P以上にしていただけるとなおありがたいです。
ノートPCでサクサク編集するには、720pがちょうどよいのです。
@@maomao96363 返信いただき恐縮です。ハードウェアの問題ではアップグレード難しそうですね。御陵の映像をより鮮明に見たいと思っただけです。
ところでこのシリーズで徳島の三好家のお話がありますが、実は親戚に三好姓の者がいます。本籍は徳島で彼は次男坊の70歳の人ですが、今度家の由来を聞いてみようと思います。今後とも日本と世界の成り立ちのお話を楽しみにしております😅
里山のこんもりした森の神殿に日本の歴史上人物の存在と伝承が確かにある事は感動以外の何物でもありません。
お家の猫様はお留守番しているのでしょうか❓( ´∀` )
ニャルソック、警戒中です。
茂木先生おはよう御座います🌱
風景が…………
手入れの行き届いた盆栽のよう( ꈍᴗꈍ)
私もいつの日か訪ねたいです。
︙
先生のお話し聴いていて思い出しました。
西部邁先生は、
天皇が大権ふるうなら男系………
文化的元首なら女帝の方がふさわしい………と、
仰ってました。
︙
(ホシュじゃなくて)これ言うとウ・ヨクは怒るんだ………と。
慣習を守ることと、
伝統形式を守ることの違いを解説されながら。
西洋保守思想の優れた紹介者だった西部先生、灯台下暗しでした。
@@maomao96363 先生へ
返信有り難うございます。
お弟子の浜崎先生や中島先生や藤井先生と、
茂木先生が語り合う日が…………きっと来るんだと思います。
というか、
必要なんだと思ってます。
夢のまた夢…持統女帝は草壁の皇子の血筋を残すために腹をくくって自らの手をあれだけ汚したのに。女帝は称徳天皇が道鏡に溺れていく姿をどのような想いでみていたのか…私は永井路子さんの大ファンなので自らの意思で行動する女性の肩を持ちたくなるんですよね。
あからんはあかるの否定であかんはあからんのら抜き言葉ですが、標準語では限定的に明/開の当ての範囲に絞られて、常用したのは漱石くらいまでの世代でしょうか。あからんは和歌山、瀬戸内、九州に残り、あかんは京阪に残ります。
ダメは和語というより囲碁用語ですね。
「あかん」の原語だった!
江戸時代の川柳
①道鏡は座ると膝が
三つでき
②道鏡に根まで入れろとみことのり
③朕はもう崩御崩御とのたまひぬ
淳仁天皇→約400年後…讃岐・香川県への
崇徳院島流し…菅原道真公を上回る…怨霊
←友人である西行法師の鎮魂の旅に繋がる訳ですね。
46代孝謙天皇と48代称徳天皇は同一人物という事でしょうか。
また、49代光仁天皇の父と母は誰なのでしょうか。
調べてください。
田舎だね、猫もかわいいし。時間がゆっくりと流れている感じがすてきでした。わたしは直系女子でもいいのかな、と思っています。なによりも、皇室の出生率が大事です。2を下まわりつつある現在、男子男系にこだわりすぎると、皇室の伝統文化がおろそかにされてゆきます。出生率が2を下まわるということは、男子が誕生する確率は、ゼロから2人まで。女の子ふたりの家庭も存在しうるということです。自然法則は、日本の伝統より上位にある絶対的な真理ですから、無理に続けようとすると、皇室に生まれる子供たちに大きなストレスを与える。内親王を外に放り出し、皇太子の妃として、皇室の外に生まれた女性を迎い入れる。代々それを続けてゆけば、皇室行事が軽んじられる。出生率が高かった時代には、そのプランがうまくゆきました。内親王を尼門跡寺院に押し込めて、世俗の権力から遠ざけて、一生を尼さんとして過ごさせる。男子男系を存続させるためには、不都合な真実もたくさんあります。昭和時代まで、妾文化があったのも、皇室の優雅が妾文化に権威を与えていたからでしょう。しかし昭和天皇によって、貧しきときも、病めるときも、ただひとりの女性を愛するという理想が、皇室の理想になりました。230万人の日本軍の軍人は、いかなる民族も差別されてはならないという理想のために戦い、戦死したわけですから、その思いを継いでゆくなら、女性という理由で、内親王をニューヨークで暮らさせるようなプランは、修正すべき時期だと思います。眞子さまに起きていることは、現代版の尼門跡寺院です。わたしが理解できないのは、皇位継承第一位と第二位の男子がいらっしゃる秋篠宮家を、こともあろうか、男子男系を主張する保守が批判する構図です。これがまったく理解できない。そんなことをすれば、自分で自分の首をしめることになる。令和の政治家は、机上の理想しか語れなくなり、実社会の経験が希薄になりました。保守こそが日本をみっともなくし、滅ぼしているという現実もあるのです。
>>出生率が2を………
男子が誕生する確率はゼロから二人まで………
︙
藤井先生も同じ事仰ってました。
藤井先生の師匠の西部先生も、
男系という慣習を無理に守ろうとすれば、
不都合がおこる………とお話しされてました。
血統ではなく家柄の連続、伝統という形式………
文化的元首なら女帝の方がふさわしい……
上手くお伝え出来ませんがそんな内容でした。
西部先生の一番弟子(?)を自負するch桜の水島さんは、
男系男子一択で旧宮家復活です。
旧皇族も含め、男系男子がいらっしゃる限りは男系男子でつなげる。どなたもいらっしゃらない場合は、女系もやむなし。
旧宮家の復帰を検討するなら、まずは旧宮家の方々、及び現皇族の方々のDNA鑑定は必要不可欠です。これをせずに、男系、女系を論ずること自体間違っています。ちなみに、私の父は昭和天皇の晩年に皇宮警察護衛部長を勤めさせていただきました。その父が、今上陛下が成年になられた時に「浩宮さまがいらっしゃるから、日本は大丈夫だ!」と、それは嬉しそうに語っていました。そして、退職後は、A宮夫妻の行いを、大変危惧しておりました。
あの三毛猫ちゃんのいるところはどこなんですか?
ホテルの駐車場です。
仲麻呂の乱を沈めた人物に吉備真備もいますが、吉備真備の3代前迄の出自を調べて下さい。あれ? 何で? と思うはずです。
それと、藤のルーツは
① 〇〇家の養子→中臣→藤(鎌系)
② 〇〇家→藤
③ ルーツはあえて言いませんが、とにかく藤
の3パターンですが、③が一番高貴、②も大変高貴です。①は②の〇〇へ養子に入っただけです。
ちなみに、日本社会では藤系だらけですが、私自身は①の人となるべく関わらないようにしています。経験上、良い事は一切無く、嫌な事しかありませんので。①②③を其々、簡単に見極める方法(①系の藤に追いやられた一族の間では常識)もありまして、それを頼りに②や③の人とだけお付き合いしています。
藤の詳しい事を知りたい人は、徳島の山奥から北、北東、東、南東の4方向へ山下りして、地元の高齢者の人達とお話しして下さい。
それで話は戻りますが、藤一族の△□氏なのに藤一族からいじめられた人いますよね? あの人は③の出自だと思います。
茂木先生、藤を探って下さい。悪い藤と高貴で良い藤の見極めが出来ると古代史だけではなく現代の日本社会を見る目が変わります。
淡路の地元民の伝承はちょっと違っています。
幽閉され
なくなったのは
伊弉諾神宮近くのお寺。
同寺は淳仁さまの慰霊、菩提寺、
墓は近隣の長沢地区の山中にひっそり。
そもそも継体~始まる
今の皇室は、
出雲神族。
継体天皇は元出雲王家の御次男。
要するに出雲族のリーダー
出雲族は古墳時代、
四隅突きだし方墳。
これは、うえから俯瞰すると突きだし部分が
Xになり、それは出雲の幸の神信仰の徴
神社の千木の由来も同じ。
元来、出雲は縦そぎ。
渡来人の物部はそれを真似て、そぎは横そぎ。
男神、女神云々は本質を誤魔化すブラフ。
もとい。
皇室(継体~。実質は欽明~)は当初、出雲族、第二次出雲王国の意識から
突きだし部分を省略化した方墳。
因みに、飛鳥の所謂、
石舞台古墳は、
用明天皇(欽明天皇の皇子)が、
生前に築造した寿陵墓
(生前墓の事。現代でもめでたい。とされる)の
桃源陵。
で方墳だった。
のが本当の話。
大王、天皇の御陵、それもご本人が築造に関わっていますから
巨大サイズは当然です?
継体天皇の孫ですから、
出雲族の意識ははっきりとお持ちだったかと。
前方後円墳。は、
渡来人(徐福の子孫、勢力)のモノ。
(出雲族は古墳の築造技術に長けていたので、請け負い築造はしたかもしれませんが、仇敵である物部等、渡来人の前方後円墳には埋葬されないはず)
用明天皇は史上初めて仏教を養護し推進なさったお方。
それがどうしても許せない
道教徒の物部守屋は
徒党をくんで用明天皇の坐す大王宮を取り囲んで
大王宮もろともに用明天皇を焼き殺した。
その焼け跡から上宮皇子(太子)は
手ずから父帝の焼死体を拾い挙げて
件の桃源陵に埋葬なさった。
当時、成人前で大した力をもたなかった上宮皇子は
深くリベンジを胸に刻んだ。
後年、石川臣麻古(蘇我馬子)らの与力を得て
物部守屋を襲撃、殺害。
父帝の恥辱を雪ぎ無念を晴らされた。
(余談。
これにより、
物部守屋が推古天皇より拝命していた高砂の石切場の作業があと、少しと言うところで中断~中止されて放置された。
→石の宝殿(イザナギの神岩。完成したら橿原の山中の所謂、益田磐船遺跡(イザナミの神岩)と歓喜の合体する予定だった)
魚谷佳代さんにお会いされましたか?
神道が宗教となったのは、幕府が出来て以降でしょうね。特に法的に明治でしょうか。
それ以前は神道は、宗教であり政治であり道徳でしたから、概念が違うでしょうね。
藤原氏の先祖はあの岩屋戸の時に行事をしきっていた天児屋命です。
また中臣とは本来役職名で代々祝詞を奉じる家系を指しました。
中臣とは、君と神とのなかを取り持つ言葉「なかつをみ」が中臣に変わったそうです。
それなりの神主によると、歴史家の歴史は皇室関係に現存したスピリチュアル的な側面が抜けて落ちていると言いますね。
女性の天皇と言うと神功皇后がいますが、彼女は生まれた時から男として育てられ髪形や服装も男性であったそうです。
先例・直系・男系
諸外国では長年の血生臭い争いを避ける為に、近年男女問わず直系長子が継ぐ様に変わりましたね。日本ではまだ男子のみなので女性の地位ランクが世界で底辺に近い116位。
日本は実質、女性が強いですけどね。
何とかランキングは基本、都合の良い方向へ誘導するツールにすぎませんから。