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この番組好きだけど、いちばんすきなのは浜崎さん🎉
当時の文書を読み解きながら背景や事情を明らかにしていく、このチャンネルのスタイルが大好きです。その時代の文書を一般人が読むのは難しいので、市橋さんの解説はとても参考になっています。文書から先人の息づかいを感じて、遠い存在の彼らが少し身近に感じられます。また背景にもきちんと触れているので、その事象が起こった理由が腑に落ちやすく記憶にも残りやすい。物事の理解には、遠回りでも背景から理解していくことの大切さがよくわかります。今後の投稿も楽しみにしています。13:47 浜崎さんがお酒を呑まないとは意外でした。イメージと実情がこれほどズレるとは笑。
これからも動画配信を頑張って続けていますので、よろしくお願いします😀
今回も、ありがとうございました。この歳になってやっと、石高、検地、刀狩、理解が深まりました。また、次を楽しみにしております。
こちらこそ、ありがとうございます。次回は秀吉の外交についてです。
大変勉強になりました。なかなか学生時代は単語でしか覚えてないですが、こうやって背景を教えてもらえるとすごく合点がいきます。次の授業が楽しみです😄
次は秀吉の外交です。朝鮮出兵の辺りに入っていきますのでよろしくお願いします。
太閤検地は実に合理的だったんですね。ためになりました❗
ゆっくり系の歴史チャンネルも面白いけど聞こえづらいからこのチャンネルは寝ながらでも聞けていいですね、マイクも使ってるし
「チャンバラが強いだけではダメなんです」この先生の言葉に全てが集約されていますね。現代にも通じます。
歴史を勉強していて、痒く思っていた所に手が届いた気がします。
石高の意味を初めて理解できました。学校でもこう教えてくれたらよかったな
昔ある学者の人が三英傑の中で誰が1番凄いのかという質問にダントツで秀吉だと答えてた。理由は簡単で制度等の改革が他の2人とか次元が違うと言ってた。あくまでその学者の方の意見なのかも知れないけどやっぱりこういうの見るとそうなのかなとは思う
大阪の街の基礎を作り上げた天才、豊臣秀吉
純粋な事実だけでなくて、その法令はつまるところどう言う意図や意味合いがあったのかというのを対人物ベースで解説してくれるのが本当に助かります。これなら歴史嫌いな人も減るんじゃないかなって勝手に思います。
歴史って先生によっては楽しくなるんですね☺️
秀吉好き家康嫌いの自分としては、秀吉が定めた坪、斗などの単位が今も使われていると知ったことは驚きと喜びでした。いつもありがとうございます
江戸時代に各藩は開墾や米以外の産業でへそくりしてたのを考えると、大名の領地に踏み込んで経済力ガラス張りにした秀吉さんパネぇっす
これは、、めちゃくちゃ勉強になる。
ありがとうございます。他の動画もよろしくお願いします😀
信長亡き後、秀吉が活躍したのはたったの16年だが、その間の彼の仕事量はあまりに凄い。光秀、勝家、信雄、家康らとの後継争いに勝ち、関白就任、大坂城築城と大坂の都市整備、聚楽第築城、和泉・紀州平定、越中平定、四国平定、九州平定時に博多都市整備、京都新城築城、京都を城塞化する為に寺社を東に移動させ京都全体を取り囲む御土居建設、伏見城築城と伏見都市整備、関東平定、奥州平定、刀狩で民間人を武装解除したのは歴史的偉業、検地は徳川幕府の基礎にもなった。日本人を奴隷として海外に売っていた宣教師を追放しスペインによる明国などのアジアや日本侵略の意図を知った秀吉は、その機先を制して朝鮮、明へ遠征。日本と日本人を守ろうとしたのが秀吉である。乱世に処して実直な努力家で、親孝行で、子煩悩で、女好きで、恐妻家で、日本人にありがちな気早な短所も、人情深い長所も持ち合わせ、計画したことを遠慮なくどしどし実行に移し、決して出し惜しみなどしないで、精根尽きて出し殻のように痩せて衰えて死んでいった。平凡にして、しかも偉大な人間だった。日本史上屈指の天才だったと言えよう。
秀次事件で全て台無しになった
ためになりますね!面白い!
次回待ち遠しいな😂❗️👍
ありがとうございます😀
な・なんと私のご先祖様の土地の検地表が出てる。凄い。残ってるんですね。名前載ってないかと見たけど読めませんね(笑)。羽柴秀吉が播磨に入ってきて最初にやったのは検地。京枡換算での年貢納めになり結果的に小寺・黒田時代より減税となり百姓からは新領主・秀吉様は人気があったとの資料も残ってます。まさに恐るべし政策ですね。
社会の教科書よりこっちのほうがよほど覚えやすいし理解しやすい太閤検地は何年?という学校のテストよりも 年号が重要じゃない、太閤検地は誰が行ったか、なぜ行ったかが社会として重要。歴史を学ぶ人が今後の社会に生かせる知識の基じゃないかと思います
まあ学校には学校の事情がある。この動画も分かりやすいけど太閤検地と刀狩りだけで30分近く費やしてるからねこのチャンネルを全部学校の歴史の授業で流したとしても大変な時間がかかる授業時間が無限にあれば、学校の先生だって色々教えたいだろうよ
市橋先生、友里さん、お疲れ様です。今回もわかりやすく、興味深いお話をありがとうございます。薬を作る女性=2020年度大河の裏主役駒さまですねww 友里さん下戸なんですね。一見、酒豪っぽく見えますがw
人は見かけによらず、ですよね!
太閤検地の歴史的意義をもう1つ。戦国時代の領国では中世以来の荘園や豪族、土豪の縛りがあった。地域にもよるが、まず農民は寺社や豪族に収穫を収める。その後に領主に年貢を払うという2重3重の重複があった。太閤検地ではこの複雑な利害関係をきれいに精算。農民は収穫を領主に年貢として払うことに一本化した。ここはそのまま江戸時代にも引き継がれている。
そのとおりですね。太閤検地によって旧来の荘園制は完全になくなりました。また年貢の納め方も、次第に村請制になっていきます。江戸時代の村請制度の始まりでもあったんですね。深いご見識、ありがとうございました。
検地と刀狩り……ここまでのことを教えてくれなかったなぁ
こういう歴女と城巡りして語り合いたい。出来たら手を繋いで。
浜崎大名、十万石いいですね😊
兵農分離で何故農民から不満が出てきたのか教えてください。いつも、動画を通じて勉強させて頂いています。
ありがとうございます。とても良い質問ですね。兵農分離政策の一番の目的は、石高収入を確実なものにすることでした。これまでは農民たちもその多くが戦に駆り出され、場合によっては米の取れ高に大きな影響も出たのです。それを避けることが大きな課題でもあったのですね。二つ目の目的は、農民たちによる一揆などを抑えるためです。そのために刀狩などを行い、農民たちがそのような反乱行動に出ることを防ごうとしました。ただ、戦によって米や馬などを強制的に徴収されることも多くあり、自分たちの暮らしの安定を補償されなかった農民たちの不満は高まってしまったのです。また細かいことは地域や領主によっても異なりますので、調べられると面白いと思います。
回答ありがとうございます。丁寧な解説をありがとうございます。兵役を実施する代わりに、租税を免除してもらっていたことに繋がる事への説明ということが分かりました。江戸時代に入り身分統制「士農工商」が国土に根付いていきますが、この時、農民をはじめ世の中から不満が出なかったのは、世の中に戦のない穏やかな生活が訪れ、田畑や街が荒らされなくなり生活が安定してきたからという理解をしております。戦国時代の人々からすると、そんな時代が訪れるなんて、夢にも思わなかった事でしょうね。まさに、麒麟が来ましたね。今のこの世の中、戦のない世の中が当たり前になっていますが、平和は自然に訪れるものではなく、自分たちで作るものだということが過去の歴史から分かりますね。
これは学校の授業で視聴させるべきレベル
ありがとうございます。😀
これが江戸時代になると、給与を米で貰っても、生活するためには換金しなければいけませんよね。そのためには、米価を安定させなければならない。米価を安定させるために尽力したのが徳川吉宗だったんだなぁと思うと、財政って難しいなぁと思いました。
秀吉は、取り巻きも優秀だっただろうけど、半兵半農の身分から成り上がったから、農民の思考回路が理解できてたのでしょうね。刀狩りは、一揆を起こさせない効果的なやり方ですよね。当時貴重な金属も手に入りますしw先祖代々からの家臣もいなかったので、自分の周りを固める為に、全精力を注いだのであろうと想像します。太閤検地は、全大名の懐事情を完全把握して、謀反を減らし、全国統一基準で地域差の不平等も無くなる、素晴らしい方策だったんですね!
@@TO-eq5im 様そうですよね!人たらしとさげすむ者もいたらしいけど、人間味が強い人か、余程の嘘つきしかそうは言われなくて、秀吉は良くも悪くも、どちらも持っていたんだと思います。裏切りで殺された信長や、人を上手く押さえつけながら使って大忖度の中、恐らくいつまでも生きたいと思いながら自分が調合した薬にすがって死んでいった家康とはちょっと違って(なんか悪口になってしまったw)、まさに出し尽くして死んで行ったイメージが高い人物ですよね!秀吉は、私の遠いご先祖の、命の恩人でもあります!
度量衡の統一は秀吉家臣が史記などを読んでいて始皇帝の真似しろとかアドバイスしたのでしょうか
いい時の秀吉さん。弟の秀長さんが亡くなってからオカシく成っていくんだよ。
やっと意味がわかった❗
秀吉の仕事ぶりを見ると、豊臣家の永遠の反映を望んでたようには、とても見えない。自分の後に、誰であろうと天下を継いだ人間が、国内統治のグランドデザインをひきやすいように、整地しデータベースを作ったと考えるのが一番しっくり来る。一番凄いのは、千年続いた律令制度を事実上解体したこと。家康が、秀吉の家臣や恩顧大名に、秀吉の真意が分からんのか、と何度も怒ってた理由の本質がそこにあると思う。
関係ないけど色気凄いな
なかなか面白かった。どんなブレーンがいたのかな?にしても昔はかなりいい加減だったということか。農民の生活がどんなだったかもやって欲しいね。現代のような貨幣制度がない以上、かなりのことを村単位でやってたようには思うが。あと平均寿命やら病気、けが、ごはんとか、できればSEX?とかも知りたいね。
地方ほど、後の時代に石高が増えていったということですね。
家康公はもちろんすごいけど。やっぱり秀吉公のこの基礎があったからだと改めて思います。確かに信長公は凄かったけど、結局武将に何度も離反されたのだからある意味甘さがあったのだろう。
三英傑のなかで一番優秀だと思う。
歴史好きな人でもない限り惣無事令って、刀狩・検地とかと違ってあまりの一般的には知られて無かったよね。なんでだろう?
恐るべし政策じゃなくて恐るべき政策
武田先生の日本政府のお金の話を聞きましたが少し疑問が有ります。 先生のお話しでは、政府の支出は税収の範囲内で行うべし、所謂プライマリーバランスを良しとする、と言う風に聴こえましたが国債発行も良しとするべきではないのでしょうか?今、国債発行残高の約半分500兆円は政府の子会社である日銀が保有しています。これは金融緩和目的で金融機関保有の国債を買い取った分で、その代金は各金融機関の当座預金に入金されています。これは正に政府の通貨発行権を国の中央銀行である日銀が行使している訳で、国債は日銀が買い取る事で事実上償却されています。この行為は国民の側が行うと自己金融の融通手形の発行や通貨偽造に当たり禁じ手です。政府による自己金融は通貨発行権に基づく訳で正当な権利、権力の行使であると思いますが如何なのでしょうか?
酒豪そう!
家康公は秀吉に関東に移るように言われた際、素直にはいと答えたのでしょうか?抵抗しなかったのか子どもの頃から気になっております。
この話は、どこかのタイミングで触れるができればと思います
抵抗は出来なかったと思います仮にもこの時点で秀吉は天下人だし、前の関白。しかも表向きは家康への恩賞として関東を与えられてるわけですからそれを拒否すればいくら家康でも取り潰されてしまいます
30kgの米袋を担いで歩けるか否かはチカラの問題ではなく、身体操作の違いかも。
政治や軍事などに数字を取り入れるなんて当時としては画期的なアイデアやったんでしょうね家康は秀吉の政策を全否定しているわけでもないし
家康の国づくりは、秀吉の基盤があってこそですよね。
今年の歴史ミステリー豊臣秀吉に共感した。戦国の世の中を時代を頑張ってる豊臣秀吉を研究しますと、本能寺の変では明智光秀が連歌を歌った。永禄 「太閤検地」 大名・農民統制 は 石高 へ凄く厳しいらしい 太閤の人柄が戦国時代の花鳥風月であります。とにもかくにも昨年より視聴する。
「蘆屋道満と同居中」国会図書、三重、広島、石川県立、松江市立図書館に蔵書
この秀吉像が東野英治郎にしか見えない(笑)
1石が人兵要員1人の年間消費量とは知りませんでした ただ兵に出ない者たちの消費分とか 各藩の年貢の割合は勘案されているでしょうかまぁ当の農民は米を食べるなどできなかった時代であろうかとは思いますが農民家族の食べる雑穀はどの地で作られていたのでしょう検知されて米作を命じられれば逆らえないだろうに…
太閤検地とは、土地の借地権、所有権制度の、見直しする事です。対抗し、見地と言います。土地は、個人で、管理維持出来ません。社会全体で、管理維持する事です。ウラジミール、レーニンは、こう言いました。
この約1800年前に度量衡という単位の統一を行った始皇帝はすごかったんだよな。しかも日本とは比べ物にならないくらい広い中華で。
政治は「人垂らし」+「洞察力」。人を垂らさないと、頭の良い役人は動かないし、洞察力が無いと、人を観て使う為の説得力(=納得させる力)に欠ける。ひでよっさはエライ。
The forgetful kayak supposedly scratch because windshield interestingly weigh into a medical accordion. deeply, prickly sunshine
結局、秀吉のやったことは、中国律令制や度量衡のマネに過ぎないということです。既に、律令制では、計帳といって農地の面積を計測しましたし、その単位を全国的に統一する度量衡をやっていました。単に秀吉がやったことは、自分が使いやすい様にカスタマイズしたということです。さらには、通貨基準の貫高制から、米基準の石高制は、後退といえるのは、貨幣経済の進展の遅れから、大和朝廷独自の和同開珎などの銅銭が定着しなかったからです。しかしながら、秀吉自身が、貨幣経済から物々交換への後退は、米価の変動による財政難を引き起こす弊害を痛感していたのです。だから、秀吉は、将来の全国統一通貨による貨幣経済への復帰を見据えて、文字通り「大判振る舞い」をやったのです。
三重県久居の前期訓練で自衛隊に入った時は確か一俵だか砂袋だか忘れたけど担いで走ったぞ?俺は身長163しかないけど別に普通に担いで走れたけど
もし1俵なら、すごい力持ちてす。すごいと思います!😀
どんな形態の60キロ?どのぐらいの時間?距離?肝心なことがわからないから感心していいかわかりません。
@@たいらさん-t3x 勘違いしてるみたいだから補足ておくけど感心する必要はない、重量物はそれぞれ担ぎ方が有ってちゃんと担ぐと殆ど重くなくなるポイントが有る、170x14,50の茶箪笥を150そこそこの人がひょいと担いでたりしてたんだけどね、今の人が出来ないのは担ぎ方が悪いか身体的に良くない事をして力が入らないかのどちらか両方か俺程度は素人同然自慢にもならんのよ
江戸になって俵が2倍くらいに大きくなってなかったっけ?
これだけ頭の切れる人間が生まれが賤しいはずがない。なぜならこの時代公家などやきちんとした武士かしか教育に機会はなかったはず。それなのに秀吉の思考や発想は合理的すぎるし論理的すぎる。考えられるのは、秀吉は実は卑しい身分などではなかった。あとひとつは秀吉は本当はこの時代の人間ではなかった。このどちらか。いくら元の知能が高くたってそれを育てる環境がなければ猿は人間にならない。つまり豊臣秀吉という存在はあまりに不自然すぎると思う。
宇野正美先生が、秀吉のバックに秦氏がついていたとおっしゃってましたよ。そう考えると、納得ですね。
この番組好きだけど、いちばんすきなのは浜崎さん🎉
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これからも動画配信を頑張って続けていますので、よろしくお願いします😀
今回も、ありがとうございました。この歳になってやっと、石高、検地、刀狩、理解が深まりました。また、次を楽しみにしております。
こちらこそ、ありがとうございます。次回は秀吉の外交についてです。
大変勉強になりました。
なかなか学生時代は単語でしか覚えてないですが、こうやって背景を教えてもらえるとすごく合点がいきます。
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太閤検地は実に合理的だったんですね。
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あくまでその学者の方の意見なのかも知れないけどやっぱりこういうの見るとそうなのかなとは思う
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純粋な事実だけでなくて、その法令はつまるところどう言う意図や意味合いがあったのか
というのを対人物ベースで解説してくれるのが本当に助かります。
これなら歴史嫌いな人も減るんじゃないかなって勝手に思います。
歴史って先生によっては楽しくなるんですね☺️
秀吉好き家康嫌いの自分としては、秀吉が定めた坪、斗などの単位が今も使われていると知ったことは驚きと喜びでした。いつもありがとうございます
江戸時代に各藩は開墾や米以外の産業でへそくりしてたのを考えると、大名の領地に踏み込んで経済力ガラス張りにした秀吉さんパネぇっす
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ありがとうございます。他の動画もよろしくお願いします😀
信長亡き後、秀吉が活躍したのはたったの16年だが、その間の彼の仕事量はあまりに凄い。光秀、勝家、信雄、家康らとの後継争いに勝ち、関白就任、大坂城築城と大坂の都市整備、聚楽第築城、和泉・紀州平定、越中平定、四国平定、九州平定時に博多都市整備、京都新城築城、京都を城塞化する為に寺社を東に移動させ京都全体を取り囲む御土居建設、伏見城築城と伏見都市整備、関東平定、奥州平定、刀狩で民間人を武装解除したのは歴史的偉業、検地は徳川幕府の基礎にもなった。日本人を奴隷として海外に売っていた宣教師を追放しスペインによる明国などのアジアや日本侵略の意図を知った秀吉は、その機先を制して朝鮮、明へ遠征。日本と日本人を守ろうとしたのが秀吉である。乱世に処して実直な努力家で、親孝行で、子煩悩で、女好きで、恐妻家で、日本人にありがちな気早な短所も、人情深い長所も持ち合わせ、計画したことを遠慮なくどしどし実行に移し、決して出し惜しみなどしないで、精根尽きて出し殻のように痩せて衰えて死んでいった。平凡にして、しかも偉大な人間だった。日本史上屈指の天才だったと言えよう。
秀次事件で全て台無しになった
ためになりますね!面白い!
次回待ち遠しいな😂❗️👍
ありがとうございます😀
な・なんと私のご先祖様の土地の検地表が出てる。凄い。残ってるんですね。名前載ってないかと見たけど読めませんね(笑)。羽柴秀吉が播磨に入ってきて最初にやったのは検地。京枡換算での年貢納めになり結果的に小寺・黒田時代より減税となり百姓からは新領主・秀吉様は人気があったとの資料も残ってます。まさに恐るべし政策ですね。
社会の教科書よりこっちのほうがよほど覚えやすいし理解しやすい
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まあ学校には学校の事情がある。
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授業時間が無限にあれば、学校の先生だって色々教えたいだろうよ
市橋先生、友里さん、お疲れ様です。今回もわかりやすく、興味深いお話をありがとうございます。
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人は見かけによらず、ですよね!
太閤検地の歴史的意義をもう1つ。
戦国時代の領国では中世以来の荘園や豪族、土豪の縛りがあった。
地域にもよるが、まず農民は寺社や豪族に収穫を収める。
その後に領主に年貢を払うという2重3重の重複があった。
太閤検地ではこの複雑な利害関係をきれいに精算。
農民は収穫を領主に年貢として払うことに一本化した。
ここはそのまま江戸時代にも引き継がれている。
そのとおりですね。太閤検地によって旧来の荘園制は完全になくなりました。また年貢の納め方も、次第に村請制になっていきます。江戸時代の村請制度の始まりでもあったんですね。深いご見識、ありがとうございました。
検地と刀狩り……ここまでのことを教えてくれなかったなぁ
こういう歴女と城巡りして語り合いたい。出来たら手を繋いで。
浜崎大名、十万石いいですね😊
兵農分離で何故農民から不満が出てきたのか教えてください。
いつも、動画を通じて勉強させて頂いています。
ありがとうございます。とても良い質問ですね。
兵農分離政策の一番の目的は、石高収入を確実なものにすることでした。これまでは農民たちもその多くが戦に駆り出され、場合によっては米の取れ高に大きな影響も出たのです。それを避けることが大きな課題でもあったのですね。二つ目の目的は、農民たちによる一揆などを抑えるためです。そのために刀狩などを行い、農民たちがそのような反乱行動に出ることを防ごうとしました。ただ、戦によって米や馬などを強制的に徴収されることも多くあり、自分たちの暮らしの安定を補償されなかった農民たちの不満は高まってしまったのです。
また細かいことは地域や領主によっても異なりますので、調べられると面白いと思います。
回答ありがとうございます。丁寧な解説をありがとうございます。兵役を実施する代わりに、租税を免除してもらっていたことに繋がる事への説明ということが分かりました。
江戸時代に入り身分統制「士農工商」が国土に根付いていきますが、この時、農民をはじめ世の中から不満が出なかったのは、世の中に戦のない穏やかな生活が訪れ、田畑や街が荒らされなくなり生活が安定してきたからという理解をしております。
戦国時代の人々からすると、そんな時代が訪れるなんて、夢にも思わなかった事でしょうね。
まさに、麒麟が来ましたね。今のこの世の中、戦のない世の中が当たり前になっていますが、平和は自然に訪れるものではなく、自分たちで作るものだということが過去の歴史から分かりますね。
これは学校の授業で視聴させるべきレベル
ありがとうございます。😀
これが江戸時代になると、給与を米で貰っても、生活するためには換金しなければいけませんよね。
そのためには、米価を安定させなければならない。
米価を安定させるために尽力したのが徳川吉宗だったんだなぁと思うと、財政って難しいなぁと思いました。
秀吉は、取り巻きも優秀だっただろうけど、半兵半農の身分から成り上がったから、農民の思考回路が理解できてたのでしょうね。
刀狩りは、一揆を起こさせない効果的なやり方ですよね。当時貴重な金属も手に入りますしw
先祖代々からの家臣もいなかったので、自分の周りを固める為に、全精力を注いだのであろうと想像します。
太閤検地は、全大名の懐事情を完全把握して、謀反を減らし、全国統一基準で地域差の不平等も無くなる、素晴らしい方策だったんですね!
信長亡き後、秀吉が活躍したのはたったの16年だが、その間の彼の仕事量はあまりに凄い。光秀、勝家、信雄、家康らとの後継争いに勝ち、関白就任、大坂城築城と大坂の都市整備、聚楽第築城、和泉・紀州平定、越中平定、四国平定、九州平定時に博多都市整備、京都新城築城、京都を城塞化する為に寺社を東に移動させ京都全体を取り囲む御土居建設、伏見城築城と伏見都市整備、関東平定、奥州平定、刀狩で民間人を武装解除したのは歴史的偉業、検地は徳川幕府の基礎にもなった。日本人を奴隷として海外に売っていた宣教師を追放しスペインによる明国などのアジアや日本侵略の意図を知った秀吉は、その機先を制して朝鮮、明へ遠征。日本と日本人を守ろうとしたのが秀吉である。乱世に処して実直な努力家で、親孝行で、子煩悩で、女好きで、恐妻家で、日本人にありがちな気早な短所も、人情深い長所も持ち合わせ、計画したことを遠慮なくどしどし実行に移し、決して出し惜しみなどしないで、精根尽きて出し殻のように痩せて衰えて死んでいった。平凡にして、しかも偉大な人間だった。日本史上屈指の天才だったと言えよう。
@@TO-eq5im 様
そうですよね!人たらしとさげすむ者もいたらしいけど、人間味が強い人か、余程の嘘つきしかそうは言われなくて、秀吉は良くも悪くも、どちらも持っていたんだと思います。裏切りで殺された信長や、人を上手く押さえつけながら使って大忖度の中、恐らくいつまでも生きたいと思いながら自分が調合した薬にすがって死んでいった家康とはちょっと違って(なんか悪口になってしまったw)、まさに出し尽くして死んで行ったイメージが高い人物ですよね!
秀吉は、私の遠いご先祖の、命の恩人でもあります!
秀次事件で全て台無しになった
度量衡の統一は秀吉家臣が史記などを読んでいて始皇帝の真似しろとかアドバイスしたのでしょうか
いい時の秀吉さん。
弟の秀長さんが亡くなってからオカシく成っていくんだよ。
やっと意味がわかった❗
秀吉の仕事ぶりを見ると、豊臣家の永遠の反映を望んでたようには、とても見えない。
自分の後に、誰であろうと天下を継いだ人間が、国内統治のグランドデザインをひきやすいように、整地しデータベースを作ったと考えるのが一番しっくり来る。
一番凄いのは、千年続いた律令制度を事実上解体したこと。
家康が、秀吉の家臣や恩顧大名に、秀吉の真意が分からんのか、と何度も怒ってた理由の本質がそこにあると思う。
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なかなか面白かった。どんなブレーンがいたのかな?にしても昔はかなりいい加減だったということか。農民の生活がどんなだったかもやって欲しいね。現代のような貨幣制度がない以上、かなりのことを村単位でやってたようには思うが。あと平均寿命やら病気、けが、ごはんとか、できればSEX?とかも知りたいね。
地方ほど、後の時代に石高が増えていったということですね。
家康公はもちろんすごいけど。やっぱり秀吉公のこの基礎があったからだと改めて思います。確かに信長公は凄かったけど、結局武将に何度も離反されたのだからある意味甘さがあったのだろう。
信長亡き後、秀吉が活躍したのはたったの16年だが、その間の彼の仕事量はあまりに凄い。光秀、勝家、信雄、家康らとの後継争いに勝ち、関白就任、大坂城築城と大坂の都市整備、聚楽第築城、和泉・紀州平定、越中平定、四国平定、九州平定時に博多都市整備、京都新城築城、京都を城塞化する為に寺社を東に移動させ京都全体を取り囲む御土居建設、伏見城築城と伏見都市整備、関東平定、奥州平定、刀狩で民間人を武装解除したのは歴史的偉業、検地は徳川幕府の基礎にもなった。日本人を奴隷として海外に売っていた宣教師を追放しスペインによる明国などのアジアや日本侵略の意図を知った秀吉は、その機先を制して朝鮮、明へ遠征。日本と日本人を守ろうとしたのが秀吉である。乱世に処して実直な努力家で、親孝行で、子煩悩で、女好きで、恐妻家で、日本人にありがちな気早な短所も、人情深い長所も持ち合わせ、計画したことを遠慮なくどしどし実行に移し、決して出し惜しみなどしないで、精根尽きて出し殻のように痩せて衰えて死んでいった。平凡にして、しかも偉大な人間だった。日本史上屈指の天才だったと言えよう。
三英傑のなかで一番優秀だと思う。
秀次事件で全て台無しになった
歴史好きな人でもない限り惣無事令って、刀狩・検地とかと違ってあまりの一般的には知られて無かったよね。なんでだろう?
恐るべし政策じゃなくて恐るべき政策
武田先生の日本政府のお金の話を聞きましたが少し疑問が有ります。 先生のお話しでは、政府の支出は税収の範囲内で行うべし、所謂プライマリーバランスを良しとする、と言う風に聴こえましたが国債発行も良しとするべきではないのでしょうか?今、国債発行残高の約半分500兆円は政府の子会社である日銀が保有しています。これは金融緩和目的で金融機関保有の国債を買い取った分で、その代金は各金融機関の当座預金に入金されています。これは正に政府の通貨発行権を国の中央銀行である日銀が行使している訳で、国債は日銀が買い取る事で事実上償却されています。この行為は国民の側が行うと自己金融の融通手形の発行や通貨偽造に当たり禁じ手です。政府による自己金融は通貨発行権に基づく訳で正当な権利、権力の行使であると思いますが如何なのでしょうか?
酒豪そう!
家康公は秀吉に関東に移るように言われた際、素直にはいと答えたのでしょうか?抵抗しなかったのか子どもの頃から気になっております。
この話は、どこかのタイミングで触れるができればと思います
抵抗は出来なかったと思います
仮にもこの時点で秀吉は天下人だし、前の関白。
しかも表向きは家康への恩賞として関東を与えられてるわけですから
それを拒否すればいくら家康でも取り潰されてしまいます
30kgの米袋を担いで歩けるか否かはチカラの問題ではなく、身体操作の違いかも。
政治や軍事などに
数字を取り入れるなんて
当時としては画期的な
アイデアやったんでしょうね
家康は秀吉の政策を
全否定しているわけでもないし
家康の国づくりは、秀吉の基盤があってこそですよね。
今年の歴史ミステリー豊臣秀吉に共感した。
戦国の世の中を時代を頑張ってる豊臣秀吉を研究しますと、本能寺の変では明智光秀が連歌を歌った。
永禄 「太閤検地」 大名・農民統制 は 石高 へ凄く厳しいらしい 太閤の人柄が戦国時代の花鳥風月であります。とにもかくにも昨年より視聴する。
「蘆屋道満と同居中」国会図書、三重、広島、石川県立、松江市立図書館に蔵書
この秀吉像が東野英治郎にしか見えない(笑)
1石が人兵要員1人の年間消費量とは知りませんでした ただ
兵に出ない者たちの消費分とか 各藩の年貢の割合は勘案されているでしょうか
まぁ当の農民は米を食べるなどできなかった時代であろうかとは思いますが
農民家族の食べる雑穀はどの地で作られていたのでしょう検知されて
米作を命じられれば逆らえないだろうに…
太閤検地とは、土地の借地権、所有権制度の、見直しする事です。対抗し、見地と言います。土地は、個人で、管理維持出来ません。社会全体で、管理維持する事です。ウラジミール、レーニンは、こう言いました。
この約1800年前に度量衡という単位の統一を行った始皇帝はすごかったんだよな。しかも日本とは比べ物にならないくらい広い中華で。
政治は「人垂らし」+「洞察力」。人を垂らさないと、頭の良い役人は動かないし、洞察力が無いと、人を観て使う為の説得力(=納得させる力)に欠ける。ひでよっさはエライ。
The forgetful kayak supposedly scratch because windshield interestingly weigh into a medical accordion. deeply, prickly sunshine
結局、秀吉のやったことは、中国律令制や度量衡のマネに過ぎないということです。
既に、律令制では、計帳といって農地の面積を計測しましたし、その単位を全国的に統一する度量衡をやっていました。
単に秀吉がやったことは、自分が使いやすい様にカスタマイズしたということです。
さらには、通貨基準の貫高制から、米基準の石高制は、後退といえるのは、貨幣経済の進展の遅れから、大和朝廷独自の和同開珎などの銅銭が定着しなかったからです。
しかしながら、秀吉自身が、貨幣経済から物々交換への後退は、米価の変動による財政難を引き起こす弊害を痛感していたのです。
だから、秀吉は、将来の全国統一通貨による貨幣経済への復帰を見据えて、文字通り「大判振る舞い」をやったのです。
三重県久居の前期訓練で自衛隊に入った時は確か一俵だか砂袋だか忘れたけど担いで走ったぞ?
俺は身長163しかないけど別に普通に担いで走れたけど
もし1俵なら、すごい力持ちてす。すごいと思います!😀
どんな形態の60キロ?どのぐらいの時間?距離?肝心なことがわからないから感心していいかわかりません。
@@たいらさん-t3x 勘違いしてるみたいだから補足ておくけど感心する必要はない、
重量物はそれぞれ担ぎ方が有ってちゃんと担ぐと殆ど重くなくなるポイントが有る、170x14,50の茶箪笥を150そこそこの人がひょいと担いでたりしてたんだけどね、今の人が出来ないのは担ぎ方が悪いか身体的に良くない事をして力が入らないかのどちらか両方か俺程度は素人同然自慢にもならんのよ
江戸になって俵が2倍くらいに大きくなってなかったっけ?
これだけ頭の切れる人間が生まれが賤しいはずがない。
なぜならこの時代公家などやきちんとした武士かしか教育に機会はなかったはず。
それなのに秀吉の思考や発想は合理的すぎるし論理的すぎる。
考えられるのは、秀吉は実は卑しい身分などではなかった。
あとひとつは秀吉は本当はこの時代の人間ではなかった。
このどちらか。
いくら元の知能が高くたってそれを育てる環境がなければ
猿は人間にならない。
つまり豊臣秀吉という存在はあまりに不自然すぎると思う。
宇野正美先生が、秀吉のバックに秦氏がついていたとおっしゃってましたよ。そう考えると、納得ですね。