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話の内容もさることながら、市橋先生の語り口、説明の仕方、興味の惹きつけ方……などの講釈・語り方素晴らしく、とても参考になります。
通説にこだわる事なく新しい資料を元に切り込んでお話をされる先生の考え方に共感を感じています😊常になぜそうなったのか?そうしなければいけなかったのか?歴史そんなに詳しく知らないのですが、先生のお話しから沢山学べて本当に歴史が好きになってきました😊
今日もとっても面白いお話でした!😋先生が沢山の資料で調べてくださったお陰で、色々な説が聞けて楽しいです歴史の何が事実か知りたい反面、事実を知るとがっかりもしますね😊でもまたそこが面白い!作り話だったとしても、いつの時代もロマンや美談があるのですね☺️今日のお話を聞いて、益々歴史って面白いな🤣って思いました早く次が観たいです😊待ち遠しい♫お二人共、本日もありがとうございました😊
一次、二次のお話すごく同感。史実を追い求めるのも、理想を夢見るのも、たられば語るのもどれも歴史の面白さ。
|д・)推しを愛でる
市橋先生、友里さん、お疲れ様です。今回も興味深いお話ありがとうございます。内府違いの条々、大谷吉継の病気、目から鱗でした。
歴史は勝者がつくったものだから史実は違うの山ほどあるはず。好きな番組。
相変わらず、先生の解説面白ろくて、わかりやすい!友里さんもますます、キレイ😍
2次資料は書いた当時の人がそう思っていたと言う事もある。また先人に聞いたりしたのもあるのだから考察すべき。市橋先生と浜崎さんのやりとりも面白い。家忠日記を参考にした三河の内乱の時の話など知らなかったし自分で調べてみたくなりました。関ヶ原の戦いも諸説あるだろうけど先生の話し楽しみにしてます。今でこそ歴史が好きですが学生の頃は全然、頭に入って来なかったけど先生が教えてくれてたなら好きになれたなって思います。特に戦国時代の前など分からなかったのでとても有意義な番組でした。関ヶ原の話しでは全国の北は東北から南は九州までの話しを聞きたいです。3ヶ月と言わず1年くらいやって欲しいなー。浜崎さんの純真無垢な性格もとてもほっくり来ます。
大谷刑部の新説は興味深いですね。
三成がお茶をぐいっと飲み干すエピソード大好きだったのに…ただ真偽がはっきりしないだけで秀吉の小姓をしていた2人の間に必ずそういう絆になる何かがあったと信じたいです。そうでなければ当初家康側についていた大谷吉継を西軍にそうやすやすと引き入れることはできないと思います。いかに秀吉に恩があったとはいえ秀吉はもういない、家康はかつて秀吉と渡りあったこともある実力者、そして戦国の世を経験している多くの武将達は勝てば良いが負ければ一族郎党滅ぶことをよく理解しているはずです。だから各武将もどちらにつくかは大いに悩んだと思うですよね。
関ヶ原の合戦までが長いけど、合戦までの経緯は必要!大変勉強になります!次回楽しみです!
この先生は凄い、、、本物だよ、、、。
資料を否定しない。あらゆる角度から総合的に解釈する。優しくて賢い、人間性の深い方だと思いました。まずは話を聞いてくださる方なのかなと思いました
仰る通りです!分かりやすく説明していただきありがとうございます!!!(ㅅ´³`)
戦争動機はこれこれこうだったと後世になって教科書に載りますけど、単純に一つの動機で動いていた訳じゃなく複合的要因が結びついて偶発的に起きた結果、を後世の人が理解しやすいように単純化して解釈しているだけかもしれないし、伝え手や聞き手の思想やら思惑によっても解釈が大幅に変わってしまうので歴史解釈は難しいですね。タイムマシーンで当時に行ってみたとして、戦争に参加していた末端の兵隊にインタビューすれば戦争理由すら分からず命懸けで闘っていた人は多いはず。
当時の空気感や気風が一番影響するのではと個人的には思ってる。日本の戦国時代や南北朝時代、ローマの軍人皇帝時代や中国の五胡十六国や五大十国時代など暗殺や戦争に一々動機が存在したとはどうしても思えない。現在と真逆で平和とか正義とか知らずに生まれてきて、おぎゃあと泣いて生まれた時から戦いが常態化して親子・兄弟・夫婦・主従で殺し合うのが普通な環境で育つと、それを当然だと思い込みむしろ平和な状態が不安になるのが人間というものの性だと思います。
新たな捉え方から見た史実を知ることができて面白かったです。
たとえ後世に作られた逸話だとしても、その当時の雰囲気や人々の考え方を反映したものなので、決して無駄なものではないと思います。
いつも楽しみにしてます!今回は、特に考えさせられるお話でした。私は、大谷吉継のイメージは、長年、大河ドラマや司馬遼太郎の小説などの刷り込みがあったので今回のお話はとても以外でした。
浜崎さんの突っ込みがおもしろい。
今回も楽しませて頂きました。ありがとうございます。また、次回が楽しみです。 ところで、大谷吉継がハンセン氏病だったと言う説を唱えた人はハンセン氏病が伝染病ではないと知っていたことになりますね。「らい予防法」が廃止されたのが平成8年(1996年)ですから、どの時代の方が結論付けたのかわかりませんが、中々、考えさせられます。ひょっとしたら、その説をとなえた人か、その家族にハンセン氏病の方がいらしたのかもしれないですね。
有名な関ヶ原合戦陣地図は、明治時代に陸軍が机上演習の教材として作ったものとどこかで読んだことがあります。実際は、「関ヶ原の西方の山間の山中村で、大谷軍が戦ったが破れ、勝負が決した」と誰かの手紙に書いてあったといいます。市橋先生のご説が楽しみです。
自分は、一次史料を裏付けるのが、複数の二次資(史)料。と、してます。(史学専攻)大家の先生方でも、当時居たわけではないから、個人の推測でしかない。としか言いようがないから。博物館、参考になります。
三成と吉継のお茶のシーン好きだったのに(@ ̄□ ̄@;)!!ビックリしすぎて、朝ごはんの紅茶を吹いちゃいました。
先生は戦国武将は忠義の人は少ない。とおっしゃっていましたが、その中でも最も忠義の人は伏見城のあの方なのかなと思いました。九州の立花どうせつさんや、宗しげさんのお父さんも忠義の方かなと思いましたが。ほかは、負け戦のときに影武者となって命を散らしていった武将たちも忠義の方なのかなと思いました。次回も楽しみです
大谷吉継の方から石田三成を誘ったって書いてるとこもありますね。
大谷吉継のお茶会での話は、おかしいと思ってました。今回のお話でようやく納得できました。いつも新鮮で常に次回が楽しみです。
先の話になりますが、昔から何故家康は、例え裏で通じていたとはいえ、どう見ても負ける、布陣の関ヶ原に、わざわざ飛び込むかなと本当に疑問でした。それで当時の一次資料は、本当は呆気なく終わったとか、秀秋は合戦前から鮮明にしてて、大谷吉継が当初から秀秋の陣に対して構えていたとか、本来の陣地が今発掘するとなんも跡形がなかったとか見て、疑問が晴れました。一次資料は重要かと。先生が言うように2次資料も全て切ってはだめだともわかります。後々になりますが、一次資料による、本当は呆気なく終わった、関ヶ原合戦についても解説宜しくお願いします。
あれだけの大掛かりな戦いが呆気なく終わるというのは少々考えにくいですね。おそらく逃散する兵たちも多かったのでしょう。旗色を見て動いていた兵たちも多かったのではないかと思います。
白峰旬氏の説は斬新でしたが色々な疑問符もつきますね。
一次資料以外は資料じゃないと言い切る白峰旬氏や渡邊大門氏をどう思っているのか聞きたいですな。
大谷吉継の鼻水が入ったお茶を石田三成が飲んだから‼️
『今更っ!(笑)』。。。思わず吹いてしまいました(笑)今回も素敵なお話をありがとうございましたm(_ _)m市橋先生が仰いますように一次二次と、ばっさり切ってしまうのは浪漫という観点からも幾分面白味に欠けるような気が致します。茶会のエピソードも、(石田三成氏、大谷吉継氏以外の人物による後世の別の話だとしても)TVドラマとしての構成には必要な美談なので、史実とは違っていても、フィクションではまたそれも良いのかなと思います。大河ドラマや新春時代劇などでこの辺りのストーリーには必ず登場する場面で(笑)知らないうちに刷り込まれておりました💦(^_^;)だからこそこの動画が十二分に愉しめまるのですが。。。✨🍀✨というわけで、次回もまた楽しみにしております。ありがとうございました🍀😊(市橋先生も浜崎さんもコロナお気をつけくださいませ🌷🌷)
本当の当時の資料って、実際少ないんだよね。殆どが現存していないか、或いは江戸時代以降に加筆された物ばかりだから、判断が難しい
大谷吉継、悲運の名将として取り上げられることが多いです。らい病を患っていたが故の話として語られることが多いのですが、そうではなということになると、違う展開になりますね。
いつも楽しく拝見させてもらっています。初歩的な質問かもしれませんが、三奉行による「内府違いの条々」の裏で三成が裏で動いてるって何回かおっしゃっていました。が、そのあたりの動き、証拠や資料ってどういうものがあったりするのでしょう?
ありがとうございます。島津義弘の書状に、突然二人の名前が出て来るところかなと思います。佐和山に蟄居しているはずの三成の名前が出てきたのですから。ただ、徳川方も三成の動向については当然把握していたと思いますよ。合戦後、「あれだけの大名を動員した大した武将」という評価がありましたから。
ご丁寧に返答いただき、ありがとうございます。また次回楽しみにしています。
知りたいことがあります。関ヶ原の後、豊臣秀頼の領国が、200万石から65万石になってしまったとのこと。そんな、大減俸がどうなされたのか、増田長盛が減俸した、と通説ではありますが、どうも理解できません。何卒ご教授ください。
豊臣家の直接的領地が65万石でのこりは太閤蔵入地で、どうも太閤蔵入地は豊臣家個人の物というよりも、豊臣公儀の物という意味合いが強いみたいですよ。なので政権筆頭の家康が秀頼に代わって関ヶ原合戦後の恩賞を豊臣家にかわって行ってるって感じじゃないですかね。
@@まかいチャンネル 早速の返信ありがとございます。しかし、そんなことすんなり出来るんでしょうか?淀殿からしたら他人に財布を握られているようですね(なんぼ淀殿が気位の高いお姫様でも、お金をあげちゃうなんて。)。このころは、前田利長も生きています。豊臣恩顧の大名もいますし、『そこまでは・・・内府殿???やりすぎちゃいますん?』、って思ってしまいます。
秀頼に罪はなかったとはいえ、西軍の実質上の大将だったわけですから。家康は東軍についた豊臣大名たちを加増します。その加増分を豊臣家の蔵入地(直轄地)から充当したと考えられます。天下の安寧のために、浪人を多く出さないことが必要な案件でしたから、加増した分で敗軍の武士たちの再雇用を促したと考えています。しかし、それでも浪人たちは多くの金銀を配ってくれる大坂城に集結していったのです。
@@まいやんまいまい いえいえ!横からすいません…元々上杉景勝に謀反の疑いありと豊臣家の許可のもとに、上杉征伐軍を結成し北上します。けど、そこで三成側の挙兵が伝わり、関ヶ原に至るのですが大事なのが家康はあくまでも豊臣家家臣の立場で動いているのです。でも大坂城は三成側にあり西軍と関わってたと言えます。そこから三成側を追い出そうともしていない。直接豊臣家が関わっていないと家康に認めさせる為にある程度は認めるか強く出られないのが淀君の立場あり、関ヶ原はあくまでも上杉に同調する敵を豊臣家家臣筆頭という立場の家康が「秀頼様、豊臣家に逆心ありき者達を討ち果たしましたぞ」という感じで幼い秀頼が恩賞采配ができるはずもなく、豊臣家家臣の家康が秀頼に変わって恩賞します。なので加増は主家の豊臣家から出すのが筋なので周りからは何も言えなかったのではないでしょうか?あとどうも最近では関ヶ原合戦後全ての蔵入地が消滅したわけではなく、加藤清正だったり西日本の大名達からは蔵入地からの収入が豊臣家に送られている形跡があるみたいですよ!
@@市橋章男 早速のご返信ありがとうございます。秀頼や淀殿から見たら、家臣の石田と徳川が戦っているだけですよね(豊家は中立)。しかも、おねがどちらの側についたとしても、秀頼がすっからかん(最近では多少の影響力はあったみたいですが)に近いほど太閤蔵入地を分与するとも、ちょっと考えられないですね。先生の御説はごもっともでも、欲深い当時の人たち(特に淀は2度も死線をくぐっていますから)そう簡単にあきらめてしまうのかな~、と不思議です。最新の研究結果も紹介して頂くとありがたいですね。
三河の人だからとは言いたくないが家康を美化し過ぎている。能力は勿論ある。それは誰もが認めるが決して良い人物ではない。それは、その後の彼の行いを観れば明らかでしょう。
まあでもあそこまで天下が手の届く所にあれば少々悪どいことをしても天下をつかみたいですよ。信長も秀吉も主家筋から天下を簒奪しているんですから。
@@pianochandaisuki まあ、早い話が奴が残ったのが気に要らん(笑)と言う事ですよ。三成が好きだから余計に。
誰の視点から描くか、というのは結構影響があると思う。さすがに大人になってから話を聞くと、興味のある推しの人物も出てくるでしょうし。ただ小学生とか初めて歴史授業に触れる時に、一般的に明智光秀=反逆者のようなイメージが植え付けられるのはどうかな~、とも思います。まぁ後にその子らも自分で学習すればよいだけではありますが。
大谷刑部が21歳で従五位の下を授かったとは知りませんでした。西軍の諸大名が、豊臣に恩義をどうしてそこまで感じてたのかが不思議です。
関ケ原自体も場所違うんでしょ?でもやぼだね、物語は様式美。
現在伝えられてる関ヶ原合戦の配置図は日本陸軍が教本とするため一から創作したとも言われてますね。あくまで将校が過去の戦から教訓を得るのが目的だから史実かどうかはどうでもいいわけですし。
歴史の大きな転換点については、通り一遍の結果論だけで語るのは、歴史嫌いを逆に増殖させているのでは無いか?という視点を持つ事が大切。勝てば官軍は、政治の世界だけにしたい。
大東亜戦争史は、マッカーサーの時代には、真実を語ることは許されませんでしたよね。70年以上も過ぎた現在になって、ようやく少しづつ語られ始めているわけで。関ヶ原の戦いについても、当事者たちが生きている間には、語ることのできなかった事実も、極めて多かったと思いますね。
秀吉は、確実に秀頼は我が子供と思っていたんですよね?
三成さんは家康に助けを求めたのに反旗を翻した理由は?
直接助けを求めたという史料は残っていません。七人に追われて伏見城に籠ったのは事実ですが、大谷吉継や高台院らの嘆願によって家康が仲裁に入ったのですね。それでも反旗を翻したのは、豊臣家の危機を強く感じていたからでしょうね。
@@市橋章男 ありがとうございます。
テレビドラマの視点、歴史小説の視点、学者の視点、そして一次資料、二次資料、三次資料(tertiary source)を各々紹介して真実はどこにあったのだろうかと歴史談義に花を咲かすのは賛成です。「それは一次資料に載ってねえだろ!」と攻撃的な姿勢でドラマから入った歴史ファンを追放したりコミュニティを小さくするのは強く反対します。
武田家の甲陽軍艦もいつの時代に書かれた物かは、実ははっきりしなかったりする武田家が繁栄していた頃の物なのか?現代人にはハッキリとは分からない
佐竹じゃなかったかな?その後宇喜多邸
うちの先祖の伝承だと。大谷吉次が、メチャメチャ煽ってきて。石田三成は、巻き込まれたというのです。真偽は解りませんが、教科書とは空気が違います。
山本勘助涙(笑)
この人と指指しより言葉で名前言ってほしい!わからない
史料とネットの記事を一緒にしないで下さい🙏
天武天皇陵涙(笑)
本当の関ヶ原の黒幕は徳川でも豊臣でもない、イギリスのエリザベス女王だな、何故イギリスがと思うかもしれないけど、イギリスは日本の銀を狙っていて、それを調べさせる為に宣教師を送り込んだのだよ。その頃大分県にイギリス船が遭難を装い日本に武器を売りつけた、それを勝ったのが徳川家康だったのだ。だからあの時代に鉄砲や大砲を豊富に持ってたのだ。かと言って豊臣側にはポルトガルが付いてた。しかしその頃のポルトガルはイギリス程の力は持ってなかった、だから代理戦争だな。
やっぱり家康は好きになれない。
結局汚い奴が勝つのよ三成は綺麗すぎた
話の内容もさることながら、
市橋先生の語り口、説明の仕方、興味の惹きつけ方……などの講釈・語り方素晴らしく、とても参考になります。
通説にこだわる事なく新しい資料を元に切り込んでお話をされる先生の考え方に共感を感じています😊常になぜそうなったのか?そうしなければいけなかったのか?
歴史そんなに詳しく知らないのですが、先生のお話しから沢山学べて本当に歴史が好きになってきました😊
今日もとっても面白いお話でした!😋
先生が沢山の資料で調べてくださったお陰で、色々な説が聞けて楽しいです
歴史の何が事実か知りたい反面、事実を知るとがっかりもしますね😊でもまたそこが面白い!
作り話だったとしても、いつの時代もロマンや美談があるのですね☺️
今日のお話を聞いて、益々歴史って面白いな🤣
って思いました
早く次が観たいです😊待ち遠しい♫
お二人共、本日もありがとうございました😊
一次、二次のお話すごく同感。
史実を追い求めるのも、理想を夢見るのも、たられば語るのもどれも歴史の面白さ。
|д・)推しを愛でる
市橋先生、友里さん、お疲れ様です。
今回も興味深いお話ありがとうございます。内府違いの条々、大谷吉継の病気、目から鱗でした。
歴史は勝者がつくったものだから史実は違うの山ほどあるはず。好きな番組。
相変わらず、先生の解説面白ろくて、わかりやすい!
友里さんもますます、キレイ😍
2次資料は書いた当時の人がそう思っていたと言う事もある。また先人に聞いたりしたのもあるのだから考察すべき。
市橋先生と浜崎さんのやりとりも面白い。家忠日記を参考にした三河の内乱の時の話など知らなかったし自分で調べてみたくなりました。
関ヶ原の戦いも諸説あるだろうけど先生の話し楽しみにしてます。
今でこそ歴史が好きですが学生の頃は全然、頭に入って来なかったけど先生が教えてくれてたなら好きになれたなって思います。
特に戦国時代の前など分からなかったのでとても有意義な番組でした。
関ヶ原の話しでは全国の北は東北から南は九州までの話しを聞きたいです。
3ヶ月と言わず1年くらいやって欲しいなー。
浜崎さんの純真無垢な性格もとてもほっくり来ます。
大谷刑部の新説は興味深いですね。
三成がお茶をぐいっと飲み干すエピソード大好きだったのに…ただ真偽がはっきりしないだけで秀吉の小姓をしていた2人の間に必ずそういう絆になる何かがあったと信じたいです。そうでなければ当初家康側についていた大谷吉継を西軍にそうやすやすと引き入れることはできないと思います。いかに秀吉に恩があったとはいえ秀吉はもういない、家康はかつて秀吉と渡りあったこともある実力者、そして戦国の世を経験している多くの武将達は勝てば良いが負ければ一族郎党滅ぶことをよく理解しているはずです。だから各武将もどちらにつくかは大いに悩んだと思うですよね。
関ヶ原の合戦までが長いけど、合戦までの経緯は必要!大変勉強になります!次回楽しみです!
この先生は凄い、、、本物だよ、、、。
資料を否定しない。あらゆる角度から総合的に解釈する。
優しくて賢い、人間性の深い方だと思いました。まずは話を聞いてくださる方なのかなと思いました
仰る通りです!
分かりやすく説明していただきありがとうございます!!!(ㅅ´³`)
戦争動機はこれこれこうだったと後世になって教科書に載りますけど、単純に一つの動機で動いていた訳じゃなく複合的要因が結びついて偶発的に起きた結果、を後世の人が理解しやすいように単純化して解釈しているだけかもしれないし、伝え手や聞き手の思想やら思惑によっても解釈が大幅に変わってしまうので歴史解釈は難しいですね。タイムマシーンで当時に行ってみたとして、戦争に参加していた末端の兵隊にインタビューすれば戦争理由すら分からず命懸けで闘っていた人は多いはず。
当時の空気感や気風が一番影響するのではと個人的には思ってる。日本の戦国時代や南北朝時代、ローマの軍人皇帝時代や中国の五胡十六国や五大十国時代など暗殺や戦争に一々動機が存在したとはどうしても思えない。現在と真逆で平和とか正義とか知らずに生まれてきて、おぎゃあと泣いて生まれた時から戦いが常態化して親子・兄弟・夫婦・主従で殺し合うのが普通な環境で育つと、それを当然だと思い込みむしろ平和な状態が不安になるのが人間というものの性だと思います。
新たな捉え方から見た史実を知ることができて面白かったです。
たとえ後世に作られた逸話だとしても、その当時の雰囲気や人々の考え方を反映したものなので、決して無駄なものではないと思います。
いつも楽しみにしてます!
今回は、特に考えさせられるお話でした。私は、大谷吉継のイメージは、長年、大河ドラマや司馬遼太郎の小説などの刷り込みがあったので今回のお話はとても以外でした。
浜崎さんの突っ込みがおもしろい。
今回も楽しませて頂きました。ありがとうございます。また、次回が楽しみです。
ところで、大谷吉継がハンセン氏病だったと言う説を唱えた人はハンセン氏病が伝染病ではないと知っていたことになりますね。「らい予防法」が廃止されたのが平成8年(1996年)ですから、どの時代の方が結論付けたのかわかりませんが、中々、考えさせられます。ひょっとしたら、その説をとなえた人か、その家族にハンセン氏病の方がいらしたのかもしれないですね。
有名な関ヶ原合戦陣地図は、明治時代に陸軍が机上演習の教材として作ったものとどこかで読んだことがあります。
実際は、「関ヶ原の西方の山間の山中村で、大谷軍が戦ったが破れ、勝負が決した」と誰かの手紙に書いてあったといいます。
市橋先生のご説が楽しみです。
自分は、一次史料を裏付けるのが、複数の二次資(史)料。
と、してます。(史学専攻)
大家の先生方でも、当時居たわけではないから、個人の推測でしかない。
としか言いようがないから。
博物館、参考になります。
三成と吉継のお茶のシーン好きだったのに(@ ̄□ ̄@;)!!
ビックリしすぎて、朝ごはんの紅茶を吹いちゃいました。
先生は戦国武将は忠義の人は少ない。とおっしゃっていましたが、その中でも最も忠義の人は伏見城のあの方なのかなと思いました。
九州の立花どうせつさんや、宗しげさんのお父さんも忠義の方かなと思いましたが。
ほかは、負け戦のときに影武者となって命を散らしていった武将たちも忠義の方なのかなと思いました。
次回も楽しみです
大谷吉継の方から石田三成を誘ったって書いてるとこもありますね。
大谷吉継のお茶会での話は、おかしいと思ってました。今回のお話でようやく納得できました。いつも新鮮で常に次回が楽しみです。
先の話になりますが、昔から何故家康は、例え裏で通じていたとはいえ、どう見ても負ける、布陣の関ヶ原に、わざわざ飛び込むかなと本当に疑問でした。
それで当時の一次資料は、本当は呆気なく終わったとか、秀秋は合戦前から鮮明にしてて、大谷吉継が当初から秀秋の陣に対して構えていたとか、本来の陣地が今発掘するとなんも跡形がなかったとか見て、疑問が晴れました。一次資料は重要かと。
先生が言うように2次資料も全て切ってはだめだともわかります。
後々になりますが、一次資料による、本当は呆気なく終わった、関ヶ原合戦についても解説宜しくお願いします。
あれだけの大掛かりな戦いが呆気なく終わるというのは少々考えにくいですね。おそらく逃散する兵たちも多かったのでしょう。旗色を見て動いていた兵たちも多かったのではないかと思います。
白峰旬氏の説は斬新でしたが色々な疑問符もつきますね。
一次資料以外は資料じゃないと言い切る白峰旬氏や渡邊大門氏をどう思っているのか聞きたいですな。
大谷吉継の鼻水が入ったお茶を石田三成が飲んだから‼️
『今更っ!(笑)』。。。思わず吹いてしまいました(笑)
今回も素敵なお話をありがとうございましたm(_ _)m
市橋先生が仰いますように一次二次と、ばっさり切ってしまうのは浪漫という観点からも幾分面白味に欠けるような気が致します。
茶会のエピソードも、(石田三成氏、大谷吉継氏以外の人物による後世の別の話だとしても)TVドラマとしての構成には必要な美談なので、史実とは違っていても、フィクションではまたそれも良いのかなと思います。大河ドラマや新春時代劇などでこの辺りのストーリーには必ず登場する場面で(笑)知らないうちに刷り込まれておりました💦(^_^;)
だからこそこの動画が十二分に愉しめまるのですが。。。✨🍀✨
というわけで、次回もまた楽しみにしております。ありがとうございました🍀😊(市橋先生も浜崎さんもコロナお気をつけくださいませ🌷🌷)
本当の当時の資料って、実際少ないんだよね。
殆どが現存していないか、或いは江戸時代以降に加筆された物ばかりだから、判断が難しい
大谷吉継、悲運の名将として取り上げられることが多いです。らい病を患っていたが故の話として語られることが多いのですが、そうではなということになると、違う展開になりますね。
いつも楽しく拝見させてもらっています。
初歩的な質問かもしれませんが、三奉行による「内府違いの条々」の裏で三成が裏で動いてるって何回かおっしゃっていました。が、そのあたりの動き、証拠や資料ってどういうものがあったりするのでしょう?
ありがとうございます。
島津義弘の書状に、突然二人の名前が出て来るところかなと思います。佐和山に蟄居しているはずの三成の名前が出てきたのですから。ただ、徳川方も三成の動向については当然把握していたと思いますよ。合戦後、「あれだけの大名を動員した大した武将」という評価がありましたから。
ご丁寧に返答いただき、ありがとうございます。また次回楽しみにしています。
知りたいことがあります。関ヶ原の後、豊臣秀頼の領国が、200万石から65万石になってしまったとのこと。そんな、大減俸がどうなされたのか、増田長盛が減俸した、と通説ではありますが、どうも理解できません。何卒ご教授ください。
豊臣家の直接的領地が65万石でのこりは太閤蔵入地で、どうも太閤蔵入地は豊臣家個人の物というよりも、豊臣公儀の物という意味合いが強いみたいですよ。
なので政権筆頭の家康が秀頼に代わって
関ヶ原合戦後の恩賞を豊臣家にかわって行ってるって感じじゃないですかね。
@@まかいチャンネル 早速の返信ありがとございます。しかし、そんなことすんなり出来るんでしょうか?淀殿からしたら他人に財布を握られているようですね(なんぼ淀殿が気位の高いお姫様でも、お金をあげちゃうなんて。)。このころは、前田利長も生きています。豊臣恩顧の大名もいますし、『そこまでは・・・内府殿???やりすぎちゃいますん?』、って思ってしまいます。
秀頼に罪はなかったとはいえ、西軍の実質上の大将だったわけですから。家康は東軍についた豊臣大名たちを加増します。その加増分を豊臣家の蔵入地(直轄地)から充当したと考えられます。天下の安寧のために、浪人を多く出さないことが必要な案件でしたから、加増した分で敗軍の武士たちの再雇用を促したと考えています。しかし、それでも浪人たちは多くの金銀を配ってくれる大坂城に集結していったのです。
@@まいやんまいまい いえいえ!横からすいません…
元々上杉景勝に謀反の疑いありと豊臣家の許可のもとに、上杉征伐軍を結成し北上します。
けど、そこで三成側の挙兵が伝わり、関ヶ原に至るのですが
大事なのが家康はあくまでも豊臣家家臣の立場で動いているのです。
でも大坂城は三成側にあり西軍と関わってたと言えます。
そこから三成側を追い出そうともしていない。直接豊臣家が関わっていないと家康に認めさせる為にある程度は認めるか強く出られないのが淀君の立場あり、
関ヶ原はあくまでも上杉に同調する敵を豊臣家家臣筆頭という立場の家康が
「秀頼様、豊臣家に逆心ありき者達を討ち果たしましたぞ」という感じで
幼い秀頼が恩賞采配ができるはずもなく、
豊臣家家臣の家康が秀頼に変わって
恩賞します。なので加増は主家の豊臣家から出すのが筋なので周りからは何も言えなかったのではないでしょうか?
あとどうも最近では関ヶ原合戦後全ての蔵入地が消滅したわけではなく、
加藤清正だったり西日本の大名達からは
蔵入地からの収入が豊臣家に送られている形跡があるみたいですよ!
@@市橋章男 早速のご返信ありがとうございます。秀頼や淀殿から見たら、家臣の石田と徳川が戦っているだけですよね(豊家は中立)。しかも、おねがどちらの側についたとしても、秀頼がすっからかん(最近では多少の影響力はあったみたいですが)に近いほど太閤蔵入地を分与するとも、ちょっと考えられないですね。先生の御説はごもっともでも、欲深い当時の人たち(特に淀は2度も死線をくぐっていますから)そう簡単にあきらめてしまうのかな~、と不思議です。最新の研究結果も紹介して頂くとありがたいですね。
三河の人だからとは言いたくないが家康を美化し過ぎている。能力は勿論ある。それは誰もが認めるが決して良い人物ではない。それは、その後の彼の行いを観れば明らかでしょう。
まあでもあそこまで天下が手の届く所にあれば少々悪どいことをしても天下をつかみたいですよ。信長も秀吉も主家筋から天下を簒奪しているんですから。
@@pianochandaisuki まあ、早い話が奴が残ったのが気に要らん(笑)と言う事ですよ。三成が好きだから余計に。
誰の視点から描くか、というのは結構影響があると思う。さすがに大人になってから話を聞くと、興味のある推しの人物も出てくるでしょうし。
ただ小学生とか初めて歴史授業に触れる時に、一般的に明智光秀=反逆者のようなイメージが植え付けられるのはどうかな~、とも思います。まぁ後にその子らも自分で学習すればよいだけではありますが。
大谷刑部が21歳で従五位の下を授かったとは知りませんでした。
西軍の諸大名が、豊臣に恩義をどうしてそこまで感じてたのかが不思議です。
関ケ原自体も場所違うんでしょ?
でもやぼだね、物語は様式美。
現在伝えられてる関ヶ原合戦の配置図は日本陸軍が教本とするため一から創作したとも言われてますね。あくまで将校が過去の戦から教訓を得るのが目的だから史実かどうかはどうでもいいわけですし。
歴史の大きな転換点については、通り一遍の結果論だけで語るのは、歴史嫌いを逆に増殖させているのでは無いか?という視点を持つ事が大切。勝てば官軍は、政治の世界だけにしたい。
大東亜戦争史は、マッカーサーの時代には、真実を語ることは許されませんでしたよね。
70年以上も過ぎた現在になって、ようやく少しづつ語られ始めているわけで。
関ヶ原の戦いについても、当事者たちが生きている間には、語ることのできなかった事実も、極めて多かったと思いますね。
秀吉は、確実に秀頼は
我が子供と思っていたんですよね?
三成さんは家康に助けを求めたのに反旗を翻した理由は?
直接助けを求めたという史料は残っていません。七人に追われて伏見城に籠ったのは事実ですが、大谷吉継や高台院らの嘆願によって家康が仲裁に入ったのですね。それでも反旗を翻したのは、豊臣家の危機を強く感じていたからでしょうね。
@@市橋章男 ありがとうございます。
テレビドラマの視点、歴史小説の視点、学者の視点、そして一次資料、二次資料、三次資料(tertiary source)を各々紹介して真実はどこにあったのだろうかと歴史談義に花を咲かすのは賛成です。「それは一次資料に載ってねえだろ!」と攻撃的な姿勢でドラマから入った歴史ファンを追放したりコミュニティを小さくするのは強く反対します。
武田家の甲陽軍艦もいつの時代に書かれた物かは、実ははっきりしなかったりする
武田家が繁栄していた頃の物なのか?現代人にはハッキリとは分からない
佐竹じゃなかったかな?その後宇喜多邸
うちの先祖の伝承だと。大谷吉次が、メチャメチャ煽ってきて。石田三成は、巻き込まれたというのです。真偽は解りませんが、教科書とは空気が違います。
山本勘助涙(笑)
この人と指指しより言葉で名前言ってほしい!わからない
史料とネットの記事を一緒にしないで下さい🙏
天武天皇陵涙(笑)
本当の関ヶ原の黒幕は徳川でも豊臣でもない、イギリスのエリザベス女王だな、何故イギリスがと思うかもしれないけど、イギリスは日本の銀を狙っていて、それを調べさせる為に宣教師を送り込んだのだよ。その頃大分県にイギリス船が遭難を装い日本に武器を売りつけた、それを勝ったのが徳川家康だったのだ。だからあの時代に鉄砲や大砲を豊富に持ってたのだ。かと言って豊臣側にはポルトガルが付いてた。しかしその頃のポルトガルはイギリス程の力は持ってなかった、だから代理戦争だな。
やっぱり家康は好きになれない。
結局汚い奴が勝つのよ
三成は綺麗すぎた