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ホワイトボードの「義明」は誤字。正しくは「義昭」
そうか、ちなみに足利義明はいますがね。古河公方の分家の小弓公方だけど。
全然良いですよ、みんな説明すると分かるので気にしないでください
@@川嶋誠-j8tつーか見出しの辺りでボード見た時「なぜ小弓公方が⁉︎」と思ったな。
メインチャンネルでは元気そうで良かったです!
武家ではないものの、近衛前久も何気に戦国時代の超重要人物ですね。謙信の関東平定を手伝ったり、一時は信長包囲網に手を貸したり、その後は一転して信長と本願寺の和睦を取り持ったり。俗説レベルですが本能寺の変に一枚噛んでいたという説もある。全国を忙しく飛び回って当時の公家としては珍しい行動派でした。信長とは鷹狩り仲間、秀吉は関白就任のため前久の猶子に、家康とはこの徳川改姓で縁ができ浜松に匿ってもらうなど、三英傑すべてと深く関わりがありました。
前久、本能寺関与説があるんですかw直虎で描かれた氏真関与とちょっと似てますねw
スッキリしました✨ありがとうございます😊
調べてこじつけてあげる、関白側の役所の人有能ですねw
今回も、大変勉強になりました。
以前調べたけど難解な言葉が並んでてしっかりと理解できていなかったので解説嬉しいです!
世良田と言えば、家康の影武者「世良田次郎三郎」がマンガやテレビドラマ化されてましたね。
野暮な突っ込みかもしれませんが、義輝の次の将軍は義栄じゃないでしょうか?
三河守になるにも、いろいろ関門があったのですね。人脈と出自、昔も今もやはり同じということですね。人を介してやっと願いを伝えても、名家でないため、文書を探し出して証明しなければならない。三河守に任官するため、姓まで変える必要があるのは、パワーもまた要求されますね。何とかこじつけめいても証明できて、良かったなあと感じます。出世は、いつの世も苦労がありますね~!
子供の頃、徳川は元々、藤性だったというのを本で読んだことがあり、その辺のモヤモヤがスッキリしました。ありがとうございます。
おそらく信長に対しての気遣いもあったんじゃないかとも思います。平清盛以降の武士政権は平氏と源氏が交互に天下を采配しました。信長はこのことを強く意識していたようで平氏ゆかりの揚羽蝶の家紋を用いていた時期もあったようです。順番から言えば平氏の順番ですからね。
徳川の由来は恐らく上野国新田郡世良田荘得川郷(因みに得川郷は書物によっては得河、徳河、徳川の表記揺れがあったみたいです)
徳川が「なんちゃって源氏」と揶揄される理由ですな、これがw
ホントによく解りました。 松平家の祖先の松平郷に、去年、行きました!
足利義明になってるから小弓公方がなぜ!?って思ったらミスだったんすね💦
家の字とか徳川とかどういう由来や経緯なんだろう?と昔から思っていました。得川?なんて名字は歴史の中央史では全く聞いたことのない名字でしたから。たった一人で徳川姓を後世史上最も有名にしてしまった家康。
この時代の室町幕府の解説をやってほしいです。
機会があれば十八松平の動画をお願いします
解説ありがとうございます。元気な姿が見れてよかったです。やあ乱世乱世、武士道さんのこのことばが大好きです。これからも応援しています。
分かりやすくてありがとうございます
近衛前久や正親町天皇は3年前の「麒麟が来る」で出てきてますし、家系図の一番上の源義家は来年の「光る君へ」に出て来る(ハズ?)
松平元康の名前の理由はみんな知っていると思うんですが、松平清康(祖父)から、名前の一文字をとったらしい。戦国banasiさんの言うとうり、将軍足利義輝が三好一族に倒されたけど、その後、弟義昭(当時は違う名前)を織田信長が京につれていったことです。徳川家康が名前や名字を変えることを知って僕はビックリしました、この動画、参考になりました、ありがとうございました。
世良田東照宮を大事にしてた所以ですね。
新田義重の息子に得川義季がいたのは確かだけど、得川義季の子孫がはっきりしない(自然消滅説)
近年の研究では、室町初期の動乱(1440~1441、結城合戦の頃か?)で上野国を追われた得川一族は、常陸佐竹氏に仕えたという。
そうですね大河ドラマで新田義貞が鎌倉攻略のため兵を集めていた時の一人に得川って人が出てきます。
本当に今回の動画はためになり面白がったですね‼公家まりのこうじ家(万里小路)で、一番先に思い浮かべるのは、数年前の美少女アニメの『ハイスクールフリート』の登場人物のお嬢キャラ『(万里小路楓)まりこうじさん』ですね‥当時、こんなん実際にはおらん創作名字だろとばかり思っていました😂
万里小路さんは先日放送されていたNHK「大奥」にも出ていましたよ
しかし、新田家の分家の人が足利家の家臣の一色氏(この氏族も三河の人)の近くに住んでたというのがなんだかおもしろい気もする。
徳川への険しい道、戦以上に大変だったんですね。
家康公は平氏だったから三河守になるために近衛前久と相談の上、苦労して家紋と苗字を源氏にでっち上げたんですね。
親氏は元は聖だったんだから地下人じゃないかな
14:30 足利義明?小弓公方のほうの?
本家の得川と同じ漢字を名乗るのはなんとなく憚れるので、漢字を換えて徳川と名乗ったのかなと思ってました
家康の子孫であるNHKアナウンサーの松平さんがテレビで「家康は将軍の位をもらうために、家格のない松平姓から源氏である徳川姓に証拠をねつ造して変えた」と話していました。子孫がすごい暴露話をするなと驚きましたが、いろいろもっと複雑そうですね。
家康の異父弟を祖とする久松松平家のひとなので、実は家康の子孫ではない これ歴史オタの豆
徳川氏に変えた時期は将軍になることは考えられない時期ですので三河守任官で合ってますね将軍になる云々は改姓の時期でしょうもともと、世良田と清康が名乗っていることから、一色、細川、吉良、今川など三河の名門対策で清康が新田氏傍流を名乗りだしたのでしょう。足利氏本拠のひとつで足利は名乗れないでしょう
家康のおじいちゃんの話を聞きたいです。かなりの天才だったらしいですが、あんまり触れられないので、解説してくれると嬉しいです。
初めてコメントさせていただきます。歴史の方は日本史で習う程度の知識しかないのです。この動画を見せていただいて思ったことは現代人にとっては源氏から藤原氏に変えることはそんな意味があるの?という感じですが、当時の方からすればきっと大変なことなのでしょう。そう考えると家臣の中にも源氏から藤原氏に変えることに反感を感じたのもいたのではないのでしょうか。それを理由に他に寝返った家臣の方とかいなかったのでしょうか?
画像の義明って義昭?小弓公方義明じゃないよね?
家康の祖父に当たる松平清康は、母親は摂津源氏の一門である大河内氏であることは確かである。
家康の母・於大の実家である水野氏は尾張源氏(満政流)の一門である。
@@Kaito5327 さん 源満政 それ私の御先祖。
@@user-ub8jh8bp3s 殿奇遇です。源満政(八島大夫、平安中期頃)は、私の先祖でもあります。
動画中説明では、足利義昭(室町幕府、十五代将軍)動画中テロップでは、足利義明(古河公方)で、どっちってなるけど時代背景で十五代将軍であることが判るので、テロップの間違いですね(すみません揚げ足取りで…)
固定で説明が入っていました😅
さすがに分かりやすいです。私の頭の中で聞いて理解して記憶する能力との波長がバッチリなのです。私にとっては巨大ユーチューバーの皆さん(仮にAさんとしても)よりわかりやすいのです。
ドラマではどうやって徳川に繋げていくのか?こんな細々した事、歴オタ以外で理解できる人ほぼいない気がしてます。
今までの大河でもサラッと徳川にしてたし歴史好き以外あまり深く考えてないw
源氏の話なら足利とか今川とか吉良とか全部源氏みたいなところが分かりやすいかも木曽義仲が天下を取ったなら鎌倉頼朝になったかも。
無所属で初当選した後に政党に入って公認して貰うことで選挙区地盤を固めれば安心ですよね。
本姓が本性に…あと足利義昭が、小弓公方の足利義明になってますぜ…の氏姓については、それこそ飛鳥時代付近から説明しないとわからなくなるから、フィーリングにならざるを得ないですよねえ
愛知県(特に三河地方)に古くから残る伝承では、家康は当初は吉良家から無理やり系図を借り受けて三河守任官を果たそうとしたそうだ。当然、松平氏は足利一族の吉良氏につながる名家ではないので、公家たちの失笑を買ったとか。そこで、近衛前久ら公家たちに袖の下を贈り、無理やり?「徳川」氏をでっちあげて三河守任官を果たしたと伝わっている。「得川」ではなく「徳川」を名乗ったのは親氏(徳阿弥)の強運にあやかったからだという。なお、近年の研究で正真正銘の「得川」氏は現存している。室町初期の動乱(1440~1441、結城合戦の頃か?)で上野国を追われた得川一族は、常陸佐竹氏に仕えたという。当然、江戸幕府もそのことは認知していたようだが、事を荒立てると神君家康公の家系捏造が露見してしまうので、見て見ぬふりをしたと思われる。
吉良氏は、松の廊下事件が起きるまで高家筆頭だったから、そう意味もあるかも
松「平」で源氏はさすがに失笑を買いますよ。
農民出に関白任官するくせに、源氏に三河守任官渋るの解さない。源範頼だって任官してるし義元も任官した説あるし恐らく出自に疑問持ってたか寄付の額が少なかったんかな。
1580年代の秀吉と1560年代の家康では実力がまったく違います。
@@靖昭田原 結局そう言う事なんですね。血筋なんて言い訳、力か金次第。
源氏に三河守任官を渋ったのではなく、わけのわからない「松平氏」への任官を渋っただけ秀吉は近衛家に養子に入り関白任官した。それまでは平氏を名乗っていて信長の推挙で任官し始めた。関白任官後に豊臣を賜姓された。
石川数正は正真正銘の源氏だから形だけでも数正の養子になるというやり方でも三河守になれたのではないか
家臣の養子にはなれませんよ☺️
いま説明するなら松平より前、北関東の得川時代でしょう。
私は、当時の家康が考えていた対足利認識(室町幕府認識)が気になります。まず三河は元々、鎌倉時代から足利一門の所領が多い足利の金城湯池ともいうべき強力な地盤でした。足利一門の吉良も今川も細川も一色も、三河由来です。そんな土地柄の三河を、足利と縁もゆかりもない家康が、足利一門の吉良と今川を破って制圧した。家康は三河統治の大義名分のお墨付きが欲しいでしょうが、足利将軍家の室町幕府が家康にお墨付きを与えるとは思えません。家康も、朝廷ではなく室町幕府が任命する三河「守護」に就任できるよう運動した形跡もありません。なので足利義輝が三好に討たれて、室町幕府の機能が停滞したのは家康にとってラッキーで、幕府を経由せずに朝廷からお墨付きをもらえる絶妙の好機だったのでしょう。そして足利の宿敵であった新田を自分の祖先にあえて位置付けたことにも、足利一門の三河像から脱却したい家康の意志が見えます。もし足利義輝が存命なら、新田を自分の祖先にして、幕府を経由せずに三河守に任官ということは到底できなかったと思います。
詳しい解説をされる武士道さんの祖先は菅原道真?それとも現代に蘇った菅原道真なのか?
もし三河守の任官がすんなり認められていれば、「松平幕府」が出来ていたかも?
いつも楽しく拝見しております(ᵔᴥᵔ)源氏→藤原氏→源氏 だったんですね。藤原氏で三河守、勉強になりました。
源氏→藤原氏→源氏と記載されていますが実は、源氏→藤原氏→豊臣氏→源氏です。関白豊臣秀吉の時代、家康は豊臣家康の名義で官位の叙任を受けている可能性が大といわれています。少なくとも家康の息子秀忠は豊臣秀忠の名義で官位の叙任を受けている古文書が現存しています。なお、家康の官位の辞令は三代将軍徳川家光の時代、散逸していることがわかり朝廷に再発行を求めた段階で、全て官位の辞令は源氏となり、日光東照宮にその古文書が現存しています。
@@dreamyumika 秀吉は豊臣の性を下賜された‥その後少数の大名と一人の家臣に豊臣姓を与えました。その中にもちろん秀吉に臣下の礼をとった家康もいました。関白太政大臣として当時の武家の官位を決めていたのは秀吉でした。家康の内大臣の任官も豊臣姓で行われるのは可能性ではなく当然といえるでしょう。それにより家康は秀吉の家来になったことが周知されるのですからね。
徳川は源氏だとおもってました。
このあたりは、八切止夫が果敢に攻めてましたね。そもそも徳阿弥なんて人物が存在していたのかどうかも怪しい。おそらく家康が晩年になって幕府を作るため征夷大将軍がほしいがための「源家」の仮冒なんですが、八切によれば源氏の子孫は当時「被差別部落」に陥れられていた。得川氏や世良田氏は利用されたというのが真実のような気がしますね。となると、「SH0GUN」の設定は根本的に崩壊するわけです。
会津の松平との関係も解説して頂きたいです😊
会津松平家は秀忠の3男である保科正之を祖とする家です。正之は保科家の養子でしたが彼の死後松平に改姓しました。ちなみに徳川と松平の違いですが、将軍継承権のある尾張や紀州は徳川を名乗り継承権のない会津や越前は松平を名乗りました。
@@靖昭田原 なるほど🤔ありがとうございます!
ちなみに徳川宗家18代目は、保科松平家からの養子縁組です。
@@黒川千鶴-u1v コメントありがとうございます🌹徳川幕府滅亡後も宗家と会津松平家の関係は続いていたのですね。資料にはあまりなさそうな貴重な情報ありがとうございます😊
本多(本田)と松平は元々は同族。家康は本多にも源氏になれって言ってきたけど本多は断った。
まあ後北条氏も関東支配の正統性のために、伊勢平氏伊勢家から伊勢平氏諸流の北条(鎌倉幕府執権)家に養子入りしてるからね。氏族のつながりは重要。
秀吉が幕府を開かなかった理由も気になります
開けなかったんですよ!源氏じゃないと征夷大将軍になれなかったんので、足利義昭に養子にしてくれと頼んだのにだめだったから、今度は関白家の近衛家に養子にしてもらったんだすよ!
義栄かわいそう。
名字と姓が違うって話ね。NHKの「日本人のおなまえっ!」でやってたな。「鎌倉殿の13人」の番宣ネタで。姓は、天皇が臣下に下賜する名前。名字は通り名。例えば、北条は名字で、姓は平。正式な文書や上奏文などは、平某(たいらのなにがし)と書いてる。秀吉も関白になるために、藤原の養子になったし。豊臣も下賜するされたので姓。武家が養子に跡を継がせるのに寛容だのも、ある意味理解できる。
武士道さん…まさか赤面疱瘡では?
どうする、の中では誰か(正信?)の知恵で徳川にした方がいい、とか描かれるのでしょうかね?
公認は大切です。古い話しですけど、織田裕二のモノマネは出来ません💦
藤原氏からまた源氏に変えるんだよね、家康は。だから征夷大将軍になれたんかな。その説明も後ほどよろしくお願いします。
一度藤原に乗り換えておきながら良く源氏を名乗れたな…
復姓というのはそう珍しいことでないですから松平氏から徳川氏に変えるより簡単だったでしょう織田信長も藤原氏から平氏に変えている
時代劇では「ま」つだいらと呼び、現代では、まつ「だ」いらと呼ぶのはなぜか?気になります。「ま」つだいらけん(松平健)とは呼びませんよね?
括弧(「 」)で囲んでいる意味が良く理解できませんでした。抑揚なのか、アクセントなのか??少なくとも、松平健は、「ま」を強くアクセントして「強」→「弱」になるのが普通です。貴方の仰るのは、抑揚のことでしょうか?
@@akikawa2540 さん言葉足らずですみませんアクセント(イントネーション?)の事を言いたかったのですが、ちょっと違いましたかね💦言いたかったのは松平健の「まつだいら」と松平家康の「まつだいら」では違和感ありますよね?って事です。現代的なイントネーション(平板化って言うのかな…)になったのか方言的なものなのか気になってたのでコメントしました。でも、大草松平って呼ぶ時は現代と一緒なんですよね🤔
足利義昭では?
徳川家よりは、酒井家が、源氏の流れを汲むでいて地位的には上で、その後四代将軍家綱死去後に起きた宮将軍擁立事件にいた大老酒井忠清、通称下馬将軍と言わしめたほどの権利を誇ったほど、
松平氏→在原氏→阿保親王松平家より松平家は、平家
間違いなく源氏ではない。
世良田次郎三郎は?
残念ながら、家康の影武者と言われる世良田次郎三郎は架空の人物です。
@@sengokubanashi さん世良田の東照宮はいらしたことがありますか?渋沢栄一ゆかりの血洗島から利根川渡ってすぐです。実家の近くなので子供の頃は良く遊びに行きました^^;
中国の三国時代も似たようなことがあったみたいですよね。お墨付きは欠かせない。
「徳川さんが松平なのですか?」これもしかしたら。沼津城が明治時代に廃藩置県で徳川兵学校から沼津兵学校に変わったのですが。沼津城と三枚橋城があるのです。三枚橋城の城主が大久保さんなのです。これ北条氏かも知れないです。沼津城は水野さん(徳川)の城です。だからもしかしたら「松平」だと言うのならこれ「北条氏」かも知れないです。一回。沼津城と三枚橋城に来てみて下さい。「徳川家」はもしかしたら「北条氏」から「松平」に成ったかも知れないです。
北条氏はどこから出てきたのですか?そして北条氏というのは鎌倉幕府執権北条氏?後北条氏?三枚橋城を作ったのは武田勝頼でその後に徳川方の城になったので北条氏は関係ないと思いますが。
@@ジェ吉 近くに妙傳寺と言うお寺が在るのですが。そこは三枚橋城の大久保さんのお墓が在ります。そこは三枚橋城の城主が市川さんに与えたお寺なのです。未だにそこのお寺が「城」との登記に成っているのです。令和の時代ですが「城」の登記が残って居ます。ここ「天竺摩伽陀国」なのです。千本松原の中に昭憲皇太后の石碑が在ります。これ噂で摩伽陀国から千葉県の袖ケ浦に逃れた皇后様と関連が在るかも知れません。昭憲皇太后様は沼津御用邸で死んだ事に成って居ます。明治のお嫁さんです。それで大正天皇の御用邸なのですが今は使って居ません。公園に成って居ます。近くに西郷隆盛に弟の西郷従道さんの瓜島(西郷島)が在ります。大分県の別府湾の瓜生島伝説が在ります。日本のアトランティス伝説とされて居て(恵比寿さん)です。北条氏の事にも関連します。島津家とか薩摩にも関連します。大分県は鎌倉幕府の落胤の大友一族です。第二の鎌倉です。三嶋大社で源頼朝が鎌倉幕府を作りる為に出陣式をした処です。それで黄瀬川の橋が源頼朝と義経が出会った対面石八幡神社が在ります。そこから広小路方面に行くと三嶋大社(恵比寿さん)です。三枚橋城から見張って居たとの事も言われて居ます。私に取って見ると歴史が改ざんされている様に思えるのです。これたた、そう思っただけだと思って下さい。詳しくは調べて居ないので、これ以上は書けないです。
@@kenichitatewaki2485 豊富な知識ですね。言われている事を一つ一つ調べてみようと思います。
@@ジェ吉 鎌倉殿の13人を調べると面白いかも知れません。歴史的に言うと北条氏と武田氏が戦った事に成っているのです。でも私はそうは思えないのです。沼津宿の「武田姓」の町医者が「杉田姓」に改名をして杉田玄白の子孫なのです。徳川兵学校の西周(にしあまね)江原素六(クリスチャン)杉田玄白の子孫の2人が徳川慶喜の側近でした。久能山東照宮も在ります。日本平の東西南北に在る物が面白いです。畠山重忠など島津家との関連も在ります。関ヶ原の合戦は「西」に大友も居ます。岐阜県など。あと。那須塩原なども。日光東照宮など。西郷隆盛が何故に上野公園に犬を連れた銅像が在るのか?まだ。有るかも知れません。
義昭?
簡単に言えば、足りない家格をこじつけで補ったって話だな。当時は源平、藤原かどうかはかなり大事なことだった。例えば、関白になれる家格が決まっていたし、将軍も源氏出ないとだめなど本当に重要な話だった。明智光秀の謀反も自分か源氏なのに平氏の織田信長ね下にいるのが耐えられなかったから起こったなんて説もあるくらいに重要だった。
良いんじゃない?テレビ見ました。
北朝鮮、あの時代の高麗に徳川道というところがあります。関係あるのかな?
ご両親が離婚。大変でしたね。
徳川家康はえたひにん
どうでもよい説明ながくないですか?
松平の発音がマツダイラみたいに聞こえる気がするのは私だけかな😅
いや、時宗(浄土宗)の一派の流浪の乞食坊主。当時夜道怪と嫌われたが、三河の山奥の木こりの親方が地方の話しを面白可笑しく(今で言うドサ回り宗教芸人)語る徳阿弥を長逗留させて語らせて居たが木こり親方の娘を孕ませ無理やり婿養子に入った。家康の8代前。
カムイ伝
ホワイトボードの「義明」は誤字。正しくは「義昭」
そうか、ちなみに足利義明はいますがね。古河公方の分家の小弓公方だけど。
全然良いですよ、みんな説明すると分かるので気にしないでください
@@川嶋誠-j8t
つーか見出しの辺りでボード見た時「なぜ小弓公方が⁉︎」と思ったな。
メインチャンネルでは元気そうで良かったです!
武家ではないものの、近衛前久も何気に戦国時代の超重要人物ですね。謙信の関東平定を手伝ったり、一時は信長包囲網に手を貸したり、その後は一転して信長と本願寺の和睦を取り持ったり。俗説レベルですが本能寺の変に一枚噛んでいたという説もある。全国を忙しく飛び回って当時の公家としては珍しい行動派でした。信長とは鷹狩り仲間、秀吉は関白就任のため前久の猶子に、家康とはこの徳川改姓で縁ができ浜松に匿ってもらうなど、三英傑すべてと深く関わりがありました。
前久、本能寺関与説があるんですかw
直虎で描かれた氏真関与とちょっと似てますねw
スッキリしました✨
ありがとうございます😊
調べてこじつけてあげる、関白側の役所の人有能ですねw
今回も、大変勉強になりました。
以前調べたけど難解な言葉が並んでてしっかりと理解できていなかったので解説嬉しいです!
世良田と言えば、家康の影武者「世良田次郎三郎」がマンガやテレビドラマ化されてましたね。
野暮な突っ込みかもしれませんが、義輝の次の将軍は義栄じゃないでしょうか?
三河守になるにも、いろいろ関門があったのですね。人脈と出自、昔も今もやはり同じということですね。人を介してやっと願いを伝えても、名家でないため、文書を探し出して証明しなければならない。三河守に任官するため、姓まで変える必要があるのは、パワーもまた要求されますね。何とかこじつけめいても証明できて、良かったなあと感じます。出世は、いつの世も苦労がありますね~!
子供の頃、徳川は元々、藤性だったというのを本で読んだことがあり、その辺のモヤモヤがスッキリしました。ありがとうございます。
おそらく信長に対しての気遣いもあったんじゃないかとも思います。
平清盛以降の武士政権は平氏と源氏が交互に天下を采配しました。
信長はこのことを強く意識していたようで平氏ゆかりの揚羽蝶の家紋を用いていた時期もあったようです。
順番から言えば平氏の順番ですからね。
徳川の由来は恐らく上野国新田郡世良田荘得川郷(因みに得川郷は書物によっては得河、徳河、徳川の表記揺れがあったみたいです)
徳川が「なんちゃって源氏」と揶揄される理由ですな、これがw
ホントによく解りました。 松平家の祖先の松平郷に、去年、行きました!
足利義明になってるから小弓公方がなぜ!?って思ったらミスだったんすね💦
家の字とか徳川とか
どういう由来や経緯なんだろう?
と昔から思っていました。
得川?なんて名字は
歴史の中央史では全く聞いたことのない名字でしたから。
たった一人で徳川姓を後世史上最も有名にしてしまった家康。
この時代の室町幕府の解説をやってほしいです。
機会があれば十八松平の動画をお願いします
解説ありがとうございます。元気な姿が見れてよかったです。やあ乱世乱世、武士道さんのこのことばが大好きです。これからも応援しています。
分かりやすくてありがとうございます
近衛前久や正親町天皇は3年前の「麒麟が来る」で出てきてますし、家系図の一番上の源義家は来年の「光る君へ」に出て来る(ハズ?)
松平元康の名前の理由はみんな知っていると思うんですが、
松平清康(祖父)から、名前の一文字をとったらしい。
戦国banasiさんの言うとうり、将軍足利義輝が三好一族に倒されたけど、
その後、弟義昭(当時は違う名前)を織田信長が京につれていったことです。
徳川家康が名前や名字を変えることを知って僕はビックリしました、
この動画、参考になりました、ありがとうございました。
世良田東照宮を大事にしてた所以ですね。
新田義重の息子に得川義季がいたのは確かだけど、得川義季の子孫がはっきりしない(自然消滅説)
近年の研究では、室町初期の動乱(1440~1441、結城合戦の頃か?)で上野国を追われた得川一族は、常陸佐竹氏に仕えたという。
そうですね大河ドラマで新田義貞が鎌倉攻略のため兵を集めていた時の一人に得川って人が出てきます。
本当に今回の動画はためになり面白がったですね‼
公家まりのこうじ家(万里小路)で、一番先に思い浮かべるのは、数年前の美少女アニメの『ハイスクールフリート』の登場人物のお嬢キャラ
『(万里小路楓)まりこうじさん』ですね‥当時、こんなん実際にはおらん創作名字だろとばかり思っていました😂
万里小路さんは先日放送されていたNHK「大奥」にも出ていましたよ
しかし、新田家の分家の人が足利家の家臣の一色氏(この氏族も三河の人)の近くに住んでたというのがなんだかおもしろい気もする。
徳川への険しい道、戦以上に大変だったんですね。
家康公は平氏だったから三河守になるために近衛前久と相談の上、苦労して家紋と苗字を源氏にでっち上げたんですね。
親氏は元は聖だったんだから地下人じゃないかな
14:30 足利義明?小弓公方のほうの?
本家の得川と同じ漢字を名乗るのはなんとなく憚れるので、漢字を換えて徳川と名乗ったのかなと思ってました
家康の子孫であるNHKアナウンサーの松平さんがテレビで
「家康は将軍の位をもらうために、家格のない松平姓から源氏である徳川姓に証拠をねつ造して変えた」と話していました。
子孫がすごい暴露話をするなと驚きましたが、いろいろもっと複雑そうですね。
家康の異父弟を祖とする久松松平家のひとなので、実は家康の子孫ではない これ歴史オタの豆
徳川氏に変えた時期は将軍になることは考えられない時期ですので三河守任官で合ってますね
将軍になる云々は改姓の時期でしょう
もともと、世良田と清康が名乗っていることから、一色、細川、吉良、今川など三河の名門対策で清康が新田氏傍流を名乗りだしたのでしょう。足利氏本拠のひとつで足利は名乗れないでしょう
家康のおじいちゃんの話を聞きたいです。
かなりの天才だったらしいですが、あんまり触れられないので、解説してくれると嬉しいです。
初めてコメントさせていただきます。
歴史の方は日本史で習う程度の知識しかないのです。
この動画を見せていただいて思ったことは現代人にとっては源氏から藤原氏に変えることはそんな意味があるの?という感じですが、当時の方からすればきっと大変なことなのでしょう。
そう考えると家臣の中にも源氏から藤原氏に変えることに反感を感じたのもいたのではないのでしょうか。それを理由に他に寝返った家臣の方とかいなかったのでしょうか?
画像の義明って義昭?
小弓公方義明じゃないよね?
家康の祖父に当たる松平清康は、母親は摂津源氏の一門である大河内氏であることは確かである。
家康の母・於大の実家である水野氏は尾張源氏(満政流)の一門である。
@@Kaito5327 さん 源満政 それ私の御先祖。
@@user-ub8jh8bp3s 殿
奇遇です。
源満政(八島大夫、平安中期頃)は、私の先祖でもあります。
動画中説明では、
足利義昭(室町幕府、十五代将軍)
動画中テロップでは、
足利義明(古河公方)
で、どっち
ってなるけど
時代背景で
十五代将軍であることが判るので、テロップの間違いですね
(すみません揚げ足取りで…)
固定で説明が入っていました😅
さすがに分かりやすいです。私の頭の中で聞いて理解して記憶する能力との波長がバッチリなのです。
私にとっては巨大ユーチューバーの皆さん(仮にAさんとしても)よりわかりやすいのです。
ドラマではどうやって徳川に繋げていくのか?
こんな細々した事、歴オタ以外で理解できる人ほぼいない気がしてます。
今までの大河でもサラッと徳川にしてたし歴史好き以外あまり深く考えてないw
源氏の話なら足利とか今川とか吉良とか全部源氏みたいなところが分かりやすいかも
木曽義仲が天下を取ったなら鎌倉頼朝になったかも。
無所属で初当選した後に政党に入って公認して貰うことで選挙区地盤を固めれば安心ですよね。
本姓が本性に…あと足利義昭が、小弓公方の足利義明になってますぜ…の氏姓については、それこそ飛鳥時代付近から説明しないとわからなくなるから、フィーリングにならざるを得ないですよねえ
愛知県(特に三河地方)に古くから残る伝承では、家康は当初は吉良家から無理やり系図を借り受けて三河守任官を果たそうとしたそうだ。
当然、松平氏は足利一族の吉良氏につながる名家ではないので、公家たちの失笑を買ったとか。
そこで、近衛前久ら公家たちに袖の下を贈り、無理やり?「徳川」氏をでっちあげて三河守任官を果たしたと伝わっている。
「得川」ではなく「徳川」を名乗ったのは親氏(徳阿弥)の強運にあやかったからだという。
なお、近年の研究で正真正銘の「得川」氏は現存している。
室町初期の動乱(1440~1441、結城合戦の頃か?)で上野国を追われた得川一族は、常陸佐竹氏に仕えたという。
当然、江戸幕府もそのことは認知していたようだが、事を荒立てると神君家康公の家系捏造が露見してしまうので、見て見ぬふりをしたと思われる。
吉良氏は、松の廊下事件が起きるまで高家筆頭だったから、そう意味もあるかも
松「平」で源氏はさすがに失笑を買いますよ。
農民出に関白任官するくせに、源氏に三河守任官渋るの解さない。
源範頼だって任官してるし義元も任官した説あるし
恐らく出自に疑問持ってたか寄付の額が少なかったんかな。
1580年代の秀吉と1560年代の家康では実力がまったく違います。
@@靖昭田原 結局そう言う事なんですね。血筋なんて言い訳、力か金次第。
源氏に三河守任官を渋ったのではなく、わけのわからない「松平氏」への任官を渋っただけ
秀吉は近衛家に養子に入り関白任官した。それまでは平氏を名乗っていて信長の推挙で任官し始めた。関白任官後に豊臣を賜姓された。
石川数正は正真正銘の源氏だから形だけでも数正の養子になるというやり方でも三河守になれたのではないか
家臣の養子にはなれませんよ☺️
いま説明するなら
松平より前、北関東の得川時代でしょう。
私は、当時の家康が考えていた対足利認識(室町幕府認識)が気になります。まず三河は元々、鎌倉時代から足利一門の所領が多い足利の金城湯池ともいうべき強力な地盤でした。足利一門の吉良も今川も細川も一色も、三河由来です。
そんな土地柄の三河を、足利と縁もゆかりもない家康が、足利一門の吉良と今川を破って制圧した。家康は三河統治の大義名分のお墨付きが欲しいでしょうが、足利将軍家の室町幕府が家康にお墨付きを与えるとは思えません。家康も、朝廷ではなく室町幕府が任命する三河「守護」に就任できるよう運動した形跡もありません。
なので足利義輝が三好に討たれて、室町幕府の機能が停滞したのは家康にとってラッキーで、幕府を経由せずに朝廷からお墨付きをもらえる絶妙の好機だったのでしょう。そして足利の宿敵であった新田を自分の祖先にあえて位置付けたことにも、足利一門の三河像から脱却したい家康の意志が見えます。もし足利義輝が存命なら、新田を自分の祖先にして、幕府を経由せずに三河守に任官ということは到底できなかったと思います。
詳しい解説をされる武士道さんの祖先は菅原道真?それとも現代に蘇った菅原道真なのか?
もし三河守の任官がすんなり認められていれば、「松平幕府」が出来ていたかも?
いつも楽しく拝見しております(ᵔᴥᵔ)
源氏→藤原氏→源氏 だったんですね。
藤原氏で三河守、勉強になりました。
源氏→藤原氏→源氏と記載されていますが
実は、源氏→藤原氏→豊臣氏→源氏です。
関白豊臣秀吉の時代、家康は豊臣家康の名義で
官位の叙任を受けている可能性が大といわれています。
少なくとも家康の息子秀忠は豊臣秀忠の名義で官位の叙任を受けている古文書が現存しています。
なお、家康の官位の辞令は三代将軍徳川家光の時代、散逸していることがわかり
朝廷に再発行を求めた段階で、全て官位の辞令は源氏となり、日光東照宮にその古文書が現存しています。
@@dreamyumika 秀吉は豊臣の性を下賜された‥
その後少数の大名と一人の家臣に豊臣姓を与えました。
その中にもちろん秀吉に臣下の礼をとった家康もいました。
関白太政大臣として当時の武家の官位を決めていたのは秀吉でした。
家康の内大臣の任官も豊臣姓で行われるのは可能性ではなく当然といえるでしょう。
それにより家康は秀吉の家来になったことが周知されるのですからね。
徳川は源氏だとおもってました。
このあたりは、八切止夫が果敢に攻めてましたね。そもそも徳阿弥なんて人物が存在していたのかどうかも怪しい。
おそらく家康が晩年になって幕府を作るため征夷大将軍がほしいがための「源家」の仮冒なんですが、八切によれば源氏の子孫は当時「被差別部落」に陥れられていた。
得川氏や世良田氏は利用されたというのが真実のような気がしますね。となると、「SH0GUN」の設定は根本的に崩壊するわけです。
会津の松平との関係も解説して頂きたいです😊
会津松平家は秀忠の3男である保科正之を祖とする家です。正之は保科家の養子でしたが彼の死後松平に改姓しました。ちなみに徳川と松平の違いですが、将軍継承権のある尾張や紀州は徳川を名乗り継承権のない会津や越前は松平を名乗りました。
@@靖昭田原
なるほど🤔ありがとうございます!
ちなみに徳川宗家18代目は、保科松平家からの養子縁組です。
@@黒川千鶴-u1v
コメントありがとうございます🌹
徳川幕府滅亡後も宗家と会津松平家の関係は続いていたのですね。資料にはあまりなさそうな貴重な情報ありがとうございます😊
本多(本田)と松平は元々は同族。
家康は本多にも源氏になれって言ってきたけど本多は断った。
まあ後北条氏も関東支配の正統性のために、伊勢平氏伊勢家から伊勢平氏諸流の北条(鎌倉幕府執権)家に養子入りしてるからね。氏族のつながりは重要。
秀吉が幕府を開かなかった理由も気になります
開けなかったんですよ!源氏じゃないと征夷大将軍になれなかったんので、足利義昭に養子にしてくれと頼んだのにだめだったから、今度は関白家の近衛家に養子にしてもらったんだすよ!
義栄かわいそう。
名字と姓が違うって話ね。
NHKの「日本人のおなまえっ!」でやってたな。「鎌倉殿の13人」の番宣ネタで。
姓は、天皇が臣下に下賜する名前。名字は通り名。
例えば、北条は名字で、姓は平。
正式な文書や上奏文などは、平某(たいらのなにがし)と書いてる。
秀吉も関白になるために、藤原の養子になったし。豊臣も下賜するされたので姓。
武家が養子に跡を継がせるのに寛容だのも、ある意味理解できる。
武士道さん…まさか赤面疱瘡では?
どうする、の中では誰か(正信?)の知恵で
徳川にした方がいい、とか描かれるのでしょうかね?
公認は大切です。
古い話しですけど、
織田裕二のモノマネは出来ません💦
藤原氏からまた源氏に変えるんだよね、家康は。だから征夷大将軍になれたんかな。その説明も後ほどよろしくお願いします。
一度藤原に乗り換えておきながら良く源氏を名乗れたな…
復姓というのはそう珍しいことでないですから
松平氏から徳川氏に変えるより簡単だったでしょう
織田信長も藤原氏から平氏に変えている
時代劇では「ま」つだいらと呼び、現代では、まつ「だ」いらと呼ぶのはなぜか?気になります。
「ま」つだいらけん(松平健)とは呼びませんよね?
括弧(「 」)で囲んでいる意味が良く理解できませんでした。抑揚なのか、アクセントなのか??
少なくとも、松平健は、「ま」を強くアクセントして「強」→「弱」になるのが普通です。
貴方の仰るのは、抑揚のことでしょうか?
@@akikawa2540 さん
言葉足らずですみません
アクセント(イントネーション?)の事を言いたかったのですが、ちょっと違いましたかね💦
言いたかったのは松平健の「まつだいら」と松平家康の「まつだいら」では違和感ありますよね?って事です。現代的なイントネーション(平板化って言うのかな…)になったのか方言的なものなのか気になってたのでコメントしました。でも、大草松平って呼ぶ時は現代と一緒なんですよね🤔
足利義昭では?
徳川家よりは、酒井家が、源氏の流れを汲むでいて地位的には上で、その後四代将軍家綱死去後に起きた宮将軍擁立事件にいた大老酒井忠清、通称下馬将軍と言わしめたほどの権利を誇ったほど、
松平氏→在原氏→阿保親王
松平家より
松平家は、平家
間違いなく源氏ではない。
世良田次郎三郎は?
残念ながら、家康の影武者と言われる世良田次郎三郎は架空の人物です。
@@sengokubanashi さん
世良田の東照宮はいらしたことがありますか?渋沢栄一ゆかりの血洗島から利根川渡ってすぐです。実家の近くなので子供の頃は良く遊びに行きました^^;
中国の三国時代も似たようなことがあったみたいですよね。お墨付きは欠かせない。
「徳川さんが松平なのですか?」
これもしかしたら。沼津城が明治時代に廃藩置県で徳川兵学校から沼津兵学校に変わったのですが。沼津城と三枚橋城があるのです。三枚橋城の城主が大久保さんなのです。これ北条氏かも知れないです。沼津城は水野さん(徳川)の城です。だからもしかしたら「松平」だと言うのならこれ「北条氏」かも知れないです。一回。沼津城と三枚橋城に来てみて下さい。「徳川家」はもしかしたら「北条氏」から「松平」に成ったかも知れないです。
北条氏はどこから出てきたのですか?
そして北条氏というのは鎌倉幕府執権北条氏?後北条氏?
三枚橋城を作ったのは武田勝頼でその後に徳川方の城になったので北条氏は関係ないと思いますが。
@@ジェ吉
近くに妙傳寺と言うお寺が在るのですが。そこは三枚橋城の大久保さんのお墓が在ります。そこは三枚橋城の城主が市川さんに与えたお寺なのです。未だにそこのお寺が「城」との登記に成っているのです。令和の時代ですが「城」の登記が残って居ます。ここ「天竺摩伽陀国」なのです。千本松原の中に昭憲皇太后の石碑が在ります。これ噂で摩伽陀国から千葉県の袖ケ浦に逃れた皇后様と関連が在るかも知れません。昭憲皇太后様は沼津御用邸で死んだ事に成って居ます。明治のお嫁さんです。それで大正天皇の御用邸なのですが今は使って居ません。公園に成って居ます。近くに西郷隆盛に弟の西郷従道さんの瓜島(西郷島)が在ります。大分県の別府湾の瓜生島伝説が在ります。日本のアトランティス伝説とされて居て(恵比寿さん)です。北条氏の事にも関連します。島津家とか薩摩にも関連します。大分県は鎌倉幕府の落胤の大友一族です。第二の鎌倉です。三嶋大社で源頼朝が鎌倉幕府を作りる為に出陣式をした処です。それで黄瀬川の橋が源頼朝と義経が出会った対面石八幡神社が在ります。そこから広小路方面に行くと三嶋大社(恵比寿さん)です。三枚橋城から見張って居たとの事も言われて居ます。私に取って見ると歴史が改ざんされている様に思えるのです。これたた、そう思っただけだと思って下さい。詳しくは調べて居ないので、これ以上は書けないです。
@@kenichitatewaki2485 豊富な知識ですね。
言われている事を一つ一つ調べてみようと思います。
@@ジェ吉
鎌倉殿の13人を調べると面白いかも知れません。歴史的に言うと北条氏と武田氏が戦った事に成っているのです。でも私はそうは思えないのです。沼津宿の「武田姓」の町医者が「杉田姓」に改名をして杉田玄白の子孫なのです。徳川兵学校の西周(にしあまね)江原素六(クリスチャン)杉田玄白の子孫の2人が徳川慶喜の側近でした。久能山東照宮も在ります。日本平の東西南北に在る物が面白いです。畠山重忠など島津家との関連も在ります。関ヶ原の合戦は「西」に大友も居ます。岐阜県など。あと。那須塩原なども。日光東照宮など。西郷隆盛が何故に上野公園に犬を連れた銅像が在るのか?まだ。有るかも知れません。
義昭?
簡単に言えば、足りない家格をこじつけで補ったって話だな。当時は源平、藤原かどうかはかなり大事なことだった。例えば、関白になれる家格が決まっていたし、将軍も源氏出ないとだめなど本当に重要な話だった。明智光秀の謀反も自分か源氏なのに平氏の織田信長ね下にいるのが耐えられなかったから起こったなんて説もあるくらいに重要だった。
良いんじゃない?テレビ見ました。
北朝鮮、あの時代の高麗に徳川道というところがあります。関係あるのかな?
ご両親が離婚。大変でしたね。
徳川家康はえたひにん
どうでもよい説明ながくないですか?
松平の発音がマツダイラみたいに聞こえる気がするのは私だけかな😅
徳川家康はえたひにん
いや、時宗(浄土宗)の一派の流浪の乞食坊主。当時夜道怪と嫌われたが、三河の山奥の木こりの親方が地方の話しを面白可笑しく(今で言うドサ回り宗教芸人)語る徳阿弥を長逗留させて語らせて居たが木こり親方の娘を孕ませ無理やり婿養子に入った。家康の8代前。
カムイ伝