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なぜ農民だと悲観しなくてはならないのだ?
ほんとだね
身分差別か?
当時の身分とかどうでもいいやろw今の身分の方が100倍大事だ。
@@純ちゃん-w9y どうでも良いが本当にどうでも良けりゃこのコンテンツ見ないと思うんだわ多少興味はあるから見たんじゃね?
@@和奏正昭 さんごめんよ、サムネでなんとなく開いたけど20分も見る時間がもったいないので自分は本編見てないどす!
明治になって、全ての人が苗字を名乗れるようになったから、○藤に代表される佐藤、伊藤、加藤は藤原氏とは縁もゆかりもないのが殆どで、藤原ですら藤原氏とは関係無いものが大半。
自分のレアよりな苗字から、なんとなく農民だろうと思っていたが。この動画にある農民の良くある条件をガッチリ満たしていたので確信できた。家紋無くとも、そんなところから祖先を知れるものなんだね。
「源平藤橘」内に全ての日本人が当てはまる、ということは本当にあるのではないか、と思います。昔は戦国時代だったので、負けた方は恨みや怨恨を少なくするために、苗字を一時期剥奪していた可能性はありますね。でもその家の代々の人たちが自分の祖先は例えば平家の一門であったりすることを言い伝えとして聞かされていたので、明治期の苗字必須令でその言い伝え通りの苗字を選んだ可能性はありますね。苗字は私自身もいろいろと調査や研究をしている者です。今の残る日本人の苗字は日本の歴史のマイルストーンのような物であり、歴史調査には非常に参考になるものなので、苗字は無くなって欲しくないですね。
確かに先祖が何してたのかは多少知れたらいいかなくらいに思ってたけど。今の社会、どんな苗字だろうが関係ないし、どんな凄い人の子孫だろうとその人が努力しない限りその人は別に凄いとかではないし笑どんな苗字だろうと頑張って実力で這い上がった人が1番かっこいいわ
😢
お前、自分が農民だからって傷なめはじめてて草
私の父親の出身は山梨で苗字が小池と言います。家紋は武田菱です。山梨と言えば武田信玄公ですが、土地柄からも小池家は縁が深い様子です。諏訪神社に小池家代々の家系図が奉納されていて、その家系図を父親は一回だけ見させて頂いた事があるそうです。そこには遡る事、戦国時代に武田信玄公の元、小池党というご家来衆であったと書かれていたそうです。よって小池の姓なのに武田菱の家紋である事も信玄公とのご縁のおかげなのかなぁと確かに息づいていた戦国時代のご先祖様への想いを馳せております。
何れにせよ、ここまで血が繋がってるんだから優秀な人間だろうな
近くの漁師に同じ苗字の方がいますが、元々苗字が無かったが、うちの先祖に良くしてもらい、憧れから同じ苗字を名乗るようになったんですよ。という話を聞きました。
わたくし、香森(こうもり)と申します。家系図を見ましたが、分からなかった😂
どんな身分でも良いですね
北海道だと、全然この辺りがわからないことが多いのよねぇ・・・100%に近いくらい移住してきた祖先だし。この場合はルーツをたどるのは難しいです・・・
うちは福井県からの移住者(開拓者)だから、ハッキリしてますよ!😁
沖縄も分からない…
ごめんなさい、ご先祖さま。兄弟いなくて未婚で若くない私で、家系絶えます。
じいさんが、うちの祖先は平家の落人だと話していた。しかし、自分自身は何故か幼少期から絶対に違う‼︎という思いがあった。中学の時に自分の体に『忠』という漢字を彫った。何故この字だったのか謎だった。幼少期、義経にまつわる物語を読むと何故か心が躍り、時には涙を流した。自分でも不思議でならなかった。大人になって源氏と自分の苗字について調べた。分かった。自分の苗字を持つ武士は、平家側であったが戦の中での勇姿に心を打たれた源氏側がその武士を引き抜き、義経率いる清盛の討伐隊に所属していた。その名には『忠』という文字もあった。そしてその武士は戦で顔に傷を負いその傷がその武士の特徴であったらしい。自分も顔の同じ場所に傷がある。あまりにできすぎていて自分でも恐怖を感じたが、誇りに思っている。
私の先祖は農民です。結婚して息子が産まれ、産着を作るために夫側の家紋を調べたら何と、徳川家康の分家の子孫だとわかりました。しがない農民のご先祖は、まさか自分の子孫が大将軍の分家の子孫と結婚するなんて想像もしてなかっただろうなと思うと、何か面白かったです。
世が世なら、と、父と、叔母が言ってました。ご先祖様のお墓を守るために、寺を建てたらしく、墓を移動される時に父とめちゃくちゃ揉めたとか、私は興味もなかったのですが(笑)波多野とは、さて?由緒あるのですかね〜?
私の苗字は全国に10人程度だとネットで調べた時に知ったのだけれど、もはや全員親戚。昔からルーツが気になって仕方ない...🤔
江戸時代の農民の割合は八割超えていたらしいので、名字家紋云々以前に御先祖様の出自を詳しく知らない皆様は、農民で間違いないと思います。
しかし私の周りは家系が武士だったという人だらけです。たまたまでしょうか?
@@満留-u9v 土地によるんじゃない?
@myojin0002認識誤ってますよ~。時代を江戸期に固定する時点で平安末から徳川政権誕生までの600年超の武士文化をガン無視になります。その農民のレッテルを貼られた庄屋、又は辛うじて武士寄りの扱いをされた郷士とその親族は、戦国時代まで領主級武士だった家系が沢山いたので、そうでもありません。貴方の意見は昭和史観で既に時代遅れな旧(近代)世代の一般論で尚且つ、貴方が関東圏住みなら風土記程度も読まず講釈している事が丸解りです。農民レッテル貼りは統治が下手くそな徳川武士団が関東入部後に特に元遠州からの武士団が不正を行う等した為に、領民が徳川家臣と比較に成らない程教養を持ち善政を行った北条家を基準にして不満噴出した上に、帰農して庄屋に成っていたのも旧北条家臣団なのでバチバチに不正領主を弾劾する書状書いたり台湾来たばかり当時の国民党状態の徳川武士は武力弾圧や庄屋級を暗殺しまくる過程で、領民に苗字の使用を控えさたりハチャメチャな事したんですよwwwそれが明治の士分平民化で知識階層である武士廃止時に四民平等に不服従の元武士による元他階級への差別が逆に強く成り近代の歴史観に成ってしまいました。昭和生まれの戦前戦中世代や団塊くらいまでは嘘が刷り込まれているんです。鎌倉幕府も1192じゃないですしね。さらに言うと非人差別も有りますが、穢多は高度な知識階層でお金持ちや平安~室町の元武士も多かったんですよ?神職や陰陽師等の中でも古墳時代の祭祀の名残を引き継いだ人々なので貴人の葬儀を取り仕切ったりしましたから。非人に関しても元武士階級が非常に多く、元々武士で土木知識が有ったりして石切集団や武具の工芸師もいました。非人は祖先が罪人の家系等が多いですが、そもそも、その罪も例えば将軍と争った鎌倉公坊の領民=下級武士の集落だったりしますよ。穢多非人が所謂、悲惨な被差別に遭う事が多く成ったのは、やはり明治以後の話です。藤堂家臣の伊賀者の録高を見ても一目瞭然ですが、忍者と認識されている人々も非人の家系の様です。不当に給与が低いのは、武士が介入出来ない集落に対して捨て扶持を与える事で形だけでも主従契約をしたみたいですね。非人ではありませんが土佐藩の郷士も待遇悪い訳ですが旧長宗我部家臣団の一両具足の子孫達だったりします。人に言われた事を鵜呑みにする前に、自分で史料を漁り現地へ取材に行くべきだと思います。
@@満留-u9v 江戸時代に半農半士だった人も数多くいたのでさほど不思議な事では無いと思いますよ。上級武士なのか足軽なのかはさておき武士は武士ですから
現在は個人情報で除籍簿及び古い戸籍謄本(明治初頭の元戸籍)、菩提寺の過去帳は見られません。学術的には幕末当時、90℅以上が百姓「農人・商人・職人・漁民~」身分は立証されて(戦中までの学者研究から)いますね。殆どが百姓(各藩により違う)です。歴史学者でも田舎の旧家(明治以降の士族・高持百姓(本百姓))でも精々、戦国時代だと言われています。9割以上の庶民でも家格(中国地方・山口では百姓四段階の家格があり~割愛)、商家(商人)でもありました。NHKの某番組はコジツケ(笑)理論、誰でも武家に繋がり最後には、皇家に繋がります(笑)。ポイントはその時代時点(私は封建時代の幕末と思っています)。古文書が解読出来る歴史学者・お寺様・土地の郷土史家さんの弁を尊重しています。
うちの先祖は、次男だったので家督が継げなかったので、北海道に移住してきたと聞いてます。祖父は戦時中、近衛師団に所属してました。
父方も母方も実家に家紋があったので、昔調べて先祖を辿ってみました。父方は信濃の国衆で川中島があるたびに、上杉についたり武田についたりしていたそう母方は瀬戸内の村上に連なる海賊で、秀吉の天下統一後に内陸で暮らすようになったらしい。家紋自体はそれほど格式の高い家じゃなくてもあることが多いので、結構みんな先祖のことを検べられると思います
父方も母方も武士の家系です。父方の名字は、大阪城の殿様が名付けた名字だと今は亡き祖父から聞きました。珍しい名字なので馬鹿にされて笑われる事がよくあります。まともに読んでもらえない事もざらにあります😣
めちゃめちゃ見やすい!
これ、どの動画よりも苗字について細かく解説がされていて広告見るだけでなくお金を別途支払いたいくらいです。本を何冊も読み込まないと得られない知識ですね、ありがとうございました。
や😊り」らな🎉
ですから、姓氏と名字は全くの別物である事から勉強し直して下さい、呆れて物もの言えません!
戦国時代から何度も家系図のねつ造がブームになった時期があるからなぁ・・・逆に主家が滅んで帰農した侍も山のようにいるからなぁ・・・
偶然発見し、拝見しましたが話し方が引き込まれついつい見てしまいます😊自分の祖先は大阪松原にあった田井城の周りに住んでいた下級武士の出身で苗字はその地域に住んでいたのでそのまま地名を貰ったと祖父から聞きました下級武士なんでほとんど農民と変わらないのですがずっと自慢してました(笑)
苗字だけでは確実な家紋は特定できません。お墓や身内の喪服を見ると家紋が付いています。しかし家紋がわからない人は、無難な家紋を付ける人もいます。
うちは宇多源氏佐々木氏流の朽木氏から来ているそうで、主人が応仁の乱を恐れて四国に下るのについていったら、小さな領地を貰い、そのまま朽木姓からそこの地名姓に改めたそうです。家紋も隅立て四つ目なので嘘ではなさそうです笑
「小鳥遊」と書いて「たかなし」さんっていらっしゃるじゃないですか?一種のシャレみたいですが「粋」だなぁと思うのです。
NHKの「ファミリーヒストリー」でもルーツを辿ったりするが、あれを観てよく分かるのは、自分の苗字がイコール自分の生物学的ルーツとは限らないということである。というのも、昔は養子を取ることもざらにあったからである。つまり日本は儒教主義的な血縁主義では必ずしも無く、「家」の存続のほうを重視していたわけである。
父方は商人だったそうです。母方は武士だったそうです。まだ母が幼い時は謄本に掲載されてたそうです。
自分の先祖は津から始まるものです。身分は無事だったら農民だったり姓の由来は両親に聞いても分かりませんのようです。
ナレーションパートと実写パートの音量差でびっくりするw内容はためになりました
ほとんどお百姓さんだろ
家系図あったんやけど寺の焼失と一緒に燃えて無くなって今あるのは高祖父母の所からしかないからもうはっきりとしたのはわからんなー
僧侶だったのは確かやな
いや、菩提寺に先祖の記録があったのだと思いますよ(笑)僧侶とはかぎりませんでしょ(笑)
自分の母方のおばあちゃんの旧名が【両角】でした。戦国時代に詳しい人なら知ってる名字だそうで、書物には【諸角】【室住】と記載されることもあるそうですが、おばあちゃんは【両角】の字を使っていました。長野県にある集落で育っていて、表門と裏門(本家と分家みたいな)にグループが分かれていて、おばあちゃんは表門出身だったそうです。名字って多くの場合は男性側のものが引き継がれていきますが、女性側を追っていくと先祖が武士だったっていう人も沢山居ると思います。
自分の苗字は井伊で母方は藤原北家の血筋でした僕は栃木県住みなので飛び領地できた井伊家の子孫です😊井伊家の始まりは井戸の横に捨てられた子供を藤原氏が拾い井伊と名ずけたためまた繋がるとなるとロマンチックです😊
関東の有名な武将に仕えてた旗本らしいっていうのは聞いてたけど詳しくは知らなかったから、これを機に詳しく調べてみようかな
母方の祖父が南国出身。大国といえば清という地域だったのでそちらにあやかった名字をつけたご先祖様。
いつも楽しく拝聴させて頂いております。どうもありがとうございます。ところで追記で恐縮ですが、因みに小池党と言うのは戦場に出向いていくお味方のご家来衆に対して景気づけと言うか太鼓等を叩いて応援をする事のお役目を授かっていたご家来衆だったんだそうです。その話を聞かされて戦国時代の合戦のイメージがまた様々に想像されて楽しく思っております。
うん、人工音声よりずっといいし、古い言葉を使うのもいい。格好もまたこれぞ歴史って感じ。農民なのは名字からみて当然なのでわかってたけど。
元々の本籍が群馬で、栃木に特に多い3文字苗字、家紋が丸に違い鷹の羽、となればまあルーツはそうなのかなと思います だからなんなの?って話ですけどやっぱり気になるもんなんですよね
母方のルーツは、新田義貞の家臣だったと聞いています。倉に、甲冑、弓、刀があったとの事家系図もあったとの事で、母はそれが、今でも自慢ですが…私は、人を殺めた武家が、先祖は、嫌なので、農民が良かったと思っています。コツコツと、真面目に働く農民が、貧しくても、一番幸せだと、私は、思っています!
珍しい名字やから親父が調べたら、長野か大分にその名前の城があって、そこの大名やったかとは言われているけど、、わからないからこそロマンが詰まってるよなぁ
私の苗字は、関西圏に多い苗字です。家紋は約300有ります。家紋も先祖を知るひとつの手ですが、一概に言えないですよね。
爺ちゃんの所に寺子屋の机が20~30はあったな、武士から転職して寺子屋始めて勉学教えてたとは聞いている多分ガサゴソすれば教本もあると思うわ
身も蓋もない話ですが、20〜30代前ぐらいまで遡ると、当時の日本人ほとんどが自分の先祖になります。あくまでも理論値なので、その点はご了承願います。
主人の家柄は、敗軍の将、「清水宗治」の末裔らしい。ちなみに苗字は、清水を名乗れないから宗治の宗を取って「宗田」そうだ私はなんて事ない農民の子孫だけど、子供らは武士の子孫なんだなぁ。と思います。まっ。2人とも私に似て、可愛くてダラダラしてますけど。とっとと風呂に入ってくれーお侍の子孫さま。風呂を洗いたいんだよー
豊臣秀吉の高松水攻めでやられた武将ですよね!
@@ギブソン-g2rお風呂に入らない理由はそれですね
10代遡れば1000人の先祖がいるわけで、みんな貴族でもあり農民なんじゃないかな?
苗字の由来は訳わからんが近所が皆、同じ苗字で実家と他一軒だけ違う苗字の家があってどうやらその家共々、お姫様が地元の武家に輿入れした際にその化粧領に着いてきた家来衆の家系らしい
うちの先祖は江戸時代後期に小さな城の家老だったらしいから武士だったのかな? 苗字に「藤」が付いているから、確証は無いが武士と言うことで子供や孫に言っておこう。家老は今の会社で言うと専務くらい?
うちは百済の王族だったって説があります。実際に先祖の坐像を見ると朝鮮式の服着て奥さんは朝鮮式の座り方してる。武家で大名だった時もあったのですが、叔母が家系図見せて貰ったらゴチャゴチャ書いてあってよく分からなかったそうですw
クオリティーが高くて驚いた
うちの母方は豪商の三浦家です。伊達家の家臣になります。200年間、花山御番所で関所管理をしていました。何故商人が関所の管理をしていたのか調べてみたいです。父方は九曜紋です。やっぱり伊達家です。宮城県なので伊達家絡みが多いです。
そういうのって今もお金持ちなんですか?
@@mayupon_mother 農地だけじゃなくて家も没収されたんですか!?
大友宗麟の家臣で、丸に違い鷹の家紋ですが、明治維新で豆腐屋始めたみたいです。
父の先祖「柚木城主」⇨「柚木城跡」です。清和源氏の頃の「藤原氏」から分岐した「花輪」です。 ○に十文字です。 雁坂峠の高台に柚木城が有りました。現在は上柚木、下柚木と地名として残ったパターンです。母の先祖は田園地帯の地主と神事が専門の家系で「木花開耶姫命」へ神楽演舞をする「白倉」を名乗っておりました。両者の苗字「高台の意味」が共通で出身地も峡北と峡東で遠方です。初代「白倉」が身内に田畑を売り、手放した事で1つの苗字が多い「旧須玉町」が出来ました。 家紋「下り藤の花」
中村です。農家をしていますw
頑張って下さい。
祖父に家紋について聞いたところ「適当にかっこいいやつ選んだっていってた」そうです丸に違い矢です
いつもありがとうございます
すごく面白かったです
世の中って不思議よね身分まで決められ生まれてくるなんて
そうか?不思議なのはむしろその当たり前のことを理解してない人がいることの方だと思うよ
@@茂本克幸 どこにでも湧いて出てくるね捻くれ者
我が家は鎌倉時代までは記録が残っていて、鎌倉時代は上野、室町時代に遠江に移住、江戸時代初期に美濃に移住していて江戸時代中期までは下級武士だったけど、仕えていた大名が転封になったのを契機に帰農している。
大変興味深く、面白いお話しでした!私は北海道出身で、父方母方共に開拓移民です。父方姓は秋田辺りに母方姓は栃木にありますが、どちらも少数派で50年生きてて、同じ名字の他人に会った事がありません。父方姓はチラホラ聞くようにはなって来ましたが母方は皆無。この動画を見て、また調べてみたくなりました。ありがとうございました😊
日本で多いと言われる鈴木や佐藤とかだと地域分布はあてに出来ないよね。
みんなほとんど、農家だからウチの家紋は丸に3回りんなんだよな、、農家だけどね笑
うちは江戸時代初期に飯が食えなくなって農民にジョブチェンジした。
家系調査が本来の専門ではないでしょうに、特段誤った情報はありませんでした。何の書籍やどの専門家へのヒアリングを行ったか見えませんが素晴らしい動画だと思います。まぁ言うは易し、行うが難しというわけで簡単ではないんですけどねwM19式戸籍まで辿り着いて、読解するだけでもそれなりに大変ですw
村上水軍の第三代当主だった事はゴソゴソ家捜ししてたら出てきたよ。水軍言うても“アジの開き”食べるのが一番なのだ♪
養子もらって名を残したりもしてるから、地のルーツと姓名のルーツの二種類あるよね
ご先祖さまは舟運屋だお😂でも室町時代には、同じ名字の方がいたお😮
いろいろと詳しく説明されててとてもわかりやすかったです。
レアな苗字ですとある土地に集中して一族が多く、城の名前にもなっていました明治ごろを生きていた曽祖父の話では鳥羽伏見、箱館と戦いそのまま土地に残ったとの話でした
ワイの家は農民か武士か分からんが(多分農民)、墓や寺の過去帳にも古いご先祖さまの記載があります。ちなみに、墓は万治3年没の方が最古、位牌は寛延3年没の方が最古です。総本家とされるお宅では慶長15年没の方の墓石まで残っています。推測でワイで13代か14代目になります。
私の苗字は「舘内」です。分かっている事は、伊達政宗公が岩出山城に居城していた時に政宗公から苗字を頂いたこと。軍馬の育成と荷役をしていたこと。奥州藤原氏の元でも軍馬育成に携わっていたこと。明治時代に伊達氏と共に北海道へ移り住み厚岸に住んでいたこと。位です。その後は調べることが出来ませんでした。ちなみに母方の高橋家の家紋は伊達家と同じ物です。舘内家は「丸に橘」です。
苗字、意味が有ります、ちゃんと意味が有ります、誰も気が付かない、身分は関係在りません。日本には、苗字のない人もいます、、、現在、、、、、
江戸時代の寺受け制度があるから。お寺か神社で解ることが多いです。人別帳などが残っていると。我が家は、先祖の家業は農家だけど、社領を管理し、同じ場所に平清盛の時代から住んでいます。江戸時代後半に、宇多天皇の男系の大名の子を婿養子して、領地内分家も兼ねました。苗字は紀氏の一族の苗字で大阪にある地名由来で家紋も家紋帳に出てきます。、男系は宇多源氏です。同じ苗字の親戚には、親戚衆として藩に仕えた子孫や、皇族に身の回りのお世話する仕事者などがいます。
父方の祖父が貴重な家系図の手書きをカレンダーの裏に書いていました残っていればいいのに
農民がいないと飯食えないと思うけど、悲観ってw
大変興味がありましたが母方なら知ってます母方の祖母はお侍の家系祖父は高祖父のみお寺の和尚で、父親はあの独眼竜で有名な伊達政宗公の御殿医をしていた事まで知ってます父方は父も祖父も祖母も教えてくれなかったのでよくわかりませんが祖父がちらっと話してくれたのは本家がある事と、どこかのお寺におつかえしていたとか言ってました😮
ワシの家は分家で、三代前までは何とか分かるんですけどねぇ😁まぁどこでどんな血が混じっているかなんて、よほどの名家じゃないと分からないんじゃないかな? なのであまり気にしないようにしていますね。
先祖が農民だろうと悲観なんかしないですよ。農民がいなければ、武士も町人も大名ですら生きられないのだから。つまり、農民最強!
うち武田四天王の一人の最末家ただ、本家の方と祖母仲良くて果物貰う親戚みたいな関係だけの普通の家庭武田四天王が合計で8人いた事さえ最近知ったレベル 誰がいるかは祖先以外知らない
半農武士とか農民が武装したとかいろいろ話はあるけど、結局武士ってのは直属の部下だったかどうかが重要なんじゃない?その時だけに召集されたのは足軽程度の士分がついてない下っ端に過ぎないから武士かどうかって言われるとそうじゃないと思う。明治以前まで戸籍謄本で先祖を調べて、その先祖が何をしていたかを郷土資料で調べてみるともし武士の家系だったら幕末の戊辰戦争や地方の戦争などで「何々御家中でどこどこの戦いに出陣した」など書いてあるから、興味がある方は是非。
人間として存在するだけで人生当たり。地球に生まれた微生物から進化し、45億年前からの先祖の子孫なのだから。素晴らしい
一言にご先祖様と言っても難しいですよね。自分の苗字の先祖は奈良時代から今日までの素性が分かっているのですが、侍とはいえ、余り、名門とは言いがたいです。それに養子が続いていて、奈良時代から血がつながっているかどうかは不確かな気もします。なお、自分の世襲財産の半分はひいお婆さんの実家です。先祖を辿ると色んな家系が出てきてしまい、その中にはかなりの有名人がいたりするのですが、それをご先祖と読んで良いのかどうか困惑します。
私の苗字はなかなか珍しいらしいのですが、父も母も家紋を覚えておらずどこがルーツなのかはさっぱりわからない😂
自分の苗字で調べてみたけどなんかすげぇ事わかったw本家は高家大澤家って言う旧家で本姓が藤原で徳川家に高家として代々使えていて分家は普通の武士だったらしいね俺の先祖はどっちかは知らんけどwww
自分も調べた事あるけど今は北海道に住んでるけどルーツは福島県のいわき市だった。
梵が初見で読める人は仏教に携わる人以外では野球ファンが多い説
渡来し帰化した方々の通名がこの系譜の伝統を複雑化させてしまったが、とはいえ判りやすくもある。
初めて拝見しました!!女性のナレーションの方、、もしかしていつも遊女のお話ししてらっしゃるかた…!?
昔どうだろうが今が大事ですよね
子供の頃、先祖様の箱位牌の中から出てきた家系図には天保が一番古かった。それ以前は不明。
とは言うても自分の祖先は確実に農民なのは祖父母からの語りによりわかっているもののつい見てしまう
ウチは菅原道真の子孫で武士の家系だよ!って小さい頃から言われてたけど、菅原道真の子孫いっぱいいるらしい(笑)
去年の大河「鎌倉殿の13人」に出てたよ。畠山重忠の母系で・・・政宗の父輝宗に仕えて政宗と一緒に大坂夏の陣・冬もお供して仙台騒動後、分家になり500石になり今に至ってる。そのお墓があるお寺は平泉の奥州藤原氏の流れのお寺で岩手県史に名前を残し、岩出山城の時に奥州付近にも呼び掛けて・・・仙台についてきてる。荷が重い家です。全部調べたし国立博物館アーカイブにinしてまで遡った。
隣のアルツばぁちゃんが「私の息子は天皇陛下なのよ」と言ってました。当然 ”菊の御紋” だそうです。
すごい詳しいですね👍
とある説に寄ると明治になって名字が義務化された時に書面に例として「佐藤」や「鈴木」が記載されていて、それで全国に佐藤さんや鈴木さんが多くなったとか笑
とても分かり易い、いい解説が聞けました!!
うちは越前藩(福井藩)の石高を支えてた村のお百姓さんです。苗字に村の名前を貰いました。村は今でも福井県の地区名として残っています😁、意外と珍名さんです!😄
ウチの苗字は加賀藩主を務めた人と同じで、土地は越前少将 松平秀康公の藩内にあり、家紋は下がり藤わけがわからんw
なぜ農民だと悲観しなくてはならないのだ?
ほんとだね
身分差別か?
当時の身分とかどうでもいいやろw
今の身分の方が100倍大事だ。
@@純ちゃん-w9y
どうでも良いが
本当にどうでも良けりゃ
このコンテンツ見ないと思うんだわ
多少興味はあるから見たんじゃね?
@@和奏正昭 さん
ごめんよ、
サムネでなんとなく開いたけど
20分も見る時間がもったいないので
自分は本編見てないどす!
明治になって、全ての人が苗字を名乗れるようになったから、○藤に代表される佐藤、伊藤、加藤は藤原氏とは縁もゆかりもないのが殆どで、藤原ですら藤原氏とは関係無いものが大半。
自分のレアよりな苗字から、なんとなく農民だろうと思っていたが。
この動画にある農民の良くある条件をガッチリ満たしていたので確信できた。
家紋無くとも、そんなところから祖先を知れるものなんだね。
「源平藤橘」内に全ての日本人が当てはまる、ということは本当にあるのではないか、と思います。昔は戦国時代だったので、負けた方は恨みや怨恨を少なくするために、苗字を一時期剥奪していた可能性はありますね。
でもその家の代々の人たちが自分の祖先は例えば平家の一門であったりすることを言い伝えとして聞かされていたので、明治期の苗字必須令でその言い伝え通りの苗字を選んだ可能性はありますね。
苗字は私自身もいろいろと調査や研究をしている者です。
今の残る日本人の苗字は日本の歴史のマイルストーンのような物であり、歴史調査には非常に参考になるものなので、苗字は無くなって欲しくないですね。
確かに先祖が何してたのかは多少知れたらいいかなくらいに思ってたけど。
今の社会、どんな苗字だろうが関係ないし、どんな凄い人の子孫だろうとその人が努力しない限りその人は別に凄いとかではないし笑
どんな苗字だろうと頑張って実力で這い上がった人が1番かっこいいわ
😢
お前、自分が農民だからって傷なめはじめてて草
私の父親の出身は山梨で苗字が小池と言います。家紋は武田菱です。山梨と言えば武田信玄公ですが、土地柄からも小池家は縁が深い様子です。諏訪神社に小池家代々の家系図が奉納されていて、その家系図を父親は一回だけ見させて頂いた事があるそうです。そこには遡る事、戦国時代に武田信玄公の元、小池党というご家来衆であったと書かれていたそうです。
よって小池の姓なのに武田菱の家紋である事も信玄公とのご縁のおかげなのかなぁと確かに息づいていた戦国時代のご先祖様への想いを馳せております。
何れにせよ、ここまで血が繋がってるんだから優秀な人間だろうな
近くの漁師に同じ苗字の方がいますが、元々苗字が無かったが、うちの先祖に良くしてもらい、憧れから同じ苗字を名乗るようになったんですよ。という話を聞きました。
わたくし、香森(こうもり)と申します。家系図を見ましたが、分からなかった😂
どんな身分でも良いですね
北海道だと、全然この辺りがわからないことが多いのよねぇ・・・
100%に近いくらい移住してきた祖先だし。
この場合はルーツをたどるのは難しいです・・・
うちは福井県からの移住者(開拓者)だから、ハッキリしてますよ!😁
沖縄も分からない…
ごめんなさい、ご先祖さま。
兄弟いなくて未婚で若くない私で、家系絶えます。
じいさんが、うちの祖先は平家の落人だと話していた。しかし、自分自身は何故か幼少期から絶対に違う‼︎という思いがあった。中学の時に自分の体に『忠』という漢字を彫った。何故この字だったのか謎だった。幼少期、義経にまつわる物語を読むと何故か心が躍り、時には涙を流した。自分でも不思議でならなかった。大人になって源氏と自分の苗字について調べた。分かった。自分の苗字を持つ武士は、平家側であったが戦の中での勇姿に心を打たれた源氏側がその武士を引き抜き、義経率いる清盛の討伐隊に所属していた。その名には『忠』という文字もあった。そしてその武士は戦で顔に傷を負いその傷がその武士の特徴であったらしい。自分も顔の同じ場所に傷がある。あまりにできすぎていて自分でも恐怖を感じたが、誇りに思っている。
私の先祖は農民です。
結婚して息子が産まれ、産着を作るために夫側の家紋を調べたら何と、徳川家康の分家の子孫だとわかりました。
しがない農民のご先祖は、まさか自分の子孫が大将軍の分家の子孫と結婚するなんて想像もしてなかっただろうなと思うと、何か面白かったです。
世が世なら、と、父と、叔母が言ってました。
ご先祖様のお墓を守るために、寺を建てたらしく、墓を移動される時に父とめちゃくちゃ揉めたとか、私は興味もなかったのですが(笑)
波多野とは、さて?
由緒あるのですかね〜?
私の苗字は全国に10人程度だとネットで調べた時に知ったのだけれど、もはや全員親戚。昔からルーツが気になって仕方ない...🤔
江戸時代の農民の割合は八割超えていたらしいので、名字家紋云々以前に御先祖様の出自を詳しく知らない皆様は、農民で間違いないと思います。
しかし私の周りは家系が武士だったという人だらけです。たまたまでしょうか?
@@満留-u9v 土地によるんじゃない?
@myojin0002
認識誤ってますよ~。
時代を江戸期に固定する時点で平安末から徳川政権誕生までの600年超の武士文化をガン無視になります。
その農民のレッテルを貼られた庄屋、又は辛うじて武士寄りの扱いをされた郷士とその親族は、戦国時代まで領主級武士だった家系が沢山いたので、そうでもありません。
貴方の意見は昭和史観で既に時代遅れな旧(近代)世代の一般論で尚且つ、貴方が関東圏住みなら風土記程度も読まず講釈している事が丸解りです。
農民レッテル貼りは統治が下手くそな徳川武士団が関東入部後に特に元遠州からの武士団が不正を行う等した為に、領民が徳川家臣と比較に成らない程教養を持ち善政を行った北条家を基準にして不満噴出した上に、帰農して庄屋に成っていたのも旧北条家臣団なのでバチバチに不正領主を弾劾する書状書いたり台湾来たばかり当時の国民党状態の徳川武士は武力弾圧や庄屋級を暗殺しまくる過程で、領民に苗字の使用を控えさたりハチャメチャな事したんですよwww
それが明治の士分平民化で知識階層である武士廃止時に四民平等に不服従の元武士による元他階級への差別が逆に強く成り近代の歴史観に成ってしまいました。
昭和生まれの戦前戦中世代や団塊くらいまでは嘘が刷り込まれているんです。
鎌倉幕府も1192じゃないですしね。
さらに言うと非人差別も有りますが、穢多は高度な知識階層でお金持ちや平安~室町の元武士も多かったんですよ?
神職や陰陽師等の中でも古墳時代の祭祀の名残を引き継いだ人々なので貴人の葬儀を取り仕切ったりしましたから。
非人に関しても元武士階級が非常に多く、元々武士で土木知識が有ったりして石切集団や武具の工芸師もいました。
非人は祖先が罪人の家系等が多いですが、そもそも、その罪も例えば将軍と争った鎌倉公坊の領民=下級武士の集落だったりしますよ。
穢多非人が所謂、悲惨な被差別に遭う事が多く成ったのは、やはり明治以後の話です。
藤堂家臣の伊賀者の録高を見ても一目瞭然ですが、忍者と認識されている人々も非人の家系の様です。
不当に給与が低いのは、武士が介入出来ない集落に対して捨て扶持を与える事で形だけでも主従契約をしたみたいですね。
非人ではありませんが土佐藩の郷士も待遇悪い訳ですが旧長宗我部家臣団の一両具足の子孫達だったりします。
人に言われた事を鵜呑みにする前に、自分で史料を漁り現地へ取材に行くべきだと思います。
@@満留-u9v 江戸時代に半農半士だった人も数多くいたのでさほど不思議な事では無いと思いますよ。上級武士なのか足軽なのかはさておき武士は武士ですから
現在は個人情報で除籍簿及び古い戸籍謄本(明治初頭の元戸籍)、菩提寺の過去帳は見られません。学術的には幕末当時、90℅以上が百姓「農人・商人・職人・漁民~」身分は立証されて(戦中までの学者研究から)いますね。殆どが百姓(各藩により違う)です。歴史学者でも田舎の旧家(明治以降の士族・高持百姓(本百姓))でも精々、戦国時代だと言われています。9割以上の庶民でも家格(中国地方・山口では百姓四段階の家格があり~割愛)、商家(商人)でもありました。NHKの某番組はコジツケ(笑)理論、誰でも武家に繋がり最後には、皇家に繋がります(笑)。ポイントはその時代時点(私は封建時代の幕末と思っています)。古文書が解読出来る歴史学者・お寺様・土地の郷土史家さんの弁を尊重しています。
うちの先祖は、次男だったので家督が継げなかったので、北海道に移住してきたと聞いてます。祖父は戦時中、近衛師団に所属してました。
父方も母方も実家に家紋があったので、昔調べて先祖を辿ってみました。父方は信濃の国衆で川中島があるたびに、上杉についたり武田についたりしていたそう母方は瀬戸内の村上に連なる海賊で、秀吉の天下統一後に内陸で暮らすようになったらしい。
家紋自体はそれほど格式の高い家じゃなくてもあることが多いので、結構みんな先祖のことを検べられると思います
父方も母方も武士の家系です。父方の名字は、大阪城の殿様が名付けた名字だと今は亡き祖父から聞きました。珍しい名字なので馬鹿にされて笑われる事がよくあります。まともに読んでもらえない事もざらにあります😣
めちゃめちゃ見やすい!
これ、どの動画よりも苗字について細かく解説がされていて広告見るだけでなくお金を別途支払いたいくらいです。本を何冊も読み込まないと得られない知識ですね、ありがとうございました。
や😊り」らな🎉
ですから、姓氏と名字は全くの別物である事から勉強し直して下さい、呆れて物もの言えません!
戦国時代から何度も家系図のねつ造がブームになった時期があるからなぁ・・・
逆に主家が滅んで帰農した侍も山のようにいるからなぁ・・・
偶然発見し、拝見しましたが
話し方が引き込まれ
ついつい見てしまいます😊
自分の祖先は大阪松原にあった
田井城の周りに住んでいた
下級武士の出身で
苗字はその地域に住んでいたのでそのまま地名を貰ったと
祖父から聞きました
下級武士なんでほとんど農民と
変わらないのですが
ずっと自慢してました(笑)
苗字だけでは確実な家紋は特定できません。お墓や身内の喪服を見ると家紋が付いています。しかし家紋がわからない人は、無難な家紋を付ける人もいます。
うちは宇多源氏佐々木氏流の朽木氏から来ているそうで、主人が応仁の乱を恐れて四国に下るのについていったら、小さな領地を貰い、そのまま朽木姓からそこの地名姓に改めたそうです。家紋も隅立て四つ目なので嘘ではなさそうです笑
「小鳥遊」と書いて「たかなし」さんっていらっしゃるじゃないですか?一種のシャレみたいですが「粋」だなぁと思うのです。
NHKの「ファミリーヒストリー」でもルーツを辿ったりするが、あれを観てよく分かるのは、自分の苗字がイコール自分の生物学的ルーツとは限らないということである。
というのも、昔は養子を取ることもざらにあったからである。
つまり日本は儒教主義的な血縁主義では必ずしも無く、「家」の存続のほうを重視していたわけである。
父方は商人だったそうです。母方は武士だったそうです。まだ母が幼い時は謄本に掲載されてたそうです。
自分の先祖は津から始まるものです。
身分は無事だったら農民だったり姓の由来は両親に聞いても分かりませんのようです。
ナレーションパートと実写パートの音量差でびっくりするw内容はためになりました
ほとんどお百姓さんだろ
家系図あったんやけど寺の焼失と一緒に燃えて無くなって今あるのは高祖父母の所からしかないからもうはっきりとしたのはわからんなー
僧侶だったのは確かやな
いや、菩提寺に先祖の記録があったのだと思いますよ(笑)
僧侶とはかぎりませんでしょ(笑)
自分の母方のおばあちゃんの旧名が【両角】でした。
戦国時代に詳しい人なら知ってる名字だそうで、書物には【諸角】【室住】と記載されることもあるそうですが、
おばあちゃんは【両角】の字を使っていました。
長野県にある集落で育っていて、表門と裏門(本家と分家みたいな)にグループが分かれていて、おばあちゃんは表門出身だったそうです。
名字って多くの場合は男性側のものが引き継がれていきますが、女性側を追っていくと先祖が武士だったっていう人も沢山居ると思います。
自分の苗字は井伊で母方は藤原北家の血筋でした僕は栃木県住みなので飛び領地できた井伊家の子孫です😊井伊家の始まりは井戸の横に捨てられた子供を藤原氏が拾い井伊と名ずけたためまた繋がるとなるとロマンチックです😊
関東の有名な武将に仕えてた旗本らしいっていうのは聞いてたけど詳しくは知らなかったから、これを機に詳しく調べてみようかな
母方の祖父が南国出身。大国といえば清という地域だったのでそちらにあやかった名字をつけたご先祖様。
いつも楽しく拝聴させて頂いております。
どうもありがとうございます。
ところで追記で恐縮ですが、因みに小池党と言うのは戦場に出向いていくお味方のご家来衆に対して景気づけと言うか太鼓等を叩いて応援をする事のお役目を授かっていたご家来衆だったんだそうです。
その話を聞かされて戦国時代の合戦のイメージがまた様々に想像されて楽しく思っております。
うん、人工音声よりずっといいし、古い言葉を使うのもいい。格好もまたこれぞ歴史って感じ。農民なのは名字からみて当然なのでわかってたけど。
元々の本籍が群馬で、栃木に特に多い3文字苗字、家紋が丸に違い鷹の羽、となればまあルーツはそうなのかなと思います だからなんなの?って話ですけどやっぱり気になるもんなんですよね
母方のルーツは、新田義貞の家臣だったと聞いています。
倉に、甲冑、弓、刀があったとの事
家系図もあったとの事で、母はそれが、今でも自慢ですが…
私は、人を殺めた武家が、先祖は、嫌なので、農民が良かったと思っています。
コツコツと、真面目に働く農民が、貧しくても、一番幸せだと、私は、思っています!
珍しい名字やから親父が調べたら、長野か大分にその名前の城があって、そこの大名やったかとは言われているけど、、わからないからこそロマンが詰まってるよなぁ
私の苗字は、関西圏に多い苗字です。家紋は約300有ります。家紋も先祖を知るひとつの手ですが、一概に言えないですよね。
爺ちゃんの所に寺子屋の机が20~30はあったな、武士から転職して寺子屋始めて勉学教えてたとは聞いている
多分ガサゴソすれば教本もあると思うわ
身も蓋もない話ですが、20〜30代前ぐらいまで遡ると、当時の日本人ほとんどが自分の先祖になります。あくまでも理論値なので、その点はご了承願います。
主人の家柄は、敗軍の将、「清水宗治」の末裔らしい。
ちなみに苗字は、清水を名乗れないから宗治の宗を取って「宗田」そうだ
私はなんて事ない農民の子孫だけど、子供らは武士の子孫なんだなぁ。と思います。まっ。2人とも私に似て、可愛くてダラダラしてますけど。
とっとと風呂に入ってくれーお侍の子孫さま。風呂を洗いたいんだよー
豊臣秀吉の高松水攻めでやられた武将ですよね!
@@ギブソン-g2r
お風呂に入らない理由はそれですね
10代遡れば1000人の先祖がいるわけで、みんな貴族でもあり農民なんじゃないかな?
苗字の由来は訳わからんが近所が皆、同じ苗字で実家と他一軒だけ違う苗字の家があってどうやらその家共々、お姫様が地元の武家に輿入れした際にその化粧領に着いてきた家来衆の家系らしい
うちの先祖は江戸時代後期に小さな城の家老だったらしいから武士だったのかな? 苗字に「藤」が付いているから、確証は無いが武士と言うことで子供や孫に言っておこう。家老は今の会社で言うと専務くらい?
うちは百済の王族だったって説があります。実際に先祖の坐像を見ると朝鮮式の服着て奥さんは朝鮮式の座り方してる。
武家で大名だった時もあったのですが、叔母が家系図見せて貰ったらゴチャゴチャ書いてあってよく分からなかったそうですw
クオリティーが高くて驚いた
うちの母方は豪商の三浦家です。
伊達家の家臣になります。
200年間、花山御番所で関所管理をしていました。
何故商人が関所の管理をしていたのか
調べてみたいです。
父方は九曜紋です。やっぱり伊達家です。
宮城県なので伊達家絡みが多いです。
そういうのって今もお金持ちなんですか?
@@mayupon_mother 農地だけじゃなくて家も没収されたんですか!?
大友宗麟の家臣で、丸に違い鷹の家紋ですが、明治維新で豆腐屋始めたみたいです。
父の先祖「柚木城主」⇨「柚木城跡」です。
清和源氏の頃の「藤原氏」から分岐した「花輪」です。 ○に十文字です。 雁坂峠の高台に柚木城が有りました。
現在は上柚木、下柚木と地名として残ったパターンです。
母の先祖は田園地帯の地主と神事が専門の家系で「木花開耶姫命」へ神楽演舞をする「白倉」を名乗っておりました。
両者の苗字「高台の意味」が共通で出身地も峡北と峡東で遠方です。
初代「白倉」が身内に田畑を売り、手放した事で1つの苗字が多い「旧須玉町」が出来ました。 家紋「下り藤の花」
中村です。農家をしていますw
頑張って下さい。
祖父に家紋について聞いたところ「適当にかっこいいやつ選んだっていってた」そうです
丸に違い矢です
いつもありがとうございます
すごく面白かったです
世の中って不思議よね
身分まで決められ生まれてくるなんて
そうか?不思議なのはむしろその当たり前のことを理解してない人がいることの方だと思うよ
@@茂本克幸
どこにでも湧いて出てくるね
捻くれ者
我が家は鎌倉時代までは記録が残っていて、鎌倉時代は上野、室町時代に遠江に移住、江戸時代初期に美濃に移住していて江戸時代中期までは下級武士だったけど、仕えていた大名が転封になったのを契機に帰農している。
大変興味深く、面白いお話しでした!私は北海道出身で、父方母方共に開拓移民です。
父方姓は秋田辺りに母方姓は栃木にありますが、どちらも少数派で
50年生きてて、同じ名字の他人に会った事がありません。
父方姓はチラホラ聞くようにはなって来ましたが母方は皆無。
この動画を見て、また調べてみたくなりました。ありがとうございました😊
日本で多いと言われる鈴木や佐藤とかだと地域分布はあてに出来ないよね。
みんなほとんど、農家だから
ウチの家紋は丸に3回りんなんだよな、、
農家だけどね笑
うちは江戸時代初期に飯が食えなくなって農民にジョブチェンジした。
家系調査が本来の専門ではないでしょうに、特段誤った情報はありませんでした。
何の書籍やどの専門家へのヒアリングを行ったか見えませんが素晴らしい動画だと思います。
まぁ言うは易し、行うが難しというわけで簡単ではないんですけどねw
M19式戸籍まで辿り着いて、読解するだけでもそれなりに大変ですw
村上水軍の第三代当主だった事はゴソゴソ家捜ししてたら出てきたよ。水軍言うても“アジの開き”食べるのが一番なのだ♪
養子もらって名を残したりもしてるから、地のルーツと姓名のルーツの二種類あるよね
ご先祖さまは舟運屋だお😂でも室町時代には、同じ名字の方がいたお😮
いろいろと詳しく説明されててとてもわかりやすかったです。
レアな苗字です
とある土地に集中して一族が多く、城の名前にもなっていました
明治ごろを生きていた曽祖父の話では鳥羽伏見、箱館と戦いそのまま土地に残ったとの話でした
ワイの家は農民か武士か分からんが(多分農民)、墓や寺の過去帳にも古いご先祖さまの記載があります。ちなみに、墓は万治3年没の方が最古、位牌は寛延3年没の方が最古です。総本家とされるお宅では慶長15年没の方の墓石まで残っています。推測でワイで13代か14代目になります。
私の苗字は「舘内」です。分かっている事は、伊達政宗公が岩出山城に居城していた時に政宗公から苗字を頂いたこと。軍馬の育成と荷役をしていたこと。奥州藤原氏の元でも軍馬育成に携わっていたこと。明治時代に伊達氏と共に北海道へ移り住み厚岸に住んでいたこと。位です。その後は調べることが出来ませんでした。ちなみに母方の高橋家の家紋は伊達家と同じ物です。舘内家は「丸に橘」です。
苗字、意味が有ります、ちゃんと意味が有ります、誰も気が付かない、身分は関係在りません。
日本には、苗字のない人もいます、、、現在、、、、、
江戸時代の寺受け制度があるから。お寺か神社で解ることが多いです。人別帳などが残っていると。
我が家は、先祖の家業は農家だけど、社領を管理し、同じ場所に平清盛の時代から住んでいます。江戸時代後半に、宇多天皇の男系の大名の子を婿養子して、領地内分家も兼ねました。苗字は紀氏の一族の苗字で大阪にある地名由来で家紋も家紋帳に出てきます。、男系は宇多源氏です。同じ苗字の親戚には、親戚衆として藩に仕えた子孫や、皇族に身の回りのお世話する仕事者などがいます。
父方の祖父が貴重な家系図の手書きをカレンダーの裏に書いていました
残っていればいいのに
農民がいないと飯食えないと思うけど、悲観ってw
大変興味がありましたが
母方なら知ってます
母方の祖母はお侍の家系
祖父は高祖父のみお寺の和尚で、父親はあの独眼竜で有名な伊達政宗公の御殿医をしていた事まで知ってます
父方は父も祖父も祖母も教えてくれなかったのでよくわかりませんが
祖父がちらっと話してくれたのは
本家がある事と、どこかのお寺におつかえしていたとか言ってました😮
ワシの家は分家で、三代前までは何とか分かるんですけどねぇ😁
まぁどこでどんな血が混じっているかなんて、よほどの名家じゃないと分からないんじゃないかな? なのであまり気にしないようにしていますね。
先祖が農民だろうと悲観なんかしないですよ。農民がいなければ、武士も町人も大名ですら生きられないのだから。つまり、農民最強!
うち武田四天王の一人の最末家
ただ、本家の方と祖母仲良くて果物貰う親戚みたいな関係だけの普通の家庭
武田四天王が合計で8人いた事さえ最近知ったレベル 誰がいるかは祖先以外知らない
半農武士とか農民が武装したとかいろいろ話はあるけど、結局武士ってのは直属の部下だったかどうかが重要なんじゃない?その時だけに召集されたのは足軽程度の士分がついてない下っ端に過ぎないから武士かどうかって言われるとそうじゃないと思う。
明治以前まで戸籍謄本で先祖を調べて、その先祖が何をしていたかを郷土資料で調べてみると
もし武士の家系だったら幕末の戊辰戦争や地方の戦争などで「何々御家中でどこどこの戦いに出陣した」など書いてあるから、興味がある方は是非。
人間として存在するだけで人生当たり。地球に生まれた微生物から進化し、45億年前からの先祖の子孫なのだから。素晴らしい
一言にご先祖様と言っても難しいですよね。自分の苗字の先祖は奈良時代から今日までの素性が分かっているのですが、侍とはいえ、余り、名門とは言いがたいです。それに養子が続いていて、奈良時代から血がつながっているかどうかは不確かな気もします。なお、自分の世襲財産の半分はひいお婆さんの実家です。先祖を辿ると色んな家系が出てきてしまい、その中にはかなりの有名人がいたりするのですが、それをご先祖と読んで良いのかどうか困惑します。
私の苗字はなかなか珍しいらしいのですが、父も母も家紋を覚えておらずどこがルーツなのかはさっぱりわからない😂
自分の苗字で調べてみたけど
なんかすげぇ事わかったw
本家は高家大澤家って言う旧家で本姓が藤原で
徳川家に高家として代々使えていて
分家は普通の武士だったらしいね
俺の先祖はどっちかは知らんけどwww
自分も調べた事あるけど
今は北海道に住んでるけどルーツは福島県のいわき市だった。
梵が初見で読める人は仏教に携わる人以外では野球ファンが多い説
渡来し帰化した方々の通名がこの系譜の伝統を複雑化させてしまったが、とはいえ判りやすくもある。
初めて拝見しました!!
女性のナレーションの方、、
もしかしていつも遊女のお話ししてらっしゃるかた…!?
昔どうだろうが今が大事ですよね
子供の頃、先祖様の箱位牌の中から出てきた家系図には天保が一番古かった。それ以前は不明。
とは言うても自分の祖先は確実に農民なのは祖父母からの語りによりわかっているもののつい見てしまう
ウチは菅原道真の子孫で武士の家系だよ!って小さい頃から言われてたけど、菅原道真の子孫いっぱいいるらしい(笑)
去年の大河「鎌倉殿の13人」に出てたよ。畠山重忠の母系で・・・政宗の父輝宗に仕えて政宗と一緒に大坂夏の陣・冬もお供して仙台騒動後、分家になり500石になり今に至ってる。そのお墓があるお寺は平泉の奥州藤原氏の流れのお寺で岩手県史に名前を残し、岩出山城の時に奥州付近にも呼び掛けて・・・仙台についてきてる。荷が重い家です。全部調べたし国立博物館アーカイブにinしてまで遡った。
隣のアルツばぁちゃんが「私の息子は天皇陛下なのよ」と言ってました。
当然 ”菊の御紋” だそうです。
すごい詳しいですね👍
とある説に寄ると明治になって名字が義務化された時に書面に例として「佐藤」や「鈴木」が記載されていて、それで全国に佐藤さんや鈴木さんが多くなったとか笑
とても分かり易い、いい解説が聞けました!!
うちは越前藩(福井藩)の石高を支えてた村のお百姓さんです。苗字に村の名前を貰いました。村は今でも福井県の地区名として残っています😁、意外と珍名さんです!😄
ウチの苗字は加賀藩主を務めた人と同じで、
土地は越前少将 松平秀康公の藩内にあり、
家紋は下がり藤
わけがわからんw