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昭和の激動の時代を彩った偉人達のエピソードを渋い語り口でご教示頂きありがとうございます。この動画を見た後に、パルコや無印、西武百貨店に行くと気するものがあります。引き続き動画楽しみにしています。
清二さんが創ったカルチャーと次世代的なインパクトは子供だった自分にも斬新な広告戦略等はしっかり刻まれてます。
わかるなぁ😊
昭和から平成へ賭けて一代コンッエンルンとしてダイエー中内氏始め凄ましい流通業界でありましたね その中でも西武流通グループ 後のセゾングループ堤清二凄かっですね文化人であり作家辻井喬でもありましたね 事業は百貨店からスーパー西友へとパルコにロフト私が凄いと思ったのは百貨店とスーパーを両立して成功したのはセゾングループだけである 歴史に残らずとも記録に残りますね
西友は、今は西武グループ抜けてますね。※ファミリーマート事業開始したのは西友。
いつも良く調べてくださって、また味のある語り口で楽しく拝聴しています。今回は興味のある人だったので一層聴き応えがありました!ありがとうございました。いつか森稔氏のお話も聴いてみたいです。
ありがとうございます。森ビルの森稔さんですか、面白いですね。
今回も、楽しく見たよ!ありがとう
80年代後半、新米社会人としてグループ企業で働いていました。毎年夏になると各社幹部が詣でて行われた御前会議「サマーレビュー」が印象に残っています。1ヶ月前位から、管理部門を中心に通常業務そっちのけで資料作りに忙殺され、連日会社に泊まり込む人達も数多くいましたね。ある時、上司の指示で銀行で店頭振込しようとしたら、行員さんから「残高が無い」と言われて驚いた事もありました。海外ホテルチェーンだけでなく、志摩のリゾートや各地のゴルフ場開発など、そもそもずさん過ぎるプロジェクトが多く、非効率なペーパーワーク重視で労務コスト管理もおざなりだったと思います。
ありがとうございます!
誠にありがとうございます。
素晴らしい動画ありがとうございます。
今の渋谷が再開発でつまらない街になったのも、西武と東急がいい意味で切磋琢磨の競争していたのが、セゾングループの解体によってバランスが崩れたからだと思っています。公園通りがまだ区役所通りと言われてパルコもなかった頃から渋谷と原宿の間に住んでいますが、最近行くのは原宿ばかりです。
文化を消費に寄り添わせたとでも言ったらいいのか、、「無印」の中に残っていますよね。地方のコンビニの中にも浸透してマスもん。なんか、懐かしい感じのストーリーを聞かせていただきました😂
行って来い でしたね しかし偉人❗
清二氏逝去後10年ちょっと経ちますが、意外と清二氏は自分で育てた事業がないんですよね。清二氏は息子でセゾン現代美術館理事長・堤たか雄氏の思い出話などを突き合わせると、生粋の独裁者でもワンマン経営者とも言えないところが目立ちます。それは恐らく各社の経営上の汎用性を生み出したため、グループ解体後も所属グループを変えつつ西友やファミマ、ロフト、無印良品などが生き残っていることを思えば、それでよかったのかも知れません。東急の五島昇会長は清二・義明よりずっと年上で、清二とは東大同窓生の先輩後輩。それにもまして昇会長は清二氏、義明氏をいつも気にかけており、二人も何かに付け相談するぐらいだったと言われています。西武百貨店の渋谷進出も昇会長は大賛成で、裏事情(3名とも隠してないけど)を知ると競争が公正になされた場合の効果を思い知ることができますね。
自分が「口を出さなかった」会社は現在もあるが、旗を振った不動産ホテル金融は消滅、百貨店・西友は衰退している。セゾングループは何だったというという問いに「あれは実験だった」とのたまっていた。従業員は実験に使われていたのか。2兆円の負債を抱え、「私はたたきあげの商人です」とはたたきあげの商人に失礼。
@@真藤井-t8v 清二氏は自分が深く関与したことさえどこか他人事といった雰囲気があります。客観視できているといえばそうなんでしょうけど....
清二さんのアキレス腱はお金がなかったこと。不動産や日銭を稼ぐ鉄道といった企業を義明さんが握っていたから債務保証は義明さんが負うことになっていた。それを解消する意味で西武肥料の土地を企業ごと手切れ金として渡したが、清二さんはうまく生かせたとはいいがたい。ついでに言えば長男は康二という名前だったはずだけど、存命なのかね。
やっぱり自分は音楽好きだったので六本木WAVEが印象に残っています。
詩人 堤清二としては小椋佳のアルバムで知りました。
堤清二は東急の牙城渋谷に「ポップカルチャー」を引き下げて戦いを挑みましたが皮肉にも骨肉の戦いを繰り広げた弟堤義明国土計画の崩壊の煽りを受け呆気なく破れ去りました。しかし戦いには破れたものの企業による作られた「若者文化」と軽薄な若者は渋谷に遺されました
それぞれのグループから排斥されて全てを失った堤清二と中内功が、あれだけ敵視し戦っていたのに穏やかに会食していたというエピソードはなんだか色々感慨深いですね中内から堤に「2人でなにかやりませんか?」と持ちかけられたけど、堤は「いやいや、それは…」とやんわり断ったとか最晩年まで諦めきれない中内と、達観して枯れ切ってしまった堤の内心を伺わせてます
1988年に新卒で西武百貨店に入社し、1996年に退職しました。会長は雲の上の存在でした。案外と簡単に入社してしまったので、後になって当時は人気があった最先端グループで働いていたんだなと感じることが多く、この動画の感想とも一致します。その後、転職で2社を経験しましたが、西武百貨店の印象は、何でも会長に頼っていた会社、頭が悪い社員が多い会社、金持ち社員が多い会社、ワイワイしていた会社、給料が悪い会社など。でも、良い経験だったと思います。
給与は同業の中でも群を抜いて酷かった。飽きっぽい、企画書を書くのが上手な社員が出世、情実人事が横行していた会社だと貴方と同年代にいた社員から聞いたことがあります。
と言うか堤さんの言うことが絶対的で管理職を含め従業員は思考停止していたんだろう。新しいことはさせてもらえないから管理職は下からの意見も聞こうともしない風土になってしまった。だから彼が去った後は何も対応出来ず解体して沈んでいった。ただ西友のただのPBだった無印が独立して大きくなったのは数少ない成功例。
父への反逆は結構だけど、もらうもんは貰ったからね。それに色々やらかしては何回も弟さんにカバーしてもらった。二人の復縁に周囲が動いた時、弟さんが「だったら俺に土下座しろ!」と言ったらしい。
義明の気持ちは十分にわかる。辻井の「彷徨の季節の中」では義明の出生を世間に暴露したのだから。ある時清二が西武百貨店に父親の銅像を設置する話があった。「だれがこんな大変な状況のなかで指示を出したんだ」と息巻いた店長が「清二さんからの指示だ」という事で黙り込んだ。本当に清二は義明の跡継ぎになりたかったのだろう。
失礼、康次朗でした。後の社長の和田繁明やセゾンカードの竹内社長は康次郎に仕えたという強烈が自負があると聞いたことがあります。自分と年が近い幹部は康次郎を超えることができないと見ていたと思います
堤清二の作った会社 底流には 普通の生活の基本があるから離れがたい
素晴らしい内容と感服致します。それ故に一言。何故阪急百貨店なのに元の神戸そごう・現神戸阪急の写真を使うのでしょう?使うにしても梅田本店。しかも昔のものの写真を使えばよろしいのではありませんかね?そこが気になりました。😢
関西に行ったことがほとんどないんでしょう。また百貨店で買い物することもあまりないんじゃないでしょうか。
あんまり空言をいうんではない、俺は外商客なんだよな~お兄さん
経営統合した名残があって、たまたま掲載した。深い意味はないから気にしないでね。
ああ、馬鹿でしたか。
人生はドラマですね。反骨精神って身近な人間に起こる事が大半でそれによって起爆剤となり達成されて行くもんですね。
堤清二氏の自己否定は本質的に文化を理解出来なかった故とも感じます。文化なるものは畢竟、豊かな経済活動より栄養を貰わないと成立しないアダ花なのです。経済活動を発展させ続ける事こそ文化の育成につながることは理解して頂きたかったですね。現在の貧しい経済状況ではあらゆる文化事業が瘦せ細っていくばかりです。現在の一部富裕層(成金)はそんな事には頓着なく、今現在『評価の決まった高額商品』にばかり望外の金銭を投じ挙句その多くは紛い物ばかりです。*道楽で身上潰した者のグチ
堤清二が理解出来ないとしたら誰が理解出来ると言うのでしょう。
1980年代のバブル時代、無駄なことが多かったのは事実ですが、その後のIT・ネット文化の下地を作ったと私は思っています。
バブルで崩壊する
昭和の激動の時代を彩った偉人達のエピソードを渋い語り口でご教示頂きありがとうございます。この動画を見た後に、パルコや無印、西武百貨店に行くと気するものがあります。
引き続き動画楽しみにしています。
清二さんが創ったカルチャーと次世代的なインパクトは子供だった自分にも斬新な広告戦略等はしっかり刻まれてます。
わかるなぁ😊
昭和から平成へ賭けて一代コンッエンルンとしてダイエー中内氏始め凄ましい流通業界でありましたね その中でも西武流通グループ 後のセゾングループ堤清二凄かっですね文化人であり作家辻井喬でもありましたね 事業は百貨店からスーパー西友へとパルコにロフト私が凄いと思ったのは百貨店とスーパーを両立して成功したのはセゾングループだけである 歴史に残らずとも記録に残りますね
西友は、今は西武グループ抜けてますね。
※ファミリーマート事業開始したのは西友。
いつも良く調べてくださって、また味のある語り口で楽しく拝聴しています。
今回は興味のある人だったので一層聴き応えがありました!
ありがとうございました。
いつか森稔氏のお話も聴いてみたいです。
ありがとうございます。森ビルの森稔さんですか、面白いですね。
今回も、楽しく見たよ!ありがとう
80年代後半、新米社会人としてグループ企業で働いていました。毎年夏になると各社幹部が詣でて行われた御前会議「サマーレビュー」が印象に残っています。
1ヶ月前位から、管理部門を中心に通常業務そっちのけで資料作りに忙殺され、連日会社に泊まり込む人達も数多くいましたね。
ある時、上司の指示で銀行で店頭振込しようとしたら、行員さんから「残高が無い」と言われて驚いた事もありました。
海外ホテルチェーンだけでなく、志摩のリゾートや各地のゴルフ場開発など、そもそもずさん過ぎるプロジェクトが多く、非効率なペーパーワーク重視で労務コスト管理もおざなりだったと思います。
ありがとうございます!
誠にありがとうございます。
素晴らしい動画ありがとうございます。
今の渋谷が再開発でつまらない街になったのも、西武と東急がいい意味で切磋琢磨の競争していたのが、セゾングループの解体によってバランスが崩れたからだと思っています。公園通りがまだ区役所通りと言われてパルコもなかった頃から渋谷と原宿の間に住んでいますが、最近行くのは原宿ばかりです。
文化を消費に寄り添わせたとでも言ったらいいのか、、「無印」の中に残っていますよね。地方のコンビニの中にも浸透してマスもん。なんか、懐かしい感じのストーリーを聞かせていただきました😂
行って来い でしたね しかし偉人❗
清二氏逝去後10年ちょっと経ちますが、意外と清二氏は自分で育てた事業がないんですよね。
清二氏は息子でセゾン現代美術館理事長・堤たか雄氏の思い出話などを突き合わせると、生粋の独裁者でもワンマン経営者とも言えないところが目立ちます。
それは恐らく各社の経営上の汎用性を生み出したため、グループ解体後も所属グループを変えつつ西友やファミマ、ロフト、無印良品などが生き残っていることを思えば、それでよかったのかも知れません。
東急の五島昇会長は清二・義明よりずっと年上で、清二とは東大同窓生の先輩後輩。
それにもまして昇会長は清二氏、義明氏をいつも気にかけており、二人も何かに付け相談するぐらいだったと言われています。
西武百貨店の渋谷進出も昇会長は大賛成で、裏事情(3名とも隠してないけど)を知ると競争が公正になされた場合の効果を思い知ることができますね。
自分が「口を出さなかった」会社は現在もあるが、旗を振った不動産ホテル金融は消滅、百貨店・西友は衰退している。セゾングループは何だったというという問いに「あれは実験だった」とのたまっていた。従業員は実験に使われていたのか。2兆円の負債を抱え、「私はたたきあげの商人です」とはたたきあげの商人に失礼。
@@真藤井-t8v 清二氏は自分が深く関与したことさえどこか他人事といった雰囲気があります。
客観視できているといえばそうなんでしょうけど....
清二さんのアキレス腱はお金がなかったこと。不動産や日銭を稼ぐ鉄道といった企業を義明さんが握っていたから債務保証は義明さんが負うことになっていた。それを解消する意味で西武肥料の土地を企業ごと手切れ金として渡したが、清二さんはうまく生かせたとはいいがたい。ついでに言えば長男は康二という名前だったはずだけど、存命なのかね。
やっぱり自分は音楽好きだったので六本木WAVEが印象に残っています。
詩人 堤清二としては小椋佳のアルバムで知りました。
堤清二は東急の牙城渋谷に「ポップカルチャー」を引き下げて戦いを挑みましたが皮肉にも骨肉の戦いを繰り広げた弟堤義明国土計画の崩壊の煽りを受け呆気なく破れ去りました。しかし戦いには破れたものの企業による作られた「若者文化」と軽薄な若者は渋谷に遺されました
それぞれのグループから排斥されて全てを失った堤清二と中内功が、あれだけ敵視し戦っていたのに穏やかに会食していたというエピソードはなんだか色々感慨深いですね
中内から堤に「2人でなにかやりませんか?」と持ちかけられたけど、堤は「いやいや、それは…」とやんわり断ったとか
最晩年まで諦めきれない中内と、達観して枯れ切ってしまった堤の内心を伺わせてます
1988年に新卒で西武百貨店に入社し、1996年に退職しました。会長は雲の上の存在でした。案外と簡単に入社してしまったので、後になって当時は人気があった最先端グループで働いていたんだなと感じることが多く、この動画の感想とも一致します。その後、転職で2社を経験しましたが、西武百貨店の印象は、何でも会長に頼っていた会社、頭が悪い社員が多い会社、金持ち社員が多い会社、ワイワイしていた会社、給料が悪い会社など。でも、良い経験だったと思います。
給与は同業の中でも群を抜いて酷かった。飽きっぽい、企画書を書くのが上手な社員が出世、情実人事が横行していた会社だと貴方と同年代にいた社員から聞いたことがあります。
と言うか堤さんの言うことが絶対的で管理職を含め従業員は思考停止していたんだろう。新しいことはさせてもらえないから管理職は下からの意見も聞こうともしない風土になってしまった。だから彼が去った後は何も対応出来ず解体して沈んでいった。ただ西友のただのPBだった無印が独立して大きくなったのは数少ない成功例。
父への反逆は結構だけど、もらうもんは貰ったからね。それに色々やらかしては何回も弟さんにカバーしてもらった。二人の復縁に周囲が動いた時、弟さんが「だったら俺に土下座しろ!」と言ったらしい。
義明の気持ちは十分にわかる。辻井の「彷徨の季節の中」では義明の出生を世間に暴露したのだから。ある時清二が西武百貨店に父親の銅像を設置する話があった。「だれがこんな大変な状況のなかで指示を出したんだ」と息巻いた店長が「清二さんからの指示だ」という事で黙り込んだ。本当に清二は義明の跡継ぎになりたかったのだろう。
失礼、康次朗でした。後の社長の和田繁明やセゾンカードの竹内社長は康次郎に仕えたという強烈が自負があると聞いたことがあります。自分と年が近い幹部は康次郎を超えることができないと見ていたと思います
堤清二の作った会社 底流には 普通の生活の基本があるから離れがたい
素晴らしい内容と感服致します。それ故に一言。何故阪急百貨店なのに元の神戸そごう・現神戸阪急の写真を使うのでしょう?使うにしても梅田本店。しかも昔のものの写真を使えばよろしいのではありませんかね?そこが気になりました。😢
関西に行ったことがほとんどないんでしょう。また百貨店で買い物することもあまりないんじゃないでしょうか。
あんまり空言をいうんではない、俺は外商客なんだよな~お兄さん
経営統合した名残があって、たまたま掲載した。深い意味はないから気にしないでね。
ああ、馬鹿でしたか。
人生はドラマですね。反骨精神って身近な人間に起こる事が大半でそれによって起爆剤となり達成されて行くもんですね。
堤清二氏の自己否定は本質的に文化を理解出来なかった故とも感じます。文化なるものは畢竟、豊かな経済活動より栄養を貰わないと成立しないアダ花なのです。経済活動を発展させ続ける事こそ文化の育成につながることは理解して頂きたかったですね。現在の貧しい経済状況ではあらゆる文化事業が瘦せ細っていくばかりです。現在の一部富裕層(成金)はそんな事には頓着なく、今現在『評価の決まった高額商品』にばかり望外の金銭を投じ挙句その多くは紛い物ばかりです。*道楽で身上潰した者のグチ
堤清二が理解出来ないとしたら誰が理解出来ると言うのでしょう。
1980年代のバブル時代、無駄なことが多かったのは事実ですが、その後のIT・ネット文化の下地を作ったと私は思っています。
バブルで崩壊する