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関西住みです。東京出張のときに京成スカイライナーAE100形?(間違っていたらごめんなさい😅)に乗車した者です。成田空港から飛行機に乗るためです。車内快適でしたね!歴代の開運号で1600形がリクライニングシートなのに次世代の3150形がボックスシートにサービスダウンしたのはなぜでしょう?誰か教えて頂けないでしょうか?
開運号自体は1月の三が日や土日祝に走っていて座席も広くて今では珍しい自販機やカウンター付きで豪華で快適
懐かしいお話、ありがとうございます。昔、京成沿線⁽青砥⁾に住んでおりましたので、子供のころよく電車を見に行きました。その中に4両編成で中2両が銀色の編成がありました。何だったのでしょうね。もう60年近く前の話です。
もし成田に国際空港ができなかったら今も成田山に向けての特急だったんだろうな。
京阪ではプロ野球などのある時は民放も流していました。そのため、水曜夜にテレビカーに乗ると「とんねるずの生ダラ」をそのまま流してくれていたという事も。
関係はないが生ダラなつ杉ィ❤初期OPが公式が病気と言うほどエグい。(石橋と木梨がホ❌の真似をすると言うやつな)あれも流石にお偉方にキレられまくって止めたらしいが。あんなもの良く公共の電車で流す蛮勇が出来たと思う❤😂
どんなに出来が良くても大体予期せぬ不運がある京成特急車両。車両が吊り掛け式というのもあるけど、昭和30年代は都営浅草線乗り入れやそれに先立つ改軌が優先され、特急より通勤輸送を重視されたのも運が無かった。
確かに『AE100形』までは 何らかの不運に見舞われていましたね。この1600形の次の『開運号』の成れの果て 3200形の3298F(3200形なのに 幅広の片開きドアですぐ見分けられた)は 京成初のVVVF試験車となり そのデータがAE100形製造に反映されました。
@@toriri-service さん今の新AE1形もコロナ禍という不運(全ての鉄道会社共通と思うけど、とりわけ空港輸送という事情から)もありますなあ……3298編成、現役時代に乗った事ありましたが、片開き通勤車にVVVFというミスマッチな点が面白かったですね……初代AE1形も3400形に車体更新されたし、AE100形も何らかの流用を期待したけど使い道無かったのでしょう……
都営浅草線乗入れのために軌道の幅を広げる事業は良い時代に成し遂げたものと思います。その後の乗客急増時代では無理でしたね。しかし高度成長期になっても優等電車ですら4両、さらには国鉄の複々線化や地下鉄東西線の建設、多角経営の失敗で京成本体すら傾きかけた時代も。TDR、さらには成田スカイアクセスで他の大手に肩を並べ、さらには新京成を合併する時代が来るとは思いませんでした。
@@hisakounosuke2474さまAE100の廃車の頃ともなると京成電鉄の業績が大きく上向き、機器流用ではなく新3000シリーズの省エネ電車を大量に入れられる状況が出てきたことも影響しているのかと思います。
@@TSUYOS185 さん逆に京王は改軌を諦めましたね……
この車両を作ったのは成田輸送だけで無く今の東成田〜芝山鉄道経由で九十九里方面への輸送も視野に入れ、実現した暁には増結だけで無く増備、あるいは走行機器をカルダン駆動にした上で車体を全金属化した新車投入(1700系?)も考慮されていたそうです。
正月限定の「シティライナー成田山開運号」に、かつての栄華の名残を残すのみ。
まさかここから、成田空港の接続特急ができるとは、誰がおもったであろうか…。しかし京阪よりテレビカーが先とは…、日テレと京成恐るべし!!
1600形にリアルに乗った事はありませんがアルミ車体になった1600を真ん中に挟んだ青電行商専用車3両編成を東中山駅でよく見ていました。真ん中の車体が開運号の成れの果ての姿なのは知ってましたがそれより吊り掛け駆動の音が本線で聴けるのが素晴らしく発車まで東中山駅で待ってた(笑) 実は別の用事がありながら1600形見たさに1本早いバスに乗り東中山に行っていた当時中学生だった日曜日の朝の思い出です。
俺幼稚園児、青白青の3両編成の正体を今知りました
京成上野駅で見ました。当時の京成上野駅は薄暗く1600形が入線した時は室内塗装とシートカバーの白色が相まってあざやかでした!
@@鈴木隼人-h6s 目に浮かぶようです。
余談ですが京成は一時期読売ジャイアンツの筆頭株主だった事があります
初代AE車のデビュー時の塗色は1600形開運号のアレンジなんですよね。国鉄117系と鉄道省モハ52との関係に似て、やはり思い入れがあったのでしょうか。
@@クモハユ おっしゃる通り!
京成の塗色のこだわり。マルーンとクリーム=特急色(だから1500型も塗り替えた)、ファイヤーオレンジとクリームにミスティラベンダーの帯=赤電(地下鉄乗り入れ可能の証)経費節減でファイヤーオレンジにミスティラベンダーの帯に変更、緑のツートン=青電(地下鉄乗入不可、自動ブレーキ)但し経費節減で後年210型とその制御車も青電カラーから赤電カラーに変更
@@犬勘太 東の赤胴。なんか共通点が。。。
後の「スカイライナー」の土台であります。
谷津遊園の開運号は一度だけ中に入った記憶があるけど、運用されてたときの記憶は無いなぁむき出しのアルミ車はものすごい違和感もあったけど、なんか新しい感じがしてた3200形も平日は普通に使われてて各停で数駅とか乗った記憶がある…昭和40年代前半のお話
子どもの頃、更新後の1600形によく乗ったが、車内が他の赤電や青電と違って、壁面がクリーム色で座席のモケットが緑色だった記憶がある。当時は元特急車という来歴など知らず、青電に挟まれる銀色に青い細帯を巻いたヘンな電車だと思っていたな。
✴スター短命説は芸能界に限らず鉄道車輌も同じだった😭
護摩 開運 名前が激渋。カッコ良すぎる😮
目的地が成田山新勝寺だからですね。
日本初の『テレビカー』他にも動画の通りの豪華装備てんこ盛りだったのに ただひとつ『吊り掛け式』だったのが惜しかった。通勤型に更新された後のアルミ車体は 廃車後 宗吾参道構内にあった『大栄車輌』の倉庫として 90年代までその姿を見る事が出来ました。
@@toriri-service さんアルミ車体だから残したのだろうか。あれだけ大栄車輌更新車がいるのに何故か他社で更新された車両が残ったというのも……
@@hisakounosuke2474 さまそれ あると思います。90年代終わり頃 宗吾検車区横の道を通ったらまだ置いてありましたが 同じく倉庫として利用されていた元210形の廃車体が錆だらけだったのに対して 元1600形(1602号)は 苔だらけだったものの 状態は良かったです。調べてみたら『大栄車輌』ではなく 京成が倉庫として使っていたようで2006年まで存在していたようですが 京成は アルミ車体の耐久試験を25年も掛けてやったようなものでしたね。
意外と日本初が多い京成
戦前は 胃腸薬やハムの製造もしていました。
日本初のプロ野球球団である大日本東京野球倶楽部の創立時の筆頭株主は京成電気軌道でした。現在の読売ジャイアンツの前身です。野球興行に熱心だった正力松太郎氏はこの動画にあるように京成と親密な関係にありました。
日本初の地下鉄の相互直通運転とか、空港直通の特急の運行、全車カンダン化達成など、しれっと初めてが多いですよね。車輛とかは新しい技術は率先して入れてますし。社運を掛けて営業しながら改軌したり。
@@tmotchy93 たしか民鉄(地下鉄以外)で初めて山手線の内側に路線を敷いたのも京成が初めてでしたね。
@@tmotchy93 テレビカーもそうだが、改軌にしても伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受けたのを文字通り「災い転じて福となす」で名古屋線を改軌させた近鉄のイメージが強いんだよな>京成
1編成しかなかったことから信頼性を重視して新しい技術の導入は遠慮したのかもしれませんね。
タイムリーに京成バスの広告がついてます😂
「開運豪」子供の頃、成田山に行くときはよく乗ってました。定員制で料金が70円だったのを覚えています。帰りは浅草まで。浅草で夕飯べて帰るのが定番でした。
いい時代だったねー。
この豪華過ぎる車輌を造ったくせに、初代AE形の、余りにお粗末過ぎなシート。落差が激しい。
これがスカイライナーのご先祖ですか
京成の特急専用車は、初代AE形も成田空港の開港が遅れた関係もあって特急車として走った期間より通勤形の3400形となってからの方が長かったですね。こちらも車体は新製ですが車籍はつながった「改造車」扱いです。
1600形…昭和50年代にも谷津遊園にまだあった様な…トイレは悲惨過ぎて使えませんでした
一般車格下げ&車体載せ替えで余剰になった旧車体。この内先頭車2両は会社手持ちの旧型台車に履きかえ、ほぼそのまま谷津遊園の休憩所になっていました。つい最近迄現役の特急車が保存された為、当時は話題になるも屋外での展示故に車体の痛みが進行し、1973年までに両者共解体されてしまいました。残る中間車1603の旧車体も、職員の詰所→倉庫として使われるも短期間で処分。それからまもなく更新後の1601や1603も廃車と、1600形は不運に翻弄された印象が強く感じられます。
“湘南型”全盛の時代でしたね。そっくりさんの東武の“猫ひげ”こと5700系(東武博物館に復元保存)も、この時代。結局、非貫通車は取り扱いが面倒なので東武5700は貫通化改造され、京成1600は半鋼製車体と釣掛駆動という古めかしい構造と1編成だけという少数派が災いして引退に追い込まれてしまいました。
投稿お疲れ様です京成が車内にテレビ付けるのが京阪より先だったとは以外ですねあとリクエストで初のローレル章の阪急2300系でお願いしますm(__)m
電子頭脳車の『オートカー』ですね。
本編でも触れてますが1600形はTVだけでなく喫茶コーナーもありました。京阪、小田急よりも先だったということです。因みに既に廃刊になっていると思いますが保育社発行「日本の私鉄15 京成」の中にもこの事に触れています。
@@藤原康雄-k5wさん喫茶コーナーは小田急もほぼ同時期テレビは放送自体関東が先だったからね
1600系亡き後はぼったくり特急になり下がったか。❓😭😭😭😭😭
13:46 鉄道マニアだ、ありがたい。
京成の線形や上野~成田間の距離を考えると、上はチートでも足回りは旧来の吊り掛け駆動で充分に速達性のある特急の運用に使えたので、割り切って迅速に投入することを選択したのではないかと思います。同じようにカーブが多く、そこまで長距離ではない京阪間で運用する京阪が足回りも刷新した1800形を同じ年に投入しているし、京成も5年後には初の抵抗制御であるばかりか地下鉄直通規格まで満たす3000形を出していることを考えると、勿体なかったという思いを感じます。それでも1500形の再改修と1600形の新製で成田特急をとにかく走らせようとしたのだから、今では考えられないくらいに成田山新勝寺への参拝が観光として人気だったんでしょうね。後年、私も京成船橋や成田街道の踏切での京成電車見物が一番の楽しみだった幼稚園時代、忘れたころにやってくる銀色の不思議な車両を挟んだ3両編成が「荷」の札を掲げているのを「なんだろう?」と思いながら眺めていたのを覚えています
特急車時代は多段ノッチの主制御器に載せ替える事も検討したらしいですが、停車駅が少なく発進停止の回数が少ないので手持ちの9ノッチの主制御器を使ったとの事です。
「1600形」と着く車は割と不遇な傾向になりやすいのだろうかな…名鉄にも同じ名前の車が居たが、不遇だったなぁ…(1700形のほうが某ドゥワァで知名度が上がったのは救いだろうか)
1600形が1編成しかなかったのは初耳ですね豪華設備とはいえ量産してほしかったですね
1600形が走ってるのを一度だけ見ましたな。従姉妹の家の最寄り駅志津を通過していきました貫通扉付きの妻面ばかりの京成で、湘南顔でしかも前パン、光の当たり具合か紫とも茶ともつかない何とも不思議なカラーリングで「開運」の前サボ強烈な印象でした次に見た「開運」号は、赤電に変わっていました
こんばんは!京成1600形はリクライニングシートでしたよね。当時としては豪華でした。そう!テレビもあった!カルダンドライブは700形まで待たなくてはなりませんでしたが。見ごたえありました。近鉄の新型8A系の性能を推測した動画をアップしていますので皆様とよろしければご覧下さい。お疲れ様でした。(*^^*)
関係あるような無いような。。。。。相直規定があるので京成は1000番台がつけられないんだったっけ。なので、1000番代の二代目車は出てこないと。
更新後の車両ってアルミだったのかな。青電+銀+銀+青電で違和感アリアリ。よく乗ってましたがね。
私が物心ついて日々通園時に踏切で電車見物をしていた昭和50年代前半は、荷電専業で使われていましたよ。青電2両の間に銀色が挟み込まれていたと記憶しており、なんで同じ銀色の3500系みたいに特急や急行じゃなくて青電と一緒なのかって疑問を抱いて眺めていました
更新車はアルミですね。クハ1601とモハ1602、特に1601はだれがどう見てもサハだけど車体表記はクハ。余談でこのころだとクハ2110、2111とクハ2201、2202が外見サハだけどクハで更新されてます。私鉄電車のアルバムで新京成移籍後の2100、2200の説明で新京成はサハでもクハと呼んだという説明がされてたような?
厳密には1959年12月の京成全線の標準軌改軌工事終了後のCMソングですが、成田空港反対運動が過激化するまで使われたCMソングなので1600形開運号にはピッタリかと思います。ruclips.net/video/vdw6q1a4bHs/видео.htmlsi=iVphVBVqukF0SAi8余談ですが1979年の京成電鉄直営の遊園地 谷津遊園閉園時には、園内にCMソング「ぐんぐん京成」がエンドレスで放送されていたのを思い出されます。動画についてですが1603号アルミ車体改造車は1970年代の日中にはたまに東中山駅の成田側引上げ線で休息していたのを目撃していた京成船橋駅利用者です。
間違えて同じ内容の書き込みを2度投稿してしまいました 最初は不適切な内容が書き込まれておりますので お手数で申し訳ございませんが 削除してください。今後 厳重に注意しますのでどうかお許しください。又この事を心より謝罪します。どうもすいませんでした。又新たな動画 期待しております。
格下げ更新でいろいろ逆になった形式。先頭車は中間車に中間車は先頭車に、モハはクハにクハはモハに。動画で更新後の1603がモハになってるけどクハですね。更新間もないので新京成に行くプランもあったようですがあちらではクハ(クハ2000やサハ1100)が十分にあったのでそれは夢と消えましたが。余談で動画で出てくる1500も似たような末路でしたね。全く違うスタイルの車体になって新京成へ行ってさらに更新されて250形(第2編成)に。これも新造された第1編成とは逆にクハ550を先頭にモハ250を2両挟むスタイル、要は京成の210更新車と同じですね。最後は運転台やモハのパンタを撤去されて自走も先頭に出ることも不可能な状態になりエンド。
当時、千葉在住で幼稚園〜小学校低学年だった小生は、“青電”の中間に銀色の車両が入った4両編成をしばしば見ましたが、その中間車が「開運号」の成れの果てである、と知ったのは、かなり後のことでした。ちなみに谷津遊園に保存・展示されていた車体が数年で解体・撤去されたのは、同園は目の前が海で、その中でも海に近い場所に車体が展示されていたので、腐食が早く進んだからではないでしょうか?
海から遠く離れた東武動物公園にも引退した東武73型が静態保存されていましたが最後は赤錆だらけの無残な姿でした。鉄道車両、特に普通鋼車体は定期的なメンテナンスを受けないとあっという間に朽ち果ててしまうようです。
京成1600形良き迫真の匠最高
3:15 ワッカ構文ですね!
1600形開運号が登場するのが後2〜3年遅かったらカルダン駆動+全金属車体で登場し更に後から冷房改造が施され短命で終わらずに最低でも20年以上は使われていたかもしれないですね!
関西住みです。東京出張のときに京成スカイライナーAE100形?(間違っていたらごめんなさい😅)に乗車した者です。成田空港から飛行機に乗るためです。車内快適でしたね!
歴代の開運号で1600形がリクライニングシートなのに次世代の3150形がボックスシートにサービスダウンしたのはなぜでしょう?誰か教えて頂けないでしょうか?
開運号自体は1月の三が日や土日祝に走っていて座席も広くて今では珍しい自販機やカウンター付きで豪華で快適
懐かしいお話、ありがとうございます。昔、京成沿線⁽青砥⁾に住んでおりましたので、子供のころよく電車を見に行きました。
その中に4両編成で中2両が銀色の編成がありました。何だったのでしょうね。もう60年近く前の話です。
もし成田に国際空港ができなかったら今も成田山に向けての特急だったんだろうな。
京阪ではプロ野球などのある時は民放も流していました。
そのため、水曜夜にテレビカーに乗ると「とんねるずの生ダラ」をそのまま流してくれていたという事も。
関係はないが生ダラなつ杉ィ❤
初期OPが公式が病気と言うほどエグい。(石橋と木梨がホ❌の真似をすると言うやつな)
あれも流石にお偉方にキレられまくって止めたらしいが。あんなもの良く公共の電車で流す蛮勇が出来たと思う❤😂
どんなに出来が良くても
大体予期せぬ不運がある京成特急車両。車両が吊り掛け式というのもあるけど、昭和30年代は都営浅草線乗り入れやそれに先立つ改軌が優先され、特急より通勤輸送を重視されたのも運が無かった。
確かに『AE100形』までは 何らかの不運に見舞われていましたね。
この1600形の次の『開運号』の成れの果て 3200形の3298F(3200形なのに 幅広の片開きドアですぐ見分けられた)は 京成初のVVVF試験車となり そのデータがAE100形製造に反映されました。
@@toriri-service さん
今の新AE1形もコロナ禍という不運(全ての鉄道会社共通と思うけど、とりわけ空港輸送という事情から)もありますなあ……
3298編成、現役時代に乗った事ありましたが、片開き通勤車にVVVFというミスマッチな点が面白かったですね……
初代AE1形も3400形に車体更新されたし、AE100形も何らかの流用を期待したけど使い道無かったのでしょう……
都営浅草線乗入れのために軌道の幅を広げる事業は良い時代に成し遂げたものと思います。その後の乗客急増時代では無理でしたね。
しかし高度成長期になっても優等電車ですら4両、さらには国鉄の複々線化や地下鉄東西線の建設、多角経営の失敗で京成本体すら傾きかけた時代も。
TDR、さらには成田スカイアクセスで他の大手に肩を並べ、さらには新京成を合併する時代が来るとは思いませんでした。
@@hisakounosuke2474さま
AE100の廃車の頃ともなると京成電鉄の業績が大きく上向き、機器流用ではなく新3000シリーズの省エネ電車を大量に入れられる状況が出てきたことも影響しているのかと思います。
@@TSUYOS185 さん
逆に京王は改軌を諦めましたね……
この車両を作ったのは成田輸送だけで無く
今の東成田〜芝山鉄道経由で九十九里方面への輸送も視野に入れ、実現した暁には増結だけで無く増備、あるいは走行機器をカルダン駆動にした上で車体を全金属化した新車投入(1700系?)も考慮されていたそうです。
正月限定の「シティライナー成田山開運号」に、かつての栄華の名残を残すのみ。
まさかここから、成田空港の接続特急ができるとは、誰がおもったであろうか…。しかし京阪よりテレビカーが先とは…、日テレと京成恐るべし!!
1600形にリアルに乗った事はありませんがアルミ車体になった1600を真ん中に挟んだ青電行商専用車3両編成を東中山駅でよく見ていました。真ん中の車体が開運号の成れの果ての姿なのは知ってましたがそれより吊り掛け駆動の音が本線で聴けるのが素晴らしく発車まで東中山駅で待ってた(笑)
実は別の用事がありながら1600形見たさに1本早いバスに乗り東中山に行っていた当時中学生だった日曜日の朝の思い出です。
俺幼稚園児、青白青の3両編成の正体を今知りました
京成上野駅で見ました。当時の京成上野駅は薄暗く1600形が入線した時は室内塗装とシートカバーの白色が相まってあざやかでした!
@@鈴木隼人-h6s 目に浮かぶようです。
余談ですが京成は一時期読売ジャイアンツの筆頭株主だった事があります
初代AE車のデビュー時の塗色は1600形開運号のアレンジなんですよね。国鉄117系と鉄道省モハ52との関係に似て、やはり思い入れがあったのでしょうか。
@@クモハユ おっしゃる通り!
京成の塗色のこだわり。マルーンとクリーム=特急色(だから1500型も塗り替えた)、ファイヤーオレンジとクリームにミスティラベンダーの帯=赤電(地下鉄乗り入れ可能の証)経費節減でファイヤーオレンジにミスティラベンダーの帯に変更、緑のツートン=青電(地下鉄乗入不可、自動ブレーキ)但し経費節減で後年210型とその制御車も青電カラーから赤電カラーに変更
@@犬勘太 東の赤胴。なんか共通点が。。。
後の「スカイライナー」の土台であります。
谷津遊園の開運号は一度だけ中に入った記憶があるけど、運用されてたときの記憶は無いなぁ
むき出しのアルミ車はものすごい違和感もあったけど、なんか新しい感じがしてた
3200形も平日は普通に使われてて各停で数駅とか乗った記憶がある…昭和40年代前半のお話
子どもの頃、更新後の1600形によく乗ったが、車内が他の赤電や青電と違って、壁面がクリーム色で座席のモケットが緑色だった記憶がある。当時は元特急車という来歴など知らず、青電に挟まれる銀色に青い細帯を巻いたヘンな電車だと思っていたな。
✴スター短命説は芸能界に限らず鉄道車輌も同じだった😭
護摩 開運 名前が激渋。カッコ良すぎる😮
目的地が成田山新勝寺だからですね。
日本初の『テレビカー』
他にも動画の通りの豪華装備てんこ盛りだったのに ただひとつ『吊り掛け式』だったのが惜しかった。
通勤型に更新された後のアルミ車体は 廃車後 宗吾参道構内にあった『大栄車輌』の倉庫として 90年代までその姿を見る事が出来ました。
@@toriri-service さん
アルミ車体だから残したのだろうか。
あれだけ大栄車輌更新車がいるのに
何故か他社で更新された車両が残ったというのも……
@@hisakounosuke2474 さま
それ あると思います。
90年代終わり頃 宗吾検車区横の道を通ったらまだ置いてありましたが 同じく倉庫として利用されていた元210形の廃車体が錆だらけだったのに対して 元1600形(1602号)は 苔だらけだったものの 状態は良かったです。
調べてみたら『大栄車輌』ではなく 京成が倉庫として使っていたようで2006年まで存在していたようですが 京成は アルミ車体の耐久試験を25年も掛けてやったようなものでしたね。
意外と日本初が多い京成
戦前は 胃腸薬やハムの製造もしていました。
日本初のプロ野球球団である大日本東京野球倶楽部の創立時の筆頭株主は京成電気軌道でした。現在の読売ジャイアンツの前身です。野球興行に熱心だった正力松太郎氏はこの動画にあるように京成と親密な関係にありました。
日本初の地下鉄の相互直通運転とか、空港直通の特急の運行、全車カンダン化達成など、しれっと初めてが多いですよね。車輛とかは新しい技術は率先して入れてますし。社運を掛けて営業しながら改軌したり。
@@tmotchy93 たしか民鉄(地下鉄以外)で初めて山手線の内側に路線を敷いたのも京成が初めてでしたね。
@@tmotchy93 テレビカーもそうだが、改軌にしても伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受けたのを文字通り「災い転じて福となす」で名古屋線を改軌させた近鉄のイメージが強いんだよな>京成
1編成しかなかったことから信頼性を重視して新しい技術の導入は遠慮したのかもしれませんね。
タイムリーに京成バスの広告がついてます😂
「開運豪」子供の頃、成田山に行くときはよく乗ってました。定員制で料金が70円だったのを覚えています。帰りは浅草まで。浅草で夕飯べて帰るのが定番でした。
いい時代だったねー。
この豪華過ぎる車輌を造ったくせに、初代AE形の、余りにお粗末過ぎなシート。落差が激しい。
これがスカイライナーのご先祖ですか
京成の特急専用車は、初代AE形も成田空港の開港が遅れた関係もあって特急車として走った期間より通勤形の3400形となってからの方が長かったですね。こちらも車体は新製ですが車籍はつながった「改造車」扱いです。
1600形…昭和50年代にも谷津遊園にまだあった様な…トイレは悲惨過ぎて使えませんでした
一般車格下げ&車体載せ替えで余剰になった旧車体。
この内先頭車2両は会社手持ちの旧型台車に履きかえ、ほぼそのまま谷津遊園の休憩所になっていました。
つい最近迄現役の特急車が保存された為、当時は話題になるも屋外での展示故に車体の痛みが進行し、1973年までに両者共解体されてしまいました。
残る中間車1603の旧車体も、職員の詰所→倉庫として使われるも短期間で処分。
それからまもなく更新後の1601や1603も廃車と、1600形は不運に翻弄された印象が強く感じられます。
“湘南型”全盛の時代でしたね。そっくりさんの東武の“猫ひげ”こと5700系(東武博物館に復元保存)も、この時代。
結局、非貫通車は取り扱いが面倒なので東武5700は貫通化改造され、京成1600は半鋼製車体と釣掛駆動という古めかしい構造と1編成だけという少数派が災いして引退に追い込まれてしまいました。
投稿お疲れ様です
京成が車内にテレビ付けるのが京阪より先だったとは以外ですね
あとリクエストで初のローレル章の阪急2300系でお願いしますm(__)m
電子頭脳車の『オートカー』ですね。
本編でも触れてますが1600形はTVだけでなく喫茶コーナーもありました。
京阪、小田急よりも先だったということです。
因みに既に廃刊になっていると思いますが保育社発行「日本の私鉄15 京成」の
中にもこの事に触れています。
@@藤原康雄-k5wさん
喫茶コーナーは小田急もほぼ同時期
テレビは放送自体関東が先だったからね
1600系亡き後はぼったくり特急になり下がったか。❓😭😭😭😭😭
13:46 鉄道マニアだ、ありがたい。
京成の線形や上野~成田間の距離を考えると、上はチートでも足回りは旧来の吊り掛け駆動で充分に速達性のある特急の運用に使えたので、割り切って迅速に投入することを選択したのではないかと思います。同じようにカーブが多く、そこまで長距離ではない京阪間で運用する京阪が足回りも刷新した1800形を同じ年に投入しているし、京成も5年後には初の抵抗制御であるばかりか地下鉄直通規格まで満たす3000形を出していることを考えると、勿体なかったという思いを感じます。それでも1500形の再改修と1600形の新製で成田特急をとにかく走らせようとしたのだから、今では考えられないくらいに成田山新勝寺への参拝が観光として人気だったんでしょうね。後年、私も京成船橋や成田街道の踏切での京成電車見物が一番の楽しみだった幼稚園時代、忘れたころにやってくる銀色の不思議な車両を挟んだ3両編成が「荷」の札を掲げているのを「なんだろう?」と思いながら眺めていたのを覚えています
特急車時代は多段ノッチの主制御器に載せ替える事も検討したらしいですが、停車駅が少なく発進停止の回数が少ないので手持ちの9ノッチの主制御器を使ったとの事です。
「1600形」と着く車は割と不遇な傾向になりやすいのだろうかな…
名鉄にも同じ名前の車が居たが、不遇だったなぁ…(1700形のほうが某ドゥワァで知名度が上がったのは救いだろうか)
1600形が1編成しかなかったのは初耳ですね
豪華設備とはいえ量産してほしかったですね
1600形が走ってるのを一度だけ見ましたな。従姉妹の家の最寄り駅志津を通過していきました
貫通扉付きの妻面ばかりの京成で、湘南顔でしかも前パン、光の当たり具合か紫とも茶ともつかない何とも不思議なカラーリングで「開運」の前サボ
強烈な印象でした
次に見た「開運」号は、赤電に変わっていました
こんばんは!京成1600形はリクライニングシートでしたよね。当時としては豪華でした。そう!テレビもあった!カルダンドライブは700形まで待たなくてはなりませんでしたが。見ごたえありました。近鉄の新型8A系の性能を推測した動画をアップしていますので皆様とよろしければご覧下さい。お疲れ様でした。(*^^*)
関係あるような無いような。。。。。相直規定があるので京成は1000番台がつけられないんだったっけ。
なので、1000番代の二代目車は出てこないと。
更新後の車両ってアルミだったのかな。
青電+銀+銀+青電で違和感アリアリ。
よく乗ってましたがね。
私が物心ついて日々通園時に踏切で電車見物をしていた昭和50年代前半は、荷電専業で使われていましたよ。青電2両の間に銀色が挟み込まれていたと記憶しており、なんで同じ銀色の3500系みたいに特急や急行じゃなくて青電と一緒なのかって疑問を抱いて眺めていました
更新車はアルミですね。
クハ1601とモハ1602、特に1601はだれがどう見てもサハだけど車体表記はクハ。
余談でこのころだとクハ2110、2111とクハ2201、2202が外見サハだけどクハで更新されてます。
私鉄電車のアルバムで新京成移籍後の2100、2200の説明で新京成はサハでもクハと呼んだという説明がされてたような?
厳密には1959年12月の京成全線の標準軌改軌工事終了後のCMソングですが、成田空港反対運動が過激化するまで使われたCMソングなので1600形開運号にはピッタリかと思います。
ruclips.net/video/vdw6q1a4bHs/видео.htmlsi=iVphVBVqukF0SAi8
余談ですが1979年の京成電鉄直営の遊園地 谷津遊園閉園時には、園内にCMソング「ぐんぐん京成」がエンドレスで放送されていたのを思い出されます。
動画についてですが1603号アルミ車体改造車は1970年代の日中にはたまに東中山駅の成田側引上げ線で休息していたのを目撃していた京成船橋駅利用者です。
間違えて同じ内容の書き込みを2度投稿してしまいました 最初は不適切な内容が書き込まれておりますので お手数で申し訳ございませんが 削除してください。今後 厳重に注意しますのでどうかお許しください。又この事を心より謝罪します。どうもすいませんでした。又新たな動画 期待しております。
格下げ更新でいろいろ逆になった形式。
先頭車は中間車に中間車は先頭車に、モハはクハにクハはモハに。
動画で更新後の1603がモハになってるけどクハですね。
更新間もないので新京成に行くプランもあったようですがあちらではクハ(クハ2000やサハ1100)が十分にあったのでそれは夢と消えましたが。
余談で動画で出てくる1500も似たような末路でしたね。
全く違うスタイルの車体になって新京成へ行ってさらに更新されて250形(第2編成)に。
これも新造された第1編成とは逆にクハ550を先頭にモハ250を2両挟むスタイル、要は京成の210更新車と同じですね。
最後は運転台やモハのパンタを撤去されて自走も先頭に出ることも不可能な状態になりエンド。
当時、千葉在住で幼稚園〜小学校低学年だった小生は、“青電”の中間に銀色の車両が入った4両編成をしばしば見ましたが、その中間車が「開運号」の成れの果てである、と知ったのは、かなり後のことでした。
ちなみに谷津遊園に保存・展示されていた車体が数年で解体・撤去されたのは、同園は目の前が海で、その中でも海に近い場所に車体が展示されていたので、腐食が早く進んだからではないでしょうか?
海から遠く離れた東武動物公園にも引退した東武73型が静態保存されていましたが最後は赤錆だらけの無残な姿でした。鉄道車両、特に普通鋼車体は定期的なメンテナンスを受けないとあっという間に朽ち果ててしまうようです。
京成1600形良き
迫真の匠最高
3:15 ワッカ構文ですね!
1600形開運号が登場するのが後2〜3年遅かったらカルダン駆動+全金属車体で登場し更に後から冷房改造が施され短命で終わらずに最低でも20年以上は使われていたかもしれないですね!