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天目一神社のある辺りが高志かと思ってました‼️吉野川をまたいでもっと広かった✨のですね❗知らなかったです❕!☝️ありがとう😉👍️🎶ございました‼️
高志自体が昔、吉野川(旧名は「フルカワ」の洪水で南北に分断されて、北側だけ高志の地名が残ったようです。沼川比売の古墳は移動してないので、明らかに吉野川南岸も昔は高志の地名があったということになります。
私が参拝したのは富山県魚津市の諏訪神社以外では、神奈川県藤沢市片瀬の諏訪神社と新潟県新発田市の諏訪神社です。前者は723年(養老7年)、後者は古く648年(大化4年)に信濃国諏訪大社から武御名方神を勧請しています。多祁御奈刀弥神社が信濃国諏訪大社から武御名方神を勧請した779年前後は、信濃国諏訪大社から武御名方神を勧請した神社が全国的に集中しており諏訪ブームだったのでしょう。
私は❕☝️高志(たかし)が自然と思います❕また、古事記に、、、~我が立たせれば引こづらひ(引こづる)阿波弁(笑)親しみが有りますよね‼️両親も近くに居て❕配信ありがと😉👍️🎶うございました!👍️
式内社である、御間都比古神社、八桙神社、祁御奈刀禰は全て「長国エリアにあり」全て「出雲系の」長国国造を祀る神社で、成務期に任命更に後年の任命の粟国造とは別系統という事で流れが始まっています。国造の系譜に、タケミナトネという人物が出てきます。トネは、女性酋長に対応する男性版で、トネといいます。つまり、国造家のタケミナさんを祀る神社だったという事です。この事代主系の出雲族と言うのは、ナガスネヒコ伝承からして安倍族の可能性があります。(阿府志)延喜式最古の写本である九条本には、タケミナトネとで出ています。弥ではなく祢という字なんですね。ただ、途中で諏訪神社化したのは事実の様です。まず、当神社には対になる神社が存在し、そこには事代主が祀られます。当神社は東の宮ともいわれており、西宮が存在します。あの神社からは更に佐古山に神社が分かれています。その神社は、「諏方社」となっており、佐古山諏訪神社が出来た頃には既に諏方化していたようです。で、この分祀した諏方社がとても流行った様で、佐古山諏方社に対して元諏訪と書いた可能性の方が高いのだそうです。参考:式内社研究会「式内社調査報告 南海道」の「阿波国名方郡」諏訪化した事に関する事柄ですが、諏方明神の御子神である出早雄命系の子孫が静岡などの県外に行った形跡が見られます。もしかしたら出早雄命は、それにちなんだ名前かもしれません。その守屋神長官家のタマルヒメと、出早雄の系譜にタケミナ別神が出てきます。(會津比賣神の系譜)他の方が言及されている様に、国司などが赴任してきた場合、いきなり入植の様に勝手に神様を持ってこれませんので、先代から引きついだ国造廃止→国司の領域になった際に、タケミナトネの神社に後任の国司の家の神様を祀る事になったのではないでしょうか?神紋は「違い鎌」で徳島にしかほとんど存在していません。(京都に一つだけあるらしい)諏訪梶にはなっていないので、逆に諏訪信仰は外部から持ち込まれた可能性の方が高いです。
いいね。
信濃国諏訪郡南方刀美神社(諏訪大社)には 『孝徳天皇八年(六五二)一二月、 勅使が遣わされて、綿一○○把が奉献され、持統天皇五 年(六九一)八月にも勅使が遣わされた。』とあり、宝亀10年(七七九)に阿波から勧請などと言うのは無理。
大変失礼しました。「宝亀10年(七七九)に阿波から勧請」というのはちょっと問題でしたね。『孝徳天皇八年(六五二)一二月、 勅使が遣わされて、綿一○○把が奉献され』というのは日本書紀には記録はありません。 白雉三年(652年)と思いますが、著名神社への祭神の行事は大体例年行われているので記載なくてもおかしくはないですが。日本書紀「持統天皇五 年(六九一)八月には「八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。辛酉(二十三日)、遣使者祭龍田風神・信濃須波・水內等神。」とあり、信濃諏訪神社等の神を祭らせたという記録があります。「宝亀10年(七七九)に阿波から勧請」という記録は多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の由緒書きに記載があったのと、その地域の超有名古代史ブロガーさんの記事にもあったので、ついつい私自身の検証をさぼってそのままアップしました。すみません。神社の由緒書きも、100%信頼はできないということですね。「~という説もあり」とうまくぼかしていますが、徳島神社庁の資料もそうですが、一般的に紀元700年以前の事跡については殆ど年代を明記していません。有名神社の宮司さんも、目先の祭事はまめにしても、古代史に詳しい人は非常にまれです。 諏訪大社については、阿波から勧進したのは紀元0年~500年以前のどこかではないかと思います。阿波から勧進する前にも、紀元前数百年来の別の歴史があり、古代ユダヤの絡みも指摘されています。祭神はモリヤ山です。スワ神社の前に別の「何々神社」があったと思われます。もと駐日イスラエル大使(ユダヤの氏族の中では最高位のレビ族の系譜)も何度か諏訪大社を訪れています。RUclipsでも検索できると思います。
阿波が諏訪神社の元宮と云うのは無理筋通常ならみんなそう思う固くなに阿波元宮説を語るが歴史が証明している
コシという地名に高志という字を充てたと思われるので、タカシをコシと読み間違えたというのは考えずらいのでは無いでしょうか。出雲風土記では古志と記されております。ちなみに新潟にも高志や古志という地名、沼河比売の事跡もいくつかありますよ。
新潟の状況については詳しくは知りませんが下記について客観的な伝承とか古文書がありますでしょうか?>コシという地名に高志という字を充てたと思われるのでまた沼河比賣の事績もどんなものがあるか教えて頂ければ有り難いです。阿波徳島には沼河比売の古墳、沼河比売を祀った「関の大神宮」(現在は関の八幡神社)があり、両親の天水沼間比古(アメノミヌマヒコ)、天水塞比売(アメノミズゼキヒメ)も祀られています。ここの地名は高足郷(多加之)で現在も高志小学校とかの地名で残っています。沼河比賣の子ども、建御名方(タケミナカタ)神を祀る「諏訪神社」「多祁御奈刀弥神社」も近くにあり、長野の諏訪大社の元宮となっております。沼河比賣の夫の大己貴命(大国主命)の陵墓も徳島にあります。(勝占神社)新潟にもこれらに相当する神社がすべてあるのでしょうか?ありましたらお教え頂ければ大変有り難いです。二千年近く前ですので交通機関はあるはずも無く、それらの遺跡、事績があるとすれば徒歩圏内ですべてあるはずと思います。
@@takaokamm 恐れ入ります。ご丁寧にお返事ありがとうございます。沼河比売 奴奈川姫に関しましては検索して頂けますと新潟、島根、長野等の事績しか逆に出てきませんので、私の拙い説明よりも検索していただいた方が早いかもしれません…日本に漢字はなかったので、コシという地名(響き)に古志、高志、越という漢字を後に当てたのではないかと想像しました。そのため記録によって漢字はバラバラ。しかし読みは全てコシ古志や越はタカシとは読めません。逆にぜひご教授頂きたい点がいくつかあるのですが1 徳島にある沼河比売の古墳というのは何時代の墳墓なのでしょうか?2 関の大神宮についても調べたのですが、沼河比売を祀っていた様子が伺えないのですが、今も今までもお祀りされているのでしょうか?3 天水沼間比古 天水塞比売(水の神様?)が沼河比売の両親というのは阿波独自の伝承かと思うのですが、出典はどちらになりますでしょうか?4多祁御奈刀弥神社が諏訪大社の元宮というのは諏訪大社側からも肯定されている事なのでしょうか?以上もしお分かりでしたらご教授して頂けましたら幸いです。日本の神話を何を持ってして二千年近く前と固定するのかわからないのですが、島根、新潟、長野には古代から交流があった痕跡がいくつかあり、糸魚川の翡翠も縄文時代には日本各地に伝播しているため、交通機関云々で全ての日本神話が徳島内に収まっていないと辻褄が合わないというのは違和感を覚えます。
>1 徳島にある沼河比売の古墳というのは何時代の墳墓なのでしょうか? 紀元5,6世紀以前は年代記録がないので、各事象と前後関係をつないで推測するしかありません。古事記に八矛神(大国主とは書いてない)が沼河比売を娶り、その子が建御名方神」とありますので、大国主と沼河比賣と建御名方神は同じ年代です。大国主は須佐之男命の子で在り、天照大御神の五人の皇子と同世代です。この世代の数字的年代特定は誰もできていません。(年代記録がない為)少なくとも天照大御神=卑弥呼というのが当地のNPO古代史研究会の見解で在り、そうすると沼河比賣は紀元250年頃と推定されます。 Wikipedia で古墳時代というのは紀元250~538年とあるので、つまり古墳時代黎明期と思われます。>2 関の大神宮についても調べたのですが、沼河比売を祀っていた様子が伺えないのです>が、今も今までもお祀りされているのでしょうか? 関の大神宮は現在は残ってないようですが、現在は石井町高原字関の八幡神社に祀られています。>3 天水沼間比古 天水塞比売(水の神様?)が沼河比売の両親というのは阿波独自の伝承>かと思うのですが、出典はどちらになりますでしょうか?両親のまた沼河比賣の両親、天水沼間比古(アメノミヌマヒコ)神社、天水塞比売(アメノミズゼキヒメ)は石井町の杉尾神社に祀られていましたが、現在は鴨島町の敷島神社に祀られています。参照:1)杉尾神社 Wikipedia 2)杉尾神社 玄松子の記憶3)建御名方神と沼河一族 awa-otoko’s blog 2015.1.14. 厳密には沼河比賣の両親を祀った神社は記録が錯綜しており、不確かな部分はあります。石井町、鴨島町内の古文書、阿府誌、また徳島県立図書館の関連文書等の直接確認はおこなっておりません。 >4多祁御奈刀弥神社が諏訪大社の元宮というのは諏訪大社側からも肯定されている事> なのでしょうか? 諏訪大社の公式サイトをみた限りではさすがに明記はされてないようです。「出雲の国譲りに反対して諏訪までやってきた」としか書かれていません。1)江戸時代の阿府志に、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、「この地(徳島県名西郡石井町)に産まれた」という建御名方命を祀ったもの。という記述あり。2)多祁御奈刀弥神社社伝に「信濃諏訪郡南方刀美神社」は宝亀10年(779年)当社より分祀されたとの記録あり。 この神社は名西郡石井町浦庄諏訪にあります。(旧諏訪村)3)石井町の旧名「浦庄村史」に、当神社について多祁御奈刀弥神社ハ諏訪村ニ在リ、諏訪大明神也、大己貴命ノ御子ナリ御母ハ阿波ノ高志ノ沼河姫命. との記録在り。4)「古事記」の大国主神の神話の段に、八千矛神が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。とあり、「八千矛神」というのは徳島の小松島周辺の大国主一族を祀ってある勝占神社周辺で呼ばれている名称で在り、阿南市長生町の八矛神社に八千矛神が祀られています。天皇家も参拝記念石碑があります・>日本の神話を何を持ってして二千年近く前と固定するのかわからない卑弥呼が死んだのは西暦247年というのはわかっています。(Wikipedia)これだけで今から1700年前です。それ以前に神武天皇あり、天照大御神あり、大国主あり、系譜図はネットでどなたでも調べられますが、卑弥呼以前に10世代近くの系譜があきらかになっています。(一部ねつ造、改ざんはありますが)当時の平均寿命40代として、各世代が政権を運営するのは10~20年とするとそれだけで1800年~1900年前になります。初代神武天皇から前125代平成天皇までの在位平均が21年です。(誤差はあるとしても)>島根、新潟、長野には古代から交流があった痕跡がいくつかあり、糸魚川の翡翠も縄文時代>には日本各地に伝播しているため、交通機関云々で全ての日本神話が徳島内に収まってい>ないと辻褄が合わないというのは>違和感を覚えます。私は古事記(磯上乃古事記)(いそがみのふることふみ)に書かれている内容に当該する神社、事績が非常に多いというだけで、出雲国風土記とか、阿波の歴史にあまり関与してない地域があるのは確かです。磯上乃古事記にあって、出雲国風土記に記載ないもの、またその逆も多々あります。一部磯上乃古事記の内容を出雲国風土記編纂時に一部織り込んだという形跡はあるようですが、まだ私はそこまで十分に検証出来かねています。私は阿波の、奈良時代以前の古代史研究が中心です。翡翠は糸魚川にしかとれません。日本海側は阿波とは別の独特の文化が栄えていたと思います。島根から敦賀あたりまで阿波とは別の古代文明があったと思います。
@@takaokamm お返事誠にありがとうございます。古代史に関して知識不足ゆえ、(特に阿波の)大変勉強になります。追加の疑問や感想等で、返信長くなり、お目汚し申し訳ございません。1 阿波の古代史研究会の方々の見解として、神話=卑弥呼の時代なのですね。こちらの古墳はそれくらいの年代のものなのでしょうか?また沼河比売のものとするのはどこからの伝承又は出典なのでしょうか?2 関八幡神社では八幡ではなく今は沼河比売も祀られているのですか?3 ありがとうございます。すべて拝見させていただきました。阿府志等の誤りで、本来は秘羽目神と足浜目門比売神を祀っているという説もあるのですね。4 諏訪大社の方で元社を明言しないのは不可思議ですね。しかし、諏訪大社は日本書紀の691年にそれらしき記述がありますが、これが諏訪大社とすると779に阿波から分祀されたというのと相反する気がいたします。阿波国式社略考の多祁御奈刀弥神の項目には高志郷を古事記の古志とするのは違うのではないかと記述されておりましたが、阿波の八千矛神が糸魚川の高志まで行った可能性はあるのでしょうか?阿波の古代史研究では、天照=卑弥呼という事ですので、その頃(神話)には魏に使者を送っている訳ですから、それなりの交通機関があったということになります。ですので、2000年近く前には交通機関がなく、徒歩圏内に古事記の遺跡事跡が収まっていないとおかしいというのはやはり矛盾されていないでしょうか。>翡翠は糸魚川にしかとれませんネットで検索しますと卑弥呼の阿波翡翠というものが散見されますが、阿波も翡翠がとれるのですか?
> 1 阿波の古代史研究会の方々の見解として、神話=卑弥呼の時代なのですね。 私は個人的にはまだ100%納得していませんが、少なくとも徳島の4人の研究家が天照大御神=卑弥呼といっておりますので、とりあえずその意見を採用しています。>こちらの古墳はそれくらいの年代のものなのでしょうか? 人物特定の「沼河比賣の古墳」といわれると正確な年代は出せず、人間関係だけで「大国主と同世代」としか言えませんが、特定名なしで「四国の古墳の歴史」となると、考古学会でも大手新聞でも公的に発表されていますが、奈良の箸墓古墳のルーツが徳島の「西山谷2号墳」と「萩山2号墳」です。 時期は3世紀半ばです。 吉野川流域で総数2000基ほどあります。日の目をみてないので発掘はこれからです。毎日新聞平成12年4月21日大阪朝刊とか徳島新聞平成12年5月20日朝刊とかで公表されています。>また沼河比売のものとするのはどこからの伝承又は出典なのでしょうか?> 2 関八幡神社では八幡ではなく今は沼河比売も祀られているのですか? はっきりわかるのは現物の、「これが沼河比売の古墳だ」ということです。関八幡は神主常駐せず、氏子総代さんに確認しましたが、総代自身は、沼河比賣の古墳は知っていても「関八幡に沼河比賣を祀ってある」とか「杉尾神社にその両親が祀られている」とかはあまりご存知ない様でした。現在の「八幡神社」としての祭事の運営が主体で歴史はあまりわかってないようです。>3 阿府志等の誤りで、本来は秘羽目神と足浜目門比売神を祀っているという説もあるので 少なくとも、いままで調査した中で、「沼河比賣とその両親」についての情報が一番不明確でした。 長野諏訪神社の歴史の正当化と何か関係あるかもしれません。(阿波の歴史が明確化されると諏訪大社の歴史的根拠がぐらつくのかなと思います。) >4 諏訪大社の方で元社を明言しないのは不可思議ですね。 しかし、諏訪大社は日本書紀の>691年にそれらしき記述がありますが、これが諏訪大社とすると779に阿波から分祀された>というのと相反する気がいたします。 長野の諏訪大社も、京都の上賀茂神社も、大分の宇佐神宮も、ルーツは阿波ですが、後世勧進先が有名になると、手のひらを返したように勧進元に「今の神社のほうが元宮に勧進したように書き直せよ」と恥じらいも無く言ってくる例があります。歴史を正当化させる為に手段を選ばず、まるで今の中国政府のようです。 全国的に「大社」といわれるようになって、「いや実は徳島のこのちっぽけな古宮が元宮です」なんて正直なことは威信にかけても、どこも言えないでしょう。 古事記の編集した当時の最高権力者、藤原不比等も卑しい出自の正当化のために阿波の歴史を隠蔽、書き直ししまくっています。参考までに京都の賀茂神社の葵祭のルーツおわかりですか?京都に植物の葵はどこにも存在しておりません。ルーツは阿波の東みよし町の鴨神社です。このエリアは葵が群生していたそうです。(上下)賀茂神社も阿波の鴨神社に「元宮は京都側だと修正せよ」と言われています。(多分すでに変えさせられていると思います)私の現地をみた個人的な見解は「諏訪神社の元宮は多祁御奈刀弥神社ではなく、鴨島町中島の「諏訪神社」です。理由は1: 自分の出自、功績を祀る神社であれば、なぜこれ見よがしに建御雷神(たけみかづち)に負けた象徴の力石を自分の神社の目立つところに置くのか?2: 古代の神社が「祭神の祟りをおそれる」為のものならば、多祁御奈刀弥神社は「勝者(高天が原軍)が伊豆毛族を打ち負かした象徴であり、けっして建御名方を敬って建てた物ではないと思います。3.大国主、事代主、建御名方は高天が原族の様に神事、祭事で格が高くはないかもしれないけれど、行政・実務能力は非常に秀でており、当時の地元民の人気は相当高かったようです。その建御名方の誇りに泥を塗る行為(負けた力石を飾る事)はけっして地元民に受け入れられなかったのではと思います。>>阿波国式社略考の多祁御奈刀弥神の項目には高志郷を古事記の古志とするのは違うので>>はないかと記述されておりましたが、「阿波国式社略考」は単独の文書を閲覧されたのか、「阿波國式社略考,讃州廿四社巡拝案内記,豫州二十四社記 合冊」を確認されたのか、ちょっとわかりませんが、少なくとも阿波の歴史に特別詳しい著者ではないのではないかと思います。本居宣長だって著名な歴史研究家ですが伊勢の人であり、現地調査(特に阿波)は殆どやっておらず、机上での歴史文書中心の研究家の様であり、本居宣長の偏見、ご誤解により阿波の歴史がねじ曲げられていると複数の阿波の研究家は言っています。そもそも「古事記」とはどこの国の歴史書でしょうか?出雲にも播磨にも常陸の国にも、それぞれの国名の付いた風土記があります。それでは「古事記」は?正式文書名は「磯上乃古事記」(いそがみのふることふみ)です。「磯上」はこの地上でもっとも優れた、すばらしい国(土地)という意味の様です。これは阿波を指します。別途「阿波千年物語」でこれを取り上げる予定です。もし、他の地域で「古事記」はこの国の歴史だ、というところがあれば、どなたでもいいですから、是非是非教えて欲しいです。それがあれば私はこんなに苦労しなくてすみます。(^^);
天目一神社のある辺りが高志かと思ってました‼️吉野川をまたいでもっと広かった✨のですね❗知らなかったです❕!☝️ありがとう😉👍️🎶ございました‼️
高志自体が昔、吉野川(旧名は「フルカワ」の洪水で南北に分断されて、北側だけ高志の地名が残ったようです。沼川比売の古墳は移動してないので、明らかに吉野川南岸も昔は高志の地名があったということになります。
私が参拝したのは富山県魚津市の諏訪神社以外では、神奈川県藤沢市片瀬の諏訪神社と新潟県新発田市の諏訪神社です。前者は723年(養老7年)、後者は古く648年(大化4年)に信濃国諏訪大社から武御名方神を勧請しています。
多祁御奈刀弥神社が信濃国諏訪大社から武御名方神を勧請した779年前後は、信濃国諏訪大社から武御名方神を勧請した神社が全国的に集中しており諏訪ブームだったのでしょう。
私は❕☝️高志(たかし)が自然と思います❕また、古事記に、、、~我が立たせれば引こづらひ(引こづる)阿波弁(笑)親しみが有りますよね‼️両親も近くに居て❕配信ありがと😉👍️🎶うございました!👍️
式内社である、御間都比古神社、八桙神社、祁御奈刀禰は全て「長国エリアにあり」全て「出雲系の」長国国造を祀る神社で、成務期に任命
更に後年の任命の粟国造とは別系統という事で流れが始まっています。
国造の系譜に、タケミナトネという人物が出てきます。トネは、女性酋長に対応する男性版で、トネといいます。つまり、国造家のタケミナさんを祀る神社だったという事です。
この事代主系の出雲族と言うのは、ナガスネヒコ伝承からして安倍族の可能性があります。(阿府志)
延喜式最古の写本である九条本には、タケミナトネとで出ています。弥ではなく祢という字なんですね。
ただ、途中で諏訪神社化したのは事実の様です。
まず、当神社には対になる神社が存在し、そこには事代主が祀られます。当神社は東の宮ともいわれており、西宮が存在します。
あの神社からは更に佐古山に神社が分かれています。その神社は、「諏方社」となっており、佐古山諏訪神社が出来た頃には既に諏方化していたようです。
で、この分祀した諏方社がとても流行った様で、佐古山諏方社に対して元諏訪と書いた可能性の方が高いのだそうです。参考:式内社研究会「式内社調査報告 南海道」の「阿波国名方郡」
諏訪化した事に関する事柄ですが、諏方明神の御子神である出早雄命系の子孫が静岡などの県外に行った形跡が見られます。もしかしたら出早雄命は、それにちなんだ名前かもしれません。
その守屋神長官家のタマルヒメと、出早雄の系譜にタケミナ別神が出てきます。(會津比賣神の系譜)
他の方が言及されている様に、国司などが赴任してきた場合、いきなり入植の様に勝手に神様を持ってこれませんので、先代から引きついだ国造廃止→国司の領域になった際に、タケミナトネの神社に後任の国司の家の神様を祀る事になったのではないでしょうか?
神紋は「違い鎌」で徳島にしかほとんど存在していません。(京都に一つだけあるらしい)諏訪梶にはなっていないので、逆に諏訪信仰は外部から持ち込まれた可能性の方が高いです。
いいね。
信濃国諏訪郡南方刀美神社(諏訪大社)には 『孝徳天皇八年(六五二)一二月、 勅使が遣わされて、綿一○○把が奉献され、持統天皇五 年(六九一)八月にも勅使が遣わされた。』とあり、宝亀10年(七七九)に阿波から勧請などと言うのは無理。
大変失礼しました。「宝亀10年(七七九)に阿波から勧請」というのはちょっと問題でしたね。
『孝徳天皇八年(六五二)一二月、 勅使が遣わされて、綿一○○把が奉献され』というのは日本書紀には記録はありません。 白雉三年(652年)と思いますが、著名神社への祭神の行事は大体例年行われているので記載なくてもおかしくはないですが。
日本書紀「持統天皇五 年(六九一)八月には「八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。辛酉(二十三日)、遣使者祭龍田風神・信濃須波・水內等神。」とあり、信濃諏訪神社等の神を祭らせたという記録があります。
「宝亀10年(七七九)に阿波から勧請」という記録は多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の由緒書きに記載があったのと、その地域の超有名古代史ブロガーさんの記事にもあったので、ついつい私自身の検証をさぼってそのままアップしました。すみません。
神社の由緒書きも、100%信頼はできないということですね。「~という説もあり」とうまくぼかしていますが、徳島神社庁の資料もそうですが、一般的に紀元700年以前の事跡については殆ど年代を明記していません。有名神社の宮司さんも、目先の祭事はまめにしても、古代史に詳しい人は非常にまれです。
諏訪大社については、阿波から勧進したのは紀元0年~500年以前のどこかではないかと思います。阿波から勧進する前にも、紀元前数百年来の別の歴史があり、古代ユダヤの絡みも指摘されています。祭神はモリヤ山です。スワ神社の前に別の「何々神社」があったと思われます。もと駐日イスラエル大使(ユダヤの氏族の中では最高位のレビ族の系譜)も何度か諏訪大社を訪れています。RUclipsでも検索できると思います。
阿波が諏訪神社の元宮と云うのは無理筋
通常ならみんなそう思う
固くなに阿波元宮説を語るが歴史が証明している
コシという地名に高志という字を充てたと思われるので、タカシをコシと読み間違えたというのは考えずらいのでは無いでしょうか。
出雲風土記では古志と記されております。
ちなみに新潟にも高志や古志という地名、沼河比売の事跡もいくつかありますよ。
新潟の状況については詳しくは知りませんが下記について客観的な伝承とか古文書がありますでしょうか?
>コシという地名に高志という字を充てたと思われるので
また沼河比賣の事績もどんなものがあるか教えて頂ければ有り難いです。
阿波徳島には沼河比売の古墳、沼河比売を祀った「関の大神宮」(現在は関の八幡神社)があり、両親の天水沼間比古(アメノミヌマヒコ)、天水塞比売(アメノミズゼキヒメ)も祀られています。ここの地名は高足郷(多加之)で現在も高志小学校とかの地名で残っています。
沼河比賣の子ども、建御名方(タケミナカタ)神を祀る「諏訪神社」「多祁御奈刀弥神社」も近くにあり、長野の諏訪大社の元宮となっております。沼河比賣の夫の大己貴命(大国主命)の陵墓も徳島にあります。(勝占神社)
新潟にもこれらに相当する神社がすべてあるのでしょうか?ありましたらお教え頂ければ大変有り難いです。
二千年近く前ですので交通機関はあるはずも無く、それらの遺跡、事績があるとすれば徒歩圏内ですべてあるはずと思います。
@@takaokamm 恐れ入ります。
ご丁寧にお返事ありがとうございます。
沼河比売 奴奈川姫に関しましては検索して頂けますと新潟、島根、長野等の事績しか逆に出てきませんので、私の拙い説明よりも検索していただいた方が早いかもしれません…
日本に漢字はなかったので、コシという地名(響き)に古志、高志、越という漢字を後に当てたのではないかと想像しました。そのため記録によって漢字はバラバラ。しかし読みは全てコシ
古志や越はタカシとは読めません。
逆にぜひご教授頂きたい点がいくつかあるのですが
1 徳島にある沼河比売の古墳というのは何時代の墳墓なのでしょうか?
2 関の大神宮についても調べたのですが、沼河比売を祀っていた様子が伺えないのですが、今も今までもお祀りされているのでしょうか?
3 天水沼間比古 天水塞比売(水の神様?)が沼河比売の両親というのは阿波独自の伝承かと思うのですが、出典はどちらになりますでしょうか?
4多祁御奈刀弥神社が諏訪大社の元宮というのは諏訪大社側からも肯定されている事なのでしょうか?
以上もしお分かりでしたらご教授して頂けましたら幸いです。
日本の神話を何を持ってして二千年近く前と固定するのかわからないのですが、島根、新潟、長野には古代から交流があった痕跡がいくつかあり、糸魚川の翡翠も縄文時代には日本各地に伝播しているため、交通機関云々で全ての日本神話が徳島内に収まっていないと辻褄が合わないというのは違和感を覚えます。
>1 徳島にある沼河比売の古墳というのは何時代の墳墓なのでしょうか?
紀元5,6世紀以前は年代記録がないので、各事象と前後関係をつないで推測するしかありません。
古事記に八矛神(大国主とは書いてない)が沼河比売を娶り、その子が建御名方神」
とありますので、大国主と沼河比賣と建御名方神は同じ年代です。大国主は須佐之男命の子で在り、天照大御神の五人の皇子と同世代です。この世代の数字的年代特定は誰もできていません。(年代記録がない為)
少なくとも天照大御神=卑弥呼というのが当地のNPO古代史研究会の見解で在り、そうすると沼河比賣は紀元250年頃と推定されます。 Wikipedia で古墳時代というのは紀元250~538年とあるので、つまり古墳時代黎明期と思われます。
>2 関の大神宮についても調べたのですが、沼河比売を祀っていた様子が伺えないのです>が、今も今までもお祀りされているのでしょうか?
関の大神宮は現在は残ってないようですが、現在は石井町高原字関の八幡神社に祀られています。
>3 天水沼間比古 天水塞比売(水の神様?)が沼河比売の両親というのは阿波独自の伝承>かと思うのですが、出典はどちらになりますでしょうか?
両親のまた沼河比賣の両親、天水沼間比古(アメノミヌマヒコ)神社、天水塞比売(アメノミズゼキヒメ)は石井町の杉尾神社に祀られていましたが、現在は鴨島町の敷島神社に祀られています。
参照:1)杉尾神社 Wikipedia
2)杉尾神社 玄松子の記憶
3)建御名方神と沼河一族 awa-otoko’s blog 2015.1.14.
厳密には沼河比賣の両親を祀った神社は記録が錯綜しており、不確かな部分はあります。
石井町、鴨島町内の古文書、阿府誌、また徳島県立図書館の関連文書等の直接確認はおこなっておりません。
>4多祁御奈刀弥神社が諏訪大社の元宮というのは諏訪大社側からも肯定されている事
> なのでしょうか?
諏訪大社の公式サイトをみた限りではさすがに明記はされてないようです。
「出雲の国譲りに反対して諏訪までやってきた」としか書かれていません。
1)江戸時代の阿府志に、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、「この地(徳島県名西郡石井町)に産まれた」という建御名方命を祀ったもの。という記述あり。
2)多祁御奈刀弥神社社伝に「信濃諏訪郡南方刀美神社」は宝亀10年(779年)当社より分祀されたとの記録あり。 この神社は名西郡石井町浦庄諏訪にあります。(旧諏訪村)
3)石井町の旧名「浦庄村史」に、当神社について
多祁御奈刀弥神社ハ諏訪村ニ在リ、諏訪大明神也、大己貴命ノ御子ナリ
御母ハ阿波ノ高志ノ沼河姫命. との記録在り。
4)「古事記」の大国主神の神話の段に、八千矛神が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。とあり、
「八千矛神」というのは徳島の小松島周辺の大国主一族を祀ってある勝占神社周辺で呼ばれている名称で在り、阿南市長生町の八矛神社に八千矛神が祀られています。天皇家も参拝記念石碑があります・
>日本の神話を何を持ってして二千年近く前と固定するのかわからない
卑弥呼が死んだのは西暦247年というのはわかっています。(Wikipedia)
これだけで今から1700年前です。それ以前に神武天皇あり、天照大御神あり、大国主あり、系譜図はネットでどなたでも調べられますが、卑弥呼以前に10世代近くの系譜があきらかになっています。(一部ねつ造、改ざんはありますが)当時の平均寿命40代として、各世代が政権を運営するのは10~20年とするとそれだけで1800年~1900年前になります。初代神武天皇から前125代平成天皇までの在位平均が21年です。(誤差はあるとしても)
>島根、新潟、長野には古代から交流があった痕跡がいくつかあり、糸魚川の翡翠も縄文時代
>には日本各地に伝播しているため、交通機関云々で全ての日本神話が徳島内に収まってい>ないと辻褄が合わないというのは>違和感を覚えます。
私は古事記(磯上乃古事記)(いそがみのふることふみ)に書かれている内容に当該する神社、事績が非常に多いというだけで、出雲国風土記とか、阿波の歴史にあまり関与してない地域があるのは確かです。磯上乃古事記にあって、出雲国風土記に記載ないもの、またその逆も多々あります。一部磯上乃古事記の内容を出雲国風土記編纂時に一部織り込んだという形跡はあるようですが、まだ私はそこまで十分に検証出来かねています。私は阿波の、奈良時代以前の古代史研究が中心です。
翡翠は糸魚川にしかとれません。日本海側は阿波とは別の独特の文化が栄えていたと思います。島根から敦賀あたりまで阿波とは別の古代文明があったと思います。
@@takaokamm
お返事誠にありがとうございます。
古代史に関して知識不足ゆえ、(特に阿波の)大変勉強になります。
追加の疑問や感想等で、返信長くなり、お目汚し申し訳ございません。
1 阿波の古代史研究会の方々の見解として、神話=卑弥呼の時代なのですね。
こちらの古墳はそれくらいの年代のものなのでしょうか?
また沼河比売のものとするのはどこからの伝承又は出典なのでしょうか?
2 関八幡神社では八幡ではなく今は沼河比売も祀られているのですか?
3 ありがとうございます。すべて拝見させていただきました。
阿府志等の誤りで、本来は秘羽目神と足浜目門比売神を祀っているという説もあるのですね。
4 諏訪大社の方で元社を明言しないのは不可思議ですね。
しかし、諏訪大社は日本書紀の691年にそれらしき記述がありますが、これが諏訪大社とすると779に阿波から分祀されたというのと相反する気がいたします。
阿波国式社略考の多祁御奈刀弥神の項目には高志郷を古事記の古志とするのは違うのではないかと記述されておりましたが、阿波の八千矛神が糸魚川の高志まで行った可能性はあるのでしょうか?
阿波の古代史研究では、天照=卑弥呼という事ですので、その頃(神話)には魏に使者を送っている訳ですから、それなりの交通機関があったということになります。
ですので、2000年近く前には交通機関がなく、徒歩圏内に古事記の遺跡事跡が収まっていないとおかしいというのはやはり矛盾されていないでしょうか。
>翡翠は糸魚川にしかとれません
ネットで検索しますと卑弥呼の阿波翡翠というものが散見されますが、阿波も翡翠がとれるのですか?
> 1 阿波の古代史研究会の方々の見解として、神話=卑弥呼の時代なのですね。
私は個人的にはまだ100%納得していませんが、少なくとも徳島の4人の研究家が
天照大御神=卑弥呼といっておりますので、とりあえずその意見を採用しています。
>こちらの古墳はそれくらいの年代のものなのでしょうか?
人物特定の「沼河比賣の古墳」といわれると正確な年代は出せず、人間関係だけで「大国主と同世代」としか言えませんが、特定名なしで「四国の古墳の歴史」となると、考古学会でも大手新聞でも公的に発表されていますが、奈良の箸墓古墳のルーツが徳島の「西山谷2号墳」と「萩山2号墳」です。 時期は3世紀半ばです。 吉野川流域で総数2000基ほどあります。日の目をみてないので発掘はこれからです。毎日新聞平成12年4月21日大阪朝刊とか徳島新聞平成12年5月20日朝刊とかで公表されています。
>また沼河比売のものとするのはどこからの伝承又は出典なのでしょうか?
> 2 関八幡神社では八幡ではなく今は沼河比売も祀られているのですか?
はっきりわかるのは現物の、「これが沼河比売の古墳だ」ということです。関八幡は神主常駐せず、氏子総代さんに確認しましたが、総代自身は、沼河比賣の古墳は知っていても「関八幡に沼河比賣を祀ってある」とか「杉尾神社にその両親が祀られている」とかはあまりご存知ない様でした。現在の「八幡神社」としての祭事の運営が主体で歴史はあまりわかってないようです。
>3 阿府志等の誤りで、本来は秘羽目神と足浜目門比売神を祀っているという説もあるので
少なくとも、いままで調査した中で、「沼河比賣とその両親」についての情報が一番不明確でした。 長野諏訪神社の歴史の正当化と何か関係あるかもしれません。
(阿波の歴史が明確化されると諏訪大社の歴史的根拠がぐらつくのかなと思います。)
>4 諏訪大社の方で元社を明言しないのは不可思議ですね。 しかし、諏訪大社は日本書紀の>691年にそれらしき記述がありますが、これが諏訪大社とすると779に阿波から分祀された>というのと相反する気がいたします。
長野の諏訪大社も、京都の上賀茂神社も、大分の宇佐神宮も、ルーツは阿波ですが、後世勧進先が有名になると、手のひらを返したように勧進元に「今の神社のほうが元宮に勧進したように書き直せよ」と恥じらいも無く言ってくる例があります。歴史を正当化させる為に手段を選ばず、まるで今の中国政府のようです。
全国的に「大社」といわれるようになって、「いや実は徳島のこのちっぽけな古宮が元宮です」なんて正直なことは威信にかけても、どこも言えないでしょう。 古事記の編集した当時の最高権力者、藤原不比等も卑しい出自の正当化のために阿波の歴史を隠蔽、書き直ししまくっています。
参考までに京都の賀茂神社の葵祭のルーツおわかりですか?
京都に植物の葵はどこにも存在しておりません。
ルーツは阿波の東みよし町の鴨神社です。このエリアは葵が群生していたそうです。
(上下)賀茂神社も阿波の鴨神社に「元宮は京都側だと修正せよ」と言われています。
(多分すでに変えさせられていると思います)
私の現地をみた個人的な見解は「諏訪神社の元宮は多祁御奈刀弥神社ではなく、鴨島町中島の「諏訪神社」です。理由は
1: 自分の出自、功績を祀る神社であれば、なぜこれ見よがしに建御雷神(たけみかづち)に負けた象徴の力石を自分の神社の目立つところに置くのか?
2: 古代の神社が「祭神の祟りをおそれる」為のものならば、多祁御奈刀弥神社は「勝者(高天が原軍)が伊豆毛族を打ち負かした象徴であり、けっして建御名方を敬って建てた物ではないと思います。
3.大国主、事代主、建御名方は高天が原族の様に神事、祭事で格が高くはないかもしれないけれど、行政・実務能力は非常に秀でており、当時の地元民の人気は相当高かったようです。その
建御名方の誇りに泥を塗る行為(負けた力石を飾る事)はけっして地元民に受け入れられなかったのではと思います。
>>阿波国式社略考の多祁御奈刀弥神の項目には高志郷を古事記の古志とするのは違うので>>はないかと記述されておりましたが、
「阿波国式社略考」は単独の文書を閲覧されたのか、「阿波國式社略考,讃州廿四社巡拝案内記,豫州二十四社記 合冊」を確認されたのか、ちょっとわかりませんが、少なくとも阿波の歴史に特別詳しい著者ではないのではないかと思います。本居宣長だって著名な歴史研究家ですが伊勢の人であり、現地調査(特に阿波)は殆どやっておらず、机上での歴史文書中心の研究家の様であり、本居宣長の偏見、ご誤解により阿波の歴史がねじ曲げられていると複数の阿波の研究家は言っています。
そもそも「古事記」とはどこの国の歴史書でしょうか?出雲にも播磨にも常陸の国にも、それぞれの国名の付いた風土記があります。それでは「古事記」は?
正式文書名は「磯上乃古事記」(いそがみのふることふみ)です。「磯上」はこの地上でもっとも優れた、すばらしい国(土地)という意味の様です。これは阿波を指します。別途「阿波千年物語」でこれを取り上げる予定です。もし、他の地域で「古事記」はこの国の歴史だ、というところがあれば、どなたでもいいですから、是非是非教えて欲しいです。それがあれば私はこんなに苦労しなくてすみます。(^^);